ゾーイ

やがて哀しきワンマン・カルト 若林恵(元『WIRED』日本版編集長)

[上の写真:著者ゾーイ・フラード=ブラナー]

ファンとはいかなる存在か
~やがて哀しきワンマン・カルト~

若林恵(元『WIRED』日本版編集長)

小学生のとき、中森明菜のことが好きだった。とても「ファン」だったと思う。缶ペンケースにデカデカとステッカーを貼っていたし、下敷きももっていたし、テレビで明菜が出るというと食い入るように見ていたし、アップルミュージックで改めて調べてみると、七枚目くらいまでのアルバムはほとんど聴いていたことも判明する(小学校のころから「アルバム重視」のスタイルだったのだ)。おそらく誰も知らない「条件反射」や「銀河伝説」なんて曲を(ファーストアルバム『プロローグ〈序幕〉』収録)、いまでもソラで歌えて、いまさらながらに驚いた。

明菜の何が好きだったかをここで問うことにあまり意味はないだろう。むしろ、そこにどういう心理が働いていたのかを知ることが重要だ。筆箱にステッカーを貼ったり、アルバムを繰り返し聴き続けることで、自分は、一体なにをしたかったのだろう?

言うまでもなく、自分は明菜に「なりたかった」わけではないし、付き合いたいとか、もっと端的に「したい」とか思っていたわけでもない。まあ、多少はそういうことを想像することもあったとは思うが、ファンである、というのは、必ずしもそうした「合目的性」によってドライブされているというわけではない。思い出すに、寝ても覚めても「明菜」のことでアタマがいっぱい、という状況は、どうしてなかなかに苦しいものだ。切ないと言ってもいいかもしれない。そもそも、自分が、どうしたいかがよくわかっていない。ただ、寝ても覚めても「明菜」がアタマのなかにいて、「明菜サイコー!」と心のなかで叫びたい気持ちがあるだけなのだ。

その後、ぐっと最近になって、少女時代というものに、一時期アタマのなかを占拠されたことがあるが、さすがにそこでは、こちらもいい大人なので、さまざまな角度からこの気持ちは一体なんなんだと分析したりもするのだが、結局のところ「ここがいい」「ここがたまらない」と解析してみたところで、自分がなぜファンであるか、ファンであることが何を意味しているのか、その核心には決してたどり着かない。むしろ分析すればするだけ、遠ざかるような気さえする。ファン心理とは、おそらくまったくロジカルなものではない。

であるがゆえに、自分ですらどうしたらいいかわからない、その身をきるような切なさをなんとか解消しようと、ファンという生き物はさまざまなことをしてみたりする。対象の名前を書いてみたりする。絵を描いてみたりする。その名前が描かれたTシャツを着てみたりする。同じ格好をしてみたりする。その対象がいた場所に行ってみたりする。いずれも、なんの意味もない行動だ。それをすることで、物理的に対象と近くなるわけではないし、それで何がもたらされるわけでもない。

たとえば、どうしても好きすぎるアルバムがあったとき、自分の場合、そのアーティストやバンドの一員になりたいとも思わず、収録されている曲を弾けるようになりたいとも思わず、むしろ「そのアルバムになってしまいたい」と思ってしまったりする。それは、好きすぎる対象と一体化してしまいたいという衝動に違いないのだが、それが中森明菜のアルバムだろうと、少女時代のアルバムだろうと、パーラメント/ファンカデリックのアルバムだろうと、明菜や少女時代やファンカデリックという物理的存在と一体化したい、ということを意味してはいない。それはむしろ「明菜」や「少女時代」や「ファンカデリック」という概念と一体化したい、という衝動に近いものだろうと思う。そして、概念との一体化というのは、中森明菜風に言うなら、はなから「できない相談」なのだ。不可能なのだ。だからこそ、ファンであることはとっても切ない。

絵を描いたり、旅に出たり、同士たちで集ったりするような、ファンならではの非合理な行動は、そう考えると、言うなれば「次善策」でしかない。やむにやまれず、もしくは、そうするほかに思いの発露のしようがないというところから、そうした行動は生まれる。だから、人が、コスプレに興じることをもって、単純に、その人がある対象と「自己同一化」しようと思っていると思ってはいけない。そこには、もう一段抽象的なステップがある。

それにしても、ファン文化というのは、なんと宗教(が作り出した文化)に似ていることだろう。宗教にまつわる文化は、神だとか、キリストだとか、マリアさまだとか、仏さまだとか、生きているうちには決して一体化することのできない「概念」を、絵画や彫刻や建築として現出させることで発展してきた。神について激しく考え、それを激しく愛したとして、それは決して報われない。その報われぬ思いの発露として、人は神の名を書いたり、その似姿(にすがた)を彫刻したり、同士らと語り合ったり、自らその姿を演じてみたりする。本書でも「巡礼」「布教」といった宗教用語がメタファーとして頻出するが、おそらく人間は、超越的な何かを、リアルな行為を通して具体物として現出させることで、それ自体を癒しの対象として自分のものとすることを願ったと思える。概念を愛するには物理的な依り代を必要とする、という人間の不自由さが、おそらくここでは問題になる。

ファン心理は、こうして、人間という生き物がもつ根源的なフェティシズムに触れることになる。ファンの第一歩は、まずは対象の「名前」を自分に近いところに刻むことにあるが、名前やロゴはそこでは、単なる文字情報ではなく、触れることのできるモノとして扱われる。それは情報ではなく、フェティシズムの対象であり、そうであるがゆえに、刺青として肌に刻むことにも意味が生まれる。ロゴやブランド名(アーティスト名)は、それ自体が、宗教用語でいうところの「イコン」となる。

近現代の経済理論は、長らく経済主体である「消費者」というものを「自身の効用を最大化すべく合理的な行動をするもの」と考え、「企業」というものも「自身の利潤を最大化すべく合理的な行動をするもの」と考え、それぞれの行動がクロスするところに「モノの価格」が決定するとしてきたが、その仮説からみたとき、「ファン」という存在は、いかにも非合理で、謎めいたものとして立ち現れてくる。そうした「合理性」のもとでは、決してファンアートを描く人のモチヴェーションは説明できないし、ウォーレン・バフェットとの会食につけられたバカみたいに高額なチケットの価格も説明できないだろう。

ファンのモチヴェーションは、費用対効果で決して測ることができない。むしろ、ファンは、そこにそうした「経済合理性」を持ち込まれることをすら嫌うだろう。「タダでもやる人がいるんだから、インセンティブを与えればもっとやるだろう」という観点から行われるマーケティングは、ファン心理を決定的に見誤っている。お金をもらってファンアートを描くような人間は、ファンの風上におけない。そんなシンプルな動態さえ、経済学やマーケティング理論はきちんと扱えてこなかった。それではもはやこれからの商売は立ち行かない、ということが、本書のような本が必要となっている理由なのだろう。もちろん、これまでも「ファンダム」も、それをターゲットにした「ファンビジネス」も存在はしてきた。じゃあ、一体何が、決定的に変わってしまったのかというと、それが容易に、組織化され、可視化されるようになったということに尽きるだろう。

かつて「消費者」と呼ばれた集団がどこかに集い、あるブランド(アーティスト)やプロダクトについて、それぞれの愛や憎悪を発露することは、インターネット以前には、そこまで重大なことではなかった。ファン文化は、あくまでも派生物であり、サブカルチャーだった。けれども、「あえてそれについて語ろうとする人たち」が大量発生し、しかもそのやりとりが外部から見える状況になると、「好き勝手にモノを言う人たち」の動態こそが、ブランドなりプロダクトなりのありようを決定するものとなってしまう。「消費者」は消え、世には「ファン」と「アンチ」と「どうでもいい人」の三つの類型だけが存在することになる。「消費者をファンに変えること」は、かくて世の企業の重大なミッションとなるわけだが、ここで最も重要なのは、先にみたように、「ファン」は経済学やマーケティングが想定してきた、分析可能な合理的な存在ではまったくないということだ。

どだい、ファンは、自分がなぜその対象にそこまで夢中になるのかを正確には把握していないものだ。であるがゆえに、「ファン」を夢中にさせるプロダクトというものをモデル化するのは難しい。せいぜい、モデル化することも、言語化することも困難な「非合理性」が、そのプロダクトなりサーヴィスにはどうしたって必要となる、ということが言えるくらいかもしれない。ファンができてから後付けで「なぜ人がそれに熱狂したのか」を分析することは容易(たやす)い。けれども、それは実際ファンの心のなかで起きていることとは何の相似も描かないし、近似値にも迫らない。再現性が担保されるためには、それが合理的であることが条件として必要だが、ファン心理は、前提としてそうではない。企業が「ファン」というものを扱うことの困難は、ここにある。それは計画もできなければ予測もできないのだ。2012年にマクドナルドが行った、「#あなたのマクドナルドストーリーをつぶやいて」と題したツイッターキャンペーンが、本書では取り上げられている。マクドナルドにまつわる幸福な思い出を、隠れたファンに「カミングアウト」してもらおうという趣旨だったが、キャンペーンはわずか2時間で終了する。

「幸福な思い出より不幸な思い出をつぶやきたい人の方が多かった。ツイートは、警告めいたもの(「昔マクドナルドで働いてた。オレの話を聞いたら、髪の毛が逆立つよ」) から、直接的な批判(「マクドナルドに入ったら、二型糖尿病の臭いが空気に充満してて、 思わず吐いてしまった」)までさまざまだった……〔中略〕……下心を押し付けようとする組織は結局、人々を思い通りに動かすことはできないと気づくはめになる」(241頁)

また、ファンは、本質的に、個別に孤独な存在だ、ということも見誤ってはいけないところなのだろう。それが組織化されたからといって、すべてのファンが同じものをみて同じことに反応しているわけではない。ファンであるということは、対象について考えることと同じくらいの比重で、自分のことを考えることでもある。取り憑かれたようになにかを好きになるということの秘密は、それが対象の属性に一元的に宿るわけでもなく、好きになる側の個人的な思い込みにだけ起因するものでもないところにある。神秘的とも思えるやり方でそのふたつが双方から出会ってスパークすることからそれは発生する。であるがゆえに、ファンは、仮に組織化されたとしても、その本質的な意味においては個別的=孤独であって、であるからこそ、外部から、その組織をコントロールすることは困難なのだ。もっと言ってしまえば、そうした根源的な「孤独」があればこそ、人はきっと熱烈に何かの「ファン」になるのだ。

自分の話に戻ると、どんな形であれ、組織化されたファン集団に属したことはないし、属そうと思ったこともない。もちろん、明菜であれ、少女時代であれ、プリンスであれ、ファンカデリックであれ、自分が熱烈にファンである/あった対象について、似たような興味をもつ人には、それなりに共感を抱くことはある。けれども、そこから生まれる繋がりを過大評価することについては慎重であるべきだろうと思う。自分が好きな中森明菜を、誰か他の人と共有できるということを、自分はあまり信じる気にはなれない。だから、話題がそこに向かったとき、その会話はできるだけ表層的に済ますことが望ましいと感じる。

スティーブン・ブラウンは「ファン」を安易にマーケティングの対象とすることについて、本書のなかでこう厳しく戒めている。「ファンは普通の人たちじゃない。すごく饒舌なのは確かだし、商品を心から愛してくれてもいる。それに積極的に商品を勧めてくれる。でも偏った人たちの集まりだ。みんなを代表しているわけじゃない。というか、まったく代表していない……〔中略〕……熱心なファンが集まるのはありがたいことじゃないのかって? すごく雄弁なファンと一緒に何かを作っていくのは素晴らしいことだって、マーケティングの教科書にも書いてあるから? ファンはブランドにとって要(かなめ)となる存在? 答えは、ひとことで言うと、ノーだ」(267頁)

「ファン」というのは、結局のところ、決して満たされることのない心を抱える「たったひとりのカルト=One Man Cult」なのだ。「ファン」は、その人生をかけて何かにコミットしようとするが、一方でその対象は、「ファン」の人生に対して責任を負うことは決してできない。そこには決定的な分断と非対称性がある。

「企業にとって必要なものと、ファンが望むものの間には常に相反がある」(255頁)、「ファンとオブジェクトの関係はいつも一方通行だ。ファンは愛する対象に強い感情を感じるが、対象はファンに対して同じ感情を抱くことはない」(213頁)――こうした前提に立ったうえでファンとの関係の築き方を探る本書の態度は、きわめてまっとうだと思う。ファンの愛は、報われないし、誰かが報うことも決してできない。ファンは哀しい。その哀しみは、実に人間的なもので、であるがゆえに、危険なのだ。

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