
キャラクターの造形が本書の魅力――ジョン・ブロウンロウ『エージェント17』古山裕樹氏・解説全文公開
ハヤカワ文庫NVから『エージェント17』(ジョン・ブロウンロウ/武藤陽生訳)が大好評発売中! CWA賞スティール・ダガー賞を受賞した傑作スパイアクション小説です。ミステリ書評家の古山裕樹氏による本書の解説を、特別に全文公開いたします。

ジョン・ブロウンロウ=著/武藤陽生=訳
解説:古山裕樹
装画装幀:城井文平
世界で最も恐れられているエージェント“17”。“15”までの暗殺者は、そのだれもが次の番号のエージェントたちによって殺されてきたが、“16”だけは殺されることなく姿を消していた。“16”の跡を継いだ“17”の次の任務は、とある作家の暗殺。どうやら、その作家の正体は“16”らしい。激しい戦いの末、“17”が“16”から聞かされた世界を揺るがす巨大な陰謀とは。CWA賞スティール・ダガー賞受賞作。
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解 説
ミステリ書評家
古山裕樹
本書『エージェント17』は「スパイというのは君が考えているような仕事じゃない」という文から始まる。
この文からいくつかのことが分かる。語り手はスパイの仕事について詳しい。少なくともそう自負している。そして「君」のことをスパイについてよく知らないと考えている。ところで、「君」とは誰だろうか? この文章は、いったい誰に向けて書かれたものだろうか? 語り手の言葉は、どのような状況で記されたのか?
この人物が何者なのかは、すぐに語られる。だが、この文章がどんな目的で、どんな状況で記されたのかは曖昧なまま、物語は進んでいく。
語り手は通称17。ハンドラーという男の仲介で、諜報機関からの依頼を受けて暗殺などの汚れ仕事を手がけている。そんなエージェントの中ではトップクラスの腕前の持ち主だ。彼の前にこの業界でトップに君臨していた者は16と呼ばれていたが、あるとき突然姿を消して引退した。それ以前の者たち──1から15は全員故人だ。16を別にすると、自然死した者はいないという。
ベルリンでの暗殺を終えた彼は、街を出る間もなく新たな仕事を命じられる。ある荷物の受け渡しだ。どうにか目的のメモリーカードを入手したものの、任務の途中で遭遇した不可解な状況に17は疑念を抱く。そして、彼自身も命を狙われる。
パリで17と会ったハンドラーは、新しい仕事を提示する。暗殺の標的はなんと引退した先代の16ことコンドラツキー。この業界でのレジェンドともいうべき存在を殺す──そんな任務に躊躇する17だった。だが、ハンドラーに説得されてアメリカへと向かう。コンドラツキーは、自身の経験をアレンジしたスパイ小説を書いていた。彼の居場所を探るため、17はニューヨークの出版社を訪ねる……。
本書は二〇二三年のCWA賞スティール・ダガー賞を受賞した。その年の優れた冒険小説・スパイ小説・サイコスリラーに与えられる賞だ。最終候補に選ばれた時のインタビューで、作者ジョン・ブロウンロウは、自身にとって重要な作品を三つ挙げている。
筆頭はジョージ・マークスタインの『クーラー』(角川書店)。第二次世界大戦を背景としたスパイ小説である。英国情報部がいわくつきのスパイたちを収容した施設を舞台に繰り広げられる、ノルマンディー上陸作戦に関わる謀略の物語だ。
スパイたちを収容する施設という設定から、往年の英国のドラマ『プリズナー№6』を連想する方もいらっしゃるかもしれない。実は作者のマークスタインはこのドラマの企画立案にも参加していた(また、主人公№6の上司としてオープニングにも姿を見せている)。
もう一つは、ジェフリー・ハウスホールドの『追われる男』(創元推理文庫)。一九三九年に刊行された冒険小説の古典だ。ヒトラー暗殺に失敗した英国人がどうにか英国まで逃げ帰るものの、ドイツからの追っ手が迫っていた……という物語(作中では暗殺の標的がヒトラーだとは記されていないが、続篇『祖国なき男』で明示されている)。追う者と追われる者が戦うシンプルな状況を、スリリングに描いた小説だ。ブロウンロウによると、『エージェント17』の中心にある17とコンドラツキーの対決は、『追われる男』へのオマージュだという。
最後の一つは、レイモンド・チャンドラーの『高い窓』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とする長篇の第三作である。ブロウンロウは、フィリップ・マーロウについて「ハードボイルドを装っているが実は違う」と評し、チャンドラーの作品について「筋書きに惹かれて読み始めたが、登場人物のために読み続ける」と語っている。
作者が挙げた三つの作品に関わる、三つの観点から本書を見てみよう。スパイ小説として、冒険小説として、そしてキャラクターについて。
まずはスパイ小説として。作中で17が巻き込まれる謀略そのものはヒッチコックのいうマクガフィン(登場人物への動機の付与や、話を進めるための仕掛け)であり、その内容は代替可能だ。本書に描かれる謀略は、関わる国をロシアや北朝鮮などに置き換えたとしても、物語の根幹が揺らぐことはない。
本書のスパイ小説らしさは、謀略の内容よりも、謀略を仕組んだ者たちの思考、そして謀略が世界をどう動かすかというところにある。
諜報機関から仕事を請け負う外注先には、企みの全貌など見えるはずもない。知らないうちに思わぬ立場に置かれることもある。そんな五里霧中の状況を作り出して、錯綜した展開を構築している。本書のストーリーの主軸は実はきわめてシンプルなのだが、それを謎めいた迷宮に仕立てているのは、謀略という仕掛けの存在である。
冒険小説としてはどうだろうか。
本書の中心にあるのは、17とコンドラツキーの対決──卓越した殺しの技量を持つ者どうしの戦いである。ギャビン・ライアルの『もっとも危険なゲーム』(ハヤカワ・ミステリ文庫)などの系譜に連なる、シンプルでストレートな物語だ。
激しいアクションも随所にある。だが、単に派手な見せ場を作るためだけでなく、登場人物の行動が内面と響き合う様子にも重点を置いている。たとえば66章でのキャットの行動は、彼女の豪胆さを示し、クライマックスでの彼女の勇姿への助走となっている。92章では単なるアクションにとどまらず、17とコンドラツキーの腹の探り合いが、互いの動きを読みながら動く様子が描かれている。また、アクションそのものの場面ではないが、狙撃のためのカウントダウンと過去の回想が並走する、第二部の語りのスタイルも忘れがたい。
そして何より、キャラクターの造形は本書の魅力の源泉である。
主人公の17に負けず劣らず強烈なイメージを残すのは、彼と対決するコンドラツキーだ。その人物像を浮かび上がらせるのは、本人の言動だけではない。たとえば79章で、コンドラツキーの家に侵入した17が目にする品々。あるいは157章でも、煙草という品を通してコンドラツキーという人物のあり方を描き出している。
ヒロインにあたるキャットの人物像も鮮烈だ。第二部での17との駆け引きからもうかがえる思考の鋭さ。あるいは第三部の序盤で見せる豪胆さ。さらにはクライマックスの活躍。熾烈な戦いの物語にふさわしい、したたかな女性だ。
出番こそ少ないものの、17の「師」ともいうべき存在のトミーも記憶に残る。回想シーンでの姿はもちろん、17と再会する場面で見せる意外な姿も忘れがたい。
何より、主人公の17だ。殺人を生業としているが、不要な殺しは避ける。自らの手を汚しているけれど、冷笑的になることはなく、自己の信条を貫く姿も見せる。作者ブロウンロウのマーロウ評のように、冷酷を装っているが実は違う、どこかで世界が正しくあることを望んでいる人物だ。そんな17の放つ言葉も忘れがたい。「初めて誰かを殺すとき、それまでの自分を殺すことになる」という台詞は、この小説のなかでも特に印象深いフレーズだ。
そうした言葉、あるいは語りもまた、この小説の大きな魅力だ。先に挙げた三つの観点に加えてもう一つ、語りのスタイルについても触れておこう。
本書を支えているのは主人公自身の語りである。解説の冒頭にも記したとおり、この作品の語りは謎を抱えている。17が語る彼自身の物語は、いったいどういう性質の文章なのか?
暗殺者を主人公に、その仕事を描きつつ、本人がその生い立ちを語る。まるで、コンドラツキーが自身の過去をもとにスパイ小説を書いていたように。そういう小説は他にもいくつか書かれている。
たとえば、スティーヴン・キングの『ビリー・サマーズ』(文藝春秋)がそうだ。小説家を偽装した殺し屋が、潜伏中に自らの過去を書き綴った小説は、物語の中で重要な役割を担っている。
シェイン・クーンの『インターンズ・ハンドブック』(扶桑社ミステリー)も同様。こちらは、暗殺組織に属する主人公が、後輩たちに向けて記した手引書として書かれている。
主人公はプロの暗殺者ではないし、生い立ちへの言及はほとんどないけれど、前述の『追われる男』もまた、主人公自身が綴った手記という形をとっている。
本書も形態は異なるものの、暗殺者が自らの仕事と生い立ちを語るスタイルの小説だ。17の語りがいかなる状況のものなのかという冒頭に掲げた問いの答えは、ここにストレートに記すことは避けるが、本書の結末から十分に読み取れる。作者が小説という形式を強く意識していることは、最後まで読まれた方にはお分かりのことと思う。
作者について述べておこう。
ジョン・ブロウンロウは脚本家として知られている。映画《シルヴィア》、ドラマ《フレミング 007誕生秘話》、ジェシー・バートンの『ミニチュア作家』(早川書房)を原作とする同タイトルのドラマなどの脚本を手がけている。
本書が小説家としての第一作だが、すでに第二作が刊行されている。その名もAssassin Eighteen。題名からうかがえるように、『エージェント17』の続篇である。すでに本書を読まれたかたにとっては、想像力を大いに刺激される題名ではないだろうか。
ブロウンロウは本書で、シンプルでストレートな冒険小説に、現代的なスパイ小説の要素を加えて、錯綜した物語を仕上げてみせた。その土台を支えているのはキャラクターの造形と、小説としての仕掛けに満ちた語りの魅力だ。これからの活躍にも期待したい。
二〇二四年十一月
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■著者略歴
ジョン・ブロウンロウ Jhon Brownlow
脚本家、小説家、映画監督。英国リンカーン生まれ。オックスフォード大学で数学と英語を学んだ後、英国のテレビ番組でドキュメンタリーを制作。脚本家としては、映画《シルヴィア》、ドラマ《フレミング 007誕生秘話》、ジェシー・バートン『ミニチュア作家』(早川書房)を原作とするテレビドラマなどの脚本を執筆している。2022年に発表した本作で、英国推理作家協会賞スティール・ダガーを受賞し小説家デビュー。
■著者略歴
武藤陽生(むとう ようせい)
英米文学・ゲーム翻訳家 訳書『父親たちにまつわる疑問』リューイン,『ポリス・アット・ザ・ステーション』マッキンティ,『駆逐艦キーリング〔新訳版〕』フォレスター(以上早川書房刊)他多数