悲劇喜劇2019年11月号

カミュ・ニーチェ・アルトー:フランス演劇の70年とともに         堀切克洋(演劇批評家)

「悲劇喜劇」2019年11月号では、フランスの小説家・劇作家であるアルベール・カミュを大特集しました。44歳でノーベル文学賞を受賞し、不慮の事故によって46歳の若さで亡くなるまで、小説『異邦人』や戯曲『カリギュラ』『誤解』などを発表。その作品は「不条理」とそれに対する「反抗」というテーマで貫かれています。

フランス在住の演劇批評家・堀切克洋氏が、フランス演劇の戦後七十年の歴史にふれつつ、これまでにない形でカミュに光をあてた論考です。
誌面の都合により、短縮版を本誌に掲載しましたが、今回はその二倍近い長さの「完全版」を公開します。

悲劇喜劇2019年11月号

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カミュ・ニーチェ・アルトー
 ――フランス演劇の70年とともに  

堀切克洋(演劇批評家)

1947年1月13日21時、パリのヴィユ=コロンビエ座で、アントナン・アルトーの講演会が始まろうとしている。アルトーは半年前に、九年間にわたる精神病院での「幽閉」から解放されたばかり。大方の予想通り、客席は異様な熱気と不安に包まれている。座席数360の劇場には、少なく見積もって500名、いや600名以上の「観客」が集まっている。そこにはジッドやブルトンと並んで、ピカソやサルトル、そしてカミュの姿もあった。
 日本の現代演劇におけるカミュ受容は、このような現実の一コマを切り捨ててきたのではなかったか。それは、カミュがサルトルと並ぶ「実存主義」や「不条理」の作家として数えられてきたこと、そしてアルトーが寺山修司や唐十郎、鈴木忠志といったアングラ世代の演出家によって初めて読まれてきたという国内的な事情に拠っているのだろう。本稿では、アルトーに多少なりとも関わってきた者の立場から、日本におけるカミュの演劇作品のアクチュアリティについて考えてみたい。

■マリア・カザレスへの「愛」
 その前に、フランスにおけるカミュの過去と現在について、簡単に触れておこう。日本では、カミュの作品は知られていても、私生活まではあまり知られていないが、2017年にフランスでは、女優マリア・カザレスとの往復書簡を集めた書物が刊行された。前年には、フランソワ・ミッテラン元大統領が愛人であった美術史家アンヌ・パンジョに送りつづけた書簡集が公刊されて、話題を呼んだばかりであった。
ミッテランが49歳のとき、恋に落ちた相手は19歳の女性だったわけだが、周知のように、現大統領のエマニュエル・マクロンがブリジット夫人と恋に落ちたのは、彼が高校生の15歳のときのことだった。同級生の母であり国語教師だったブリジットは、24歳年上であったが、彼女の離婚が成立した2007年にふたりは結婚している。愛とは、個人のレベルで「自由」をもっとも体現できる行動なのである。現在では、夫婦間がセックスレスに陥れば、子供がいようといまいと、たちまち離婚問題に発展するのがフランス。子供のことを思って……などと仮面夫婦をつづける日本とは大違いである。もちろん、そうしたメンタリティの差は、共同親権であることに加え、女性がどれだけ社会的自立をしているかにも関わっている。
カザレスは、フランスの20世紀後半を代表する悲劇女優だが、彼女はカミュの三人の愛人のうちのひとりでもあった。ふたりの出会いはミシェル・レリスの自宅、1944年3月にまでさかのぼる。当時、カミュ30歳、カザレス21歳であった。占領下のパリで、演劇に情熱を注ぐふたりは、やがて愛し合うことになる。カミュの妻であるフランシーヌ夫人は後年、夫の不倫に悩みつづけて自殺未遂を図ったが、カミュは1960年に交通事故で亡くなる直前まで、カザレスと手紙や電報で連絡を密に取り合っていた。
カミュにとって、カザレスは生涯にわたって「ただひとりの女性」だったのである。1944年に初演した『誤解』のなかでは、彼女をマルタ役に起用している。陰鬱な祖国で母と惨めな生活を余儀なくされているマルタは、(カミュと同様に)結核を持病としてもっていて、フランコ政権下のスペインから逃れてきた若い女優のイメージと、ぴったりと重なりあうものだったろう。カザレスは、カミュについて「父であり、兄であり、友人であり、恋人であり、ときには息子」であるという言葉を残している。
 そんな事情もあって、カミュは『異邦人』や『ペスト』で著名な小説家であると同時に(前者の翻案であるダーヴド・カメルの小説『もうひとつの『異邦人』: ムルソー再捜査』はフランスでも話題を呼んだ)、フランスでは演劇人としても十分に認知されている。もちろん、小説も演劇も「文芸」のひとつという緩やかな認識のもとで、明確に両者が区別されていないこの国では、肩書きがひとつであることのほうがめずらしい。実際に、カミュは文学者であり、演劇人であり、哲学者であり、そしてジャーナリストでもあった。

■カミュとアルジェリア戦争
 ただし、カミュの演劇作品が、フランスで頻繁に上演されてきたかというと、そうではない。カミュが死んだ1960年は、フランスという国家が年頭からアフリカ植民地の独立を次々に承認していった年である。一方で、カミュの祖国であるアルジェリアでは、ヨーロッパ系入植者(コロン)とアラブ・ベルベル系の先住民のみならず、親仏派と反仏派やフランス軍部と政府など、さまざまな利害関係が交錯してテロが多発し、戦争が泥沼化していったことは周知のとおりだろう。
カミュは、曾祖父が19世紀初頭にフランスからアルジェリアへと渡ったいわゆる「移民4世」であるが、母親もスペイン系の移民3世であるという点は、この作家に単純な立場に立つことを許さなかった(さらにこの点は、カミュのカザレスへの「愛」とおそらく無関係ではない)。結果的にカミュは、故郷で起こっている戦争のさなかにも、「フランスとアラブの共同体」という構想を捨てきれず、多くの批判を集めることになってしまった。アルジェリア戦争が終結するのは、カミュの事故死のあと、62年まで待たなければならない。

■カミュ没後のフランス演劇史(概略)
演劇史を振り返ってみれば、この時期からロジェ・プランションなどの活躍により、フランスは「演出家の時代」に入っていった。古典のあたらしい解釈を、舞台空間と俳優の演技によって作品化するという美学が共有されることになっていったのである。これはやがて70〜80年代の、アントワーヌ・ヴィテーズやパトリス・シェローといった演出家の仕事へとつながっていくが、舞台をこよなく愛したノーベル賞作家の劇作品は、アルジェリア戦争との関わりを差し引いても、それほど関心の対象とはならなかった。
 その一方で、「68年5月」という時代にあって、作品の統率者である演出家の「権力性」については、さまざまなかたちで疑問が投げかけられることにもなっていく。その代表例と言えるのが、本年〔註:2019年〕「京都賞」を受賞したアリアーヌ・ムヌーシュキンが生み出した『1789』(1970年初演)と『1793』(1972年)というふたつの革命劇である。
ムヌーシュキンは、演出家が頂点に立つのではない集団創作という手法によって、フランス革命を二部作によって描いて話題を呼んだ。しかも太陽劇団(テアトル・ドゥ・ソレイユ)は、パリ郊外のヴァンセンヌの森にある弾薬庫跡を修復して自前の劇場にしてしまったのである。この劇団の俳優の演技は、公的組織で習うようなものではなく、むしろ即興を基礎とした昔の「縁日芝居」を彷彿とさせる。東洋演劇への関心も深く、カタカリや文楽を取り入れた作品もある。新作が上演されるとなれば、劇場のあるカルトゥシュリには、いまでも多くの「芝居好き」が詰めかける。
同じ時期、ジャン=ルイ・バローが招聘によって、「何もない空間」というテーゼで有名な演出家ピーター・ブルックが、パリ10区の劇場を修復してブッフ・デュ・ノール劇場を立ち上げた。1974年のことである。ロンドン生まれのブルックは、ジャック・コポーやエドワード・ゴードン・クレイグの理念を継承しながら、シェイクスピアやベケットだけでなく、アルトーから世阿弥までのテクストを駆使して作品を制作していった。アヴィニヨン演劇祭において、ブルボンの石切場という「何もない空間」で『マハーバーラタ』を上演するのが、1985年のことである。
これらと並行して、イェジィ・グロトフスキやエウジェニオ・バルバといった「肉体派」の演劇人たちが、フランスにあたらしい演劇的探求をもたらしたことにも触れておかなければならない。ポーランド出身の演出家グロトフスキは、俳優の身体や記憶に生じる変化に注目し、精神障害をもつ人たちによる劇団を創設するなどの実験を行ったが、彼の思想に共鳴したデンマーク人のバルバは、人類学的な観点から世界中のさまざまな身体技法を解き明かそうと試みた。その成果の一部は『俳優の解剖学』(PARCO出版、1995年)として日本語でも読むことができる。
セノグラフィーの美学や俳優の演技の探求を見ると、いかにも華々しい歴史であるようにも見えるが、90年代ごろになるとまた新しい問題が浮上してくる。劇作家の枯渇である。ベケットやイヨネスコ以降、ジャン=リュック・ラガルスやベルナール=マリ・コルテスが登場するまで、「現代」を描く劇作家の大空位時代なのだ。家族劇を得意とするラガルスは自身も演出を手掛ける劇作家であったが、95年にエイズで絶命。人間の絶対的な孤独を描くコルテスは、シェロー演出によって一気に有名になったが、89年にやはりエイズで亡くなっている。
2000年代に入ってからのフランスの舞台芸術は、ますます国際的文脈を無視できなくなりつつある。アヴィニヨン演劇祭では、トーマス・オスターマイヤ(ドイツ)やヤン・ファーブル(ベルギー)、あるいは振付家のジョゼフ・ナジらが芸術監督に起用され、演劇美学の複数化にますます拍車がかかった。現在、芸術監督を務めているオリヴィエ・ピィの仕事も(そして2017年に演劇祭のオープニングを宮城聰/SPACが飾ったということも)広い意味では、そのような文脈に位置づけられよう。近年では、ジョエル・ポムラ、ジゼル・ヴィエンヌ、ジャン=クリストフ・ムリスのようにカンパニー単位で活動するアーティストも増えているし、ヴァンサン・マケーニュのように映像から舞台へと活動の幅を広げる者もいる。

■フランスにおけるカミュ上演
こうして、小さな民間の劇場での上演を除けば、カミュの劇作品がメインストリームで話題になることは、フランスでは稀である。たとえば、アヴィニヨン演劇祭でカミュの作品が上演されたことも、私の知るかぎり、1947年の創設以来、一度としてない。2005年にフィリップ・ベルランという演出家が『ムルソー』という作品を上演しているが、これはタイトルからも予想されるとおり、前述のベストセラー『もうひとつの『異邦人』』の舞台化である。2018年には、前述のカザレスとの往復書簡が、特別企画のひとつとして、イザベル・アジャーニとランベール・ウィルソンによってリーティングされている。
逆にいえば、フランスでのカミュ作品の上演は、今日にいたるまで、演出よりもキャスティングが重要な要素でありつづけている。たとえば、コメディ・フランセーズでは、1992年に『カリギュラ』の翻案が上演されているが、このときに演出を務めたのは、エジプトの映画監督ユーセフ・シャヒーンであった。2005年には、エトワールであるニコラ・ル・リッシュの振付によって、パリ・オペラ座が同作品をバレエ作品として上演している。
ちなみに私が唯一、フランス国内で見たことがあるカミュ作品は『正義の人びと』で、国立コリーヌ劇場での2010年の上演である。このときの売りのひとつもやはり、演出家スタニスラス・ノルデーの母ヴェロニク・ノルデーや、映画女優として有名なエマニュエル・べアール、日本でのその作品が話題になったワジディ・ムアワッド(現・コリーヌ劇場芸術監督)が出演するというものだった。『正義の人びと』は、2019年10月にシャトレ劇場で上演されたばかりだが、こちらはコンゴ系フランス人のラッパーであるアブダル・マリクによる翻案・作曲のミュージカル作品である。

■ニーチェに対する愛
 こうしてフランス演劇史を駆け足で復習してみると、カミュの劇作品はどうにも古臭く感じられてしまうが、忘れてはならないのは若きカミュが、「イタリア式舞台」と呼ばれる額縁タイプの劇場で上演される「古臭い」演劇に辟易して、新しい客席と舞台の関係を生み出そうとしたモダニストであったということである。やがて彼は、既存の劇場で公演を打つようになったが、晩年になると、失敗作として打ち切りになった『戒厳令』(1948年)を、いつか屋外で上演したいと考えるようになっていた。
カミュが理論的な参照点としたのは、戦間期のパリで活躍した「カルテル」、なかでもジャック・コポーの革新であった(冒頭のヴィユ=コロンビエ座は、コポーが創設した劇場であり、もともとは後述の文芸誌の演劇部門)。コポーがジッドについで2代目の編集長を務めた文芸誌『新フランス評論』誌の読者であったカミュにとって、1930年代、そこに現れたアルトーの演劇論も、刺激に満ちていたにちがいない。
そう考えてみると、カミュが第3代ローマ皇帝の暴虐を描いた『カリギュラ』(1938年)は、アルトーが両性具有たることを願う若き第23代ローマ皇帝を描いた『ヘリオガバルス』(1934年)と、ひとつの世界観を共有しているようにも思えてくる。
カミュとアルトーをつなぐ導きの糸は、ニーチェである。カミュはおそらく、アルトー以上に、ニーチェを愛読していた。実際に、『シジフォスの神話』(1942年)におけるニーチェの引用には、キルケゴールやフッサールといった哲学者たちとは異なる地位を与えられている。当時、反ユダヤ主義には嫌悪感をもっていたはずのニーチェが、目の前でナチスによって利用されていくのを、カミュは腹立たしく思っていたことだろう。
もっとも、1942年以降はこのドイツの哲学者に対してカミュは距離を取ることになるが、『悲劇の誕生』のあとで、いかにギリシャ悲劇(とくにアイスキュロスの戯曲)のアクチュアリティを引き出すかという問題意識がふたりには共通している。また、共通の友人であるジャン=ルイ・バローもまた、『ツァラトゥストラはかく語りき』をみずから上演しているように、ニーチェを偏愛していた。

■ペストという主題
カミュ単独の劇作のうち、もっともアルトーとの接近を感じさせるのは、バロー演出・主演で初演された『戒厳令』である。小説『ペスト』刊行の翌年に上演された、暴君ペストの猛威に愛し合う男女が反目しあう「愛の戯曲」だ。このとき、バローとカミュがアルトーの「演劇とペスト」について語り合わなかったとは考えにくい。この作品が生まれるより先に、アルトーの主著である『演劇とその分身』(1938年)も刊行されていた。
「人殺しの興奮は、その行為を完成すると放電してしまう。力との接触を失う。(…)ところが、俳優の興奮は一つの形式を取る。そしてその形式は、姿を現すにつれて、自らを否定し、普遍性のなかに溶け込んで行く」(『演劇とその分身』安堂信也訳、白水社、1996年、38頁)。
アルトーやカミュが、ともに残虐なローマ皇帝に注目したのは、その非人間性と呼びたくなるような〈ディオニュソス的なもの〉こそが、人間性なのだとニーチェに倣って考えたからだった。そして、この点にこそアルトーの演劇論が、そしてカミュの戯曲が、現代で読まれつづけなければならない理由がある。
なぜなら現代は、そのような「非人間的」に思える出来事が、メディアを通じて日常化している時代であるからだ。アルトーは、『演劇とその分身』の序文のなかで、このように書き綴っている。
「いまだかつて、これほど犯罪の多かったことはないが、それらの犯罪の奇怪な無償性も、我々が生を所有することができなくなっているということでしか説明できないのである」(前掲書、11頁)。
私たちは社会や身体といった何らかのシステムの一部にすぎず、完全に自由にふるまうことなどできない。そのことをマルクスは経済学で、フロイトは精神医学で論証してきた。つまり私たちはあらゆる点で「不自由」であり、犯罪とは「自由」を追い求めた結果にすぎないと考えるアルトーは、ペストの特徴が「精神的自由」にある(がゆえに、演劇と類似している)と論じたのである。

■性的放縦という「自由」
アポロを掲げて理性を尊んでいたギリシャに、あるときから押し寄せてきたディオニュソスの祝祭とは、オルギアと呼ばれる「性的放縦」であった。この点でいうと、アルトーは自身の「残酷の演劇」を説明するために、フォードの『あわれ彼女は娼婦』の結末の場面を例にあげている。この作品と同様に、カミュの『カリギュラ』においても兄妹の近親相姦がポイントになっている点は、やはりアルトー=ニーチェとの接続点である。
フォードの戯曲では、最愛の妹を他の男に奪われることの嫉妬から、兄は妹を殺し、自身の心臓をも抉り出して披露することで終幕となる。一方でカミュの戯曲では、他の男から奪い返した妹に死が訪れたことで、兄が妹と引き裂かれることから、舞台がはじまる。カリギュラの過激な行動や言動は、『あわれ彼女は娼婦』の兄ジョヴァンニと同じように無益であり、不条理である。
この「無益さ」は、まさしく「善悪の彼岸」にある。それゆえに、観客はカタルシスは得られず、もやもやした気分でカーテンコールに拍手を送ることになる。自身の欲望に忠実になれないことも自覚できないまま、人前で性的欲望を語ることに羞恥心を感じてしまう「奥ゆかしい」観客においては、なおさらだろう。もしかすると近年、日本で『あわれ彼女は娼婦』や『カリギュラ』が上演されるのは、性に関して保守化が進行していることの顕れなのかもしれない。
たとえば、不倫に対するバッシングの加熱は、まさに性的放縦という「自由」に対する羨みの裏返しであろう。90年代の学習指導要領改定によって具体的指導が盛り込まれた性教育が、2000年代に入って後退したという事情も忘れてはならない。賃金が上がらず、労働時間が短縮化されない社会ではセックスを楽しむ余裕など生まれようがないだろう。少子化や女性活躍がトピックになりながらも、「セックス離れ」が問題視されないのは、どこかおかしい。もしかすると、戦間期のフランス人よりも、今の日本人は性に「罪の意識」を感じているのかもしれない。
アルトーが、そしてカミュがニーチェの〈ディオニュソス的なもの〉に着目しながら演劇を構想したことを思い出すとき、私たちを苦しめている現代の「不自由」の正体が何なのかという問いのアクチュアリティは、けっして失われることがないだろう。世界情勢が混迷を極めるがゆえに、数的少数の反対意見を圧殺してまでも、「秩序の復活」や「伝統への回帰」を重視する右派的な主張が世界中で支持を拡大しつつあるいま、60年前にサルトルによって批判されたカミュの「あいまいさ」は、新たな意味を獲得しつつあるのかもしれない。


堀切克洋(ほりきり・かつひろ)                  1983年、福島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。専門はアントナン・アルトー研究、舞台芸術論、表象文化論。2013年、第17回シアターアーツ大賞受賞。共訳に『ヤン・ファーブルの世界』(論創社、2010)、上田洋子・内田健介・永田靖編『歌舞伎と革命ロシア』(森話社、2017)、共同執筆に大笹吉雄他編『日本戯曲大事典』(白水社、2016)など。俳人としても活動し、第一句集『尺蠖の道』により第42回俳人協会賞新人賞受賞。現在、パリ在住。



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