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新川帆立さん推薦のリーガルサスペンス『ボーイズクラブの掟』訳者あとがき

早川書房では、現役弁護士エリカ・カッツのデビュー作『ボーイズクラブの掟』(原題:The Boys' Club)を刊行しました。ニューヨークの大手法律事務所で働き始めた新人弁護士が見た業界の光と闇を描くリーガルサスペンスで、アメリカでは#MeToo小説としても注目されました。そんな本作の読みどころとは──。訳者の関麻衣子さんによるあとがきです。

装画:加藤木麻莉/装幀:早川書房デザイン室

あらすじ:マンハッタンの大手法律事務所で働く新人弁護士アレックスは、女性が年に一人しか採用されないというM&A部門に精鋭として引き抜かれる。大きなプロジェクトを任され、一流レストランでの接待が続くが、華やかな生活にも影が差し始める。過重労働、組織の腐敗、不倫、セクハラ、薬物――自身の立場を守るため、男社会(ボーイズクラブ)のルールに彼女は徐々に染まっていき……。現役弁護士による、組織の中の女性の闘いを描くサスペンス

訳者あとがき

〈コーポレート・アメリカ〉──アメリカ合衆国のビジネス社会がもっとも凝縮されている場所といえば、おそらく誰の頭にもニューヨークが浮かぶのではないだろうか。圧倒されるほどの摩天楼が建ちならび、金融の中心地としてよく知られているこの街は、米国内で最大の法務マーケットでもある。NYマンハッタンには膨大な数の法律事務所が存在し、最大規模の事務所は弁護士数6000人(国内外の支部に在籍する総数)を超えるという。日本では最大規模の事務所でも弁護士数600人程度なので、スケールのちがいに圧倒されてしまう。

 さて、こうしたビジネス街の法律事務所や弁護士たちは、どんな仕事をしているのだろうか。企業を依頼者とした法律事務所の業務内容は、主にビジネスの法的側面を支えることであり、そこで働く弁護士たちについては、ドラマなどで颯爽とした姿が描かれている。だが、実情については一般の人々にあまり知られていないことだろう。

 企業において、法律家の助言を必要とする場面は驚くほど多い。取引先との契約等の監修、企業間の紛争の対応、知的財産の保護、社内のパワハラやセクハラといった問題への対処、専門的なビジネスのサポート。日々、弁護士たちは膨大な量の文書と格闘し、パソコンに長時間張りついている。地味と言ってしまえば身も蓋もないが、企業社会の法的側面は、そういった多数の弁護士たちのコツコツとした仕事ぶりに支えられている。

 著者エリカ・カッツはこの〈コーポレート・アメリカ〉において企業法務を手がけている現役の弁護士であり、本書『ボーイズクラブの掟』がデビュー作となる。物語の主人公は一流大学と一流ロースクールを卒業し、大手法律事務所(ビッグ・ロー)のなかでもひときわ名高いクラスコ&フィッチ法律事務所に就職が決まった新人弁護士、アレックス・ヴォーゲル。彼女が目指すのは、事務所内でトップの売上げを誇り、そこで働けるのは精鋭だけと言われているM&A部門(企業の買収、合併をサポートする業務分野)である。元競泳選手であるアレックスは、そこがもっともハードルの高い部門と聞いて闘争心を搔きたてられる。恋人サムとM&Aの仕事はしないと約束したにもかかわらず、それを反故にして、意気衝天とばかりに仕事に挑んでいくのだ。

 さて、このM&Aについて少し触れておきたい。日本では1990年代までほとんどなじみのない言葉であったが、銀行の経営破綻が問題となり、2000年代には盛んにM&Aが行なわれるようになった。売却の理由は経営状態悪化や後継者難によるものが多く、どちらかというとマイナスのイメージがつきやすいかもしれない。一方のアメリカは事業の売却が盛んに行なわれている国で、会社を商品と捉え、「一番高く売れる時に売る」という考え方があるとのこと。アメリカ人にとって多くの場合、事業売却は前向きなものであり、それゆえに市場規模もかなり大きい。法律事務所において花形の業務部門であり、企業法務を目指す新人弁護士たちに人気が高い分野であることもうなずける。

 主人公の初出勤の日から始まる本書では、わたしたちも彼女と同じ目線で企業法務の世界に足を踏みいれるような感覚を味わえる。初日に着ていく服に悩み、同僚たちの様子をうかがい、研修でさっそく大失態を演じ、第一線で働く弁護士たちの姿に羨望のまなざしを向ける。ユーモラスなタッチで描かれていく新人弁護士の日常は、徐々に本格的に業務をこなすようになるにつれてその様相を変化させていく。M&A部門ではとてつもない長時間労働が常態化し、一日二日の泊まりこみはあたりまえ、シャワーを浴びる時間すら取れないという日々なのだ。そして弁護士たちはそんな働き方を憂うどころか、むしろ誇らしげにしている。業務自体はパソコンに張りついてばかりの地味なものではあっても、激務をこなしたあとに入ってくる高額の報酬や、マンハッタンの一流レストランでの華やかな接待など、まさにドラマで目にするようなNYの弁護士たちの風景も、たしかに存在している。

 そして光があれば闇もあるわけで、アレックスは少しずつ事務所やクライアント、弁護士たちの裏の顔を目にすることになっていく。そもそも女性弁護士がきわめて少ないというM&A部門では、接待の場でクライアントと女性の外見をあけすけに語ったり、露骨な下ネタを話したりと、"ボーイズクラブ"と揶揄されるだけの実態がある。それでもこの花形部門に席を確保するのに必死なアレックスは、雰囲気を壊さないように努め、セクハラおやじを手なずけるかのように、その場を乗りきってみせる。それが正しいことなのか、という心の声に気づいていても、アレックスはそれを打ち消すべく、仕事と接待に明け暮れる日々を送るのだ。

 優等生の新人弁護士だったはずのアレックスも、過酷な長時間労働により恋人サムとの関係が悪化し、周囲の堕落した人間たちに染まっていってしまう。それと同時に、最大手クライアントのゲイリー・キャプランの存在が、不気味な影のようにアレックスにまとわりついていく。くわしい描写はぜひ本篇でお読みいただきたいところだが、著者はアレックスを待ちうけている出来事について"読者がどう受けとめるのか、よく考えて議論してみてほしい"と語っている。

 なお、本書の内容はすべてフィクションであるとはいえ、業務や接待の場面などは著者の実体験にもとづいて書かれているそうだ。そして弁護士たちの裏話については"残念なことに、実態とかけ離れているとは断言できない"とのこと(いかにも弁護士らしい言いまわしである)。

 ここであらためて、著者エリカ・カッツについてご紹介しておこう。本名は非公開、ニュージャージー州生まれで、NY在住、大手法律事務所に勤務している現役の弁護士である。子どものころから文章を書くのが好きで、手紙をしたためては送らずにすませることが多かったという。小説執筆を意識しはじめたのは2016年ごろで、トランプ大統領の誕生やMeToo運動など、世間の動きに多くを感じるようになり、執筆意欲が湧いたとのこと。なお、最初に書いたのは社内不倫をテーマとした小説だったそうだが、最終的に主人公のことが憎らしくなってしまい、途中で断念したと語っている。そしてその作品の一部を残しつつ、主人公の仕事ぶりや人間関係に比重を置いた小説として書きなおし、本書が完成したという経緯があるそうだ。

エリカ・カッツ
©Sylvie Rosokoff

 主人公アレックスの奮闘や人間関係、ままならぬ私生活とその心情を赤裸々につづった物語である本書は、2020年に本国アメリカで注目を集めて数々のメディアで取りあげられ、2020年コスモポリタン誌ベスト・サマー・リード12選、2020年ニューヨーク・ポスト紙ベスト・サマー・ブックス30選、バズフィードが選ぶ2020年もっとも売上げの期待される本などに選出されている。さらに、ネットフリックスが映像化の権利を買い取ったことが公表されており、完成を楽しみに待ちたいところである。

●訳者略歴
関麻衣子(せき・まいこ)
英米文学翻訳家 訳書『白が5なら、黒は3』ヴァーチャー,『弁護士ダニエル・ローリンズ』メソス(以上早川書房刊)他多数

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