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【小説冒頭60ページ無料公開!】芝村裕吏氏のSF長篇『統計外事態』刊行!

キレ者コンビがサイバー・テロリスト集団に挑む、
ノンストップ・サイバー統計アクションSF!

過疎の村で全裸の少女たちに遭遇した統計分析官の男は、ワケがわからぬうちに国家を揺るがすサイバー・テロの犯人に仕立て上げられた!

芝村裕吏氏のハヤカワ文庫JA書き下ろしSF作品『統計外事態』、刊行を記念して文庫冒頭60ページまで一挙公開!

統計外事態

カバーイラスト:POKImari

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世界が、まだ寂しかった頃の物語。


統計外事態

                            芝村裕吏

“CC、CC、CCクライシスコールだ。こちらマイティマウス。日本の危機だ。少なくとも島根県の危機だ。支援を求む。どうぞ”
“了解、マイティマウス。こちらキャットタワーワン。0420。現刻を以ってクライシスコールを受信、了承した。我が日本の弥栄のため、我が日本の醜の御楯となるため、直ちに危機管理対応に移る。既に官邸への連絡は行われた。事情を話したまえ、マイティマウス、どうぞ”
“了解、キャットタワーワン。こちらマイティマウス。話が早くて助かる。こちらはひどい惨状だ。乗り捨てられたゴムボートから見ておそらく五〇名前後の武装部隊が猪目海水浴場から上陸したと思われる。海水浴客七名を射殺。そのまま行方をくらませたようだ。こちらの位置情報と銃痕データは今送った。傷口から見て軍用銃なのは間違いない。キャットタワーワン、どうぞ”
“了解、マイティマウス。こちらキャットタワーワン。島根県猪目で発見された敵性武装部隊のコードはバンディットワンだ。衛星写真と銃痕は解析中、死後経過時間が知りたい。マイティマウス、どうぞ”
“了解、キャットタワーワン。こちらマイティマウス。こっちは一人で死体を判別する知識もないときている。休暇でたまたま見つけたんだ。武器は拳銃一丁だ。キャットタワーワン、どうぞ”
“了解、マイティマウス。こちらキャットタワーワン。良いニュースだ。今秘匿同通回線が確立された。了解とどうぞからおさらばだ”
MM:そいつはいいね。俺はどうすればいい?
CT1:君が仮面ライダーか何かでないのなら、ここで仕事は終わり、と言いたいが、三〇キロメートル圏内に我々の手駒は君だけだ。死体を見てくれ。フナムシとかカニとか、たかってないか。昆虫でもいい。それらで死後の経過時間が分かる。
MM:経過時間が分かる。それは素敵なことだ。ぞっとしないが。
CT1:統計の勝利だ。遅ればせながら死体農場を作ったかいがあったというものだ。
MM:まあ、統計データを取るってことは“そういう”ことだよな。死体を野外に置いて観察して……
CT1:豚だけどね。
MM:それを聞いて安心した。フナムシが集まっちゃいる。写真で送る。指紋はいるか。
CT1:指紋があればすぐに身元を照会できるが、顔写真でも大丈夫だ……画像を受信した。目玉が残ってて死体損壊が少ない。死後七〇分以内確実。逆算すると夜明け前に事件は起きているな。
MM:こちらは曇天。太陽はまだ出ていない。気温は一二度。弱い風が海から来ている。ところで隠れてやり過ごすんじゃなくて、なんで殺したんだろうな。いや、死体の中には女の姿がない。連れ去られたのかも。
CT1:データ入力はした。推理はしないでいい。そんなものはドラマの登場人物に任せておけ。現代に推理はいらない。統計で十分だ。今回のクライシスも十分統計内にある。心配はいらない。
MM:んじゃ、尋ねるがね、お偉い統計さんはどう見てるんだ。人質、それも貴重な若い女性がいるとなると、対応は根本から変わると思うが。
CT1:心配しないでいい。統計的には偶発的事故である可能性が一番高い。
MM:どんな事故だよ。
CT1:さあ? ともあれ、最初から計画していた戦闘ではないと統計は言っている。諸要素の分布から見て、どこかの国による軍事攻撃である可能性もないようだ。
MM:犯罪でこんな規模の殺害が起きるのか?
CT1:国による。ロシアの組織犯罪では例がある。中国では国民監視体制が整っている関係で、ない。我が国は国民性の問題だろうが、ない。
MM:極東にロシア人なんてまだいるのか。
CT1:話の途中ですまないが良いニュースだ。武装無人機を四機そちらに派遣したそうだ。到着は二〇分後。悪いニュースもある。統計的に見て敵は大して移動できていないかもしれない。
MM:近くに敵がいるってことか。
CT1:おそらく。上陸してきたバンディットワンは自動車を用意していない。だからこそ、武力行使に踏み切った。
MM:素知らぬ顔で逃げられなかった訳だな。それより航空機型ドローンってことは爆装しているということだよな。それなら一対五〇でもなんとかなるか。いや、バンディットワンもエアストライクは予想しているかな。
CT1:移動手段が徒歩に限られて殺害から七〇分以内。統計だと移動距離は半径七キロメートルの円に収まる。本邦には例がないが北朝鮮による上陸戦が行われた韓国のケースでは一〇〇〇メートル以内というところだな。
MM:敵が狙撃できる距離にいるって!?
CT1:マイティマウス。あわてて隠れない方がいい。統計上バンディットワンが君を監視している可能性は極低いが、もし監視しているなら君の動作は敵に情報を与えることになる。
MM:統計はもういいから俺の心配をしてくれ。
CT1:それはこっちの給料の範囲外だ。時刻と地形の補正を入れて再予想を入れた。統計では敵の移動距離は最大で二五〇〇メートル程度だ。ドローン対策として、隠蔽地形に隠れつつ移動していると推定される。
MM:海を背にして右側に山が見える。上から隠れるならあそこの木々かな。あと砂浜上がったところが空き家だらけだ。昔は集落があったんだろう。
CT1:二〇二〇年と比較して自治体の数は一八〇〇から七〇〇まで減っているからね。しかし、今回は空き家を心配しないでもいい。山一択だ。
MM:それもお得意の統計かい?
CT1:そうとも、お得意の統計だ。単なる雑多なデータではない。高度な統計処理を施してテストも合格した最高のデータから導き出された統計分析だ。統計は確率とあわせて人類が手にした最強の学問だよ。建物は無視していい。山の衛星写真から統計的に敵がいそうな場所を解析する。
MM:なんでバンディットワンは建物にいないんだ。
CT1:統計は理由を詮索しない。それは別の学問の仕事だ。
MM:人間は理由を知りたがるものだ。俺は今、非常に理由が知りたい。主に俺の安心と安全のために。
CT1:それはこっちの給料の範囲外だ。
MM:人でなし野郎。おっと失礼。
CT1:聞かなかったことにしてあげるよ。マイティマウス。神社が見えるかい。
MM:山の方に鳥居が見える。
CT1:おそらくそのルートで山に入ったと思われる。
MM:見てこいとか言わないよな。
CT1:エージェント一人を育てるお金からすると交換は統計的に割に合わない。とはいえ、警察部隊では対応できない可能性が高い。昔なら法治国家として裁判をさせるために警官部隊を出してまあ、省庁間のすったもんだのあげく数名の殉職のあと陸上自衛隊を出してさらに一、二名の殉職を出したと思うけれど。
MM:現代なら?
CT1:我が国にそういう人的リソースを差し出す余裕はもうない。
MM:こちらマイティマウス。航空機の通過音。爆弾が爆発する音は聞こえるか? ひどいもんだ。ほんとにバンディットワンはいるんだろうな。鳥居も神社も吹き飛んでる。
CT1:統計的にはバンディットワンがいるのは間違いない。これで事件は終わりだ。確認は警察がしてくれるよ。法的な言い訳についてはAIが仕事をする。
MM:俺は何をすればいい?
CT1:ありがとうマイティマウス。クライシスは退けられた。休暇を続けてくれ。
MM:今日一日で統計が嫌いになりそうだ。くそったれ。後味が悪すぎるぞ。何も分かってないし、敵もいない。神社におばあちゃんとかいたらどうするんだ。
CT1:統計的にそれはない。それと君の気持ちはこっちの給料の範囲外だ。交信を終了する。我が日本に弥栄あれ。


1

 人間は無意識のうちに、自分は統計の外にいると思ってしまうものらしい。統計を仕事で活用している僕ですら、そうだ。付き合って結婚まで七年は統計的に極少ない。つまり、破局する。そんなことすら頭の中では他人事、僕には関係ないと思っていた。仕事とプライベートは別と思っていたが、それが裏目に出た。いや、それも違うな。単にうかつ、というだけだ。人間は、都合の良いことばかりを信じてしまう。
 二〇四一年。五月二〇日。〇八二〇。つまり朝の八時半前。我が家。
 今、扉が勢いよく閉まった。少し見えた彼女の後ろ姿が、当たり前の話ながら僕も統計の中にいることを思い出させてくれた。
 心配したのか玄関先まで近づいてきた猫を抱き上げ、心配ないよと言った。分かったか分かってないのか喉を鳴らして指にまとわりついてくる。猫はいい。彼女より猫。当然の話ではあった。いくつものSF作品でも繰り返し熱く語られていることだ。その通りだ。猫最高。
 そもそもの話をすればこの猫とは一〇年の付き合いであった。統計的に珍しい一二月の雪で首都圏は大混乱、大宮からならまあなんとか歩いて帰れるかなと見知らぬ道をスマホの地図アプリ頼みで歩いていたら、にゃぁという声を聞いたのだった。
 運命の出会いであった。茶虎で毛が短い、目つきの悪い猫。この猫の前に猫はなく、この猫の後に猫はない。それゆえ僕はこの猫に猫という名前をつけた。僕にとって、猫とはこの猫だ。これが全てだ。一瞬にしてそう言い切れるくらいの出会いだった。一目惚れだった。
 これと比べると今出て行った彼女との出会いはさほど劇的でもない。前職である情報セキュリティ企業の取引先の相手だった。それだけ。
 僕はそう言って自分を慰めると、冷蔵庫からペットボトルの牛乳を取り出した。お腹が痛くならないやつで、猫にもいいが僕にもいい。皿に注いで、猫の前へ差し出す。勝手に飲み始めるのは猫だから仕方ない。いや、そこがいい。僕はコップに牛乳を注いで飲むと、口を半開きにしてこの七年が無駄だったという気持ちと闘った。
 彼女に逃げられた。そう。彼女に逃げられた。いや、決裂してしまった。
 何故か。結婚しましょう。まあ、それはよかった。僕もそうだなと思っていたから。その次がよくなかった。彼女は猫と蟻を処分してねと嬉しそうに言った。で、キレた。あ、キレたのは僕だ。後悔はない。
 僕は暗幕をかけた蓋付きの水槽を見る。水槽といっても入っているのは水ではない。土と砂だ。そこで蟻を飼って、たまに巣の様子を眺める。
 猫が癒しなら、蟻は師だ。僕にとって大事なことは大体蟻が教えてくれた。まあ、愛想がないので猫もいるわけだが。
 それにしても蟻はともかく猫を捨てろはないだろ。腹が立つ。
 一〇年の付き合いは七年の付き合いに勝る。計算以前の問題だ。この件については統計も関係ない。
 にもかかわらず、猫が顔を洗っている横で僕はダメージを受けている。なんでだろう。ああそうか。あの女と付き合った時間が無駄だと分かったのでダメージを受けたのか。そうか。これはこれで人間としてどうかと思うが、正直な気持ちだ。
 なんということか。僕は自分で思っているより嫌なやつだったらしい。そのことに一番ダメージを受けているのが嫌だ。
 まあ、ともあれ、おきてしまったのは仕方ない。猫に勝るものはなし。ついでに言えば、何度でも同じ選択ができる自信があった。
 世間一般がどう思うかはこの際遠くに放り投げ、僕は気分を入れ替えることにした。猫を抱き上げようとしたら逃げられた。猫はこれだからいけない。まあ、結婚をダシに猫捨てろとか言う奴よりマシだよ。きっとそうだ。
 この上はなんとしても幸せになるしかない。しかし幸せとはなんだろうか。
 自分が統計の中にいるのは痛感したし、僕は諦めて資料を調べることにした。月の家賃が七万五〇〇〇円の我が家はワンルームで、仕事場は顔をあげればすぐそこに見ることができた。
 四つん這いで職場まで通勤。僕は猫の関係で在宅勤務の仕事をしていた。スマホを大型モニターに繋げてから統計データを取り出す。日本での幸せよりも、世界の平均的な幸せを追求すべきだろう。データクロールを行って幸せな人の条件をはじき出した。
 通勤時間二〇分。これはクリアだな。子供一人。子供はいないけどまあしょうがない。年収は一二万ドルが幸せの条件か。うん。足りてない。僕の年収は九二〇万円だった。それで労働時間は週三〇時間。うん。何言ってんだ世界。
 そりゃまあ幸せだろうなと僕は床に寝そべった。そりゃそうだ。そんな条件の仕事があるなら、僕もやりたい。そうか、まさに幸せとはそれか。人がうらやむものが幸せか。しかし、それは幸せなのかな。
 人間は無意識の内に、自分は統計の外にいると思ってしまうものらしい。おかげで、よく仕事でも罵倒される。それで統計を罵倒するならまだ分かるのだが、揃いも揃って文句を言う人は統計ではなくて僕に文句を言う。理不尽だ。
 そんな風に思う気持ちも統計の外にいたい気持ち、なのかな。ここまでくれば、統計という事実から目を逸らしているだけかもしれないけれど。まあ、僕もそうか。だとしたら、人間はつくづく統計という名前の剣から遠い存在になっている。
 ゾンビのように起き上がった。仕事で統計を多用している僕も私生活では正面から統計と向き合っているとは言いがたい。人間が賢くなるには随分と時間が掛かりそうだ。その前に少子化で滅亡しそうだけど。
 少子化、少子化に歯止めがかからない。我が日本でも、統計上一番多い人口層は女性の八〇歳以上だ。二〇歳までの若年層は人口の一〇パーセントもいない。さらにそれらが子孫を残しているかというと、そんなこともなかった。世界中でそうだ。日本では半分の市町村が消滅したが、韓国では九五パーセントの山村がなくなった。中国も内陸部はひどいと聞く。日中韓だけの話ではない。世界中がそうだ。ロシアは広大な領土を持っているが、今はもうヨーロッパ寄りの僅かな範囲にしかいない。人口も一億人を割ってしまっている。アフリカも今年から人口減少だ。二〇年前は移民制限を謳っていたアメリカも、今は大規模な移民招致キャンペーンをやっていてメキシコの植民地になりかけている。大きな戦争や世界的流行病の発生があったとはいえ、それらの人的被害よりずっと多い数が自然減になっている。割と人間終わっている感じだ。
 口の悪い人間は女性の高学歴化が問題だという。最高の避妊具は学歴だとの意見だ。すぐさまこんなひどい意見は社会から抹殺された。当然だろう。同様の意見として老人が生き残りすぎて社会負担がのしかかり若者が子供を作る余裕を失ったという説もある。これもひどい意見だ。これまた社会から抹殺された。社会が成熟しすぎて性的成熟と経済的精神的な成熟とにタイムギャップができて、それで出生率が下がったという説もあったな。これも人類全部バカになればいいのかと反論が巻き起こってそれきりになった。
 結果として二〇四一年現在、原因も分からず対応も特になく、人類は先細りになっている。我が国日本も、その一つだ。どうすりゃいいのか分からないまま人類は漂流している。
 それでも、僕は幸せになりたい。
 どうすればいいんだろう。考えるうちにモニター上にコールサインが点灯した。
 なんだ。なんだ。見ればCCだった。クライシスコール。危機が起きたことを知らせる表記だった。今日のシフトでは二回目。珍しいというか、なんというか。八年仕事していて初めてのケースだった。だいたい悪いことは夜に起きるものなんだけど。
“CC、CC、CCクライシスコールだ。こちらマイティマウス。日本の危機だ。少なくとも京都の危機だ。支援を求む。どうぞ”
 僕は画面を見る目を細めた。目を細めたのは楽しいからじゃない。またお前かという気分になったからだ。
“了解、マイティマウス。こちらキャットタワーワン。1002。現刻を以ってクライシスコールを受信、了承した。我が日本の弥栄のため、我が日本の醜の御楯となるため、直ちに危機管理対応に移る。既に官邸への連絡は行われた。事情を話したまえ、マイティマウス、どうぞ”
“了解、キャットタワーワン。こちらマイティマウス。またあんたか”
 そりゃこっちの台詞だよと思いつつ、自動で無線のメッセージを書き起こしたログを見る。無線は不便で誰が誰に話しているか、誰から返事を期待するのか、いちいち明示しないといけない。そもそも双方向同時に話すことができないのだった。なので、会話の頭には了解、終わりにはどうぞ、と入れないといけない。こんな旧態依然のものを何故使うかと言えば、我が国の情報技術が決定的な遅れを取っているせいで、インターネット回線での情報秘匿性は諸外国に制圧されているような現状だった。それで独自規格で通信の秘密を担保するという、なんとも残念な状況になってしまっている。
“いや、それどころじゃないな。キャットタワーワン、新幹線でハイジャック? いや列車ジャックが起きている。賊は七、八人かな。まったくついてない。どうぞ”
“了解、マイティマウス。こちらキャットタワーワン。そいつはまたハードな話だね。敵の武装や練度が分かるなら教えてほしい。どうぞ”
 マイティマウスの返事を待ちながら、僕は警察に全部の仕事をぶん投げてしまおうと資料を用意し始めた。随分と法規則運用が改正されたとはいえ、僕の職場は隠れ対応ならさておき、表だって動いていいところじゃない。そもそも新幹線はかつて列車内で殺人や焼身自殺とかが行われたあとも身元確認の制度などを整えてないので企業側の手落ちだ。安全にコストを掛けずに安全神話を盲信するなんて、統計無視もいいところ。まあ、いいんじゃないかな。不幸なことがいささか起きても。この悲劇を機会に企業や国民は、ぜひ学んで欲しい。
“了解、キャットタワーワン。こちらマイティマウス。敵は混乱している。何故儲からないとか意味不明なことを言って仲間割れまでしそうな勢いだ。武装は猟銃と日本刀に見える。どうぞ”
“了解、マイティマウス。こちらキャットタワーワン。警察に任せる。報告ありがとう”
“まて、向こうは人質を殺しそうな勢いだ。それでなくてもお互い撃ち合う可能性が高い。キャットタワーワン、キャットタワーワン、聞こえるか! 俺たちが日本を守らないでどうするんだ!”
“了解、マイティマウス。こちらキャットタワーワン。交信規則くらいは守ったがいいと思うけどね。あー。警察も日本を守っていると思うよ。どうぞ”
“今警察はいない。到着までに誰か死んだらどうするんだ。ええ? お得意の統計で死人は復活すんのか?”
“落ち着け、マイティマウス。統計は君の敵じゃないし、統計分析官……僕もそうだ。敵が八人として君が一人。拳銃持っているという報告のままとしても、一人を無力化するのに平均で二発。一六発の弾がいる。所持している拳銃が複列弾倉としても、弾は統計的に言って一四発。敵が防弾ジャケットを装備しているならなおさら弾がいる。しかも猟銃装備なら敵が反撃した際に周囲に致命的被害が出る可能性が高いうえに狭い空間だ。君は回避できない。警察が来ないと話にならない状況なんだよ。そもそも法的根拠がね……”
“そこを統計でどうにかしろって言ってるんだ”
“統計は魔法じゃない。しかし大声を出しているが今どこなんだ”
“トイレだ”
“何号車だろう”
“七号車。敵は八号車だ”
“グリーン席、というわけだ。こちらが気づかれてなくて自由に先手をとれるから、最悪、というほどの状況でもないか……”
“だからさっさと仕事しろ”
“統計は万能じゃないし、こういうのに対する統計データについて、僕はアクセス権がない”
“言い訳はいい!”
 来たよ、まだ生き残ってたのか無理矢理と書いて大和魂と呼ぶ日本人! それで戦争に負けたことを何故覚えてないんだ。
 反発心を覚えつつ、スマホを見る。彼女と見ようと思っていた映画のサイト画面を見てむなしい気分になる。いや、違う。使えるかも。
 僕はどこかの誰かがやっているファンが勝手に編纂したアクション映画のデータベースから列車での戦いのケースを検索した。
 なんか使えそう。
 あー。と呟きながらスマホ上で作業、データを表計算ソフトに移して展開をフィルタリングする。まともな統計処理をするのなら表計算ソフトなんて使うべきではないのだが、今回の場合、時間がない。データを流し見すると映画は莫大な数があって似たような展開がいくつも出てくる。解決する主人公の動きも一覧に出てくる。統計で駄目なデータを使用して分析かけても駄目な結果しかでないというけれど、このデータベースは中々良くできている気がする。映画だけど。
 三秒考え、僕は僕なりに最善を尽くしたと自分で納得した。
“マイティマウス。こちらキャットタワーワン。データの質が悪いが一応行動計画はできた”
“早く指示してくれ。敵が動きそうだ”
“敵がB級監督でもない限り仲間同士で殺し合いはしないだろう。距離を取ったり、別行動を取るはずだ。その時なら一人でも勝てるチャンスはある。トイレからの奇襲コミで半数倒せれば次のチャンスもある”
“それだ。よし”
 まあ、映画なんだけどね。僕は猫の背を撫でながら、今日は散々な日だと思った。厄日、だな。統計的には認められない存在だけど。思えばマイティマウス、彼もついてない。ま、大和魂でなんとかやってくれるでしょ。
“こちらマイティマウス。半数を倒した。続いての指示をくれ”
 猫が逃げるくらいに僕は狼狽した。映画の登場人物みたいな奴もいるものだ。凄いね現場は。
“すぐに残りが様子を見に来るはずだ”
 僕はそう言ってマイティマウス、彼の無事をほどよく祈った。しかし、警察、自衛隊、海保、税関以外の法執行機関が武器なんか使っていいのかな。まあ。僕は情報を提供しただけだ。うん。僕は悪くない。悪くないぞ。
“こちらマイティマウス。制圧した。どうすればいい?”
 そんなことすら考えてなかったのかと僕は猫に同意を求めるように目線を走らせた。猫は興味なさそうに尻尾をゆるやかに振っている。さすがは猫だな。動じてない。僕もかくありたい。
“了解、マイティマウス。こちらキャットタワーワン。警察に見つからないように逃げることをおすすめする。マイティマウス、どうぞ”
“了解、キャットタワーワン。こちらマイティマウス。ひどい話だ。どうぞ”
“君が警察に捕まっても政府はなんだかんだで助け出してはくれるだろう。……最終的には。それが半月後か半年後かは分からないが”
“すぐ脱出する”
“それがいい。それじゃあマイティマウス、もう会わないと思うが今日はホテルでおとなしくしていてくれ。僕は日に三度もクライシスコールを受けたくはない。現状は完全に統計外事態だ”
“キャットタワーワン、その言葉はクライシスに言ってくれ。交信を終わる”
 この件、報告書にどう書こうか。僕はうめき声のようなものを出すと、自分の幸せについて再度考えることにした。今日は幸せについて考えるには、ちょうど良い日だ。ひどいことばっかり起きるしね。
 そもそもこの仕事が良くないのかもしれない。国家安全保障関係なんて一昔前なら外注になんか絶対させなかったような仕事だ。身元調査とかはやってるだろうにせよ、ひどい話だ。
 しかも給料が微妙だ。こういう仕事なんだから、もう少し給料よくてもいいんじゃないかなあ。
 そもそも本業というか、分析業務だけではやっていけないからこうなった。うーん。仕事時間を週三〇時間にしつつ収入を上げる方法はなかろうか。
 二〇四〇年も越えてしまったこの時代。微妙とケチをつけつつも僕の収入は労働者としては悪い方ではなかった。つまりどういうことかといえば、転職による収入増加はほとんど見込めないというわけだ。いきなり結論が出た気がして、なんか暗い気分になってきたな。少子化による人類という種の先行きの暗さに加え、自分の人生の先が見えたような気分だ。実際世界経済も少子化のせいで見通しが暗い。経済成長と人口は関係ないという統計分析を出す人もいるが、それは日本の経済成長構造を無視して他国にはこういう例があるという暴論にしか過ぎなかった。年金も給与もインフラも、日本は長年にわたり年率一パーセントの人口増加を前提に各種のシステムを構築していたのだ。少子化から二〇年以上たった今もそれを転換できていないし、フランスのように古くから……二〇世紀初めから……少子化に悩んでいた国の経済成長も、他国の市場の人口増加をあてにしてのものだった。つまりまあなんだ。世界中が人口減少傾向にある今において、経済で上向いている国は、ない。
 それでも収入を上げるにはどうするか。
 上だ。上に、行くしかない。出世。といっても僕はフリーだった。よってこの道もない。仕事の多くが外注化しているのが今の日本、いや世界だ。スパイの管制業務まで外注ですよ。お察しください。
 やはり、仕事を増やすしかない? でもその先が労働時間の上昇なら、幸せから遠ざかることになる。そもそも僕はこれまで週に五〇時間くらい働いていた。しかも半分は夜勤だ。これ以上は増やしたくない。
 つまりにっちもさっちも行かない。残念だ。僕は幸せにはなれないのか。
 いや、そうでもないか。僕の手元には猫がいる。これを幸せと言わずしてなんと言おう。
 同意を求めて猫を見たら、猫は背中を向けて耳すらこっちに向けてくれなかった。いや、でも僕は幸せだよ。
 まあ結局のところ幸せなんて主観的なものだよな。うん。統計は重要だが、猫ほどではない。
 しかし、僕の主観はおいといて、統計的な意味での幸せはどうやれば手に入ったのだろうか。僕はどこで道を間違ったのだろうか。己の四〇年の人生を考えてしまった。
 思えば僕、数宝数成(すうほうかずなり)は大変めでたい名前を持って二〇〇一年に生まれた。出身は千葉だがご先祖は山口の生まれらしい。名字のいわれはよく分からないが、字面を見る限りは宝を数多く、下の名前もあわせて成功も数多く、というわけだ。名字に合わせて名前を付けた僕の祖父は大変めでたい気分だったろう。父親は反対したのかも知れないけれど、そのあたりはよく聞いてない。そんなこと、不満でもなければ家族に聞いて回ったりはしないよね。僕はそうだった。
 僕はどうかと言えば、祖父の考えとは異なるニュアンスで自分の名前を理解していた。数宝数成。つまり、数学は宝、数学で成功。それが僕の名前だと、中学くらいの頃は本気で信じていた。数学百点をまぐれで取ったせいだろう。ともあれ、あの頃の念の力とはたいしたもので、今でもちょっと、信じているところはある。
 それで、数学との付き合いが始まった。数学を勉強して成績が上がるにつれ、友人が減っていった。IQが一〇違うと会話が成立しなくなると言う人もいるが、僕は数学の点数についてこそ、成立すると思う。つまり数学の点数が一〇点違うと会話が成立しなくなる。僕は平均より三〇点くらい高かったので、大部分の人と話がかみ合わなくなった。
 そんなとき出会ったのが蟻、蜂グループだった。僕は中庭や校庭で行列を作って動いている彼らに親近感を持った。動きが実に数学的でもあった。
 人間から逃げるように僕は蟻に詳しくなった。数学のために人間から離れ、そのせいで蟻と親しくなるという話だ。
 蟻は偉大だった。奴隷制、女王制、労働階級に家畜。戦争にゴミ捨て場、シロアリを仲間に入れるのはなんだが、含めると農業まで、人間に先んじてやっている。人間は彼らと比較すれば遅れてきた種族だった。追い越せたのは文字やら口伝で世代間情報の蓄積ができたから、ただそれのみ。
 蟻に心酔していたせいで大学を選ぶときは、非常に悩んだ。つまり蟻の研究に行くか、数学の研究に行くかだ。
 そんなとき答えを教えてくれたのが蟻だった。そう、蟻は卵を別環境に移動させても蟻にしかならない。僕も同じだろうと思った。つまり僕は数学を選んだわけだ。蟻を人生の師と思いつつ。
 それで我が栄光の埼大、埼玉大学で理工学部数学科へ進み、そこでこう、毎日ノートに数式を書く楽しい生活を送って四年。ぱたりと、いや、はたと、就職先に困ることになった。数学は好きだったけど、直接数学で食べていける職はほぼ、いや、まったくなかった。世の中数字で溢れているのに、世間は数字から目を背(そむ)け続けていたのだ。僕は二二になるまで、世間が数字を苦手にしているというか、見ないようにしているとは、思ってもいなかった。まさかの盲点だった。
 数学と相性のいい勉強をそこから始めるには、少し遅すぎた。半年、いや一年早く気づいていたらもう少し別の人生もあったのかもしれないけれど、僕はその頃複素数の美しさにやられて毎日複素数について考えていた。まあ、あの幸せで今の状況というのなら、それで仕方ない。これまた主観の問題だ。僕の主観では、これが幸せであった。
 ともあれ、いや。つまり僕は何で自分の人生を振り返っているのだろう。ああ、そうかフラれたからか。まあ、それはよい。よくはないけど。
 僕は再度床に倒れて大の字になった。猫が胸の上に乗ってきてふみふみしている。なんて尊い。そう自分の猫イズナンバーワン。女は猫にも劣るが複素数にも劣る。
 寝転んだまま、今時の家にはない昭和レトロなちゃぶ台を見る。僕はそこにモニターを置いて、日々仕事していた。たまに猫が上に乗ろうとしてモニターを押し倒す以外は不満はない。
 そのモニターを、片目で見る。クライシスコールは、なし。マイティマウスはおとなしくホテルにいるか、警察に逮捕されたと思われる。
 そう、それで思い出したぞ。どこで道を間違えたか分析するためにこれまでの人生を思い出そうとしてたんだ。まあ結論としては、僕は間違っていなかったというか、変えようがなかった。なのだけれど。
 学生生活が終わって就職して、社会人になってからは、月並みというかさほど面白いキャリアではなかった。どうにか潜り込んだ場所は広義のIT企業、狭義の情報セキュリティ会社で、僕は暗号について考えたり、暗号を解いたりすることを考えるのを仕事にしていた。
 情報技術、ITを抜きにして現代は語れない。現代どころか、二一世紀は語れない。その基盤ともいえる技術の要(かなめ)が暗号だった。プライベートからお金の口座情報、国家機密に至るまで、それらの安全を担保するのが暗号の役目だった。
 量子コンピュータが実用化され、同時にスーパーコンピュータがいくつもアメリカや中国で運用されるようになると、計算力だけに頼る暗号は総当たりでも解けるようになり始めた。ここで大活躍するのが僕たち数学の専門家、というわけで僕に限らず数学科出身の情報セキュリティ企業採用例は多い。
 統計的に言えば、おさまるところにおさまったというわけだ。僕ぐらいの学歴でのモードというか最頻値な結果になった。
 それから五年。いつのまにか上司は全部入れ替わっていて、僕が部署を率いるなんてことになっていた。これもまあ統計的にはありうる話だったが、好き好んで人間より数字を相手にしていた僕にとっては、悪い冗談のような事態だった。もちろん僕が人を率いるなどできるわけもない。それで会社を辞めたら、出入りのあった官公庁のひとつで統廃合で新たに作られた「安全調査庁」というところが僕を統計分析官として雇ってくれた。在宅勤務なので在宅統計分析官だ。それが二〇三二年の話。それからどうにかこうにか、この仕事で食っていけている。一〇年近くもこの仕事を続けていたわけだ。主観的にはこの間は一瞬という感じだ。歳を取るほど一年が早く感じる。
 ともあれ、どこでやり直せば週三〇時間の仕事にありつけたのだろうか。いやー。大分前に戻らないと駄目そうだな。中学生くらいまで戻ればどうにかなるかな? 数学でたまたまいい点を出さなければ、僕の名前と数学は相性がいいんだという迷信じみたことを考えなければ。でもそうしなかった僕は僕なのかという問題に行き当たる。それはもう、別人だろう。たとえ遺伝子的には同じ人物、だとしてもだ。
 言い方を変えれば統計は初等、中等教育の重要性を教えている。これを再確認したというわけだ。
 とはいえ、実際にできるかといえば、それはまた別の話。数学は楽しい。猫は素晴らしい。人生を何度やり直そうと僕は何度でも同じ間違いをやらかすだろう。
 反省しようとして過去をさらって、出てきた結果は「僕は悪くない」と、「だからどうした」だった。自分が悪い人間、というだけでなく、反省もないし自分のせいとも思ってないわけだ。
 いやー。そりゃフラれるわけだ。納得。納得。身勝手な奴だな、僕は。
 うじうじ考えるのに飽きて、僕は幸せについて考えるのをやめた。現在時刻は一一時半。夜明け前から仕事にかり出されて、まあ、途中元彼女といろいろあったりしたけれど、それでもまだ三時間ほどは勤務時間がある。
 おそるおそるモニターを見る。マイティマウスからのコールはなし。よかったよかった。「二度あることは三度ある」というが、これは統計的に間違った話、でもない。「二度あることは三度ある」とは、要するに「傾向がある」という意味だ。実際に二度三度という言葉に引っ張られてはいけない。かくのごとく、世の中は数学に満ちあふれている。失恋も満ちあふれている。
 また誰かと恋愛すると思うとしんどいなあという気持ちがわき上がる。もう、ひとりぼっちでいいかな。僕には猫いるし。
 仕事しよう。仕事だ。仕事。
 しかしこんな時まで仕事するのが正しいフラれ方であろうか。
 失われた七年へのたむけとしてやけ酒でも飲もうかと一瞬考えたが、一瞬だけでおわった。僕は酒に弱いらしく、酩酊状態が長く続いてしまう。酒を飲んで一〇時間くらいは酩酊しているように思える。自覚がそれくらいなのだから、血中アルコールとしてはもっと長く残っているだろう。あるいは、僕は酔う感覚に鋭敏で、長く違和感というか変化を感じ続けられるのかもしれない。
 いずれにせよ、酒を飲めば仕事どころではなくなる。彼女を失うのはまだしも、給料まで下げるわけにはいかない。僕の仕事は歩合制、一件一万円と決まっていたのだった。管制業務だと一件二万円だ。
 うん。仕事をしよう。そうしよう。こんな日ではあるが仕事をする気だけは、結構あった。フラれた腹いせに仕事という気持ちもなくはなかった。ただ、マイティマウス、あれは駄目だ。
 僕の仕事は管制の他、政府系データアナリストもやっている。むしろ、本業はこっちだ。収入的にも作業時間的にも。
 データアナリスト。今の社会で欠かせない仕事であるデータサイエンティストとはまたちょっと趣(おもむき)が違う仕事。
 政府系データアナリストがいるということは、民間企業系データアナリストもいる。というわけ。
 僕は猫がおおきくゆっくり尻尾を振る様を見た。僕が面倒くさいことを考えていると察している様子。違うんだ、猫ほどではないにせよ、統計は重要なことなんだ。毎日ぐだぐだ考えても罪にならない。
 そう、国家というものは統計データで運営されているところが多分にある。そもそも統計(状態)という言葉はイタリア語において、国家という言葉の語源だ。さらにいえば日本で確認される最古の統計は、律令制度下の戸籍に例を見ることができる。つまりはまあ、人類は歴史の教科書のかなり早い段階からべったりしっぽりと統計を使い始めている。それからずっと、国家運営と統計はセットとも言うべき関係にあった。年を重ねるほど統計は重要な情報、国家運営の基礎データとして重用(ちょうよう)されてきた。二〇四一年の今では、国家に限らず、およそあらゆることが統計を元に決定されている。国家の次は学問が、次いで企業が、今では個人も統計を利用している。学問では医学、薬学、経済学、企業ならマーケティングも統計の産物だ。分かってくれ、猫よ。
 さらに面倒くさいオタク的な解説をするとデータアナリストは統計データと実データの大きな差異を見つけ出して、なぜ、そうなのかを評価分析する仕事だ。ひよこのオスメスを見分けるように手作業で相関と疑似相関関係を分けていくような仕事をしている。
 統計にはデータの信頼性、恣意的な分析の他、疑似相関という太古の昔から横たわる問題があって、これが統計を邪魔し続けている。
 例でいえば朝食を食べる家庭の子は学力が高い。だ。医学的に言って朝食を食べれば頭が良くなるわけではない。この二つは関係ありそうで関係ない。統計にはない第三のファクター、あるいは大本の原因がある。つまり、親がきっちり朝食を摂るようなお堅い家は、教育にも熱心だってことだ。別の例でいくと灯油の売り上げと脳卒中の発生数は大体比例する、というのもある。これは灯油に問題があるのではなく、気温が低いという第三のファクターが元々の原因だ。気温が低いと脳卒中リスクは高くなり、気温が低いと暖房のために灯油の売り上げが増える、というわけ。疑似相関関係を判別し、隠された第三のファクターを見つけるのが僕の本業になる。
 数学からは随分と遠くなってしまったけれど、それが今の僕の仕事だ。
 まあ、数学は仕事でなくてもよいんだけど。
 数学において、確率と統計は大体セットで学ぶ。過去の統計から何パーセントでこう、というのが相性が良いからだ。特に医療と保険とギャンブルとは仲が良く、三つとも当事者というか参加者にとってはおいそれと負けられない分野だったから、よく研究が進んだ。今ではこれらの業種は統計と確率なしには成立しないほど密接に関わっている。
 例えば歴史と伝統で効く、とされている東洋医学、漢方薬も要するに過去からの統計データを基礎としているし、漢方でない西洋医療も、実のところは大体同じだった。人体という複雑すぎるものに対して個別の仕組みがどう、機序がどうというのは限定的な力しかなく、全体で言えば統計と確率を頼りにやっている状況だ。統計的にこういう状況ではこういう戦略を選択してこういう方法を選ぶのが勝率が一番いい、という感じで標準化されて今に至っている。
 かくも世間に浸透している確率と統計だが一方で僕の仕事の分野というか、警察や安全保障分野に進出したのは遅くて、二〇世紀の後半過ぎくらいからだ。それまでも犯罪統計はあったが、統計データを利用した試みは、あまり受けがよくなかった。他の分野に比べて統計の元になる実例が少ない、という事情もあったのだろう。
 さらに日本では、標準化した犯罪対応、安全保障上の戦略フローチャートやテンプレートが製作されるまでに随分と時間がかかった。二一世紀も三〇年過ぎてようやく、というていたらくだ。他国より遅れること三〇年。その間に莫大なロスが出たはずだが、警察も政府もそのことを認めたがりはしない。
 日本で導入が遅れた理由としては“予断になる”、確率的にこうだからといって捜査するとバイアスがかかって皆統計の描くシナリオ通りに動き結果として冤罪が生まれるから、とされている。もっとも僕は違う意見を持っていた。つまりこうだ。単に数学に明るい警官や官僚がいなかったせいではないか。
 やっかみ? そうかもしれない。しかし、学校で習う学問を、就職後に完全に忘れて動くのは学歴に関係なく多い。特に数学はそうだ。学校で習ったことを生かそうともせず、そもそも生活に使おうとも思わない者がたくさんいる。
 もっと数学を高く評価するような世の中だったら、僕はもっといい人生だったかもしれない。嘘です、僕も生活や仕事に数学を生かすことはできていない。僕ほど数学に熱心でもなかった人なら、なおさらだろう。
 つまり何が言いたいかというと、フラれた畜生だ。いや、この表現は違うな。猫に悪い。
 そう、猫だ。
 猫を膝の上に抱き上げてバンザイしてもらう。うむ。僕の人生に足りないのは数学者がより高い地位を得るような世界ではない。猫だ。猫かわいい。
 よし猫の餌代を稼ごう。僕は仕事を始めるべく居住まいを正す。
 今受けているのは大分フワッとした仕事で、日本の敵を見つけろというものだった。そんなフワッとした命令で大丈夫か調査庁と思うけど、おそらくは一〇〇〇人くらいは僕と同じ仕事をしている人がいると思う。
 この国も戦争とかテロとかあった結果なんだろうけど、それにしたってデータアナリスト一〇〇〇人も雇えるんだから凄いものだ。外注で安く上げているとはいえこれだけで年間七二億円の人件費がかかる。
 僕は猫を撫でながら、マイティマウスとの交信に使っていた通信機を横に置いて、スマホをディスプレイ前に置いたクレードルにセットする。五二インチのディスプレイにスマホの画面が表示された。昔と違って今は画面が間延びしたような感じにもならない。
 何でもスマホ世代と言われるけど、実際その通り。
 さあこれで、本業の準備はよし。副業の方のクライシスコールはきてない。そのまま寝ていてくれ。僕はもっと、静かで気の落ち着く仕事がしたい。映画データベースを元に指示出しなんて、できればもう一生したくない。あのときはフラれて頭に来ていた。しかし報告書どうしよう。まともに書いたら怒られそうだ。
 まあ、難しい案件は後回し。静かで平穏な仕事。僕は事件リストを表示するようにスマホに声がけした。モニターに事件リストが表示される。
 普段は手をつけない不発になりそうな案件を選んでやることにした。不発の案件にもいいことがある、事件などなかったのだと思えるから。
 管制として待機しつつ、これから統計の結果と実データとの乖離が大きいデータに目を通すことになる。予備調査として統計データと実データの差が大きいところはAIともいえないくらいの簡単なプログラムが自動ではじき出してくれる。僕は送られてきたファイルを見ながら、他のデータを取り寄せ、多角的に見ながら疑似相関関係を排除し、もっともらしい理由を探して報告する。
 AIは統計と重なる部分が多い分野で便利ではあるのだが、いまだに疑似相関と相関関係を見抜くことが苦手だ。そもそも提供されたデータに穴があるということを認識させるのが難しい。それで、人間が手作業で、大量投入されて分別をやっている。
 分別に必要なのは推理力だ。そう、推理をするあたり探偵の仕事に近いのかもしれない。本当の探偵がどんな仕事をしているかは知らないけど。
 ところで僕のこの仕事、違法性がない。統計データも実データも、全部公開されている公(おおやけ)のデータだった。だから令状もいらない。専門用語でいうところのソーシャルインテリジェンスという仕事だった。スパイ活動の中でも合法的な活動だ。もっとも、表だってはこんな仕事をしていると宣伝などはしていない。
 公開されたデータから悪を見つけるというと、聞こえはいいが監視社会の一つの到達点と捉えられると役所的にまずいらしい。それで、宣伝はなし。ちなみに中国では大々的にやって効果をあげている。
 それにしても秘められた仕事で公安関係とかというと、ちょっと格好いい。実際は猫抱きながらやれる仕事だけどね。
 僕は頑張って今日は五件の仕事をやっつけようと考える。猫を膝の上に抱いたまま、まあ、この事件あたりが平和そうだなと目星をつけた。あぐらをかいて指示を口にする。
「ファイル1090を開く」
 この程度なら画面タッチで指示した方が早いのだけれど、僕は大学の頃から音声入力ばかりで、いまだにフリック入力どころかキーボードもちゃんと使えなかった。それで別に困ってはいない。早打ち競争している訳じゃないんだから。
 今日の最初の怪しい乖離はずばり、水を使いすぎている地区だった。地味だなあ。だがそれが良い。静岡県藤枝市岡部町野田沢地区。海から離れた山の谷間にある元集落だ。こういう地形は日本中にあり、かつてはこういうところにこそ人が住んでいたが、今ではほとんど見捨てられている。
 水利の限界から、川の側にしか住めなかった名残ともいえる集落。今の観点で言えば、土地が狭すぎるし土砂崩れの危険がある。疫病の流行などで都市部集中が改善したあとも、こういう地形には人は戻ってきていない。
 こんな場所で水の消費量が激増している。
 だからどうしたんだよと言いたくなるが、機械任せだとこういうものも要分析で届いてくる。
 水の消費量は七二〇〇倍以上。それが半年も続いている。僕はネットに上がっている航空写真を見て、水の消費量が高い理由を調べ始める。現地は谷のなかにある細長い集落だ。住人は前の国勢調査では三人だったとある。今だと〇でもおかしくない。
 そんな場所での話だから七二〇〇倍と言ってもさほどでもない。とはいえ、一〇日でプール一杯くらいの水が使われている。あれ、やっぱりたいしたことないかな。
 微妙な水の消費量だ。
 工場、それもLSIの工場ができれば水の消費量は跳ね上がる。でも、そういう痕跡を衛星写真で見つけることはできなかった。そもそも工場なら水の消費量はもっと大きくなるだろう。これだけでは弱いので新聞記事やローカルネットニュースを当たる。これまた該当するようなものはない。隣接地区に住んでいる人たちのSNSでのつぶやきを見ても、同様だった。あらゆる方向性から吟味しても工場の線はない。
 次にありそうなのは水漏れ、水道管の破裂だが、すぐに修理や対応に入っているだろう。この地区の水道は民営化されていて、利益追求のために努力するのは間違いない。
 他にはなにかないかなと猫の背を撫でる。
 田舎で水の消費が多いといえば日本の淡水使用量の七割近くを占める農業用水だが、農業用水に水道を使うのは限定的だ。水道水はコストが高い。
 同様に、魚の孵化(ふか)や養殖は水道を使わないのでこれもなし。検索して見たところ、海水の輸送が大変なので水道水を用いる可能性がなくもない。とはいえ、こちらのケースでもそのような施設、工場を作った様子はないときている。
 では、何か。
 僕は長く息を吹いた。考えるときの癖。変顔になるらしく、よく笑われる。笑わないのは猫だけだ。
 この地域の人口が増えたというのはどうだろう。しかも金持ちで、屋内にプールを作って水を入れ替えているとかなら、計算は成立する可能性がある。スイミングスクールとか金持ちが移ってきたとか。一応調べる。やっぱり、これも、なし。
 工場でもない、水漏れでもない。プールでもない。
 統計では出てこない事態がそこにある。統計外事態というやつだ。統計で言えばそれ以外、という案件だ。んー。しかしどうかな。統計の基礎として、元になる統計情報がしっかりしてないと、どんなに優れた統計分析をしても意味がない。僕は意味のない統計データを突き合わせて袋小路にはまっているだけかもしれない。そして統計には、これを確かめるすべがない。統計の限界、というものだ。
 さて、どうしよう。
 よく分からないという報告をするのも手だ。それでも給料は変わらない。消費する水が増えたからと言って何があるでもなし。評価評定にも影響はしない。
 でも、だが。妙に僕はこの件を追いたい気分だった。ふられたせいかマイティマウスのせいかは分からない。でもとにかくそういう気分だったのだ。
 よし、この件続行。メガネを指で押し、さあて、なんとコンピュータに語りかけようかと考える。気分は名探偵だ。気分だけだけど。
 まあ、ありそうなことは水道消費量の数字そのものが架空のなにか。かな。いわゆる架空計上だ。“溶かしたい”臨時の収入か何かが水道会社にあるのかもしれない。
 しかしまあ、それならもっと広範囲にすこしずつやるだろう。つまり架空計上だとしても、会社ぐるみってことはない。
 僕は水道会社のデータを洗う。売り上げはここ数年変わらない。そしてそれは、驚くべきことではない。インフラ系、水道はそういうものだ。でも、半年架空計上している結果として売り上げが去年並み、と考えると、ちょっと怪しい。つまり。売り上げが落ちているのを隠しているのか。なんで? しかもなんで会社ぐるみでやってないんだろう。架空計上をやっている人物が間抜けである可能性はある。でも、そうでない可能性もある。
 ちょっと休憩。トイレに立って、牛乳を飲んで、僕は想像力を働かせる。猫は牛乳はもういいよという顔で部屋の中を歩き回っている。
 架空計上は通常、粉飾決算をするために行われる。そして粉飾決算は、利益を上げたように見せかけたいときに行われる。多くは借金などで債務超過に陥っているのを隠して会社を存続させるケースだ。
 この場合はそう、取引先である地方自治体との契約を守りたい、あたりかな。水道の自由化、民営化で競争できるようになってどこの会社も価格競争に突入したから、それで赤字が膨らんだのかもしれない。
 解せないのはなんで取引を小分けにしてないのか、だな。こんなバレバレな方式では意味がない。僕が報告書を書く以前に、取引銀行が粉飾決算に気づいてしまうだろう。銀行だって損はしたくない。それとも何かあるのかな。
 犯罪統計を呼び出す。統計的に似たケースを検索して参考にしてみる。部署での損失隠しが一番多くて、次は個人が出した損失隠しとなっている。今ほど透明化をしてなかった二〇世紀末のケースでは国一国をまかなえる額が粉飾されていたこともあった。と、記録にはある。今では検証できるように情報公開、透明化が進んでいる。まあ、隠し方がうまくなった、とも言える。
 統計を見るとその後の時代にも粉飾決算がでている。上場企業でもある電機メーカーがやらかした事件とかも昔あったなぁ。当時中学生だったけれど。つまり粉飾決算はいつでもいつまでも起きる。そういう性質を持っている。所詮その場しのぎの嘘ではあるんだけど、それでもやりたがる経営陣は後を絶たない。
 過去事例と比較して今回の粉飾は金額は小さいけれど、どうなんだろうな。銀行がなぜ、この問題をスルーするのか、それとも銀行がまだ調べてないのか、どちらだろう。
 昔と比べれば銀行の調査は厳しくなった。データアナリストも雇って調査しているのは間違いない。彼らが見逃すだろうか。結構微妙だな。普段の僕なら、この事件は問題性なしで片付けてしまうだろう。
 過去の粉飾決算事件の発見までの平均値を調べる。同じくらいの規模のケースでは例が少なくて分からないが、全体で見ると平均四年と三カ月掛かっていた。となれば、たまたま発見が早かったということになるのかも。
 勢い余ってというか変なテンションで選んだものの、中々、難航している。猫の餌代を稼ぐつもりなら、もっと簡単な事件を追えばよかったか。それもこれもみんなマイティマウスが悪い。
 モニターの端でCCのサインが光っている。これはスマホの機能ではない。無線通信機の時代遅れな表示だ。今時文字がカクついている。画面上に無理矢理表示したような感じ。
“CC、CC、CCクライシスコールだ。こちらマイティマウス。至急確認がしたい。支援を求む。どうぞ”
 またお前か。お前なのか、お前何度日本を危機に陥れているんだ。
“俺が陥れているわけないだろ。キャットタワーワン!”
 しまった聞こえていたか。
“あー。失礼。今度はなんだろう”
“今大阪なんだが、AR看板が一斉に切り替わった。よく分からないが中国語のようだ。攻撃の可能性がある。確認を求む。どうぞ”
 調べてみれば京都と大阪は在来線でも三〇分ほどでいける距離だった。そもそも新幹線に乗ってたんだっけ。となれば、狂言ではないのか。まあ、向こうも僕と話すのには辟易しているようだし、いや、そういう問題ではないな。どうしたものか。
 透過型スマートグラスにはAR看板機能がある。着用者の行動データに紐付いた宣伝が街中を歩いていると表示される仕組みだ。初めて歩く街でも見逃すことなくお店や施設を利用できるメリットがある。
 これ、最初に出たときはインパクトがあったのだが、眼鏡型はスマホと比べるとファッション性に劣る上に電池の持ちも悪いので、いまいち普及できていない。統計データを見ても宣伝出稿数はピーク時の五分の一、というところ。宣伝看板に制限のある風光明媚な土地や大都市以外では、あまり見なくなっている。
 そこをサイバー攻撃。しょっぱい話だ。しかも日本で中国語をだされてもなあ。相手に伝わらないのでは意味がないというか、愉快犯でしかない。現在ではサイバー攻撃のほとんどが営利行為で、愉快犯や政治宣伝は随分と比率が低いから、これは少し違和感がある。
 一応サイバー攻撃とカレンダーで統計データを見るが、今月は中国からのサイバー攻撃が比較的低調な時だった。中国からのサイバー攻撃はおよそ八月一五日や五月一五日、それと春節の時期に集中する。二〇年以上も前からそうだ。中国軍の情報部隊の演習で日本への攻撃が行われるのもだいたいこの辺だ。
 諸々勘案すると統計外事態、それも無視できるレベルの可能性が高そうではある。そもそも犯罪でないかも。SNSを検索して調べると、結構な人が気づいているようだった。中国語文の翻訳をやってる人もいるが、意味が通じない。とのこと。
“マイティマウス。こちらキャットタワーワン。事件を確認した。サイバー攻撃である可能性はあるが、だとしてもあまり成功しているとは言えないようだ。なにせメッセージが壊れていて意味をなさない。被害は限定的だろう。マイティマウス、どうぞ”
“了解キャットタワーワン。こちらマイティマウス。裏で大事件が起きてるとかないよな? キャットタワーワン、どうぞ”
“了解マイティマウス。こちらキャットタワーワン。同時多発的にサイバー攻撃が行われている可能性はある。一応警告は飛ばしておくよ。ただ現時点では何も事件は起きてない。取り越し苦労だったね。マイティマウス。どうぞ”
“ついてない記録が伸びないで良かった。あんたと通話するのも飽き飽きだしな。交信を終わる”
 そりゃこっちの台詞だ。これ思うのも何度目か。
 気を取り直し、水道過大消費事件を追うことにする。というか、こうなれば意地だった。マイティマウスと彼女、両方に引っ張り回されるのはもう嫌だ。今日という日の主導権を僕は取り戻すぞ。断固として。
 猫が顔を洗う横で腕組みし、もう一度水道会社の決算書を見る。これと架空計上の数字を合わせて見てみただけでは前と同じなので、地方自治体の人口データを合わせてみる。分かりやすく地図に数字をオーバーレイさせてみようか。
 見えてきたのはどこにでもある人口減少だった。岡部町の二〇一六年のデータが一万二〇〇〇人で今は八七〇〇人。三割減っている。架空計上が行われているエリアを見ると特に減少幅が大きい所だった。まあ、人数三とか書いてあったしな。よくある消滅地区というところだ。五年に一度四国四県の全人口が消滅する規模の人口減少は、こういう場所をありふれたものにしていた。
 んー。しかし、よく分からないな。もしも粉飾決算だとすれば、出来が悪過ぎる。
 もっとも、ばれやすい犯罪は、割と多い。統計的に言えば九割くらいはできたからやったという機会犯罪が大部分だ。だからこそ、街灯や簡単な施錠程度でも防犯効果が認められる。これらの機会犯罪は統計的に見て行き当たりばったりの短絡的な犯罪だから露見しやすい。しかし、経済犯罪である架空計上は行き当たりばったりではない。性質上必ず計画的なものになる。だからこそ、ばれにくいし、言い方を変えれば手口が巧妙になる。
 露見までひどく短いケースを調べると、内部告発が大多数だった。逆に言えば内部告発でもない限りすぐには露見しないのが粉飾というものだ。
 つまり。粉飾決算というケースも可能性が薄そうだ。
 結論:いよいよ本当の統計外事態だ。水の出し過ぎなんて、ちょっとしょっぱい事件だけど。
 しょっぱいとはいうものの、なんだろう。すごく面白そうだ。どんなドラマがあってこんなことになってしまったんだろう。少なくとも大阪の失敗したAR看板サイバー攻撃より慎ましく、島根の海水浴場で七人の死体、というよりは平和で好ましい。
 この事件をどうしよう。通常なら調査不能、原因不明で突き返せばいいのだが、なんだかちょっと名残惜しい。なぜだろう。
 僕は猫を抱いて狭い部屋の中をうろうろした。何が起きているのか想像するだけで楽しいが、実際はどうかな。一つ分かっているのは、今日はマイティマウスはもうたくさんだ。あと女も。
 ため息一つ。ようはこの数宝、クライシスコールとフラれたことから目を逸らそうとしているというわけだ。
 もう四〇になるというのに、まったく残念な考えだよ。今はこう、平和な事件をただひたすら追いかけたい。
 まあでも、女については七年も付き合ったんだから今日ぐらいそんな感じでもいいかな。猫については譲れないけど。統計の中で猫を飼っているのが幸せの条件になってないのはおかしい。あとマイティマウス、あれとは一生顔を合わせたくない。
 何度もため息をつくことがためらわれ、僕はすごすごと自分の席に戻った。報告書を書く、送る。それで終わりのはずだけど、暗号化した通信を送信するボタンを押すのがためらわれる。
 そういうときは、一度棚上げ。僕は他の仕事に取りかかる。AIというほど複雑でない自称AIプログラムは、毎日膨大な数の差異を見つけてきては僕たちに仕事しろと言ってくる。
 大昔のSFではAIが仕事の種類を減らすと言っていたけれど、現実はそんなに単純じゃなかった。AIが人間の仕事を増やしている事もある。僕の仕事はそうだ。人間はAIの下請けをやっている。まあAIのパターン認識も統計処理の一つの方法といえなくもないし、ここは統計が世界を動かしている、でいいんじゃなかろうか。人間はそれから目を逸らして生きているにしても。なんで目を逸らしているのかは分からないが。
 マイティマウスとフラれたせいで仕事が進む。あるいは割り当てが楽な仕事が多かったのか、いずれにせよ僕は一七時頃にはすっかり仕事を終わらせていた。毎日これなら楽なのだけど。はい。管制業務終了。マイティマウスから解放されたぞ、やった。やった。
 夕食は怒りのやけ食い。あ、やっぱりダメージ受けているんだな。僕。目の前にある今時珍しい二四時間スーパーで買い物する。今じゃこんな店、東京でも数えるほどしかない。感染対策として無人のコンビニは結構あるんだけど、商品入荷的に人手がいるので二十四時間営業はしていない。思えば僕が若かった頃はレストランもコンビニも二四時間営業が当たり前だったのにな。
 夕方のせいか、店内はいつもより多い買い物客で賑わっている。統計的に設計された店内を見回す。右から店を回ると野菜、魚、肉、飲料と巡ることが出来る。このレイアウトから外れるのは中々勇気がいるらしい。まあ、統計だから仕方ない。ちなみにパンはこれといって答えがないらしい。
 フランスパン、ソーセージ、ワイン、そしてサラダ!
 猫缶も買う。うちの猫は高くてうまいのしか食べない。だがそれがいい。蟻用には魚肉ソーセージと砂糖水と。
 階段を登ってアパートの自分の部屋に。アパートの家賃決定も統計データに基づいている。それでも人間は、自分を統計の外に置きたいものだ。今日何度も思ったこと。
 フランスパンにかじりつき、お湯につけて温めたぷりぷりのソーセージを音を立てて食べる。音を立ててソーセージを噛みきった。うまいっ。猫も一心不乱に食事をしている。僕を見て目を丸くしてにゃあと鳴いた。
 猫はいいと思いながら今日最初に出会った事件のファイルを開いた。こだわる必要を感じないけど、なんだか気になる。
 食事をしているうちに一つの可能性に気づいた。この地域、水道がなくなることを危惧したとかいうのはどうだろう。水道をなくさないための、利益供与だ。結構良いアイデアだと思ったのだが水道料金の値上げを調べてみたらそういうことはなかった。水道料金は過去一〇年で一一回値上げが起きている。民営化前と比較して価格は四倍、サービスは低下していて議会では文句が噴出している。再公営化すら話題になっているという。まあ、民営化の後で独占化したらこうなるよなという話だった。統計的には一番ありうるシナリオってやつだ。民営化してうまくいってるのは東京くらいのものだろう。こちらは昔からやっていて他のブームに乗ってやった民営化とは年季もノウハウも違った。
 さておき、ふむ。ということは、どうなんだろう。こうなると市議会の誰かとか市民活動家の誰かが動いている可能性がある。敵対だ。水道会社のあらを探して、いろいろ資料を見ている可能性が高い。統計的に言って評判が悪いというのは普通の市民をどうしようもなく正義の騎士に仕立てて攻撃を許すものだ。子供がやるといじめといって怒られるけど。
 こんなわかりやすい悪、ほっとくかなあ。それともやっぱり、どこかに工場かプールでもあるのか。
 統計的には粉飾だが、出てくる資料はそれを否定し続けている。
 なるほど。まったくの統計外事態だな。ああ、楽しい。
 フラれた上にマイティマウスに散々振り回され、やけになっていたのは自分でも認めるところだが、僕は唐突に、本当に唐突に現地に行って調べることにした。もちろん実際に行けば赤字間違いナシなのだが、いいや。という気分になっていた。次の管制業務は数日後だしね。
 夕方なのに深夜テンションだ。自転車とヘルメット、カジュアルなサイクリングウェアを着て猫をバスケットに入れる。小さい頃からバスケットに入れてあっちこっちに行っていたので、蓋をあけると今でも飛び込んでくる。いいよね。これ。スーパーのゴミ箱にごめんなさいと念じつつ生ゴミを捨てる。監視カメラが膨大な数ある中国ではこういうこともできないというのをどこかのニュース記事で読んだ覚えがある。大変だよなあ。
 猫が小さな声で鳴いた。そうそう。出かけるんだった。僕は意気揚々と移動を始める。
 自転車で静岡まで行こう。久しぶりの輪行に若干の不安はあるが、まあいいやとペダルをこぎ始めた。五月の風はもう暖かい。ペダルを漕いでいる時は特にそう感じる。
 ペダルといってもスリッパ状になっていてペダルを踏むときだけでなく、足を上げるときも推進力になっている。軽量化を重ねたフレームはきっかり一人力の貧弱なパワーを最大限生かすようになっていた。
 すぐに時速は四〇キロメートルを越える。快速、快速。中野を出て新中野、ナビを入れるのを忘れていた。信号待ちで自転車に入力。夜間モードになっていて画面は黒地に赤い文字になっていた。LEDライトが自動点灯、行き先を入力したのでナビライトも点灯した。曲がるべきところで右か左かの地面を照らすという、簡単な装備なのだが、これが出来てから画面を見ないでよくなった。自転車界の大発明、ということになっている。
 神田川を渡って南下、三軒茶屋から右折して、いよいよ西に走り出す。政府はスーパーシティ、ダイバーシティと都市部に人を集めたがるが、疫病や戦争が何度かあったのち、先に企業と市民の方が逃げた。都市部の集中は危ないと学んで人口はある程度分散した。神田川のあたりにも、昔はたくさん人がいたように思う。
 何も考えずペダルを漕いで流れる風景を見続けて、我に返ったのは揺れるバスケットを見てからだった。そろそろメシだと猫が言っている。猫には勝てないのが人間だ。いや、弱くていいけれど。次の恋は猫が好きな人にしよう。
 宿を探してスマホを動かす。多摩川を渡って川崎で泊まることにした。近い。いっそ家で寝た方が良かった気がする。二〇キロメートルしか移動してないぞ。時間にしていいところ三〇分だ。
 まあ、うちの猫は夜遅くご飯をあげたりしてないのでしょうがない。今から家に戻ったら何もかもやらなくなるので前のめりで行くことにした。
 ホテルを探そう。スマホは便利だ。
 ペット可のホテルは今でも少ない。猫の居る宿とかはあってもマイ猫OKはなかなかない。粗相する猫ばかりでもないのだけどと思いつつ、どうにか見つけた所は川崎どころか横浜だった。もう二〇分移動時間追加。猫にごめんねと言って自転車を漕いだ。
 横浜、というか横浜の中華街は夜もまばゆい。今時珍しい地域だった。この頃は夜は夜らしい方がいいとかACの宣伝などもあって、随分と暗くなった気がする。おじいちゃんの時代に戻ったようだという話をする人もいるけれど、実際どこまで本当かは分からない。
 ともあれ、中野区でも星は見えづらいのだが、こっちじゃまったく無理だった。星の見えない街で宿へ向かう。
 中国的な雰囲気を台無しにする大きな看板、何年も前からやってる元年詐欺というか、今年は飲む携帯元年という、体内に内蔵するスマホの宣伝がむなしく輝いていた。海外じゃもう何年も前から普及しているけど、日本じゃまったく流行していない。日本はアメリカや中国ほど身体をいじるのが許容されていないというか、拒否感を持つ人が多い。
 自転車に装着された昔ながらのスマホに案内されてたどり着いた場所は、典型的中国人向けっぽい宿だった。つまり、安かろう悪かろうだ。来日する中国人は多くの場合日本人よりも金持ちというかお金をたくさん使うものだが、宿、という段になると安い宿にもかなり人が集まる。これも国民性、というものかもしれない。
 戦争でこっぴどいめにあった後も中国の存在感は増す一方だ。ニュースでもなんでも、中国が話題にならない日はない。昔はアメリカが、そんな感じだった。変わってないようでも少しずつ変わっている。
 今の中国では国内観光が盛んだが、日本は物価が安いとかで、訪日する人も多い。引退後の住まいとしても人気らしい。昔日本も同じようにフィリピンやオーストラリアに移住していた。
 猫の宿泊料も払って一階の部屋に案内される。中国宿なのに和室。柱は大分猫にやられてささくれ立っている。猫あるあるだ。逆に、畳に染みがついてないのが驚きだ。見た目は畳だけど新素材なのかも。
 ともあれ猫を出して餌をあげる。いつもよりガツガツ食べているのが、罪悪感を誘った。ごめん、いつもより三〇分もご飯遅くてごめん。
 猫に定時から三〇分も遅れて餌をやるなんて、自分がかなりの無茶をやっている自覚はある。んー。やっぱり明日は家に戻って素直に仕事でもしようか。しかし、それはそれで、なんかやだ。やはり調査に行こう。
 自分の部屋にいると彼女を思い出しそうで嫌だ。そっちが偽らざる本音か。
 猫を抱っこしたり持ち上げたりして、水道の謎について考える。ありそうなシナリオはなにかなあ。地域の水道を潰すまいと皆で頑張ってるとか。だったら補助金を入れるなり再公有化だよねえ。税金逃れで地下養殖場だか地下プールでもあるのか。それとも、別の何かがあるのだろうか。
 例えばそう、麻薬、マリファナというか麻の製造をしているとかはどうだろう。実にありそうだが麻は水を大量に使ったりはしないんだよね。水を大量に使うのは何かとスマホに尋ねたら、ワサビだという答えが返ってきた。
 秘密のワサビ工場。たしかに静岡はワサビの名産地……だけど。
 正直、法律に触れてまでやるようなことではない。いいセンいったと思うのだけど。
 他になにかあるかな。やっぱり麻かな。しかし麻の栽培が統計に出る場合、ほぼ一〇〇パーセントが光熱費の増加で現れる。
 あーそうか、水道だけでなく、電気料金も調べてみるべきだったな。電気料金と水道料金の差に着目した統計データがないので無視していたが、なにかのヒントにはなりそうだ。
 よし、今やろう。地域全体の消費データを見ること自体に違法性はない。
 スマホに小声で指示して調査。AIが流行っていた時代の名残で、スマホにはAIがチップレベルで実装されている。実際どこまでがクラウドでどこまでがスマホの内部動作なのかは分からないが、結構考えてアクションしてくれる。
 結果は、残念。光熱費はまったく増えていない。水だけ消費が増えている。違和感のある数字だ。まったく関係がない、というのも変な気がする。
 結論としてやっぱり分からない。
 ここまで分からないとなると何か壮大な陰謀でもあるのかな。いや、それもないかな。残念ながら統計は陰謀論というものも完全否定してしまっている。つまり、どこまで行ってもそういうものは見つからない。実例がないのだ。陰謀は人が考えることの説明には都合がいいが、現実の事象として陰謀を起こすのは大層難しい。実際に陰謀で対応できる範囲は狭いというわけだ。結局陰謀とは物事を矮小化させてすっきり分かった気になるための道具でしかない。
 じゃあ何があるんだろう。まあ、蓋を開ければがっかりするようなものが出てくるんだろうけど。想像するのはとても楽しい。映画かなにかのスパイ物みたいだな。本物は外注で映画のデータベース使うようなところなんだけど。
 隣で派手な音がする。猫が暴れているらしい。うちの猫もびっくりして耳を向け全身を硬くして警戒している。取りなす中国人の女の人ぽい声も聞こえる。意味は分からないが、いやそれより壁の薄さにどきどきするな。僕には関係ないけど。あ、子供の声もする。珍しい。
 少子化と言われて久しい。今も進行中だ。世界中で少子化は進んでいる。種としての限界かどうかは分からないけれど、近いうち、そうあと一〇年もしないうちに最後の人口増加国だったアフリカがマイナスに転じる。日本も歯止めがかからない。東京から少し離れると、もう子供の姿を見つけるのは困難になる。
 昔は人口爆発とか言われていたけど、そんなことなかった。石油枯渇やオゾンホールに並ぶ科学の予見失敗というやつだ。その三つとも統計データを元に未来予測していたはずなのだが、失敗している。
 失敗した理由は、元の統計データのミスにある。石油を例に取れば埋蔵資源調査が甘く、実際と大きく乖離していた。元になる統計データがダメだと、どんな推計も外れるという教科書にでてきそうな失敗だった。
 実際には環境問題対応として石油燃料の消費もセーブが行われたりもするので全ては埋蔵資源調査だけの問題でもないのだが、まあ、寄与率としては一番大きいのは元の調査のミスだ。統計は最強だが、割と間違える。これも統計が教えてくれている。
 はてさて、今回の事件はどうだろう。壁向こうの猫や子供の声を聞きつつ、そんなことを考えた。
 大きな物音。
 壁の向こうからはうって変わって言い争いの声。中国語が分かるわけではないのだが、スマホの翻訳機能によると避妊について話をしていた。子供がこれ以上増えたらどうする、という女性の声。対する男は男の子が必要だと言っている。皆がそれを望んでいるとも。子供の前で言うなよそんなことと思うが、中国は感覚が違うのかな。
 うっかりそのままネットで中国統計情報にアクセスして男女比を見る。人類全体の平均値と比較してはっきり現れるほどに中国では男の子が人気らしい。つまり、女の子はなんらかの手段で人為的に数を減らしている。嫌な話だ。世界中で少子化が進むわけだよ。
 こっちが水道の謎で盛り上がっているのに、なんだか水を差された気分だ。嘆かわしいというか、なんというか。日本どころか人類終わってるなあという気分になる。
 それにしても、壁が薄すぎやしないか。こっちはフラれたばっかりというのに、男女の営みの音がしている。というか、子供と猫は大丈夫だろうか、他人事ながら気になって仕方ない。
 というか、いくらなんでもお粗末だろうこのホテル。ホテルに関する各種の法律をちゃんとクリアしてるのかな。
 統計によると中国人による中国人向けの日本でのホテル経営は二〇年以上前から堅調に増えていて、外国人観光客の二人に一人はそういう所に泊まっている。さらにその一〇パーセント位は許認可を受けていない違法ホテルだった。マンションの部屋とかを借りて勝手に宿として貸しているケースだ。住民トラブルも多いので一時期よりは減っているけど、最近はマンション丸ごと買ってやるケースが多いという。それでばれにくくなっているだけで本当はもう何パーセントか増えるのではないかと、僕は仕事で分析している。具体的には三パーセント増えている可能性が高い。だからといってここが違法だとは決められないけど、気分的には違法という気分だ。というか、もう二度と泊まってやるものか。
 隣のことばかり気にしても仕方ない。というか、うるさくてかなわない。
 僕はイヤホンと一体になったARグラス、強化現実メガネを掛けてスマホに同期させた。スマホの画面が大きく目の前に投影される。長時間装着していると乱視気味の僕は目が痛くなるので家ではもっぱらディスプレイだが、出先ではこちらを使っている。
 透過型でその向こうも見えるので、猫が相手しろと言っても問題ないしね。さっそくトイレの感じだったので、着用したままペットシートで処理をした。ビニール袋に入れてから口を縛って、専用の蓋付きゴミ箱に入れる。うむ。ペットOKのホテルなら、かくあって欲しい。壁薄すぎるけど。
 適当な音楽を流しつつ、寝転がってニュースを見る。信頼度の高いニュースサイトからランダムに記事を引っ張ってきて表示させるのが、僕の好きなニュースの読み方だった。こうでもしないと特定の主張や意図に呑み込まれてしまう。二〇年前とは、ここがまったく違っていた。というか、二〇年前はどれだけ野蛮な時代だったのだろう。二〇年前、二〇二〇年とくれば、自分が二〇歳いくかいかないかくらいの時なのに、危険なほど野蛮だった。
 あの頃の怒りとか、無気力とかが誰かの金儲けのために誘導されていたのだと思うとうんざりするが、情報技術の本質というか、情報はこういう風に悪用できる、という例を学んだ気がする。もっとも、僕も人類も、その教訓を生かせてないようだけど。
 人間は都合の良いことばかりを信じるものだ。ニュースを見る側だけでなく、ニュースを作っている側もそうだ。中立を謳いながらその実中の人の意向や考えがにじみ出る、二〇年前はそんなニュースが巷に溢れていた。
 それを嫌がって、正確性評価とランダムを組み合わせたニュース中立化運動が始まったのは一五年ほど前になる。中立というバイアスがかかるという批判もあるが、今はこれのおかげでニュースを見て無意味に怒ることが減った。国民を大人にするツールとして、とても良くできた存在だと思う。
 猫がにゃぁと鳴いた。くだらないことを考えるなと言っているかのよう。まったく猫さ
まの言う通り。時計は二三時を回っている。僕はお告げに従って寝た。少し運動したせいで、彼女のことなど夢にも見ずに気持ち良く寝た。いつのまにか夫婦のあれそれは終わっていたようだった。あそこの子供が健やかに育つように。あと猫も。
 目が覚めたのは朝四時半だ。寝ている猫をそっとバスケットに入れ、そそくさとホテルを出て自転車に乗る。今日は一〇〇キロメートルくらいは走りたいところ。でもまあ、無理せずいこう。最近怪我の治りが遅くなっている。
 自転車を漕ぐ。速度が上がる。流れる風景を見て風を頬で感じつつ、猫と自転車に乗るのは格別だ。何もなくても幸せな気分になる。そのうち、日が昇って朝になってきたので無人コンビニで朝食を食べた。通勤途中の人で賑わっている。サンドイッチと牛乳と猫缶を買った。あと、猫用の水。
 無人コンビニというのは二五年くらい前から中国で始まった形態のビジネスだ。ところが仕入れや陳列は人力ということで、あまりうまくはいってなかった。日本で本格的な利用が始まったのは疫病というか感染症対策としてからだ。これまた感染症対策である電子マネーと一緒に普及した。
 そういう経緯があっての話だから、珍しいことに無人レジで現金で支払っている人を見て、ちょっとびっくりする。釣り人の着るようなベストを着たおじいちゃんだった。現金だなんて今時珍しい。
 今時のおじいちゃんといっても若い頃からネットや電子機器に慣れ親しんでいるはずだから、電子決済が分からない、というわけでもないだろう。うさんくさいことでもやっているのかなと、ちらりと思った。今時、現金使う人なんてそういう人たちくらいしか思いつかない。ネットで追跡ができないお金なんて、怪しいと言ってるも同然だ。
 政府もさっさと電子マネーだけにしちゃえばいいのに。そうすれば組織犯罪もすぐに全滅だろう。財布が政府の監視が難しい民間の暗号通貨とかに移るだけかもしれないけれど。
 監視カメラと目があって、小さく手を振って店を出る。なんとなくやってしまう、癖。
 猫に餌をあげて、旅を再開。活動量計を兼ねるスマートウォッチを見れば時刻は午前八時半だった。一方移動距離は五〇キロメートルちょっと。休憩を挟みつつ三時間でこれは少し遅いかな。まあ、坂道が若干多いからこんなものか。
 これから疲れでペースは落ちるだろうから、簡単に計算して一五時くらいまで移動しようかと考えた。横浜から一五〇キロメートルくらいだから、明日の昼には着きそうな感じだ。ああ、自転車はいい。猫の次にいい。なにもかもすっきりする。
 仕事が溜まりそうな予感がしたが、まあいいかと考えた。僕に必要なのは休暇だ。いや、統計外事態だ。この突発的休みも僕の人生統計からすれば、立派な統計外事態だろう。
 走り抜けて沼津についた。海が見えておー。という気分になる。ここからは電車でいいんじゃないかとちょっと思ったが、それは帰りにすることにした。
 宿を探してネット検索。今日は平日なこともあってガラガラだ。僕にとってはありがたい。
 ペット同伴も大丈夫なホテルも見つかった。ドッグランもあるそうだけど、猫にはあまり関係ない。自転車で来たと告げたら驚かれた。高速道路が近いせいか、車で来る人が圧倒的に多い、とのこと。
 自転車、いいと思うんだけどな。速いし、なによりいい運動になる。
 今日のホテルは日本人が経営していた。ちょっとほっとする感じはある。ああ、そうか中国人がわざわざ外国に来て中国人経営のホテルに泊まるのは、そのへんあっての話かもしれない。
 ホテルの従業員は皆お年寄りばかりだ。静岡まで来ると、子供の姿はすっかり見るのが難しくなる。今人口で一番多い層は八〇歳から九〇歳までの女性だ。火葬場が足りないと社会的問題になっていたのは数年前のこと。やっぱり日本、終わってるなあ。二〇二〇年と比較して農村の七〇パーセントが消滅してるとか言ってるし。
 昔は自転車乗ってましたよと語る従業員さんの話に頷(うなず)きながら、部屋に案内された。今度は洋室で、ベッドがでんとおいてある。
 人口の三人に一人以上が老人になると社会から元気が失われるという。統計的な裏付けがあるのかは分からないが、感覚として今の日本はまさにそんな感じだった。人口を増やすための政策もいろいろやっているが効果は薄く、労働力不足どころか消費者不足で何もかもが停滞しそうになっている。移民を活発に受け入れているアメリカはまだしも元気だが、昔からの住民との対立問題は大きく、頻繁な暴動騒ぎが起きている。まあ、そうだよねって話。
 この国の将来はどうなるのかなあ。最近誰もが思うようなことを僕も思ってしまった。東京にいる間は思わないが、地方に行けば否応なく、そう考えてしまう。さりとて何かやってるかというと何もしてない。統計的には多くの国民、日本人と同じだ。良くないのは分かっている。でもどうすればいいのか分からない。統計もこれについては答えを教えてくれない。
 翌日は若干疲れていたのでスタートは七時になってしまった。朝日が眩しく、自転車用の軽量サングラスの世話になる。昼の日差しはペースを落とすのであまりよくはないのだが、疲れてしまったものは仕方がない。
 海岸の移動はよかったのだが、昼になって山道に入ると、すっかりペースが落ちてしまった。ただでさえ疲れ気味なのに、つらい。自動車が欲しくなる。いや、免許もないんだけどね。
 猫を適度に外に出して道横の法面(のりめん)にて休憩などしつつ、自転車で立ちこぎ、山を登る。目的地までもう少し、というところ。カラスが鳴きながら飛んでいる。
 速度は歩いたがいいんじゃないかというところまで落ちた。汗が噴き出ている。いやはや、日頃からもっと自転車に乗らないと駄目だね。
 太股(ふともも)に若干の違和感を感じて自転車から降りた。歩こう。まあ歩こう。ここで脚がつれたら大変だ。それにここは、路面がよくない。
 路面がよくない、というよりも、ひび割れて隙間から草が生えているところからして、随分とメンテナンスがされていないようだった。もしかしないでも、この道、廃道になってしまっているのかもしれない。今の日本にはあちこちそういうところがある。
 サングラスを外して、注意しながら歩く。さてさて、この先に集落があるとして、そこに水の消費量を上げるものなど、とてもないような気がしてきた。やっぱり架空計上か。水道会社を先に洗った方がよかったかな。いや、水道会社を当たっても、現地を知らねば言いくるめられてしまうだろう。そもそもできれば、直接話などしたくはない。僕の仕事は統計情報を分析することであって、探偵じゃない。フラれたショックでもないと、こんなことしないだろう。ああ、認めたくないのについに自覚してしまった。ああそうさ。これはフラれた腹いせだ。女々(め め)しくてすみません。
 いつの間にか、谷、と呼べる場所に来てしまった。右も左も山、谷底に張りつくようにいくつかの建物。時刻は一六時頃とはいえ、ちょっと不安になる時間帯だ。やあ、怖いな。猫を抱いてなかったら、逃げ帰っていたかも。
 カラスが鳴いて、怖い気分を盛り上げてくれる。
 怖いと言えば猫の脱走だ。ここで逃げられたら一生の別れになってしまう。赤いリードを付けて一安心。猫は嫌な顔をしている。頭を撫でて許しを請うた。猫は耳を横に伏せて目を細めて撫でられている。うむ、やはり猫は可愛い。
 片手で猫を抱いて、片手で自転車を押して歩く。住居を見つけるが潰れていた。家が長年の風雨に負けて屋根に押しつぶされてしまっている。平成元年とか書いてあるのでとんでもなく昔の家だ。
 ネットで見かけた衛星写真からは分からなかったが、これはちょっと、想像以上に現場は荒れていた。水道どころか電気の需要もあるのかという感じだった。いよいよ架空計上なのは間違いない。というか、村そのものが本当にあるのかすら怪しい。
 典型的な少子化、人口減少の結果である放棄廃村だ。日本のどこにでもある、ありふれた廃墟。しかしそのありふれた廃墟の、なんと寂しいことか。
 谷は左に曲がっている。谷底に川はなく、かつて川だったところは道路になっていた。その道路もうち捨てられて、今は元道路になってしまっている。川に捨てられ人に捨てられ、二度も三度もうち捨てられた地面は今頃何を思っているのやら。
 自転車を置いて、元は段々畑ならぬ段々茶畑だったであろう半ば崩れた斜面を登る。ここは見通しがいい。西日が谷を照らして滅んだものだけが持つ綺麗な風景を映し出していた。
 自然だけでも、人工物だけでも作れない、滅んだというより滅びゆく美、とでも言えばいいか。人口が減って自然に帰っていく日本の姿、という感じだ。
 写真に撮りたい、でもスマホだし、逆光下でどれくらいうまく撮れるかなとぼんやり思っていたら、腕に抱いている猫が爪を立てるのを感じた。フーとか言ってる。慌てて猫の向いている方を見る。
 斜面、竹林の間から、全裸の少女が僕を眺めていた。距離は五メートルほど。真っ白な肌に、黒色の髪、顔立ちは親しみが持てそうな東アジア顔をしているが、なにか違和感が、凄い。いや、それはともかく。

 ごめん、理解が追いつかない。

 頭痛に似た頭のくらくらは猫が爪を立てて治してくれた。そう、それどころじゃない。さすが僕の猫だ。飼い主より偉いのはもちろん、うちの猫は猫界の中でもかなりイケてるんじゃなかろうか。
 まじまじ見ていたら僕は犯罪者だ。悪いことしてなくても統計的にそうなりそうだ。
 というか、向こうもびっくりしているのかともう一度顔を見たら、全然そんなことなかった。
 何の表情も感想もない目で僕と猫を見ている。青い目なのだが、顔に二つの穴が開いているような印象。怖いどころの話ではない。統計的に五三パーセントの男性が当然最初に見る胸とかそういうところに目が向かないくらい、目が怖かった。しかも、目を逸らせない。怖いから。
 四〇の大人である僕が、完全に威圧されて身動きが取れなくなっている。時間の流れすら分からない。舌が乾いている。情けないことに、脚が震える。
 表情がない、瞳が何も映してないというのは、こんなに怖いものだったのか。
 一般には美人の類(たぐい)だろうが、表情が死んでいるせいで美しいの基準が異なる、例えるなら大きな虫でも見ているような気になった。あれ、でも僕は虫は大丈夫なんだよな。蟻を飼ってるくらいだし。
 猫が背中の毛を逆立てて警戒の鳴き声をあげている。僕は何度目かの我に返る。これはダメだ。全裸の子供見て逃げ出すなんて自分でもどうかと思うけど。逃げた。斜面を転がるようにして滑り落ちて、猫をバスケットに入れることもなく頭の上にのっけて自転車で逃げた。三〇〇メートルくらい逃げた。五〇〇メートルくらいだったかもしれない。もっとかも。
 自転車を止めて、息を吐く。統計外事態という言葉を忘れてしまうくらいの統計外事態だった。具体的には全部統計外事態だ。全部だ。全部。何もかも。

(以下、続く)

『統計外事態』芝村裕吏(しばむら・ゆうり)
ハヤカワ文庫JA 02月17日刊/定価:880円(税別)/カバーイラスト:POKImari

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