学校の教科書には載らない、ネット怪談という「民俗」を追って――廣田龍平『ネット怪談の民俗学』まえがき・目次【10月23日発売】
「実況」「画像」「異世界」をキーワードに、インターネットを中心に拡がる「怖い話」を民俗学的に大分析。日本のネット怪談の見取り図となる『ネット怪談の民俗学』(廣田龍平、ハヤカワ新書)が10月23日についに発売。この記事では本書の「まえがき」を公開します。
まえがき
私たちは誰もが、一度ならず「怖い話」を見聞きしたことがあるだろう。本で読んだことがあるかもしれないし、テレビや映画館で見たことがあるかもしれない。子どものころ、大人に聞かされたことがあるかもしれない。日本にかぎらず、人類社会の多くは何らかのかたちで、オバケが出てきたり怪奇的なことが起きたりする「怖い話」を語り継いでいる。おそらく、その起源は先史時代にまでさかのぼれるだろう。
ところで二一世紀、「怖い話」がもっとも多く生まれているところはどこだろうか? 誰も数えたわけではないから正確な答えがあるわけではないが、有力な候補の一つが、実は「インターネット上」である。たとえば──きさらぎ駅、くねくね、コトリバコ。ひとりかくれんぼ、犬鳴村、三回見ると死ぬ絵。そしてバックルーム、リミナルスペース。
これらはいずれも、ネット上で生まれ、ネット上で広まった「怖い話」、すなわち「ネット怪談」である。付け加えるならば、そのなかでも特に有名なものである(知らないという方、いずれも本書でちゃんと説明しているのでご安心を)。こうしたネット怪談は、わざわざ考えるまでもなく、一九九〇年代後半、インターネットが普及するまでは存在していなかった。それが今では一大ジャンルを形成し、インターネット以前の怪談と並び立つ存在感を有するようになっている。
それでは、ネット怪談はどのようにして、今あるような形になってきたのだろうか。私たちが怖がりながら楽しんでいるあれこれの話は、どこで生まれ、どのようにして各種メディアへと拡散し、どのようにして私たちの手元・目元・耳元まで届いているのだろうか。
本書の大きな目的は、一九九〇年代末から二〇二〇年代前半までのおよそ四半世紀にわたって、日本のネット怪談の大まかな見取り図を提示することである。ネット怪談を取り上げた本や論文は少なくないが、その多くは特定のジャンルや話に集中している(「きさらぎ駅」や「コトリバコ」など)。それに対して本書は、いろいろなジャンルやメディアに目を配ることによって、今後、日本のネット怪談を語るにあたっての土台になることを目指している。そのため本書では、インターネット上での展開のみならず、商業化されたものや、国外に拡散されたものまで視野に入れる。また、現在の日本のネット怪談に関係するかぎりで、国外(主として英語圏)のネット怪談も見てみたい。
実況、画像、異世界
そうはいっても、すべてのネット怪談を論じることは不可能である。「きさらぎ駅」などの有名どころに限定しても、依然として多すぎる。そのため本書では、いくつかの視点に絞ってネット怪談の特徴を捉えることを試みる。特に注目するのが「実況」、「画像」、そして「異世界」である。
「実況」は、異常事態に巻き込まれた状況を当事者が逐一報告するもので、代表的なのが「きさらぎ駅」と「ひとりかくれんぼ」である。これはネットに接続できる携帯端末が普及した二一世紀ならではの特徴であろう。
「画像」は、視聴覚的なデータをともなう怪談に関わるもので、たとえば「三回見ると死ぬ絵」がそれにあたる。また、「ひとりかくれんぼ」の実況配信などもこれに当てはまる。誰でも手軽にデータを制作したり送受信したりできる環境が整ったネット時代は、怪談と画像をこれまでになく密接に結びつけることとなった。
「異世界」はこの世ならざる不可思議な場所についてのもので、「きさらぎ駅」と「バックルーム」が代表的である。「異世界」に近い場所の話は古代から知られているものの(たとえば「浦島太郎」の竜宮など)、ネット怪談の時代には、従来とは異なる「異世界」の概念が広まっていることに本書では注目する。
これらの視点は、ネット怪談の黄金期とされる二〇〇〇年代を経て、二〇一〇年代から現在──つまりスマートフォンとSNSの時代──にかけて、どういったことが話題になっていたのかを探るために選ばれたものでもある。二〇〇〇年代のインターネットは、初めのほうに挙げた有名なネット怪談が次々と誕生した時期だったが、二〇一〇年代に入ると、ネット怪談は新しいものを生み出さなくなり、衰退してしまった──と言われている。しかし、上述の三つの視点から見てみると、「衰退」とはまた別のネット怪談の流れが見えてくるだろう。
民俗学の研究対象としてのネット怪談
ところで「怖い話」は、これまでさまざまな学問分野で論じられてきた。たとえば文学研究や宗教学、文化人類学、文化史、表象文化論などを挙げることができるだろう。そのようななかで本書が寄りかかるのは、民俗学という学問である。
民俗学について詳しくは第1章で説明するが、一言でいうならば、教科書に載るような社会や歴史の大きな動きを見ているだけだと取りこぼされてしまう、多くの人々の言動や習慣(まとめて「民俗」や「伝承」などという)を研究する学問である。フィールドワーク(現地調査)によって、普通ならば記録に残らないようなデータを収集することが多い。よく知られたことではあるが、人々が体験したり信じたりした妖怪や怪異は民俗学の領分である。そのため、怪奇なことが起きる怪談も、実は民俗学で論じることができる。
このように見ると、ネット怪談は民俗学の研究対象として実にぴったりだということが分かる。話の多くは作者が分からず、いつの間にか方々に広まっており、多くの人々が知っているにもかかわらず、学校の教科書に載るようなこともない。まさしく「民俗」なのである。本書は民俗学的な立場から、何もしなければ散逸してしまうような物語やそれを生み出し拡散する環境に注目してみたい。
ここで、ネット怪談に対する筆者の(民俗学的な)立ち位置を述べておこう。筆者は一九九六年(当時中学一年生)、自宅のパソコンで初めてインターネットに触れ、神話伝説、妖怪、そして怪談に関する黎明期のウェブサイトに出合った。二〇〇一年ごろから2ちゃんねるを利用するようになり、大学生時代は入り浸っていた。Twitter は二〇〇九年にアカウントを開設した。TikTok は二〇一九年九月から見はじめた。怪談を自分で投稿したことは滅多にないが、考察などには加わったことがある。本書では、これら四半世紀にわたる筆者自身の経験を、遡及的にフィールドワークとして捉えなおし、記述のためのデータとして利用している。本書には、ところどころ明確な根拠を示さない記述があるが(「○○という怪談は当時誰もが知っていた」など)、それはたとえば二〇〇三年の2ちゃんねるや二〇二〇年のTikTok に筆者が(研究者としてではなく)単なるユーザーとして参加していたときの実体験や印象に基づくものである。したがって、ほかの参加者から見ると、また違った景観が見えていたであろうことは断っておく。
本書の構成
本書は全6章で構成されている。第1章「ネット怪談と民俗学」では、民俗学的な視点からネット怪談にアプローチする方法とその意義を確認する。続く第2章「共同構築の過程を追う」では、一九九〇年代末から二〇〇〇年代にかけて、実況などを取り入れながら、ネット怪談が多くの人々によって共同で構築されていく様子を見てみる。「くねくね」や「コトリバコ」などはこの章で取り上げる。第3章「異世界に行く方法」では、二〇〇〇年代半ばから二〇一〇年代にかけて語られてきた異世界にまつわるネット怪談を論じる。第4章「ネット怪談の生態系」では、いったん具体的な怪談から離れ、ネット怪談の生成や拡散、変容に関わる諸々の環境(ウェブサイト、SNS、書籍、他言語への翻訳など)を俯瞰する。第5章「目で見る恐怖」では、画像から派生した怪談や動画での実況配信など、文字以外でのネット怪談の展開を追う。最後の第6章「アナログとAI」は、「バックルーム」を中心として、二〇二〇年代におけるネット怪談の可能性について考えてみる。
本書は同じ怪談をあちこちで論じている。巻末に「怪談索引」を用意したので、怪談の内容を確認したいときに詳しい説明のある箇所を探したり、特定の怪談について横断的に参照したいときに活用してほしい。
人々が感じる「恐怖」はどのようにして生まれ、広まっていき、場合によっては手に負えなくなったり、逆に飼いならされていったりしつつ、変わりつづけていくのか──その最新形の一端を、本書は描き出してみたい。
(廣田龍平『ネット怪談の民俗学』はじめに 了)
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「共同構築」が生む恐怖。廣田龍平『ネット怪談の民俗学』より、第1章「ネット怪談と民俗学」を全文公開!【10月23日発売】
廣田龍平『ネット怪談の民俗学』はハヤカワ新書より10月23日発売です。