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収容所で離ればなれになった夫婦の実話『アウシュヴィッツで君を想う』試し読み

1943年、ユダヤ系オランダ人医師であるエディ・デ・ウィンド(ハンス・ファン・ダム)は、オランダ・ウェステルボルク通過収容所で知り合って結婚した妻フリーデルとともに、アウシュヴィッツ強制収容所に送られた。彼らは収容所内で隔離され、離ればなれになってしまったが、互いに相手のことを考えない日はなかった――。
有刺鉄線の内側で妻を想い続けた医師が、対戦が終わる直前の収容所内で綴った貴重な手記アウシュヴィッツで君を想うからの試し読みです。


 はるか彼方にかすむあの山まではどのくらいだろう。輝くような春の日差しの中に広がる平原はどこまで続くのだろう。自由の身なら歩いて一日、馬なら早駆けで一時間ほどか。ここからはもっとずっと、果てしなく遠い。あの山並みは、この世界、ぼくらがいる世界のものではない。あちらとこちらは有刺鉄線に隔てられている。
 どんなに思いを募らせても、胸を高鳴らせても、あるいは頭に血を上らせても、まったくどうすることもできない。ここと平原を区切るあの有刺鉄線。二重に張りめぐらされた鉄線を上から照らす赤いランプのぼんやりとした光は、閉じ込められているぼくらを待ち受ける死のしるしだ。高圧電流が流れるフェンスと高い白塀に囲まれたこの場所に、それは確実に忍び寄る。
 いつ見ても同じ景色。いつ見ても同じ思い。宿舎(ブロ ツク)の窓辺に立ってあこがれの風景を見渡すと、興奮と無力感に息が詰まりそうになる。

 10メートル。それがぼくら二人の距離だ。ぼくは腰をかがめ、窓越しにはるか彼方の自由を眺める。フリーデルはそんなこともできない。彼女はもっと閉じ込められている。ぼくはまだ収容区(ラーガー)の中を好きに動ける。フリーデルにはそれすら許されていない。
 ぼくが寝起きしているのは第9ブロック、いくつかある病棟のひとつだ。フリーデルは第10ブロック。やはり病人がいる棟だが、ぼくのところとは様子が違う。第九ブロックに入院しているのは、虐待や飢え、重労働のために体調を崩した人たちだ。彼らには曲がりなりにも病気になる原因があり、診察をすればおのずと病名も決まる。
 一方、第10ブロックは〈実験棟〉だ。女性たちが集められ、教授を自称するサディストたちが進めるおぞましい実験の餌食となっている。女性として生まれ生きていくうえで何よりも大切なもの──子を産む性であること、母親になれること──が、想像を絶するやり方で傷つけられている。
 畜生同然の人間の欲望に屈服させられる若い娘も傷つき苦しむ。だがその行為は命の衝動からなされるものだ。一方、第10ブロックでなされる行為に抑えられない情欲は関係がない。それは政治的妄想、経済的利益で決まっていく。
 こんなことは、ポーランド南部に広がる草原を一望するとき、ここと地平線の彼方にかすむベスキディ山脈とを分かつ牧草地や湿地を駆け回れたらと思うとき、すべて頭の中にある。いや、そればかりか、ぼくらに許された結末は一通りしかないことも知っている。つまり、有刺鉄線で囲まれたこの地獄から解放される方法はたったひとつ、死だけだということ。
 それから、その死にもここではいろんな迎え方があること。
 死の使いは、正面から戦いを挑んでくることもある。そのときは医者にまかせればいい。相手が子分──飢えや寒さ、ダニノミシラミの類──を引き連れているにしても、ここで敗れた結果はあくまで病死であって、公式にも自然死として分類される。

 けれど、ぼくらが迎えるのはそんな死ではない。死の使いはきっとやって来る。かつてここにいた何百万という人たちもその姿を目にしたのだ。来るにしても、こちらがそれとは気がつかないように、じわじわと、ほとんどにおいもなく近づいてくるのだろう。
 もっとも、ぼくらはそれが隠れ蓑にすぎないことを知っている。ここの死の使いは制服をまとっている。ガス室を監督する男は親衛隊(SS)の軍服姿なのだ。
 だから、遠くにかすむ山々を見つめると、こんなにもたまらない気持ちになる。ここから距離にして35キロ。それでもぼくらは永久にたどり着けない。
 だから、ぼくは窓際でせいいっぱい腰をかがめ、第10ブロックの様子をうかがう。そこには彼女の姿がある。
 だから彼女の両手は、窓を覆う金網をきつく握りしめる。
 だから彼女は、木枠に頭を押しつける。ぼくへの思いが満たされることはない。かすみの中にそびえるあの山にぼくら二人が抱くあこがれも、あこがれのままだ。

* * *

 若草が萌え、マロニエのつぼみが大きくなり、光は日ごとにやわらかくなる。そんな季節がめぐってきて、新しい活力が吹き込まれるかと思われた。ところが地上は薄ら寒いまま、静まりかえっていた。1943年の春のことだ。
 ドイツ軍はソ連内陸に深く侵攻し、戦局はまだ反転にいたっていなかった。
 西部戦線の連合軍はまだヨーロッパ大陸に上陸していなかった。
 ヨーロッパを恐怖に陥れた弾圧は次第に激しさを増していた。
 ユダヤ人は占領者のおもちゃ同然にもてあそばれ、ネズミのように追い詰められていく。アムステルダムでは、夜ごと車のエンジンがうなり、革ブーツの足が踏み下ろされ、かつてあれほど閑静だった運河沿いの通りに命令を怒鳴る声が響いた。
 そして、ウェステルボルク通過収容所。ここでネズミたちはつかの間自由を味わった。敷地内なら制限なく動けたし、手紙や小包も届いた。家族がばらばらにされることもなかった。だからアムステルダムに出す手紙には、みな正直にこう書いた。「こちらは元気です」そのために何人もの人が秩序警察(グリユーネ・ポリツアイ)におとなしく身を委ねたのだが。
 ウェステルボルクのユダヤ人たちは幻想を抱いた。この分だとそんなにひどいことにはならないかもしれない。確かにいまは閉じ込められているが、いつかまた元の生活に戻れるはずだ、と。
「戦争が終わって 家に帰ったら……」と始まる歌が流行った。
 彼らは、自分たちの運命を見誤っただけではなかった。それどころか、勇敢にも(あるいは愚かにも)ここで新しい人生を始める者、家族を持とうとする者まで出てきた。ウェステルボルク村長の代理として収容所に毎日詰めていたのはモルホイセン氏で、4月のある日の朝、ハンスとフリーデルは氏の前にそろって立った。この月、晴れの日は9日しかなかったが、二人が結婚した日はすばらしい天気だった。
 二人は理想に燃えていた。27歳のハンスは収容所で評判の医師。フリーデルはまだ18歳。出会いのきっかけは、ハンスが担当する病棟でフリーデルが看護婦として働いていたことだ。
「一人ではなにもできない 一緒だからやっていける」ハンスはそんな詩をフリーデルに贈ったが、これは二人の気持ちそのままだった。一緒に乗り越えていける。そう信じていた。運がよければ戦争が終わるまでウェステルボルクにいられるかもしれない。あるいはポーランドで戦闘に参加することになるのか。戦争はいつか終わるのだし、ドイツが勝つとはとても思えない。

 そうやって半年が過ぎた。二人は「医師控室」で暮らしていたが、それは女性が130人寝起きする建物の片隅を紙で仕切っただけの空間だった。二人きりではなく、同室の医師がもう一人いたし、しばらくすると夫婦二組と部屋を共用することになった。新婚生活の始まりにふさわしい環境とはとても言い難い。それでも、移送さえなければ、なんとかやっていけたはずなのだ。
 毎週火曜日の朝、1000人が運ばれていった。老若男女、赤ん坊から病人まで。衰弱がひどく、列車で3日の旅は体力的に無理だとハンスら医師たちが証明できた者は収容所にとどまることを許されたが、それはほんの一握りだった。その他、キリスト教徒、ユダヤ人と結婚した非ユダヤ人、1938年(原文ママ)から収容されているドイツ系ユダヤ人の亡命者いわゆる〈長期居住者〉。それからハンスやフリーデルのような正規の職員も移送を免除されていた(ウェステルボルク収容所は、ナチ支配下のドイツから逃れてくるドイツ系ユダヤ人を収容する目的で1939年にオランダ政府が開設した。その後1940年にオランダはドイツに占領され、1942年からドイツ保安警察下の「通過収容所」となった)。
 収容所には1000人の名前が記載された職員名簿があった。その一方で、特別待遇の対象となる人々がオランダ各地からウェステルボルクに次々と送られてきた。ドイツ占領政府の命令で処遇が決まることもあれば、実際に立派な功績があり、特別扱いを受けて当然という人もいた。とはいえ大多数は、収容所の要職を固めている〈長期居住者〉やユダヤ人評議会の幹部の古い知り合いというところだった。そしてそのたびに1000人の名簿は見直され、名前が入れ替えられていた。
 1943年9月13日、月曜日の夜にユダヤ人評議会の人間がハンスとフリーデルを訪ねてきて告げた。移送の準備をしてください。ハンスは手早く身支度をし、各局の事務所を順番に回った。週一の移送を翌朝に控え、どこも大忙しだ。病院長のドクター・スパニアーは本気で腹を立てていた。ハンスはもう一年もこの収容所にいて、ずっと頑張って働いてくれている。ハンスよりあとに来て、まったく仕事をしていない収容者も多い。だが、ハンスの名前はユダヤ人評議会の職員名簿にあったわけで、そこから消えてしまった以上、保健局は何もしてあげられない。

 朝8時、収容所の中央を横切るように停まった列車のそばに、ありったけの物を携えた人々が集合した。ものすごい混雑だった。収容所警察や別動隊が出動して移送者の荷物を積み込み、道中の食べものも貨車二台に詰め込まれる。看護夫が患者を荷車に乗せて連れてくる。ほとんどがもう歩けないお年寄りだが、移送を待ってはもらえない(来週元気になるはずがないからだ)。そして見送る側は、列車から何十メートルか離れた柵の外で、多くは見送られる側よりも盛大に涙を流していた。列車の前後にはSSの乗った車が一台ずつ警護についている。ただ、彼らはやたらと優しく、移送者を元気づけるような声をかけることも厭わない。〈オランダの〉ユダヤ人がどのような扱いを受けているか。その真相をオランダ人の目から隠すためだ。
 出発時刻の10時半。貨車の扉には外から錠が下ろされた。最後の別れの言葉を交わし、貨車の小窓から最後に一目、外の様子を見る。こうして、正確な行き先は教えられないまま、ポーランドへの移送が始まった。
 ハンスとフリーデルは運がよかった。二人が乗り込んだ貨車は若い人ばかりで、しかもフリーデルがシオニスト運動にかかわっていた頃の仲間だった。とても気さくで親切な人たち。総勢38人と比較的余裕もあった。おかげで少し工夫して荷物を積み直し、かばんを天井からつるすと、みな床に腰を下ろすことができた。
 旅の途中で余興が始まる。まず最初の停車駅でSSの兵士が入ってきて言った。たばこをよこせ。しばらくあとには時計を巻き上げにきた。その次は万年筆、それから宝飾品。旅の仲間たちはこの騒ぎを笑い飛ばしていた。ばらの紙巻きたばこを何本か差し出して、持っているのはこれで全部だと言ってのけたほどだ。ドイツ生まれの若者が多く、SSとの駆け引きは何度も経験している。それをくぐり抜けてきた彼らが、いまさらSSの仕打ちを甘んじて受けるわけがない。
 食事は与えられなかった(3日間のあいだ、一度も)。出発する時に積み込まれた食べものはいつの間にか消えていた。もっともそんなことはまったく気にならなかった。自分で持ち込んだ分がまだたっぷりあったからだ。時々、トイレの代わりのバケツを空にするために、何人かが外に出ることを許された。そこで爆撃の爪痕を目にするとうれしくなったが、ほかは特にこれといったこともなく、旅は続いた。3日目に行き先がわかる。アウシュヴィッツ。それはただの単語であって、よくも悪くも意味をもった言葉ではなかった。
 その晩、彼らはアウシュヴィッツの降車場に到着した。

* * *

※エディ・デ・ウィンドアウシュヴィッツで君を想うより一部編集のうえ抜粋

【著者紹介】
エディ・デ・ウィンド(Eddy de Wind)ユダヤ系オランダ人の精神科医・精神分析家。1916年オランダ・ハーグ生まれ。ライデン大学医学部卒業後、ウェステルボルク通過収容所に医師として志願。収容所で出会い結婚した妻とともに1943年9月アウシュヴィッツ強制収容所に移送される。1945年1月のアウシュヴィッツ解放後も現地にとどまり、医師の勤務のかたわら本書を執筆。オランダに帰国後の1946年に出版された。その後は医師として収容所からの生還者が抱えるトラウマの問題に取り組んだ。1987年没。





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