そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第28章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第28章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

28

 私は手帳を閉じて上衣のポケットにしまい、向坂知事に協力の礼を言った。晃司氏が酒をすすめたが、車の運転を理由に辞退して、代わりにタバコに火をつけた。必ず誰かが訊くに違いないと確信していた質問は、晃司氏が口にした。
「あのヴィデオをごらんになってお分かりでしょうが、問題の車はウィンドーに何か加工されていて内部がまったく写っていない。映像の仕事に関わっている者として、こんなに悔しいことはありません。あそこは銃を手にした狙撃者のショットをほんの一瞬でも捉えたいところなんです」
「あの目隠しされた車に不気味なリアリティがあると言ってくれる人もあります」と、滝沢が応じた。「でも、釣り落とした魚というのか、レンズが捉えられなかった狙撃者がどんなやつなのか気になってしようがない。溝口宏が本当の犯人でないとすれば、一段と好奇心を煽られますね」
「佐伯さんという方が真犯人だと見ている男は一体どんな人物なのですか」と、晃司氏が訊いた。
 私はしばらく無言でタバコを喫い続けた。居合わせている者全員が私の答えを待っているのを感じた。
 榊原が咳払いをした。「われわれとしては、楽観的な見方は捨てるべきです。その人物が、沢崎さんのおっしゃるように予備のルガーを所持したままいまだに都内に潜伏しているとすれば、彼は未遂に終わった犯行を再び試みるつもりなのかも知れない。保安上、その人物に関することであなたのご存知のことは是非うかがっておかなくてはなりません。とくに、その男の所在をご存知であれば」彼の鋭い眼が私を見つめていた。警官は制服を脱いでも一生警官なのだ。
「彼も一昨日の月曜日以来消息を絶っています」と、私は言った。「彼の名前はまだ分かっていない。年齢は三十代の後半、身長は私と同じくらいの頑強そうな身体つきだが、健康を害しているような印象を受ける。短めの髪の下に、少し細めの鼻筋の通った顔がある」
 私は上衣のポケットから〝海部氏〟のカラー写真を取り出して、テーブルの上に置いた。「これは佐伯氏が隠し撮りしたと思われるその人物の写真です。写りはあまりよくないが、本人の特徴は出ています」
 知事が写真を手に取って見た。「これが、私に銃弾を撃ち込んだ真犯人と見られている男ですか」
 知事は写真を榊原に渡した。榊原はしばらく写真をながめていたが、ゆっくりと頭を振った。彼は晃司氏に写真を渡して、私に訊ねた。「本人の特徴が出ていると言われたが、あなたもこの男に会ったことがあるのですか」
「わずか二十分位の時間でしたがね。彼は行方不明の佐伯氏を捜して私の事務所を訪れたのです。その時点では、私は彼が何者なのかはもちろん、佐伯氏の存在すら知らなかった」
 私は、月曜日の朝の〝海部氏〟との出会いを簡潔に話し、彼と佐伯の関係も説明した。ただし、彼の記憶喪失については一切触れなかった。
 写真を見ている晃司氏と滝沢に注意していたが、被写体が八年前の暴発事故で人差し指をなくしたオリンピック候補であることに気づく様子はなかった。その暴発事故に向坂プロが関わっていたというのは単なる噂にすぎないのか。滝沢が、俳優のオーディションならこの顔は狙撃者としては使えないとでもいうように、写真を私の隣りの神谷会長に渡した。
「どなたかその人物に心当たりはありませんか」と、私は訊いた。「報酬をもらって見知らぬ他人を殺害する人間──所謂、殺しの専門家がいないとはいえないが、知事に対して何らかの恨みを抱く人物と考えるほうが自然でしょう。あるいは弟さんに対する恨みかも知れない」
 晃司氏がぎょっとしたように私を見た。「もう一度見せて下さい」と言って、彼は神谷会長から写真を受け取った。
 私はタバコを消して言った。「昨日今日のことではないかも知れません。二十二年前の失恋男の話が出たくらいです。普通、人を恨む気持は相手に会わなければ時間とともに薄らいでいくものですが、知事や弟さんのように常に衆目にさらされている人の場合は、逆に恨みが深まるということもあるでしょう」
「そう言われると、見憶えがあるような……」と、晃司氏が言った。「映画の世界は出入りの激しいところですからね。かなり以前に、撮影現場で見かけたことのある顔のような気もするが……監督、どうですか」
 滝沢も一緒に写真をのぞき込んだ。「相手が俳優さんで一度でも自分の映画に顔を出していれば、絶対に見忘れることはないですが、スタッフの場合は自信がありませんよ。彼らには手と足と耳があれば十分で、顔なんて必要ありませんからね」彼は首を横に振った。
「この写真をお預かりしてもいいですか」と、晃司氏が訊いた。「うちのスタッフの古株に見せたら誰か知っている者がいるかも知れません」
「どうぞ」と、私は答えた。
「この世界、とくに撮影現場は一種の戦場です。確かに、人の恨みを買いやすいところではある。でも、兄貴にあんなことをしでかすほどの恨みを受ける憶えはないですよ」あまり自信のある声ではなかった。
「自分では気づかないような逆恨みのほうが、かえって大きい場合もありますからね」と、滝沢が社長を慰めた。
「沢崎さん」と、榊原が言った。「その男には同棲している女があると言いましたね。彼女は彼が狙撃事件に関係があるかどうか聞いていないのですか」
「聞いていません。それどころか、彼の本名すら知らない。しかし、拳銃とかなりの大金を持っていることは知っていて、何かいわくのある男だと思っていたようです」
「男はその女のところに戻る可能性が高いのではありませんか。彼女の監視を急ぐべきだと思うが」
 私はうなずいた。「私の信頼している男が、その仕事に当たっています」男の職場が榊原の古巣であることを明かすつもりはなかった。
 向坂知事が言った。「それは警察に任せるべき仕事ではありませんか」
「私は信頼していると言ったはずです。当然、その点に関する彼の判断も信頼できるという意味です。それとも、皆さんの世界では、信頼という言葉は別の意味で使われますか」
 知事は苦笑した。「いや、同じ意味で使おうと努力はしていますよ」
 私はタバコに火をつけ、隣りの神谷会長にタバコをすすめた。
「いや、結構です。このところあまり体調が……」と、彼は力のない声で言った。そして、腹部を押さえるような恰好で立ち上がった。「失礼ですが、ちょっとお手洗いをお借りしたいのですが」
 晃司氏が大丈夫ですかと訊きながらドア口まで連れて行き、手洗いの場所を教えてから戻ってきた。
 私は声を落として言った。「〈東神グループ〉の更科・神谷姉弟のことをお訊きしたかったのです。彼らのどちらかが、怪文書事件や狙撃事件に関わりがあるということはありえませんか」
 知事はちらっと晃司氏の顔を見た。「いきなりそういうことを訊かれても困惑しますが……一体どういう根拠があってそんなことをお訊きになるのです」
「いや、根拠は実に薄弱なのです。二つの事件の裏で動いている金が非常に高額であると思われること。佐伯氏が失踪直前に会ったのは、更科頼子女史であること。神谷会長の秘書を務める長谷川という男が怪文書事件と関わりがあるかも知れない人物と接触しているらしいこと。そして、更科・神谷姉弟と向坂兄弟の間は必ずしも友好的ではないという噂を耳にすること……どれを取っても根拠とするには頼りないものばかりですが、全部ひっくるめると疑惑のかけらぐらいにはなるでしょう」
「なるほど」と、向坂知事は言った。「噂というのは、私が更科女史と一緒にテレビ出演した〝アキノ氏暗殺〟の報道番組でのことを誇張しているのでしょう。あれは私としても嫌な出来事でした。偉大な政治家であり、かけがえのない親友でもあったアキノ氏のああいう形での訃報に接して、私も神経が参っていたのです。そこへ、アキノ夫人と親しいというだけで、あまりにもフィリピンの国情を知らなさ過ぎる更科女史の非常識な発言があって、私の怒りが爆発してしまった。今でも間違ったことを言ったとは思わないが、年配の女性に対して少し配慮に欠けるところがありました。その後、何かの席で女史に会ったときに、私からもお詫びを言ったし、彼女も不明を恥じておられたから、まさかああいう事件の引き金になるようなしこりが残っていたとは思えません」
 誰もが自然に晃司氏のほうを見る恰好になった。
「神谷会長とぼくの間にも特別なことは何もないですよ。あれは、もう二年以上前のことです。東神電鉄が僕のヨット・レース出場のスポンサーだった頃のことですから。確かに、夫人の薫さんとは親しくお付き合いしていましたよ。しかし、スポンサーであり友人である神谷会長の奥方ですからそうするのが当然でしょう。それを週刊誌があんなふうに書き立ててしまった。実際には、ぼくと彼女との間には何も問題にするようなことはなかったのです」
「しかし、その直後〈東神グループ〉の会長に就任した惣一郎氏は、あなたのヨット・レースへの出資から手を引いてしまった」
「それは、お互いにいろいろ事情があって──」
「表向きの話は結構です。結局は、そのことが原因でお二人の仕事上の提携にひびが入ったのではないですか」
「本当のところは分かりませんよ。ぼくもあの当時はそれが原因ではないかと思わないでもなかった……憚りなく言えば、神谷夫妻はあまり夫婦仲がいいとは言えない。浮気の話は、あったことをなかったように言うのが普通ですが、もし彼女がなかったことをあったように自分の夫に話したとしたら、まァ、資金のストップは当然でしょう」
「同種のスキャンダルをでっち上げた怪文書で、そのお返しをしたとは考えられませんか」
「だったら、兄貴ではなくて何故ぼくを標的にしないのです」
「失礼だが、あなたではそういうスキャンダルは勲章にこそなれ大したダメージにはならないでしょう。あなたが最もダメージを受けるのは、兄上が政治的に致命傷を受けることであり、知事選に落選することではありませんか」
「そう言えば、そうだが……」
 そのとき、宇宙船の非常事態を告げるような電子音が鳴り出した。晃司氏が今の話題から逃げるように席を立ち、デスクの上の受話器を取った。彼はこちらに背を向けて電話の相手と短く言葉を交わし、送話口を塞いで振り返った。
「榊原さん、都庁から電話です。ここはお客さんもあるし、どうぞ隣りの部屋の電話を使って下さい」
「そうさせてもらうかな。ちょっと失礼します」榊原は急いでデスクの奥のドアから出て行った。晃司氏は電話が切り換えられたのを確かめて、自分の席へ戻った。
 知事が少し皮肉な口調で言った。「沢崎さん。あなたが、同行された神谷会長やその姉上の更科女史まで疑っておられるとは意外でした。ということは、当然──」
「そうです。榊原さんや弟さんについても、佐伯氏の身柄を拘束すべき理由がない──つまり、怪文書事件にも狙撃事件にも関わりがないと確信できなければ、疑惑の対象からはずすわけにはいきません」
「驚いたな」と、晃司氏が言った。「統計では、夫婦、親子、兄弟などの近親者による殺人は非常にパーセンテージの高いものらしい。今度の新番組でぼくの演じる凄腕の弁護士の科白にもあるから、その通りかも知れない。しかし、それにしても……ぼくのことはともかく、榊原さんまで疑うというのは非常識ですよ。彼があの二つの事件に関わらなければならない、どんな動機があると言うんですか」
「兄上の出馬がなければ、彼は保守系推薦の有力な知事候補だった」と、私は言った。
「そんなことを恨んでいたなどと、まさか本気で考えているのではないでしょうね」と、晃司氏は呆れたように言った。
 滝沢が口を挟んだ。「知事が出馬を表明される前に、自民党は三人の候補者を検討していたようだが、榊原さんはその三番手でしたからね。知事が出馬しなかったとしても、候補者になれたとは限りませんよ」
「向坂知事の出馬によって、はっきり引導を渡されたことは確かだ」
「もし、彼が兄に対してそんな感情を持っていたら、党の反対を押し切ってまで選挙参謀を買って出るなんてことがありえますか。沢崎さん、あなたは選挙期間中の榊原さんの働きぶりをご存知ないから──」
「そういう感情を持っていて選挙参謀になったとすれば、カムフラージュとしては最高ですね」
「まったく、開いた口が塞がらないな」晃司氏は腹立たしげに言った。
「もっと合理的に考えるべきでしょう」と、滝沢が言った。「榊原さんにとっては、怪文書で知事を落選させたり、狙撃で知事の命を奪うより、知事と共に選挙を戦い、選挙に勝ち、知事の右腕としての地位を得て副知事に就任したほうが遙かにプラスではないでしょうか。知事本人を眼の前にしてこういうことを言うのは何ですが、向坂知事は決して都知事止まりで終わるような方ではない。四年の任期が終われば、必ず次ぎのステップが待っているはずです。そのとき、知事が着手された都政の後継者として、当然副知事の榊原さんの名前が出るでしょう。それを棒に振ってまで関わるような事件とは、私には思えませんね」
「その副知事というのが気になる」と、私は言った。「榊原氏が副知事に任命されたあと、もし知事の傷の症状が悪化して亡くなられていたら、知事の椅子に坐るのは誰です?」
 滝沢と晃司氏がぎょっとして、知事のほうを振り返った。しかし、知事は平然とした顔をしていた。どうやら、私のブラフは功を奏さなかったようだ。私はタバコを消した。
「ケネディ暗殺で大統領になることができたジョンソン副大統領ですか」と、言う声が聞こえた。いつの間にか、榊原がドア口に立っていた。彼はドアを閉めて、自分の席に戻った。「残念ながら、大統領と都知事とでは事情が違います。地方自治法に、知事が欠けたときは副知事が職務を代理する、とある。しかし、公職選挙法に、その職務を代理する者は知事が欠けた日から五日以内に選挙管理委員会に届け出よ、となっている。つまり、再選挙で新知事が選ばれるまでは、私も知事気分でいられるというわけです。念のために付け加えると、向坂知事と同数の得票をして、くじ引きで落選していた候補者があれば、その人物が繰り上げ当選となり、再選挙は行なわれませんよ」
「よくお調べになっていますね」と、私は言った。
「榊原さんは弁護士の資格をお持ちの法律の専門家ですよ」と、晃司氏が言った。
「それは失礼。しかし、矢内原候補とのあいだには得票に差があったから、実際には再選挙が行なわれるわけだ。滝沢さんは向坂知事の四年後の後継者はあなただとおっしゃった。再選挙ということになれば、当然あなたも立候補なさるでしょう。向坂知事の弔い合戦だし、名参謀として選挙の戦い方は心得ておられるから、十分勝算ありでしょう。すると、四年も待たずに知事の椅子に坐ることができる」
 榊原は首を横に振った。「立候補者は党が決定します。選挙はみずもので勝算など当てにはなりません。同数得票のことを考えると必ず再選挙になるという保証もない。そんな博奕めいたことを当てにして、私が知事の命を狙ったというのですか。私は賭け事は根っから嫌いなのですよ」
「ジョンソン氏は知事の椅子に消極的なようだが、弟のエドワード・ケネディ氏はいかがです?」と、私は晃司氏に訊いた。「いずれは政界入りを狙っていらっしゃると聞いていますよ。この際兄上の遺志を継いで、一気に〝男子一生の仕事〟を手中にしようとは考えませんでしたか。あなたなら自民党の推薦など不要でしょうし、何も参議院の全国区から始めるような遠回りをする必要もないでしょう。今までは常に兄上の後塵を拝していらっしゃった。この辺で一歩先んじたいというのは立派な動機になりませんか」
 晃司氏は怒りで顔を真っ赤にし、すぐには口もきけなかった。もし二人とも立っていたら、彼はお得意のアクションで私に殴りかかっていたに違いない。
 向坂知事は、駄々っ子をなだめるように弟の腕を軽く二、三度叩いた。「沢崎さん、弟や副知事を混乱させるようなことをおっしゃってはいけませんね。あなたのご意見からすると、狙撃は私の当選が決まった後にすべきではありませんか。私が投票前に死んでしまったらどうするんです。死人には被選挙権はありませんから、自動的に矢内原候補が再選されてしまいますよ。それでは弟も榊原さんも殺人まで犯した上に、結局四年間待っていなければならない。もし、私が落選していたらどうします。敗軍の将を殺したところで、彼らに一体何の得がありますか。その点を反論しないでうろたえていたのが、むしろ彼らの潔白を証明する何よりの証拠ではありませんか」
 私はこのあたりで撤退することにした。「どうやら、知事のおっしゃる通りです。佐伯氏の失踪の件、さらには怪文書事件や狙撃事件のことで私がこちらにうかがったのを、皆さんがまるで見当違いのように思われているような気がして、少々むきになったようです。申しわけありません」
「いや、見当違いだなどと思ってはいませんよ」と、知事が言った。「大変鋭い指摘だと感心しています。本来なら、私たち自身で検討済みにしておかなければいけなかった問題です。あなたに指摘されて、弟のように腹を立てているようではいけなかったのです」
「恐縮です」と、私は言った。「すべて佐伯氏の行方を捜すという仕事のためです」
「大事なことは──」と、榊原が言った。「われわれが佐伯氏の失踪に関与していないことを、あなたに信じていただくことです。私はあなたの要求があれば、府中の自宅、私のホームグラウンドである退職警視正友好会──俗にKU会と言っていますが、その建物、それに、息子の自宅、息子の持っている会社の構内……とにかく、どこでも自由に捜索していただいて構いませんよ」
「それはぼくも同様です」と、晃司氏が言った。機嫌を直すのが早いのはスターの条件だ。「この建物なら今すぐ隅から隅までごらんにいれるし、向坂プロのビル、借りている撮影所の構内、お望みならハワイの別荘でも自由に捜索してもらって結構です」
 私は手を上げた。「いや、もうそれ以上は言わないでいただきたい。それをうかがっただけで、私の訪問の目的は十分に果たせていますから」
 ドアが開いて、神谷会長が部屋に入って来た。「大変失礼しました。長々と席をはずしてしまって」
 晃司氏が大丈夫ですかと訊ね、神谷会長はもうすっかり大丈夫だと答えた。すべて東神ビルの駐車場で私と打ち合わせた通りの行動だった。馴れない芝居のせいか、心もち顔が蒼ざめていて、本当に体調を崩しているように見えた。私は彼が元の席に坐らぬうちに立ち上がった。「私の用件は片づきました。よろしければ、失礼しましょうか」
 晃司氏が、神谷会長に短時間でいいから知事と一緒に是非パーティに顔を出してほしいと頼み、部屋にいる全員が立ち上がった。
 榊原が咳払いをした。「私は沢崎さんに一、二お訊きしたいことがあるので、皆さんはお先にどうぞ。沢崎さん、構いませんか」
 私は構わないと答えた。知事たちは、榊原と私を残して部屋を出て行った。神谷会長も一緒に去った。榊原と私は再びソファに腰をおろした。
「一つお願いがあるのです」と、榊原が言った。「問題の狙撃者と思われる男のことです。正直に申し上げて、その男を押さえられるのはあなたと、あなたの信頼する友人でしたか、お二人のほうが警察よりも有利な立場にあるように思える」
「信頼できるとは言ったが、友人だとは言いません」
「ほう? いずれにしても、もしあなた方がその男を押さえたら、警察に引き渡す前に私に連絡してほしいのです」
「理由を訊きましょう」
「あなたのことだ、説明しなくてもお分かりだろう。その男の背後に首謀者がいると仮定して──十中八九いると見て間違いないが──その男は警察には首謀者の名前を明かさない恐れがある。結局は未遂に終わったのだから彼の刑期がどれくらいになるか分からないが、首謀者を明かして多少刑期を短くするより、それを出所後の生活の保証にしたほうがいいと考えるかも知れない。それでは困るのです。首謀者の知事狙撃の動機がはっきりしていない以上、彼が再び知事の生命を奪おうとする可能性は否定できないでしょう。私としては、首謀者をこそ法のもとに引き出して正当な裁きを受けさせたいのです。そのためには、あなたさえ同意してくれるなら、首謀者の名前と引き換えにその男を放免してもいいとまで思っています。金銭的な要求があればそれに応じる用意さえある。断わるまでもないが、この件はあくまで知事には内緒にしていただきたい。知事はたぶんこういう裏取引めいたことはお許しにならない。どうです、引き受けてもらえますか? もちろん、あなた方にも相当の謝礼を考えています。私には知事を守る義務があるのです。私のような職歴を持つ参謀がついていながら、知事に銃弾を受けさせたことを、私は非常に恥じている。二度と彼の生命を危険にさらすつもりはないのですよ」
 私はしばらく考えてから、言った。「即答はしかねるが、考慮してみましょう。信頼している男と相談する必要もあります。たぶん、あなたの要望にお応えできると思う」
「結構です。吉報を待っていますよ」
「こちらも、一つお願いがある。銀座のクラブのママ、溝口敬子の愛人という男の顔写真を見せていただきたい」
 榊原はうなずき、書類ファイルを開いて一枚の前科カードのコピーを見つけ、こちらへ渡した。正面と横顔の写真に、高田馬場の映画館の暗闇で私の脇腹にアイスピックの類いを突きつけた男の顔が写っていた。野間徹郎、二十九才は傷害罪で三年の刑に服していた。
「心当たりがありますか」と、榊原が訊いた。
「いや、残念ながら思い違いでした」私は写真を返した。
 榊原は不審な顔で私を見ていたが、何も言わずに写真を元に戻した。
 私は、佐伯直樹のマンションで見つかった射殺体、つまり伊原勇吉名義の警察手帳を持っていた男のことを訊いてみようかと思ったが、やめた。知っていても知らなくても、榊原の返事は決まっていた。知っていたとしても顔色を変えるような相手ではなかった。
 私たちは用談がすんだことを確かめると、部屋を出て一階の玄関ロビーに降りた。私は、このまま引き上げるので向坂兄弟によろしくと言い、神谷会長を呼んでもらうことにした。榊原が、明るい照明と音楽と話し声の溢れるパーティ会場に入ってしばらくすると、神谷会長が出て来た。
「私は事務所へ戻りますが、あなたも一緒に出ますか」
「そうもいかないようです」と、彼は答えた。「もう少し知事や晃司氏に付き合ってから帰ることにします」
 私は、彼の大陸系の顔に今までに見たことのない別の感情が表われているような気がした。しかし、その場では彼にそれを問い質してみることもできなかった。私は彼の協力に対して礼を言った。彼は名緒子たちのことをよろしくとか何か、口の中でもぐもぐと言い、私に背を向けてパーティ会場へ戻って行った。私は一瞬彼を呼び止めようかと思ったが、結局は彼がパーティ会場に消えるまで見送っただけだった。それから、未来都市から現在に戻る脱出口を探した。
 神谷惣一郎がそのとき頭の中で考えていたことは、あとで知らされることになった。もし、私がそれを訊いて、彼が答えていたら、二人の死者と一人の重傷者を出さずにすんだかも知れなかった。確かなことは言えないのだが──。

次章へつづく

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