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壊れた美学、焚書ポピュリズム、フェミニズムSF……『ニューロマンサー』『華氏451度』『侍女の物語』『折りたたみ北京』#闇のSF読書会③

闇の自己啓発会による #闇のSF読書会 。第3回となる今回はウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』、マーガレット・アトウッド『侍女の物語』、ケン・リュウ編『折りたたみ北京』を取り上げます!

*前回はこちら

■『ニューロマンサー』

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壊れた美学

江永 『ハーモニー』で混乱しながら話をし過ぎました。バランス悪くなって申し訳ないです。『ニューロマンサー』にいきましょう。私はこういう身体改造っぽいイメージがある作品が好きだというのは前に言った気がするんですが、これは文体も好きです。

 世間一般ではやや難解といわれる文体ですよね。

江永 なんというか、具合悪い文章ですよね。例えば「空港の十キロ手前から、列車は減速を始めた。ケイスが見つめる中、陽が昇る。少年時代の風景の上、でこぼこした鉱滓や精錬所の錆びた骨格の上」(第二部「買物遠征(ショッピング・エクスペディション)」)。ふだん自分では使わないようにしている形容なんですけど、味のある「悪文」だなと思います。

 この文体もふくめて『ニューロマンサー』という作品なんだ、という意見はありますね。

木澤 僕は原文を読んだことないのですが、おそらく黒丸尚氏による翻訳文体もかなり影響しているのでしょうね、そのあたりは。漢字とルビを組み合わせた表現方法とか、なかなか独特で。今あらためて見るとヴェイパーウェイヴっぽい趣すら覚えます。たとえば第一部の表題、「千葉市憂愁」に「チバ・シティ・ブルーズ」というルビを振るセンスとか。

江永 すごいガチャガチャしている。「デッキの見せてくれる電脳空間(サイバースペース)はデッキが物理的にどこにあろうと、たいして関係がない。ケイスが没入(ジャック・イン)して眼を開けば、おなじみ東部沿岸原子力機構のアステカ風なデータのピラミッド」(第三部「真夜中(ミッド・ナイト)のジュール・ヴェルヌ通り」)。サイボーグのような、いわば異種混淆的な感じが、物語世界の事物だけではなく、字面のレベル、文字の並びが醸し出す雰囲気でも伝わってくる気がします。二重に眩暈を起こすというか。ヴェイパーウェイヴっぽいのもそうだし、同時に『ニンジャスレイヤー』の文章も浮かびます。

 『ニンジャスレイヤー』などを読んでから『ニューロマンサー』を読むとわかりやすくなると聞きました。確かに自分も『攻殻機動隊』や『鬼哭街』を読んでから再読したら、頭に入ってきやすくなりました。

江永 いわゆる文の難解さ、平易さと呼ばれるのは、ある程度は慣れの問題だと思っています。語彙もそうだし、一文や一段落の長短とか、カタカナの頻度とか、句読点のペース、あるいは説明なり描写なりする諸対象の優先順位とか。字面のレベルでの質感と、意味のレベルでの雰囲気がいい塩梅になっていると、元気になります。私は、グリッチ(不具合)というか、バグった感じというか、そういう質感への嗜好があります。例えばヴェイパーウェイヴだったら、Vektroidの『Floral Shoppe(フローラルの専門店)』の二曲目。

木澤 「リサフランク420 / 現代のコンピュー」ですね。

江永 ダイアナ・ロスの元の曲をすごくピッチダウンさせながら切り貼りして、繰り返しているこの感じに惹かれました。10代の頃、携帯音楽プレーヤー(ウォークマンの類)で鬼束ちひろ『私とワルツを』を聴こうとしたら、壊れる寸前だったみたいでどんどんスローになってピッチも下がって止まってしまったことがあるんですけど、故障したなと思うよりは、何か味のあるものを聴いたなと思った記憶があって、そういう出来事も想起します。『Floral Shoppe』だと、シャーデーの元曲をループさせる一曲目「ブート」も(特に終盤が)よかった。速度は全然違いますが、アニメ『らき☆すた』OP曲の「豚骨ハリガネおかわりだだだだだ」の「だだだだだ」を思い出しました。
 壊れた再生機器から流れる音と、特定の操作によって生じる音を、ごちゃ混ぜにしてしまいましたが、前者に関しても、あるべき再生が阻害されていると捉えるんじゃなくて、ザラついた響き、不揃いに置かれた音として後者のように感受する。そういうこともできる。ナイーブな言い草になってしまいますが、誤った繰り返しとして聴き取るか、そういう反復として聴き取るによって、同じ曲でも味わいは変わったりするものだろうと思います。言ってみれば、違う評価軸が立ち上がる。

木澤 ヴェイパーウェイヴでは、そうしたグリッチ(不具合)に宿る得も言われぬ味わいを「エステティック(aesthetics)」と呼んでいますね。

江永 そう考えると、文体が人を選ぶみたいな話も、そういう捉えなおしの枠組みで考えることもできそうです。きっと、本ごとに別の読者になるのも、沢山の本を読みあわせるのと同じように楽しい気がします。組合せを考えるのも面白い。『ニューロマンサー』と『ニンジャスレイヤー』を合わせてボルテージの高い活劇として楽しむ、ヴェイパーウェイヴを聴きながら字面の並びやイメージの変形に耽る、あるいはある種の"なろう小説”を読むようにして(例えば片里鴎『ペテン師は静かに眠りたい』と一緒に)……。

 こういう風に、なんらかの補助線があると本は読みやすくなりますよね。

江永 接続先によりますよね。接続先によって別の感情の走らせ方にたどりつける。

木澤 サイバーパンクにおけるグリッチの美学みたいなものを考えるとき、僕が思い浮かべるのは、例えば去年の暮れに発売された『サイバーパンク2077』というゲームです。このゲームはバグが多くあり、その点が批判を受けましたが、そんな中、千葉集さんはブログ記事「本物のサイバーパンク体験はPS4の壊れたナイトシティにしか存在しない――『サイバーパンク2077』」https://proxia.hateblo.jp/entry/2020/12/22/204031)において、同ゲーム内のバグを肯定的に捉えています。現代に蘇った80年代的なサイバーパンクのヴィジョン、それは摩耗してすり減ったヴィデオテープのように、不吉な音飛びとグリッチにまみれた状態ほど相応しいものはない。壊れた未来の現前。「『サイバーパンク2077』とは、失われたもうひとつの未来および現在を語る試みだった」。他にも、YouTubeに上がっていた、『サイバーパンク2077』のグラフィックをあえて意図的に初代プレイステーションのグラフィックで再現したファンムービーhttps://www.youtube.com/watch?v=SNqWPtcXk5w)などにも、同じ方向性の「美学」を感じます。そういえば、少し前に8ビット的(初代ファミコン的)な表現が複数の領域で流行ってた(たとえば音楽ではチップチューン)ことがあったと思うのですが、最近は主にインディーゲームの領域で初代プレステ風の表現が流行りつつあるように感じます。たとえば国内だと『事故物件』や『夜勤事件』を制作しているChilla's Artや、『散歩 - Walk』を制作しているKazumi gamesなどがすぐに思い浮かびます。また、つい最近、初代PS風のインディーホラーゲームの体験版が25本(!)収録された『Demo Disc 2021』が発表されたのを記事https://www.gamespark.jp/article/2021/03/26/107269.html)で見て、ひとつの潮流の予感を覚えました。そうそう、初代PS風のグラフィックといえば、これも最近、JTBによる「バーチャル・ジャパン・プラットフォーム」が(主に悪い意味で)話題になりましたね。あまりにしょぼいグラフィックとテクスチャに「まるで初代PS」と叩かれたのですが、まさか制作陣がこれらの初代PS風の美学の潮流を意識してあえてこのようなグラフィックを狙った、という可能性も万に一……、いや、たぶんないでしょうね、やっぱり……。ともあれ、壊れの美学や初代PS風の美学には、なにやら亡霊的な(ロスト)テクノロジーやバグに対する感傷マゾ(!?)的な快楽が内蔵されているのではないか、とふと感じたりします。

江永 そういう壊れやバグ(のある側面)に惹かれるのを、「グリッチの魅力」みたいに呼ぶのは極端でしょうか。
 例えば、メイヤスーはSF小説を思弁のよすがにして、辻褄のあった物語世界を在らしめようと試みるのではなく、「物質的なものの突然の「脱線」、人間の生活のすべてを破壊するには稀にすぎるが、確実な科学実験を許すほど稀ではない諸々の偶発事が起きる世界」の提示を試みるような「科学外世界のフィクション」なるものを語ります(「形而上学と科学外世界のフィクション」『亡霊のジレンマ』127頁)。その際にメイヤスーが参照するのは、比較的巷間に馴染みある作品で言えば、アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』やディック『ユービック』であり、「カタストロフィ」や「滑稽なナンセンス」、またディック風の「胸疼く不安定性」などが挙げられています(ただしメイヤスーが自前で造語した「科学外世界のフィクション」なるジャンルの最もよい雛形として紹介するのは、バルジャベル『荒廃』です)。メイヤスーがある種の描写に求めているのは、「どちらかといえば不安定で、あちこちで不条理なことが起こるけれども、全体としては規則的」(123頁)だと言えそうなのですが、これはゲームに進行不能にならない程度の(それどころか、バグを裏ワザとして元と少し違う遊びが始まってしまう)不具合が見つかる瞬間のあの感じと通じ合う気がしています。
 論中でメイヤスーがした線引きは踏み越えてしまいますが、そうした、あってはならない不具合が現に起こりうると予感させる"よすが"として(しかも意味の水準だけでなく字面の水準においても)壊れを捉える評価軸も考えられるのではないか。文学でいえば、しばしば言葉遊戯とされるある種のスタイル、例えば、いわゆるカットアップなどの中にも、そういう捉え方でこそ映えるような一面がある気がします。
 もっとも、そういう「不条理」は、現に何でもありだという弛みに落着してしまうのではないとすれば、事実上は一貫性に回収される余地の残るところでのみ(どういう一貫性かには揺らぎがあるとしても)、味わわれるようにも思います。例えば伊藤計劃『ハーモニー』だと、プログラミング言語っぽい意匠が自然言語(日本語)と本のそこここで混淆していますが、そこには実は物語世界内の設定上の一貫性があり(「エピローグ」によってその不可解は解消されます)、しかし現に(読み手が初めて)触れたときの、ガチャガチャとした異種混淆感もあり、一方が他方を解消するわけではありません(メイヤスーによるバルジャベル評には「所与の秩序の見地における見かけ上の偶発事は、より複雑な秩序の存在と両立可能」(140頁)と記すくだりもあります)。

 『ハーモニー』はプログラミングがわかる人が読むとちゃんと意味を成すものになっていると聞きました。

ひで 『ハーモニー』作中でいうエモーショナルランゲージですか。あれはXMLとかHTML5の様式と類似の文法で書かれていました。HTML5を手っ取り早く見る方法ですけども、ツイッターのサイトをパソコンのブラウザで開いて、右クリックして「ソースを表示する」をクリックしてください。エモーショナルランゲージに類似したHTMLのタグ構造を見ることができますよ。

江永 プログラミング言語を文芸的に用いるスタイルだと、例えば英語圏にはコードワークと呼ばれるものがあるようです。自然言語をそれが帰属するとされる文法とは異なる規則に従って処理する(ことで壊れを探る)という水準で言えばウリポによる言語遊戯などとも類比できるかもしれません。あるいは任意のコンピュータ言語と自然言語とによる一種の混合言語のようなものとして理解することも可能かもしれません。もっとも、『ハーモニー』のその箇所は日本語と英字や記号が衝突してガチャガチャしていると私は感じますが、漢文風プログラミング言語「文言」とか、「語録置換式大石泉言語」とかを眺めてから改めて考えると、コンピュータ言語や形式言語ではアルファベットやアラビア数字の使用が覇権的であるがゆえに英語とプログラミング言語の組合せが、私のような眼に表面上(日本語より相対的に)馴染み、そうでないものは馴染みなく映るといった、慣れの問題になってしまう面もあるな、とも思いなおされました。ただ、ある種の型崩れの仕方に慣れていき、手癖めき、クリシェの愛好と見分けがつかなくなっていく中でも、なお探りうる、壊れの美学のようなものがある、と言いたい気持ちもあります。『ニューロマンサー』に戻して、自分がそういう評価軸を立ち上げさせるように思えるところを引こうとすると、例えば、第四部「迷光仕掛け(ストレイライト・ラン)」のアーミテージの姿が思い出されます。

あんた、今までどこにいたんだい、と声に出さずケイスは、苦悩に満ちた眼に問いかける。冬寂(ウィンターミュート)は、コートなる支離滅裂な砦の中に、アーミテージというものを造り上げた。コートに、アーミテージが本体だと思い込ませた。そしてアーミテージが歩き、喋り、立案し、データを元手に換え、千葉(チバ)ヒルトンのあの部屋では冬寂(ウィンターミュート)の手先になり――しかし、今、アーミテージは消えている。コートなる狂気の突風に吹き飛ばされたのだ。それにしても、コートは、その何年もの間、どこにいたのだろう。
 燃え盲いながら、シベリア上空から落ちていたのか。

 『ニューロマンサー』は僕の好きなタイプの作品でした。同作に影響を受けたであろう作品を先に見ていたので「これが源流か……」という気持ちになりつつ。最近Twitterで、旧版の表紙が「最高にエッチな画像」と呼ばれていたのはなんともいえない気分になりましたが……。

サイバーパンクのノスタルジー

木澤 今、『ニューロマンサー』などの80年代のサイバーパンクを読むと、そこに失われた未来に対するノスタルジーを覚えることがあります。サイバーパンク自体が1980年代における壊れた未来のヴィジョンを描いていたけど、結局そこで描かれた未来は到来しなかった。たとえばシンセウェイヴという、80年代のサイバーパンクやビデオゲームの意匠を好んでサンプリングするシンセサイザーミュージックのジャンルが2010年代以降に市民権を得ましたが、そうした音楽にも失われた未来に対するノスタルジーを覚えます。実はウィリアム・ギブスン自身が、そうした失われた未来に対するノスタルジーをテーマにした短篇を1981年の時点で書いているんです。短篇集『クローム襲撃』に収録されている「ガーンズバック連続体」(黒丸尚訳)という作品です。これは、執筆当時の現代である80年代を舞台にしているんですけど、カメラマンの主人公がアメリカの30年代、40年代に建てられた”未来的”な建造物を頼まれ仕事で撮っていくことから始まります。その建造物とは、たとえばクローム管の椅子や流線型のビルディング、ブーメランのようなプロペラ式旅客機など、30年代アメリカの集合無意識が生み出した、はかない代物、現代から見捨てられた夢の国のかけら。その当時の大衆が求めていたのは「未来」のイメージだった。ギブスンは登場人物のひとりに次のように言わせています。「こう考えてみてよ。一種のもうひとつのアメリカだ、そうはならなかった1980年だって。破れた夢の建築だって」。失われた未来。ありえたはずの(だが決して訪れることはなかった)、もうひとつのアメリカ。主人公が、そうした30年代当時における未来(80年代)のヴィジョンを仮託した夢の残骸をカメラに収めていくうちに、集合無意識としての失われた未来の幻視的イメージが、さながら並行世界(パラレルワールド)のように80年代の現実世界に幻覚的に侵入してくる(ここで、『ディファレンス・エンジン』の共著者のひとりであるギブスンもまた、ディックと同じくパラレルワールドを追求した作家であったことを唐突に想起したりもするのですが……)。サイバーパンクは現在では「失われた未来」との関わりで読まれることもあると思うのですが、サイバーパンクの巨匠であるギブスン自身がまさに「失われた未来」をテーマにした作品を書いていた、という事実はとても面白いです。

江永 レトロフューチャーという言葉もありましたよね。

木澤 なお、「ガーンズバック連続体」のガーンズバックとは、1920年代に世界で最初のSF雑誌『アメージング・ストーリーズ』を創刊したことで「SFの父」と呼ばれている、今ではヒューゴー賞にその名を刻んでいるヒューゴー・ガーンズバックその人です。1920~30年代当時において集合的に想像されていた来るべき未来のイメージが80年代の現在に連続体として侵入してくる。結局実現しなかった<大衆の夢>のかけらが、当時の建造物に亡霊のように残存していて、それが記号論的亡霊として現在に回帰してくる、といった記号論的な理論付けがこの作品では(一応)なされています。これなども非常にヴェイパーウェイヴ/シンセウェイヴ的に僕などには映ります。
念の為に補足として、「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」を例に採れば、この作品で描かれた未来の2015年では、車が空を飛んでいましたが、2015年を過ぎた現在でも空飛ぶ車は実現していないですよね。失われた未来の並行世界が侵入してくるというのは、ある日空を見たら飛んでいる車の幻覚が見えてくるとか、そういう感じだと思います。ただ、ここで注意しておきたいのは、「ガーンズバック連続体」では、そうした失われた未来の並行世界が、ある種ファシズム的なイメージで表象されているところです。「ぼくは想像してみた。この人々が、白大理石の広場で整然と敏捷に、群れをなすところを。その眼は、投光照明の大道や銀色の車に夢中で、明るく輝いている、と。/ヒトラー・ユーゲントの宣伝に通じる、凶々しい甘やかさに満ちていた」。集団的願望が築いた夢の実現としての全体主義の回帰、その禍々しい甘美さ……。ともあれ、ここにはギブスンの一種独特な批評的距離の取り方が伺えるようにも思えます。

 雑な言い方になっちゃいますが、存在しないのに「“あの夏”にノスタルジーを感じる」とか言ってしまうオタクが思い浮かびました。僕も存在しない過去やセカイ系にノスタルジーを感じる人間なので……。

木澤 感傷マゾ的な?

 そうですね。僕はあまり楽しくない幼少期を過ごしてきたので、それに代わる美しく切ない過去を捏造した結果として、感傷マゾ的なものに強く惹かれるようになったのかなと思うこともあります。卑近な例で恐縮ですが、こういう風に身近な例で理解するとわかりやすいですね。

江永 ノスタルジーというと、過去を都合よく理想化しているみたいな立場から批判する向きもありますよね。ここでいうノスタルジックな「失われた未来」イメージを愛好するのと、例えば『ALWAYS 三丁目の夕日』みたいなものが提示するイメージを愛好するのって、どう分けうるのでしょう。

木澤 『ALWAYS』は単純な「過去へのノスタルジー」ですよね。実現しなかった未来に対するノスタルジーというよりも、「昔はよかった」という懐古趣味のような。「ガーンズバック連続体」の場合は、一言でいえば空飛ぶ車に対するノスタルジーを扱っているといえます。

江永 たしかに、東京タワーは現に建設されたものだけど、空飛ぶ車は現に開発されたものではないですね。ただ、内容で区別されるというよりも、対象の偲び方、そこにあるイメージから、どういう仕方で何に思いを馳せるのかの姿勢において、異なりうるという感じもします。

木澤 ピーター・ティールが、「若者はなぜドナルド・トランプを支持したと思うか」というインタビュアーの質問に対して、「トランプは確かに反動的で、過去に戻りたいという指向性があるけど、少なくとも過去の時代には“未来”があった」、という趣旨の返答をしていましたね。空飛ぶ車や宇宙開発など、ティールの幼少時代には未来に対するポジティブなヴィジョンがまだ生き残っていた。でも現在では、未来に対する肯定的なヴィジョンなど、もう望むべくもない。ティールの言うように、「私たちは空飛ぶ車を欲したが、結局手にしたのはポケットに収まる小型のデバイスと、140文字だけだった」というわけです。奇しくもデヴィッド・グレーバーも『官僚制のユートピア』のなかで、なぜ2015年にもなって、空飛ぶ車が発明されていないのか、と挑発的に問いかけています。すなわち、「ここで念頭においているのは、20世紀の中盤から後半に子ども時代をすごした者が、2015年までに端的に存在しているだろうと思い込んでいた、あらゆるテクノロジー的驚異である。[……]フォースフィールド、テレポーテーション、反重力場、トライコーダー、トラクタービーム、不老不死の薬、人工冬眠、アンドロイド、火星の植民地、どれか実現しただろうか?」(酒井隆史訳)。もちろん実現していないわけです。

ひで ソ連が崩壊してしまったことで、未来のビジョンを描く必要が共産主義者の側にも資本主義の側にも無くなってしまった。

江永 極論、願望を断念することでは、少なくともそれだけでは、ひとは何もできない。『未来船ゴー』という歌の一節を思い出します。「イメージするぞ あー我らの未来」。2004年頃聞いた曲。もちろん大抵の願望は、相応の無知や愚かさを伴ったイメージに託されがちだれど、だからといって現状がどう現状通りにあるかを知れたら満足できるかといえばそうではない。ル・グィン『夜の言葉』の感想でも言いましたが、昼抜きで考える夜も、夜抜きで考える昼も、理想ではない。だから夢を見ることこそ現に役立つと言ったり、実情を直視してこそ未来が開かれると言ったりして、境界をスクラッチする。“可能性っぽいもの”を予感させるメッセージで、ひとに働きかけようとする。ならば、どのイメージを選ぶかよりも、どうイメージを形にするかの方が、問われるのかもしれない(実は「昭和ノスタルジー」もまた、そこに希望や夢が託されていると語られたりするし、そういう“可能性っぽいもの”を託す意匠として、なぜそれが形成され広まったかを分析する議論も出てきているようです。例えば、日高勝之『昭和ノスタルジアとは何か』や、高野光平『昭和ノスタルジー解体』など。過去を偲ぶというのはホットなテーマみたいで、「レトロトピア」を論ずるバウマン『退行の時代を生きる』とか、昨年日訳されたカッサン『ノスタルジー』とか、色々議論があるみたいでした)。
 例えば、同じ振る舞いに関しても、「馬鹿の一つ覚え」と口にして“可能性っぽいもの”を奪ったり、「雨垂れ石を穿つ」と口にして“可能性っぽいもの”を注ぎ足したりできる。「あきらめるほうが賢い」というメッセージで人が付いてこないなら、「愚かでもあきらめるな」とメッセージを発したりもできる。もちろん、どれに“可能性っぽいもの”を見出すかという対象選択の違いにかこつけて、実は分割しうるトピックを併呑不可避なコース料理めいたものに見せかける、といったトリックが用いられることもあるけれど。

 今の話でいろいろつながったような気がします。例えば病気に関して、専門家は適当なこと、希望的なことは簡単に言えないのだけど、一方で「エセ民間療法は人に希望を見せてくれる」という話がありますよね。それで専門家ではなく耳障りの良いことを言う人を盲信するようになってしまったり……。こういう構造を変えていきたいなと思います。理想としては、そういう詐欺師や煽動家が見せる希望ではなく、SF的な物語のなかに希望を見ていきたいなと。

木澤 フィクションのなかに希望を見つけたいというのは、前編のほうで言及した、テッド・チャンの発言のなかの、「SFは変化についての物語だ」というのと少し近いですね。いかにして変化についての、オルタナティヴなヴィジョンを提示するか、という。

ひで 社会に変化を引き起こすのは技術や疫病ですが、技術って一度世の中に広まっちゃうと、取り除くことはできないんですよね。新技術の出現は世界の歴史をその前と後に分断してしまうぐらいに強烈で、それを知る前に戻ることはできない。よく携帯電話が例として引き合いに出せますが、もはや携帯電話が存在しなかった時代にぼくたちはどうやって人と待ち合わせをしていたのかわからないし、携帯電話が存在しなかった時代に書かれたSF小説の中の装置に違和感を感じることだってある。

木澤 サイバーパンクに対するノスタルジーといっても、サイバーパンクの世界は基本的には壊れた未来、言い換えればディストピアなので、ある意味で希望はないともいえる。あるいは逆説的ですが、この未来のないどん詰まりの時代において、あえてサイバーパンク的な、希望のない壊れた未来を希求すること。海外のインターネットにおける「Doomer」と呼ばれているような、常に終末を待ち望んでいるZ世代の若者たちや、破滅的な未来の到来を積極的に促進化させんとする一部の加速主義者の間にも、サイバーパンクな未来に対する希望やノスタルジーを感じることがあります。ある種、この世界がどの道ぶっ壊れるのならば、みずからの手で積極的かつ能動的にぶっ壊してみせたい、みたいな欲望というか……。

 僕はわりとそのタイプかも。そしてそういう欲望にNoを突きつけたのがシンエヴァなんですよね……。

江永 今更感を覚える向きもあるかもしれないですが、赤木智弘が2007年に発表した文章の副題「31歳、フリーター。希望は、戦争。」を思い出しました。

木澤 希望は、サイバーパンク。

 (笑)。まあ、われわれが生きているこの社会が既にディストピアですし、だったらせめてもう少しマシなディストピアを選びたいとい気持ちにはなりますね。

江永 そうですね。――と話を結ぶと、じゃあ破滅したいやつらだけで破滅してろ(もう付き合いきれない)、って話にもなりかねない気もするので、自分なりの補足を。このようなものに追従あるいは非難を寄せて話が済むようになっているならば、社会は今日みたいになっていないと思うので、そこにあるはずの願望のもっとよい託しどころ(よりよいイメージ)を編み出す、といった方向性で個人的には頑張りたいです。実際、『ルワンダ銀行総裁日記』のようなノンフィクションに異世界召喚ものめいた帯文がついたりするように、あるいは例えば犬や象が二足歩行で人語を解するという不条理な設定ゆえに何らかの童話を拒絶しないどころか、そのような荒唐無稽な妄想の産物から現実の人間の振る舞いに関する教訓を引き出してしまったりさえするように、イメージや願望はそこここに浸透しているので。
 例えば、それ自体はノンフィクション(社会提言の類)であるジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0』のエピローグには、アイザック・アシモフ『ファウンデーション』に触れつつ、こんな風に語る一節があります。「引き返せない衰退期にあって、知識人に耳を傾ける気のない文明に対する知識人の責任とは何なのか。アシモフの答えはあいにく、社会から離脱し、すべてが崩壊するに任せ、しかるのちに次の一〇〇〇年をかけて元どおりにせよ、ということだ」(411頁)。というわけで「知識人」として追放されたけどまったりスローライフやっています、いまさら「文明」がSOSを発してももう遅い、みたいな”なろう小説”の追放ものめいた願望がここには記されているわけです。
 もちろんヒースはこういう願望に乗っかるわけではありませんし、あるいは「知識人」だけで「社会から離脱」すれば、また逆に「知識人」以外を「社会」から追放すれば、一切はうまくいくはずなのに、みたいな反実仮想をするわけでもない。そうではなくて、誰もが「合理的熟慮」に誘導されるような環境を構築することをヒースは考えている(『ハーモニー』的な「意識の消失」、技術的に可能だったらヒースは賛成しそうです。それどころかミァハらが堪えがたさを覚える作中で言うところの「生命主義」も、無論完璧ではないと留保は付けつつ擁護するかもしれない。そういう意味では、『啓蒙思想2.0』は、言ってみれば「哲学者が『ハーモニー』を書いてみた」みたいな著作に映る面もあります)。でも、ここでも感情を走らせ思考を強いるようなイメージに、夢か現かの区別は(少なくとも、ページの上では)つけられない。
 また、「合理」を擁護するヒースすら、当座の「戦術」に関連してはこんなことを言ってもいる。「理性は非理性との直接対決に勝てない。だから敵が不合理なときの最善の策とは、相手がいかに不合理かを、ちょくちょく笑いをとりながら指摘することだ」(344頁)。この一節なら首肯できるかもしれませんが、それが「ブタと闘うのはコメディアンの担当」(345頁)みたいに言い換えられてくると、ちょっと躊躇が出てくる。ヒース自身も「コメディアンのおちゃらけ」では「狂気の波をくい止めるのがせいぜい」だと言ってはいますが(346頁)、それとは別の観点で。
 仮に話を聞くに値する/しないを「合理」性で判定して、「不合理」な話をするやつは「ブタ」認定して茶化すだけで相手にしない、という「戦術」一択を取り続けるなら、それもまた追放ものめいた物語の枠組みに飲み込まれてしまうでしょう。仮に(要約の強引さには一旦目をつむり)『ファウンデーション』を「知識人」追放ものと見るなら、掲げる思想こそ異なれど、ランド『肩をすくめるアトラス』も「ビジネス・リーダー」追放ものとなるはずで、そして「まじめな人たちの貴重な時間を無駄にしたくはない。それはコメディアンに任せるべき」と述べつつ「ちょっとした当座しのぎ」を認容している(346頁)ヒースも、それと同様に、少なくとも「ブタ」や「まじめな人たち」をめぐる追放もの幻想には合流しかねない言葉遣いをしている、という話になる面もあると思います。このタイプの”もう遅い”も「時間を無駄にしたくない」も、自分から見て”ろくでもないやつら”を支える/気遣うことの拒否に雪崩れ込みかねないリスクは同じように抱えているのではないか。いわばアンチ公的扶養の願望ですね(あるいは、扶養版の選択と集中の願望)。で、(過敏で偏った反応か、止むにやまれぬ反応かは意見が分かれるでしょうが)そういう端々への乗れなさ(強く言えば、相容れがたさ)から、「希望は、戦争」みたいな話も出てきてしまうのではないか。
 赤木智弘の文章に戻れば、そこでの「戦争」は「流動性を生み出してくれるかもしれない何か」としてイメージされており、「国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態」という滅茶苦茶な言い回しも出てきます。ここでイメージされている「戦争」なるものは全員強制参加の転生ガチャみたいな妄想に近くて、歴史上で見られた危機や戦争や厄災が、往々にしてそのようなものではないのは明らかでしょう(むしろ、例えばジョン・ハリスの考案した「臓器くじ」みたいな思考実験の方が、この妄想には近いと思います)。とはいえ、これもまた「変化についてのビジョン」の話ではあり、例えば、国民皆兵制から実現しうるユートピアをイメージしようとするフレドリック・ジェイムソンの議論と、その観点では区別できないと思います(ちなみに、そこでは想像のよすがとして、SF作家テリー・ビッスンによる、全国民の退役軍人化による皆保険制度実現というアメリカ版「虚構新聞」とでも呼べそうな小咄が引かれてもいます)。もちろん、提示されるイメージなり託されるビジョンなりの、つくりこみ方や仕上がり具合や魅力、ひとをうまく触発させるものなのかなどの点では、是非を付けられるとも思います。
 なお、ファクトに関心がある方は、2018年にOECD(経済協力開発機構)で「社会階層のエレベータは壊れているのか? 社会的流動性を促進する方法」と題されたレポートが公開されているようなので、このあたりから調べるといいと思います。「流動性」自体は今でも注目が集まっているテーマのようで、同レポートだと、天井や床の粘着性という一連の比喩で、流動性の偏りが議論になっているようです(このレポートを踏まえた日本に関する簡潔なレジュメ https://www.oecd.org/japan/social-mobility-2018-JPN-JP.pdf もあります)。
 思うに、「ギャンブル」の参加者としてなら平等な機会があるはずだというファンタジーは、実のところ、事故などで戦乱渦巻く異世界に転生して成り上がるみたいなファンタジーと、そう変わらないのではないかと思っています。そういう意味では、プレ”なろう小説”として、つまり、そうした小説に託されることになるファンタジーの先ぶれだったものとして、「「丸山眞男」をひっぱたきたい」のファンタジー(「戦争」イメージの記述)は読みうるのかもしれない。もちろん、物語なんかにうつつをぬかすな、あるいは、よりによってそんな物語にうつつをぬかすな、または、そもそも物語なら物語らしく現実に関わるな、等々の立場は取りえるはずですが、私個人は、そういう立場ではありません。


■『華氏451度』

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ポピュリズムによる焚書

ひで 『華氏451度』は本をパラ読みしてから映画を見ましたが、あまりピンとこなかったんです。

木澤 最初のほうで映画『アメリ』に出てきそうなヒロイン的キャラクターが出てきますよね、奔放で不思議系の少女。すわこれはボーイミーツガールかと思いきや、序盤で退場してそれっきり出てこなくなったので思わず椅子からずり落ちかけました。

ひで 主人公いわく「ぼくの妻は三十だけど、きみのほうがずっと年上に見えることがある。ショックだね、立ち直れない」って言われるハイスクールガールのクラリスですね。仕事ばかりのマジメ人間の主人公に対して、人生に気付きを与えるクラリスが登場して、友達以上不倫未満でもやるのかと思えば……。

江永 クラリスは交通事故で死んだらいしい、と主人公モンターグは聞かされる。忘れていたけれど、と前置きしつつ「妻」のミルドレッドからこう伝えられます。「マクレラン。マクレランっていうの。車に轢かれたんですって。四日前に。はっきりとは知らないの。だけど死んだんじゃないの? なんにしても一家は引っ越したわ。よくは知らないの。だけど死んだと思うわ」。なお、主人公らの都市は生活が目まぐるしくてスペクタクル漬けなのでミルドレッドは自分が何錠の薬を飲んだかも曖昧になったりします(あるいは、自分で自分を顧みる暇もないかのように描かれています)。
 『華氏451度』は本というものが所持厳禁になった世界の、いうなれば検閲官の話なんですが、検閲をする人は、結果的に本を読んじゃう、という話でもある。「いい仕事さ。月曜にはミレーを焼き、水曜はホイットマン、金曜はフォークナー。灰になるまで焼け。そのまた灰を焼け。ぼくらの公式スローガンさ」。本を焼くべき役割の人が、本に触れて疑問を持つ……こういう逆説は、もう少し拡げられるような気がします。「中二病」っぽく言えば、深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いている(これは手垢がつきすぎているクリシェでしょうか)。古典古代の思想の研究などで、もはや主著が残っていない人物や廃れてしまった思潮などを調べていくときに役立つのが、対象への批判や反駁であるという話があります。例えば、グノーシス諸派の議論に関して、論敵であるキリスト教の教父による著作が参照されたりする。反駁するために書かれたものが、その教えを紹介する資料になっている。そういう検閲とか、反駁するという行為の逆説が、ある種、戯画的に描かれている話だなと思いました。『ハーモニー』にも、「不健康」なものにアクセスできるのが、トァンみたいな体制側の監査官だという逆説がありましたね。『華氏451度』の主人公モンターグは、意図的に抜け穴を探ったトァンと異なり、職務で焼くべき本に何度も出会ううちに、つい本にアクセスしてしまうようになっただけにも映るのですが。
 モンターグの上司であるベイティは、検閲官のアイロニーを身で体現してしまった人物にも映る。二部の最後のほうで、すごいハイテンションで本の文言を次々引用しながら「本はとんでもない裏切り者にもなるんだぞ!」と(実は本を隠し持っている)モンターグを言葉で詰めていく。すごい捻じれ方をしている。私たちの世界に本を焼く人はいないので同じことは起こらないんですが、こういうベイティ的な状況を生きてしまう瞬間はあるよなと、しんみりします。

木澤 『華氏451度』でアクチュアルだなと思ったのは、これって権力による検閲とか弾圧の話というよりは、むしろ本質的にはポピュリズムの話なんですよね。というのは、権力が本を弾圧したから大衆が本を読まなくなったのではなく、因果関係が実は逆で、大衆が本を読まなくなったから、権力がそれを利用してポピュリズム的に大衆に迎合して、ある種のパフォーマンスとして本を焼くようになった、という構造になっている。これは現代にも通じる話なのではないか(だからこそ怖いのですが)。権力による弾圧ではなく、人々が自発的に本を読まなくなった時代における物語として僕はこの作品を読みました。例えば、主人公に対してその師匠的な人物であるフェーバーが次のようなセリフを言う場面があります。「いいかね、昇火士などほとんど必要がないのだよ。大衆そのものが自発的に読むのをやめてしまったのだ。きみたち昇火士は折にふれて建物に火をつける。するときれいな炎を見物しに人々が集まって祭り騒ぎになる。しかしそんなものは、じつはつけたしの余興に過ぎず、規則を守らせるにはほとんど不必要なものなのだ。[……]いずれにしても、きみは愚か者だ。大衆は愉しんでおるのだぞ」(146〜147頁)と。

江永 確かに。「本を検閲する人(敵)VS本を守る人(味方)」という物語に収まらないところが、この話の妙味ですよね。上司のベイティーも、なぜ自分たちの仕事が必要なのかについて、とてもアイロニカルな饒舌をふるう(褒め殺し?)。「われわれの劣等意識が凝集するその核心部を守る人間、心の平安の保証人、公認の検閲官兼裁判官兼執行官[……]それがお前だ、モンターグ、それがおれなんだ」。そしてモンターグ自身も、良心を体現する人物などではない。冒頭「火を燃やすのは愉しかった」だし、けっこう荒っぽくて、怖い。

木澤 書物どころか人まで燃やしてしまいますからね。

江永 近所の人々を「怖がらせ」て「ふるえあがらせ」るために詩を朗読したりして、それで摘発されてしまうような愚かさも描かれている。その手前の記述などは、悪い意味で1950年代のアメリカという時代性を感じました。ただ、八本脚の機械猟犬などが登場するにせよ、良くも悪くも、先端的な科学技術とそれの延長にある未来像を描くというよりは、近未来の都市を舞台にした寓話という感じの物語なので、そういう"旧さ"のせいで"アクチュアリティ"がない、と感じるよりは、そういう時代の限界を感じる箇所ではないところへと、目を向けやすいような気もします。

 大衆の無関心という点では、今の日本と通じるものが多いと思います。文化芸術の予算を削ることで、「無駄なものは削ってやる」というパフォーマンスをすると、みんなが喜ぶ。だからそういうことをやっているのだな、と思うんです。政治家が愚かというより、われわれ市民が愚かなのかもしれない。学芸員や司書の給与が低いことが問題になっているのも、『華氏451度』と地続きの世界。すごくいろいろな取り組みを行って評判の良かった図書館長を、予算がないからという理由でクビにして問題になっている自治体もありますしね。

ひで 福岡県苅田町の図書館長ですね。タウン誌創刊→地域づくり団体事務局長→公募館長でやっていたのに非正規だから突然クビ。でもこれは強権的な政党が招いたことではなくて、むしろ民主主義が機能した結果なんですよね。

江永 図書館というと、有川浩『図書館戦争』シリーズも思い出します。このシリーズは、「本を守る人」である主人公たち図書隊(味方)が人情味を描かれる一方で、「本を検閲する人」つまりメディア良化委員の面々は基本的に人柄が見えてこないような話で、この点で『華氏451度』とは対照的です。元・良化委員(現・図書隊)のキャラの内面などが掘り下げられた短篇集の後書きで、良化委員はあまり感情移入できないように描いているみたいな話を作者自身が述べていたはずです。
 『華氏451度』に戻ると、第2章では"知識人"の生き残り的な人物として、元・大学教授のフェーバーという老人が登場し、ベイティーと同じような意味で、モンターグのその後の歩みに影響を及ぼすことになる。第3章の最後では、本を自分たちの頭で覚えながら焼いていく「渡り労働者」たち、放浪する"知識人"たちのグループに、モンターグは出会う。本の一節を覚えるという点で志を同じくする「頭の中に図書館を持った連中」が自然発生的に緩いつながりを形成したらしく、現在では各地にいる数千人がそのメンバーらしい(『ハーモニー』でも、『華氏451度』を踏まえつつ本を焼くシーンが描かれていましたが、意味合いがだいぶ変わっており、換骨奪胎の印象があって面白かったです)。「戦争」を経てもなお内容が保たれるように、本の章節ごとにひとを充てて、銘記しているらしい。

 おれたちが外付けハードディスクになる、と。

木澤 印刷術が発明される以前だと、書物の内容を覚えるための記憶術がありました。逆説的なことに、印刷術の発明によって衰退した記憶術というロストテクノロジーが、書物が焼き払われることによってある意味で復活を遂げるというのは面白く思えました。

江永 本に託していた仕事を人間にさせる……。でも、本になりたくない人にとっては本当に嫌な世界でしょうね。メンバーのひとりは「知識をひけらかしてはならない。われわれは本のほこりよけのカバーにすぎない。それ以上の意味はないのだからな」と言っています。これが謙遜ではないならば、本になるために生まれてきたわけじゃない、と思う人には、とても息苦しいかもしれない。

木澤 そもそも本の役割のひとつは、記憶を外部化することですからね。印刷術による書物の普及のおかげで、人間は記憶という重荷から解放されたともいえる。

ひで 映画版では、おじいさんが甥っ子に本の内容を口頭で伝授するシーンがあったんですけど、小説ではどうでしたか。その甥っ子はたまたまそのコミュニティに生まれただけなのに、本になることを強要されるわけですよね。

江永 明示はされません。小説中ではこの集まりができてから二十~三十年程度みたいです。ただ、こんな風には言われています。「本を一語一語、口伝えで子どもたちに伝えていくんだ。そして子どもたちも待ちつづけながら、ほかの人間に伝えていく」。教育なるものの力は、冒頭から繰り返し出ています。例えばクラリスとその伯父の関係、モンターグと上司ベイティー、老教授フェーバー、あるいはミルドレッドなどの関係など。ベイティーは作中の"体制=大衆"の側から、こんな風に述べていました。「二年や三年では、変わり種は排除しきれない。学校でがんばってみても、家庭環境で元の木阿弥だからな。幼稚園に行かせる年齢が年々低下して、いまじゃゆりかごからひったくっていくみたいになっているのは、そのせいだ」。家庭、学校、職場などが、各々がその場で違う原理を同じ身体に教え込む、そのことによる衝突が描かれている。個人の身体はこの意味では、諸観念の戦場になっている。個人は複数の噛み合わない教えを真に受けて、ぐちゃぐちゃになる。例えば、イヤホンからフェーバーの言を聴きつつ、眼前のベイティーの雄弁に圧倒されるモンターグの混乱、あるいは、本を焼きつつ、本の片言隻句を頭に刻んでしまう昇火士たちの混乱。
 「頭の中に図書館を持った連中」は、大衆を刺激しないように潜みつつ、個々人で自発的に本の内容を覚え、「戦争がはじまって、すぐに終わってくれるのを待って」いるという。地道な文化保存活動をしています。でもそれは、個々人の望みから「都市」で本が焼かれ始めたのと、同じような意味で、自然発生的な活動であるようにも映る。残すか焼くかの違いだけ。どっちのコミュニティが生きやすいかという話だけかもしれない。この読み方は底意地が悪いかな……。

ひで 「本を焼く社会・読書家を逮捕する社会に対抗して、本の内容を暗記して自分が本になる」というアンチテーゼを徹底すると、逆に自分自身もまた「コミュニティに生まれた子供に本になることを強要する」というアンチテーゼの裏返しになっている。

江永 そうですね。また、このコミュニティのひとりは、本を燃やすような「都市」自体が、戦火に焼かれるのを待っているかのようにも描かれている。こっちも結構怖い。

 本がなくなったら、今度は自分たちが外付けハードウェアになる。

木澤 逆説的にいえば、印刷術の発明によって人は本を読まなくてもよくなった、とさえ言える。本は記憶の外部化ですから、畢竟自分は本の内容を記憶しなくてもいいし、忘れることもできる。重要なのは自分の求めているものが情報のネットワークのどこに存在するか、つまりリファレンスですよね。たとえば、探しものが図書館のどこにあるのか、あるいはどんな検索ワードであれば最適な情報を見つけることができるのか、もしくはピエール・バイヤール風に言えば(?)、書物同士が照応し合う知のネットワークの布置において、その書物がどこに配置されているのか、といったメタ情報やメタ記憶さえ持っていれば良くなった。それが、『華氏451度』の最後のほうでは人間そのものが本になってしまう。そのうち人間の図書館ができたりするのでしょうか。書物を記憶した数千、数万の人間がずらっと並んでいるような……。

 それは凄い。焚書する人たちが現れたらマジで人間を燃やすことになりますね。

江永 実体がどの程度かはともかく、それを同時にやったと言われているのが、例えば秦の時代の焚書坑儒ですね。

木澤 僕的には人間が本になる世界もそれはそれで別のディストピアっぽさを感じます。

 人間が本になるお話というと、ファンタジー作品ですが山形石雄の『戦う司書』を想起します。物語の舞台は、人が死ぬと“本”になり、その本を読むことで過去の人の記憶を見たり、取り込むことで故人の能力を身に付けたりできるという世界。本は危険物なので戦闘力の高い武装司書が管理しているのです。一方で神溺教団というカルト宗教が「本は図書館でなく神に捧げられるべき」として武装司書と対立、主人公たち武装司書はテロ行為を繰り返す教団と戦いを繰り広げるというお話。この2勢力が単純な二項対立をしているわけではなく、グノーシス主義的な要素を取り込んでいたりして、とても好きな作品です。
 外付けハードウェアについて少し話すと、幼少期にずっと、僕にとっての外付けハードウェアの役を担っていた図書館があったんです。しかし引っ越した僕はそこから切り離されてしまった。本の記憶はありますが、それを使っていた場所の思い出は失われてしまったんです。この悲しみは、大事に使ってきた外付けハードウェアを失ってしまった悲しみだったのだと気付きました。

江永 こういう話だと、妙に閉鎖的な学園で育つ人々の話でもあるカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』のTVドラマ版(2016年に日本で放映された)も思い出します。人体を記録装置にする話ではなく、臓器の保管庫にする話です。第6話に、クローン人間たちが天賦人権説に基づいて自分たちの状況(非クローン人間に健康な臓器を提供するよう義務付けられている、というか強制されている)を改善しようと運動するけど、けっきょく瓦解してしまうという、ドラマオリジナルの一幕があります(脚本は森下佳子。演出は平川雄一朗)。そのクライマックスで、追い詰められたクローン人間が、ポツンと独りで街頭演説する議員を刃物で脅してスピーカーを奪い、待ちゆく人々に演説した後、さっきまでの主義主張をひっくり返したような悲痛な叫びをあげる。私たちクローン人間がもし「家畜」であるならば、どうか私たちに、自分たちも人間だなんて教えないでほしい、と。すごみがありました。

木澤 本と記憶の話でいえば、記憶は伝達されないと残らないので、たとえば現代まで伝達されてこなかった事々や本は、誰も記憶していないので端的にいって存在しなかったことと一緒なわけです。敷衍して言えば、結局いつかは地球も宇宙も滅びるので、誰も記憶する人間がいなくなるということは最初から何も存在しなかったことと一緒、と言えるわけですよね。リオタールは『非人間的なもの』のなかでこんなことを言っています。「探求としての思考が、結局のところ太陽とともに死すべき運命にあるならば、戦争、紛争、政治的緊張、世論の動き、哲学的論争、また情念さえも、すべてはすでに死んでいます」(篠原資明・上村博・平芳幸浩訳)。すなわち、「太陽の死の後で、それが死であったことを知る思考は存在しない」のです。そうしてみると、記憶を伝達していくという営為とそのモチベーションについて、もう少し別の角度からも深く考えてみたくなります。

 自分の場合は、生きている間に自分の記憶や思いを伝達することで、ちょっとでも共感・共鳴してくれる人が増えて、結果として自分が生きやすくなればいいな、ということが目標だと思っています。もしかしたら、われわれがこういう気持ち悪い集まりをしているのを、宇宙生命体がどこかで観測していて、感化されたり、また別の世界にこんなやつらがいたぜといって伝達してくれるかもしれない。そんなことを希望にしたいですね。

江永 あるいは、目的なく記録するというか、したいことをしていたら記録行為になっていた、というのも想像できます。あるいは、反論する目的で異端の教えを引用したら、結果的には異端の思想を紹介する資料として役立ってしまう、というような出来事も起こる。

木澤 ある意味、生殖と同じで、なんとなく快楽に従っていたら、そのおかげで人類が絶滅せずに今日まで存続してしまった、みたいな(?)。

ひで 人類の歴史がここまで長く続いて、本のような記録媒体も整備されていますが、人間が語り得る・思考し得る大体のことは語り尽くされたのではないかと思いきや、案外そうでもないですよね。

江永 定期的に記録・記憶がリセットされてしまうから。本は燃えるし、人も死ぬ。

ひで ブックオフの「女性の生き方」コーナーにいくと、すでに他の本で語られているような内容を書いてるであろう似たような本が多く並んでます。

江永 どのコーナーでも同じことは言えそうですね。ただ、ジャンルごとに文言や発想の流行り廃りがある。

ひで 自己啓発書も色々出版されていますが、結局のところ『七つの習慣』を読めばいいという話もあります。

江永 でも、誰もがいつでもどこでも同じ文字列を同じ意味合いで読めるわけではないですよね。例えば、自分から手に取った新刊書としてコヴィー『七つの習慣』を読むのと、使い倒された古典としてコヴィー『七つの習慣』を読むのとだけでも、身に入りかたも、意識の向け方も、その他いろいろが変わってしまう。あるいは同じ月並みな一般論でも、リスペクトする相手の口から丁度良いタイミングで発せられたら骨身に染みるかもしれないし、その逆もありうる。

 同じような本が並ぶのって、アニメのリメイクや本の新装版が出るのと一緒で、最初に出た当時に届いていた人たちと、新しく出すことによって届く人たちは違うからですよね。何が誰に刺さるかなんて誰にもわからないですし。だから、似たような内容を何回も出す意味はあるんだろうなと思います。


■『侍女の物語』『折りたたみ北京』

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今の日本に通ずる、不均衡な力関係

 『侍女の物語』のあらすじを簡単に。ある共和国でクーデターによる新政権が樹立するんですけど、これがキリスト教原理主義のような政権。夫婦の結びつきは大事なのだけど、政府高官だけが子供を産むための女を別にもつことができることになっているんです。その子産み女として選ばれたのが主人公です。この女性が政府高官の家で地獄のようなつまらないセックスをさせられて、人権もないし最低最悪な状況にある。でももっとやばい環境の人も他にいるし、これでも生きていられるだけでマシだと思っている……。
 自分はそんなに多くのディストピアものを読んだわけじゃないのですが、『1984年』と『すばらしい新世界』を読んで、その次に読んだのがこの本でした。前の二つは男性による語りで、『侍女の物語』は女性目線で見たディストピアについて描いている。読んでみて、自分はこういう話を読みたかったんだな、という気持ちになりました。女性が他者でなく当事者として生きるディストピア。子産み女は子宮しか求められないから、妻なら使えるスキンケア用品を一切支給されない。だから自分の肌を守るためにくすねたバターを顔に塗るんです。そういう描写が凄い作品だと思いました。
 本作では夫婦と子産み女の三人でセックスする場面があるですが、これは子供をつくるための神聖な行為であって、無駄に厳かな感じなんですね。それで三人とも本心ではやりたくないのになんでこんな時間があるんだろうと思いながらやっているんです。

木澤 セックスするまで出られない部屋みたいですね。

 そんな感じですね。まず男が聖書の一節を読み、これからこの聖書の言葉にならい執り行いますと言う。妻はさっさと終わらせたいと思っているし、子産み女のほうも最悪の時間だと感じている。だれも望んでいない状態で行われるし、妻のほうはこの時間そのものが不愉快なので、子産み女に早く妊娠してほしいと思っている。あの男はどうせ種無しだから、ほかの男とセックスしてきていいわよ、的なことまで言い始めるんです。もうめちゃくちゃです。男のほうは、あんな味気ないセックスはつまらないだろうと言って、女をいかがわしい場所に連れ出して、デートを始める。「お前らがクーデター起こしてこんなつまらない社会にしたんだろう、ふざけんなオイ」と、主人公も読者も思うわけです。
 こんな体制が長く続くはずもなく、話はやがて「後日談」になっていきます。それによると「この記録は人名等が実在のものと異なっていたので誰だか分らなかったが、分析した結果、当時政権を樹立した高官の一人、〇〇の家庭ではないかと推測することができた」という記述が出てくる。この〇〇は、自分たちがクーデターを主導した側だから油断していたのか、あっさり他の人間に目を付けられ、反乱分子として処断されたのだと。子産み女だった女性の行方は誰も知らないが、この記録が残されていることからおそらくはこの国を脱出したのではないだろうか……という終わり方をします。胸糞悪い部分も多いのだけど、少し救いのある終わりでした。

江永 最後の「歴史的背景に関する注釈」で、物語世界の中でも「過去」と「現在」の距離をつくりだしていますね。

 ですね。『1984年』のラストが「附録」という用語集なのと近い感じです。『侍女の物語』で自分が一番印象的だったシーンは、子産み女になった話よりも前の部分でした。舞台はおそらくアメリカなので、クーデター以前は、女性も普通にバリバリ働いていたんです。子産み女になってしまった女性も、クーデター前には付き合っている男性もいて幸せに暮らしていたのだけど、クーデターが起きた後に、「女性はもう働けません、銀行口座も凍結されます」となって、どうなっちゃうのかと動揺する彼女に対して、恋人の男は、「でもおれがいるじゃないか」などと言い始める。「おれがおまえの分も稼いでやる」みたいに言うんです。対等だったはずの関係に急に不均衡が生まれ、でもそのまま二人はセックスして……。男女の力関係の非対称性、力の変化が気持ち悪いくらい描かれていて、ぞわぞわしました。この、見えている世界の違いが相手に通じていない感じ。こういう描写がちゃんとしている作品っていいなと思いました。今の日本社会も似たようなもの、不均衡な力関係がある。それを創作で表現してもらえるのは、現実を直視する苦しさもあるけど、問題提起してもらえるありがたさがあります。

木澤 現実の日本でも、政治家が「女は子を産む機械」とか「LGBTは生産性がない」と言ってたりするし、ディストピアには必ずしも軍部によるクーデターやキリスト教原理主義が必要なわけではなく、愚鈍な政治家さえいれば正しく(?)ディストピアが形成されるという実例を日本は示しているとも言えますね。他にも、権力による上からの圧力がある一方で、空気や世間体のように下からの圧力もある。例えば、子供を産んでいない女性は白い目で見られる、とか。そう考えると、『侍女の物語』は単なるディストピア小説としてだけでなく、今の社会を考えるうえでも重要な小説なのではないかと思います。

ひで ぼくは去年結婚したんですが、子供づくりをするために配偶者と話し合って、この4月から配偶者が仕事を辞める・ぼくが仕事を増やすという決断をしました。配偶者の仕事は悪阻を抱えながら続行できるような業種ではなかったというのがありまして。女性は「もう働けません」、男性は「おれがおまえの分も稼いでやる」っていうのは、現代でも個々の家庭で起こっている話なんです。

江永 扶養や被扶養に伴う感情という問題のことも考えました。何らかの扶養関係が情緒的な要素が絡んだ支配服従関係に転化してしまうことのグロテスクさ。それは、男女、パートナー関係、親子関係の悩ましい側面にも通じる気がします。家という枠組み、家族制度にもそういう力関係の問題が内在している。

ひで 扶養関係――お金を配ることって権力なんだな、っていうのを最近すごく感じています。省庁の中でも大蔵省が一番権力を持っていたのはお金を配るための組織だったからなんです。お金を配る相手の銀行からノーパンしゃぶしゃぶの接待を恒常的に受けてたことがバレて、解体されちゃいましたが。自由貿易が常に全体の厚生を上げるのと全く同じ理論で、家族という共同体の厚生を上げるにはそれぞれが比較優位のある分野に全集中して働き、得たものを交換し合うのが合理的なんですよね。でも家事労働は不払い労働ですし、お金は数量的に測れてかつ何とでも交換できる兌換性のある物質だという違いがある。

 そうですね。そして家制度の持ついびつさは日本でも問題になっています。コロナ禍で給付金が個人ではなく世帯主に給付されてしまい、自分のお金になるはずのものを奪われてしまった人も大勢いました。『侍女の物語』は本当に今に通じる作品です。続篇の『誓願』も邦訳が発売されましたし、まさに今読みたいディストピア小説です。

ひで フェミニズム的な視点が入っているSF小説だと、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』の一番最後に載っていた「顔の美醜について」がかなり良かったです。ルッキズム――たとえば顔の美しい人間に対して良い成績を付けてしまうなどの、ルッキズム的な歪みを矯正するにはどうしたらよいか。頭に装着すると人間の美醜が分からなくなる「カリー」という機械が発明される。脳に電子部品を埋め込んで、電源を入れている間は人間の美醜をまったく判断できないようにすることができる。ある大学では学生はカリーを付けることを義務付けられることになって、その大学の政策はポリティカル・コレクトネス的に持て囃される。他の大学にも広げるのはどうかという議論になり、学生運動や学生選挙が行われる……という話です。現実的にもいつかありえるような、現状のポリティカル・コレクトネスの文脈にマッチする技術が進歩したとき、どういう社会がやってくるのか。という問題をうまく描いていると思いました。

木澤 フェミニズムSFといえば、ニック・ランド『暗黒啓蒙』の最終章「生物工学的な地平へのアプローチ」において、加速主義的な結論を引き出すために言及される黒人女性SF作家オクテイヴィア・バトラーを僕は想起しました。彼女の『ゼノジェネシス』三部作では、男性/女性の他にOoloiという第三の性を持ち、遺伝子交換によって人間と交配することで、種族や性別といったカテゴリーを超越していくOankaliと呼ばれる知的生命体が描かれます。残念ながら、バトラーは日本ではまだあまり紹介されていないようで、『ゼノジェネシス』三部作も未訳です。アフロフューチャリズムにも影響を与えたといわれるバトラーの作品が日本でも数多く紹介されることを個人的には望んでいます。

 面白そうな作品なので、翻訳されてほしいですね。フェミニズムSFというと、ナオミ・オルダーマンの『パワー』も最近気になって買いました。女性が電流を流す能力を身に付けるようになり、男女の力関係が入れ替わり、差別構造も入れ替わっていくという話。オルダーマンはアトウッドから直接指導を受けたこともあると、本に書いてありますね。あと最近完結したよしながふみの『大奥』も外せません。こちらは男性が奇病によって死にまくり、男女の人口比が激変してしまった江戸時代、女性が将軍となって男性が大奥に入るお話ですが、単純な逆転劇にとどまらずSF漫画としても素晴らしい作品です。

ひで 今回のフェアで挙げている8作品の中では『すばらしい新世界』もフェミニズム的な視点で読めるのかなと思います。もちろん逆説的にではありますが。

 確かにフェミニズム的とはちょっと違いますが、ロマンティックラブイデオロギーを破壊しているので、既存のジェンダー観、家族観にあらがうという面はありますね。

江永 最初に言及したル・グィンもそういう話をしていました。そもそも『闇の左手』がフェミニズムSFの傑作のひとつといわれている。評論集『夜の言葉』でも、特に「性は必要か?」という評論で、持論を展開しています。ただ、発表時からの反応を受けて、意見が変わった点などもあったとのことで、注釈で議論を修正したりしている。色々な立場の人から、小説自体を評論であるかのように読まれてフラストレーションを覚えたり、指摘を受けるなかで表現足らずや考え足らずだったと感じる部分も生じたりしたとのことです。

ひで フィクションの外側にあるポリティカルと関連付けて議論されてしまう、あるいは影響を与えてしまう、という困った話はありますね。『折りたたみ北京』は中国の作家のSFアンソロジーですが、前書きには次のような悩みが書かれていました。中国のSF作家という基準で作品を選んだせいで、この作家のこの文学について話をしたいのに、その意図に反してグレート・ファイアウォールと結び付けられて語られてしまうとか、全体主義を引き合いに出して読まれてしまう、などなど。

江永 『折りたたみ北京』のケン・リュウの序文で、中国といっても一つではなく、地域性があるという話があって、たしかに当然のことではあるのですが、改めてその通りだよなと意識させられました。

ひで 「折りたたみ北京」で北京が折り畳まれるのは、北京は中国の首都で人口が爆発しているからですし。

江永 あと、バイドゥの「プロダクトマーケティング部門のマネージャー」としても勤める陳楸帆を始め、大学教員、エンジニア、写真家、シンクタンクなど、作家たちが兼業する仕事も色々あるんだなと改めて思いました。

 作家に対する社会の評価、スタンスとかも、日本とは違うかもしれないですね。

江永 兼業先や、作家というポジションの意味とかも、ある程度は地域や時代で異なるのをあらためて実感しました。例えば「文士」という語がありますが、これはビジネスとは若干齟齬があるイメージに感じます。冒頭の陳楸帆「鼠年」が、就職留年した大学生が就職斡旋を謳う公共事業(鼠駆除)への従事(組織は軍隊めいている)を描いていて、ある種の労働の感じがSF的な意匠とうまくマッチしており、印象深かったです。

ひで 中国は人口が膨大なので、本が売れれば専業作家になりやすいとも思うんですけど、案外本は読まれてないんですかね……。と思って調べてみたら、リアルな本は小売店・ネット通販を含めて2019年で1022億元売れていたみたいです(北京開巻情報技術社「2019中国図書小売市場報告」 https://www.qianzhan.com/analyst/detail/220/200115-928cf962.html )。日本円に直すと1.7兆円ですね。対する日本の出版業界では、紙の出版物合計が2019年で1.2兆円です。うおっ 中国って日本の10倍以上人口がいるのに、思ったよりまだまだ出版業界って小さいんですね。

江永 WEB小説とかはどうなんでしょう。

ひで 出版社で印刷したものではなく、ネットだと小口送金で支払うことができるから、ということですか。日本だとSkebとかFantiaとかPixiv FanBoxとか、作者に直接お金を払えるサービスは色々ありますが、中国だとWeChat Payなどの小口送金が強いですし、日本よりも個人宛にお金を払う文化が広く受け入れられたりするんですかね。

江永 プラットフォームに課金して投稿された物語を読んで、といったサイクルで流れているお金もありそうだなと。馬場公彦「ネット文学の網にかかった中国の若者たち――その巨大な収益モデルを探る」( https://hon.jp/news/1.0/0/30226 )というWEBコラムを見ていたんですが、冒頭は無料で続きを読むには課金が必要、みたいな連載形態のサイトの話などがありました。中国の網絡文学(ネット文学)の市場規模は、2019年時点で204.8億元(約3175億円)だったらしいです。

ひで うをを、結構すごいですね。

木澤 SFには、ディレイニーの『ダールグレン』や、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』、バラードの短篇「クロノポリス(時間都市)」(個人的にこの作品は麻耶雄嵩『木製の王子』との世界観的類似性が気になっており、SFとミステリの地続き性を考える上でも面白いと思っています)、ギョルゲ・ササルマンの『方形の円 偽説・都市生成論』などなど、都市SFとでも呼ばれるべき系譜が連綿と存在していると思うのですが、「折りたたみ北京」もその系譜に連なる一本だなと思いました。個人的なことをいえば、この作品は映像化したらすごく映えそうだなと思いながら読みました。それこそクリストファー・ノーランの『インセプション』のようなスペクタクルな感じで。奇しくも、今年か来年ぐらいに映画化されるそうなので、それを楽しみに待ちたいところです。

江永 「鼠年」の終盤も、映画映えしそうで面白かったです。

ひで 最後に操られたネズミが海に突っ込んで集団自殺する場面を読んでいて、微妙に気持ち悪い余韻が残りました。あとネズミが都市を作って宗教施設じみた構造物を作っていたり……。この小説も冒頭はボーイミーツガール的展開なのかなと思いきや、普通にフラれちゃうんですよね。恋愛成就もしないし、小動物が知能を得かけたかもっていう匂わせだけが残って気持ち悪かったです。

江永 ラストの「お別れ」のくだりは、叙情を感じました。

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江永泉・木澤佐登志・ひでシス・役所暁『闇の自己啓発

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