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【11月20日発売】ジョー・ネスボ『その雪と血を』書評家・川出正樹さんによる解説公開

 クリスマス前夜のオスロを舞台にしたパルプ・ノワール、ジョー・ネスボ『その雪と血を』。文庫発売にさきがけて、ミステリ書評家の川出正樹さんによる解説を特別公開いたします。

パルプ・ノワールの新たな里程標であると同時に
心打つクリスマス・ストーリーでもある奇蹟の書

ミステリ書評家  川出正樹

「夢の女だ──そして夢のままにしておくべき女だ」
ジム・トンプスン『深夜のベルボーイ

「愛とはなになのか、彼にはわからなかった」
ジェローム・チャーリン『パラダイス・マンと女たち

 パルプ・ノワールとクリスマス・ストーリーを掛け合わせたら、いったい何が生まれるだろう? そんなちょっと突飛で刺激的な興味から、本書『その雪と血を』は書かれたんじゃないだろうか。結果、誕生したのが、暴力と隣り合わせの人生を歩まざるを得なかった男女が織り成す、愛と憎しみ、信頼と裏切り、献身と我欲が絡み合う凄惨なれど哀感漂う贖罪と救済の物語だ。 
 主役は3人。語り手で殺し屋のオーラヴ、そして彼の〝運命の女〟(ファム・ファタル)となる二人の女性──ボスの若く美しき後妻コリナと聾唖で片足の悪い元売春婦マリア。これは、《刑事ハリー・ホーレ》シリーズの全世界的なヒットにより北欧暗黒小説(ノルディック・ノワール)の第一人者となったジョー・ネスボが綴った、純白の雪と深紅の血に象徴される、不自然なまでに美しい暗黒の叙事詩である。
 舞台は1977年12月のオスロ。クリスマスが間近に迫る中、記録的な寒さに襲われる極寒の王都で、殺し屋オーラヴが対立組織の手下を始末し終えたシーンで物語は幕を開ける。
 死体からしたたり落ちる血を雪の結晶が吸い上げて深紅のまま保つ様を見たオーラヴが、紫の地に白貂の毛皮の縁取りをした王のローブを連想し、次いで自分の名前がお伽噺や王さま好きだった母親によって国王に因んでつけられたことを淡々と語る出だしは、その鮮やかなイメージにより、一読忘れがたいインパクトを残す。と同時に、今から語られる物語が、凄惨ではあるがどこか哀感と温もりすら漂う童話的な色彩を帯びていることを予感させる。巧いなあ。こういう叙情豊かな書き方ができるところがジョー・ネスボの強みだ。
 この印象的な幕開けに次いでオーラヴが4年前に麻薬業者ホフマンの始末屋になり、信頼を得るに至った経緯が語られるのだが、ここでの筆の運び方がまた巧い。「おれにはできないことが四つある」という、おっと思わせる一文に始まる失敗続きの犯罪者回顧譚の中で、逃走車の運転、強盗、ドラッグ絡みの仕事、売春のポン引きに不適格な理由を明かし、彼の人生観と世界観、人となりを手際よく伝える。とりわけ、マリアを巡るエピソードに絡めて両親に対する複雑な感情を垣間見せる手並みが見事だ。そうして、「車をゆっくり運転するのがへたで、あまりに意志が弱く、あまりに惚れっぽく、かっとすると我を忘れ、計算が苦手」故、始末屋ぐらいしか使い途がなかったオーラヴという一風変わった小悪党に対して、親しみを憶えさせてしまうのだ。
 そんなオーラヴにホフマンが告げた新たなターゲット。それは、ホフマン自身の妻コリナだった。これまで同様仕事に取りかかるオーラヴだが、想定外の事態に襲われる。なんと、コリナに一目惚れしてしまうのだ。
 ここまでで、わずか21ページ。以後、オスロのヘロイン市場を巡ってホフマンと対立する《漁師》を巻き込んだ血に彩られた愛と贖罪の物語は、着々と避け得ぬ終局へと進んでいく。コリナとの出逢いにより呼び起こされてしまった何かに突き動かされる殺し屋オーラヴは、日射しを浴びてきらめく雪のような真っ白な肌を持つ絶世の美女コリナと、かつてジャンキーのボーイフレンドが焦げ付かせた借金を体で返そうとしたところを救った元売春婦マリアという2人の〝運命の女〟(ファム・ファタル)の間で孤独な魂を揺らつかせつつ、乾坤一擲の賭に出る。その果てに訪れる純白の雪と深紅の血に収斂するラスト・シーンの不自然なまでの美しさが胸を打つ。断言しよう。これは、暗黒小説史上の新たな里程標となる逸品だ。小さくも皓皓と輝く様は、長く心に残ることだろう。
 
 さて、それにしてもだ。一体なんだってジョー・ネスボは、40年近く前のオスロを舞台にしたパルプ・ノワールなどという、これまで手掛けてきた作品とはまるでちがう分野の犯罪小説を、今の時代に書いてみようと思ったのだろうか。
 ここで言うパルプ・ノワールとは、「ザラ紙に書きなぐられた暴力と犯罪をイメージさせる〝パルプ〟という言葉の持つイメージを、孤独と愛憎とトラウマから屈折し崩壊していく精神を描いた暗黒の文学(ノワール)に重ね合わせたもの」(佐竹裕[ジム・トンプスン『アフター・ダーク』解説] より)を総称する用語であり、今から20年以上前に「ミステリマガジン」(1996年10月号)が、ジム・トンプスンやチャールズ・ウィルフォード、デイヴィッド・グーディスといった1950から60年代にかけてペイパーバック・オリジナルで活躍していた犯罪小説作家を特集した際に、彼らの作品を括るために生み出された。
 閑話休題。実は、本書『その雪と血を』とのちに刊行された姉妹篇の 『真夜中の太陽』(2015年)は、もともとはジョー・ネスボ名義ではなく、アメリカ在住の売れないノルウェー人作家トム・ヨハンセンが70年代に書いたカルト作品を発掘したものとして発表される予定だったのだ。結局、架空の人物を実在した作家として売るのは問題があるという弁護士の助言に従い、ジョー・ネスボ名義で発表することになるのだが、そんな突飛な企画が生まれた裏には、ネスボ自身のトロント空港での奇妙な体験があった。
 そのときの顛末を、2015年にイギリスのハロゲイトで開催されたミステリ・イベントにゲストとして招かれた際にネスボは、次のように語っている[出典:ヨーク・プレス誌] 。
 あるとき空港でネスボが乗ったリムジンの発車間際に1人の男が飛び込んできて、いきなり運転手とロシア語で荒々しく会話を開始。車はそのまま走り出す。これは何かが間違っていると感じる一方で、実は誘拐手段として完璧じゃないか、と思ったネスボの頭に、作品の構想がひらめいた。それは、とことんついていない貧乏セールスマンが窮余の策として、空港で金持ちの旅行客を誘拐して預金を引き出させようとするものの、運悪くトム・ヨハンセンという70年代に2作のマイナー・ヒットを飛ばしただけの売れないノルウェー人作家を掠(さら)ってしまうというものだ。
 この思いつきに夢中になったネスボは、The Kidnapping と名付けた作品の執筆を進めるうちに、Blood on Snow とその続篇 Midnight Sun を実際に書いてみようと思い立つ。かくて生まれたのが、『その雪と血を』と『真夜中の太陽』という世界観を同じくする連作だ。
 その際、良く出来たレプリカでよしとしないところにジョー・ネスボの凄さがある。一読すれば解る通り、『その雪と血を』は、好きな作家の筆頭に〈安物雑貨店(ダイムストア)のドストエフスキー〉と讃えられた鬼才ジム・トンプスンを挙げるネスボが、偉大なる先達の諸作を十二分に研究した上で工夫を凝らし、自身がこだわり続ける三つの問題、即ち、〈赦し〉と〈贖い〉、〈家族間の愛憎〉、そして〈オスロに蔓延する麻薬禍〉を巧みに織り込み、凄惨にされどリリカルに仕上げた逸品だ。
 具体的にどんな工夫をしているのかについては、未読の方の興を削ぐといけないので、ここではオーラヴにあるハンディキャップを付与したというにとどめよう。それによってネスボは、ジム・トンプスンとは異なる手法で『死ぬほどいい女』や『アフター・ダーク』に比肩する、やるせなくも美しい物語を生み出した。そう、『その雪と血を』は、パルプ・ノワールの新たな里程標であると同時に心打つクリスマス・ストーリーでもある奇蹟の書なのだ。
 2016年に元版がハヤカワ・ミステリで訳出された際に、多くの翻訳者と翻訳ミステリ・ファンの心を掴み、第8回翻訳ミステリー大賞と第5回翻訳ミステリー読者賞をダブル受賞した本書が、文庫化を機にさらに広く読まれることを願って筆を措きたい。

 2018年10月 

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ジョー・ネスボ/鈴木恵訳『その雪と血を
ハヤカワ・ミステリ文庫
11月20日発売


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