見出し画像

【1/19刊行】4年ぶりの大賞受賞作は、スピード感あふれるテレポート・バトル! 第9回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作『スター・シェイカー』本文冒頭公開!

〈テレポータリゼーション〉社会が到来した未来――。
青年と少女の逃避行は、宇宙存亡の危機へと拡大する!
アイデア爆発のワイドスクリーン・バロック瞬間移動SF。

人間六度『スター・シェイカー』(四六判単行本)
刊行日:2022年1月19日(電子版同時配信)  
ISBN:9784152100771  
定価:2,090円(10%税込)
カバー・扉イラスト:ろるあ
カバーデザイン:有馬トモユキ

早川書房ではこのたび2022年1月19日に、第9回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作『スター・シェイカー』を刊行!

本作は、4年ぶりの大賞受賞作であり、また著者の人間六度氏は、現役の日大芸術学部の学生でありながら、同時期に電撃小説大賞《メディアワークス文庫賞》も受賞するというW受賞の栄冠に輝いた期待の新人です。

■スター・シェイカーあらすじ■

テレポート能力が物流インフラとして整備され〈テレポータリゼーション〉社会が到来した未来。
事故でテレポート能力を失い失意の生活を送る赤川勇虎は、違法テレポートによる麻薬密売組織から逃げ出した少女ナクサと出会い、組織の刺客に追われる身となる。
超越的なテレポート能力に目覚めた勇虎はナクサとの逃亡の果てにこの世界の秘密を知り、ある決断をする……
緊迫のロードノベルが宇宙規模にまで膨れ上がる、ハイパーインフレ瞬間移動SF!

スター・シェイカー (冒頭Web掲載)

                      人間六度

 

 赤熱した溶鉱を鋳型に流すように、液化した自意識が八立方メートルの容積を満たしていく。

 体が何倍にも膨れ上がったみたいだった。

 だがそのいびつな感覚とは裏腹に、あやふやだった自己像が靄の晴れるようにくっきりと浮上する。

 自分と他人とを区別する境界線が皮膚から剥離し、WB(ワープボックス)の内壁と完全に合一したことを実感する。

 自認の完了。

 そのプロセスが終了すると、WBはすかさず脳をスキャンし、目線の高さのモニターに幾何学模様を映し出す。

〈DAD〉──距離(distance)、高度(altitude)、方向(direction)を示す幾何学模様──は見たものに暗示を与え、意識は瞬く間に目的地座標に錨を下ろす。

 背面に立つ八人の客たちが、急かすような視線を飛ばしてくる。まだ二十秒も経っていないのに、まったく進歩とは恐ろしい。客たちの視線は一様にモニター端に表示された信号を見つめている。赤から青へ変わる瞬間を、落ち着きのない子供のように待っている。

 信号が黄色に変わると、同時に天井と側壁の圧力調整弁が開き、室外の加圧装置が唸り声を上げはじめる。

 信号が、青へ。

 瞬間、この体はWBから消えた。八人の肉体と、潮の香りをまとう空気を引き連れて、テレポートしたのだ。

 突如出現した真空に調整弁を通して空気が流れ込み、爆音まがいの音を立てて急激な加圧が行われる。

 それとは真逆のことが、出現先では起こっていた。

 あらかじめ真空ポンプが空気を吸い上げ、〇・二気圧まで減圧された部屋。そこに出現したときに感じる、皮膚が張り詰めるような淡い圧迫感。血圧の瞬間的な上昇が動悸となって、客たちに出雲(いずも)長浜への到着を知らしめる。

 WB──それは人がテレポートするために必ず必要な、立方体の部屋。そしてまた、たった一つの商売道具でもある。

 ここは富裕ベッドタウン。密集する高層ビルの灰色の壁が、海の蒼さを塗りつぶしてしまった都市。かつて沿岸部からは汀線(てい せん)が容易に見えたらしい。だが景観は産業ではなく生活の所有物となった。

 客が入れ替わり、今度の目的地は西表島だった。

 島根県の出雲長浜から、沖縄西表島(いりおもてじま)の複合型リゾートへ。リゾートから軽井沢のロッジを改築したコ・オフィスへ。さらに和食の名店が集結した札幌ススキノのコンセプト・モールへ──客たちを、己の自意識に抱いて、翔び回る。

 体は船だった。

 そしてこの国に張り巡らされた新時代の交通インフラは、四百万人の職業テレポーターの自意識によって編まれていた。

 テレポート能は、基本的には誰もが平等に持つ能力だ。そして自分以外に四名までの搭乗を認めるテレポート一類免許の普及率は人口全体で七十二%にのぼる。

 残る三割が商売相手。疾患でテレポート能を持たない連中や、免許を持てない子供たちはもちろん上客だが、半世紀前の記憶を引きずり続け自発的なテレポートを忌避する富裕層を相手にすることだってある。

 大型二類の免許を持つ職業テレポーターは、人を乗せるときは剛力(ゴウリキ)と名乗り、モノを載せるときは歩荷(ボッカ)と名乗る。この業界はフリーランス率が高い。細胞を酷使する覚悟さえあれば、誰でも参入でき、働き方にもかなりの自由が利く。

 剛力(ゴウリキ)から歩荷(ボッカ)へ。看板をつけ替え、フォンを介して依頼を受けた。

 秋田の個人経営農場から、東京の無店舗型キッチンへ、約五十トンの緑黄色野菜を届けるという内容(タスク)。こういうとき気にするのは重さではなく、比重だ。テレポートの疲労度は距離と体積に関係するから、軽くてもかさばるものの方が運ぶのに苦労する。

 選別と洗浄を終えた野菜が運び込まれ、テレポートした。歩荷(ボッカ)の仕事はそこまでだ。いや、それだけ、と言うべきかもしれない。扉が開き、猫背の中年男性の職員が山積みの大型ケージをせっせと運び出していくのを、折り畳み椅子に座って待つ。

「ご苦労さん」

 そう軽く言い、・BOKKA!!・の文字の入った水色のジャケットを翻して手を振る。

 運送業に限らずほとんどの職種で一類免許が必携とされる現代で、積み下ろしやごく短距離の運送は、テレポート能のない不遇な者たちの飯の種になっていた。

 猫背の男がケージを運び終えたら、再び床の足型に足を重ね、モニターを正面に捉える。

 疲労は感じないが、細胞は確実に栄養失調へと向かっている。テレポーターの実働時間は長くても五時間ほどで、残りの就業時間は体を休めることが業務となる。

 これを終えたら、今日はあがりにしよう。

 自認完了をWBが感知する。

 自意識が部屋に満ち、幾何学模様(DADコード)が現れる。

 信号機が青に変わり、いつも通りにテレポートをした。

 直後、全身が海底にでもいるような強い圧迫感に見舞われ、耳の奥が痛んだ。

 何かがおかしい。側壁を見ると、圧力調整弁にウォーターブルーの物体が詰まって減圧が不十分だったのだ。

 慌てて床を見下ろす。

 両足が踏んでいる液体、それは血だった。それどころか六つの面に満遍なく、血液が飛び散っている。自身の体を見回した。痛みはない。両足は定位置から動いていない。

──何かが先にここに存在していた!

 その何かを引き裂いて出現してしまった。

 だがWBは電磁気で人の有無を観測し、統一交通信号網〈コンスタレーション〉が移動をトランザクション管理する以上、誤作動などということはあり得ない。

 目を閉じて、深呼吸をする。

 そのとき、何かが肩に落ちた。恐る恐る目を開け、それを両手に握る。温かい、ひだのある長い管。アンモニア臭を残して手元から滑り落ちたそれは、真っ赤な床をパシャンと打った。

 まぎれもない、人間の大腸だった。

 強烈な勢いで、腹の底から熱いものが込み上げてくる。瞬く間に二メートル四方の床は、赤黒い血に黄土色の嘔吐物が混ざり鮮やかなピンク色になった。

 息苦しかった。気圧が高すぎるせいだ。圧力調整弁に手を突っ込み、必死になって挟まったものを引き抜いた。ぶちぶちぶち、と音がして、ウォーターブルーに染められた髪の毛が束になって抜けた。圧力調整弁が動き出し、中に残された頭皮が真空ポンプに吸い出されていく。

 目眩(めまい)に襲われ、左手の人差し指の先がグズグズと疼く。震えは両足から、脊椎を伝って全身に広がる。この臓器まみれの部屋から出なければ。出口のハンドルに手をかけるが、足を滑らせ血と嘔吐物の海へ投げ出される。

 閉ざされた立方体の中で、繰り返し考え続けた。

 なぜこんなところにいるのか。どうしてこんな職業についたのか。なぜ母は異世界を目指してしまったのか──。

「おい!」

 声が聞こえる。

 立ち上がろうとした。だが力が入らない。

「おい、大丈夫か。意識は!」

 首からIDカードを垂らした制服の男が二人、外から呼びかけている。一人は大声で言葉をかけるが、もう一人は口を押さえ、やや俯(うつむ)いている。まもなく到着した警察官は部屋の惨状を見るや、唖然としてしばし現場を写真に収めることさえ忘れていた。

 二日後、あらゆるメディアが三十一年ぶりのテレポート翔突事故を大々的に取り上げた。赤川勇虎(いさとら)は長野奥地の分離病棟でニュースを目の当たりにした。『六本木妊婦膨殺事故』というワイドショーの見出しで初めて、彼は自分が引き裂いた人間の数を知った。

第一章 距離の存在しない世界

 我々は、出会う前から知っていた。想像力を総動員し、未来を受け入れる準備を着々と進めていたはずだった。しかしいざ出会ってみると、空想が取りこぼした細部に打ちのめされた。

 二〇二九年。人類は最初の・テレポート・と出会った。それは人間の身体機能に隠されていた潜在能力という形で現れた。気づくことさえできれば、誰もがその力を得る。距離という障害を意のままにねじ伏せ空間を自在に支配する所業は、人類を真の自由に導くものと信じられた。

 だがそこには、想像力の取りこぼしがあった。テレポートという『気づき』がネットを介して急速に社会へと広まる速度に、テレポートの挙動の解明が全く追いついていなかったのだ。その結果二〇三一年、テレポートによる特殊死者数は三百人程度だったが、翌年には一千五百人、さらに翌年には三万四千人に膨れ上がった。特殊死の理由には肉体欠損と、テレポート翔突による他殺が含まれたが、前者が圧倒的多数を占めた。テレポートの危険性を決定づけたのは、二〇三三年一月二十日、就任式に赴いた第四十九代アメリカ大統領の頭から十二歳の少年が膨出した、血の就任式事件である。少年に殺意はなく、大統領を挟んだ反対側に控えるシークレットサービスの父に会いたいと願った結果の、誤発動だった。

 漸(ようや)くテレポートが『実用化』された四○年代には、次のような再定義が定着した。

 テレポートとは前頭葉底テレポート野が活性化した際、全身の細胞から均等にエネルギーを奪取し、別座標へと瞬間的に移動することを指す。エネルギー消費量は個人差が大きく定式化されていないが、容積、移動距離、海抜高度の値の上昇に従って増大する。またテレポートが行為された瞬間に、行為者の輪郭が重心に向けて圧縮〈縮入(しゅくにゅう)〉し、出現はその真逆のプロセス〈膨出(ぼうしゅつ)〉を踏む。この二つのプロセスは限りなく同時に行われ、かつ限りなく零に近い時間で行われるため、出現先の空間に存在する物体は、光速に近い速度で膨張する輪郭の衝撃によって、どんなものであっても例外なく裂断する。

現代物理・ 第二十二版より

 ここで俎上に載せられたのが、『行為者の輪郭とはどこからどこまでか』という問題だ。この疑問への答えが出ないまま、人々が好奇心と楽観主義の虜になって野晒しのテレポートを繰り返したために特殊死者が膨れ上がったのだが、幸いにも四○年代半ばにはすでに、この問題は解決された。

 行為者の輪郭は、行為者自身の認識に依存する。

 テレポートの変数は自我の認識──〈自認(じ  にん)〉の不確実性だ。大抵の人間が自分の背中にあるホクロの数を熟知していないように、自分自身だと認識する像の客観性は乏しい。その上、体内の構造を完全に把握することは困難を極める。

 自認が完全でないと、縮入時、自分と認識できていない部分が取り残される〈置き去り現象〉が起こった。特殊死の大多数は、この置き去り現象による致死的臓器の欠落に因(よ)る。

 故にこの半世紀で最も重要な発明は──WB(ワープボックス)というほかない。

 この装置は使用者に「中の容積いっぱいが己の肉体の輪郭だ」と錯覚させる機能を有する。様々なスケール、用途が存在するが、ベーシックな立方体型、その八立方メートルの空間そのものを自己の延長と〈自認〉することで初めて、人類はテレポートを『移動手段』として扱うことに成功した。

 想像力が取りこぼした障害は、どこからどこへでも行ける、という究極の自由を諦めることで除去された。

 二十一世紀晩年。世界は〈線動時代(ラインエポック)〉に終止符を打ち、急激なインフラの再整備による〈テレポータリゼーション〉を迎えた。

 無垢な自由を諦めた人類がそれでも願ったことで、この未来は引き寄せられた。

     1

 誰もが背中に翼が生えたと思っている。世界は、この上なく自由になったと思っている。

 それは大きな勘違いだ。

 腕時計に視線を落とした勇虎は、缶飲料を自販機に充填する手を早める。回収は三十分後と言われたが、無茶な話だ。中学校じゅうの自販機の充填を、たった一人で行うなんて。

 でもそれが今の勇虎にできる、唯一の仕事だった。

 ガラスに映る、二十六歳とは思えないほどやつれ、疲れ果てた男。それが自分だと信じたくなくて、視線を下げて早歩きで台車を押す。

 ベンチを有した休憩スペースには学生がたまっていて、勇虎は猫背のまま充填を始めた。

「この後どっか行こうぜ」

 そんな声が聞こえた。男女のペアが、デートの行き先を迷っているらしかった。

「涼しいところかな」

「北は今混んでるだろ」

 通学用の定期パスがあれば、免許のない高校生でも剛力(ゴウリキ)を呼んでどこへでも行くことができる。呑気なものだが、勇虎にはその会話の結末がなんとなく予想できた。

「じゃあ、どうすんだよ」

 男女は顔を見合わせ、会話が途切れる。

 テレポートはどこへだって行ける。それは紛れもなく、移動史の革命であり終着点だ。

 しかし当然だが知っている場所にしか人は行くことはできない。そして知ることは、行くことより遥かに大変だった。

「やっぱいいや。めんどくさいし」

 男子の声に、女子はため息をついた。いたたまれなくなったのか、男子は茶化すように言った。

「・異世界・なら行ってみたいけどなあ」

 その言葉に、勇虎の手が止まる。

 あまり良くない。

 作業を即座に再開し、心を落ち着かせる。

 考えるな。自分に言い聞かせる。感情の波風を立てるな。大丈夫。男子が笑いながら自販機でポカリとファンタを買っていく。

 勇虎は軽くなった台車を押して急ぎ戻った。

 ──異世界。

〈閉柱〉に囲まれた空が閉じた蓋のようにのしかかり、足が震えはじめる。

 WB(ワープボックス)まで戻ると、剛力(ゴウリキ)がすでに扉を開いており、勇虎は畳んだ台車とともになんとか体を中に押し込める。

 振動はやがて痙攣に近い全身の震えに変わる。事故以来、時を選ばずに襲ってくる発作が、また起きてしまった。

 勇虎の異変を気にも留めず、剛力(ゴウ リキ)は他の非能者ピックアップのために何カ所かWBを巡った。WB内の人口密度が増えるのも、あまりよくない。気づくと視界が赤かった。あの時の臭気が呼び戻され、胃を絞るような吐き気が迫(せ)り上がってくる。

 五回目の膨出のおり、開かれた扉の外へと崩れ出た勇虎を、甲高い声が呼んだ。

「大丈夫ですかっ」

 咳き込みながら首をもたげる。白い卵形の顔に大きな碧眼(へき がん)と薄い眉の三十代に届く女性。腕と腿の筋肉が発達しているが、なで肩で、頭を傾けた拍子に茶髪の長髪が肩を滑り落ちた。

「い、磯貝さん。そっか、ここは渋谷か」

 同僚の磯貝は慣れた様子で勇虎に肩を貸し、剛力(ゴウリキ)の男に目くばせしてWBから離れると、風力発電装置の基部に勇虎をもたれさせる。

 そこは渓谷だった。

 玄関口も通路も持たずテレポートのみによって出入りが可能な超高層建築〈閉柱(へい ちゅう)〉──それらが囲い込んだスリットを通る風から、発電装置が電力を掠(かす)め取っている。

 遠くで加圧音が響いた後は、ビル風のささやきだけが残った。

「ごめん、大丈夫。あれを使えばすぐ……」

 勇虎が右ポケットを探っている間に、磯貝が代わりに左ポケットから緑色の吸引機を抜き出し、手渡した。勇虎はそれを上唇に宛てがい、かしょん、とトリガーを引く。

 しばらく薬の効き目を待つ。日が落ち、周囲が赤らむ頃、視界の赤が引き、やっと呼吸が落ち着いた。

 磯貝はジャケットから缶コーヒーを取り出した。

「これ、今日の分です」

 ちゃんと微糖だ。

「悪いよ」

「いえ、昨日の業績勝負の結果ですから。そして今日の業績勝負は明日の結果に……」

 磯貝はハキハキとしゃべりながらフォンを調べ、アプリで業績一覧をチェックする。石川運通は時代に相応しくない完全歩合制だ。

「明日はお願いしますね?」

 画面の青白い光を浴びる磯貝の表情が、ニヤリと柔らかくなる。勇虎は苦笑いしながら微糖を開けた。適度な甘さが体にしみる。

「別のWBまで歩きましょっか」

 実際、そうする他なかった。発作と関連づけられたWBは、一週間は使わないほうがいい。

 重い腰を上げ、閉柱ひしめく夕暮れの渋谷を進む。

 道幅は二メートルもなかった。道路のないこの街では閉柱同士が極限まで隣接し合い、それらが互いにダクト状の横木で接続されている。これらの横木は等間隔で設置された心柱へと振動を受け渡し、地震や風圧による微細な振動からも電力を得る仕組みである。

 空は未完成な切り絵のように見えた。

 人影はない。あるはずもない。本当の意味で東京を名乗ることができるのは銀座エリアだけ。下町エリアも文化特区となり文科省下で巨大な観光地と化した。そして山手エリアと中央エリアには、もはやかつての輝きはない。文字通り電飾が消え、屋外広告が消えると、そこにはのっぺらぼうの街が残った。

 テレポータリゼーションは、土地の必然性を何より求める。景観の優れた沿岸部。レジャーになりうる文化圏や緑地。農牧に適した湿潤な土地。そこになければならないものは、そこにあり続けた。

 だが東京は違った。密集故の発展と、発展故の密集は、因果が流転するだけで、必然性がなかった。

 だから去った。人も店も、光も音も。

 ──空洞東京(クウドウトウキョウ)。

 一切光を灯さない閉柱は次第に漆黒の壁となって、ぶつ切りになった紫の空と同化していく。電灯と電灯の距離が遠く、フォンの光が必要になってくる。

 人口密度をピーク時の十分の一にまで落とし、固定資産税緩和に群がったペーパーオフィスが立ち並ぶ、街の姿をした空洞。

 そんな世界の狭間みたいな場所を、勇虎は磯貝と二人で歩いている。奇妙な感覚だった。

 自分がここにいる意味なんてないのに、歩かないと何処へも行けないから、歩く。それが至極不思議であり、当然にも思える。

 歩荷(ボッカ)だった頃、勇虎は船だった。社会のために自意識を貸し出し、インフラと一体化することが役目だった。だからこの仕事についた時も、勇虎は前のように一人でやっていけると思っていた。

「手の震え、治りましたね」

 磯貝がほがらかに笑う。勇虎は照れくさくなって顔を伏せ、くぐもった声でお礼を言った。

「気にしないでください。ここにいるのはみんな、ワケアリですから」

 この国ではテレポートがなければ生きてはいけない。磯貝は生きることによって、その風潮が真っ赤な嘘だと証明し続けている。

 やがて目の前に、薄ぼんやりとした乳白色の光を放つ立方体が現れる。磯貝はフォンを取り出し、アプリで剛力(ゴウリキ)を探したようだ。マッチングの軽快なアラートが、宵闇に響いた。

「勇虎くん。今度、・異世界・行きましょうね」

 磯貝が小悪魔的に笑った。彼女がその言葉を言っても、不思議と、発作は起こらなかった。

「異世界は嫌です」

 冗談ですよ、と磯貝は軽い笑みを浮かべる。

 やがてWBのランプが朱色に染まり、扉が開いて中から・BOKKA!!・のジャケットを羽織った男性が現れる。わざわざWB外に出てきて挨拶するなんて、なかなかできた接客態度だ。

「そちらのお客さんも?」

 剛力(ゴウリキ)に訊ねられ、磯貝の視線もこちらに向く。勇虎はかぶりを振って応えると、剛力(ゴウリキ)は懐からフォンを取り出した。

「先に決済お願いします」

 磯貝はフォンを重ねて決済すると、振り返って言った。

「異世界に一番近そうなエアーズロック行きましょう」

 剛力(ゴウリキ)に連れられ、磯貝がWBの中に消えて十秒後。青く染まったWBの上部から、巨大なゾウの鼻息のような加圧音が響いた。

 再び乳白色に戻ったWBが、闇をぼんやりと照らしはじめる。

 WBの誤作動が証明され、一切の過失なしと判決を受けた勇虎が、事故後急性PTSDと診断されて半年。彼の鼻は今も、部屋いっぱいに広がる鉄臭さを覚えている。

     2

 およそ半世紀前、テレポートは勇虎の事故が霞むほど多数の死者を出していた。その負のイメージを払拭したのが〈橋本モデル〉だった。

 脳科学者である橋本足見(たるみ)がまとめた論文は、二二三〇年頃まで人間の脳が増大し続けるという見立てを示し、すでに人類の大部分が野晒しのテレポート能力を失ったことを証明した。

 無論懐疑的な国家もあったが、日本はこの論証を全面的に受け入れ、そして物流の形は激変した。

 現在、日本に公道は存在しない。都心の道路は全て再整備され、土地として売り出された。区に還元された売上金でWBを主体とした新たなインフラが築かれ、日本中の都市がこれに倣(なら)った。

 今や自動車は、限定空間で行うスポーツのための余興品。馬と同じく、車主(しゃぬし)と呼ばれるオーナーが管理し、自前のエンジニアにメンテをさせる。カーレースは日本で五番目の公営競技になった。

 しかし人々は未だに、遺産の下で暮らしている。

 太い柱に支えられた空の道──高速道路。

 勇虎はあの、ビルの谷間を蛇のように縫う道を見上げ、鉛のため息を吐く。かつて首都高三号渋谷線と呼ばれていたその天空の道は、今は国土廃棄物と呼ばれ、崩落の恐怖を撒き散らす頭上の爆弾になった。

 突風が襲った。壁に手をつかなければ飛ばされてしまいかねない強さ。

 磯貝が行った後、勇虎の発作は収まっていた。けれど何かが彼をこの空洞東京に引き留めた。

 勇虎は再び歩き始めた。地面を踏んだ衝撃が足を伝って腰へ、さらに肩まで上がってくる。歩くことにはリズムがあり、リズムを意識しすぎると加速しすぎ、途中で意図的にゆっくり歩かねばならないことを思い出す。その当たり前のことがたまに、体から抜け落ちる。

 まだテレポーターだった頃の夢を見ているのか。

 全身に吹きつける冷たい夜風は、早く歩くほど大きくなる。目的なく歩くのはいつ以来だろう。ナイターのサーフィンに出た母を追いかけ、夕暮れの浜辺を歩いた。足の裏に絡みつく砂の感覚が、すごく懐かしい。

 気づくと三区画も歩いていた。頭上には滑らかにカーブした高速道路が並走している。勇虎は月がよく見える角度に入って煉瓦塀にもたれると、剛力(ゴウリキ)を呼ぶためにフォンを取り出した。

 目の前で鈍い音が鳴る。ブリキのダストボックスと、ごみ回収用の薄型WBがあるだけだ。だが音と揺れは、二度鳴った。

 一歩ずつ近づく。ダストボックスに鍵がかかっているのが見える。四桁のナンバー錠。しかし鍵は開いていて、閂(かんぬき)の役割しか果たしていない。

 勇虎は錠を外し、ひと思いに取っ手を持ち上げた。

 工事用の雨避けシートのようなものを纏った少女の身体が、無数のビニール袋の中に沈んでいる。褐色の肌と、肩まである艶やかな銀の髪。額につけたエスニックな髪飾り。

 勇虎は水溜まりに尻餅をついた。ざらつくアスファルトに溜まった排水からなにか甘い匂いがした。

「くそっ、ふざけんなよ」

 膝に手をついて立ち上がり、再び中を覗き込む。

 勇虎はゆっくりと、少女の方に手を伸ばした。すると、刃のように鋭い目尻がゆっくりと傾いて、真紅に染まった瞳が現れる。

 勇虎は安堵のため息を吐いた。一年で二度も人の死体を見たくはない。

「あの、もしもし、大丈夫?」

 少女は、力強い眼力で勇虎を見上げる。何を乞うわけでもなく、ただ一切の迷いなく見開かれたその瞳を、ゆらりと赤く輝かせながら。

「どこも怪我はない? 痛いところは?」

 ウインドウショッピングなどというものは、もう存在しない。人は街に出歩かず、街もまた出歩かれるような設計はされていない。では学生か……? いや、学園のほとんどは閉柱と同様テレポートでしか出入りできない箱庭的構造をとっている。

 ここに少女が迷い込む余地はないはずだ。

「私を助けるな」

 それは紛うことなき日本語の、流暢な標準語だった。

「蓋を閉めて消えて。私に会ったことは忘れて日常に戻って」

 月光を受けとめ紅蓮色に輝く瞳が、勇虎を射抜く。

「何だよその言い方」

 内心では尻込みしていた。小枝のような手足に、ガラス細工の胴体をした少女の、意志だけは握った拳のように固く、言葉は不自然なほど凄みを持っている。それでいて全身を脱力させ、この狭い鉄箱がまるで自分の寝床であるかのような落ちつきよう──勇虎は、その態度がどうしても気に食わなかった。

「お前、知ってるのか。外から鍵がかけられてたんだぞ。一人じゃ朝まで出られなかった。それに俺の足音を聞いて中からガンガンと蹴ったじゃないか」

 少女は何も答えず、憮然としてこちらを睨む。勇虎もしばらく見つめ返したが、揺るぎない視線が拒絶を代弁していると悟る。

「そうかよ。眠ってたところ悪かったな」

 勇虎はダストボックスの蓋を静かに閉めると、踵(きびす)を返して歩き出した。路地から路地へと歩いていくと、不意に爆音が響く。

 音は次第に大きく、リズミカルになる。目を凝らした。

 暗がりを駆ける幾つもの光。爆音の正体は、二輪車の駆動音だった。

「──!」

 勇虎は来た道をそのまま遡り、月明かりの脇道に戻った。そして今度はためらいなく蓋を開けると、ギョッとする少女の腕を掴んで引きずり出し、そのまま頭を前にして左肩に担ぐ。

「ねえ、ねえ! 何するん──むもッ」

 握り拳で腹を叩かれながら、勇虎は少女の口を右手で塞ぎ、耳元で告げた。

(声、出すな)

 光と爆音が目の前の路地を横切った。少女の口から離した掌には小ぶりな扇状の噛み跡があった。

(何のつもりよ)

 殺した声で少女が言う。

(空走族(くうそうぞく))

(何よそれ)

(見ての通りだ)

 知識としては知っている。あれはバイクが、動力源である熱機関を爆発させる音だ。間近で本物を耳にすると、こんなに凄まじい音だったとは。

 族の一人が周りをキョロキョロとしながら、木製バットで建物のガラスを叩き割り、発煙筒をバルコニーに投げ入れた。

 煙に乗じて勇虎は路地を飛び出し、左折して細い通路を走る。音を頼りに賽(さい)の目状の街を縫うように進むが、公衆WBの乳白色の光は一向に見当たらない。

 呼吸を保つため脇道に入る。少女を下ろし、しゃがんで肩を上下させていると、巨大な胴長の車が目の前を通り抜けた。車は数十メートル先で停止し、中から現れた人影が建物の中に入っていく。

「あれは国交省系列の倉庫? 国の設備にも手を出すのかよ……」

 その時バイクの減速音が聞こえ、勇虎はとっさに少女と自分の体をダストボックスの陰に押し込んだ。

 鋭い音が連続して炸裂する。背骨に衝撃が伝わって、勇虎の顎は震えた。動けば、膝の間に抱えている少女の爪先が、族に見えてしまうかもしれない。

 足音が遠ざかり、後頭部に手を当てると、血が出ていた。

「痛むの?」

 少女の冷たい小さな手が、首筋と頭頂部に触れる。

「別に、大したことないよ」

 少女は有無を言わさず勇虎の背後に回り込むと、髪の毛を引っ掴んで、剥き出しの後頭部を月光に晒した。

「えぐれたような痕がある。抜けかかっていたネジにやられたのかも」

「ほらみろ、大したことない」

「すぐに消毒しないとダメ。破傷風になるわ」

 勇虎は首を振って少女を体から引き剥がし、大丈夫だ、と荒っぽく言うと、少女の両肩をガッチリ掴んで訊いた。

「なんであんなところにいたんだ。渋谷のビルはほとんどダミー・オフィスだ」

 切っ先の瞳がわずかに揺らぐも、返答はない。

「──家出か」

 勇虎は吐き捨てるように言った。

「馬鹿なことしやがって。これだけは言っとくぞ。お前はどこへも行けやしない。親が失踪届を出せば警察はすぐ移動記録を洗い出す」

 人はどこにも逃げられない。皆、頭でそうわかっているから『異世界』などという幻想に浸る。

 人は所詮、行くところに行くだけ。

「テレポートに自由なんかない。そういう社会なんだよ」

 だから、無心に走る。今はそれしかなかった。

 取り壊し予定の廃墟には、電飾ももはや9の字しか残っていない。しかしそれは紛れもなく109だった。

「ここは道玄坂か」

 やがて漆黒の塀が消え、吉野家にカラオケ、パチンコ、アディダスが現れ、薄れた歩道のペイントが足元を埋める。ノスタルジックな渋谷。目前に広がる巨大な虚空。ビル街をその部分だけ抉(えぐ)って作った人工盆地のようにも見えるその空間は、確かにスクランブル交差点だ。

 勇虎は左腕に抵抗を感じて足を止めた。苦しそうに息を切らす少女を、大盛堂書店のシャッター下まで連れて行く。

「もう少しで駅のWBに着く。中に入りさえすれば、誰も手出しはしてこない」

 笛のような音を立てる彼女の折れ曲がった体の、どこに触れようか迷いながら最後には肩に手を置く。

 しかし少女はその手を払いのけて、声を絞り出した。

「彼らが、来るわ」

 勇虎は少女の腕を強く掴むが、再度振り払われる。少女の覚悟に引き絞られた目尻が、矢で狙うように睨みつけてくる。

「私を置いていけばいいのよ」

 シンプルな話だった。

 得体の知れない家出女を守ってやる義理はない。

「自力でなんとかなるわ」

「お前のことなんて……ちくしょう、どうだっていいんだよ。置いていくほうがいいって、わかってんだ」

 左手の人差し指の第一関節の先がじくじくと痛む。再生医療によって生え変わった指先と爪は色が白く端正で、それゆえいびつだ。

 容易い。置いていくことは。でももしそうすればこの先、自分がどういう思いをするのか予想がついた。だからこれからすることは──自分自身のためだった。

 勇虎は少女を担ぎ上げ、再び走り出した。

 背後から轟音が迫ってくる。

 少女の体が前後に揺れるに従い、勇虎の体も揺れる。それが体力を削った。駅構内が見えてくると、音もまた大きくなる。歩荷(ボッカ)だった頃は三千キロを一瞬にして移動した。しかし今や、数百メートルの距離が永遠のように遠い。

 二〇六一年放映の配信ドラマの垂れ幕がいまだにかかった構内。ぽつりと乳白色の光を放つ常営WBの認証器にフォンをかざす。

 同時に背後から襟元を掴まれ、引っ張られた。勇虎は半開きの扉に少女を投げこみ、背中からアスファルトに倒れこんだ。

「大人しくしてろ!」

 頭上で怒鳴る族。まぶたの裏に焼きつく、ヘッドライトの暴力的なまでの眩しさ。そこへ近づくもう一つの足音があった。

「やめなさい」

 穏やかな男の声が飛ぶと、族の持っていたパイプが地面に落ちる音が耳元に響く。

「彼は違います。少なくとも今はまだ」

 勇虎はしばしその男がまたがる鉄塊の、太鼓のような重低音に聴き入っていた。

「シャモン、連れていきますか?」

「強引にしても意味がありません。来る刻(とき)を待つのみです」

 ボン! と乳白色の照明弾が、闇を引き裂いて瞬いた。

「撤退です」

 穏やかな声が言うと、族はこちらを見下ろしてから、一礼して、バイクに戻った。勇虎が睨み返す頃には、燃えるガソリンの異臭と熱気だけが路上に残されていた。

 WBの床に伏した少女を抱き起こす。

「くそっ……」

 勇虎はシャツを脱ぎ少女の肩にかけてやると、WB内の彼女から最も遠い位置に、壁に背を引きずるようにしてしゃがみ込んだ。

     3

 少女が目覚めたのは、白くてふかふかしたベッドだった。

 暖かくて滑らかな布団はなかなか少女の体を解放してくれない。なんとかして片足を出すと、足の裏が何かブヨブヨしたものに触れる。一旦引っ込めたが、意を決して再び降ろすと、さっきとはまた違った、コリコリした感覚が足の裏に当たる。何かがいる。

 今度は少し力を込め、爪先でつついてみる。

「アアッ」

 爪先は男の額に当たり、彼を深い眠りから引きずり出した。少女は危険を感じ、ベッドの端へと退いた。

 その男は眉間を歪(ゆが)ませながら上体を起こした。

「脳細胞減ったら、どうしてくれんだ……」

 男の表情と声色で、ぼやけていた思考が鮮明になる。意識は、あの立方体型WBの中で途切れている。

「いや、そんなこと心配する必要、もうないのか……会社に電話入れないと」

 立ち上がった男は充電スタンドに差し込まれた小型端末を抜き取り、電話をかけたようだ。低頭しながら、上司らしき人物に欠勤の旨を伝えている。

 少女は日本語を理解できた。日本で暮らした経験はほぼなかったが、家族に堪能な者がおり、幼少より教わってきたからだ。

 男は端末をフローリングに投げると、その場にへたれ込んだ。

「どこ」

 少女は男と出会った時のように思考の言語ベースを日本語に切り替え、そして驚いた。

 声が、全然反響しない。

 これまで過ごしたどの施設でも、放った声は長い廊下に響き渡り、こだまになって戻ってきたのに。

「俺んちだけど」

 男はこちらを睨みながらそう告げる。

「そうじゃないわ。位置」

「ああ、ここは東京都、港区の──」

 男は言いかけると、おもむろに立ち上がる。少女はベッドの端に寄り、掛け布団を引き寄せた。

「ま、待て! それ以上やるな」

 言葉は理解できている。しかし男の意図がわからない。

「だから、それ以上、引っ張らないで。それに、あんまり端に行かないで」

「あなたが寄ってくるから」

「なにもしないよ。なにもしてないだろ、お前は昨日のままの格好だ。そう、だからこそ、早くベッドから出てくれないか」

「どうして」

「それは俺のベッドだ。まだ買って間もない。一方でお前は、なんていうか……」

 男は深呼吸をし、腹筋で空気を押し出すように言った。

「汚いんだよ。あと、ちょっと臭うし」

 直撃の言葉。ここ数日間、路上で命を繋いできた少女にとって、それは意識の外のことだった。

 英語の反論が少女の口から漏れると、男は狼狽(うろた)えて訊き返した。

「つまり、知らないって言ってるの!」

「ベッド貸してやったんだぞ。おかげでこちとら、背中と首がバキバキだ」

「頼んでないじゃない、あなたが勝手にやったことだわ!」

「独身アラサーに予備の寝具なんてないんだ。それにお前は熱を──」

 男はリビング壁面のアルミラックから赤外線温度計を出してきて、雨避けシートの上から少女の肩を掴んだ。少女は男のあまりの真剣さに押し切られ、なすがままに体を寄せた。

「六度五分。よかった」

 男はベッドの端に腰を下ろし、カーテンで覆われた壁を見つめながら言った。

「なあお前、とりあえず風呂入りなよ」

 少女が立ち上がろうとすると、男はその動きを腕で制した。

「俺が顔、洗った後に」

 突如、ザザァ……、と遠くから音が聴こえてきて、少女はベッドの上で縮こめていた体を起こした。紛れもない自然音だった。ベッドから降りてドアを潜ると、WBや土間とひと続きで、寝室や書斎、ユニットバスなどに繋がる広い空間がある。壁のアルミラックには紙の本と、映画のパッケージ、そして鮮やかに塗装されたプラモデルが並んでいる。

 四面と天井を覆う虹色のディスプレイが、映像と音の発信源のようだった。

 ザザァ、という幻聴のような音は次第に実体を持ち始め、気づくと足元は砂場に替わっており、そこに透明な波が寄せる。ザザァ、ザブゥン……。穏やかで、独特のリズムだった。恐る恐る砂場の上に踏み出すと、浜辺のしゃりしゃりとした、少しくすぐったい感覚が足の裏に伝わる。どこからか潮の香りがし、白い泡を吹きながら波が押し寄せる。ひんやりとした感覚が爪の間にまで入り込み、少女は息を呑んだ。

「瀬戸内海だ」

 肩にタオルをかけ通路から現れた男が言った。セトナイカイ、と頭の中で繰り返してみる。悪くない響きだ。

「これ、どういうこと」

 少女は足元を指さして訊ねる。

 男は冷蔵庫から透明なボトルを出して口に運んだ。

「景色板と感覚床(かん かく ゆか)で再現してるんだ。日本百景。寒くなってきたからな、季節に抗ってるつもり」

 無限に続くように見える砂浜を、眺めながら少女は呟いた。

「こんな穏やかな海、知らない」

 ザザァ……、という音が、どんな悩みでも流し去ってしまうようだった。

「着替え、俺のしかないけど。下着は……どうしたらいいかわからん。一応トランクスの新品を置いておくけど」

 男に導かれ風呂場に入る。

 鍵をかけて、纏っていた雨避けシートを脱ぎ、ご丁寧に、ここに捨てろ、という張り紙がされたダストボックスの中へと放り込む。ふと鏡の中にみすぼらしい女の、ひび割れた褐色の肌が目に入りそうになり、顔を背けた。

 温められた浴室にも海辺の演出が及んでいて、蛇口をひねると、弾けるお湯が一週間におよぶ逃避行の疲労を流し去る。

 何より、シャンプーとリンスが十分にあるなんて。

「こまかい男。潔癖すぎよ」

 少女は曇った鏡に向けて呟いた。

〈学舎〉では、訓練で服が汚れることなどしょっちゅうだった。どんな姿をしていても、キングは心で判断してくれた。

 浴槽の側面の鉄球から発せられる微弱な電気が、硬くなった筋肉を解きほぐす。両手いっぱいに澄んだお湯をすくい、頭上に舞いあげて降らせた。バシャバシャと水面を叩いたりもした。長く浸かっていては髪飾りが錆びるかとも思ったが、考えないことにした。

「入るぞー」

 侵入する声に、とっさに両腕で胸を抱き込む。

「えっ、でも鍵」

「ごめん、鍵は壊れてる。でも大丈夫」

「大丈夫なわけないでしょ!」

「わかったよ。でもこの服お気に入りだから、別のやつ置いてく」

 ドアが閉まる音で、少女はやっと肩の力を抜いた。

 鉄条網のように荒れていた髪がさらさらになるまでドライヤーをかけると、髪飾りをつけなおし、半袖のシャツとぶかぶかのジャージに着替えた少女は、鍵の壊れたドアの隙間から顔を出した。

「あの」

 リビングのテレビが速報で、空走族が虎ノ門付近に出現したことを報じていた。

「あのー!」

「どうした?」

 突然、視界の左隅から現れた男が近寄ってくる。扉をピシャリと閉め、内側からくぐもった声で答える。

「ながそで」

 しばらくの沈黙があって、男が言った。

「明日は三十三度だぞ」

「冷え性なの」

 足音が聞こえると、扉のわずかな隙間から差し出された男の手には無地のロングTシャツがあった。

 勇虎は、奇妙なやつだと思いながら、寝室で布団の身ぐるみを剥がし、シーツと一緒に大型の洗濯かごへと放り込んだ。

 そのうちに指先を長袖の下に隠した少女が、琥珀色の肌と銀色の頭から湯気をあげ風呂場から出てくる。

「さっぱりしたか」

「……うん」

 テレビは中国企業太陽公司(ターヤンコンス)が推し進める伝送回廊政策の話題に切り替わっていた。テレポートインフラの規格の輸出・整備は日本にも及んでおり、日本の重工業会社が事実上の下請けとして使われている問題、さらに日米安保撤退に伴う内閣の中国傾倒に十万人規模のデモが起こっていることを保守派の議員が指摘すると、アジア団結派が猛反論を始める。

「今、公共キッチンを注文したから、きっかりあと十分(じっ ぷん)ある。俺の聞きたいことを教えてくれ」

 勇虎は浜小屋の立体プロジェクションをまとった机に近づき、椅子を一つ引いて、もう一つに憮然と座った。

「何が聞きたいの?」

「最低限のことだ。出身地、あそこにいた理由、あとお前は何者かってこと。ゴミ箱の中に隠れるなんて普通じゃない。返答次第では児相(じ  そう)か警察か、あるいは公安局か、変わってくるしな」

 腕を組み、頭から湯気を立ち上らせる少女を見つめる。

「知るべきじゃない」

「そうはいかないだろ」

 瞳に再び燃えるような反骨心を滲ませ、乾いた拒絶を吐く少女のその毅然とした態度に、勇虎はいつの間にか声をあげていた。

「そうやって背負い込もうとするやつに限って一人じゃ何もできない。人は行くところにしか行かない。自分の人生から逃げきることはできないんだ。現に今だって……」

「じゃあ、あなたが助けてくれるの?」

 消え入るような声だった。

 それから少女は玄関と一体化したWBへ向かい、中に入って地団駄を踏んだ。「おい!」そして端っこの一点にしゃがむ。どうやったのか、床のハッチが開いていた。少女が中に手を突っ込むと、程なくしてプツンと音を立てて中の明かりが落ちる。

 WBの電源を完全に落とすことは保安上できないはずだった。

「点検用の緊急停止よ。メーカーによって方法が違う」

「どうして電源を落とした」

「盗聴」

 暗がりの中から出てきた少女が、唖然とする勇虎を見上げる。

「十年前の国際テレポート協会(ITA)のテロ対策モデルに、この国の国土交通省は批准した。特定の単語だけを拾う指向性盗聴器が六八年以降のモデル全てに設置されているのよ」

 少女は足をテレビ前のソファに向け、ゆっくりと座り込んだ。

「その国有のデータも、ハッキングで全部吸い上げられてる。私が相手にしているのはそういう組織」

「待ってくれ。組織? 話が見えない」

「私はナクサ」

「そうか、言ってなかったな。俺は赤川勇虎だ」

「そう。イサトラ」

 少女はそう言って一呼吸置くと、こう続けた。

「私が何者かと聞いたわ。答えるべき言葉は一つ──ペネよ」

 それは少女の……ナクサの母国の単語か……?

 しかしナクサは自信に満ちた声で続けた。

「ペネトレーター。対蹠者(たいせきしゃ)」

 こちらがピンと来ていないことに少し苛立ったのか、少女は咳払いを一つし、妙にかしこまった。

「いい? テレポートは普通、縦方向より横方向に長く移動できるわよね。ヒマラヤ山頂へテレポートするには、九カ所の中継地点があるでしょ? およそ高低差五百メートルごとに休憩が必要ということよ」

 確かに成人して免許取得が可能になると、一定数の人間が力試しをする。その一つに、標高の高い場所に、いかに少ないテレポート回数で移動できるかを競うという遊びがある。

「でも私は、重力に逆らってテレポートできるの。実際、高層ビル建築の現場には、そういった上下移動に長けた人がたくさんいるけれど、私はそれとは次元が違う」

 人は地表に対して水平方向に移動するより、垂直方向に移動する方が遥かにエネルギーを食う。その倍率は諸説あるが、およそ一万倍ともいわれる。

 ナクサは胸を張り、垂直な胸元に掌を押し当てた。

「私は地球を貫通できる」

 それがどれほど凄いことなのか理解するのに、地球が宇宙空間に浮かぶ巨球であることをまず思い出さねばならなかった。

 少女は親指と小指を曲げた掌を突き出した。

「世界に三人よ。私以外に対蹠テレポートができるのは」

 対蹠地とは、地球の裏側のことだ。つまり地球を貫通(ペネトレート)して移動するテレポーター。

「それがなんの役に立つ?」

 少女は察しが悪いわね、と呟いた。

「ひと月に、四十フィートコンテナ三十万個を地球の裏側に運ぶことができるのよ。わからない? 私は一人で、北極海航路そのものよ」

 運輸史に詳しくない勇虎にも、それは理解できた。北極基地に設置された中継大型WBの熱で、氷がとけているというニュースは連日のように聞く。

「そうか、正規登録されたWBを通らなければ、各国の国交省や治安システムに気づかれることもない。完璧な密輸ルート……」

 密輸。

 自分から出たその単語に、勇虎はゴクリと息を呑む。

 ナクサの蛍光のように冷たく輝く視線が、勇虎の・もしかして・を貫く。

「それが家族(ファミリー)の中で与えられた、私の役割だった。あなたも知っているでしょう。世界に出回っている麻薬の七割は、違法テレポートで持ち込まれているって」

「おい、まさかそれに関与しているわけじゃ……」

 それは少女が初めて見せた笑顔だったかもしれない。誇りと謙遜と、自嘲と嫌悪の──グラデーションの微笑だった。

「私、逃げてきたの。麻薬を載せる船としての人生から」

 勇虎は体が椅子からずり落ちそうになっていることに気づいた。しばらく、なんと言ったらいいのかもわからなかった。

「組織の名は〈炭なる月〉。キングという男がボスよ。彼は目的のためなら手段を選ばない人。そして親のいない私の、育ての親」

 ナクサは人差し指を甘く噛み、一瞬息を止めて言った。

「組織は、悪党で、私の家族(ファミリー)」

 勇虎は閉口した。ナクサの視線に覚えがあった。母親が失踪した後、警察からネグレクトと断定された時だ。優しい警察官に向かって勇虎は、今の彼女と同じ目を向けていた。

 理解してほしいという、たったそれだけの願い。

「なんで……」勇虎は言葉を選んだ。「なんで追われているんだ。アガリでもくすねたのかよ」

 ナクサはそっぽを向いて答えない。

 テレビの議論は、難民問題に切り替わっていた。のべ十万人の難民を受け入れ、二十年後までにその倍の難民を誘致すると発表した首相を、保守派の議員は熱烈に批判し、イギリスのように沿岸警備を強化すべきだと訴えている。

「私、世界中の街を転々としていて、ある時はアメリカにいたの。デトロイト。キングが仕事をしている間、外出許可をもらって、自動車の廃工場を見つけた。三十人ぐらいが鉄屑の山に住んでた。麻薬を使っていた。そこにいる全員がね、当たり前のように非能者だったの。その麻薬を、運んでいるのよ、テレポーターが」

 テレビの方を向いてしまって表情はうかがえないが、その声は震えていた。

「だから私は戻らない。戻れない。たとえこの星が距離の存在しない世界だとしても──私は、

・異世界・にだって逃げてやる」

 ナクサの眉間には、少女とは思えないような深い皺がいくつも刻まれていた。

「ごめんなさい。話すべきじゃないことを話してる自覚はある。でも今の私にできるのはこれだけ」

「……そうかよ」

 しおらしく告げるナクサに、勇虎はため息をつく。

(異世界にだって逃げてやる、か)

 見ているだけでむなしくなるような痩せ細った手足とあまりに不揃いな、瞳に燃える強い意志。

 それでも彼女は、どこへも行けない家出少女だ。

(お前は、一体……)

 フォンが鳴った。宅配会社からで、指定したWBのオンラインが確認できないとのことだった。ナクサがハッチを直すと、扉はひとりでに閉まった。直後にランプが青く点灯し減圧音を轟かせ、・BOKKA!!・のキューブ状リュックを背負った男が現れる。

「ま、とりあえず食べようぜ」

 電子決済を終えた勇虎は、熱々の容器を持って机へと向かう。

「ロティとタンドーリはあるの?」

「ない」

 肩を竦(すく)めるナクサと向き合って、勇虎はいただきますと唱えた。

     4 

 株式会社石川運通のオフィスは、愛知県の何処かの、トヨタの廃生産レーンを転用した名ばかりの空間だ。石川運通は非能者を多数受け入れており、毎朝社有の剛力(ゴウリキ)が従業員各員の玄関を廻り、社員をオフィスに集めていた。

 会議室に使っている第一整備場から離れ、レーンまで足を運ぶと、被覆が破れたケーブルと壊れたロボットアームがぶら下がる鋼のジャングルが姿を現す。

 勇虎は組み立て前のボンネットの上に腰を降ろした。

「線動時代(ラインエポック)の遺産を尻に敷く気持ちはいかがですか」

 磯貝だった。製造途中に廃棄された日本車のボンネットは、生産がストップした当時の状態のままだ。

「爽快ですね。テレポーターに戻った気になれます」

「隣、いいですか」

 勇虎はうなずいて端に寄った。

 汚れた窓の外には、オフロードカーの耐久テスト場だったであろう砂地が広がっている。勇虎はこのオフィスの正確な場所を知らなかった。

「海鮮丼にしたんですね」

 膝に置いたプラスチック容器の中を無邪気に覗き込んできた磯貝が、興味津々で訊いた。

「マトウダイとクロムツ、あとトビウオも」

 鮮魚の流通において生産者と浜沖買商は、一致団結した『沖売り』として船舶に乗り合わせている。沖売りは卸売市場とも取引をするが、大手ホールディングスが直接船舶上で鮮魚を買いつけるルートが昨今急速に発達している。故にマグロやブリなどの大型魚を除けば、ほぼ全ての魚は活魚として消費者の元に届く。

 その結果、味は良いが足が早かった希少魚に熱視線が注がれ、シロアマダイやホシガレイなどの百二十七種が、四半世紀以内に国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストに入った。

「あれって、船上でWBを稼働させているんですよね。勇虎くん、そういった職場のご経験は?」

「あれは、酔うのでやったことないですね」

 勇虎はうなずくと、透き通った白身に視線を降ろす。

 レッドリストの増加なんて、今にはじまったことじゃない。わかっている。ただ、テレポートはあまりに多くを変えてしまった。

 磯貝はハンバーガーを大口で頬張った。どこへでも行けるのに、鮮度とか、健康とか、そんなことどうだっていいと断言する彼女の、見惚れるような食べっぷりを横目に盗み見る。

 磯貝と出会ったのは、彼女が勇虎の新人教育の担当についた営業初日だった。磯貝は先天的に前頭葉に障害があるのでもなく、精神疾患があるわけでもない。至って正常なテレポート能。ところが彼女の右脳は常人より七%肥大していて、異常発達した空間識が既存のDADコードの規格外となり、目的地暗示が不全を起こした。

 彼女が生涯におこなったテレポートは一度だけ。免許講習の実技講習。万が一にも翔突が起こらぬよう、訓練用のWBで十センチの移動からはじめる実習生の中で、一人だけ十メートルを移動して不全が発覚したそうだ。

 彼女には飛ぶための翼がある。

 しかし社会がそれをもいだ。

「どうしたんですか。ちょっとお疲れのようですね。肩でも揉みましょうか」

 磯貝はそう言い、摘(つま)んだポテト三本を口に入れる。

 顔を上げ、磯貝を見つめ、疲れている理由を探す。

「夜ご飯を、作らないといけないなぁと」

「あら、同棲している彼女さんでもいらっしゃるんですか?」

 醤油を垂らして運んだ一口を、危うく吹き出しそうになる。

 勇虎は咳き込みながら、家で待つナクサの姿を想像した。ゴミ箱で拾った少女は今やだいぶ清潔になったが、男物の服ばかり着せている子供の、どこにそんな感情を抱けるというのか。

 勇虎は努めてかぶりを振った。

「それは最も遠い言葉です。厄介者。いや、疫病神。実は、家出少女が家にいついてしまって」

 磯貝はしばらく考え、答えた。

「警察に届け出ないのですか?」

「なにぶん、偏見をもらいやすい外見をしています。そこのところはフラットな磯貝さんだから言いますけど、褐色肌なんです。あと目が赤い。ほら、このご時勢、難民関係には敏感じゃないですか」

「ああ……、そうすると、今は届けづらいですね」

 違法難民による犯罪が増えている現在、警察を駆け込み寺にする難民を待ち伏せて暴行を加える『難民狩り』が多発している。

「一度、児相に相談してみたんです。門前払いでした。難民なら公安局に電話しろと。公安局はそもそも電話に出ないし」

 勇虎は、重いため息をついた。

 ただの難民ならどれほどよかったことか。運び屋という責務から逃げ出してきた少女のことを〈炭なる月〉とか言う麻薬組織が狙っているのだ。

 あいつは爆弾だ。家に帰ってもぜんぜん気が休まらない。その上、せっかく買ってきてやった算数ドリルにも手をつけないし、それにやたらと好き嫌いが多いし。

「今、その子のこと考えていましたね」

 勇虎は飯を喉に詰まらせむせかえった。

 図星ですね、と磯貝が破顔した。

「いいじゃないですか。恋愛の形態は人それぞれです」

 磯貝がそれを言うと、説得力がありすぎて困る。

「磯貝さんはうまくやってるんですか? その……」

「カレとですか? それとも、他の子たちと?」

 内縁の妻というのだろうか。磯貝の交際相手は、一夫多妻制を実践する男らしいのだ。

「うーん。秘密です」

 膝に頬杖をつき、ちょっと蠱惑(こ  わく)的な笑みを作ってみせる磯貝の顔から、勇虎は目を逸らす。

 そんな勇虎の腕を強引に引き、磯貝が言った。

「一つだけアドバイスしていいですか?」

 勇虎は首を傾(かし)げて磯貝を見た。

「ご飯は一緒に食べてくださいね」

「ご飯、ですか」

 一人暮らしを始めた当初こそは料理していたが、最近は圧倒的安価な公共キッチンを使うことがほとんどだった。

「ご飯を一緒に食べることで、大抵のことは解決するのです。だから、たまには手料理も作ってあげてください。家出少女歴十二年のこの私が言うんだから、間違いないです!」

 磯貝の家出は、家出ではない。

 保守的な家族に勘当され、家を出るしかなかったと聞いている。

「でも、最近の勇虎くん、変わりましたよ」

 勇虎は首を横に振った。

「本当ですよ。ここへ来たばかりの頃は、生きた屍のようでしたからね!」

 その言い方だと、今は生き生きしているということだが、そんなはずはない。自分はあの少女のために、日に日に追い詰められている。

 しかし横目に見た磯貝の表情は真剣だった。勇虎は照れくさくなって頭をかいた。

「エアーズロック、行きましょうね」

 磯貝は、水平線に浮かんだ朝日のようにはにかんだ。

「そうですね、連休がきたら必ず行きましょう」

 勇虎たちは昼食を食べた後、暖かいお茶をゆっくりと飲んだ。

 剛力(ゴウリキ)にお礼を言って、WBから出る。思えば発作が一度も起きない、いい一日だった。

「声紋認証、空間演出、竜頭(りゅうず)の滝」

 玄関で靴を履き替えながらそう声を張った勇虎の両手には、ビニール袋が食い込んでいる。景色板が反応し、すぐさま室内を清涼感が満たす。

「遅かったわね」

 少女の声に、顔を上げる。

「なんだ、寂しかったのか」

「お腹が空いただけよ」

 勇虎はため息をついてナクサの姿を探した。冷蔵庫前に向かうと、台所の奥の、プロジェクションされた浅瀬にかがみこみ、何やら音を立てているナクサの背中があった。

「おい、何やって……」

 呼び掛けた勇虎の胸に、鏡面のように磨かれた切っ先が向けられる。彼女の懐には浅いステンレスバットと、いつか通販で買った人工ダイヤモンド製の砥石が、墨汁のような液体に濡れている。勇虎は後ずさって浅瀬に尻餅をつく。冷たい感覚が腰全体を包む。

「うおっ、何してんだ!」

「いつ何時も、武器の手入れを欠かしちゃいけないわ」

「武器じゃない。出刃包丁、魚を捌(さば)くものだ。危ないから早くこっちによこせ」

 勇虎が手を出すと、ナクサは一瞬包丁に視線を落とした後、しおらしくそれを差し出した。

「ごめんなさい。心配させるつもりはなかったの。ただこの家には武器になりそうなものが、これしかなかったから……」

 この少女が冗談を言っているわけではないということは、その視線から伝わってくる。

 包丁を受け取り、ナクサをリビングへやると、勇虎はビニール袋の中の食材を、順次冷蔵庫の中に充填していく。十個パック入りの卵が三つ、割れていた。

「なあ……お前、今までどうやって暮らしていたんだ?」

 今まさにゲームのコントローラーを取ったばかりのナクサの目尻が、鋭く引き絞られる。

 勇虎はWBの方を一瞥し、

「大丈夫だ。感覚床を吸音モードにしてある。盗聴の心配はないさ」

 昨今の感覚床には、騒音を吸着して電気に変換する音声発電の機能が織り込まれている。WBの盗聴を知ってから、土間の吸着率を常時最大にしてあった。

 ナクサはコントローラーを置き、ソファの背に寄りかかる。

「船になる前は、修行をしていたわ──地球を相対化する修行よ」

「地球の、相対化……」

「あなたにとって地面は平面?」

 勇虎は首を傾げた。

 平衡感覚によほど異常でもない限り、誰にとっても平面であるはずだ。

「私にとっては球面。もちろん、ほぼ平面であるということはわかっているわ。それでも私にとって、地表は球面。そして地球は、宇宙に浮かぶ巨大な球体。その新しい意識を、心の土壌に植え育てるための修行」

「つらくなかったのか?」

「私はそのために生まれたから、耐えられる。でも──」

 少女の声が一瞬、鉛の重さを帯びる。

 沈黙を越えて、次のように続けた。

「時おり嫌になるわ。宇宙に投げ出されそうになる浮遊感に、ずっとつきまとわれているから」

 ナクサはそう言って、背を向けた。

 マフィアの家族が密輸の船にするために幼い女を狙っている。わかっている。勇虎は拳を握り込み、頭の中で繰り返した。匿(かくま)えば、どんなリスクを伴うか。

 平穏な暮らしを守るためには、この少女を警察に届けなければならない。

 勇虎が食事の支度を始めると、ナクサはヘッドギアをつけゲームを始めたらしかった。前に見せてもらったことがある。アース・コンストラクター。自分だけの太陽系を作るゲームらしい。そんなことをして何が面白いんだろう。ずっとそう思っていたが、もしかしたらそれは対蹠者としての直感を忘れないための、イメージトレーニングなのかもしれない。

 勇虎はイワシの骨に沿って包丁を入れながら、なあ、とヘッドギアを貫通するぐらいの大きさで声を放った。

「何か欲しいものはあるか?」

 ヘッドギアを外して再び振り返るとナクサはしばらく考え、

「窓」

 ぽつりとそう呟く。

「窓……?」

 思わず復唱してしまう。

 ナクサが身を乗り出して、紅蓮の目をキラキラさせながら言う。

「私ね、ずっと窓が欲しかったの」

「そう……なのか。窓だったら、そっちのカーテンの後ろに」

「開けていい!?」

 勇虎が指さした方向。ナクサが反射カーテンを捲(まく)ると、ちょうど景色板が反映させていた滝のプロジェクションがぐにゃりと歪む。

 許可を出してすぐに、後悔した。この安マンションの窓の外に、見て気分のいいものなんて少しもない。

 しかし少女の歓声が、勇虎の意識をさらった。

「綺麗!」

 下ろした半身(はんみ)を包丁で叩く手を、勇虎は止めた。

「そんなののどこがいい。緑豊かな自然や、海岸線が見渡せるわけでもない」

「でも、街を見渡せるじゃない。ここは何階なの?」

「百四十九階だよ」

 勇虎はイワシのなめろうの器(うつわ)をラップして冷蔵庫に入れ、冷やしてあった天ぷら液に潜らせた北海道の魚介と京野菜を、熱した黄金色の油の中に滑り込ませる。ふつふつと音を立てて衣の水分が沸き立ち始める。

「お金持ちなのね」

「まさか。今やどの国だろうが、マンションは地面に近い方が高価だ。ここも七十二階より下には通路とエレベーターがある。歩いて降りる権利がある」

「でも人類(わたしたち)には、テレポートがあるじゃない」

 そうだ。

 どこへでも行ける。だからこそ、どこへ行く意味もない。観光なんてものは今や記憶(ファンデーション)をなぞる行為にすぎない。

 全ては景色板と感覚床の再現演出によって、この部屋の中で充足する。そういう触れ込みで、地上に降りることに興味がない人間が、超高層ビルの上層階を買っていく。勇虎もその一人だった。

 よもや非能者となり、外出のために必ず人の手を借りねばならなくなるとは。

「見せてくれてありがとう。それに、ご飯も」

 ナクサが微笑む。

 勇虎は逃げるように鍋に挿した温度計を見た。油が二百度に近づくにつれ、小気味よい音が聞こえてくる。頃合いを見てバットに上げ、ご飯をよそった。

 ナクサに手伝わせてテーブルにご飯を運び、席につく。天板が高すぎるから、ナクサは座布団二枚を噛ませている。いただきます、という呪文を教えてこれで何度目になるだろうか。二人は静かに手を合わせる。

 フォンを操作して、景色板と感覚床を、竜頭の滝から日本庭園に変更する。足の裏が畳の細かな凹凸を捉え、ナクサはしばし足先を床に擦りつけていた。枯山水に獅子威(し  しおどし)の音。イグサの香りが蓮根の天ぷらの味を引き立てる。

 テレポートなんてものが使えなくなって、良かったのかもしれない。おかげで諦めがついた。人は行くところにしか行かない。自分自身がそうであるように、この少女だってきっとそうなのだ。

「ナクサ、次の休みの日、警察に行こうな」

 勇虎は食事の終わりがけに、そう呟いた。フォークと器がぶつかり合う音だけが響いた。

     5 

 電話を切る。相変わらずゲームをしているナクサに結果を伝える。明後日の午後二時に、国土交通省公安局外事課の西丸さんという人が、ナクサの引き渡しに応じることになった。

「今日のうちに電話できてよかった。日曜を挟むと、また余計にのびちまう」

 ナクサはヘッドギアに頭をうずめたまま、何も言わない。

「これでお前も、安全が保証されるってことだ」

「……」

 ヘッドギアとコントローラーから伸びるケーブルが接続された、円錐形の機械は、青白い光を放ちながら、目一杯ファンを唸らせている。ナクサはこの二週間、アース・コンストラクターにご執心だ。

「ゲーム機ぐらい、餞別にくれてやるよ」

「本気でそう思っているの?」

「ああ、もちろん。でもアカウント移した後に」

 ナクサはヘッドギアをずらし、勇虎を見上げた。紅蓮に燃える瞳に射竦められた勇虎は、口元にたたえていた笑いの一切を剥ぎ取られて黙りこくった。

「本気で私が安全になると」

「ああ……。もちろんだ」

「そう。あなたも嘘をつくのね」

 視線を落とすと、足がガクガクと震えていた。それどころか地面が暗く染まり、両手が赤く染まっていく。止めようとするほどに、発作は悪くなった。勇虎はしゃがみ込んで、感覚床のざらついた砂浜の再現を両手で受けて、なんとか下半身を襲った悪夢をやり過ごした。震えは消えたが、両手の赤はしぶとく残る。

 八つ当たりだとわかっていても勇虎はナクサを睨んだ。

「どうしろってんだ。クソッ、お前を見つけていなきゃ、こんなことにはならなかった」

「だから助けるなと言ったのよ。聞かなかったのはあなただわ」

「あの場で助けない方がおかしいんだよ! けど誰がお前みたいな少女がとんでもない過去を持ってると思う? そもそもお前の説明だってどこまで本当か……」

 勇虎は乱暴にヘッドギアを取り上げる。コードが外れ、サングラス型の画面から光が消える。

「でも、あなたは助けてくれたんでしょ」

 最初から、少女の曲がらない視線が嫌だった。希望を信じて疑わないその表情。相手がマフィア? なおさら逃げられるわけないのに。この少女は本気でどこかに辿り着けると思っている。

 見込みのない未来に縋(すが)って、飛ぶことのできない翼を広げて風を待つ。それは異世界を信じる愚と何が違うのか。

「ごめんね。意地悪を言ったわ。もう迷惑にはならないから。明日の朝には私はいないものと思ってくれていい。いずれちゃんと、お礼も送るから」

「ダメだ、警察に行くんだ」

「私は捕まるわけにはいかないの! 二度と、船にはならない。だから何としても逃げおおせる」

 そしてナクサはどこか淋しそうに、こう結んだ。

「それに私には最終手段がある」

 ナクサはうずくまる勇虎の横を通り過ぎ、その足をキッチンへ向けた。勇虎はよろよろ立ち上がり、両腕を抱きながら吸引機を探す。そのあちこちに這わせた目が、WBに続く通路に異変を捉える。

 勇虎より十センチ近くも長身の男性。全体照明を受け、瞳を翡翠色に輝かせている。どこの歩荷だろうか。革のコートにグローブ、宝石をあしらったベルト、銀の腕時計。

 確かに出前のためにWBの扉は開放モードにしておいたが、だからと言って内線のベルを鳴らさず勝手に部屋に立ち入るなど聞いたことがない。

 男は勇虎へ向けて一礼すると、何食わぬ顔で一歩踏み出した。その足に厚手のブーツを履いたまま。

「土足で上がり込むなんて非常識だろ、ここは民家だぞ。それに予告なく来るなんて。誰だ、あんた。どこの業者だ」

 家族住み住宅のアドレスに、総当たり的にテレポート訪問を繰り返す悪質なセールス業態があることは知っているが……。

 だが、おかしい。そもそもWBは待機状態を示す白色の光を放っているし、減圧音だって聴こえていない。

 彼の足元。感覚床のデフォルトカラーである肌色が消え、何か平たく、ざらざらとした煉瓦のようなものが載っている。記憶に一致する。それは紛れもなく都市の舗装──シールのように薄く削られた舗装が、フローリングに張りついている。

「おい……お前、一体なんなんだ」

 ナクサの姿が視界に入った。

「おや、意外と元気そうだ」

 男が口を開いたのとほぼ同時に、ナクサの手元からグラスが滑り落ち、コーヒーミルクが飛散した。

「追いつかれたッ!」

 勇虎がその声を聞いた時にはすでに、ナクサは走り出していた。男は懐から黒光りするものを抜き、深い洞穴を勇虎に向ける。

 囀(さえず)りのような銃声が二回。

 視界が斜めに傾く。ナクサが勇虎を蹴り飛ばしたのだ。弾道は頭上を通過し、彼の片耳から聴覚を奪う。

 男はすぐにサプレッサー付きの拳銃を構え直す。呆然とする勇虎の腕をナクサが引き、薄暗がりの寝室へと滑り込んだ。

 寝室の壁が二カ所盛り上がっているのを見て、勇虎はやっと、銃で撃たれたという実感を得た。放心している間にナクサはドアに鍵をかけ、ダメ押しで掃除機を噛ませると、勇虎をベッドの後ろに引っ張った。

「私を見て!」

 小さな手から、鋭い張り手が飛んだ。

「追いつかれたの。家族(ファミリー)よ。落ち着いて聞いて。彼は〈兵卒(ポーン)〉のジョルダン・ジャーニー。古典テレポートの奥義者よ」

「お……、落ち着けるわけねえだろ!」

 勇虎の頬に、二度目の張り手が炸裂した。口をパクパクさせる勇虎の胸ぐらを掴み上げ、ナクサが言う。

「こんなに早く見つかるなんて思わなかった。ごめんなさい。でも彼らは来てしまった。もう何もかも遅い。あなたは逃げなくては」

「逃げるだって? ふざけんなよ、俺の家だぞ」

「そうだよ、姫。どうして逃げるなんて言う」

 閉じられたドアの向こうから、男の足音と声が漏れた。ナクサが勇虎のシャツの襟を掴んで頭を引き寄せ耳打ちをした。勇虎はハッとして、それを探す。

「まあ逃げたくなる気持ちもわかる。ここは設備は揃っているようだが、まるで監獄だな。何ひとつホンモノがない。この家から逃げたいってことなら、それはわかる。でも僕から逃げるってのは、違う」

 次の瞬間、突風とともに男は、確かに、寝室の中に立っていた。ドアノブに挟まれた掃除機はそのまま。まるで手品だった。男は銃口を向ける。

「あなたのせいで計画が狂い始めている。このままでは最終調整に間に合わない。戻ろう、姫」

「く、来るな!」

 震えた声を上げたのは勇虎だった。その左腕は背後からナクサの首を拘束し、右手でカッターナイフを首筋に押し当てている。

「そこを動くんじゃないぞ。さもなくばこいつを殺すからな」

 勇虎は震える足で、ドアへと向かった。男はそんな二人を見つめ、なるほどなあ、と呟く。ナクサは銃口の向く先と、それを持つ男の右肩の筋肉を注意深く見つめながら、あたかも勇虎に命じられているように掃除機を退かした。二人は再びリビングに出ると、ベッドルームから十分距離を取る。

 ナクサの胸から流れ込む昂ぶった鼓動。

「どういう、ことなんだ……。なんであいつ、部屋の中で……」

「そんなことよりイサトラ、今は逃げるしかない」

 ナクサが耳元でささやいた。

 逃げるしかないとしても、地上百四十九階のこの部屋には玄関はおろか非常口もない。出入口は入るのにフォンの認証が必要なWBひとつだけ。

 つまり二人は、自力で部屋から出ることさえできない。

 フォンは確かゲーム機の近くに置いたはずだ。しかしソファやテレビの周辺を見回しても見当たらない。

「うかつだね。まあ、現代ニホンジンの危機意識なんて、こんなものか」

 寝室からぬらりと姿を現した男の左手には、電源の落ちた薄い板が握られている。

「赤川勇虎、広島県淡魚(あわい)島出身。十三歳でジェイコブス症を診断され、青森の国営団地に転居後、母親が失踪。症状寛解後、父親の援助を受けテレポート免許取得。現在二十六歳、独身、事故によりPTSDを発症、テレポート能に障害あり。免許は大型二類だが剥奪中……。このテレポータリゼーションの時代に、一人じゃどこへも行けないなんて。実に不憫だ」

 男はつまんだフォンをゆすりながら、挑発的に言った。

 勇虎の全身から汗が噴き出した。ナクサが咳き込み、腕に爪を立ててもがく。慌ててわずかに力を抜く。その一瞬、左手首の時計に視線を落とす。じり、じり、と勇虎は少しずつ窓側へ退がっていく。

「二度は言わない。下手な芝居をやめて姫を放して欲しい。それとも僕が、姫を避けて貴方を狙えないとでも?」

「……じゃあ」

 ナクサの首にかかっている勇虎の腕から、だんだんと力が抜けていく。最後に腕はだらりと落ち、そのまま勇虎は両手を上げた。

「俺だけ逃げてもいいですか?」

「それは理に適っている。だが姫のことだ、きっと保険をかけている。貴方は聞いてしまったんだろう、その女の素性。その女の能力を」

 対蹠者。ペネトレーター。麻薬の密輸。〈炭なる月〉……。

 ──ごめんなさい。話すべきじゃないことを話した自覚はあるわ。でも今の私にできることは、あなたに話すこと──。

 脳裏に、しおらしく謝るナクサの表情が浮かぶ。

「ナクサ、お前そのために……!」

 視線を逸らすナクサ。

「確かに一人より二人の方が逃げやすいからな。理に適っている。だが巻き込まれた貴方にはたまったものじゃないな。同情するよ。僕にしてやれることは、そうだな……。なるべく痛くせず殺してやることくらいだ。それについては安心してほしい。僕はヴァイオリニストでもある。指先は器用だよ」

 男は柔らかな笑みを浮かべる。決して猟奇的ではなかった。一種の、仕事の流儀のようだ。

「なあ、一ついいか」

 勇虎は震える息を吐いて、カッターを持ったまま頭を抱えた。男が紳士ぶって次を促す。

「せめてお茶を一杯、飲みたいんだが……」

「ニホンジンは好きだと聞く。歯が黄色くなるからやめておけばいいものを。死出の茶一杯。許せない僕ではない」

 最後に与えられたわずかな自由を噛み締めるように冷蔵庫へ歩いていく勇虎からナクサへ、男は視線を移した。

「私は戻らない。この人も殺させない」

「君にそれができるとでも」

「できる──最終手段を使えばね。『船』は消える。組織が占有する北極海航路は、今ここで永遠に消えるの! そんな計画外、キングが認めるかしら」

 男の目の色が変わった。計画外? と、低い声が漏れる。

「何、理に適わないこと言ってんだ。あんたが逃げたことが計画外なんだよ。あんたが逃げたから、その男が巻き込まれた。もし僕が彼を殺したなら、それはあんたが殺したってことだ。あんたが巻き込んで殺したんだ。あんたがその男を殺した!」

 怒りを吐き出して、男は平静を取り戻した。

「僕らはキングなくして意味を持たない盤上の駒。そうだろう、妃(クイーン)。ナクサ・クータスタ・アーナンダ」

「私は……!」

 その時、銀色のボウルを抱えた勇虎がカウンターキッチンから走り出て、黒々とした液体を男の顔面目がけてぶちまけた。

「ぐっ……なんだ──ッ!」

「めんつゆだ、ボケ!」

 勇虎は少女の腕を強引に掴んで再び叫んだ。「ナクサ、来い!」男が両目を掻き毟って悶えている隙に、WBへと走る。

 喧嘩は二十六年間、一度もしたことがなかった。だがここ最近、配送でよく治安の悪い地域を訪れる。そこから学んだこともある。

「声紋認識! 空間演出、姶良(あいら)カルデラ・活動期!」

 ダメ押しの勇虎の声を聞いた相互スピーカーは、ただちに感覚床と景色板に日本最大の活火山『桜島火山麓』を再現させる。黒色の大地に変わった床は、ぐつぐつと煮え立つマグマのエネルギーを再現し、上限温度摂氏六十九度まで一気に上昇した。男の驚きと怒りを背後に「フォンがないわ」と少女は囁く。

 勇虎は何も答えずに、腕時計を見た。

 次の瞬間、WBの信号が青に変わり、減圧音とともにドアが開く。

・BOKKA!!・とプリントされたキューブ状のリュックを背負う青年が、ギョッとして後ずさる。

 勇虎は靴棚からスニーカーを抜き取ってWBに投げ入れると、ナクサの腕を引いて押し入り、青年の首にカッターを突きつけて叫んだ。

「閉めて、早く!」

 悲鳴を上げた男は脊椎反射のように体を動かし、閉まるボタンを連打する。

 汗だくの勇虎は咳き込みながら続けた。

「今は従ってください。どこでもいい。新宿の公共玄関、今すぐ!」

「し、新宿の公共玄関って、どこのですか。東西南北、ど、どこの」

「知るか! 西口でいい!」

「わ、わかりました」

 ジョルダンが現れるも、ドアが閉まり切るのが早かった。直後、衝突の衝撃はWBに吸われ、ズドンという音だけが箱内に響く。

 教習所を卒業したてという様子の青年は顔面蒼白になって、足型に立つ。

「奇跡のタイミングね」

 勇虎はかぶりを振り、青年のリュックを指す。

「あの中には、お前に買ってやるはずだった服と靴がある。サイズを測るのは大変だったが」

 ナクサは赤面してダボダボのパーカーの上から胸を守った。

 リュックを開けてローファーの包みを解くと、大急ぎで靴に足を通す。今度は部屋全体が微かに揺れるほどの、相当な力で蹴り込まれる。

「扉を閉めたところで意味なんてないさ。テレポートの自認プロセスのうちに僕は中に入ってしまうよ。時間は十分すぎるほどある」

「だったら入ってこい」勇虎が、静まりかえった扉を睨みながら言った。「ただし俺とナクサがどこにいるかはわからないぞ。中に入ってみろ。手品ならすぐにやってみせろ! だがもしそれが……」

 勇虎は言い淀んだ。いざ口に出そうとすると、容易なことではなかった。しかし言わねばならない。今は言葉だけで男の足に釘を打たねばならなかった。

「もしそれが……テレポートなら……お前はその手で、ナクサを引き裂くかもしれないぞ」

 テレポートによって人体がいとも容易く破壊されることを、他でもない勇虎は知っている。

 じじじ、とWBレコーダーが勇虎の顔にズームする。

 三人の荒い呼吸と心音が室内に染み出す。

「殺す」

 扉の向こうで、滴が落ちるような男の声がした。

 画面にはすでにDADが表示されている。歩荷(ボッカ)の青年は、汗の噴いた額をモニターに向ける。

「せいぜい逃げ続けろよ。貴方は一日と生きられない」

 青年は職務外であり免許外でもある剛力(ゴウリキ)行為を、細いカッターナイフ一本で請け負った。

     6 

 青年が膨出し、ドアが開くと、勇虎はナクサの腕を掴みカッターをかざしながら背中向きにWBを出た。切迫した表情の青年は、二人が離れるにつれ安堵を示し、やがてフォンを耳に当てるのが、勇虎には見えた。

 勇虎の頭はぐしゃぐしゃだった。銃で撃たれた。あの男、ジョルダンには明瞭な殺意があった。吸入器は置いてきてしまった。両足の震えは止まらず、フォンもない。さっきの歩荷(ボッカ)が通報すれば、いずれ必ず警察に見つかる。

 新宿西口の公共玄関は、そのまま西武新宿セイブ・アスというモールに繋がっていた。この時代、モールは希少だ。店舗を密集させるメリットがないからだ。そのためモールそのものがある種のブランドを持っている場合のみ、淘汰を免れた。セイブ・アスの一階はオープンカフェや料理教室、ネイル、産婦人科などが一体化しており、桜色とターコイズで統一された明るい雰囲気が特徴だった。

 とにかく人が多い場所へ。セイブ・アスへ入ろうとした勇虎の腕を、ナクサが引き止める。

「こっちはダメ、視界が開けているところはダメ」

「命狙われてるんだぞ。人が多い方がいいに決まってる」

「彼は自分に見えているところなら、どこにでも現れることができる。文字通りどこにでもよ。奥義者とはそういうもの。彼はトリガーを引く一瞬この場に来さえすればいい。誰にも見つからずに、ただ銃を撃ったという事実だけを残して、あとはどこへでも翔んでいくことができるから。見通しのいい場所はダメ。開(ひら)けた場所は最悪よ」

 勇虎はガラス扉の前で足を止め、壁に寄ってナクサに向き直った。

「おい」

 今までになく低く濁った声だった。少女の両肩を掴み、唇を震わせながらゆっくりと覗き込む。

「人が……何もないところでテレポートしたんだぞ……! ありえないことが起きた……あいつは一体何なんだ」

「彼は元欧州移動警察(ユーロムーブ)の大尉よ」

「違う、そうじゃない。あいつは『何』だ」

「だから奥義者よ」

 勇虎はついに少女の胸ぐらを掴んで壁に押しつけた。ごん、と鈍い音。周りを歩く女性たちの注意が集まり始める。

 少女の瞳は赤く燃え上がり、力強く勇虎を睨み上げる。

「彼らは〈度(ど)〉という修行のおかげで、古典テレポートができるのよ」

「……!?」

 実際に言葉にされると、その衝撃はやはり大きい。まるで枕にしていた石が、不発弾だと知らされたようなもの。あってはならないこと。

 古典テレポートは、WBを用いない野晒しで行うテレポート方法。テレポート黎明期に、とてつもなく多くの死者を出した制約のない究極の移動だ。人類の夢見た真の自由、そして人類が手に入れることができなかった自由の虚像。

「脳の変化した現人類には、再現不可能なんじゃないのか」

 人類の脳の変化をまとめた〈橋本モデル〉では、今も人間の脳は変化し続けている。そのため黎明期に起こった大量死は、およそ半世紀たった今は起こり得ない。──少なくともそれが、日本政府の公式見解のはずだ。

「変化などしていないと言ったら? 〈橋本モデル〉が、テレポートを絶やさないために作られた虚偽の報告書だったとしたら?」

「そんなの、信じられるかよ……」

「信じなくてもいい。事実がそこにあるだけ」

 勇虎は、ネバついた口の中で、くそ、という言葉を飲む。

「古典テレポートは基本的に認知回廊、つまり視認できる場所にしか翔べないわ。彼の目にめんつゆをぶっかけたのは正解だった。でも次に彼に目視されたら終わりよ」

 とにかく場所を変えなければならなかった。二十年前、『都心にゆとり』のコンセプトで作られたセイブ・アス近辺は、どのフロアも空間をたっぷり使っている。

 向かうべきはオフィス街だ。

 モールから離れるだけで人気(ひと け)は大幅に減った。頭ではわかっていても、恐怖が増す。閉柱に切り刻まれた空。日照権はないに等しい。こんな場所で殺されたなら、それこそ遺体発見は一週間後になるかもしれない。

 ナクサの足は遅かった。動悸のためか幾度も胸を押さえ、慣れない靴を靴下なしで履いているせいで踵がひどく腫れている。

 庇(ひさし)のあるボロ映画館が横目に入った。平面映画を公開中との張り紙がある。まるで秘境だ。その洞窟のような店内に、稼働しているエレベーターを見つける。エントランスの電気は落ちていて、三角形のマークだけが闇の中にぼんやりと輝いていた。周りを気にしながらエレベーターに乗った端から、ナクサは壁に手をついて荒い息を吐いた。勇虎はどうしていいかわからず、背中を摩(さす)る。

 七階。シックな雰囲気の受付だ。勇虎はポケットを探ったがフォンがないことを思い出し、慌てて財布からクレジットカードを出して、セルフレジに押し当てた。

「こっちだ」

 分厚いゲートが二人を通す。迷路状になった壁には本棚が並び、おびただしい数の紙漫画が保管されていた。勇虎はドリンクバーでファンタオレンジを注ぐと、口元からこぼれるのも気にせず一気に飲み干し、もう一杯注いだ。

「はぁ……、はぁ……。お前も何か飲むか」

「ボルテックスを」

 あろうはずもない。ボルテックス──ATP燃料は第二類医薬品だ。個人で購入するにはテレポート二類免許が必要になる。

「なければ糖分で代用。それより、ここは?」

「全自動化された漫画喫茶。思いつく限り、最も複雑な構造をした建物だ」

 勇虎は少しためらいながら、彼女の言う通りオレンジジュースにコーヒーシュガーを四袋入れて、コップを手渡した。

「喫茶というのがわからないけれど、確かに狭いわ。なぜこんなに狭いの?」

 彼女はその想像もつかない味の液体を一気に飲み下す。

「今やほとんどの店には広い床面積がある。でも、こういうガチャガチャした空間が好きな連中もいるんだよ。密集主義とか、雑貨屋式とか言ってな」

 ナクサは鼻で返事をした。

 勇虎は勢いよくコップを置いた。ファンタが飛び散り、ドリンクバーに並んでいた高齢女性が肩をびくりとさせる。

 勇虎は二杯目を飲んでいたナクサの手を引いて、入り組んだ室内の一番奥の部屋に入った。ヘッドギアとキーボード、コントローラーがそれぞれ一つずつ、クッションが一つの、タバコ臭い独居房のような部屋に二人分の体を押し込める。

「これからどうするんだよ」

「わからない」

「わかれ。そして俺にもわかるように教えろ。人が、WBの外でテレポートするなんて、ありえねえだろ。他に何かトリックがあるはずだ」

「本当にそう思うの?」

 再びだ。少女の鋭い目が勇虎を射抜く。

「中東危機は知ってるわね。〈水源への道〉のイマーム執政で行き場を失った、二百万人の難民がどこへ行ったか知ってる? 世界中で毎年発生している、十万人近い経路不明失踪者が、どうなったか知ってる? みんな毎日『どこか』を目指している。でもその『どこか』が、『形ある場所』とは限らない」

「だけど、ニュースでは彼らは、徒歩で国境を越えてるか、国連の護送隊と一緒に、少しずつ移動してるって……」

 少女は呆れを通り越し、哀れむような表情を突きつける。

「そんなものは世界にある『移動』の一%以下よ。帝政や独裁国家は、WBの技術を国家で独占しているの。その結果どうなると思う? 少しは自分で考えなさいよ!」

 ナクサの叱責に、勇虎はたじろいだ。

「民間には、中途半端な知識しか出回らない。だから、生命の危機に晒された彼らは、野晒しのテレポートを行うの。不完全な古典テレポートをね」

 頭では理解できたが、勇虎の心はそれを聞き入れることを拒絶した。

「そんなのは自殺行為だ」

「そう。死ぬ。彼らにとっては死さえ、暗雲の中に輝く目的地の一つ! 救われるために仕方なくそうするの。だってテレポートは全人類の『希望』なのだから!」

 漫画喫茶は冷房が効いていて、黒いマットは冷やした餅のような感触だった。頭上ではファンが絶えず回り、周りからは足音一つ聞こえない。

 ここは日本。第二次世界大戦終戦以来一世紀半、戦争をしていない国。店にバッグを忘れてきても、電話すればちゃんと戻ってくるような場所。道路がなくなり、無玄関住居が増え、元々高かった治安レベルはさらに向上した……はずだ。

 勇虎は突如、もしかしたらこのまま何も起こらないのではないか、という想像に支配された。

 お前を置いて逃げたら、なんとかなるかな。

 口に出そうとして後悔する。ジョルダンはこの少女が保険をかけたのだと言った。つまりそういうことだ。勇虎に身の上を洗いざらい話すことで、彼女の逃走に引きずり込んだ。

 あの夜、あの場所で、ダストボックスを開けさえしなければ。

 無意味な想像を追い出せ。回顧しても意味がない。紅い目をした少女はもう、勇虎と一蓮托生なのだ。

「そもそもどうして俺たちは見つかった?」

「わからない。奥義者の力は、当人でないと説明できないものだから」

 ナクサがヘッドギアの置かれたローデスクにもたれかかり、頭を抱えた。その時だった。巨大な風船を割ったような、何かが爆(は)ぜる音が耳に入る。

「おっと失礼」

 身を隠す二人の呼吸が同時に止まる。

「いかに奥義者といえど、全てを知るわけではない」声は得意げに、誰にともなく話し始めた。「五感と記憶で捉えられる範囲のみが、射程。故にこのゲームは衆人の目に留まることより、入り組んだ複雑な場所に逃げる方が得策」

 男の声は明らかに、誰かに聞かせるような大きさになった。そして足音が止まる。

「飲みかけのオレンジジュースと、スティックシュガー八袋。ナクサ・クータスタ・アーナンダ。こういうところがあなたの甘さだ」

 また足音が動き始める。勇虎は壁に背中をつけて息を殺した。音はどんどん大きくなる。その時は来た。ダブルルームのドアの隙間から黒のブーツが見えると、ドアがわずかに揺れる。

 直後、ドア下からギョロリと翡翠色の瞳が覗いた。

 勇虎はドアを蹴り開けた。何のプランもない、とっさの行動だった。そこへナクサが飛び出した。

「来ないで」

 その一瞬で、ナクサはそれらしい何かを考え出さねばならなかった。脳裏に浮かんだのは、勇虎の教えた構え……。食べ物に宿る魂への敬意の印。ナクサの両手が、胸の前でピタリと合わされる。

「私から離れないと、この場一帯を大西洋にそのまま移す」

「それがあなたの禅那(ぜんな)の構えか。構えは人それぞれとは思うが、合掌とはちょっとありきたりすぎないかな」

 ジョルダンは顎を擦りながら言った。

「本部に戻ってキングに伝えて。私は坐標(アートマン)を持ったと!」

「見たところあなたには、良き旦那もいないようだが」

 そう言ってジョルダンは、自らの胸元から鎖骨にかけてを丁寧になぞった。

「嘘はいけないよ」

 彼らの会話を、勇虎はほとんど聞いていなかった。掌で両耳を塞ぎ、目をじっと閉じていた。心音が掌底に伝わり、それが鼓膜を揺すって他の音を寄せつけない。もうどうでもいい。何が起こっても構わない。まぶたの裏の暗闇に閉じこもる勇虎へ、ジョルダンが一歩足を進める。縋りつくナクサを手で押し除け、ブーツがマットレスにギュルリと沈み込む。

「おい」

 その声は指の隙間から勇虎の耳に入った。ふと、頭を上げる。男が立っている。

 海鳥が鳴くような、小さな銃声だった。弾丸は勇虎の左足の腿を穿(うが)った。

 まるで花火の音が光に遅れてくるように、撃たれたという認識に痛みが追いつく。

 絶叫。

 それはヘッドギアに没入する他室の客全員を、ゲームの世界から引きずり出した。

「ううっ、ううっ……」

 勇虎はマットに伏した。両手で必死に押さえる左腿は煮えたぎるほど熱く、コットンパンツに開いた穴から噴き出した血が、両手にべったりとついた。殺し屋でも医者でも誰でもいいから、一刻も早く意識を奪って欲しい。

「撃たれてみると分かるだろう。ゲームのやり過ぎで麻痺しているかもしれないが、撃たれるというのは並大抵じゃない」

「ぐうっ……うっ」

「なぜ頭を撃たなかったのかわかるか。僕の憂さ晴らしもある。でも貴方に一つだけ訊きたいことができてね」

 勇虎は、呼吸を整えようと努めた。痛みを体の外に排出しようと試みた。しかしすべての努力は徒労だった。

「貴方はテレポートで人を膨殺したな。それはいい。ただその後、一度でもテレポートに成功したことはある? 貴方はもしかして、クウを見たことがある?」

 ジョルダンは身をかがめて、勇虎の体に長い影を作った。

「ふた、つ……」

 蚊の飛翔のような声だった。ジョルダンは耳をすませた。

「二つ訊きやがって、この、まぬけ野郎」

 ジョルダンの銃を握り込む音を、勇虎の薄れゆく意識は捉えていた。彼が死を運んでくる。でも怖くなかった。死は、むしろ痛みからの解放だった。あとほんのわずかな間、待てばいいだけだった。空前の痛みは、心と肉体を切り離した。そして勇虎はナクサの存在を意識に留め置きながら、最も安全な場所を逃避地に選んだ。それは心の殻の中だった。

 思い描いたのは、完全に自由な場所。

 幼少に見た、無限に広がる瀬戸内海の青空。

     7

「消滅しました」

 国土交通省長官の遠崎(とおさき)隔蔵(かくぞう)は、執務室で一本の電話を受けた。公安局交通管制室からのホットライン。受話器の向こう側で管制官の女性が、ぽつりとそう囁いた。

「なんだって?」

「ですから、監視対象が消滅を……」

 管制室では、日本国内の全監視カメラと全WBレコーダーの連動記録、通称〈N2システム〉がAIの分類フィルターにかけられていた。歩荷(ボッカ)を脅してテレポートをさせた時点で新宿の監視カメラは勇虎をマークしていたが、その足跡が今、漫画喫茶の一室で忽然と途絶えたのである。

「馬鹿を言うな。録画ストレージが切れただけだろう」

「ご確認になりますか?」

 デスクに格納されたモニターへ、すぐに映像が送られてくる。高解像度処置を施された後だったので、その瞬間がはっきりと見えた。黒ずくめの男が銃を握っている。しかし遠崎にはそういった一般的犯罪はどうでもよかった。

「なんてこった。〈脱輪〉だ」

「なんですかそれ」

「特例措置により君の権限を引き上げる。以降の会話は守秘義務が発生する。隔離室に移動して、音声署名したまえ」

 管制官は戸惑いながらも、その指示に従った。

「お、音声署名。三浦朋花(とも か)、人基番号8290300299920」

 組織の人事一覧上で、三浦朋花の個人情報に音声署名データが紐づけされる。手続きを見届けるが早いか、遠崎は話を進めた。

「〈脱輪〉は、この社会にあってはならないものだ。WBを用いないテレポート。公になれば、テレポートの安全神話が崩壊する。社会の崩壊だ。脱輪現象は国中では年一回程度の頻度で起こる。だが地球に戻ってこれた人間は未だかつていない」

「じゃあ、戻ってきた場合は……」

「すぐに教えなさい。それ以上のことは、君の権限では話せない」

 通話を切り、チェアに全身を預けてため息をつくと、遠崎は移動警察総監へダイヤルした。

     8 

 気がつくと、全身が何かに包まれたような感覚があった。目を開くことができず、耳元で絶えず轟音が鳴っている。次第に、体の芯から脱水するような壮絶な疲労感が湧き上がり、にわかに細い腕が伸びてきて勇虎の太腿を二、三発叩いた。

「──ッ」

 胃の中のものが全部空っぽになったような浮遊感。体が上下左右に不規則に回転し、衣服がバタバタとはためいている。細い腕は勇虎の首に巻きつき、体に絡みついた。

 そして耳元に、少女の犬歯が噛みついた。

「起きろッ!」

 痛みと声が、勇虎の精神に再び炎を灯した。

 そして認識する。落ちていた。深い霧のような雲を抜け、真っ逆さまに落ちていた。ここは空。衛星地図で見るような絵がそのまま下方に広がっている。

「なんだ! なんだ! なんだ!」

 落下の無重力感が全身を呑み、一時、これが死後の世界かと錯覚した。しかし左腿の鈍痛が彼を現実に引き戻す。

「イサトラ! あなた、すごいことをしたのよ」

 胸にしがみつくナクサが勇虎の耳元で叫んだ。彼もまた、ナクサの頭のそばで怒鳴った。

「ナクサ!? よかった、無事だった。あいつは」

「ジョルダンは置き去りよ。勇虎は私を連れて、逃げおおせた!」

「そんなことありえない! どうやって!」

「あなたの力よ!」

 言われた意味が、わからなかった。勇虎は、突風に引き剥がされそうになるナクサの肩を掴んで抱き寄せると、お前がやったんだろ、と訊いた。

「違うわ。私のはブラフだった。あなたがあなた自身と私を、ここまで運んだ。雲を越えた場所、海抜四千メートル以上に──!」

 明るい方を、太陽がある方を見た。ついさっき突き抜けてきた雲の穴が、今もなおどんどん小さくなっていく。背中に受ける膨大な風圧は確かに彼が虚空にテレポートしたことを示していた。

 テレポート……。それは勇虎にとって、さっきまでは耳にするのも嫌だった言葉だ。しかし今、勇虎の腕には、大空が抱かれていた。頭上には無限の自由が広がっていて、それは彼自身の手で掴み取った何らかの活路に他ならなかった。

「テレポート、できたのか……? この俺が……」

 ナクサの背中を抱く自分の手が、太腿の血で真っ赤に染まっている。不思議な感覚だった。頭の中では、鮮烈な赤はあの事故と重なる。あのとき刻まれた、人間は物質にすぎないという確かな感覚。その生命に対する幻滅が、自分からテレポートを奪ったはずだった。

 ところが今、耳元に響く轟音は、何もないと思っていた空に空気という物質が満ちていることを雄弁に語っている。そしてこの肉体が、どこまでも物質の集まりだということが、自分の内から溢れる血液の赤によって実感できる。

「清々しい!」

 そう天に向け声を放つ勇虎の胸にしがみついていたナクサは、細めた瞳で大地を見やった。四千メートルのスカイダイビングの自由落下時間は約六十秒だ。

 自由落下の速度はいずれ弾丸に並ぶ。仮に今、古典テレポートによって地面すれすれの空間に翔んだとしても、すでに体が帯びてしまった速度を、殺す術はない。すなわち地表に全身が叩きつけられることは、どうやっても、避けられない。

 勇虎は仰向けの体の首だけを捻って、きらめく大地を指さした。

「あれ、あの赤いの、富士山だ」

 イメージしたのは幼少に見た瀬戸内海の空のはずだった。だが、赤富士の奥に海が見えることから、ここはおそらく山梨県上空。

 だが思えば山陽の空と関東の空にどんな違いがあるのか。

 勇虎が腕に力を込め、ナクサの小さな背中に圧をかけた。

「よく空間演出しただろう。たまには、生で観るのもいいなあ。──最後にしちゃ、いい眺めだと思うんだ」

 ナクサは感じていた。鎖骨のあたりから体内に染み込んでくる、勇虎の加速する鼓動を。このまま地面に激突して死ぬのなら、確かに一人では嫌だ。本能で感じる孤独への闘志。ナクサもまた、勇虎の背中に手を回した。

 それは物言わぬ共闘だった。死の恐怖に抗うために、二人はお互いを必要とした。

 世界遺産を観ながら落ちていく。

 これは一つの贅沢に違いない。

「旦那(ダンナ)……」

 意思とは裏腹に、喉の奥から這い上がった言葉。

「ブラフを現実にする修行。『半分を分かつ』という意味。〈旦那〉はね、自分の〈坐標(アートマン)〉を決めるのにとても重要なの」

 もう難しいことはいいじゃないか、と勇虎がささやく。

「命を分け与える存在が、自分の領域を確かなものにする。奥義者はそうやって、古典テレポートを完成させてきた」

 勇虎の言う通りだ。もう難しいことはいいじゃないか。

 ナクサは対蹠者、星の姿を識(し)る者。

 ペネトレーターとしての力の代償に、地球から放り出されそうな絶望的浮遊感を生涯感じてきたナクサにとって、重力に引かれて死ぬのは本望。

 そのはずだった──だが勇虎と抱き合うこのひととき、絶望的な浮遊感が消えていることに、ナクサは気づく。

 自身の正確な体内時計に照らせば、地面まであと二十秒とない。

 脳が秒読みを始めるのと同時に、ナクサは腕を離して、両手を合わせた。勇虎の唖然とした表情と空に這う両手。その間も禅那の姿勢は、彼女の精神の輪郭を世界に刻み続けた。

 方法は、ある。

 体が溜め込んだ加速度を打ち消すための、たった一つの方法。キングなら易々とやってのけるだろう。──頼るな。生きるには、今ここにあるものだけでやるしかない。

 ナクサはその瞳に再び生命の炎を灯した。

「私だってやれる!」

 自分を鼓舞するように叫ぶ。ほとんど同時に、巨大物体が耳元を掠める。ベッドタウンの摩天楼だった。窓枠から一室一室の生活模様が、スローモーションでつぶさに目に入る。

 私は対蹠者(ペネトレーター)。私はここにいる。

 ナクサは心の中に声を結ぶ。そして、

 太陽が消えた。

 体が空に向かって打ち上がっていく。見えないロケットに乗っているような、不思議な感覚だった。うつ伏せの勇虎の腹側に、ナクサがひっつくような体勢。重力は確かにかかっているが、トランポリンで地面からはね飛ばされた時よりも、遥かに大きな力で、上空へと飛び上がっていく。

 もしもここが死後の世界でないとするなら、ナクサはこの場所をほぼ正確に知ることができた。ここは南大西洋上、ウルグアイ海岸線より千キロ地点。

「成功、成功だ、成功した!」

 ナクサたちの体が空に昇るのは、それまで日本側で起こっていた落下運動が、地球を貫通したことで上昇する推力に転じたためである。体は海抜〇メートルからどんどん離れていく。ナクサは膨出した瞬間からの時間を、頭の中で計らねばならなかった。

 十九を数えて、上昇する体はジェットコースターが頂点に達したようにピタリと動きを止める。地球の反対側でかかった重力同士が釣りあったのだ。

 ナクサは再び合掌を作った。目的地として記憶されているのは、数秒前に見た富士山の景色。しかし上空ではダメだ。ビルに落下するような場所でもダメ。ほんの少しの迷いの間に、体は落下を始めてしまう。焦燥に駆られたナクサは、勇虎の家で見てきた空間演出のことを思い出す。

 あれは確か、輝く東京湾の海面。写真や立体映像は目的地の認識としては不十分だが、先ほど見た景観と合わせれば──。

 ナクサは再び、眉間の奥に力を込める(ノックする)。

 次に目を開くと、紺碧の海が広がっていた。ナクサは束の間、勇虎と顔を見合わせる。

 そして二人は衝撃に備えて、お互いの体を強く抱きしめた。

                     (以下、本書79pに続く)


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!