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特集『IQ』②遅咲き日系人作家が生み出した、ロス黒人街の「ホームズ」――【文庫解説特別公開】

好評発売中のミステリ、ジョー・イデ『IQ』から書評家・エッセイストの渡辺由佳里氏による解説を特別掲載いたします。

遅咲き日系人作家が生み出した、ロス黒人街の「ホームズ」
      エッセイスト・書評家 渡辺由佳里  

 私が『IQ』の作者ジョー・イデと出会ったのは二〇一六年五月にシカゴで開催されたブックエキスポ・アメリカの会場だった。日系アメリカ人の新人作家ということで興味をいだいて会話を交わし、ゲラ版の本を受け取った。
 読みはじめてすぐ、予想していた内容とまったく異なることに驚いた。アジア系アメリカ人作家の作品は、中国系二世のエイミー・タンのベストセラー小説『ジョイ・ラック・クラブ』のように「移民体験」を描いたものが多い。だから無意識のうちに「日系人体験」を描いた小説を期待していたのである。ところが、舞台は犯罪多発地帯として知られるサウス・セントラル地区からロングビーチ市にかけてのロサンゼルス大都市圏南部で、しかも主人公は黒人の青年なのだ。

 主人公のアイゼイア・クィンターベイは、彼が暮らす黒人コミュニティでは「IQ」というニックネームで知られている。名前のイニシャルであるI. Qが示すようにIQが並外れて高く、シャーロック・ホームズのように謎を解き、難問を解決する。
 シャーロック・ホームズもそうだが、この小説の最大の魅力はアイゼイアの複雑なキャラクターだ。常に冷静で感情を表に出さず、他人と心理的な距離を持つアイゼイアだが、コミュニティの隣人から助けを求められたら厄介な仕事でも応じる。しかも報酬が目当てではない。払える者が払える範囲でいいというスタンスだ。それは過去の自分の罪を償うのが目的なのだが、その謎がシリーズ第一巻のこの作品で次第に明らかになる。
 アイゼイアは、ある事情から世話をしてる身体障害者の少年フラーコのために大金が必要となり、腐れ縁のビジネスマンであるドッドソンの口利きで仕事を紹介してもらう。
 クライアントは、スランプに陥っている有名ラップ・ミュージシャンのカルだ。数日前、自宅に侵入してきた巨大な犬に激しい襲撃を受けたのだという。カルは前妻が自分の命を狙っていると主張し、アイゼイアに依頼してきたのだ。一方でカルの部下やプロデューサーは単なる怨恨絡みだろうと考えて犯人捜しに消極的であり、適当に事件を決着させてカルが仕事に復帰することを望んでいた。アイゼイアはわずかな手がかりから犬の襲撃がプロの殺し屋が関わった計画的な犯行であることを見抜き、ドッドソンとともに捜査に乗り出していく。

 全体的には映画を観ているようなアクションとスピーディな展開だが、過去の回想では文芸小説のような哀愁が漂う。また、主人公IQのハードボイルドなストイックさと、ロングビーチ出身のミュージシャンによってつくられたギャングスタラップを思わせるスラングの数々が印象的なコントラストになっている。これらの対比する組み合わせが絶妙な味を創り出し、読者はふだん入り込めない世界へのバックステージパスをもらったような気分になる。
 また、この小説は、アメリカ人ですらほとんど知らないロサンゼルス南部の黒人とヒスパニック系ギャングの間の抗争についても光を当てている。アメリカの産業の変化とグローバル化で労働者階級から中産階級への道が閉ざされるようになり、職がない都市部では、若者が手っ取り早い就職先としてギャングを選ぶ。当然のように縄張り争いが起こり、黒人やヒスパニック系という「人種」が対立グループのアイデンティティになる。白人によるマイノリティへの人種差別はよく知られているが、マイノリティ同志も人種差別をする。それがアメリカの現実であり、哀しい人間の性なのだ。イデのスリラーは、その残酷な現実から目を背けていない。本書に登場するロングビーチのギャングたちも、モデルとなった組織が現実に数多く存在する。 
 この作品が二〇一七年にアメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)最優秀長篇賞にノミネートされたとき、「やはり!」と納得したのは、初めて読んだときにそれだけの価値がある作品だと思ったからだ。その後本書はアンソニー賞、シェイマス賞、マカヴィティ賞など、数々のミステリ文学賞の新人部門を総なめにして絶賛を浴びた。

 それにしても、日系人のイデが黒人コミュニティを題材に選んだのは不思議だった。そこで、その疑問点について、著者に直接尋ねてみた。
 イデの両親はどちらも日系アメリカ人だが、育ったのは犯罪が多いことで知られるロサンゼルスのサウス・セントラル地区だという。イデは、自分の故郷を、親しみを込めて「ザ・フッド(低所得者が多い黒人街の通称)」と呼ぶ。
 二世や三世の日系アメリカ人からは、親から「一生懸命勉強して医者になれ」とか「ベストな大学に行け」といったプレッシャーを与えられたと聞くが、イデの両親はそうではなかったという。「(政府が設定した)貧困ラインは、見上げないと見えない」と冗談を言うほど貧しかったイデの両親は、どちらも長時間労働で、4人の息子の教育に立ち入る時間もエネルギーもなかった。「自分たちで勝手に育ったようなもの」とイデは言う。
 イデの友だちはほとんどが黒人で、仲間として受け入れてもらうために、彼らの話し方、スタイル、態度を真似した。羨望もあった。家族が貧しくてお下がりしか着られないのは自分と同じなのに、黒人の友だちの着こなしは、なぜかクールだった。イデ少年を魅了したのは、スタイルだけではない。ヒップホップのようなストリートの言葉もだ。リズム、構文、言葉の選択、抑揚、限りなくクリエイティブなスラング……。そのすべてがイデ少年には詩的に感じた。彼らの真似をして溶け込むことで、内気だったイデ少年は、タフなフッドで勇敢に生きることができたという。「偶然に日本人に生まれた黒人として完璧に通用はしませんでしたが、子ども時代のこのバージョンの自分をずっとありがたく思っているんです」とイデは振り返る。
 だからこそ、この小説には、黒人コミュニティやロスの音楽シーンの内情を知っている人にしか書けないようなリアリティがある。それには、少年時代の体験もさることながら、イデの経歴が役立っていることがわかる。
 イデは、大学卒業後に小学校の教師になったものの、子どもが苦手だということに気付いて退職。大学院を終えて、大学で教えたが、それも中断。その後、ビジネスコンサルタント、企業の中堅管理職、虐待を受けた女性を援助するNGOの運営など職を転々とした。その間、文章を書くことの夢は捨てきれなかった。そこで、あるとき決意して安い賃金の仕事をやりながら脚本を書き始めた。その間に就いた仕事は、アパートの管理、従業員全員がトランス・ジェンダーの電話代行サービス業、後に詐欺師だとわかったフランス人実業家のアシスタントなどだった。
 努力が実って脚本家になった後も、自分が書きたいことを書かせてもらえない葛藤などもあり、五十代後半になって思い切って書いたのがこの処女小説『IQ』なのだ。
 出版界にまったくコネがない無名の新人の作品だったが、本書は米《ニューヨーク・タイムズ》や《ワシントン・ポスト》、英《ガーディアン》などメジャー紙の書評で高評を得、ベストセラーリストに入り、数々のミステリ文学賞の新人部門を総なめにした。「自費出版で車のトランクに積んで売り歩くことだけは避けたい」と祈っていたイデにとって、この成功はショックですらあった。「家族のために作った料理が(料理のアカデミー賞と言われる)ジェームズ・ビアード賞を取ったような感じ」と彼は言う。
 では、黒人の若者である主人公のIQは、どこから生まれたのだろうか?
 少年時代のイデの愛読書は、コナン・ドイルの〈シャーロック・ホームズ〉シリーズだった。十二歳になるまでに、短篇をすべて読了し、何度も読み返したという。ホームズは、イデ少年のようにはみ出し者だった。タフガイではないのに、知性のパワーだけで敵を倒し、自分が住む世界をコントロールするホームズに、イデ少年は憧れた。彼が育ったサウス・セントラル地区は、「学校への通学路が命を脅かすほど危険な地域」だったので、彼にとって、知性のパワーを武器にするホームズがすごく魅力的に感じたのだ。
「私の生い立ちと愛読書。これらの要素のすべてが自然に繋がり、『フッドのシャーロック・ホームズ』が誕生したのです」とイデは説明する。 実際にアイゼイアとドッドソンのバディはホームズとワトスンのコンビの現代的な変形であるし、謎の犬にまつわる奇妙な事件は『バスカヴィル家の犬』を思わせるなど、『IQ』には随所にコナン・ドイルの影響が見られる。

 だが、アメリカの人種問題は取り扱いが難しい。アジア系コメディアンがアジア系を揶揄したり、黒人が黒人への蔑称を使ったりすることは許されるが、ほかの人種がそれをするのはご法度だ。そんなアメリカで、アジア系アメリカ人作家が、黒人社会の小説を書いたことに抵抗を覚える人はいなかったのだろうか?
 そんな筆者の質問に対してイデは、「驚いたことに、アフリカン・アメリカンのコミュニティからは、まったくネガティブな反応はありませんでした。好意的に受け止められており、とてもうれしく思っています」と答えた。黒人女性だけの読書会でも課題図書に選ばれ、ゲストとして参加したりもしている。
 五十八歳で作家デビューしたイデは「遅咲き」と言える。そして、一つの職業で「成功」した人でもない。黒人の友だちを羨望して真似したけれども、黒人になれたわけではない。自分を取り囲む世界への憧れと心理的な距離感を持って生きてきたことは想像に難くない。でも、そういう生き方をしてきたからこそ、まれな観察眼が鍛えられたにちがいない。『IQ』は、そんなイデだからこそ書くことができた作品であり、生み出すことができたクールな主人公だ。IQは、イデ少年がなりたかった黒人街のシャーロック・ホームズなのかもしれない。

**以下本篇読了後にお読みください**
 本書の事件は無事解決を迎えたものの、エピローグではマーカスを死にいたらしめた人物に関する手がかりがついに発見されるという、読者の期待を煽る終わり方となっている。二〇一七年に刊行された本書の続篇RIGHTEOUSでは兄の死の謎を再び追うアイゼイアと、ラスベガスでの新たな事件が描かれる。さらにシリーズ第三作WRECKEDも本国で今年十月に発売される予定だ。

 二〇一八年 五月

本noteでは『IQ』を特集中。今後の更新をどうぞお楽しみに!
【書誌情報】
タイトル:『IQ』
原題:IQ
著者:ジョー・イデ
訳者:熊谷千寿
本体価格 : 1,060円+税/発売中
ISBN : 9784151834516
レーベル名 : ハヤカワ・ミステリ文庫

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