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こんなに切ない役に今後出会えるだろうか。――井上芳雄 『アルカディア』(トム・ストッパード作)訳者あとがき公開!


訳者あとがき 小田島恒志(英文学・翻訳)

 一九九三年、ロンドンのナショナルシアターで『アルカディア』が上演されるや、評判が評判を呼び連日大入りとなり、数々の演劇賞に輝いた。それだけではない。劇場に併設されているブックショップの上演台本(戯曲)売り上げ部数記録を塗り替えたのだ。これはつまり、多くの観客が「見て面白かった、けど、よくわからなかった。読んで確かめたい」と思ったことを意味している。そもそも、初日に合わせて『タイムズ紙』が『アルカディア』上演特集記事を掲載し、「劇場へ行く人のための科学用語集」まで載せたほどだから、難しいのも無理はない。このとき、C・P・スノーが「二つの文化と科学革命」を発表して以来開く一方だった「文系文化」と「理系文化」の溝にストッパードが橋を架けた、と評した論者もいるが、「橋」の譬えの通り、理系の専門用語と同じぐらい高度な文系の専門知識も要求されるのだから、見る方はたまったものじゃない。
 ところが、もともと高度に知的で難解な作風で知られるストッパードだが、このとき『インディペンデント紙』の「どうしてそんなに専門用語を駆使して書くのですか?」という質問にこう答えている──「観客がそういう専門的な内容を理解する必要はありません。ただ、私がそうやって書くのは、その方が本当らしく(authentic)なるからです。」なるほど、理系も文系も、専門的な内容はすべてただの背景であって、観客が見るべきは、そうした世界を生きる人間たちの姿だということか。確かに、『アルカディア』の登場人物たちは、一九世紀初頭の人々も現代の人々も、長所も短所も、一人残らず皆魅力的で、観客の心を捉えて離さない。時に言っていることが難しいこともあるが、そういう言葉を使う方が彼らしい、彼女らしい──本当らしい、というわけだ。
 冒頭いきなり純真無垢な子供らしい質問をする少女トマシナが、実はとんでもない天才少女だということも、その受け答えをする家庭教師セプティマスが、これもなかなか頭脳明晰な秀才ではあるものの下半身はだらしがないということも、会話の端々からすぐに伝わってくる。引用される聖書の一節やラテン語などの知識がある必要はない。知らなくても十分面白い。訳者は幸い英文学を学んだ身だったので、初めて読んだときから、これが英国文学の流行が古典主義からロマン主義へと移行する時代の話だということや、ロマン派の詩人バイロンが変わった風評の持ち主だったことなどは分かっていたが、当時の庭園設計におけるピクチャレスク理念や、ニコラ・プサンの「我もまたアルカディアにあり」と題する二枚の絵の違いや、それらが現代の場面で展開する「カオス理論」と並行関係にあることや、自然の不規則性の一因である「熱力学第二法則」のことなど、さっぱり分からなかった。だが、一つだけ、はっきりと感じたことがある。それは、この戯曲が美しいということだ。こんなに美しい戯曲は読んだことがない。
 ストッパード自身は、J・グリックの『カオス』を読んで興味を持ち、自然の不規則性を考えるのに、ちょうど古典主義からロマン主義へと移っていった時代風潮がメタファーになるのでは、と思ったところから執筆を始めたという。それにしても、よくこれだけ具体的に伏線を様々に張り巡らせて、しかもそれを悉くしっかり回収できたものだ。緻密に計算されている。自然を計算で表せるかという問いに始まり、その不規則性に行き当たる物語を、見事に計算して美しく構成するとはなんともオシャレな戯曲である。
 実は、日本でついに翻訳上演されることになって改めて読んでみたときに、今更新たに気づいたことがある。ロンドンで異なるカンパニーによる二つの上演を見た時には、見ていても気がつかなかったのだが、文字を追っていくうちに、こんな仕掛けもしてあったのかと舌を巻いた。第二場のト書きで、この戯曲が場ごとに一九世紀初頭と現代とを行ったり来たりすることを断ったうえで、テーブルの上にある小道具についてこう書いてある──「芝居の間にテーブルにはあれこれと品物が増えていく。そして、ある場面での物が次の場面の時代に合わないような場合(例えばコーヒーマグなど)、それは目に見えなくなったという〝お約束〟にすればよい。この芝居が終わるまでにはテーブルには色々な品物がずらりと並ぶ」最初、これを読んだときには、「ああ、演劇的だな」ぐらいにしか思わなかったのだが、第七場で現代と過去の出来事が同時進行に演じられるという、やはり実に演劇的な場面をイメージしてみて気がついた。今、テーブルの上には、かなり無秩序にいろいろな物が入り乱れて載っているのだな。あ、つまりカオス、現代の言い方で言えば、エントロピー値が高くなったということか。このヴィジュアルの設定──美しい。
 二〇一六年四月~五月、日本での『アルカディア』翻訳上演が実現した。稽古場にスタッフ・キャスト一同が会する稽古初日、何やら不思議な空気が漂っていた。普通、翻訳者は、個々の役者から、セリフの内容に関して質問を受けたり、言い回しの点で相談されたりするものだが、この時は誰からも何も聞かれなかった。後である役者さんから聞いた話では、この段階では「何を質問していいのかすら分からないほど分からなかった」そうだ。演出家に促されて、少し解説を始めた。一九世紀の場面でこう言っていたことが現代の場面でどう重なるか、そこには物理学上の理論の変遷がどう反映しているか、ここで延々と語られている理論が物語上どういう意味をもつのか、などなど。喋っているうちに自分でも「ああ、そうか、そういうことだったんだ」と発見することまであった。気がつくと、大学のレクチャー一回分ぐらいは優に喋っていたようだ。が、役者たちの空気が変わった。もちろん、一回説明を聞いたぐらいでは完全には飲み込めないだろうが(喋ったこっちも分かっていないことがままあるのだから)、それでも明らかに違う。ストッパードの意図通り「本当らしく」見せるためには、少なくとも自分のセリフの意味は「本当に」理解しなくてはならないのだが、この役者たちは「本物」だった。「本当に」理解してセリフを喋り始めた。よく理解したある役者さんが自信たっぷりにセリフを言い始めたので、「すみません、そのキャラクターは理解しないで喋ってるので、ぜひ、理解しないでください」と言わなければならないことすらあった。
 こうしてみんなで「勉強」したうえで、肝心なのは人と人との感情のやり取りだから──そのために「本当らしく」してきたのだから──役者たちは大変である。そして迎えた本番初日、ラストのワルツのシーンを見ていて、身も心も震えるほど感動した。上演を決めたプロデューサーの北村明子さんや演出の栗山民也さんを始め、この美しい戯曲を美しく演じてくれたスタッフ・キャストの皆様に感謝してやまない。


トム・ストッパードⅣ『アルカディア』(小田島恒志訳、税込1,296 円、ハヤカワ演劇文庫)は、早川書房より発売中です。


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