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ノーベル文学賞作家オルハン・パムク第10長篇小説『赤い髪の女』試し読み

『わたしの名は赤』『無垢の博物館』などで知られるノーベル文学賞作家オルハン・パムクの第10長篇『赤い髪の女』(原題 Kırmızı Saçlı Kadın, 2016)は早川書房より発売中です。

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『赤い髪の女』オルハン・パムク/宮下遼訳

◎書評
共同通信(2019年12月配信)書評(岩川ありさ氏・法政大学専任講師)
週刊文春(2019年12月26日号)書評
日経新聞(2019年12月14日号)書評(牧 眞司氏・文芸評論家)
朝日新聞(2019年12月7日号)書評(いとうせいこう氏・作家)
読売新聞(2019年11月24日号)書評(鈴木幸一氏・インターネットイニシアティブ会長CEO)

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【あらすじ】

ある晩、父が失踪した。少年ジェムは、金を稼ぐために井戸掘りの親方に弟子入りする。厳しくも温かい親方に父の姿を重ねていたころ、1人の女に出会う。移動劇団の赤い髪をした女優だ。
ひと目で心を奪われたジェムは、親方の言いつけを破って彼女の元へ向かった。その選択が彼の人生を幾度も揺り動かすことになるとはまだ知らずに。

父と子、運命の女、裏切られた男……
いくつもの物語が交差するイスタンブルで新たな悲劇が生まれる。

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私は作家になりたかった。でも、これから語るこの物語が進んでいくにつれ、私は地質調査技師になり、そして建設業者になることだろう。もっとも、私がいま物語をはじめたからといって、それがすでに終わった過去のお話だとは思わないで欲しい。それどころか思い出せば思い出すほどに、さまざまな出来事がいまでも心を捕えてやまない。だからこそ、私は確信している。あなたがたも私と同じように父と子の神秘に魅了されるだろうと。

1984年当時、私たち家族はベシクタシュ地区の裏手に建つウフラムル館(スルタン・アブデュルメジトが築いたイスタンブル新市街の庭園と別邸)の近くのアパルトマンで暮らしていた。父はハヤト(命または生活の意)という名の小さな薬局を経営していて、週に1日、朝まで営業する晩には夜番へと出かけていった。夜番の日の夕飯を届けるのは私の仕事だった。背が高く痩せてハンサムな父がレジスターの脇で夕飯を食べる間、薬の匂いを嗅ぎながら待っているのが好きだった。あれから30年経ち45歳になったいまでさえ、木製の引き出しが並ぶ古い薬局の匂いを嗅ぐと心弾むほどだ。

ハヤト薬局はあまり繁盛しておらず、父は夜番の日になると当時流行していたポータブル・ミニテレビを眺めて暇をつぶしていた。時折、訪ねてくる友人と低い声で何事かを話し合っている姿を見かけることもあった。昔の政治活動仲間たちは子供の私が姿を現すと話を切り上げ、「息子さんは君と同じに男前で愛らしいね」などと言ってあれこれ尋ねてきたものだ。何年生なんだい、学校は好きかい、将来は何になりたいんだい?

しかし、政治仲間と一緒にいるところを息子に見られると、父はたちまち不安そうなそぶりを見せるので、私は店に長居せず弁当箱を持って弱々しい街灯とスズカケの下を歩いて帰宅するのが常だった。家に帰って、父が政治仲間の誰かと一緒にいたなどと母に告げ口したことはない。彼女は夫が良からぬことに首を突っ込んでいるのではないか、ある日、突然自分たちを置いて姿を眩ませてしまうのではないかと気をもんでいて、父とその友人たちの動向に神経を尖らせていたからだ。

もっとも、父と母の無言の争いが、政治にのみ端を発しているのでないのは明らかだった。2人はときおり延々とののしり合い、あるいは長いこと口を利かなかった。もしかしたら、お互いが好きではなかったのかもしれない。父が母以外の女性を愛していて、父もその女性に愛されているように感じることがあったし、母も父にはよそに女がいるのだと子供の私にも分かるような口ぶりでほのめかした。父をめぐる諍いは我が家の悲しみの種だったから、私はいつも父と母の関係やよその女のことを考えたり、思い出したりしないよう気をつけていた。

父と最後に過ごしたのは、いつものように弁当を薬局へ届けた日の晩のことだった。私は高校1年生で、なんの変哲もない秋の夜だった。父はニュースを観ていた。彼がカウンターで夕食を摂る間、私はアスピリンを買いに来た客と、ビタミンCと抗生物質を買いに来た客の相手をした。代金を古いレジスターに入れるときのチリーンという音に心が躍ったものだ。帰り際、最後に振り返ったとき、父は店の戸口で微笑を浮かべて手を振っていた。

そのあくる朝から、父がふたたび帰ることはなかった。午後、学校から帰宅すると、母があの人はもう帰ってこないと告げたのだ。彼女の下瞼は厚ぼったく腫れていて、泣いていたのは明らかだ。私は最初、以前のように警察が夜中のうちに店から父をさらって政治課へ連行したのだと考えた。こういうことははじめてではなかったので、きっと父は警察の政治課でファラカ(こん棒で足の裏を打つトルコ特有の刑罰)や電気ショックで痛めつけられているのだと、そう思ったのだ。

しかし、今回の母の態度は、父が7、8年前にも同じように姿を眩ませ2年ほどしてひょっこり帰ってきたときとはまったく異なった。母は父にかんかんに腹を立てていたからだ。父の話が出るたびに母は言ったものだ。

「自分が何をしたかは、あの人が一番よく分かってるでしょうよ!」

クーデター直後に父が薬局から連れ去られたとき、母はそれはもう嘆き悲しみ、私に「お父さんは英雄よ、誇りに思いなさい」と言ったし、店員のマジトと交代で店番に立つのも厭わなかった。当時、マジトの白衣を私が借りて着ることもあったが、当然ながら当時の私には薬剤師の助手になるつもりはなかった。父が望んだように科学者になるつもりだったからだ。

しかし、父の最後の失踪を機に母は薬局への興味を失い、マジトの様子を尋ねもせず、店の先行きについてもまったく話さなくなった。父は政治以外の理由で姿を眩ませたのではないかと考えるようになったのも、ひとえに母の態度のゆえである。ところで話は変わるが、そもそも私たちがよく口にする「考える」という行為はいったい何なのだろう?

高校生だった当時の私も、思考というものが私たちの頭の中でときには言葉によって、またときには映像によって行われる行為だということは理解していた。……もちろん、言葉では決して言い表せないような考えがあることも承知していた。たとえば、バケツをひっくり返したような大雨の中を駆け抜けるとき、自分がどんな風に走ったのかとか、どんな気持ちだったのかとかをすぐ言葉にするのは難しくとも想像はつく。ところが、それとは反対に言葉で言い表すことができるのに、その姿かたちがまったく思いつかないものもある。黒い光とか、母の死とか、あるいは永遠とかだ。

そして、当時の私はまだ子供だった。気の進まない考えと対峙して思考を自在に操れたかと思った次の瞬間には、考えたくもないような映像や言葉が頭にこびりついて離れなくなってしまったものだ。

長いこと電話1本もらわなかったせいなのか、ふと父の顔を思い出せなくなってしまう瞬間があった。そんなとき私は、停電が起きて目に映るものすべてが一瞬で消えてしまったような気分を味わった。

ある晩、私は足の向くままウフラムル館へ向かって散歩をしていた。ハヤト薬局の扉は施錠され二度と開けられまいと思われるほどに頑丈な黒い南京錠がかけられ、ウフラムル館の方からは霧が流れていた。

「もうあの人も薬局もあてにならない。うちの家計は火の車よ」

母がそう教えてくれたのは、それから間もなくのことだ。そうは言われても、私の小遣いは映画を観てサンドウィッチやドネル・ケバブを食べ、漫画を買えばなくなってしまうような額だ。カバタシュ高校へも徒歩で通っている。漫画雑誌のバックナンバーの売り買いや貸し出しで小銭を稼ぐ友人たちもいたが、彼らのように毎週末ベシクタシュ地区の映画館裏のうらぶれた通りで客が来るのをひたすら待つというのも気乗りしなかった。

こうして私は、1985年の夏からベシクタシュのショッピングモール内にあるデニズという名前の古書店で働くことになった。大半は学生からなる万引き犯を追い払うのが、私の重大な使命だった。本の仕入れのためにジャアオール地区へ行くデニズ氏の車に乗ることもあった。デニズ氏は、本の作者や出版社を一度見たら決して忘れない新しい店員に目をかけてくれて、私に売り物を家へ持ち帰って読む許可さえ与えてくれた。その夏は実にたくさんの本を読んだ。ジュヴナイル小説、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』、エドガー・アラン・ポーの傑作短篇集、詩集、オスマン帝国時代のヒーローたちが活躍する冒険小説や史劇、そして夢に関するエッセイ集。私の人生を一変させたのは、そのエッセイ集に収められた一篇の文章だった。

デニズ氏の知り合いの作家が店に顔を出すこともあり、いくらも経たないうちに我が雇い主殿は「いずれ物書きになるぞ」などと言って私を紹介するようになった。確かに作家になる夢を最初に口にしたのは私の方だったが、はじめはほんの軽口のつもりだったのだ。しかし、雇い主の影響もあってか、作家になることを真剣に考えるようになるのにさほど時間はかからなかった。

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『赤い髪の女』(オルハン・パムク/宮下遼訳)は好評発売中です。

◆著者:オルハン・パムク Orhan Pamuk
1952年、イスタンブル生まれ。トルコ初のノーベル文学賞作家。イスタンブル工科大学で建築を学んだ後、イスタンブル大学でジャーナリズムの学位を取得。その後、コロンビア大学客員研究員としてアメリカに滞在した。1982年発表のデビュー作『ジェヴデット氏と息子たち』(未訳)がトルコで最も権威のあるオルハン・ケマル小説賞を受賞。その後に発表した作品もトルコ、ヨーロッパの主要文学賞に輝き、世界的な名声を確立する。1998年発表の『わたしの名は赤』はニューヨーク・タイムズをはじめとする世界の有力紙誌で激賞され、国際IMPACダブリン文学賞を受賞。2002年の『雪』も同様の高評価を受け、2006年にはノーベル文学賞を受賞した。2008年に『無垢の博物館』、2014年に『僕の違和感』(以上早川書房刊)を発表。2016年に発表された本書は第十長篇にあたる。

◆訳者:宮下遼(みやした・りょう)
大阪大学言語文化研究科准教授。著書『無名亭の夜』(講談社)、訳書『わたしの名は赤〔新訳版〕』『雪〔新訳版〕』『無垢の博物館』『僕の違和感』オルハン・パムク(以上早川書房刊)他



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