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動物は互いをどう呼び合っている? 人が付けた名前への反応は? ドイツで27万部のベストセラー『動物たちの内なる生活』(早川書房)から特別抜粋

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動物たちの内なる生活 森林管理官が聴いた野生の声
ペーター・ヴォールレーベン/本田雅也訳 早川書房

「命 名」

私たちには当たりまえなことだけれど、コミュニケーションをとるとき、私たちはおたがいを名前で呼び合える。大きな社会のなかで誰かとつつがなく接触を持つためには個人の名前が必要であり、その名前を口にすることで、人は相手の注意を自分に向けることができる。Eメールでもメッセンジャーアプリでも電話でも、あるいは面と向かっての会話でも、名前という直接的な呼びかけの形式がなければうまく立ちゆかない。名前って大切だなとあらためて気づくのは、前に会ったことのある人と再会して、その相手の名前を忘れてしまったときだ。命名というのは人間に特徴的な習慣なのか、それとも人間以外の動物界にもあることなのか? 社会生活を営む種なら結局どれも、同じ問題を抱えているはずだ。

哺乳類の母と子のあいだには、シンプルな形としての名付けがある。母親は特徴ある声を発し、それによって子どもは母親を認識し、自分のほうも特有の高い声で応える。だが、それは名前といってよいのか、それとも声の認識の問題にすぎないのだろうか? 後者を支持する議論としては、母子関係に特有のこのような「名前」は時とともに消えてしまうことが挙げられる。子どもが成長して離乳すると、母親はその声に反応しなくなるのである。誰もそれに反応してくれない自分の名前など、なんの意味があるというのだろう。一時的にしか意味を持たない呼びかけなど、名前と言えるのだろうか?

そういう呼び声のことは却下するとしても、動物界には真の固有名と言えるものが存在することを、科学者たちは見出した。それがここでもまたワタリガラスだったのは、偶然ではない。彼らの親密な関係こそ、そのような問いに答えるための理想的なバックグラウンドとなる。というのも、ワタリガラスは親子間だけでなく友人とのあいだでも生涯にわたる関係を育むからだ。遠く離れた相手と意思を通じあわせよう、とりわけ相手が誰なのか確かめようと思えば、名前を呼ぶのが手としては最善である。ワタリガラスは八〇以上の異なる鳴き声を使い分ける。つまり、カラス言葉だ。そのなかには、ここに自分がいると仲間に伝える個人識別用の鳴き声がある。それはもうほんとうの名前と言っていいのだろうか? 人間が用いているような意味での名前だと言えるのは、ほかのカラスが相手にたいしてその個人識別用の鳴き声を使って「呼びかける」ときだけであり、そしてワタリガラスはまさにそうするのである。彼らは仲間の名前を、たとえ接触が絶えたとしても、数年以上にわたって記憶している。知り合いが上空にあらわれて遠くから自分の名前を呼んだとき、答えかたにはふたつの可能性がある。戻ってきたカラスがかつての友人なら、高く親しげな声で応える。それが嫌われものなら、あいさつは低くぞんざいなものとなる。同様の傾向は、私たち人間においても観察される。

動物がおたがいに名前をつけあうという例は、なかなか見出すのが難しい。それよりずっと簡単なのは、私たちが動物をある決まった名前で呼び、それに当の動物が反応するかどうか見ることだ。けれどペットを一匹だけ飼っている場合には、また別の難しさがある。たとえばわが家のイヌ、マクシが自分の名前を聞いたとして、それを「ハロー!」とか「こっちへおいで」という意味で理解してはいないと、どうしたらわかるだろう? イヌが数匹いるのなら、その判定は容易なのかもしれないが。だがここでは再度、あの賢いブタたちに戻ってみたい。ブタはまさにこの点にかんして、研究者によって詳しく調べられているのである。きっかけは、現代の畜舎に広まっていた「押し合いへし合い」だった。かつてエサは長い溝に流し込まれ、ブタたちはみないっせいに食べることができた。今日ではすべてが完全自動化され、コンピューター制御で一頭一頭のエサやりがコントロールされる。だがそのような設備はとても高価なためにじゅうぶんな数の機器をそろえきれず、畜舎にいるブタのすべてが同時に食べることができなくなった。列を作って順番待ちをさせられるのだけれど、お腹が鳴ればブタだって私たちと同じように不機嫌になる。列のなかで押したり突いたり、ときにはおたがいを傷つけあったりするようになった。そこで、前と同じようにお行儀よく食事ができるよう、フリードリヒ・レフラー研究所〔連邦動物衛生研究所〕の「ブタ」作業グループの研究者たちが、ニーダーザクセン州メクレンホルストにある実験農場でブタたちにマナーを教え込もうと試みたのである。八頭から一〇頭の一歳仔からなる小さな「学級」で、ブタたちは自分の名前を習わされた。若者たちがもっともよく記憶できるのは、三音節の女性名だった。一週間のトレーニングのあと、ブタたちは大きな集団にまとめられて畜舎に戻された。さて、エサやりの時間はどうなったかといえば、とてもわくわくさせるものだったのだ。順番が来ると一頭ずつ名前を呼ばれる。結果は──うまくいったのである! たとえばスピーカーから「ブルーンヒルデ」と流れると、呼ばれたブタが立ち上がってエサの入った容器へと突進する。一方ほかのブタたちはみな、自分がいまやっている作業──うつらうつらしたりなど──に専念している。心拍数を測ると、名を呼ばれたものだけが上昇し、残りのブタたちは高くならなかった。この新システムの目標達成率は少なくとも九〇パーセントで、畜舎に秩序と落ち着きをもたらす手法のひとつとされた。

では、このみごとな発見からさらなる意味をくみ取ることができるだろうか? ある特定の名前が自分自身と結びついていると知っている、その前提には自意識の存在がある。そして自意識は意識よりもひとつ上位のものだ。後者が思考のプロセスを意味するだけであるのにたいし、自意識とは自分というもの、つまり自我の認識にかかわるものだからである。動物がそのような能力を持っているかどうか科学的に調べるために考案されたのが、ミラーテストだ。鏡像が同種の仲間ではなく自分自身の姿を映すものだと認識できれば、自分自身についての思考を持っているはずだと見なすというもので、この手法を考えたのは心理学者ゴードン・ギャラップである。彼は麻酔をかけ動けなくしたチンパンジーの額に染料で印をつけ、続いてその前に鏡を置き、チンパンジーが目を覚ましたときになにが起こるかを観察した。するとチンパンジーは、鏡に映る自分そっくりな姿を寝ぼけ眼で見るやいなや、おでこの染みを取り去ろうとしはじめた。あきらかに、光るガラスのなかにいるのは自分自身だとすぐに理解したのである。それ以降、このテストをパスした動物は自意識を持つと見なされるようになった。ちなみに人間の子どもがこのテストに合格するのは、生まれてからおよそ一八か月目以降である。これまで類人猿やイルカ、ゾウがミラーテストをパスし、研究者の耳目を集めた。

カラスの仲間、たとえばカササギやワタリガラスも自分の鏡像を認識することがわかったときには、みな驚いた。彼らはその知性ゆえに「空飛ぶサル」とも呼ばれるようになった。それ以降あらたな発見はしばらくなされなかったが、とつぜんブタが論文のなかに登場する。ブタだって? そう、彼らも例のテストにパスしたのである。「大規模畜産のサル」的な呼称がいまだ定着していないのは残念だ。もしそんな認識が広まっていれば、今もまだおこなわれているような心ないやりかたでブタたちを扱うことなど、どうしてできようか。知的な動物に痛みの感覚のあることがまだ認められていないのは、生後数日の子ブタに麻酔なしで去勢手術することが2019年までは許されているという事実が証明している。そのほうが手早く安く済むからなのだが。

鏡の話に戻ろう。鏡が自分自身の体を見るため以外にも使えることを、ブタは知っている。ケンブリッジ大学のドナルド・M・ブルームとそのチームは次のような実験をおこなった。まずエサを遮蔽板のうしろに隠す。次に鏡に映るエサの像だけが見える位置にブタたちを連れていく。すると、おいしいものにありつくためには振り向いて遮蔽板のうしろに行かねばならないことを、八頭のうち七頭が数秒のうちに理解したのである。それが可能となるためには、鏡のなかの自己像を認識するだけでなく、周囲の環境とそのなかでの自分の位置との関係を空間的に把握していなければならない。

そうは言っても、ミラーテストを過大評価すべきではない。とくにテストにパスしなかった動物にかんしては。たとえばイヌが作法どおりに印をつけられ、鏡に映る自分の似姿を見て、しかるになんの反応もなかったとして、さしあたりそれはなにも意味しない。顔についた染みをそもそもイヌが気にするかどうかなんて、どうしたらわかるだろう? そしてもし気にするのだとしても、鏡というものをどう扱ったらいいのかわからないのかもしれない。きれいな絵が見えるなとか、あるいはせいぜい私たちがテレビを見るように映像を眺めているだけかもしれないのだ。

命名の問題に戻らなくては。ここでふたたび、カナダに棲むリスに登場してもらおう。養子の問題を調べるなかで、かの樹上の妖精たちが親類の赤ちゃんだけを受け入れるということが確かめられたのだった。けれど、誰が自分の姪や甥、孫なのか、どうやってわかるのだろう? マギル大学の研究者たちは、大人のリスの声が重要な役割を果たしているのではないかと予想している。単独行動をするリスの個体はそれぞれ特徴的な鳴き声を持ち、それによっておたがいを認識している。縄張りは重ならないのでおたがいの姿を見ることはまれであり、音声だけが頼りとなる。そしてさらに驚くことに、親類の声が聞こえなくなると探しに行くものがいるのだ。そのためには自分の縄張りから出てよその領域へと入り込まねばならない。心配してのこと? それは推測するしかないわけだが、捜索中に親を亡くした子どもを見つけると、彼らはそのよるべない子どもの世話を引き受けるのである。

ほかの多くの分野と同じく、このテーマにおいても科学はまだその入り口に立ったばかりである。名を呼ぶことはコミュニケーションの上級篇であり、すでに見たように、多くの種類の動物がそれを使いこなしている。ものを言わないと考えられている魚類でさえ、このコースに参加しているのだ。ただ、これまでわかっているのは、パートナーを見つけたり縄張りを守ったりするために音声を用いている、ということだけである。

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著者/ペーター・ヴォールレーベン

© Tobias Wohlleben
1964年、ドイツのボンに生まれる。子どもの頃から自然に興味を持ち、大学で林業を専攻する。卒業後、20年以上ラインラント=プファルツ州営林署で働いたのち、フリーランスで森林の管理を始める。2015年に出版した『樹木たちの知られざる生活』(早川書房刊)は全世界で100万部を超えるベストセラーとなった。2016年発表の本書もドイツで27万部を突破し、28カ国で順次刊行されている。

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