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【試し読み】大好評発売中! 宝樹『三体X 観想之宙』  

三連休ですね! この連休は、大好評発売中の『三体X 観想之宙』に手を出してみるのはいかがでしょうか?
本日は購入を迷われているみなさまのために、『三体X』お試し読みをお届けします!

 プロローグ

終末紀元1年 0時0分0秒
宇宙の果て

  
 むかしむかし、もうひとつの銀河で……

 星々は同じようにきらめき、銀河は同じように雄大な渦を巻き、広大な宇宙空間に隔てられたそれぞれの恒星の背後には無数の生命体が同じように隠れていた。彼らは銀河の目立たない片隅に身をひそめて、成長し、発展し、闘争し、虐殺していた……宇宙のほかの場所と同じように、彼らは生の律動と死の挽歌でこの辺鄙(へんぴ)な銀河を満たしていた。

 だが、この古く広い宇宙は、すでに寿命を迎えようとしていた。

 半径百億光年の球の中では、想像もつかない速度で、ひとつまたひとつと星々が死んでいた。文明は次々に滅び、銀河は次々にかすみ……最初から存在しなかったかのように、すべてが無に呑まれかけていた。

 この銀河にいる無数の生命体はまだ、彼らの奮闘や挫折、潜伏や殺戮のすべてがもはや意味を失ったことを知らない。宇宙というはるかに大きな背景に予想もしなかったおそろしい変化が起こり、彼らの存在そのものがまもなく無に帰そうとしている。

 数十億光年の彼方から、すでに死に絶えた銀河たちのかすかな光芒が果てしない暗黒の宇宙空間を渡ってこの辺鄙な銀河を照らし、受けとる者のいない手紙のように、とうに滅びた者たちの古(いにし)えの伝説を、だれにともなくひっそりと語った。

 そうした光芒のひとつに、この宇宙の目立たない片隅に位置する〝天の川〟と呼ばれる銀河から放たれたものがあった。その光は弱く、ほとんどの生命体の肉眼には感知できないほどかすかだったが、その中には、かつて世界をどよもし天地をひっくり返した驚異の伝説の数々が含まれていた。

 葉文潔(イエ・ウェンジエ)、丁儀(ディン・イー)、章北海(ジャン・ベイハイ)、羅輯(ルオ・ジー)……

 マイク・エヴァンズ、フレデリック・タイラー、ビル・ハインズ、トマス・ウェイド……

 紅岸基地、地球三体協会(ETO)、面壁計画(ウォールフェイサー・プロジェクト)、階梯計画(ラダー・プロジェクト)、執剣者(ソードホルダー)、掩体計画(バンカー・プロジェクト)……

 過去の物語は、きのうのことのようにありありと存在する。英雄と聖者の姿はなおも星空に輝きつづけている。だが、物語の知識は失われ、彼らの足跡を記憶する者もいない。舞台に幕が下りて役者たちは退場し、客たちもみな帰っていった。劇場さえ、とっくに瓦礫の山と化している。

 ところが──

 あるとき、果てしない暗黒の宇宙空間の、どんな恒星からも遠く離れた辺鄙で寂しい一角に、どこからともなく一体の亡霊が現れた。

 星明かりのかすかなきらめきに照らされて、かつて〝人間〟と呼ばれた生命体の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。もちろん、それが〝人間〟の姿だとわかる者は半径百億光年内に存在しない。亡霊は、そのことをよく知っていた。

 亡霊はまた、かつて自分がいた世界や自分の同属がはるか昔に宇宙のまたべつの片隅で死に絶え、あとかたもなく消え去っていることを知っていた。その種属はかつてきらびやかで美しい銀河文明を創造し、億万もの星を征服し、無数の敵を滅ぼし、山河のごとく雄大でいさましい英雄伝説を残した。だが、それらはとうに歴史という大河の中に没し、その川は時間という大海に流れ込んで、すでに存在しなくなっている。いまは時間の海さえも枯渇しかけていた。

 だが、時間がまもなくその流れを止め、この宇宙が終わろうとしている最後の瞬間にあってなお、亡霊はすでに終わった物語を頑固に書きつづけようとしていた。

 亡霊は、暗闇の中心を浮遊しながら、前肢の一本──それを〝腕〟と呼ぼう──を軽く伸ばした。その腕の先には、五本に分かれた手指がついている。そのてのひらに、ごく小さな、銀白色の光の点が浮かんでいた。

 亡霊は、あまたの星の輝きを映した両眼で、その銀白色の光の点を、追憶にふけるようにじっと凝視していた。光の点は、一匹の螢さながら、すいすいと動いている。いつ消えてもおかしくないほどかすかな光だが、同時にそれは、宇宙が誕生する前の特異点のごとく、あらゆる可能性を内包していた。じっさい、光の点はごく小さなワームホールで、べつの銀河の中心にある巨大ブラックホールとつながっていて、銀河まるまるひとつ分のエネルギーを放出することができた。

 しばらくして──時間の経過を計ろうとする者などそこにはだれもいなかったので、どのくらいの時間だったのかは知る由もない──亡霊はついに指令を発した。光の点はただちに溶けて銀白の線と化し、無限の時間線のように、彼方へと長く延びていった。次の瞬間、その銀白の線はたちまち広がって、銀白の二次元平面へと変化した。その面がうねり、厚みを持ち、三つめの次元が現れた。しかしその厚さは、長さや幅とくらべればゼロにひとしい。亡霊は、宇宙空間に一枚の広大な白い画用紙を広げ、いまはその上を漂っているのだった。

 亡霊は両腕を広げて、画用紙の上を滑るように移動していく。そのうしろに風が吹き、大気が実体化した。亡霊の足の下の画用紙には、風に反応したかのようにしわが寄り、波が立った。それらはすぐにかたまって、山や丘や谷や平原になった。

 それから、火と水が出現した。純粋なエネルギーから生み出された水素と酸素が巨大な爆発音とともに化合してあちこちでまばゆい炎となり、それらがひとつに合わさって火の海と化した。水素の燃焼で新たに生じた水分子が集まって水滴となり、それらが集まって雲や霧となり、やがてバケツをひっくり返したような大雨が、誕生したばかりの大地に降り注いだ。すでにそこには重力が発生していたのである。果てしなく降りつづく雨が平原を水浸しにして、広大な大海原に変えた。

 海が形成されると、亡霊は大きな鳥のように海面をかすめて移動し、なにもない浜辺に落ちついた。亡霊はまっすぐに両手を伸ばした。片手を大海に、もう片方の手を陸地に向けると、その両方を同時に高く上げた。亡霊の体内に保存されていた莫大なデータが息を吹き返し、周囲からエネルギーを吸収して実体を持った。さまざまな生命が、竜巻に吹き散らされたかのように、大海や陸地のあちこちに出現した。魚の群れやクジラたちが、自分たちの創造者に敬礼するかのように海面から飛び跳ねた。

 草木が大地から顔を出し、そのあいだを獣が走り、虫がうごめく。空には大小の鳥が飛び交う。生命の活発な音や動きが、新たに生まれたこの世界にあふれた。種々の生命が出現するにつれて、森林、草原、湖沼、砂漠その他がひとつひとつ形成されていった。

 それらすべてが完成したのち、亡霊はなにかが欠けていると思った。漆黒の空を眺めながらしばらく考え込むうち、ついにそれがなんなのかに気づいた。そして、空の一角に指先で円をひとつ描き、指をはじいた。手の中からもうひとつの光の点がその円に向かって飛んでいくと、燃えるように輝く黄金色の光球がそこに浮かんだ。懐かしい太陽が、すくなくとも見た目だけは復活した。陽光が大気圏で屈折し、空と大地のすべてがたちどころに明るく照らされた。紺碧の空は鏡のように澄みきって明るく、同じく紺碧の海は、波が光を反射してきらきらと輝いた。

 新たに生まれたこの輝きに体を照らされ、亡霊はちょっとうっとりしたように顔を上げ、ひさしぶりの陽光を心ゆくまで浴びた。

 昔日の、あの黄金時代と同じように──。

 亡霊の裸の筋肉と皮膚と髪に陽光が降り注ぎ、典型的な人類の体をあますところなく照らし出した。このとき、それはもう暗闇の亡霊ではなく、ひとりの〝彼〟となっていた。〝地球〟と呼ばれる、古えの世界の男性に。

 しかも、この新たに生まれた世界も、古えの地球と同じく、馴染み深い感覚に満ちていた……

 だがそれは、影に過ぎなかった。古えの地球と人類文明が滅亡したはるかのち、この宇宙の果ての銀河で創造された、ひとつの影。

 この人工の世界は、かつて存在したあの大宇宙はもちろん、本物の地球とくらべてさえ、ごく小さくてとるに足りない偽りのものだと、亡霊はわかっていた。それでもなお、すでに完結してしまった宇宙的な叙事詩がもうすこし長くつづくように、彼はこのちっぽけな世界を創造した。自分がつけ加えた物語がほんとうの〝続き〟ではないとしても、宇宙がどうしようもなく終末へと向かっているいま、この偽物の空間にしばし浸って、模造品の太陽の消えかけた残り火を浴びることはささやかな喜びかもしれない。

「宇宙の落日……」亡霊はつぶやいた。

 

 青色惑星(プラネット・ブルー)紀元2年
わたしたちの星

 
 ぼんやりとくすぶる灰色の曇天から、やはりぼんやりした糸雨が降りつづく。うっすらと煙雨に包まれた昼下がり。湖畔を吹き過ぎるそよ風に揺られ、小さな草たちは甘い雨水を吸おうとけんめいにその身を反らしている。湖面に浮かぶ、草の葉で編まれた小舟は、糸雨が水面に無数の波紋を重ねるなか、遠くへ遠くへと漂っていく。

 こんなふうに、世界の果てまで漂っていけたら──。

 雲天明(ユン・ティエンミン)は、ただなんとなく岸辺に腰を下ろし、ひとつまたひとつと湖に小石を投じて、大小さまざまな波紋を水面(みなも)につくりだしていた。彼の横には、目を惹く艶やかな女性が座っている。絵から抜け出てきたかと見まがうような美貌の持ち主だった。雲天明を静かに見つめる大きく美しい瞳。そよ風に吹かれてなびく長い髪。その毛先がときおり天明の顔を撫で、彼の五感をくすぐった。

 一瞬、雲天明はタイムスリップしたような感覚に襲われた。大学一年のとき、程心(チェン・シン)たちと出かけたハイキングの多幸感に満ちたひとときに、時間が巻き戻されたような気がしたのだ。しかし、目の前に広がる淡い黄色の湖面と青々とした草むら、カラフルな岩肌が、あのときとはべつの時代、べつの世界にいることをはっきり告げていた。おまえは、あれから七世紀近くもあとの、三百光年も離れたべつの惑星にいる。

 そして、おまえのとなりにいるのは、程心とはべつの女性なのだ、と──。

 斜風細雨不須帰(しゃふうさいう かえるをもちいず)。

 どういうわけか、この古い詩の一節がふと頭に浮かんだ(「斜めに吹く風と細かい雨くらいなら、帰るに及ばない」の意。中唐の詩人、張志和の詞「漁歌子」の一節。多少の不便があろうと、過去の生活にはもう戻らないという含意がある)。子どものころ、古典教育を信奉する両親から無理やり暗唱させられた漢詩のひとつだ。そして、雲天明はまさにいま、ほんとうの意味で「帰るを須(もちい)ず」の状態にある。なにもかも、もうもとには戻らない。いまは異星の冷たい雨風に身をさらしているほかない。

 この現実は、それほど突拍子もないものでもないだろう。まさか、女神の現身(うつしみ)たる程心といっしょに湖畔で小舟を編むチャンスがふたたび巡ってくるとでも思っていたのか? 雲天明は自分にそう問いかけた。愚者の夢だ。もう七世紀も時が経ったというのに、夢の女性と再会できると思うこと自体、莫迦げている。いまこの瞬間、かたわらに、自分と同じ種属の、体毛がほとんどない二足歩行動物の雌が座っていることだけでも、とてもありえないような幸運なのだ。

 しかし実際には、それを上回る幸運が、一度は手の届くところまで来ていた。ところが、ほんの数時間の、もしくはほんの数分間の差で、その幸運は消え失せてしまった。七百年ものあいだ離れ離れになっていた女性と、もうちょっとで再会できるはずだったのに。七世紀のあいだずっと夢に描いてきた女性とこれから永遠に生活をともにし、小さな湖の岸辺から死ぬまで離れないはずだったのに。もしそうなっていれば、いまとなりにいるこの女性はたんに自分の妻のいちばんの親友というだけの存在で、だれかべつの男の妻になっていたかもしれなかった。

(宝樹『三体X 観想之宙』へつづく)

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