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仏教が進化論的に「正しい」理由とは? 『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』第1章全文公開【8/5発売】

なぜ今、仏教なのか

1 赤い薬を飲む


人間のありようをドラマチックに表現しすぎるのを覚悟のうえで尋ねよう。映画『マトリックス』を見たことはあるだろうか。

主人公のネオ(キアヌ・リーブス)は、自分の住む世界が夢の世界であることに気づく。ネオが日々暮らしていると思っていた生活は実際には精巧な幻覚にすぎず、現実のネオの肉体は、ぬめぬめした液体に包まれて棺大のポッドにとらわれていた。ネオのポッドは、何列も何列もずらりと並ぶたくさんのポッドのうちの一つで、どのポッドにも夢にふける人間がひとりずつはいっている。人間は機械軍団によってポッドに入れられ、いわばおしゃぶりとして夢の人生をあたえられていた。

ネオが迫られた選択──妄想を生きつづけるか、現実に目覚めるか──は、有名な「赤い薬」のシーンで描かれている。ネオは、自分の夢にはいりこんできた反逆者たち(正確にいうと、夢にはいりこんできたその分身〔アバター〕)から接触を受ける。反逆者のリーダーであるモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)は、ネオにこう状況を説明する。「きみは奴隷だ、ネオ。ほかの者たちと同じように、きみは生まれたときからとらわれの身だ。味わうことも見ることも触れることもできない牢獄にいる。心をしばる牢獄だ」。その牢獄はマトリックスと呼ばれるが、マトリックスの正体を説明するすべはない。全貌をつかむ唯一の方法をモーフィアスは伝える。「自分の目で見る以外にない」。モーフィアスはネオに二つの薬をさしだす。赤い薬と青い薬だ。青い薬を飲んで夢の世界にもどることもできるし、赤い薬を飲んで妄想の覆いを突きやぶることもできる。ネオは赤い薬を選んだ。

なんとも過酷な選択だ。妄想ととらわれの人生か、洞察と自由の人生か。あまりに芝居がかった選択で、いかにもハリウッド的だと思うかもしれない。私たちが実際にしなければならない人生の選択はここまで重大なものではなく、もっと平凡なものばかりだ。ところが、映画が公開されたとき、実際に自分がしてきた選択が忠実に描かれていると感じる人たちがいた。

それは、いわゆる西洋仏教の信者──アメリカなどの西洋諸国で生まれ、大半は仏教徒として育ったわけではなく、どこかの時点で仏教を信じるようになった人たちだ。少なくとも、輪廻や諸仏への信仰といった、アジア仏教に典型的に見られるいくつかの超自然的な要素がはぎとられた形の仏教を信じている。西洋仏教は、アジアでは一般の信者より僧侶のあいだで広くおこなわれる修行に重点をおく。瞑想と、仏教哲学への没入だ(西洋でもっとも流布している仏教に対するイメージ──仏教は無神論であり、瞑想を中心にまわっているというイメージ──はまちがっている。大多数のアジア仏教の信者は、全能の創造主としての神とはちがうが、神々を信仰しているし、瞑想もしない)。

西洋仏教の信者は、『マトリックス』を見るずっと以前から、自分がかつて見ていた世界は一種の錯覚だと確信していた。それは幻覚とはいわないまでも現実を激しくゆがめた虚像であり、自分の生き方をゆがませ、自分や周囲の人々によくない結果を招いていた。それが今は、瞑想と仏教哲学のおかげでものごとがもっと明晰に見えるようになったというわけだ。信者たちのあいだでは、『マトリックス』は自分が経験した変化とよく符合する寓話ととらえられ、そのため「ダルマ映画」として知られるようになった。「ダルマ(法)」ということばには複数の意味がある。ブッダの教えも意味するし、その教えに従って仏教徒が歩むべき道という意味にもなる。『マトリックス』をきっかけに、「ダルマに帰依する」ことを意味する新しい表現、「赤い薬を飲んだ」が通用するようになった。

私が『マトリックス』を見たのは、一九九九年に公開された直後だ。数カ月後、自分がこの映画とちょっとしたかかわりがあることを知った。監督であるウォシャウスキー姉妹は、ネオを演じるにあたって参考になる三冊の本をキアヌ・リーブスに事前にわたしたという。そのうちの一冊が、その数年前に私が書いた進化心理学の本、『モラル・アニマル』(講談社)だったのだ。

監督が私の本と『マトリックス』にどんなつながりを見いだしたのかはわからない。ただ自分が見いだしたつながりなら話せる。私は自著で進化心理学をつぎのように説明した。進化心理学は、自然選択がどのように人間の脳を設計し、どのように私たちを誤った方向へ導き、私たちを奴隷にさえするのかを研究する学問である。いやいや、誤解しないでもらいたい。自然選択にもいいところはあるし、個人的にはまったく生みだされないよりは、自然選択によって生みだされたほうがまだいい。ちなみに、私の知るかぎり、この宇宙ではこの二つのほかに選択肢はない。進化の産物だからといって、けっしてはじめから終わりまで服従と妄想のなかにいつづけるわけではない。進化した人間の脳はさまざまな形で私たちに能力をあたえ、おかげでたいていは、おおむね正確に現実をとらえることができる。

それでも、結局のところ自然選択は一つのことしか気にかけていない(ここはかぎかっこをつけて、一つのことしか「気にかけて」いない、とするべきだろう。というのも、自然選択はやみくもに進むプロセスでしかなく、意思を持つ設計者ではないからだ)。自然選択が「気にかけて」いること、それは遺伝子をつぎの世代に伝えることだ。過去に遺伝子の伝播に役立った遺伝形質は繁栄する一方、役に立たなかった遺伝形質は途中で脱落してきた。この試練を生きぬいてきた形質の一つが心的形質、つまり脳内に構築され、私たちの日々の経験を形づくっている構造やアルゴリズムだ。だから、「毎日生活するうえで私たちを導いているのはどんな知覚や思考や感覚か?」ときかれた場合、根本的な答えは、「現実を正確に見せてくれる知覚や思考や感覚」ではない。「祖先が遺伝子をつぎの世代に伝えるのに役立った知覚や思考や感覚」が正解だ。そのような知覚や思考や感覚が現実の本来の姿を見せてくれるかどうかは、厳密にいえば重要ではない。そのため、本来とはちがう姿を見せられることがある。脳はなにより、私たちに妄想を見せるように設計されている。

とはいえ、それで何かさしさわりがあるわけではない。私のもっとも幸せな瞬間を思いだしてみても、妄想からきているものがいくつかある。歯が抜けると歯の妖精がきてくれると信じていたのもその一つだ。しかし、妄想が不快な瞬間をつくりだす場合もある。振り返ってみたとき明らかに妄想だとわかるもの、たとえば恐ろしい悪夢などもそうだが、それだけをいっているのではない。妄想だとは気づきにくいものもある。夜、不安のせいで寝つけないときがそうだ。くる日もくる日も失意や憂鬱にさいなまれるようなとき。人への憎しみが一気に爆発して、一瞬は気分がすっきりするものの、ゆっくりと自分の人格がむしばまれていくようなとき。自己嫌悪に襲われるとき。欲望がおさえきれず、買いものをしたい衝動や、健康を損ねてしまうほどむやみに食べたり飲んだりしたい衝動にかられるとき。

こうした感覚──不安、絶望、憎悪、欲望は、悪夢が妄想であるのとは形こそちがうものの、じっくり観察すると妄想と同じ性質を持っているのがわかる。そんな妄想はないにこしたことはない。

たしかにそのほうが幸せだと思った人は、世界全体にとってはどうかと想像を広げてみてもらいたい。不安や憎悪や欲望といった感覚は戦争や残虐行為を助長しかねない。だから、もし私のことばが正しいなら──もし人間の苦しみや人間の残虐さの根本的な原因の大部分が、本当に妄想の産物なのだとしたら、この妄想を白日のもとにさらす価値はある。

理にかなった話ではないだろうか。しかし、進化心理学の本を書いてからまもなく思い知らされた問題がある。妄想を白日のもとにさらす価値があるかどうかは、どのような見地に立つかによって左右されるということだ。苦しみのおおもとを理解するだけではたいして助けにならない場合もある。


日々の妄想

ここで、単純ながらも本質的な例を見てみよう。ジャンクフードをちょっと食べる。しばらくはこれで満足する。それからわずか数分後、禁断症状のようなものに襲われ、もっとジャンクフードが食べたくてたまらなくなる。この例は二つの理由でちょうどいい導入になる。

まず、この例は妄想がいかにささいなものでありうるかを如実にあらわしている。妄想のせいで粉砂糖をまぶしたミニドーナツ六個入りパックを食べきってしまうことなど、自分が救世主だとか、外国のスパイに命を狙われているとか思いこんでしまう妄想とくらべれば、とるにたりない問題だ。これから本書でとりあげるたくさんの妄想にも同じことがいえる。妄想といっても病的な意味合いを含む妄想ではなく、ものごとがまったくの見かけどおりではないという、錯覚に近いものだ。とはいえ、この本の終わりまでには、こうした錯覚がすべて重なると大規模に現実をゆがませ、本物の妄想に負けないほど深刻な影響をおよぼすことを示すつもりだ。

ジャンクフードの例がいい導入になる二つめの理由は、仏教の教えの根本にかかわるからだ。もちろん、厳密にいえばそんなことはありえない。ブッダが教えを説いた二五〇〇年前には私たちの知るジャンクフードは存在しなかった。何が仏教の教えの根本にかかわるかというと、感覚的な快楽、それも気づけばいつのまにか消えているようなはかない快楽に強力に引き寄せられてしまう私たちの習性だ。ブッダが残したことばのなかにも、人が追い求める快楽はすばやく消えてなくなり、もっと欲しいという渇望だけが残る、というものがある。私たちは、ふたたび欲を満たしてくれるもの──つぎの粉砂糖がけドーナツ、つぎの性的経験、つぎのキャリアアップにつながる昇進、つぎのオンラインショッピングを求めることに時間をついやす。しかし高揚はどうしても薄れていき、あとにはかならずもっと欲しいという気持ちが残る。ローリング・ストーンズのなつかしい曲「アイ・キャント・ゲット・ノー・サティスファクション(どうしても満足できない)」は、仏教の見地からいえば、いかにも人間らしい。ブッダは人生のすべては苦しみであると説いたことで知られるが、これではブッダのことばを完全に表現できていない。「苦」と翻訳される「ドゥッカ」という語は場面によって「不満足」とも訳せるからだ。

それでは、ドーナツやセックスや昇進や消費財を追い求めるとき、厳密にはどの部分が錯覚なのだろう。それぞれの追求には異なる錯覚が結びついているが、ここでは四つに共通する一つの錯覚に注目しよう。それは、求めているものがあたえてくれるだろう幸せを高く見積もりすぎてしまうという錯覚だ。この場合も、単独ではささいな妄想でしかない。つぎの昇進が決まったり、つぎの試験でAをとったり、つぎの粉砂糖がけドーナツを食べたりすれば、永遠の至福が得られると思うか? そう尋ねられたら、いや、それはありえない、と答えるはずだ。それでいて、私たちはこうしたものを追求するとき、未来について控えめにいってもかたよった見方をしている場合が少なくない。昇進がもたらす役得を思い描くことに時間をかけ、昇進がもたらす頭痛の種を思い描くことはあまりしない。それに、長いあいだ求めつづけてきた目標を達成して頂上にたどりつきさえすればゆっくり休めるだろうとか、少なくともこれまでよりいい状態がずっとつづくだろうと、なんとなく思っている。同じように、ドーナツが目の前にあればすぐにどんなにおいしいだろうと想像するが、食べた直後にどうしてももう一つ欲しくなるだろうことや、しばらくして糖分による高揚がおさまると軽い疲れやいらだちを覚えるだろうことは想像しない。

なぜ快楽はしだいに薄れるのか
 
人間の予測にこのようなひずみが組みこまれている理由を説明するのに、ロケット科学者を持ちだす必要はない。進化生物学者か、それをいうならどんな人でも、ちょっと時間をさいて進化の働きに考えをめぐらせばことたりる。

基本の論理はこうだ。私たちは自然選択によって、祖先が遺伝子をつぎの世代に伝えるのに役立ったこと──食べる、セックスする、ほかの人の尊敬を得る、競争相手をだしぬくなど──をするように「設計」されている。「設計」とかぎかっこをつけたのは、この場合も、自然選択は知性と意思のある設計者ではなく、意思を持たないプロセスだからだ。にもかかわらず、たしかに自然選択が生みだす生物は、まるで意思のある設計者によって、遺伝子を伝えるのがうまくなるようにあれこれいじりまわされた創作物のように見える。そこで一種の思考実験として、自然選択を「設計者」と考え、自分がその立場になってこう自問してみるのも一つの手だろう。もし遺伝子を拡散するのがうまい生物をつくりたいなら、どう設計すればそれにふさわしい目標を生物が追求するようになるだろう? いいかえると、食べること、セックスすること、仲間を感心させること、競争相手を負かすことが祖先にとって遺伝子を拡散するのに役立ったとすれば、こうした目標を追求させるためにどのように脳を設計するだろう? 理にかなった設計の基本方針が少なくとも三つありそうだ。

1.こうした目標を達成することで、快楽が得られなければならない。なぜなら、人間をはじめ動物は、快楽をもたらすものごとを追求する傾向があるからだ。

2.快楽は永遠につづいてはならない。快楽がおさまらなければ、ふたたび快楽を求めることはない。はじめての食事が最後の食事ということになる。二度と飢えがもどってこないからだ。セックスも同じで、一度の交わりのあと一生そこに横たわって余韻にひたっているのは、つぎの世代に大量の遺伝子を伝えるための正しい方法とはいえない。

3.動物の脳は、1の「快楽は目標の達成に付随して起こる」ことに集中するべきで、2の「快楽はそのあとすぐ消失する」ことにあまり集中してはならない。1に集中すれば、食べものやセックスや社会的地位などをまじりけなしの純粋な熱意で追求するだろうが、2に集中すると、矛盾した感情が生まれるおそれがある。たとえば、快楽を手にしたとたんそれがすぐに消えてしまい、もっと欲しいという渇望が残るのなら、そこまで必死になって快楽を追求してなんになるだろう、と考えはじめるかもしれない。そのうち、ものうい気分が高じて哲学を専攻すればよかったと思いかねない。


以上三つの設計方針を組みあわせると、ブッダが解き明かした人間の苦しみをかなり納得のいく形で説明できる。たしかに、ブッダの言うとおり快楽は一瞬で消えうせる。そして、たしかに、ふたたび不満が残る。快楽がすみやかに消えるように設計されている理由は、つづいて起こる不満によって私たちにさらなる快楽を追求させるためだ。しょせん、自然選択は私たちが幸せになることを「望んで」はいない。ただ私たちが多産であることを「望んで」いるだけだ。そして、私たちを多産にする方法は、快楽への期待を狂おしいものにしつつ、快楽そのものは長くつづかないようにすることだ。

科学者は、この論理が生化学のレベルで発現するのをドーパミンの観察によって確認している。ドーパミンは、快楽や快楽への期待と関連のある神経伝達物質だ。サルを使ったある独創的な研究では、甘い果汁の滴をサルの舌に落としながら、ドーパミンを産生する神経細胞を観察した 。予想されたとおり、ドーパミンは果汁が舌に触れた直後に分泌された。その後、サルは明かりがつくと果汁の滴を期待するように訓練された。実験が進むにつれ、明かりがついたとき分泌されるドーパミンの量はどんどん増え、果汁が舌に触れたとき分泌される量はどんどん減っていった。

サルたちがどんな気持ちだったかを知るすべはないが、時がたつにつれ、甘みがもたらすだろう快楽への期待はどんどん膨らんでいき、実際に甘みがもたらす快楽はどんどんしぼんでいったと考えられる 。この解釈を人間の日々の生活にあてはめてみよう。

私たちが新しい種類の快楽に出くわしたら──たとえば、これまでの人生をなぜか粉砂糖がけドーナツなしですごしてきたとして、ためしに食べてみてと一つ手わたされたら──ドーナツの味が全身にしみわたったあと、ドーパミンが盛大に放出されるだろう。しかし、その後、常習的な粉砂糖がけドーナツ食らいになってしまうと、ドーパミン放出の最大のピークは、実際にドーナツにかぶりつく前にものほしそうにドーナツを見つめているあいだに訪れるようになる。ぱくりとかぶりついたあとに放出されるドーパミンの量は、はじめて粉砂糖がけドーナツにかぶりついた至福のときに放出された量よりはるかに少ない。かぶりつく前に放出されるドーパミンは、それを上まわる幸福が待っていると約束するものであり、かぶりついたあとのドーパミンの急降下は、ある意味で約束違反だ。少なくとも、過大な約束だったことを生化学的に認めているようなものだ。あなたもその約束をうのみにした──食べることそれ自体から得られる快楽より大きい快楽を期待した──という点で、妄想にかられたとはいわないまでも、少なくとも誤認させられたといえる。

残酷だといえなくもないが、自然選択に何を期待できるだろう。自然選択の仕事は遺伝子を拡散する機械をつくることだ。それが機械にある程度の錯覚を組みこむことを意味するなら、錯覚が組みこまれることになる。

助けにならない洞察

というわけで、科学はこのような見地から、錯覚を白日のもとにさらすことができる。これを「ダーウィン説の見地」と呼ぼう。自然選択の見地から見ることによって、なぜ私たちに錯覚が組みこまれたかがわかるうえ、その錯覚に気づくべき理由も一段と増す。しかし──ここが、このちょっとした余談の要だ──錯覚から本当に解放されることが目標なら、ダーウィン説の見地にはかぎられた価値しかない。

信じられない? では、つぎの簡単な実験をためしてもらいたい。1.ドーナツなどの甘いものに対する欲望は一種の錯覚であることに思いをめぐらせる。その欲望は、欲望に屈することで実際に得られるよりも長つづきする快楽を暗に約束し、あとになって落ちこんだ気分になるかもしれないことから目をそむけさせるという事実をじっくり考える。2.じっくり考えながら、粉砂糖がけドーナツを顔から一五センチのところに掲げる。ドーナツへの欲望が嘘のように消え去っていく……だろうか? みなさんが私と同類なら、答えはノーだ。

進化心理学に没頭したあとに私が発見したのはこれだ。自分の状況について真実を知ったところで、少なくとも進化心理学が提供する形の真実では、かならずしも人生がましになるとはかぎらない。それどころか、悪化することさえある。徒労に終わる快楽追求という、人間につきものの悪循環──心理学者がときに「快楽のランニングマシン(ヘドニック・トレッドミル)」と呼ぶもの──からまだのがれられないでいるのに、今ではその不条理に気づかされる新しい理由まで見つかったのだ。いいかえると、それがランニングマシンだとわかっていて、それも、私たちを走りつづけさせるために特別に設計されたもので、たいていはどこにもたどりつけないとわかっているのに、それでも走りつづけてしまうということだ。

しかも、粉砂糖がけドーナツは氷山の一角にすぎない。いや、正直にいえば、食事に対して自制がきかないことの背景にダーウィン説の論理があると知っているからといって、べつにそれほどにがにがしい思いをするわけではない。むしろ、この論理になぐさめを見いだす人さえいるかもしれない。自然の摂理に逆らうのはやはりむずかしいものだ、と。しかし進化心理学を深く知るうちに、私は錯覚がいかにほかの種類の行動、たとえば、他人との接し方や、自分自身との接し方を方向づけているか意識するようになった。こうした行動の背景にダーウィン説があることを自覚するのは、ときに非常に不快なものだった。

チベット仏教の瞑想指導者、ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェは、「つまるところ、幸せとは煩悩に気づく不快さと、それに支配される不快さのどちらを選ぶかの問題だ」と述べている 。その意味するところは、真の幸せに気づくのをはばんでいる心の一面から自分自身を解放したければ、まずその一面に気づく必要があり、それは不快な場合もあるということだ。

なるほど。このような形の自覚なら、痛みはともなうがそれに見あうだけの価値がある。最後には深い幸せにつながる種類の自覚だ。しかし、私が進化心理学から得た自覚は両方の悪いとこどりだった。痛みをともない、深い幸せにもつながらない。私は、煩悩に気づく不快さと、それに支配される不快さを両方感じていたわけだ。

イエスは言った。「わたしは道であり、真理であり、命である」(『聖書 新共同訳』)。そう、進化心理学で私は真実を見つけたと感じた。しかし、どうやら道は見つけなかったらしい。このことは、イエスが言ったべつのことばについても考えるきっかけになった──「真理はあなたたちを自由にする」(同前)。私は人間の性質についての基本的な真実を見つけたと思ったし、自分がいかにさまざまな錯覚にとらわれているか、かつてないほど明晰に見えてもいたが、この真実はとらわれの身から抜けだす切り札にはならなかった。

ならば、私を自由の身にしてくれるほかの種類の真実がどこかよそにあるのだろうか。いや、そうではないだろう。少なくとも、科学が提示する真実にかわるものはないと思う。好むと好まざるとにかかわらず、私たちをつくりだしたのは自然選択だ。しかし、『モラル・アニマル』を書いた数年後、真実を操作できるようにする方法はないものかと考えるようになった。人間のありようについての科学的な真実をもとに、人間がおちいってしまう錯覚を特定したり説明したりするだけにとどまらず、さらにその錯覚から自分自身を解放することはできないかと考えた。そして、よく耳にしていた西洋仏教というものがその方法かもしれないと思いはじめた。もしかすると、ブッダの教えの多くは、現代の心理学と本質的に同じことをいっているのではないか。それに、瞑想はかなりの部分、科学とはべつの形で真実を正しく理解する方法ではないか。それだけでなく、もしかしたら真実について実際に策を講じる方法ではないか。

そこで、二〇〇三年八月、はじめて「沈黙の瞑想」合宿に参加するためにマサチューセッツ州の郊外へ向かった。まる一週間を瞑想だけにあて、メールや、外界のニュースや、人間との会話といった気を散らすものをとり去る合宿だ。


マインドフルネスの真実

このような合宿で何か劇的なことや深遠なことが起きるはずがないと疑うのはもっともだ。この瞑想合宿は、大ざっぱにいって「マインドフルネス瞑想」の流れをくむものだった。当時、西洋で流行のきざしを見せていた瞑想法で、それから数年のあいだに主流になった。一般にいわれているとおり、マインドフルネス瞑想の修養のねらいである「マインドフルネス」はそれほど深くもなく奇抜でもない。マインドフルに生きるとは、今、ここで起きていることに注意を向けること、つまり「マインドフル」でいることであり、さまざまな心の曇りにさえぎられることなく、今、ここで起きていることを明晰な心でじかに経験することだ。立ちどまってバラの香りをかいでごらん、というわけだ。

この最後のフレーズはマインドフルネスをとりあえずは正確にあらわしている。ただしごく一部しかとらえていない。一般に考えられている「マインドフルネス」は、マインドフルネスのほんのとっかかりにすぎない。

しかも、とっかかりとしてはいくつかの点で誤解を招きやすい。仏教の古い文献を丹念に調べても、立ちどまってバラの香りをかぐようにという勧めはなかなか見あたらない。「マインドフルネス」と訳される「サティ(念)」という語をとりあげた文献だけに絞っても見つからない。それどころか、こうした古い文献はまったく異なることを伝えているように思える場合さえある。マインドフルネスの聖典ともいうべき古い仏典『念処経』は、私たちの体が「さまざまな種類の不浄なもので満ちて」いることをあらためて認識させ、「大便、胆汁、粘液、膿、血、汗、脂肪、涙、皮脂、唾液、鼻汁、関節液、小便」などの体を構成する要素について瞑想するよう説いている。さらに、自分の体が「死後一日、二日、三日たち、膨張し、青黒くなり、腐っていく」のを想像するよう勧めている。

マインドフルネス瞑想の本のなかに、『立ちどまって大便の香りをかいでごらん』という題名のベストセラーがあるという話は聞かない。胆汁や粘液や膿についての瞑想や、自分もいつかなるだろう腐っていく死体についての瞑想を勧める瞑想指導者も知らない。古代の瞑想法として今日紹介されているものは、実際には古代の瞑想法を入念に仕立てなおしたものであり、慎重に不純物がとりのぞかれている場合もある。

これはスキャンダルでもなんでもない。現代の仏教の伝道者たちが、取捨選択し、ときに独創性さえ発揮したものを仏教として打ちだしてもなんの問題もない。すべての宗教的伝統は時と場所に適応しながら発展するものだし、今日アメリカやヨーロッパで支持を集めている仏教の教えは、そのような発展の産物だ。

私たちにとって肝心なのは、仏教が二一世紀の西洋に適応して独自の発展をとげても、現在の実践と古代の思想とのつながりは断たれなかったことだ。現代のマインドフルネス瞑想と古代のマインドフルネス瞑想は完全に同じというわけではないが、両者に共通する哲学的な基礎がある。どちらの瞑想にも通底する論理をとことんたどれば、つぎのような驚きの見解にたどりつく。私たちは、たとえていうと、マトリックスに住んでいる。マインドフルネス瞑想は、ときにどんなに平凡に思えるとしても、徹底して追求すれば、赤い薬が見せてくれるとモーフィアスが言っていたもの──「この不思議の国で、ウサギの穴がどれだけ深いか」──を見せてくれる可能性を秘めている。

はじめての瞑想合宿で、私はかなり強烈な体験をした。ウサギの穴がどれだけ深いかを見てみたくなる程度に強烈な体験だった。それで、仏教哲学についての本をさらに読み、仏教の専門家に話を聞き、やがて瞑想合宿にもっと参加するようになり、瞑想が日課になった。

このすべてを通じて、『マトリックス』が「ダルマ映画」として知られるようになったわけがしだいにはっきりしてきた。進化心理学のおかげで、人間が生まれつきかなり妄想にまどわされることはすでに痛いほどわかっていた。しかし、仏教はよりいっそう劇的に妄想の実態を描きだすことがわかった。仏教の見地からすると、妄想は、私の想像よりさりげなく、より広範囲にわたって日々の知覚や思考に影響をおよぼす。そのように考えると妙に納得がいった。この種類の妄想は、自然選択がたくみに設計した脳によって自然に生みだされたものだと説明できると感じた。研究すればするほど仏教が過激に思えたが、現代心理学の見地に立って掘りさげるにつれて、仏教の信憑性が高まっていくようだった。現実のマトリックス、私たちが実際に組みこまれているマトリックスが、だんだん映画に出てくるものに近づいているように思えた。映画で描かれているほど精神に変調を起こさせるものではないにしても、おそろしく欺瞞に満ち、とんでもなく抑圧的で、人類が一刻もはやく逃げだすべきものだと考えるようになった。

一つの救いは、マトリックスから逃げだしたければ仏教の哲学と実践が強力な助けになるということだ。あてになるのは仏教だけではない。洞察と英知で人間の苦しみにとり組む宗教的伝統はほかにもある。しかし仏教の瞑想は、その基礎になっている哲学とともに、人間の苦しみに真っ向から総合的に働きかける。仏教は何が問題なのか明快な診断をくだし、解決の妙薬をだしてくれる。妙薬がきけば、幸せがもたらされるだけでなく、明晰な目で世のなかを見られるようになる。ものごとについての真実、あるいは少なくともいつも見ているよりはるかに真実に近いものが見えるはずだ。

最近になって瞑想をはじめた人のなかには、おもにいやしを求めてはじめたという人もいる。その人たちはマインドフルネスにもとづいたストレス解消法を実践したり、ある特定の個人的な問題に重点的にとり組んだりしている。自分たちが実践している瞑想法が深い精神性の求道にもなりうるし、世界の見え方を一変させる力も秘めているとは、思いもよらないかもしれない。しかし、知らず知らず、根本的な選択が待ちうける境界線に近づいている。本人にしかできない選択だ。モーフィアスがネオに言ったとおり、「入り口までは案内した。通り抜けるのはきみ自身だ」。本書はみなさんに入り口を見せ、その向こうに何があるかを知らせ、みなさんが見慣れている世界ではなく入り口の向こうにあるもののほうが現実だといえる理由を科学的な見地から説明しようとするものだ。

(第1章 了)

■著者紹介
ロバート・ライト(Robert Wright)
進化心理学を専門とする科学ジャーナリスト。《ニューヨーク・タイムズ》紙や《タイム》誌、《ワイアード》誌などに寄稿する。テキサスクリスチャン大学で学んだ後、プリンストン大学で社会生物学を学ぶ。1986年に全米雑誌賞(エッセイ・批評部門)を受賞。著書に、《ニューヨーク・タイムズ》紙の年間ベストブックに選出された『モラル・アニマル』など。ペンシルヴェニア大学で心理学の、プリンストン大学で宗教学の教鞭をとり、現在はユニオン神学校の客員教授を務める。

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