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知識がない人ほど過激な意見をふりかざすのはなぜか? 各界の著名人が絶賛した『知ってるつもり』が文庫化【本文試し読み】

『知ってるつもり:無知の科学』への絶賛コメント!(敬称略、50音順)

池谷裕二(脳研究者・東京大学教授)「知的生物たるヒトはその高度な知性ゆえに無知の罠から逃れられない。気の毒すぎて「私」という生物がますまず愛おしく感じられます」

佐渡島庸平(株式会社コルク代表)
「中学生のときからずっと「無知の知」について考えてきた僕にうってつけ」

竹内薫(サイエンス作家)「AI時代に人間の「知」はどう進化するのか。常識を覆し、ぐいぐい読ませる本」(日本経済新聞 2018年4月19日)

橘玲(作家)「「賢さ」のパラダイム転換。「賢い」ひとは「賢さ」を拡張する方法を知っているのだ」

 見慣れた自転車の仕組みを説明できると思いこむ、政治について極端な意見を持つ人ほど政策の中身を理解していない――私たちはなぜ自分の知識を過大評価してしまうのか?
 気鋭の認知科学者コンビが行動経済学から人工知能(AI)まで、各分野の研究を駆使して知性の本質に迫り、「賢さ」の定義をアップデートする話題の書がついに文庫化! 『知ってるつもり 無知の科学』(スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバック:著、土方奈美:訳、山本貴光:解説/ハヤカワノンフィクション文庫/2021年9月2日発売)から「本文試し読み」を特別公開します。

知ってるつもり_帯_枠

第9章 政治について考える

 2010年に成立した医療費負担適正化法(通称「オバマケア」)ほど、アメリカ国民(と政治家)を熱くさせたテーマは近年まれである。この法律をめぐっては幾度となく議論が繰り返され、共和党はバラク・オバマ政権の失策の一つとして槍玉に挙げた。連邦議会の共和党勢力は法律を廃止あるいは変更しようと、何度も投票にかけた。ただこれほどの盛り上がりと対立を生んだにもかかわらず、法律を理解していた人はほとんどいなかった。2013年4月にカイザーファミリー財団が行った調査によると、アメリカ国民の40%以上が医療費負担適正化法が法律であることすら認識していなかった(国民の12%は議会で廃止されたと思っていた。そんな事実はない)。

 だからといって一般国民が同法に対してはっきりとした立場を表明できないわけではない。2012年、最高裁判所が同法の主要な条項を支持する判断を下した直後、ピュー・リサーチ・センターは判決への賛否を問うアンケートを実施した。当然ながら賛否は真っ二つに分かれた。36%が賛成、40%が反対、24%が意見を表明しなかった。アンケートではさらに最高裁の判決がどのようなものであったかを尋ねた。すると正解したのは、回答者の55%にすぎなかった。15%は最高裁は法律を違法と判断したと回答し、30%がわからないと答えた。つまり回答者の76%が最高裁判決に賛成か反対か明確に答えたにもかかわらず、そもそもの判決の内容をわかっていたのは全体の55%にすぎないということだ。

 医療費負担適正化法は、もっと根本的な問題が表面化した一例にすぎない。世論は、問題に対する国民の理解度からは説明できないほど極端になる、というのがそれだ。アメリカ国民のうち、2014年のウクライナに対する軍事介入を最も強く支持したのは、世界地図上でウクライナの位置すら示せない人々であった。

 もう一つ例を挙げよう。オクラホマ州立大学農業経済学部は消費者を対象に、遺伝子組み換え技術を使った製品は表示を義務づけるべきか尋ねた。80%近い回答者が義務化すべきと答えた。この結果は一見、法制化を進めるべきという有力な根拠のように思える。消費者は希望する情報を与えられるべきだし、その権利もある。

 しかし同調査の回答者の80%は、DNAを含む食品についても法律によって表示を義務化すべきだと答えた。購入する食品にDNAが含まれているか、消費者には知る権利がある、と。首をひねっている人のために改めて言っておくと、あらゆる生物にDNAが含まれているのと同じように、ほとんどの食品にはDNAが含まれている。調査の回答者の意見を踏まえれば、すべての精肉、野菜、穀物に「注意 DNAが含まれています」と表示しなければならなくなる。しかしDNAが含まれている食品をすべて避けていたら生きていけない。

 遺伝子組み換え食品に表示を付けるべきだと主張しているのが、DNAを含むあらゆる食品に表示を付けるべきだと言うような人々だとしたら、その意見はどれほど傾聴に値するのか。主張の信頼性は薄れるような気がする。大多数の人が特定の意見を支持しているからといって、そうした意見がきちんとした理解に基づいているとは限らないようだ。概して、問題に対する強い意見は、深い理解から生じるわけではない。むしろ理解の欠如から生じていることが多い。偉大な哲学者で政治活動家でもあったバートランド・ラッセルはそれを「情熱的に支持される意見には、きまってまともな根拠は存在しないものである」と表現している。クリント・イーストウッドはもっと直截的だ。「過激主義とは簡単なものだ。自分の意見を決めたら、それで終わり。あまり考える必要がない」

 なぜ人はよく知らない問題について、それほど熱くなるのか。ソクラテスはそれについて、「政治専門家」に対する回答のかたちでこう答えている。

しかし私自身はそこを立去りながら独りこう考えた。とにかく俺の方があの男よりは賢明である、なぜといえば、私達は二人とも、善についても美についても何も知っていまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである。されば私は、少くとも自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。 (プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』久保勉訳、岩波文庫より)

 この男は自らが何も知らないことをわかっていない、とソクラテスは批判している。私たちの多くがそうであるように、この人物も自分が思っているほどは知らなかった。

 一般的に私たちは、自分がどれほどモノを知らないかをわかっていない。ほんのちっぽけな知識のかけらを持っているだけで、専門家のような気になっている。専門家のような気になると、専門家のような口をきく。しかも話す相手も、あまり知識がない。このため相手と比べれば、私たちのほうが専門家ということになり、ますます自らの専門知識への自信を深める。

 これが知識のコミュニティの危険性だ。あなたが話す相手はあなたに影響され、そして実はあなたも相手から影響を受ける。コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。その結果、実際には強固な支持を表明するような専門知識がないにもかかわらず、誰もが自分の立場は正当で、進むべき道は明確だと考える。誰もが他のみんなも自分の意見が正しいことを証明していると考える。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。コミュニティのメンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。

 社会心理学者のアービング・ジャニスはこの現象を「グループシンク(集団浅慮)」と名づけた。グループシンクについての研究では、同じような考えを持つ人々が議論をすると、一段と極端化することが明らかになっている。つまり議論をする前に持っていた見解を、議論の後には一段と強固に支持するようになる。ある意味では群れの心理と言えるだろう。

 夕食会に集まった人々が、それぞれ医療制度、犯罪率、銃規制、移民あるいは道端に犬の糞が多いことなどについて多少の懸念を抱いている。夕食の席で誰もが同じような懸念を持っていることがわかる。全員に共通する意見が煽られ、食事が終わるころには誰もが対策を要求する権利があるような気がしている。この問題は今日、特に顕著になっている。インターネットによって自分の意見に賛同してくれる同じような考えを持つ人を見つけやすくなったこと、別の世界観を持つ人々の愚かさや邪悪さについて語り合う場ができたことが原因だ。しかも異なる意見を持つ連中とは、互いに交流する気もない。

 さらに状況を悪化させているのは、誰もが鏡の迷宮に生きている事実に気づいていないことであり、この孤立状態が無知を一段と深めている。異なる立場を理解することができない。まれに異なる意見を聞くことがあっても、相手もこちらの意見をわかっていないので無知に見える。相手がこちらの立場を単純化し、意見の細かな特徴や深い部分に理解を示さないと、「きちんと理解してくれればいいのに」と思う。こちらがどれだけこの問題を気にかけ、どれほど率直な議論を望んでいるか、そしてこちらの意見がどれほど問題の解決に役立つかを理解してもらえたら、相手も私たちと同じ意見を持つようになるだろう、と。しかしここには問題がある。相手が問題の細部や複雑さを十分理解していないのと同じように、私たちも相手を理解していないのである。

 誰も自らの無知を理解できない、しかしコミュニティがメンバーに正しいという感覚を与えつづけるという状況が行き着くところまで行ってしまうと、きわめて危険な社会的メカニズムが動き出すリスクがある。歴史にさほど詳しくない人でも、社会がときとして画一的なイデオロギーを追求し、プロパガンダや恐怖政治によって独自の意見や政治的立場を封じようとする危険な熱にうかされることは知っているだろう。

 ソクラテスが死んだのは、古代アテネの市民が‟汚染された”思想を駆逐しようとしたからだ。イエス・キリストもローマ人の手によって同じ憂き目にあった。エルサレムを異教徒から解放するために第一次十字軍が組織されたのも、1492年から1501年にかけてのスペインで、ユダヤ教徒やイスラム教徒にキリスト教に改宗するかスペインを去るかを迫る異端裁判が開かれたのも、同じ理由からだ。20世紀を特徴づけるのは、思想的純潔という名の巨悪である。スターリンの粛清、処刑、虐殺。毛沢東による大躍進政策では数百万人が農業共同体や工業組織へと送られ、大勢の餓死者が出た。もちろんナチス・ドイツの強制収容所も忘れてはならない。

 こうした出来事の背後要因は多面的かつ複雑である。20世紀前半の世界を覆った巨悪に対して、われわれに特別な洞察があるというつもりはない。しかし一つ指摘したいのは、当時の指導者は例外なく、自らの野蛮な行為をきわめて意識的に正当化するうえで共通の理由を挙げていたことだ。社会を未来に導く真実の道は一つしかなく、それを実現するには思想的純潔が必要である、と。いまから振り返ると、確固たる正当性を主張していた当時の指導者の一人として正しい者はいなかった。誰もが理解しているという錯覚に陥っていた。それは彼らの支持者も同じである。その錯覚が恐ろしい結果を引き起こした。

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