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トム・ストッパード最新作、ロンドンレポートーー自らのユダヤ人のルーツに立ち返った作品/「悲劇喜劇」20年5月号より

 「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」「コースト・オブ・ユートピア」などの代表作で知られる、イギリスを代表する劇作家トム・ストッパード。最新作『レオポルドシュタット』は、彼の劇作の集大成とも言われ、話題を集めました。『悲劇喜劇』5月号に掲載された、ロンドン在住ジャーナリスト・秋島百合子氏によるレポートを特別公開します。

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 イタリアを皮切りに欧州でも広まった新型コロナウィルス感染症が、大陸諸国より一足遅れてイギリスでも猛スピードで拡大中だ。その結果、政府の勧告を受けた三月十六日以降、劇場やオペラハウス、音楽会場等の全面閉鎖が徐々に実施され、イギリスの主要産業が消えたかのような大きな衝撃を与えている。 財政困難に陥った劇場業界からは政府に助成を求める声が上がっている。
 トム・ストッパード(82)の新作『レオポルドシュタット』が一月二十五日にロンドンのウィンダム劇場で初演され、空前の話題と絶賛評を招いたのだが、これも公演期間の途中で打ち切られた。「オリヴィエ賞」の「最優秀新作賞」にノミネートされたが、四月五日に予定されていた華やかな受賞式もキャンセルになった。
 この芝居は初めて彼自身のルーツであるユダヤ人をテーマにしたものだが、自伝的作品ではない。ウィーンを舞台に、学芸文化、科学の栄えた華麗な時代の一八九九年からホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を経て一九五五年に至るまでの、架空のユダヤ人一族の繁栄と崩壊を描いた物語である。演出は『クローサー』『ディーラース・チョイス』等を作・演出したパトリック・マーバー。
 ウィーンの一等地にある裕福な実業家ヘルマンの家の豪華なサロンに一族が集まって、クリスマスを祝っている。この場面に限らず、親戚一同に訪問者、使用人等、総勢二十五人の大人と数人の子供が出てくる大規模な舞台だ。とても全員の顔と名前を覚えられるものではない(と劇評家も書いている)。そこでプログラムにはまるであみだくじのように複雑な家系図が入っていて、筋を追うのにたいへん役立った。セピア色の写真に収まるような、ノスタルジックでゴージャスな舞台と衣装に目を見張る。しかし次第にユダヤ人迫害が深刻化して、この邸宅も荒廃していく。  
 ところでユダヤ人なのにキリスト教徒のようにクリスマス? これには新時代のユダヤ人の歴史が関わってくる。ヘルマンの曽祖父は衣服の行商人だったが、彼の息子はウィーンのユダヤ人地区「レオポルドシュタット」で仕立て屋を営むに至り、その息子も商売を拡大、その息子のヘルマンは繊維業界の大物となった。レオポルドシュタットに見切りをつけて高級住宅地に移り住み、オーストリア人のブルジョワ階級と夜会やオペラ座で肩を並べるようになった。「同化ユダヤ人」といわれる人たちだ。しかもさらにキリスト教社会に食い込むために、彼はキリスト教徒に改宗し、カトリック教徒の妻を持った。これで押しも押されぬウィーン社交界の名士である。「私はキリスト教徒だ」とヘルマンは胸を張る。しかし見渡せば、それをふふんとせせら嗤うアーリア人に囲まれているのだった。 
 この一族の中にはキリスト教徒と結婚した者はヘルマン以外にもいて、ユダヤ教の慣習を守りながらもクリスチャンであることも受け入れる融通性がある。子供たちと一緒にクリスマスを楽しむと同時に、キリストの復活を祝う「復活祭」とほぼ同時期にある「過ぎ越しの祭り」では、伝統的な燭台と供養の食べ物を並べるユダヤ教の儀式を行う。二つの信仰を柔軟に共存させるのが同化ユダヤ人なのだ。ヘルマンの幼い息子がクリスマス・ツリーの天辺にユダヤ教のシンボルである「ダビデの星」を飾り付けると観客は笑う。この息子は生後間もなく同じ週に、キリスト教の洗礼式とユダヤ教の割礼の儀式をやったと祖母がいうと、観客はまた笑った。
 この芝居の前半を占める世紀末から第一次世界大戦の辺りまでは、裕福なユダヤ人にとっては多少の差別は受けても、社会的地位を得て自由を謳歌する黄金時代ともいえる。舞台ではこの時期の会話は大いに可笑しくもあり、一方でユダヤ人を屈辱の極致に追い込む言動もたっぷり盛り込まれている。

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ヘルマンの家庭 豪華なサロンのクリスマス(1899年) ©Marc Brenner

 
 ところでこの作品の中では、ストッパード得意のあの手この手の言葉遊びや、聴いていてちんぷんかんぷんの数学や力学の原理とか、知性と教養の頂点に達する文学的、芸術的素材、またはアッと驚くロックン・ロールのような意外な題材や表現は一切使われていない。比喩的な手法から離れて、珍しく物語の流れをストレートに表している。あまりにも悲しい物語を語るためには、謙虚に素直に立ち向かうしかなかったということなのか。
 但し、いつものストッパードらしさもままあり。ヘルマンの妹の夫が数学者で、ナチスのイデオロギーに「カオスの論理」だか何かを結びつけて一席ぶつ場面や、子供の数学やゲームを見ながら何やら数字の裏に隠れた理論を真顔で説明するなど、おお、出たか、というおもしろさはある。
 さらにはスピーチのような長台詞もよく出てくる。ハプスブルク帝国内の東欧の国々とユダヤ人の関係や同化ユダヤ人の心情等について、あるいは迫害されるヨーロッパを出てパレスチナにユダヤ人国家(後のイスラエル)を作ろうという、20世紀初頭のシオニズム運動の提唱者テオドール・ヘルツェルについても、決して飽きるような‘歴史レッスン’ではない。主張にも反論にもユーモアと論理性があり、次の展開へと好奇心をつなげてくれる。特にユダヤ人の歴史に詳しくない観客にはありがたいことだろう。
 それにしても、なんという心境の変化だろうか。ストッパードは初めて、作品の中に自らのユダヤ人としてのアイデンティティーを重ね合わせたのだから。
 一九三七年にチェコスロヴァキア(当時)でトマス・ストラウスラーとして生まれたストッパードは、両親がユダヤ人であることを一九九〇年まで知らなかったそうだ。医師である父が妻と息子二人を連れてシンガポールに移り住んだが、父親は死去。母親は子供を連れてインドに渡り、そこで英軍将校のケネス・ストッパードと再婚した。やがて家族と共にイギリスに渡った少年トムは生粋の英国少年として育ち、母語は英語だった。母はユダヤ人の過去についていっさい口をつぐんでいたが、ある歴史研究者の出現と、ストッパードが会議でチェコスロヴァキアに滞在中に名乗り出てきた親戚が、彼の幼年時代の写真の入ったアルバムを持ってきたことから、自分と家族の歴史をたどる道が開けたのである。


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ナチス党員の来訪(1938年) ©Marc Brenner


 舞台に話を戻す。両大戦間期の一九二四年ともなれば経済危機を背景に左翼思想がこの一族にも押し寄せている。一方でこの家のモダン・ガール、フラッパー娘はサロンでチャールストンを踊る。そこに訪れた弁護士がドイツ・ナショナリズムを提唱し、不気味な論理を展開してヘルマンと対立する。この場面から続く映像の中で爆音が激しくなり、ナチスの鉤十字(ハーケンクロイツ)が掲げられて一九三八年に移る。ナチス・ドイツによるオーストリア併合の年だ。ヘルマンの華麗なるサロンは今や姿を変え、親族が集まってここから逃げるか残るか、様々な方策を立てている。夫をオーストリア軍に殺された親族の一人は再婚予定のイギリス人ジャーナリストに、幼い息子と共に亡命するよう説得されている。間もなく私服のナチス党員が来て、この住居を没収するという。各自スーツケーズ一つに荷物をまとめて、翌朝にはこの家を出ろと命令した。
 最後の場面は戦後しばらく経った一九五五年。無味乾燥としたサロンで、早々とニューヨークに亡命した六〇代の女性と二〇代、三〇代の若者二人が再会する。やがてこの女性は親族一人一人の運命を語り始める。ほとんどが強制収容所で殺され、最後はアウシュヴィッツ、アウシュヴィッツ・・・と淡々と繰り返すのだった。
 そしてヘルマンはどうなったか。もしや日本で翻訳上演されないだろうかと願いつつ、結末はいわないでおこう。
 この場面の二〇代の青年レオは、前の場面で母親のイギリス人の婚約者に連れられてイギリスに逃げた少年だ。今やそこそこのユーモア作家になってウィーンに戻る機会を得、ユダヤ人の親族を再訪したところだった。つまり彼はストッパード自身と重なっている。
「この舞台は何度見ても泣けてくるのです」と彼は二月十三日付のイブニング・スタンダード紙に語っている。
 そしてこの話をチェコスロヴァキアでなくウィーンにしたことで、自伝的物語を超えて、現代史の普遍的世界へと飛躍させたのである。

***(「悲劇喜劇」2020年5月号より)***                               

秋島百合子(あきしま・ゆりこ) ロンドン在住ジャーナリスト。1950年、東京生まれ。75~78年ロンドンの BBC日本語放送から日本に向けて放送。85年、『この世はすべて舞台』で第1回ノンフィクション朝日ジャー ナル大賞優秀賞受賞。主著『シェークスピア式イギリス診断』『パブリック・スクールからイギリスが見える』 (共に朝日新聞社)、『アナウンサーはなぜ消えたのか』(草思社)、『蜷川幸雄とシェークスピア』(角川書店) 他。日本・イスラエル共同制作、蜷川幸雄演出『トロイアの女たち』にドラマターグ、スタッフとして参加。


ハヤカワ演劇文庫 トム・ストッパードの本

「トム・ストッパードⅠ コースト・オブ・ユートピア」 広田敦郎訳

「トム・ストッパードⅡ ロックンロール」 小田島恒志訳

「トム・ストッパードⅢ ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」小川絵梨子訳

「トム・ストッパードⅣ アルカディア」 小田島恒志訳




                                                                                                                                                                                                                      

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