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『世界最凶のスパイウェア・ペガサス』池上彰氏が戦慄のノンフィクションを読み解く

プライベートなやりとりから連絡先、カメラで撮影した画像、位置情報まで。大事な情報がぎっしり詰まったスマホの中身が、もし他人に筒抜けでこっそり監視されていたとしたら……。
そんな不吉な想像が決して絵空事ではなく、ヨーロッパ、中東、アフリカ、北米、アジアなど世界各地で専制国家により行われている実態を暴く戦慄のノンフィクションが、1月22日刊行『世界最凶のスパイウェア・ペガサス』(ローラン・リシャール&サンドリーヌ・リゴー、江口泰子訳、早川書房)です。
ジャーナリストの池上彰さんによる本書の解説を、特別に試し読み公開します。

『世界最凶のスパイウェア・ペガサス』

解説:池上彰(ジャーナリスト)

あなたのスマホは大丈夫か?

駐日イスラエル大使館に取材に行ったときのこと。受付でスマホを預けさせられました。本書が描き出したようにサイバー監視ソフトを開発した企業がイスラエルの会社だと知ると、さもありなんと納得。記者が持っているスマホが、どこかの組織の監視ソフトに感染しているかもしれないと警戒しているのでしょう。

北朝鮮に入国する際には携帯を預けさせられ、出国の際に返却されます。預けているうちに何をされるかわからないので、そもそも携帯を持たずに行ったことを、本書を読んで思い出しました。

本書を読めば、「自分の持っているスマホは大丈夫だろうか」と心配になるのは当然のことです。

アメリカのNSA(国家安全保障局)による情報収集活動を暴露したエドワード・スノーデンについてテレビ番組で扱う際は、スノーデンからスタッフに対し、「番組に関する情報を記録するパソコンは、ネットに接続したことのない新品を用意し、電子レンジに保管するように」と指示を受けたことも思い出しました。

いまのパソコンにはカメラが内蔵されているものが多いのですが、スタッフは全員、カメラのレンズをテープで覆って作業しました。なぜそんなことをする必要があるのかは、本書を読めば理解できるでしょう。

パソコン類は、さまざまな諜報機関や犯罪者集団によって不法侵入を受けることが多いことは、いまや常識になっていますが、アップル社製のスマートフォンは、「セキュリティがしっかりしているから心配ない」と思われてきました。が、そうではなかったことが、本書で赤裸々に描かれています。

テロ対策は必要だが……

本書の執筆者二人は「フォービドゥン・ストーリーズ」(禁じられた物語)というNPO(非営利組織)の調査報道機関のジャーナリストです。「禁じられた物語」とは、犯罪者集団や独裁国家の体制を暴く仕事をしていたジャーナリストが、殺害されたり逮捕されたりして中断された仕事を引き継ごうという集団の名称です。

ここで登場する国は、モロッコやアゼルバイジャン、UAE(アラブ首長国連邦)、サウジアラビア、インド、ルワンダ、ハンガリーと世界各地にまたがります。こうした国々を舞台に展開されてきた諜報活動を、どうやって暴くのか。事実に基づくドキュメンタリーではありますが、まるでスパイ小説のようなスリリングな筆運びです。

彼らは2015年にパリで起きたテロ事件にあやうく巻き込まれるところでした。当時のヨーロッパではテロ事件が頻発していましたから、テロリストなどの取り締まりに何らかの対策が必要であるのは当然のことです。

そのために対象人物のスマホの中身を見たり、会話を盗聴したりできれば、なんと便利なことか。とはいっても、その対象者が無制限に拡大されては言論の自由・表現の自由・プライバシー権の侵害になりかねません。そこで欧米の民主主義国では、治安当局が会話の中身を知る際には、裁判所の令状を必要とするなど厳格な法規制が敷かれています。日本も同様です。

イスラエルの民間企業NSO(創業者たちの名前の頭文字を並べたもの)は、強力なサイバー監視ソフト「ペガサス」を開発し、世界40カ国を超える「法執行機関と国家安全保障機関」に販売。莫大な利益を上げてきました。

しかし、販売先には権威主義的な(要するに独裁的な)国家が含まれていますし、NSOが「供給していない」と言っている国の情報機関が、反政府活動家やジャーナリストの取り締まりに悪用している可能性があります。

狙われた人物をどう特定するか

著者たちは対象となっているであろう人物のスマホの番号5万件のデータを入手します。でも、この5万件のデータをどう分析すればいいのか。国際的な人権擁護団体「アムネスティ・インターナショナル」のIT専門家と協力しながら、取材を進めます。

そもそもこの番号は、ペガサスが侵入したものか、侵入対象に選ばれたものか、それとも単に検討対象になっただけのものなのか。まずはスマホの持ち主を特定できなければ記事になりません。電話番号の羅列のデータから、どうやって持ち主を突き止めるのか。

電話番号の頭にある国識別番号は最初のヒントになります。たとえばアメリカは「1」ですし、フランスは「33」、アゼルバイジャンは「994」という具合で、日本は「81」です。「994」とあれば、アゼルバイジャンに住む誰かが標的になっていることがわかります。

とはいえ、持ち主を突き止めても、「あなたのスマホが監視ソフトに侵入されている可能性があるので調べさせてください」と頼んで、相手は協力してくれるでしょうか。自分のスマホを渡せば、プライバシーが丸裸になってしまいます。嫌がる相手を、どうやって説得するか。地道な取材の過程が丁寧に描かれます。調査の時は、新型コロナの世界的な感染拡大の最中。取材対象者の国に気軽に行くことはできないという制約の中で探求は続きます。

「パナマ文書事件」方式を採用

そこで著者たちが採用した方法が「パナマ文書事件」の共同取材方式です。2015年、中米パナマの法律事務所から膨大な文書が流出。翌年には、世界の富裕層が、この事務所を使って税逃れをしていた実態が明らかになります。この文書データを受け取った「南ドイツ新聞」の記者は、一新聞社だけでは国際的な取材ができないと考え、世界各地の報道機関と連絡を取って共同取材することによって「タックス・ヘイブン」(租税回避地)の実態を暴きました。日本からもNHKと朝日新聞社、共同通信社が参加しました。

この経験を活かし、各国の主要新聞社に連絡。手分けをして取材を進めます。日本のメディアに声がかからなかったのは、おそらく電話番号の中に「81」がなかったからでしょう。

世界各国のメディアと協力といっても、容易なことではありません。定評ある新聞社であっても誰に連絡を取ればいいのか。いつも特ダネを取ろうと|虎
視眈々《こ し たんたん》と身構えている記者たちが、果たして協力してくれるのか。ベテランの記者たちは、著者たちの説明を鵜呑みにしません。このデータがどれだけ信憑性のあるものなのか、情報源は信頼できるのかと追及してきます。情報源の秘密を守りながら、どうやって海千山千のジャーナリストたちを納得させることができるのでしょうか。

電話番号の持ち主を調べているうちに、なんとフランスのマクロン大統領のスマホまでが侵入されていたことが判明します。しかし、この衝撃的な事実を最初に報じると、反体制派やジャーナリストのスマホが盗聴されていた事実の影が薄くなってしまいます。そこでプロジェクトチームは、国家元首のスマホの盗聴は、第一報にはあえて書かず、3日目に回す決断をします。メディアが特ダネをどの順番で報じるかという内幕も興味深いものです。

カショギ氏殺害事件にまで関与

私個人にとって衝撃的だったのは、2018年10月にトルコのイスタンブールにあるサウジアラビアの総領事館で、サウジの体制を批判してきたジャーナリストのジャマル・カショギ氏が殺害された事件です。アメリカCIAの報告によると、殺害に関わった15人のうち7人はサウジのムハンマド皇太子の護衛部隊に所属していました。皇太子の指示がなければ、このような犯行に及ぶことなどできません。

当時のアメリカのドナルド・トランプ大統領は、アメリカが石油を買い、アメリカの兵器を大量に買ってくれるサウジに配慮して、事件を不問に付しました。

この事件について、サウジの皇太子は関与を否定。NSOもペガサスは使われていないと否定しましたが、著者らの取材によって、カショギ氏の婚約者とその弁護士のスマホがペガサスの侵入を受けていることがわかりました。サウジがカショギ氏の言動を日頃から監視していたのです。

アップルとの戦いの舞台はイスラエル

アップルのスマートフォンに侵入してスパイソフトを植え付けようとする組織は少なくありません。そこでアップルは、新製品を売り出した後も、自社製品に侵入されやすい弱点を見つけると、すぐに対策を取ります。するとNSOのIT技術者は、別の弱点を探り、アップルに気づかれない侵入方法を考え出します。盾と矛の競争です。

ところが皮肉なことに、アップル最大の研究開発部門の施設は、イスラエルに建設されました。イスラエル軍は「8200部隊」と呼ばれる世界最強のサイバー部隊を擁し、高度なサイバーソフトを開発しています。この部隊から退役した優秀な若者たちは、イスラエル国内のIT企業に就職したり、起業したりしています。アップルは、優秀なエンジニアを採用しやすい場所に施設を作ったというわけです。

ところが、それはNSOも同じこと。アップルの研究施設の近くで、NSOのエンジニアたちは、アップルのスマートフォンの脆弱性を研究していたのです。

NSOは消えても……

著者らの集積した情報にもとづき、2021年7月18日の日曜日の夜、10カ国17の報道機関が一斉に報道を開始します。

NSOは報道内容を全面否定しますが、NSOに投資してきた各社は手を引き、大統領が盗聴されていたことに衝撃を受けたフランス政府が捜査を始めると、NSOは万事休す。結局、姿を消すことになりました。

この時点で、著者らの努力は実りましたが、反体制派やジャーナリストの動向をスパイしたいと考える独裁政権は多数存在します。需要あれば供給あり。NSOの後を継ぐ組織は、いくらでも生まれます。本書の最後の文章が象徴的です。

本書に日本は登場しませんでしたが、日本政府だって、テロ組織や過激派集団の動向を探るために効果的な手法を編み出したり、導入したりしているはずです。でも、それは限られた対象だけなのでしょうか。いったん開発された技術は、誰に対しても使われる可能性があります。

あなたのスマホは、大丈夫ですか?

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著者略歴
ローラン・リシャール
 Laurent Richard
フランスを拠点とする調査報道の非営利組織(NPO)「フォービドゥン・ストーリーズ」の創設者。同NPOは、スパイウェアを使ったジャーナリストへの脅迫・弾圧の実態を報道した「ペガサス・プロジェクト」の功績により、2019年欧州報道賞など数多くの賞を受賞した。ドキュメンタリー制作者としても活動しており、タバコ産業、金融業界、モサド、CIAなどを題材に取材・報道を行なっている。
 
サンドリーヌ・リゴー Sandrine Rigaud
フランスのジャーナリスト。「フォービドゥン・ストーリーズ」編集長。「ペガサス・プロジェクト」のほか、メキシコにおける麻薬カルテル・プロジェクトの国際調査の中心メンバーでもある。同NPOに入る前は、フランスのテレビ局で長篇ドキュメンタリーを制作、タンザニア、ウズベキスタン、レバノン、カタール、バングラデシュなどで取材に従事した。

訳者紹介
江口泰子
 Taiko Eguchi
翻訳家。法政大学法学部卒。訳書にマークォート『ニューノマド』、ソールツマン『2038年のパラダイムシフト』、パーロース『サイバー戦争 終末のシナリオ』、パトリカラコス『140字の戦争』(以上早川書房刊)、フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』ほか多数。

【本書の概要】
『世界最凶のスパイウェア・ペガサス』
著者:ローラン・リシャール&サンドリーヌ・リゴー
訳者:江口泰子
出版社:早川書房
発売日:2025年1月22日
本体価格:3,000円(税抜)