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ダーウィン、メンデル、狂った夢。『遺伝子―親密なる人類史ー』第1部③

ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー1位、ビル・ゲイツが年間ベストブックにも選出した名著『遺伝子―親密なる人類史ー』が待望の文庫化! 刊行にあたり、本書の第1部「遺伝学といういまだ存在しない科学――遺伝子の発見と再発見(1865~1935)」を、権利上可能な限りのところまで数回にわたり連載します。前作『がん―4000年の歴史ー』でピュリッツァー賞に輝いた著者(現役医師)の圧倒的なストーリーテリングをお楽しみください。

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とても広い空白

さて、ダーウィン氏はこれまでに……ジェミュールの蓄えが枯渇する
までにどれくらいの時間がかかるか考えたことがあるのだろうか?……
そのことについて少しでも考えてみたならば、「パンゲン説」などとい
うものを彼が夢見ることはなかったのではないかという気がする。
      ──アレクサンダー・ウィルフォード・ホール、一八八〇年

ヒトがサルに似た祖先から進化した可能性について、ダーウィンがとくに思い悩んでいなかったという事実は、彼がいかに科学的に大胆だったかを示している。彼がそれよりもずっと思い悩んでいたことが自分の理論の完全性だったという事実は、彼がいかに科学的に誠実だったかを表している。自分の理論を完璧なものにするには、とりわけ「広い空白」を埋めなければならなかった。遺伝という空白だ。

遺伝の理論は、進化論の末梢にあるわけではなく、きわめて重要な理論だということにダーウィンは気づいた。ガラパゴスの島で大きなくちばしを持つフィンチが自然選択によって出現するためには、一見矛盾するふたつの事実が同時に真実でなければならなかった。ひとつめは、短いくちばしの「正常な」フィンチがときおり大きなくちばしの変異体(怪物や奇形の種)をつくり出さなければならないという事実だ(ダーウィンはそれらを「変種」と呼んだ。自然界というのは途方もなく気まぐれだということを示唆する刺激的な言葉だ。ダーウィンは、進化を促進させるものは自然の目的意識ではなく、ユーモアのセンスだということを理解していたのだ)。ふたつめは、いったん生まれたら、大きなくちばしのフィンチは自分の特徴を子に伝え、そうすることによって、変異体を子孫に定着させなければならないという事実だった。これらふたつの事実のうちどちらか一方がうまくいかなくても(変異体がつくられないか、変異体が子孫に伝わらないか)、自然は溝にはま
ってしまい、進化の歯車は止まってしまう。ダーウィンの理論が機能するためには、遺伝は不変と不定、安定性と多様性という性質を同時に持っていなければならないのだ。

こうした相反する性質を持ちうる遺伝のメカニズムについて、ダーウィンは絶え間なく考えつづけた。ダーウィンの時代において、最も一般的に受け入れられていた遺伝のメカニズムは、一八世紀のフランスの生物学者ジャン゠バティスト・ラマルクが提唱した理論だった。ラマルクの考えでは、遺伝形質は、メッセージや物語が受け渡されるのと同じ方法で、親から子へ指示という形で受け渡されるとされていた。ラマルクは、動物はある形質を強くし、べつの形質を弱くすることによって(「その形質がそれまでに使われてきた時間の長さに比例した力を持たせることによって」)、周囲の環境に適応すると信じていた。固い種子を食べざるをえなくなったフィンチは、くちばしを「強くする」ことによって環境に適応した。時間の経過とともに、フィンチのくちばしはより硬く、ペンチのような形になった。環境に適応したそうした特徴はその後、フィンチの子に指示という形で伝えられ、両親によって固い種子に前適応した子のくちばしもまた硬くなる。同様の理論で、レイヨウは、高いところにある木の葉を食べるためには首を長くしなければならないと気づく。ラマルクの提唱した「用不用説」にしたがって、レイヨウの首は長くなり、レイヨウの子もまた長い首の形質を受け継ぎ、その結果、キリンが誕生する(身体が精子に「指示」を与えるというラマルクの説と、精子があらゆる器官からメッセージを集めるというピタゴラスの概念の類似性に注目したい)。

ラマルクの考えの魅力的なところは、それが動物の発達に関する心強い物語を提供したという点にある。あらゆる動物が自分のまわりの環境に適応していき、そうすることによって、進化のはしごを完璧に向かってゆっくりと登っていくという彼の説では、進化と適応がひとつの持続的なメカニズムとしてまとめられていた。適応こそが進化だったのだ。その考えは直感的に受け入れやすいだけでなく、都合がいいことに、神聖でもあった。というよりも、生物学者の考えにしてはこれ以上ないくらい神聖性に近いものだった。最初は神によってつくられたものの、動物たちはなおも、絶えず変化する自然界の中で自らの形態を完璧なものにできる可能性を秘めていた。存在の神聖なる連鎖は依然として存在していた。それどころか、この説には、それまでにないくらいしっかりと存在していた。適応による進化の鎖の端には、最もうまく適応した、最適な形態を持つ、すべての哺乳類の中で最も完璧な哺乳類であるヒトがいたからだ。

ダーウィンの考えは明らかにラマルクの進化論とはちがっていた。キリンというのは、首を長くする必要に迫られたレイヨウが変化したものではなかった。簡単に言うならば、キリンが誕生したのは、祖先のレイヨウからたまたま長い首を持つ変異体が生まれ、それが飢饉などの自然の力によって選択された結果なのだ。それでもダーウィンは遺伝のメカニズムについてなおも頭を悩ませつづけた。それでは、長い首を持つレイヨウを最初につくったものはなんだったのだろう?

ダーウィンは進化にも適用できるような遺伝理論を思い描こうと努力した。しかしここで、彼の知性の重大な欠点がはっきりとしてきた。ダーウィンは実験主義者としての才能にあまり恵まれていなかったのだ。後述するように、メンデルは天性の庭師だった。植物を栽培したり、種子を数えたり、形質を区別したりする才能に長けていた。一方のダーウィンはもっぱら庭を掘り起こした。植物を分類し、標本を整理し、分類した。メンデルに備わっていたのは生物を操作したり、注意深く選んだ亜品種を交雑させたりして仮説を検証する実験の才能だったのに対し、ダーウィンに備わっていたのは自然史の才能だった。自然を観察することによって歴史を組み立てていく才能だ。修道士であるメンデルが得意だったのは分離することだったのに対し、かつて聖職者を目指したダーウィンが得意だったのは統合することだった。

しかし自然を観察することと、自然を相手に実験をすることはまったくちがっていた。一見したところ、自然界のどこにも、遺伝子の存在を示唆する部分はない。実際、遺伝をつかさどる粒子という考えを見いだすには、奇妙に歪曲した実験をおこなわなければならないのだ。実験という方法で遺伝理論に到達することができなかったダーウィンは、まったくの理論的土壌から遺伝理論を呼び起こさなければならなかった。彼は二年近くのあいだその概念に必死で取り組み、危うく神経症になりかけるほどに自分を追い込み、ようやく、適切な理論を発見したと確信するに至った。彼は、すべての器官の細胞が遺伝情報を含む小さな粒子をつくっているのではないかと考え、その粒子を「ジェミュール」と名づけた。ジェミュールは両親の身体の中を駆けめぐっている。動物や植物が繁殖できるまでに成熟した段階で、ジェミュールの中に蓄積された情報が生殖細胞(精子と卵子)に集まる。このようにして身体の「状態」についての情報は受胎をとおして親から子へと伝わる。ピタゴラスの説と同様にダーウィンのモデルでも、すべての生物が器官や構造をつくるための情報を小型化された形で持っているとされていたが、ダーウィンの説では、情報は分散して存在していた。個体というのはあたかも議会の投票でつくられるようなものであり、手から分泌されるジェミュールは新しい手をつくるための指示を含んでおり、耳からまき散らされるジェミュールは新しい耳をつくるための暗号を運んでいるとされていた。

父親と母親からのジェミュールに含まれるこうした情報は、発達中の胎児にどのように適用されるのだろう。その点に関して、ダーウィンは古い考えへと戻った。父親と母親からの情報が胎児の中で出会い、絵の具の色のように混じりあうと考えたのだ。「融合遺伝」というこの考えはすでに多くの生物学者にとってなじみ深いものであり、父親と母親の特徴が混じりあうというアリストテレスの説を言い換えたものにすぎなかった。どうやらダーウィンは今度もまた、すばらしい統合を成し遂げたように見えた。対極に位置する生物学のふたつの説、ピタゴラスのホムンクルス(ジェミュール)と、アリストテレスの概念であるメッセージと混合(融合)とを統合させたのだから。

ダーウィンはこの理論を、パンゲン説と名づけた。「すべてからの発生」という意味だ(すべての器官がジェミュールに情報を渡していると考えたからだ)。『種の起源』が出版されてから一〇年近くが過ぎた一八六七年、彼は新しい原稿『家畜・栽培植物の変異』の執筆に取り組みはじめ、その中で遺伝について詳説した。「これは性急で雑な仮説だけれど」とダーウィンは友人の植物学者エイサ・グレイへの手紙の中で正直に述べている。「この説は私の心に大きな安堵をもたらすのだ……パンゲン説は狂った夢と呼ばれるだろうが、私は心の底で、その説には偉大なる真実が含まれていると信じている」

しかしダーウィンの「大きな安堵」が長続きすることはなかった。彼はほどなく、「狂った夢」から覚めることになる。その夏、『家畜・栽培植物の変異』が本にまとめられているあいだ、『種の起源』が《ノース・ブリティッシュ・レビュー》で取り上げられた。その書評の中に埋められていたのは、ダーウィンが一生のあいだに出くわす中で最も強力な、パンゲン説に対する反対論だった。

その書評を書いたのは、ダーウィンに対する批判者としては意外な人物だった。エディンバラのフリーミング・ジェンキンという名の数学者兼電気技術者、さらには発明家でもある人物で、それまで生物学について書評を書いたことはほとんどなかった。優秀だがとげのある物言いが特徴的なジェンキンの興味は、言語学、電気工学、機械学、算術、物理学、化学、経済と多岐にわたっていた。大変な読書家で、ディケンズ、デュマ、オースティン、ジョージ・エリオット、ニュートン、マルサス、ラマルクなどの著作を広く読んだ。たまたまダーウィンの本に出くわすと、彼はそれを熟読し、そこに含まれた意味をすぐに理解し、そして即座に、致命的な欠陥を見つけた。

ダーウィンの説についてジェンキンが納得できない点は以下のようなものだった。もしすべての世代で遺伝形質が「融合」しつづけるのなら、どんな変異体であれ、それが交雑によってしだいに薄められていくのを防いでいるものはなんなのだろう? 「(変異体は)やがて数の中に埋もれていくはずだ」とジェンキンは書いている。「そして数世代のちには、その特殊性は消えるにちがいない」例として、ジェンキンはある物語を考え出した。当時はごくあたりまえだった人種差別主義の色に濃く染められた物語だ。「ひとりの白人男性が難破し、黒人の住む島に漂着したと仮定しよう……難破したこの英雄はおそらく王になるだろう。生き残りをかけて数多くの黒人を殺し、数多くの妻と子供を持つはずだ」

だがもし遺伝子同士が融合するならば、ジェンキンの「白人男性」には、少なくとも遺伝という意味においては悲運が待ち受けていることになる。黒人の妻から生まれた彼の子供は、男の遺伝的要素を半分受け継いでいると予想される。孫は四分の一を、ひ孫は八分の一を、玄孫は一六分の一を。やがて彼の遺伝的要素は薄まり、数世代のちには完全に消えてしまう。たとえ「白人の遺伝子」が最も優れていたとしても(ダーウィンの言を借りるなら、「最適」だったとしても)、融合の結果としてもたらされる避けがたい減衰を止めることはできない。最終的に、孤独な白人の王は遺伝の歴史から消え去る。たとえ彼が同世代のどの男よりも多くの子供をつくり、彼の遺伝子が生存に最も適していたとしても。

ジェンキンの物語の詳細は醜悪だったが(おそらく意図的にそうしたのだろう)、その概念的な要点は明白だった。もし遺伝という現象に変異体を維持する(変化した形質を固定する)機能がないのなら、変化した形質はすべて、融合によって消えてなくなる。次世代に自分の形質を確実に受け渡すことができないかぎり、奇形種はずっと奇形種のままなのだ。プロスペローは孤島でいとも簡単にキャリバンを一匹つくり出し、さまよわせることができるが、融合遺伝はキャリバンにとって、自然の遺伝的牢獄となる。たとえキャリバンが交尾したとしても(まさに、交尾したその瞬間に)、その遺伝的特徴は正常の海に消えるのだ。融合とは永遠に希釈することと同じであり、そうした希釈が続くかぎり、進化したどのような情報も保持されることはない。絵を描くとき、画家はときおり筆を水につけて絵の具の色を薄める。水はまず青色や黄色になるが、水に溶ける絵の具の色が増えるにつれて、水の色はしだいに汚れた灰色になり、その後はどんな色を加えても、灰色のままだ。それと同じ原則が動物や遺伝にあてはまるとしたら、変化した生物の明白な特徴を保持できるのはどのような力なのだろう? ジェンキンならこう尋ねただろう。なぜすべてのダーウィン・フィンチがしだいに灰色になっていかないのだろう?

ダーウィンはジェンキンの論法に深い衝撃を受けた。「フリーミング・ジェンキンは私を大いに困らせた」と彼は書いている。「しかし、彼の書評はほかのどんなエッセイや書評よりも有益だった」ジェンキンの論理の正しさは否定しようがなかった。自分の進化論を救うには、ダーウィンはそれに適合する遺伝理論を見いださなければならなかった。

それでは、遺伝にどんな特徴があればダーウィンの問題は解決するのだろう? ダーウィンが提唱するような進化が起きるためには、情報が薄められたり、拡散したりすることなく保持されるような能力が遺伝のメカニズムに含まれていなければならない。その能力とは融合ではなかった。情報の原子が存在しなければならなかった。親から子へと移動する、不溶性で消えない個別の粒子だ。

遺伝という現象にこのような不変性があるという証拠は存在するのだろうか? もしダーウィンが彼の膨大な蔵書を注意深く探したなら、ブルノに住むほとんど無名の植物学者の書いた、ぱっとしない論文への言及に目を留めたかもしれない。一八六六年に無名の雑誌に掲載された「植物の交雑実験」という控えめなタイトルのその論文には、ドイツ語がびっしりと並んでいたうえに、ダーウィンがとりわけ嫌っていた数表がいくつもあった。それでも、ダーウィンはあと一歩でその論文を読むところだった。一八七〇年代初めに、植物の交雑に関するある本を読みながら、彼は五〇ページと、五一ページと、五三ページと、五四ページに膨大な書き込みをしていたのだ。しかしなぜか、エンドウの交雑実験に関するブルノで発表された論文について詳細に論じられている五二ページにはなんの書き込みもなかった。

もしダーウィンがエンドウの論文を実際に読んだなら(とりわけ、『家畜・栽培植物の変異』を書きながら、パンゲン説をつくりあげようとしていた最中に)、その論文は彼に、自らの進化論を理解するための決定的な洞察を与えたはずだった。彼はおそらく、そこに含まれた意味に魅了され、その研究者がおこなったやさしさあふれる作業に感銘を受け、その論文の持つ奇妙な説得力に胸を打たれたにちがいなかった。直観的な知性によって、進化論を理解するための理論が含まれていることをすぐに見抜いたはずだ。さらに、その論文の著者が自分と同じ聖職者であり、自分と同じように神学から生物学へと壮大な旅をして、そしてまた自分と同じように地図の端から落っこちた人物だということを知って喜んだはずだ。その人物とは、聖アウグスチノ修道会の修道士、グレゴール・ヨハン・メンデルだった。

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著者 シッダールタ・ムカジー(Siddhartha Mukherjee)
医師、がん研究者(血液学、腫瘍学)。コロンビア大学メディカル・センター准教授を務める。1970年、インドのニユーデリー生まれ。スタンフォード大学(生物学専攻)、オックスフォード大学(ローズ奨学生。免疫学専攻)、ハーバード・メディカル・スクールを卒業。デビュー作『がん―4000年の歴史―』(2010年。邦訳は早川書房刊)は、ピュリッツァー賞、PEN/E・O・ウィルソン賞、ガーディアン賞など多くの賞を受賞し、《タイム》誌の「オールタイム・ベストノンフィクション」にも選ばれた。本書『遺伝子ー親密なる人類史ー』も《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラー・リストのノンフィクション部門1位を記録し、30カ国以上に版権が売れている。

翻訳 田中 文(たなか・ふみ)
翻訳家、医師。東北大学医学部卒業。訳書にワトスン『わたしが看護師だったころ』、ムカジ―『がん―4000年の歴史ー』、カラニシ『いま、希望を語ろう』、オゼキ『あるときの物語』、リー『健康食大全』(以上早川書房刊)など。


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