【試し読み】全世界、熱狂! 話題作『フォース・ウィング―第四騎竜団の戦姫―』冒頭公開(その4)【絶賛発売中】
レベッカ・ヤロス『フォース・ウィング―第四騎竜団の戦姫―』(上・下)は、全世界で話題のロマンタジー。読者投稿型書評サイトGoodreadsでは、130万人が★5.0をつけたすごい作品です。その冒頭部分を第3章まで試し読みとして公開いたします。この記事では第2章を公開します。
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・【試し読み】全世界、熱狂! 話題作『フォース・ウィング―第四騎竜団の戦姫―』冒頭公開(その3)【絶賛発売中】
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第2章
わたしは今日死んだりしない。
リアンノンが橋の入口で記録をつけている騎手に名前を告げているあいだ、その言葉がわたしのおまじないになり、頭の中で繰り返されていた。依然として、ゼイデンの憎悪のまなざしがはっきりと顔の側面に焼きついている。風が吹きつけるたびに肌を打つ雨でさえ、その熱をやわらげてはくれなかった──背筋をぞくぞくと這いおりていく恐怖もだ。
ディランは死んだ。もうただの名前にすぎない。バスギアスへの道沿いにはてしなく続く墓場にまたひとつ加わる墓石。ほかの兵科の安全を選ぶより、騎手に命を賭けようとする野心的な対象者への戒め。いまならわかる──どうしてミラが友だちを作らないようにと警告したのか。
リアンノンが小塔の入口の両側をつかむと、こちらをふりかえった。「向こう側で待ってる」嵐の中で叫ぶ。その瞳の不安はわたし自身の感情を映し出していた。
「向こう側で会おう」わたしはうなずいて、なんとかゆがんだ微笑さえ浮かべた。
リアンノンは橋に足を踏み出し、歩きはじめた。わたしは幸運の神ジーナルに無言の祈りを捧げた。今日はきっと手いっぱいだろうけれど。
「名前は?」端にいる騎手が問いかけてきた。相棒のほうは巻物の上にマントを広げ、紙を濡らすまいと無駄な試みをしている。
「ヴァイオレット・ソレンゲイル」と答えたとき、頭上で雷がとどろき、その音でなぜか心が安らいだ。わたしは昔から嵐が要塞の窓を激しく叩く夜が好きだった。身をまるめて読書していると、稲光が本を照らし出しては影を投げかけるような夜。もっとも、この土砂降りでは命を失うかもしれない。ちらりと目をやると、ディランとリアンノンの名前の末尾はすでに水で濡れてインクがにじんでいた。ディランの名前が墓石以外に記されるのはこれが最後だろう。橋の終わりには別の名簿があって、書記官たちが死亡者を数え、大好きな統計値を手に入れる。別の人生だったら、歴史的な分析のために基礎資料を読んだり記録したりしているのはわたしだっただろう。
「ソレンゲイル?」騎手が視線を上に向け、驚きに眉をあげた。「ソレンゲイル司令官と同じ?」
「そうです」まったく、早くもうんざりしてきた。しかも、どんどん悪化するだけだとわかっているのだ。母がここの司令官である以上、比較されることは避けられない。もっと悪いのは、たぶんみんな、わたしがミラのような天性の騎手か、ブレナンのようなすぐれた戦略家だと考えるだろうということだ。でなければ、ひとめ見て家族とは別物だと悟り、攻撃を宣言してくるか。
胸壁の両側に手をかけて石に指先を走らせる。まだ朝日のぬくもりが残っていたけれど、雨のせいで早くも冷えてきていた。なめらかではあっても、苔が生えていたりしてすべりやすくはない。
前方では、リアンノンが両手を広げてバランスを保ちながら橋を渡っている。道のりの4分の1ぐらいだろうか。雨の中を進むにつれて姿がぼやけてきていた。
「司令官にはひとりしか娘がいないと思っていたが?」もうひとりの騎手が問いかけた。またごおっと風が吹きつけてきたので、マントの角度を変える。下半身が小塔に守られているここでこんなに風が強いなら、橋の上ではすさまじいことになりそうだ。
「よく言われます」鼻から吸って、口から吐く。わたしはむりやり呼吸を落ち着かせ、激しい動悸を静めようとした。もし取り乱したら死ぬ。もし足をすべらせたら死ぬ。もし……(ああもう、どうでもいい)これ以上準備できることはない。
橋にひとあしだけ踏み出し、石の壁をつかんだとき、またもや風が襲ってきて、横から小塔の開口部に叩きつけられた。
「それで竜に乗れると思うのか?」背後のむかつく対象者がばかにした。「そんなバランス感覚で、たいしたソレンゲイルだな。どの騎竜団がおまえを押しつけられるか知らないが、同情するぜ」
わたしは体勢を立て直し、リュックの紐をぐいっと引いた。
「名前は?」騎手がもう1度たずねたけれど、こちらに話しかけているわけではないのはわかっていた。
「ジャック・バーロウ」後ろの男が答えた。「この名前を覚えておけよ。おれはいつか騎竜団長になるからな」その声さえ傲慢さがぷんぷんにおった。
「さっさと進め、ソレンゲイル」ゼイデンの低い声が命じた。
肩越しにふりかえると、強い視線に射すくめられた。
「どうだ、ちょっとやる気にさせてやろうか?」ジャックが両手をあげて前にとびだした。信じられない、突き落とす気だ。
恐怖が血管を駆けめぐり、わたしは動いた。安全な小塔を離れ、橋の上に駆け出す。もう後戻りはできない。
心臓がばくばくして、耳の奥で太鼓がとどろいているようだ。
〝目の前の石をひたすら見て、下を向かないこと〟ミラの助言が脳裏にこだましたものの、踏み出せば最後の1歩になるかもしれない状況で注意を払うのは難しかった。両腕をさっと広げて体の釣り合いをとり、ギルステッド少佐と中庭で練習したように、一定の歩幅で小刻みに進む。でも、風と雨、それに60メートルの落下距離があると、練習とはまるで違った。足もとの石はところどころでこぼこしているし、漆喰でつなげた継ぎ目はつまずきやすい。わたしはブーツから目をそらすために前方の通路に集中した。筋肉を緊張させ、重心を固定して姿勢をまっすぐに保つ。
脈拍がはねあがり、頭がくらくらした。
(落ち着いて)冷静でいなければ。
鼻歌さえまともに歌えない音痴なので、気をそらすために歌うことはできない。でも、わたしは学者だ。文書館ほど心が落ち着く場所はない。したがって、頭に浮かんだのもそれだった。事実。論理。歴史。
〝おまえの心はもう答えを知っているんだよ。だから、ただ落ち着いて思い出しなさい〟父はいつもそう言ってくれた。ここで必要なのは、脳の論理的な部分がまわれ右をして小塔へ引き返すのを防ぐ手段だ。
「大陸にはふたつの王国が存在し──400年間互いに争っている」わたしは語り出した。これは書記官の試験に備えて叩き込まれた、すぐに思い出せる簡単な基礎の資料だ。1歩、また1歩と橋を進んでいく。「わたしの故郷ナヴァールは広いほうの王国で、6つの個性ゆたかな州を持つ。最南端に位置する最大の州ティレンドールは、ポロミエル王国内のクロヴラ州と国境を接している」ひとことごとに呼吸が静まり、心拍が安定して、めまいがおさまってきた。
「東側にはポロミエルの残る2州、ブレイヴィク州とシグニセン州があり、エスベン山脈が天然の国境となっている」中間を示すペンキの線を通りすぎた。これでいちばん高い地点は越えたけれど、そのことを考えるわけにはいかない。(ほら、下を向かない)「クロヴラの先、敵国の向こうには、はるか遠い砂漠、〈荒れ地〉が横たわり──」
雷鳴が響き、風が叩きつけてきたので、腕をふりまわす。「もう!」
突風で体が左にかたむき、わたしは橋の上に膝をついた。両へりにしがみつき、足を踏み外さないようにうずくまる。風がまわりじゅうで吼え猛るあいだ、できるかぎり身を縮めていた。恐怖にわれを忘れそうになって吐き気がした。過呼吸になりかけている。
「ナヴァールの中で、ティレンドールは国境の州として最後に連合に加わり、レジナルド王に忠誠を誓った」わたしはうなりをあげる風に向かって叫び、不安に足がすくむという目の前の脅威からむりやり気をそらそうとした。「また、その627年後に連合離脱をもくろんだ唯一の州でもある。仮に成功していれば、最終的にわが国は無防備な状態に置かれることになっただろう」
リアンノンはまだ前にいた。たぶん4分の3ぐらいの地点だろう。よかった。あの子は渡り切ってほしい。
「ポロミエル王国は主として耕作に適した平原と湿地帯からなり、みごとな織物と広大な穀物畑、小魔法を増幅する力を持つ、ほかにない透明な宝玉によって知られている」上空の黒雲にさっと視線を投げただけで、慎重に片足ずつ前に出し、じりじりと進んでいく。「対照的に、ナヴァールの山岳地帯は豊富な鉱石と東部諸州からの堅牢な木材、さらには鹿と箆鹿を無限に提供する」
次の1歩で漆喰のかけらがいくつかはがれ、腕がぐらぐらしたので、わたしはまた平衡を取り戻すまで立ち止まった。ごくりと唾をのみこみ、ふたたび進み出す前に体重をかけてみる。
「200年以上前に署名されたレッソン通商協定は、クロヴラとティレンドールの国境地帯にあるアテバイン前哨基地において、年4回ナヴァールの食肉と材木をポロミエル内の布と農産物と交換することを保証している」
ここから騎手科の建物が見える。砦の巨大な石の土台が山を上って建物の基部まで続いている。たどりつくことさえできれば、この道はそこで終わっているのだ。肩の革で顔から雨粒をぬぐいとり、わたしはジャックがどこにいるか確認しようと後ろを一瞥した。
相手は4分の1の印を越えたところで足を止めていた。がっちりした体はじっと立ったままだ──まるでなにかを待っているように。両手は脇にたらしている。風はその姿勢になんの影響も与えていないらしい。運のいいやつ。遠目にはにやにや笑っているように見えたけれど、たんに目に入った雨のせいだったかもしれない。
ここにとどまるわけにはいかない。日の出を見るまで生きのびるには、動き続けなければ。恐怖に体を支配されてはならない。わたしは両脚の筋肉にぐっと力をこめてバランスを保ち、そろそろと下の石を離して立ちあがった。
(両腕を広げて。歩く)
また風が吹きつけないうちに、なるべく先へ行っておかないと。
あの男の位置をたしかめておこうとふりかえって、血が凍った。
ジャックはわたしに背を向け、あぶなっかしくふらふらと近づいてくる次の対象者と向かい合っていた。ひょろひょろした男の子で、つめこみすぎのリュックサックを背負っている。ジャックはそのリュックの肩紐をつかんだかと思うと、わたしの見ている前で、やせっぽちの少年を穀物袋さながらに橋からほうりだした。あまりの衝撃に全身がすくんだ。
男の子が視界から消えると同時に、絶叫が一瞬耳に届き、尾を引いて遠ざかっていく。
信じられない。
「次はおまえだ、ソレンゲイル!」ジャックがどなった。わたしは峡谷から視線をひきはがし、悪意のこもった笑みに口もとをゆがめて指を突きつけている姿をまのあたりにした。相手はぞっとするほどの速度で足を進め、こちらに近づいてくる。ふたりのあいだの距離がみるみる縮まった。
(動け。いますぐ)
「ティレンドールは大陸の南西部を占めている」わたしは続けた。歩幅は均等にしたものの、せまくてつるつるする通路に焦ってしまい、1歩踏み出すたびに左足がすべりかけた。「けわしい山岳地帯からなり、西はエメラルド海、南はアークタイル洋に接するティレンドールは、ほぼ侵入不可能といえよう。地理的には天然の防護壁であるドレイラーの断崖に隔てられているが──」
またしても突風がぶつかってきて、片足が橋からずるっとおちた。心臓がはねあがる。つまずいて倒れると、橋が勢いよく体を受け止めた。片膝が石に叩きつけられ、鋭い痛みに悲鳴がもれる。左脚がこの地獄の橋のふちからぶらさがっているうえ、いまや後ろのジャックとたいして距離がない状態だ。わたしはあわてて両手でつかむ場所を探った。下を見るという最悪のあやまちを犯したのは、そのときだった。
水が鼻と顎を伝い落ち、石にはねかかってから落下して、60メートル以上も下でごうごうと谷間を流れていく川にまじりあった。喉の奥で大きくなっていくかたまりをのみくだし、まばたきして懸命に動悸を静めようとする。
わたしは今日死んだりしない。
橋の両側を握りしめ、すべりやすい石に可能なかぎり体重をかけて、左脚をふりあげた。足の親指の付け根が通路を探りあてた。そこからは、どれだけ事実を列挙しても冷静ではいられなかった。摩擦力があるほうの右足を踏ん張らないと。でも、ひとつ間違えれば、下の川がどんなに冷たいか知ることになる。
(そして落下の衝撃で死ぬ)
「いま行くぞ、ソレンゲイル!」背後から声が聞こえた。
わたしは石を押しやり、ブーツが橋の上を通りますようにと祈りながらぱっと立ちあがった。もし落ちても、それはかまわない、自分の落ち度だから。でもあのくずに殺されたりするものか。
(向こう側に行けるのがいちばん。たとえほかの殺し屋が待ち構えてるとしても)まあ、騎手科の全員が殺そうとしてくるわけでもない。わたしが騎竜団の重荷になると思う候補生だけだ。騎手の中で力が尊重されるのにはわけがある。分隊だろうと小隊だろうと騎竜団だろうと、いちばん弱い部分で力量が決まるからだ。もしそこが崩れたら、全員が危険にさらされる。
ジャックはわたしがその弱点だと思っているか、たんに殺しを楽しむ精神的に不安定な異常者なのかだ。どちらにしても、もっと速く動かないと。
わたしは両腕を横に広げて、この道の終わり、リアンノンが無事足を踏み入れた砦の中庭に集中すると、雨にもかかわらず急いだ。体を緊張させ、重心を固定しながら、今回ばかりはたいていの人間より背が低いのをありがたく思った。
「落ちていくあいだじゅうわめきたてるか?」ジャックがあざ笑った。まだ大声を出しているけれど、声がさっきより近い。追いついてきたのだ。
不安を感じる余裕はなかったので、その感情を心の奥にある鉄の檻に押し込んで鍵をかけるところを想像し、意識をそらした。もう橋の終点が見えてきた。砦の入口で騎手たちが待っている。
「満杯のリュックサックも担げないようなやつが入試に受かるはずがねえ。おまえは間違いなんだよ、ソレンゲイル」ジャックが呼びかけた。前より声がはっきり聞こえたけれど、速度を落として間隔をたしかめる危険を冒したりしない。「なあ、いま殺してやるのがいちばんだと思わねえか? 竜どもに襲わせるよりずっと親切だろうが。あいつらだったら、生きたままそのぐらぐらの脚を1本ずつ食い出すだろうな。こいよ」と誘う。「喜んで助けてやるぜ」
「うるさい」わたしはつぶやいた。見あげるような砦の城壁の外側まで、あとほんの3、4メートルだ。左足がすべってふらついたものの、一拍おいただけでまた進みはじめた。あの分厚い胸壁の後ろにそそり立つ要塞は山を削って造成されている。L字型に並ぶ高い石の建物は、当然のことながら耐火性を持つ。砦の中庭を囲む城壁は厚さ3メートル、高さ2メートル半で、開口部は1カ所しかない──そして、もうすぐ、たどりつく。
体の両側に石がそびえはじめ、わたしは安堵のすすり泣きをかみ殺した。
「そこなら安全だと思ってるのか?」ジャックの声は荒々しく……近かった。
両側を壁に守られて、最後の3メートルを駆け抜ける。緊張が体を極限まで駆り立て、心臓が激しく脈打った。背後から足音が迫ってくる。端に到達したとき、ジャックが背中のリュックにとびかかってつかみそこね、片手が腰にあたった。わたしは突進し、1段高くなった橋から30センチとびおりて、騎手がふたり待機している中庭に着地した。
ジャックが苛立ちのあまりわめき声をあげ、その音が万力のように胸を締めつけた。
くるりと反転してあばらの鞘から短剣を引き抜いたとたん、赤い顔で息を切らしたジャックが真上の橋にすべりこんで止まった。きゅっと細まってこちらをにらみつける氷のような青い目には殺意が刻み込まれている……そして、わたしの短剣の切っ先は、いまやそのズボンの生地に食い込んでいた──股間に。
「安全だと、思う、いまの、ところ」荒い息の合間に、なんとか絞り出す。体はがくがくしているけれど、手は充分に安定している。
「そうか?」ジャックは憤怒にわなわなとふるえていた。ひややかな青い目の上で金色の太い眉が逆立ち、巨体の線という線がわたしのほうへかたむいている。でも、あと1歩進もうとはしなかった。
「騎手科の編隊内もしくは監督下にあるあいだ。上位の候補生の面前で。別の騎手に危害を加えることは違法である」まだ喉もとに鼓動を感じつつ、わたしは法典から暗誦してみせた。「騎竜団の効率を低下させるからである。後ろの集団を見るかぎり、これが編隊だと主張できるのはあきらかだと思うよ。第3条、第──」
「うるせえ、知るか!」ジャックは動いたけれど、わたしは1歩も引かず、短剣がズボンの表面を切り裂いた。
「考え直すことをお勧めするけど」万が一相手が再考しなかったときに備えて、姿勢を調整する。「手がすべるかもよ」
「名前は?」隣にいる女の騎手がものうげに言った。今日見た中でこれほどつまらないものはないと言わんばかりの口ぶりだ。わたしはほんの一瞬、そちらに目をやった。炎のように赤い顎までの髪を片手で耳の後ろにかきあげ、もう片方の手で名簿を持って、この場面の展開を見守っている。3つの四芒星がマントの肩に縫い取ってあり、3年生だとわかった。「騎手にしてはずいぶん小さいけど、渡り切ったみたいだね」
「ヴァイオレット・ソレンゲイル」わたしは答えたけれど、焦点はふたたび完全にジャックに合わせていた。逆立った眉の皺から雨粒がぽたぽた落ちている。「訊かれる前に言うと、そう、わたしはあのソレンゲイル」
「あの動き方を見たら不思議はないね」相手は母が名簿に使うときのようにペンを持って言った。
これまでもらった中でいちばんうれしい褒め言葉かもしれない。
「で、おまえの名前は?」騎手は再度問いかけた。きっとジャックに訊いているのだろう。でも、敵を観察するのに手いっぱいで騎手のほうを向く余裕がなかった。
「ジャック。バーロウ」もう唇に意地悪そうな微笑はちらついていなかったし、わたしを殺すのをどんなに楽しめるか、冗談まじりにあざけることもなかった。その顔に浮かんでいるのは純粋な悪意で、報復を約束していた。
不吉な予感に首筋の毛が逆立つ。
「さて、ジャック」きれいに整えた黒い山羊ひげをさすりながら、右側にいる男の騎手がゆっくりと言った。マントを羽織っておらず、すりきれた革の上着にびっしり縫いつけられた継ぎ当てに雨がしみこんでいる。「ソレンゲイル候補生はまさにおまえの急所を握ってるぞ、いろんな意味でな。いま言われたとおりだ。規則には編隊において騎手同士は敬意を払うべきと書かれている。殺したければ格技のマットの上でやるか、暇なときにしておけ。まあ、橋からおろしてもらえればの話だがな。なぜかというと、まだ地面におりていない以上、厳密に言っておまえは候補生じゃないからだ。こいつは候補生だが」
「じゃあ、足をつけた瞬間こいつの首をへし折ってやると決めたら?」ジャックはうなった。そうするつもりだと目つきが語っている。
「その場合、おまえは早く竜たちと会えるよ」赤毛がしれっとした口調で答えた。「ここらでは裁判を待ったりしないんでね。そのまま処刑するだけ」
「どうする、ソレンゲイル?」男の騎手がたずねた。「このジャックをしょっぱなから去勢してやるか?」
もう。どうする? この角度だと殺すことはできないし、急所を切りとったらもっと憎まれるだけだろう。そんなことが可能だとして。
「規則に従うつもりはあるわけ?」ジャックに問いかける。耳鳴りがしたし、腕がものすごく重たかったけれど、短剣を的からそらすことはしなかった。
「選ぶ余地はなさそうだな」口の片側がつりあがって冷笑の形になり、ジャックは体の力を抜くと、両腕をあげて手のひらを見せた。
わたしは短剣をおろしたものの、いつでも使えるよう手にしたまま横に移動し、名簿を確認している赤毛のほうへ身を寄せた。
中庭に降り立ったジャックは、わたしを追い越しながら肩をぶつけてくると、一瞬足を止めて近々と体を寄せた。「死ね、ソレンゲイル。おれが殺してやる」
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・【試し読み】全世界、熱狂! 話題作『フォース・ウィング―第四騎竜団の戦姫―』冒頭公開(その5)【絶賛発売中】
こちらの『フォース・ウィング―第四騎竜団の戦姫―』の記事もご覧ください。
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・Vol.2 ロマンタジーの時代が来る! 発売前から大反響
・Vol.3 これがロマンタジーだ!
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