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【9/23(金)発売!】森晶麿『探偵と家族』プロローグ&第一章試し読み公開

《黒猫シリーズ》などで知られる森晶麿さんの最新作『探偵と家族』が9月23日(金)に発売となります。
高円寺あづま通り商店街にオフィスを構える探偵一家が、ささやかな事件を通して家族のありようを探していく4篇の連作集。その第一章までを本ページから試し読みいただけます! どうぞお楽しみください。


プロローグ


 週末には箒と塵取りで片づけられるはずの、テーブルの下に散らばる食べ滓と埃の塊──。
 銀田凪咲の辞書の「家族」の項には、そう記されている。わかっている。実際そんな簡単に片づけられはしない。半分は願望。もう半分は、おそれだ。

「デリシャスリップクリームのコーラの匂いよ。間違いない」
 向かいの席の母、獅乃はチェスの駒でも置くみたいに言い残し、また無表情に珈琲を飲みながら調査書に目を通し始めた。千二百文字程度の情報量なら三秒しかかからないらしく、一枚読み終えるたびに沈黙にやすりをかけるべく紙を捲る。
 銀田家の居間はノイズに満ちている。弟の瞬矢のゲームの音、父、龍一の食器を洗う音、獅乃が本や書類を捲る音。調和はしない。
「そう? 誰も来なかったけどね……」
 獅乃がペット誘拐事件の調査に出るため、凪咲は一階の事務所の留守番を頼まれた。その二時から四時の間に、来客があったと獅乃は勘ぐっている。銀田家でもっとも嗅覚が鋭い獅乃のことだから、来訪者はデリシャスリップクリームのコーラをつけていたのだろう。凪咲はあのチュッパチャプスとのコラボによる騒がしいパッケージを思い浮かべた。
「あなた、気づかなかった?」
 獅乃は、キッチンで洗い物をしている龍一に問いかける。
「僕はここで食器洗ってたからなぁ……事務所にはまったく」
 龍一はいったん水道のお湯を止め、長袖の黒シャツをまくった腕をタオルで拭いてから、額にかかった前髪を掻き分けた。働かなくなって五年、筋肉質だった龍一の体はだいぶ華奢になった。
「今も洗ってるじゃない。食器洗いが属性なの?」
 龍一は湯気で曇った眼鏡で天井を見る。考えるのに一拍かかる。
「今はほら、昼の焼きそばに使った鍋をね。最近、汚れが取れにくくなってきてね」
「料理の後すぐに小麦粉を入れておかないからよ。で、夕飯、何時から?」
 獅乃はつねに先の計画を追う。
「あ、うん……六時には」と龍一。
「六時に食べるの? それとも六時にテーブルを拭くってこと?」
 獅乃はレシピの〈塩少々〉だって厳密に計量したい性分だ。
「えっと、そうだな。できるだけ、うん、食べ始められるように」
「私、七時から次の依頼人くるから」
「大丈夫。がんばる」
 龍一の安請け合いを、凪咲は見守る。龍一が時間通りに家事を終えたことはない。専業主夫になって、料理の腕は上がったが、作業効率は年代ものの脱毛器並みだ。そのうえ掃除は苦手なままなので、瞬矢の担当になっている。
「うぉっしゃー! メッシ。さすが我がメッシ」瞬矢の奇声が轟く。
 左手に持ったスマホは横向き。サッカーゲームアプリだろう。たしか三つか四つは掛け持ちでハマっているゲームがある。サバゲー、野球ゲーム、音ゲーとかパズルゲームとか、そういう初歩的なものも。コロナ禍で休校期間が長かったのも災いしたのか、最近は登校する暇があるのか心配になるほどゲーム三昧だ。この男の馬鹿馬鹿しさが許容されているのは、ひとえに家族随一の掃除魔だからだ。
「初心者さん、もういいんじゃないでしょーか? 相手が悪かったということで。サイドからの攻撃ワンパターンになってるよ? もう試合中断したほうがいいなぁ……はいオツ。四点目」
 05式短機関銃並みにしゃべり続ける瞬矢が、ネトゲーの世界と現実の区分がついているのか凪咲にはわからない。もう高校二年生だというのに。
 これが標準的な銀田家の日常風景。まとまりはないが、たまに勃発する夫婦喧嘩という地雷を除けば、さほど軋轢はない。ステップ気候くらいには草も生える。
「はい、ネイマールゲット」ガチャを引いたようだ。
「ちょっとあんた黙って」獅乃が一喝する。でも、銀田家でこの獅乃の一声を屁とも思っていないのは瞬矢くらいだ。案の定、聞かずにまだ一人実況を続けている。獅乃は溜息をつきながら続ける。
「デリシャスリップクリームってことは、十代、二十代の女子」
「そんな子来てないって」凪咲は再び答える。
「言い張るわけ?」
「だって来てないもん」
 一度ナッツの皮を剥き始めたら途中でやめるわけにはいかない。凪咲の覚悟を図るように、獅乃はふたたび盛大な溜息をつく。
「ま、いいわ。気のせいでしょ」
 獅乃はまた書類に目を落とす。銀田家の停戦協定。凪咲は首をすくめながら、立ち上がる。
「ちょっと出てくるね。推しのCD発売日なの」
「ヨーロピアンパパで済ませれば?」
〈ヨーロピアンパパ〉は近所にある中古レコード屋だ。
「推し活はそれじゃダメ」
 凪咲はそれ以上の詮索を逃れるべく、玄関へ向かった。銀田家の玄関は二階にある。外階段を通れば一階〈銀田探偵事務所〉の事務所を通らずに外に出られる。
 建物は三階建て。一階が事務所、二階がリビング・ダイニングと龍一、獅乃の部屋。三階に瞬矢と凪咲の部屋がある。高円寺あづま通り商店街の中ほどに位置する銀田家のあらゆる意味での拠点。
 外までがらくたが主張している〈何でも屋〉、棚と本のサイズがぴたりと合っている古書店〈十五時の犬〉、高円寺らしさを濃縮五倍にした看板に偽りなしのカフェ〈ロックや〉など個性的な店の並ぶあづま通りを、わずかに小路に入ったところに洒落たフランス製の子ども服でも売っていそうな洋館がある。
 ペパーミント色の外壁、ピンク色の屋根。美味しくはないかわいいケーキみたいだ、と凪咲は思っている。そして、二十一年前、この建物を最初に見た獅乃も、同じ感想を漏らしたらしい。
 ──かわいいだけで殺人レベルに甘いケーキみたいな建物ね。
 その建物を借りようとしていた龍一に、まだ恋人でもなかったのに獅乃は敷金礼金のための金を貸した。家主が一階の事務所だけの賃貸はしておらず建物全体での契約を主張したため、龍一の予算の三倍が必要になったからだった。
 ──いいわ。今のアパートを引き払って三階に私が住む。あなたは二階に。一階の事務所はあなたの職場に。
 ──それだと君が三分の二のお金を用意してくれたのに悪いよ。
 ──待って、誤解よ。お金はきちんと返してもらうから。
 それならば君が住まなくてもいいのでは、とそのとき龍一が疑問に思ったことを、凪咲は後年、獅乃のいないときに聞いた。
 ──ママはいつだって厳密なやり方で煙に巻くんだよ。
 逆を言えば、龍一はいつだって厳密に煙に巻かれる、ということ。
 外階段を下りながら、呼吸を整えた。貯金箱の表面ぎりぎりまで溜め込んだコインをトントン、と均すみたいに。
「凪咲ちゃん、今度の髪の色も素敵だね」
 向かいの雑貨屋〈バル雑Qザック〉の店主、木島さんが店頭に新しい商品を出しながらだみ声で話しかけてきた。昨日髪を染めたが、その前がピンクだったせいか家族は今度の白金色に何も感想がなかった。
「ありがとう! 気づいてくれたのは木島さんが最初」
「照れるねぇ、お出かけかい?」
「正解! 行ってきまーす」
 外へ出るのだからお出かけに決まっているのに、木島は毎度満面の笑みで同じことを尋ねる。きっと背中にぜんまいのねじがある。

「あの子、何だろね、あの髪の色は」
〈バル雑Qザック〉の店の奥から六十代ほどの女が、走り去る凪咲を見送りながら言った。木島は弱々しい笑みを浮かべた。
「へへ、かわいいじゃないか。先月はピンク色だったね」
「ピンクと金髪なら金がマシだって? 私はそうは思わないけどね」
「あんたの孫だ。自分で注意しなよ」
「注意? なんでさ。あの子の自由だよ」
 銀田凪咲の祖母、銀田絵千佳が、銀田家に戻るのは数カ月に一度。だが、高円寺にはしょっちゅう出没する。つねに中野、高円寺、阿佐ヶ谷界隈をうろついているのだ。住所不定。職業は、探偵。
「あの子たちの様子はどうだい?」
「順調だよ。客足はコロナ以降だいぶ落ちてるけど、それでもまだ途絶えてはいないみたいだし、みんな息してる」
「ならいいけどね。龍太みたいになったら一巻の終わりだよ」
 銀田絵千佳と銀田龍太は、今から三十年ほど昔、現在の銀田家の拠点で探偵業を営んでいた。龍太が酒で体を壊して家賃を払えなくなるまでは。その当時の絵千佳の辛さも、木島は見てきている。
「しかしあづま通りもずいぶん変わったね。変わってないのは、この店のゴミみたいな雑貨くらい」
「ゴミはひでぇな。今日はご帰還かい?」
「いや。ただ気になってね。ほら、そろそろあれから五年経つ」
「ああ……」
 あの一件以来、龍一は働かなくなった。あの事件が起こったのも、思えばこんな乾いた季節だった。
「じゃあまた来るよ」
 絵千佳は店の外へ向かいながら、振り返りもせずに手を振った。それからいつもの口笛を吹いた。〈夜霧よ今夜も有難う〉。まだ明るい高円寺の街並みに、その口笛は蝶のように揺蕩った。

 十月半ばの空気は、よく喋る男の隣にいる無口な友人だ。恋の話に相槌を打ちつつ、どうせ皆死ぬよと虚無の眼差しを向ける。
 凪咲が向かった先は高円寺駅の南口駅前広場。デリシャスリップクリームのコーラの匂いの主に会いに行くためだった。推し活とは、我ながら咄嗟に馬鹿げた嘘をついたものだ。
 高円寺駅前の鳩はたぶん南口のほうが太っている。少なくとも凪咲の目にはそう見える。くびれがなく丸い。駅前のミスタードーナツでゴールデンチョコレートをテイクアウトした客が、ロータリーで大量に黄色い粒を落としながら食べて太らせてしまうのか。
 木を囲う円形ベンチに腰を下ろすと、そのわずか数秒後、少女が隣に座ってきた。彼女は、一羽のとびきり太った鳩に目を向けたまま尋ねた。
「あの、どうして事務所じゃダメだったんですか?」
 しゃべるたびに、コーラに似せた濃密な香りが漂ってくる。
「ん、まあいろいろとね」
「しかも駅の反対側にまで来なくても……」
「北口は知り合いばっかだし、どこで情報が洩れるかわかんないし」
 凪咲の血も肉も、北口の空気で生成されている。物心ついた時から、あの野暮ったさとロック魂がモザイク状に重なって奇天烈なアンサンブルを奏でる独特の街並みが原風景。腐るほど聴いてきたのは筋肉少女帯『レティクル座妄想』。
「あ、探偵だから、ライバルの探偵とかがいるんですね?」
「そうそう」
 テキトーに凪咲は頷いた。親の仕事のことはいまだに〈探偵〉ということ以外はよく知らない。ただ、テレビで目にする探偵とはライオンとコリー犬くらい違うことは何となく。
 凪咲の隣にいる少女はゴスロリ趣味の待ち針だった。長身で小顔、およそ十代の女の子が憧れるすべてを兼ね備えてなお、それに頓着する様子が見られない。
「君、部活は?」
「今は高校受験前ですから」
「ああ、それでその格好ね……」
「これは私の皮膚です」
 少女、川上恵奈はフリルに軽く手を触れる。
「そうなんだね、すごい」
 いまが十月中旬。あと二回くらい模試があって、それから本番か。
「いいの? 受験で忙しいだろうに、こんな依頼で時間潰して」
「大事なことなんです。受験が近いからこそ」
「どういうこと?」
「だって、早く見つからないと同じ高校に行けなくなります」
 言ってから、彼女はやや頬を赤らめた。このシャガールの描く夕暮れの色を、凪咲は覚えていた。五年前、事務所で目撃しているのだ。まだ小学生だった川上恵奈は、事務所の白黒のカーペットの模様をじっと眺めながら、龍一の質問に頬を赤らめたのだ。あの時と、同じシャガールの夕暮れ色だった。
 ──このお友達は君にとって特別な存在なんだね?
 ──はい、透がもとの生活に戻れるなら何だってします。
「なるほど」
「凪咲さんは銀田探偵事務所のスタッフさんなんですよね?」
「スタッフ……そう言っても過言ではないかな」
 過言だろうとも思うし、過言どころか、とも思う。探偵事務所経営者の子どもの立ち位置とは実際どんなものか。とくにその自宅が事務所の二階にある場合は。
 いまのところ、凪咲は高校を卒業しても大学にも行かずこれといったバイトもしていない。たまに母親に頼まれて失踪人の似顔絵を描いたり、指定された場所で撮影したりで小遣いをもらっている。これ自体は探偵の仕事と言えなくもない。
「きっとそのカメラも探偵の必需品なんですよね」
 恵奈は凪咲の首にかかっているカメラを指さす。
「ん? ああこれね。そうね。うん、そうそう」
 このカメラの中のデータを観たら彼女はきっと唖然とするだろう。その八割以上は枯れた植物の写真だから。凪咲は枯れた植物の写真を撮るのが好きだ。頽廃的な風景や壊れかけの物、あと女の子も。
「まくらはそれくらいにして、本題ですが、お願いできるんでしょうか」
 この年頃の娘が〈まくら〉なんて言い方を知っていることに驚く。この調子なら〈おはこ〉も〈もくろみ〉も知っているのかも。
「待って。協力したいとは思ってるよ。君の気持ちもわかるし……でも……即断できるほど簡単な話じゃないのよ」
「それはもちろん。でも、引き受けてもらわないと困るんです」
 凪咲は頑なな少女の態度をみて、溜息をついた。川上恵奈がこの五年をどんな気持ちで過ごしてきたのかは想像に難くない。大切な幼馴染をある日唐突に失った。その喪失感を、彼女は千八百日以上抱え続けてきたのだ。世間が忘れ去っても、今もどこかで生きていることを切実に願いながら。
「その前にいくつか確認。今回の依頼の件、ご両親は知ってるの?」
「もちろん内緒です」
「先週君がうちの事務所に来たことを聞いて、父……所長はこの依頼に関わるなって言ったの。理由はわかってるよね?」
「私の父のことですよね。今回は絶対にバレません。あの時は私も子どもでしたし」
 今も子どもだよ? という喉まで出かかった言葉を飲み込む。たしかに五年前に比べれば、彼女はずっと大人になったのだろう。この街だって、五年前と今ではだいぶ違うところがあるわけだし。
 あの頃の切迫した空気がよみがえる。十歳の少女が、マスコミが騒いでいる失踪事件の調査を龍一に依頼したことで、一日一日の調査に少年の命がかかっているような重たい空気が、銀田家の食卓にまで持ち込まれたものだった。
「まあ、信じるけどさ」
 少女の表情に安堵の色が見える。
「神崎透少年、今はもう十五歳なんだね」
「……はい」
 生きていれば──。
〈神崎透くん失踪事件〉といえば、関東に住む人間ならまだ記憶している人も多いだろう。神崎透少年(当時十歳)はある朝、学校に登校する時間になっても自室から出てこなかった。必ず自分で目覚まし時計をセットするタイプの透少年にとっては珍しいことだったので、すぐさま父親が見に行った。すると、ベッドが空になっていた。少年の部屋にはサンスクリット語の「死者の書」、青い芥子の花が残されていた。混沌とした高円寺に相応しいカオスな事件の幕開けだった。
 さまざまな憶測も流れた。透は当時父子家庭にあり、失踪届けが出されたのは、本来なら再婚した母親に引き渡される日だった。警察は母親に渡したくないがために父親の大輝が自宅で殺害し、どこかへ遺棄したのではと疑い、周囲の目もそこに向けられていたのだ。
 SNSでも「すでに殺されてるんだろうな」「犯人は父親で決定だろ」といった意見がさも真実であるかのように出回り、噂をもとにフェイクニュースが作られたりもした。
 凪咲は、項垂れながら家に引き上げる神崎大輝を、落とし穴にはめたナウマンゾウに槍を刺す原人みたいにマスコミが執拗に追いかける映像を何度か見ている。もともと感情の起伏が薄そうな大輝の顔は、日を追うごとに生気がなくなっていった。
 まだ中学生だった凪咲の目からしても、マスコミの攻撃は異様で、醜悪な迫害にみえた。それに、そこまで憔悴している男が犯人だとはとても思えなかった。
 しかし事件解決の糸口はようとしてつかめず、警察もお手上げ状態になった頃、透のクラスメイトを名乗る川上恵奈が〈銀田探偵事務所〉を訪れた。龍一は恵奈のお年玉一万円を依頼料としてもらい、調査を進めた。破格の安さで、ほぼボランティア案件。
 そのボランティアで、〈銀田探偵事務所〉は危うく息の根を止められかけた。龍一が出した結論が「少年は海の向こうの神になった」だったから。龍一は警察以上に熱心に現場検証を行ない、「死者の書」や青い芥子の花のほかに、異国のお香の匂いが残っていたこと、失踪の数日前に神崎家周辺で特異な袈裟を着た人物が目撃されていることなども把握していた。それらを統合的に考え、「そう考えざるを得ない」と依頼人に伝えたのだ。日本中が安否を気にしていた事件に提示された帰結としては、絶大な怒りを買うに値する種類のものだった。
 なぜ龍一がそんなトンデモな結論に辿り着いたのか。龍一も獅乃もあまり当時のことを話したがらない。ただ今も夫婦喧嘩の際には決まってそのトンデモ推理の件が持ち出される。
 ──あんな馬鹿げた推理さえ口にしなければ我が家がこんな悲惨な目に遭うことなかったのに!
 ──仕方ないよ。馬鹿げた真相が用意されていたんだから。
 馬鹿げた真相が用意されていた。夫婦喧嘩で飛び出たその言葉について、後年凪咲は何度も考えることになった。そのたびに、スイカの中から小骨を見つけたような違和感を覚えてしまうのだった。
 実際には、龍一がトンデモ推理をしたのと、大炎上したのにはタイムラグがある。まず、恵奈から途方もない推理を聞かされた父親が「娘を騙すな」と乗り込んできた。父親の眉間には干ばつが続いたサバンナの大地並みの皺が刻まれていた。この父親がテレビ局勤めで、インチキ探偵を告発するような形でワイドショーで報道した。そのせいで、くだんの龍一の推理だけが世間に知れ渡り、大バッシングを受ける羽目になった。
 おかげで、透の父、神崎大輝の耳にも龍一の推理は届いてしまったが、幸い大輝はその件には怒りもせず、ただ沈黙を貫いた。息子の失踪という一大事のさなかでは、彼にとっては些末な事象だったのだろう。
「マスコミはついてきてない?」
 凪咲は今さらのように周囲に視線を這わせた。これだけの人ごみでは、たとえ誰かに監視されていてもわかりようがない。
「いまはもう誰もあんな事件追ってませんよ」
 五年前、我が家に危機を招いた依頼人から、まったく同じ依頼をもう一度引き受けようとしている。両親に話せば、きっと断るだろう。先月、一度恵奈を丁重に追い返している。この五年、龍一はほぼ探偵稼業をストップさせてしまい、銀田家の危機を乗り越えるミッションは母の獅乃に託されていた。
 もともと動物好きでペットショップでのバイトの経験もあった獅乃がペット探偵に特化したのは、水道局が水道料金を請求するくらい当然の帰結だった。都内のペット飼育率は高く、それに比例して迷子率もかなりだった。一度か二度広告を撒くと、自動的に口コミで依頼が入るようになった。もちろん、それで黒字に転じるほど経済は単純ではないが。
「あの、所長さんとはやはり会えないんですか?」
「あの人はね、食器洗いに忙しい」
「え?」
「あ、いや、依頼の隠語のこと。うちでは食器洗いっていうの」
 もう少しで龍一がもっぱら専業主夫になっていることをばらすところだった。専業主夫と宣言したことは一度もないが、この五年、何の依頼もこなさず、炊事洗濯に明け暮れているのだから、やっぱり専業主夫なのだろう。
 もともと探偵稼業に向いていなかった、とも言える。よく夫婦喧嘩になると獅乃が言う。「そんな方向音痴で尾行にも向かず、思考も非現実的な男がよく探偵なんかやってたわよね」。言われた龍一は苦笑いをしながら言い返すこともなく皿を洗っている。
 ──失踪人調査をオカルトと絡めて迷走して依頼人を怒らせたこと何回ありましたっけ? 数えたことある?
 こうした嫌味にも、龍一は「数えられないや」などと頭を掻いていたりする。獅乃の苛立ちもよくわかる。銀田家の家計はピサの斜塔なみに傾いているのに、龍一には探偵業に復帰する気がないのだ。
「いいよ、引き受ける」
 凪咲は彼女の握りしめたお年玉袋を受け取った。中には三万円が入っていた。これだけあれば、獅乃に小遣いをもらわずともカメラの機材を揃えられる。
「一週間ごとに成果を報告する。足りなくなれば、また請求するかもだけど、とりあえず二週間はこれでやってみる」
「お願いします」
「でも覚えておいて。五年間消息をつかめなかった人が、探し始めた途端に見つかるなんてことは、まずないってこと。こっちも必死で探すけど、成果報酬じゃないから」
「わかっています。それでも、どうしてもお願いします。ここに私が知っている透の趣味のリストをまとめました。参考にしてみてください」
 渡された紙には図書館通い、フィギュア蒐集、スマホのゲーム、などの言葉が並んでいた。贔屓の図書館や好きなアニメの名前、ハマっていたゲームアプリの一覧もついている。情報としてよくまとまっていた。
「透少年も幸せものね、いなくなって五年も経つのに、こんなかわいい子に待っていてもらえるなんて」
 恵奈は俯き、「透がもとの生活に戻れるなら何だってします」と言った。五年前と一字一句変わらぬ台詞だった。言ってから、シャガールの夕暮れをいっそう赤くするところまで同じだった。凪咲は五年間意思を曲げなかった少女の一途な様子に、振り返ってもはや自分がそれほど若くはないのだ、と気づかされた。
 そしてまた、自分が少女から大人になるだけの歳月、一人の人間が行方不明のままであることのやるせなさを思った。魂の質量は何グラムだっけ。以前、それを題材にした映画を観た気がしたが、タイトルが思い出せなかった。銀田家では毎晩映画の上映会がある。固定メンバーは龍一と凪咲。たまに気が向くと獅乃や瞬矢も加わる。たぶんこれもいつかの上映会で観たのだろう。
 凪咲がそんなことを考えている間も、駅前の鳩は例の首を振る運動をやめず、ふっくらした体で雑踏の中を行き来している。古着屋でも巡って帰るか。〈HAPPY BIRTHDAY TO YOU〉で海外の掘り出し物を漁れば少しは今日をいい日にできる。北口にばかりいると、ファッションが疎かになる。下手をすればパジャマで街に出ても通用しそうな、そんな空気があるのだ。
 居心地がよすぎるサブカルの街。中心を欠いた街。よれた普段着のユートピア。北口の街並みをふらふらしていると、このまま働かずに生きていても許されそうな気さえしてくる。
 最近、よく獅乃から「ほかに仕事見つけないの?」と言われる。家業を手伝ってバイト代をもらうということは、家計の一部が家族に持っていかれるようなものだからだろう。もちろん人員を増やすよりはプラスだが。
 ──植物みたいにじっと生きてそのうち枯れたい。
 母の小言を吹き飛ばすように、わりと大きい声でよくそう言う。本当にそう思う。植物みたいに生きられたら。でも龍一は言う。
 ──植物がじっとしてるだけ? それは誤解だね。彼らは風や生き物の動きに目を光らせる探偵だよ。
 龍一は何でも探偵と結びつける。休業中のくせに。
 子どもの頃は獅乃はパートタイマーで、龍一だけが探偵だった。その頃は、幼稚園や学校でも父が探偵であることを誇っていた。でも今は両親を誇りに思えない。
 だけど、もし〈神崎透くん失踪事件〉での汚名を返上できたら?
 龍一は仕事に復帰するかも。いまの傾き過ぎたピサの塔では、出て行くにしても後ろ髪の引かれるところがある。一つの事件を解決することは、その周辺の人々の止まった時計の針を動かすのみならず、失策を演じた探偵の時計の針を動かすことにもなるはず。
「でも、実際どうやって調査するつもりなんですか?」
 フリルを身体の一部と主張するゴスロリ娘が尋ねた。
「ん……そうね、透少年の事件の話は昔から知ってるけど、じつはずっと気になってることがあるんだ。まずはその調査からかな」
「気になってること?」
「それは──企業秘密。まあ一週間後の報告を期待して」
 塔の傾きを直すだけ。最低限の税を納めるようなもの。凪咲はこれからの計画の概略を立てる。
 その一、〈神崎透くん失踪事件〉を解決し、龍一の汚名を晴らす。その二、不動産屋で家を探し、人生をスタートさせる。銀田家と距離を置いた、新しい人生を──。

Chapter1 一人で歩く木

1
 
「夕飯には戻るの?」
 獅乃の目は例のごとく、書類の上を高速で走っていた。またペット誘拐事件のほうで進展があったのだろう。いったん事件を追いはじめると獅乃は脳の処理速度が倍加し、家族への問いかけに苛立ちが混じりだす。
「わからない」
「戻るに決まってるじゃん。おねえは暇なんだからさ」
 瞬矢が馬鹿げた問いだと言わんばかりに笑う。彼は世界が終わるその瞬間も「オワタ、オツ」などと言っているかもしれない。
「あんたに聞いてない」
 獅乃は不要な口出しにはシビアだ。すると台所から龍一が言う。
「今日は豆腐ハンバーグだから時間通りに帰ってきてほしいな」
「オケ」 
 クールダウン。ノイズから遠ざかる。無論、それはまたべつのノイズを受け入れるということでもある。
 月曜午後三時の高円寺は道を横切る亀に似ている。このまま永遠に午後三時のままなのではないかという錯覚に囚われるのだ。
 駅を越えて南口にあるルック商店街のシーシャバー〈KOEN SHISHA〉に駆け込んで水煙草を吸い込んだ。駅を一つ越えるだけで、親戚の会合から逃れたような安堵感を抱くのは昔からだ。同じ街でも北と南は別の顔をもつ。
 凪咲は家では非喫煙者で通っている。紙煙草は獅乃の専売特許。彼女は換気扇の下を吸い場所と決めている。一時は自分もそこで紙煙草を、と考えたが、陣地に分け入るようで気が滅入ってやめた。
 十五分だけ吸ってすぐに会計をすると、そのままルック商店街を南下してゆく。この商店街に来ると安心する。駅を越えた安堵もあるが、それだけではない。高円寺は商店街ごとに微妙な肌感があって、たぶん凪咲の肌にはここが合っている。もしこの通りに住んでいたら、毎日シーシャを吸って、古着屋、古書店をめぐり、最後にテキーラをキメて一日を終えるだろう。
 商店街が終わりに近づいた辺りで、蔦の餌食になった建物が現れた。表にはバオバブ、アガベ、ヤシ、ユーフォルビア、ボトルツリーと、神々並みの存在感をもった大型植物群が展示されている。凪咲の今日の目的地。その白いドアの向こうにはまた植物が溢れている。あまりにもいびつなその植物たちは、建物の血管や筋線維のように一体化している。
 ブーケを扱うタイプの花屋ではなく、主に展示用の大型観賞植物を扱っている。個人客もそれなりにいる。ガーデニングブームはいまだ続いており、個人の庭園にも大きな植物を置きたいという需要は絶えないらしい。
 店主の露野海雨の人柄も大きく関わっている。彼女はまだ二十代後半だが、とにかく仕事が丁寧だ。枯れた植物の写真を撮りたいと話したときに、だったら〈如雨露じょうろ〉に行ってみたら、と勧めたのは龍一だった。あそこの店主は仕事が丁寧で有名らしいし、どんな話も真摯に受け止めてくれるよ、と。
「いらっしゃい、凪咲ちゃん」
 海雨が気の利く生徒会長みたいな溌剌とした笑顔で迎える。いまの時代、顔の半分はマスクで隠れているのに、彼女は目だけで笑顔だとわかる。とても自分にはできない芸当だ、と凪咲は思う。
「どうも」
「また撮りに来たの? まだ新しく腐っているのはないわよ?」
 海雨は需要を的確に把握している。凪咲がここに来るときは、腐敗した大型植物を撮影する時と決まっている。
「それはわかっています」
「凪咲ちゃんも変わってるわ。枯れた植物が好き、なんて」
「海雨さんの顧客管理能力すごいですよね。わたし二、三度しかまだ来てないのに」
「すべての顧客を把握してるわけじゃないのよ。好きな顧客だけ」
「ありがとうございます。でも、今日は別件なんですよ」
「撮影じゃないの? 何かしら?」
「じつは、いまちょっとした案件を追ってまして」
「そういえば凪咲ちゃんの家は探偵事務所だったっけ」
「そーなんですよ。それで家の手伝いである事件を調べていまして」
 凪咲はそう言うと、一枚の写真を取り出した。昨日、事務所の留守番をしているときに過去のファイルから拝借してきたものだ。
「これ、何ていう花かわかりますか?」
 そこに写っているのは、舞踏会で影の主役になる青いドレスを思わせるドライフラワー。五年前、恵奈が神崎透の部屋から持ち出し、龍一が撮影したものだ。ドライフラワーになったのは、失踪後二週間経って依頼がきたためで、失踪直後は生花だった。
「花弁の形状から察するに、芥子の花ね」
「青い芥子の花って、そんな簡単に手に入るものですか?」
「青い芥子の花ねえ……となると、メコノプシス属かしら」
「暴走族っぽい名前ですね」
「うふふ。その族じゃなくて。植物学上の分類を示すカテゴリー。ヒマラヤの高山地帯とか、そういった場所に広く分布している花よ」
「さすが! ほんとにどんな植物のことも知ってるんですね」
「どんな植物も知ってるわけじゃないの。好きな花だけよ」
「日本でも簡単に入手できるものなんでしょうか?」
「できると思う。ただ、栽培には向かないわね。標高の高いところでしか育たないから」
「その花には、何か特別な意味があると思いますか?」
「凪咲ちゃんが言ってるのは、花言葉とかそういうことよね? んん、どうだったかな、とくにそういった特別な意味はなかったような。でもわからないわ。さっきも言ったように、メコノプシス属というのはグループの名前で、その中にはメコノプシス・グランディス、メコノプシス・クイントゥプルネルウィア、メコノプシス・シンプリキフォリアとか、いろいろあるのよ。だから、そのうちのどれかには、私も知らないような現地での意味があるかもしれない」
「つまりヒマラヤとかそっち方面ではってことですか」
「そう。日本で知られた花言葉にはない意味があったりね」
 だが、事件は日本で起きたのだ。少なくとも花言葉によるメッセージではなさそうだ。もっと個人的なものだろうか? たとえば、その花にまつわる記憶のような。もしそうなら、失踪した神崎透の、残された家族に尋ねなければわかるまい。だが、それは難しい。
 神崎透の父親・神崎大輝を、五年前に龍一も訪ねている。だが、透少年の部屋に入って調査すること自体は許したものの、その後いくつか質問を重ねると「あんたもどうせ俺を疑ってるんだろう!」と怒りだして追い出されたと聞いている。
 じつは川上恵奈と駅前で別れた後、古着屋に寄ってから神崎家の近くをそれとなく通ってみた。どこにでもある古びた小さな一軒家。貧困層ではないが、裕福なわけでもない。五年前にテレビで見たよりも、家の外観は薄汚れてみえた。
 しばらくして、郵便物をとりに大輝が現れた。感情の起伏の薄い、細い目。見ようによっては悪人面ともいえたが、何の希望も持たずただ死の訪れを静かに待っているような雰囲気に、居たたまれず、その場からすぐに立ち去ってしまった。探偵とはいえ、絶望を抱えた人物の目前で安易に過去を蒸し返すのは躊躇われた。
「いらっしゃいませ」
 凪咲が考え込んでいる間に、べつの客が入ってきて、海雨は凪咲のもとを離れた。コロナ禍で客足はだいぶ遠のいたと先日嘆いていたのを思い出す。いまは接客がとくに重要な時期だろう。
 凪咲は手持ち無沙汰に、店のレジのあたりをぼんやりと眺めていた。〈如雨露じょうろ〉のレジには、店のマスコット的な如雨露じょうろのミニチュアが飾られてある。ほかにも、コルトレーン〈ブルー・トレイン〉と吉田拓郎〈元気です。〉のLP盤が、仲良く並んでいる。その横にはペーパーバックを模したみうらじゅんの『青春の正体』の書影。それからクラシックデザインのカメラ、昭和の香りがする黒電話、タイプライターといったものが並ぶ。アンティーク趣味が多いのは、亡くなった父親の遺品らしい。人はモノを遺し、風景に溶け込む。
 また来ます、と言い残して立ち去ろうと出口に向かったその時、 不意に、耳が会話に引き寄せられた。
「木が歩いたとしか思えないのよねぇ」
「まさか……」
 わずかに愛想笑いを含みながら、海雨は答えた。鶏が朝に啼くように自然な反応。発信者は、ついいましがた来店した女性客だった。年の頃は三十代の前半。遠くからでも表情が観察できそうな派手な顔立ちだが、ところどころに疲労の跡が見え隠れする。
「でも本当に。冗談抜きで。一昨日ここで買って庭に植樹してもらった木のことよ。あれがね、昨日の朝目覚めたらうちから消えていたの。どうしたのかしらって思っていたら、一つ向こうの通りの家の庭にあったのを買い物の帰りにさっき偶然見つけちゃって……。だから驚いているわけよ。木って歩いて移動したりする?」
「……本当に、あの木なんでしょうか?」
「そうよ。げんにうちの庭からは消えてるんだもの」
「そんな……」と海雨は呆然としたまま、困惑した目を凪咲に向けた。動かした視線の先に、たまたま凪咲を見つけた感じだった。
「あの、すみません、そのお話、詳しくお聞かせ願えませんか?」
 凪咲は二人の前に進み出て、鞄から名刺を取り出した。
「私、こういうものです」
 名刺にはこう印字されている。
〈銀田探偵事務所 副代表 銀田獅乃〉
 母の名刺が財布に入っていたのは僥倖だった。先日、名刺を更新した母が、いたずらに凪咲にも「やる」と無理やり寄越したものだった。渡す前に、電話番号のところを消して、自分の番号に換える。
「最近、番号変えたものですから」
「はあ……あなたお若いのに、副代表をしてらっしゃるの?」
「ええ、まあ」
 嘘だと知っているので、海雨は微妙な顔をしているが、あえて黙っていてくれた。
「それじゃあ、お願いしようかしら。家出した木をそのままにしておくのも気分が悪いじゃない?」
「お気持ちお察しします」
 木に家出された気持ちとはどんなものかと考えたが、出て行った木の気持ちのほうがまだ想像できる気がして途中でやめた。大事なのは、一週間のうちに二人目の依頼人を得たことだ。少なくとも、無職の凪咲にとってそれは革命的な出来事と言えた。

 依頼内容はガレージバンドのセッションなみにシンプルだった。第一に、植物を取り戻すこと。第二に、近所の家に植物が移植された理由を探ること。
 依頼人は片岡美玲。「五万くらいなら今日お渡しできるわ。残りは成功報酬ね」という発言からは生活に困っていないことが窺えた。
 五万円というのは決して大きくはないが、今日出会った相手に差し出すには大きすぎる額には違いない。まして庶民的な街、高円寺の主婦が持ち合わせる金額としては破格。さすが南口だ。
 美玲は依頼にあたって、一つの推論を披露してくれた。
「その植物が移植されている御宅、石塚さんていうんだけれど、以前、夫と散歩している時に石塚さんの家から奥さんが出てきたところに遭遇して、挨拶をしたの。その時に、夫が珍しく目を見開いてこう言ったのよ。『女優さんみたいな人だね』って」
 美人をみれば、男ならそれくらい誰でも言いそうだ。凪咲の父、龍一にしても、新聞の集金スタッフが美人だった、と獅乃に伝えて嫌な顔をされたことがあった。でも獅乃だって凪咲だって「イケメンがいた」くらいの報告はする。そこはフィフティフィフティだ。
 だが、美玲は少なくともそうは思っていないようだった。
「もしかしたら、よ? もしかしたら、うちの夫がその石塚さんの奥さんに──。あり得ないとは思うけど、ね。ただ、ここ最近、休みの前夜は帰りが遅いのよ。どこで羽目を外しているんだか……」
「なるほど」
 高級ビストロのレシピに市販のポテトチップスが使われているのを発見したような気分で凪咲はその話を聞いていた。
「ご事情はよくわかりました。とにかく、その木が本当に歩いたのか、調査しましょう」
 眼鏡をかけていたら、その場でくいっと押し上げていただろう。その後、LINEアドレスを交換し、夫の顔写真や会社の住所、勤怠スケジュールなども送ってもらった。
 帰り道、探偵という稼業の可能性に思いを馳せていた。存外この職業、やりようによっては稼げるのでは。自分は両親以上に探偵の才能に恵まれている? 何にせよ、三日で二つの依頼はすごい。
 しかし、まだ一件も解決したわけではない。凪咲はちょっと身震いした。これまで調査を手伝ったことはあっても解決に導いた経験は皆無だった。そもそも調査の手順、いろはを知らない。
「困ったな。Siriにでも聞く?」

「それ、依頼を引き受けたってことなのかな?」
 帰宅後、〈歩く植物〉の話を父に聞かせると、思わぬ冷静な口調でそう返された。わりと世間話レベルでならあれこれ言い合える間柄だけれど、相談じみたことはあまりしたことがない。Siriとの比較で、龍一を選んだだけだった。
「ええと、いや、依頼みたいな堅苦しい話じゃなくてね、ちょっと困ってるみたいだったから……」
 龍一はじっと凪咲の表情を覗き込んでから、目を閉じた。龍一は瞬時に凪咲の嘘を見破れる。親は子の嘘に敏感だ。
「もし依頼なら」
「い、依頼じゃないって」
 やっぱりSiriにしておくべきだったか。
「わかったよ。でももし依頼なら、やめたほうがいい。パパなら引き受けない依頼だ」
「どうして? 主夫だから?」
「ちがう。リスクが高いから」
「リスク……」
「ラスクじゃなくて?」と横から瞬矢が口を挟んで龍一に睨まれた。「ども失礼しましたー、トツってきまーす」
 瞬矢はスマホの世界に逃げ帰ってしまう。
「まあ大丈夫よ。依頼じゃないし。ただ、歩く木っていう謎を、神秘学関係にお詳しい父上はどう思うかな、と」
「主夫の考えを聞いてくれるわけか。それはどうも」
 龍一は慣れた仕草で珈琲ミルを仕掛けた。ごおおおっと戦車でも走らせるような轟音が鳴り、同時にコクのあるブラジル豆の香りが漂い始める。
 龍一は神秘学を好み、すぐに古今東西の神話、民間伝承、都市伝説を現実のあれこれと結び付けて考察する。そのたびに、家族は彼の脱線に付き合わされる羽目になるのだ。
「木が本当に歩くのだとしたら、可能性は二つに分かれる。木が歩いたか、木が歩かされたか、だ」
「木が歩かされた?」
「木が歩いた不思議を真に受けるなら、木が歩かされる不思議も真に受けなきゃつり合いがとれないだろ?」
「んん、そうなの……かな。誰に歩かされたっていうの?」
「そんなことができるのは魔女か魔術師だろうね。小さい違いに見えるだろうけど、魔女か魔術師かによって行為の意味は全然変わってくる。魔女は悪魔に従属するが、魔術師は悪魔に命令を下す、とエリファス・レヴィは言っている。つまり、もし木を歩かせたのが魔女なら、そのブレインは悪魔。でも、魔術師なら、あくまで人間主体の行為ということになる」
「でも現実問題、魔術師も魔女もいないでしょ?」
「それを言うなら、歩かされる木もいない。で、木が主体的に歩く場合だけど、植物の種類は聞いた?」
「いや、詳しくは……大型観葉植物専門店だから、大型だろうと思うけど。名前が必要なら海雨さんに聞くこともできるよ?」
「ふむ……」何か思い当たるような顔つきになる。「ソクラテア・エクソリザって知ってる?」
「知らない」
「エクアドルの森に、そういう植物があって、その木が歩いたのを目撃した人が後を絶たない」
「ほんとうなの?」
「さあ。でも信じたくなるのはわからないではない。むしろ歩き出さないのが不思議なような形状をしている。根っこの部分がむき出しになって盛り上がっていてね、ちょうど足のように見える」
「ふうん。信憑性ってどれくらいあるのかな。たとえば食虫花みたいな感じで、植物だけど意思をもっていて動くようなことって……」
「植物にはみんな意思があるよ。そしてその意思を風や昆虫に伝えて、子孫を増やすのに役立てたりする。そういう意味では、植物は思考もしているし、動きもする。だけど、今のところ、植物が実際に歩くというのは植物学の世界で認められてはいないね」
「じゃあ、やっぱりソクラテア・エクソリザといえど、歩いて移動ってのは考えにくいよね」
 危うくこの男の神秘論理に絡めとられて非現実的な推理をしてしまうところだった。
「証明されていないからと言って、起こり得ないと決まったものでもないんだ。この世界では今日もそこかしこで人知を超えた事件が起こっている。中には、学会では認められていないような現象が、確かに起こっていたりもする」
「じゃあ、パパがこの一件を依頼されても引き受けない理由を教えてよ。それは神秘学的な意味においてなのか、もっと現実的な意味においてなのか」
「現実とはしばしば神秘に満ちたものだよ。そして、僕が言ったのはどんな意味においても、だね。植物が歩いた理由なんて、知ろうとしないほうがきっといいんだ」
「パパはいつだって答えないという形で答えるのよね」
「厳密に答えているだけだよ。凪咲、ほんとうに今の話は……」
「大丈夫。ただの世間話で聞いただけ」
 それから凪咲と龍一は窓の外を見た。あづま通りが、間もなく夕闇に飲み込まれようとしていた。凪咲は、木がこの街を歩くところを想像した。それは奇妙な光景のようでもあり、高円寺という混沌の中でならそれもまたありのようにも思えた。

 まずわかっていることのうち、もっとも手前にあるものは何か。
 凪咲は夜が明けるまで考え続けた。幸い、凪咲が持っている情報はたかが知れていたので、紙に列挙しても五分とはかからなかった。
 書き留めた情報を矯めつ眇めつ眺めていると、それらの事象にちょっとずつ遠近の差が出てくる。ある事象は手が届かないほど遠くにあり、ある事象はそれほど遠くはないが建物の陰に隠れて姿が見えなかった。あれこれ考え併せてみると、もっとも手前にあるのは植物それ自体ではない気がしてきた。たしかに、もっとも惹きつけられるポイントは〈歩く木〉であり、凪咲が興味を引かれたのもそこだったが、それはこの謎の肝であっても、手前にはない。
 手前にあるのは──美玲の夫だった。
 美玲自身が夫を疑っているのであれば、その可能性を検証するのが、いちばん〈手前〉にあること。
 美玲は冴えないアクセサリーをおざなりに自慢するときのように、夫の勤め先を教えてくれた。〈水井生命〉。誰もが知っている旧財閥企業。顔写真も送ってもらっている。笑った顔と真顔の二枚。写真には美玲も写っており、笑顔のほうは夢と魔法の王国で撮られたものだった。探偵に間接的に浮気調査を頼む妻とその夫にも、夢と魔法の王国では笑い合えた時間があったのだ。
 翌日、夕方に池袋東口へ向かうべく、高円寺駅でパスモをチャージし、いざ改札を潜ろうかというタイミングで、背後から話しかけられた。
「おねえ、お出かけ?」
 振り返って、そこに瞬矢がいるのを確かめ、目を見開いた。もうとっくに学校に行っている時間なのに。
「君、何してんの、こんなとこで」
「昨日の夜パパに話してた案件で動いてんだろ? 手伝おうか?」
 妙に鋭いところは、母親に似てしまったのか、それともソシャゲーのやりすぎで身についたものなのか。
「学校は?」
「今日は開校記念日。おねえ、調査すべきことは山ほどあるんだろ? 一日いなかったら、さすがにママに怪しまれる。どう? 一日五千円で俺を雇うってのは。手分けしたほうが調査は早い。事情はわかってるし、尾行は得意だよ。トツる時、気づかれたことない」
 実際、会社にいる片岡美玲の夫の張り込みをしていたら、それだけで半日が終わってしまう。それは確かに勿体ない。
「ゲームの世界の話をされてもね」
「シミュレーションって言葉、知ってる? とにかく、おねえはママに用事で呼び出されることがあるんだから遠出しないほうがいい。まず近場で調べられることをやりなよ」
 図々しい指図だったが、残念ながら一理ある。
「じゃあ池袋東口に向かって。ビックカメラ方面に五分ほど進むと、要塞みたいな大げさなビルが姿を現す。水井生命ビル。依頼人が言うには、夫、片岡紘は火曜日と土曜日は翌日が休日だから外食率が高く、だいたい酔って帰るらしいの」
「わかった。電車に乗るまでとにかく追いかけるよ。顔写真は?」
「いま送信するね」
 凪咲はLINEで瞬矢に二枚の写真を送った。片岡紘は土日にはヨットでも乗っているのか、陽光を程よく浴びた浅黒い肌をしている。明るすぎる元テニスプレイヤーのような長身と爽やかなルックス。受付嬢に挨拶する時も、きっと白い歯をきらめかせるのだろう。
 凪咲は五千円に、少し迷ってもう一枚千円札を付けて渡した。
「君のサバイバル力を信じる」
「おねえ神だな。夜肩も揉むよ」
「その言葉、忘れるなよ」

 追跡調査を瞬矢に頼んだことで、ほかの調査に費やす時間ができた。まず石塚邸と片岡邸の位置。どちらも高円寺南口にあるという話だが、南口は商店街を除けばほぼ未体験エリアだ。
 わかっているのは、北口よりも富裕層が多く住んでいるということ。そのぶん穏やかで、ある程度は理路整然としてもいるだろう。
 エトアール通りの途中にあるわりと広い路地に曲がると、最初こそザ・高円寺と呼びたくなるファンキーな街並みが続くが、それが数メートルもすると途絶え、突然どこの高級街区かと見紛うほどの穏やかな街並みが現れた。
 駅に近いのは、片岡邸のほうだった。白い石灰岩の塀で囲まれ、ゲートも同素材でできていた。塀にある小さな覗き窓から庭を見る。ちょっとしたバーベキューの集まりが開けるくらいの大きさの庭の一部に、たしかに掘り返された痕跡が確認できた。
 美玲はどこかに出かけているのか。屋敷はひっそりと静まり返っている。ひとまず、美玲の言ったことの一部は確認できた。木が歩いたかどうかはともかく、その木は確かに片岡邸の庭から消えたのだ。
 それから、美玲に言われたルートで石塚邸に向かった。石塚邸は片岡邸の一つ奥の通りにあった。周囲の屋敷から浮き立つように、純白の煉瓦塀の屋敷が見えてきた。片岡邸に比べると塀は低く、凪咲でも背伸びをすれば内部を覗くことができた。その塀寄りの位置に、いびつな形状をした木を発見した。葉の感じから、ヤシの木の類ではないことは何となくわかった。ということは、ソクラテア・エクソリザではない可能性が高い。
 だが、驚くべきことに、その木は根の部分が盛り上がり、今にも歩き出しそうに見えた。龍一の言っていた二択が脳裏をよぎる。木が歩いたか、歩かされたか。
 その木は、はじめからそこに生成されているような顔で収まっていたが、根本は、ほかの場所よりも土の色が濃かった。最近になって植えられたのだ。最近。つまり、土曜の夜のうちに。
 片岡邸の木が石塚邸に移動したのは間違いなさそうだった。二軒の位置は通りを一本隔てただけ。木も観賞用で、大型と言っても、凪咲と同じくらいの高さしかない。持ち運んで移植すること自体は、車さえあれば誰でもできるだろう。
 仮に美玲の夫が移植しているのだとしたら、目的は何か。プレゼントではないか、と美玲は考えているようだが、美玲が注文した植物をわざわざ贈り物にするだろうか?
 その邸宅からわずかに離れたところにある〈すぱいす百科〉に入った。店内は刺激的な匂いが溢れている。壁一面にずらりと並べられた小瓶には赤や黒、黄色の香辛料がぎっしり詰められている。居食屋ではなく、スパイスを専門に扱う店のようだった。
 店主は立派な眉をした東南アジア系の男性だった。
「最近このへんで売れるスパイスって何ですか?」
「フェヌグリークが人気だね。料理に使えるのはもちろんだけど、鎮痛とか食欲不振を改善したり」
 予想の斜め上をいく流暢な日本語だった。
「このあたりの主婦の方なんかも買いに見えますか?」
「バカ売れさ」男は笑った。「高円寺といえばカレー。このへんは客層も良くてね、多少値の張るスパイスでも、木苺をつまむみたいに手軽にバスケットに入れる。どうだい、おねえさんも買ってく?」
「そうですね……石塚さんの奥さんとお揃いのがほしいんですけど」
「石塚さんの知り合い? チロエペッパーは高いぜ?」
 一か八かで言ってみるものだ。夫人はここの常連なのか。いったん奥に行き、出してきたのはいかにも上等そうな白い缶だった。
「チロエ島でとれたペッパーさ。一度使ったら癖になる辛みだよ」
「石塚さんみたいな美人になれるなら使ってみようかな」
「あの夫人はこのあたりのマダムの憧れだから、気持ちはわかるよ」
 やはり美人というのは本当なのか。
「石塚さんの夫婦仲はどうなんですか?」
「夫婦仲? そりゃ夫のほうはいろいろと気を病んでるだろうな。あんな美人を嫁にもらうってのは、災厄を引き受けるようなもんだから。かなりおっとりしたタイプで、感情もあまり表に出さない。ああいうタイプが存外……ってのはまあこれは男の妄想だが」
「夫以外の男性と歩いているのを見たことは?」
「もしそんなのを見たら、俺がそいつを撃ち抜いて立候補するよ」
 近所でデートはさすがにしないだろう。もしも二人が関係しているなら、高円寺だとしてももっと家から離れた場所を選ぶはず。
 凪咲はスパイスを一袋買い、礼を言って外に出た。そのとき、ちょうど買い物袋を両手に抱えた女性が純白のゲートに入っていくのが見えた。大きめのサングラスをかけているが、威風堂々としたモデル風の歩き方がしぜんと見る者を惹きつける。
 凪咲はすぐに彼女に話しかけて植物の存在を思い切って尋ねてみようかと考えた。が、待ったをかけた。まず片岡紘の行動を把握するのが先だ。
 凪咲はエトアール通りに戻ると、〈妄想インドカレーねぐら〉に入った。〈すぱいす百科〉のせいですっかりカレーが食べたい気分になっていた。〈痺れるチャイ〉と〈新ごぼうと実山椒のキーマカレー〉を頼んで、スマホでインスタのかわいい女子にイイネを連打するという一人飯の際の日課をこなしながらあっという間に平らげると、探偵なんてどうにでもなれという気分になっていた。このままテキーラバーにでも直行しようか、と思い始めたところで、瞬矢から電話がかかってきた。
「動き出したよ。帰るのかも」
 瞬矢の声の向こうが騒がしい。駅前の雑踏を歩いているようだ。
「しばらく追ってみて」
「オケ」
 電話を切ると、古書店でぶらぶらと時間を潰した。探偵術に関する本を何冊か買い込んだ。そのうちの一冊にはプレミアがついていたらしくやけに高かった。
 LINEが入った。
〈駅を素通りしてこんな時間からガールズバー入ったよ〉
〈羽目を外してるんだね〉
〈外しきれないからガールズバーなんだろ。本気で羽目を外す奴は風俗に行くよ〉 
〈わかったふうな口を利くな〉
 もしもこの曜日に石塚夫人に会っているのなら、退社後すぐに高円寺のどこか人目につかない場所で落ち合う、などのほうが理想だ。
 しかし石塚夫人は買い物から帰宅したし、片岡紘はガールズバーにいる。本当にこの二人は関係があるのか。
 一時間きっかりで、〈ガールズバーから出てきた〉と連絡があった。
〈十五分単位でドリンクオーダーと話す女の子をチェンジするシステムみたい。一人の子で指名延長して一時間で満足したのかも〉
〈だからわかったふうな口を利くなって〉
 ほんの少しかわいい女の子と話して家に帰る。それを「羽目を外す」と呼べるかどうか。
〈駅の改札通った。山手線に乗る〉
〈帰るのかな〉
〈たぶんね。まだ七時だし、ナントカ夫人に会うんじゃない?〉
〈だとしたら、元気だね〉
 その後、思ったとおり〈山手線で移動して高田馬場から東西線に乗った〉と連絡がきた。弟からの調査報告はここまで。
〈今日、高田馬場でクラスコンパあるからこれにて撤収〉
〈ありがと。助かったよ〉
〈おねえ、尾行は初だから気をつけろよ。いっつも殺されるんだから〉
 サバゲーの話をここに持ち込まないでくれ、とは言わなかった。面倒くさいのでスタンプを送って済ませる。
 駅前に移動して改札をじっと眺めていると、ものの十分ほどで片岡紘が姿を現した。働いた後でガールズバーで若い子と話して、エネルギーを吸い取られたのか、写真より萎んで見えた。
 よれた雑巾みたいなサラリーマンの背中を追いかけるのは造作もないことに思えた。紘は仕事のあれこれとガールズバーでの出来事なんかを回想でもしているのか、終始うつむき加減で歩いている。
 エトアール通りを中ほどまで来た。次の路地を曲がれば片岡邸、その次で曲がれば、石塚邸。
 だが、彼は片岡邸のある路地も、石塚邸のある路地も、どちらも素通りした。不審に思いながらも尾行を続けていくと、そのままエトアール通り沿いにあるライブハウスの前で足を止めた。
 中ではあまり有名ではないアーティストによるアコースティックライブが行われるようだった。
 凪咲はカメラを構え、シャッターを切った。ちょうどエトアール通りの向こう側から歩いてくる人まで入り込んでしまい、不審な眼差しを向けられたので頭を下げた。
 その間に、紘は店の中に入ってしまったようだった。

 片岡紘は、無名のアーティストのアコースティックライブを堪能しているのだろう、まったく店から出てくる気配はなかった。途中で煙草を吸いに出てきた男性客に、スマホで紘の写真を見せた。薄汚れたデニムに、オリジナリティを煮詰めすぎたようなデザインのTシャツ。ひと目で地元客だとわかる特有の匂いが漂っていた。
「この人物が先ほど入っていったのをご存じですか?」
「ああ、ステージの最前席にいるよ。案内しようか?」
「いえ、結構です。あの……あの人はよく来るんですか?」
 男は一瞬怪訝な顔をしたが、自分なりの答えを見つけて納得させたのか、何も尋ねずに頷いた。
「週二回は顔を合わすよ。一度はしゃべったこともある。コロナ禍になってからかな。ほら、ライブハウスはあれ以来どこも大不況だからさ、窮地を救おうとこれまでは足を運ばなかった新たな常連が生まれてるんだよ。あの人もそうだね。ライブハウスだけじゃなくて、知人が勤めてるクラブやバーみたいなコロナ禍で経営に打撃を受けたところを、暇を見つけて回ってるんだってさ」
「なるほど……ありがとうございます」
「まあ、彼氏をそんなに疑わないでやんなよ」
 都合のいい勘違いは否定しないにかぎる。凪咲はあいまいに笑って頭を下げた。男は煙草を吸い終わると、中の歓声が落ち着いたのを聞いて慌てて戻っていった。
「羽目を外している」という美玲の疑惑の目は当たっていたが、その相手は石塚邸の夫人ではなかった。コロナ禍になって経営の苦しいクラブやバー、ライブハウスに金を落としていたのだ。たとえ偽善だとしても、ハイブランドな偽善だろう。
 すぐさま美玲にLINEを入れた。
〈ご主人はコロナ禍で不況のお店を見舞っていて遅くなっているようです。必要ならあと一、二週間継続で調査しますが、石塚夫人とは無関係と思われます〉
 既読マーク。しばらく時間が空く。その間に凪咲はさっき撮った写真をチェックする。空に火星が写っているわけでも月が二つ写っているわけでもないが、どこかに違和感を覚える。だが、その感覚は熟れていないアボカドの味よりもとらえどころがない。
〈それじゃあ、あの木を返してもらってくれる?〉
〈石塚さんの家に私がお願いするんですか?〉
〈そうよ。五万円分の働きはしてもらわないと〉
〈私は紘さんの行動をチェックしてと頼まれて……〉
〈取り戻して〉
 美玲の家のトイレのモップの毛先はきっとささくれ立っているに違いない。凪咲はそう想像して少し気が晴れると、短く返信した。
〈わかりました〉

 五分後、凪咲は石塚邸の前に立っていた。さっきより空は暗く、そのぶん純白の煉瓦塀は周囲から浮き立って存在感を増して見えた。
 表札をよく見ると、小さな字で夫婦のそれぞれの名前がある。石塚幹夫・留美。実際のところ、もしも石塚夫妻のどちらかが盗んだのなら、簡単には認めないだろうし、もちろん木を返してくれなんて言われてもはいそうですかとはならないだろう。
 考えれば考えるほど気は重くなるが、ふたたび片岡家のトイレのモップの毛先のささくれを想像したら多少前向きになれた。
 インターホンを押すと、ほどなくゲートが開いた。「どうぞ」とスピーカーから声がする。カメラの向こうでは凪咲の姿が見えているはずだ。用件も告げていない相手を通す不用心さにいささか驚かされた。若い娘だから、警戒されなかったのか。
 中に入る。花崗岩の石畳を進む。孔雀の一羽も飼っていてもおかしくないような立派な植栽の施されたアプローチだったが、孔雀には生憎遭遇しなかった。
 辿り着いた先にある、黒く重たそうなドアが開いて、留美が現れた。さっき見かけた時とは違って、その身形は上質なサテン生地のドレスに包まれている。すっきりとした玄関に、凪咲は気後れした。
「何か御用? 新聞の営業か宗教の勧誘ならうちは結構よ。今、ビーフストロガノフを火にかけているところなの」
 話している留美は、サングラスをしている時に感じた妖艶さからは程遠く、むしろ上品な育ちであることが窺える。きっとコロッケの衣だけを売りに来られても丁寧に対応するのに違いない。
 凪咲はまた母の名刺を取り出した。
「じつは、お庭に面白い木があるのを先ほど拝見しまして」
「ああ、あの根が盛り上がった木のことね?」
 共通の趣味でも見つけたような大きな反応だった。凪咲は戸惑いながら頷いた。
「あの植物が自分の庭のものではないか、という方から依頼を受け調査に参りました。お庭で確認させていただくことはできませんか?」
「確認も何も、きっとその方が正しいと思うわ」
「え……?」
「日曜の朝、目覚めたら、突然あんな植物が庭に。私もびっくりしたの。きっとその方のお庭からどなたかが引き抜いて、うちの庭に植えたのに違いないわね」
 嘘をつく理由のない環境に生きてきた者には、発言の隅々にそれらしい匂いがしみ込んでいる。
「ほんとうに、あの木には何のご記憶もないのでしょうか」
「あるわけがないわ。私の趣味じゃないもの。あんな根っこが足にみえるような不気味な木」
「そうかもしれませんね」
「ほら、なんていうか、まるで今にも歩き出しそうな……」
「ええわかります」
 実際、まだ木が自分で歩いてきた可能性がゼロではないことを、彼女に伝えるべきだろうか。あるいは魔術師か魔女の可能性を?
「持ち帰っていただけるなら、とても助かるわ」
「そうですか。ありがとうございます」
 だが、凪咲はしばし考える。木は凪咲の背よりわずかに低い。あれくらいの大きさなら、自分でも持ち運びはできるが、いったん〈如雨露〉に連絡を入れて海雨に手伝ってもらったほうがいい。万一、木の根っこの栄養を運ぶ大事な器官を傷つけでもしたら責任がもてない。
「あの木、なんだか災いを招きそうでこわいのよね」
「災い、ですか」
「ええ、さっきも男の人があの植物を撮影しに来たりして」
「男の人が撮影を……?」
 男が撮影、というところになぜ自分がかくも反応したのか、凪咲には一瞬理由がわからなかった。
「ええ。そう、カメラマンて言っていたけれど、何だかそんなふうには見えなくて……」
「カメラマンということは、つまりスマホではなく、カメラで撮影されていた、ということですよね」
「ええ、カメラです。そう……PRODってマークがあったわね。ちょっと古そうなタイプのカメラで」
「ミノルタ プロッド20's」
「え?」
「そのカメラの正式名称です。クラシカルなデザインをしてはいますが、じつは全自動式で、九〇年代に作られた貴重なモデルです。オートマなのにクラシックカーのふりをした車ってありますよね。あんな感じです」
「なるほど。私の同級生に昔からやけに老けこんで見える子がいるんだけど、あんな感じかしらね」
 凪咲は彼女に好感をもったが、同時に頭は忙しく働いていた。最近、ミノルタ社製のカメラを目にしている。それも、ミノルタ プロッド20'sというきわめて珍しいタイプのそれを。
 それに、この家を撮影していた男。
「その人、首から紐をかけていませんでしたか」
「ええまさに。首からカメラを……あなたが今してるみたいに」
 彼女は手でネックレスをかけるときのような仕草をしてみせた。
 凪咲は手元にあるスマホのカメラ画像を開いて、さっき撮影したものを取り出した。ライブハウスの前の紘の背中を撮影したもの。
 その画像に、ちょうど道の反対側からやってきた男の顔が写り込んでいた。その人物は丸いサングラスをかけており、長髪、無精髭と相俟って休暇中のキアヌ・リーヴスみたいに見えた。彼の首には古めかしいデザインのカメラが掛けられていた。
「この人ですか?」
「あ、この人です、この人」
「この人物は、部屋に入りましたか?」
「ええ。庭に入るには居間を通らなければならないもの。でも、数枚写真を撮ってすぐに帰られたけれど……ちょっと不気味だったわね。いま考えると上げないほうがよかったのかな、とか」
 この世間知らずな石塚留美という人物はとても危ういが、高校時代、凪咲の周りにもこういう子は少なくなかった。きっとその程度の警戒心でも、一生を渡ることは不可能ではないのだろう。
 凪咲は手元のスマホに写された休暇中のキアヌ・リーヴスの顔をしげしげと見た。
「木は明日、業者に取りに来させます。よろしいでしょうか?」
「私のほうはいつでも構わないわ」
 家の奥からかぐわしい香りが漂ってくる。
「あ、今日はビーフストロガノフのほかに、フォアグラのソテーもするの。よかったら、あなたも食べて行かれる?」
「いえ、もうイカれてはいるので、大丈夫です」
 留美はきょとんとした顔で凪咲を見やった。戦争で捕虜にされてもなお、同じ顔をし続けているのかもしれない。

 いったん帰宅すると、室内にはどことなく殺伐とした空気が流れていた。獅乃は例のペット誘拐事件を追っているようだった。
「たしかな情報なの? 武田、あなたはいつも詰めが甘いのよ」
 電話で獅乃がそう怒っている相手、武田は、大学時代の後輩で、いまは刑事をしている。凪咲のみるかぎり、武田は獅乃のことが好きなのだが、それに獅乃が気づいている様子はない。
 電話を切ると、獅乃は「ごはん、まだ?」と急かしはじめた。
 今日に限らず、ほぼ毎日料理当番である龍一は、「いつでもいけるよ」と返した。
 そういえば、部屋中にすでに肉とニンニクの香りが充満している。
「今日はミートローフで、すでにオーブンは切って余熱で温めてる段階だから、メンバーが揃ったらいつでも」
 そう言いかけてようやく帰ってきた凪咲に気づいたようだった。
 凪咲は通話中だった獅乃に気を使って足音を忍ばせてきたから仕方がない。
「凪咲も夕飯食べるよね?」
「食べるよ。でもその後、風呂早めに入って外泊する」
 龍一はその瞬間、派手に包丁を流しに落とした。星が砕けるような音が、シンクの谷から響いてきた。
「え、が、外泊……?」
 凪咲は龍一の戸惑いかげんに、誤解が生じていることに気づいた。
「いや、ちがうちがう、今日は友人の家でパーティーがあるから」
 瞬矢は事情を察しているという顔でニヤニヤしていたが、あえて何も言わずにスマホのゲームに興じている。が、龍一の表情はまだ晴れたわけではなかった。
「だ、誰のお家?」
「誰でもいいでしょ」
「あ、そうだよね、うん……何かお土産をもっていかないと」
「いいよ、そんなの」
「いや、そんなことはないよ」
「大丈夫、里奈の家だから」
 里奈は高校時代の親友だが、仲たがいしてからは顔を合わせていない。そんなことは龍一は知らないだろう。
「放っておきなさいよ。もう凪咲も大人なんだから」
 こういう時は急に理解がある獅乃だが、それはおそらく彼女が子どもの頃に親からの過干渉で嫌な思いをした記憶があるからなのだろう。
「護身用にスタンガンはもってく?」と龍一はなおも食いつく。
「……結構です」
「ヌンチャクもあるよ」
「いらない」
 龍一は提案をすべて断られて気落ちしているようだったが、すべての話題を丸く収めるようにしてミートローフを運んできた。
 四人はばらばらのタイミングで「いただきます」と言って食べ始めた。それぞれの手元にある趣味や仕事に目を通しながら、時折思いついたように箸で料理をつつく、いつも通りの食卓だった。

 石塚邸の前に戻ったのは、午後十時を回ってからだった。夜風は少しずつ冷たくなり、ときおり、電線がぶおんと音を立てて揺れたりもした。
 純白の煉瓦は相変わらず化粧台の前の少女みたいだったが、漆黒の闇の中でさらに存在感を際立たせていた。
 西側の塀の前に立って背伸びをすると、その向こうにある例の根っこまで見える木が揺れていた。これからまた歩き出そうとしているようにも、とりあえず夜の空気を食べているようにも見えた。
 カメラをもった男性はこの木を撮影したがった。当然ながら木が移植さえされなければ、石塚家に男が現れることもない。その意味で、男の出現とこの木の遊歩はつながっている。
 ミノルタ プロッド20'sは当時二万台くらいは出回っているとはいえ、会社自体が倒産しており、追加生産のない稀少な機種だ。凪咲はつい最近、同じ機種を目撃している。たまたま同じ街に同じ機種を持っている人がいたとは考えにくい。
 時間を確かめるべく、スマホを取り出しかけた時だった。
 突然息が苦しくなった。頭に血液が流れなくなり、このまま死ぬのだ、という感触があった。
「おまえは何だ? なぜうろちょろしている? 警察か? 警察犬には見えないが、警察官にはもっと見えないな」
 耳元でそう囁かれた。男の声だった。
 だが、次の瞬間、その手は一瞬で緩んだ。男が駆けてゆく。
「待ちなさい!」
 よく知っている声が、闇夜に響く。獅乃の声だった。それから、走って男を追いかける武田の背中が見えた。武田は一度振り返って凪咲のほうを見た。久しぶりに見る正義の塊みたいな顔。
「大丈夫ですか!」
「武田、こっちはいいから、早く追いかけて」と獅乃が言った。
「は、はい!」
 武田は言われるままに男を追いかけ始めた。だが、あの休暇中のキアヌ・リーヴスの足はなかなか速そうだった。たぶん逃げ切られるだろう。案の定、彼は数軒先にある家の塀をらくらく乗り越えてあっという間に消えてしまった。その身のこなしは、明らかに武田のそれよりも軽やかだった。
 凪咲は男の言葉が今さらながらおかしくなって笑った。「警察犬には見えないが」というところがいい。
「あぁ、あれはダメね、逃げられたわ」
 母は他人ごとのように言って凪咲のほうへやってきた。眉間にしわを寄せながら首元を確認し、軽く頷いた。
「大丈夫、傷跡もないわね。これでわかったでしょう。探偵に〈ごっこ〉はないのよ。誰であれ、その依頼を受けてしまったら、もうそれは〈ごっこ〉じゃ済まない」
「……知ってたの?」
「パパが教えてくれた」
「パパにも言ってないよ」
「あんたは自分で思ってるよりずっとわかりやすいのよ」
 凪咲は髪をかき上げた。
「メイクだけはうまくなったけど、考えることはまだまだ子どもね。でも、私がここにいたのは、あなたを護衛するためじゃないの。まったくの別件であなたの首を絞めた男を追っていたの」
「あの男、何なの?」
「ペット泥棒の常習犯。露野海路」
「露野……それって〈如雨露〉の……」
「そう。あそこのオーナーの兄よ」

10

 翌日、凪咲は〈如雨露〉に向かった。
 前回来た時から、二日しか経っていないのに、まるで黒い霧にでも巻き込まれたように、空気が変わっていた。
 気のせいなのか、それとも前からあったものに今さら気づいたのか。
 カウンターにいる海雨は凪咲の顔を見ると、一瞬身構えたようだった。凪咲が何らかの確証をもってここにいることを悟ったのかもしれなかった。
「いらっしゃい、凪咲ちゃん。まだ新しく枯れた植物はないわよ。あ、先日の片岡さんの件、どうだった? へんな話よね、木が歩くだなんて。あの人ちょっと変わったところがあって……」
 早口でまくしたてる彼女をさえぎって、凪咲は尋ねた。
「海雨さんですね、木を移し替えたのは」
 答えを砂の下に隠したような沈黙が続いた。それから、波が静かに押し寄せてきた。
「……どうしてわかったの?」
「理由を教えてもらえますか?」
 凪咲は彼女の質問を、質問でかわした。
「コロナのせいよ」
「え?」
「この長いコロナ禍で、誰も花を買わなくなった。そこからすべて始まっているの。長い話よ。うんざりするくらい、長い話」
「どんな話でも、探偵には聞く覚悟があります」
 自分がもしも探偵ならば、と凪咲は心の中で付け加える。
「長い自粛期間が続いてしばらくした時に、ずっと離れて暮らしていた兄が突然転がり込んできたの」
「ずっと、というのはどれくらいの期間なんですか?」
「私がまだセーラー服を着ていた頃からずっと」
「なるほど。続けてください」
 彼女は一度立ち上がり、店のドアをクローズにしてから戻ってきた。ここには二人だけしかいない。けれど、自分が孤立して感じられるのは、この状況を見守る植物たちが海雨に味方しているということかもしれなかった。
「もともと高校も途中で投げ出した人だから、何をやっても中途半端。何度か知人に紹介してもらったバイトに勤めては泥を塗るような形で辞めて、というのを繰り返して、とうとう父が勘当を。それ以降、父と母の葬式にも兄は顔を見せていなかったわ」
「御兄弟はほかには?」
「私と兄の二人だけ。だから、無職になって兄が私を頼ってきたのも、理解はできるの。風の噂で、両親が亡くなったことは知っていたみたいで」
「お兄さんに対して、今頃戻ってきたことへの怒りはなかったんですか?」
「私にとって兄は呆れるようなことばかりする人なの。生まれた時から環境に組み込まれた、当たり前の呆れよ。だから、怒りという感情を兄に持ったことがないの」
 凪咲は二人の育った環境を具体的に想像してみようとした。けれど、他人の家という地獄を想像するのは、他人の幻想を想像するよりも、ある意味ではハードなことなのだ。
「でも、いざ兄が一緒に住むようになるとすぐ経済的に困ってしまったわ。当たり前よね。もともとこの花屋は私一人が食べて行くのにギリギリの稼ぎしかないもの。それに、兄はお酒も煙草もやる」
「それは金がかかりますね」
 凪咲も成人を迎えてからシーシャをやり出して、ずいぶん出費がかさむことに困惑していた。せめて煙を自由に吐き出す分くらいは自分で稼がねば、と遅まきながら思いはじめた。
「だからね、無職の兄を追い出せないけど、私も苦しいから家賃の何分の一かでも出してもらえないかと言ったの。そうしたら、兄は『なら金持ちの家に珍しい植物を売れ。そうしたら家賃を折半してやるよ』って」
「どういう意味でしょう?」
「その時はまったく意味がわからなかったわ。わからないまま、私は片岡さんに珍しい木を売った。ガジュマルの樹を」
「ガジュマル……?」
 その名前だけは知っていたが、実際に目にしたことはなかった。たしか沖縄のほうでは妖怪キジムナーが宿ると言われているのではなかったか。修学旅行のときにバスガイドに話された記憶があった。
「だけど、その後で兄がやたら売った家の特徴を根ほり葉ほり聞いてくるの。それで様子がおかしい、と思って。兄の寝ている間に鞄を漁ったら、見たこともないような針金とかドリルみたいな工具が山ほど……。財布の中には怪しげな業者の名刺もあったわ。どれも盗品を売り買いするような業者のものだったと思う」
「つまり、それで片岡さんの家に盗みに入ろうとしている、と悟ったわけですね?」
「ええ。考えてみれば、最初に家に来たときも変だったの。私は店に出ていて、部屋には鍵をかけておいたのに、帰ってきたら『鍵が開いてた』って中に入っていたんだもの」
「空き巣の常習犯……ですか」
「道具を兄の前に並べてどういうことか問い詰めたら、白状して、家に何か理由をつけて訪問して鍵の型をとり、空き巣に入る気でいたんだって」
 海路がとろうとした手順は凪咲のほうがよくわかっている。
「そこにあるカメラは、どなたの持ち物ですか?」
 凪咲が示したのは、アンティークの並びにあるカメラだった。一見、クラシックのふりをした〈ミノルタ プロッド20's〉。
「父のよ。亡くなった父が大切にしていたカメラ」
 凪咲はそれ以上は尋ねなかった。海雨のほうは脱線を少し訝っていたが、それ以上問い詰めようとはしなかった。
 露野海路は、片岡邸に父の形見のカメラを持って訪ね、植物の撮影を頼みこんで上がる際に玄関の鍵穴に粘土を詰めて型を取ろうとしたのだろう。
「それで、海雨さんがその空き巣を阻止するために咄嗟に思いついたのが、すぐ近くにある門構えの似た家に植物を移植しておき、お兄さんに町名と門の特徴を伝える作戦だったわけですね?」
 一つ通りが違うところに、白いゲートの家があることに、おそらく片岡邸に植樹に行く際に道を間違えたか何かの際に気づいたのだろう。
「はい。大切な顧客を守ろうとしての考えだったんだけど、浅はかだったわ……反省してる、なんて言葉じゃ済まないわよね」
 父や母ならこういう依頼人に何と声をかけるのだろう、と思った。警察への出頭を促すのか、依頼人だからと放置しておくのか。
「でも、表札をみればべつの家だってすぐにわかるんじゃないですか?」
「兄はディスレクシアなの。ひらがなやカタカナはまだしも、漢字になるとまるでダメで」
 だから家のおおよその位置とゲートの色を伝えたのだ。そして、その事実から片岡邸と石塚邸を誤認させるために木を歩かせた。
「兄が捕まるのは時間の問題でしょうから、私も潔くすべてを警察に話すつもり」
 海雨は古いレコードを一枚取り出してかけた。グレン・ミラーの「アイ・ノウ・ホワイ」だった。古きよき時代のジャズは、ときに悲惨な過去に一滴の香水を垂らす。それがよいことかどうかはべつにして。
「ごめんなさい。私が真相に気づかなければ……」
「凪咲ちゃんが謝ることじゃないわ。あ、そうだ。最後にこないだ話してくれた例の芥子の花のことだけれど、見せてくれた写真についてずっと考えていて気づいたの。あれは、チベットに咲くメコノプシス・シンプリキフォリアじゃないかと思うのよ」
 チベット、と聞いて咄嗟に浮かんできたのは、生まれ変わりの信仰があるという話だ。たしかチベットの僧侶たちは高僧の生まれ変わりを探すために全国に旅をしたりする。
 ときには海をまたぎ、その生まれ変わりの存在に会い、場合によってはそのままチベットに招いたりすることも──。
「ありがとうございます。とても助かります」
 龍一は依頼人であった川上恵奈に、神崎透くんは海の向こうの神になった、と伝えた。室内に残されていた花や書物、お香の匂い、そして特異な袈裟を着た人物の目撃情報から、本当はもっと限定してチベットの僧侶の存在を疑っていたのではないのか。
「凪咲さん、私を撮ってくれる? 枯れてないけどいい?」
「もちろん。私も枯れたものばかり撮るわけではないです。好きなものだけ」
 自分で言ってから、海雨が好む言い回しだと思い出した。海雨も同じことを思ったのか、目が合うと同時に笑い出した。凪咲はその瞬間をカメラに収めた。早くしなければ、それが涙に変わってしまうことはわかっていたから。

11
 
 翌日もまったく気は晴れなかった。海雨から、木は無事に移植したと連絡がきた。それについては一件落着と考えることもできた。
「ねえ、露野海路……捕まったのかな」
 食事のとき、何気なく獅乃に尋ねてみた。
「武田から連絡がないってことはまだのはずよ」
「ふうん……」
「大丈夫よ。もうあなたを襲いに来たりはしない。今頃は都内のべつの場所で空き巣をしているはず」
「それはそれで問題では」
「でも私の依頼人は満足した。ペットが戻ってきたから。苦労したけどね。海路が盗んだペットを渡した相手は、それが盗品だって知らなくて、絶対に渡さないってごねて大変だったわ」
「ママは露野海路を捕まえるつもりでいたんでしょ?」
「ほんとうはね。あいつから直接聞き出すはずだった。でも、最終的にペットは回収できたから、それでオッケー」
「探偵って、正義を追うわけじゃないんだね」
「当たり前よ。依頼あっての仕事。そこから先は警察が勝手にやる」
 釈然としないが、それはなにもこの一件に限らない。例の事件の花がメコノプシス・シンプリキフォリアだと海雨が断言したせいで、かえって謎が深まった。
 仮にチベットからの使者が現れたのだとして、それをあの現場に残す意味がわからない。まるで誘拐犯の置き手紙みたいではないか。
 それとも何か現地にある独特の花言葉とか?
 料理がなかなか来ないファミレスに入ったときみたいな気持ちをやり過ごすべく、凪咲は炭酸水を飲む。龍一がレモンを絞って入れてくれたが、蜂蜜を足そうか。現実の苦みを和らげるくらいの甘さはあってもいい。凪咲はグラスの炭酸を空のペットボトルに移し、そこに蜂蜜を足してから「ちょっと出かけてくる」と家を飛び出した。
「今夜の映画、何がいいか考えといて」
 龍一の言葉に、手を振るだけで答えた。昨夜は龍一の趣味で『ミミック』。その前の晩は『裸のランチ』だった。オカルト趣味はお腹いっぱいだが、龍一も興味がもてそうな選択をせねば。が、それを考えるより前に凪咲には行くべき場所があった。
 足は〈如雨露〉に向かっていた。撮影を終えたあと、その場にうずくまった海雨をうまく慰められないまま、昨日は帰ってしまった。そのことが、どこかで尾を引いていた。
 高校一年の夏、クラスで最初に仲良くなった子が校舎から飛び降りて死んだ。みんなは自殺だと騒いだが、凪咲は、彼女は羽があるのか確かめたかったのだろうと思った。不思議な覚悟を秘めたところのある子だった。以来、自分にはわからぬ大きな覚悟を恐れてしまう。
 海雨の覚悟が、警察への出頭ならまだよいが──。
〈如雨露〉のガラスドアの中は暗く、CLOSEDの札がかかったままだ。しかも、店の前には一台のパトカーと黒塗りのクラウンが一台。やがて、仄暗い店内をがさがさと人の動く気配がして、中から数名の警官とともに武田が出て来た。
「あ、凪咲ちゃん!」
 なぜか武田は敬礼をした。
「武田さんも海雨さんに用なの? 例の露野海路の件?」
「まあ……そんなところだね」
 言葉を濁したのは、捜査上の守秘義務があるからだろう。
「海雨さんはこの中に?」
 店の二階に、住居がある。だが武田は首を横に振った。
「じつはもう店も家もすべて調べたんだ。不在どころか、荷物のあらかたが消えてる。兄妹で一緒に逃げたんだろう」
「夜逃げってことですか……?」
「おそらくね。植物も置いて商売も捨てて……これからどうやって生きていくつもりなんだかね……」
 武田は溜息をついた。露野兄妹の袋小路の未来にたまった煙を、代わりに吐き出したような溜息だった。

12
 
 釈然としない気持ちは、帰宅すると倍増していた。
 死んだワニみたいな重たい感情のせいで、ソファからうまく身を起こすことができない。
 思い出すのは、海雨のまっすぐな、しかしどこか物悲しい受け身な瞳。それから、生まれた時から厄介な存在がそばにいると、怒りの感情がないのだ、というようなことを海雨が言っていたのを思い出す。
「凪咲、そこどいて。わたしの島」
 こういうときに限って獅乃は事務所から引き上げてくる。いつもはもっと遅いのに。居間にあるソファを自分一人のものと思っているところが、獅乃にはある。
「島って決まってないでしょ」
「やかましい。島なの。早くどきなさい」
「暴君」と罵ってみたが、それに返事はなかった。否定する気はないようだ。仕方なく凪咲はソファから身を起こす。
「家族って難しいね、あんなに嫌がってたのに……」
「ああ、海雨さんのこと?」
 獅乃はすでに知っていたようだ。
「家族だからね、結局」
「家族、か……」
 凪咲は考える。自分はどうなんだろうか。あんなに嫌がっていたのに、親の稼業の真似事をしている。仕方ないとか、なれ合いだとかではなく、猫が排泄物に砂をかけるようなある種の習性に近い。
「ところで、海路の計画にいち早く気づいたの、誰だと思う?」
「え、ママじゃないの?」
「龍一よ」
 べつだん誇らしげでもなく、むしろつまらなそうな言い方だ。
「え……パパが?」
「龍一に、海雨さんのお兄さんを調べてくれって頼まれたの。そんなに調べたきゃ自分で調べればいいのに。それで仕方なく調べたところ、ペット泥棒でちょうど私が追っている人物だとわかったわけ」
「ふうん……あの人がねえ」
 その人物は、キッチンでイヤホンをつけて鼻歌を歌いながら食器を洗っている。鍋からは檸檬風味の香りが漂ってくる。今夜は檸檬リゾットだろうか。前回は混ぜ方が足らなかったのか、米の芯が固く残っていた。今日はうまくいくといいが。
「そういえば言ってなかったね。こないだは助けてくれてありがとう……って、ママ?」
 すでに、獅乃は寝息を立てていた。本当に最近は疲れやすくなった。年のせいか、忙しすぎるのか。
 凪咲は台所に向かい、龍一のイヤホンを背後から奪った。
「わ、何をする……」
「パパ、いつこの事件の本質に気づいてたの?」
 龍一は水道の水を止め、タオルで手をふいた。
「この事件? ああ、歩く木の話か」龍一は布巾をとって食器を拭きながら続けた。「大きな植物が移植されたって話を聞いたときから、植物に詳しい人間だろうなと思ってたんだ。根を傷つけず移植するのは素人には無理だ。たとえば丁寧な花屋とかでなきゃ」
 凪咲がだいぶかかって到達した部分に、龍一は初見で辿り着いていたようだ。木を歩かせたのは魔女だったのか、魔術師だったのか。悪魔の言いなりではなかったのであれば、海雨はきっと魔術師なのだろう、と凪咲は考えた。
「そういえば、例の樹、ガジュマルだったよ」
「ガジュマルか。さもありなんだね。〈歩く木〉の異名をもつ。でもそれだって一人で歩くわけじゃない。精霊キジムナーに歩かされている。植物であれ何であれ、〈一人で歩く〉って大変なことさ」
「一人で歩くのは、たいへん、か……ふむ。そうね」
 嫌ってきた親の稼業さえ一人ではうまくできない。ここを出て、一人で歩くのはもっと困難なことに違いない。そもそも、自分に何ができるのだろうか。
 もう少し慎重に考える必要がある。
 それに──まだ〈神崎透〉の一件も片付いていない。
「映画、何観るか、決めた?」
「ん……クローネンバーグの息子のほうはどう?」
 トレーラーの繊細な雰囲気に好感を抱いての選択だった。
「いいね」
 凪咲はそれからカメラの手入れを始めた。世話をする者の消えた店の中で、植物が腐りはじめる頃の撮影に備えておかなければ。
 あの店内が植物の腐臭に満ちる日を、凪咲は思い浮かべようとした。あの場所にしか作り出せない、とくべつな腐臭を。

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