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「動くもの」しか見えなくなる未知の難病。第8回ハヤカワSFコンテスト受賞作『ヴィンダウス・エンジン』、冒頭70pを一挙公開!

第8回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作、十三不塔『ヴィンダウス・エンジン』11月19日発売。本作の冒頭70pを一挙公開します。また、同分量の電子書籍お試し版も同時リリース。このnote版は仕様上(サイバーパンクの魂とも言える)ルビの一部を省略していますので、ご利用可能ならぜひ以下のお試し版もDLしてみてください。

ヴィンダウスエンジンPOP (1)


第1部 釜山

 僕の世界へようこそ。
 想像してみて欲しい。朝、窓を開け放つ。世界は動き出す。走る自動車、飛翔する鳥、流れる雲。しかし、すべてが動いているわけではない。
 背景である道路や空は動いておらず──従って存在しない。
 いったいこれはどういうことか。簡単だ。誰にでもできるシンプルな思考実験である。あなたの視野に映るものすべてから、静止しているものを差し引く。すると僕の見ている世界になる。
 そう、僕には運動していないものが見えないのだ。だから、高速道路を見ても滑るように走る車しか見えない。ドアは閉まっている時は消えていて、開かれつつある時は見え、開き切れば消えてしまう。
 もし、あなたが薄く眼を伏せ、キスをせがんだとしても、僕にはあなたが見えているとは限らない。僕は虚空に口づけするだろう。そこにあなたがいると信じて──
 ヴィンダウス症。
 近年になって確認された新たな疾患とされているが、二〇二〇年代にも同病と思われるケースが散見されており、歴史的検証が待たれる。大韓民国では二〇三一年において特定疾患の認定を受けるが、いまだ発症例は少なく、有効な治療法は見つかっていない。
 僕がこの病を宣告されたのは、去年の春だ。
 もちろん兵役は免除された。僕の兄貴は兵役中、陰惨なイジメに耐えかねて自殺した。もし、兄がこの病気になっていれば軍隊なんぞに行かなくて済んだし、図太くて体力にも自信のある僕なら軍隊生活をなんとか乗り切れたろう。これは神様のちょっとした取り違えの例だ。この病気になれば、軍隊生活はもちろん、通いなれた道を犬と散歩するのだって難しい。何しろ静止しているものはまったく見えないのだから。電柱も塀も見えやしない。命を吹き込まれたカートゥーンキャラのように動き続けてくれない限り。


2

「固視微動という言葉を聞いたことがあるかい?」
 デレク・ウー医師は、症状や病理について丁寧に説明してくれた。僕はこの病気についての権威であるウー先生の住まう香港を何度も訪れたものだ。広州からアメリカへ根付いた移民三世である医師は、英語と広東語を母語とする四〇代だ。香港で開業したのはほんの数年前のことだという。
「いいかいキムくん。人間の脳はね、完全に静止しているものを見ることはできないんだ。それというのは脳が時間の中で起こる変化だけを認識しているからというわけ。定常的なもの、つまり動かないものを認識することはない」
 先生の言い回しは少し難しかったけれど、おおよその意味は飲み込めた。
「僕たちは止まっているものを見ることはできない」
 オウム返しってのは自分をバカに演出する簡単なやり方だ。……でも、待てよ、僕は静止しているものを見たことがあるぞ。まな板の上の木耳とか、PKのためのサッカーボールとか、生クリームに埋もれたチョコプレートとか。
「ああ、もちろん、止まっているものが消えてしまったら大変だ。だから、人間はカメラの方を揺さぶることにしたのさ。それが──」
「──固視微動?」
「ああ。止まっている物体を見つめている時、眼球が不随意運動で震える。それが固視微動と呼ばれる現象だ。手ブレ防止のカメラってあるだろう? あれとは逆に人間の眼は、わざとブラすことで物を見る。どうだい?」
 僕は理解を示す目配せを返した。
 この時、すでに僕の病気は発症していたから、先生の全身は消えたり現れたりしていた。決して消えないのは常に動き続ける眼と口だ。顔面全体も現れ出たり、その一部だけが浮かび上がったりと忙しい。
「ヴィンダウス症というのはね、その固視微動が阻害される病気なんだね。だから君の眼は確かに見ていても、脳はそれを認識しない、ということが起こる」
「原因は?」
「完全には、わかっていない。治療法も確立されていない。なにしろ、患者の数が少ないからね。ろくにサンプルも集まらない」
 この時点でヴィンダウス症の患者は世界中で六八人だったそうだ。動かないものは存在しない、と主張する六八人が、宇宙空間を休むことなく動き続ける地球の上にいる。なんだかカルトな陰謀論者になった気がした。
 きっとこの時、僕は皮肉めいた口ぶりで応じたのだろう、先生はちょっと苛立ったように早口になった。
「しかし、希望を失ってはいけないよ。この病の機序は悪くないペースで解明されつつあるんだ。私もその一翼を担っているという自負もある」
 ウー先生の顔は眼と口と頬の他は消えているけれど、どんな顔つきをしているかはわかる。きっと、得意満面の上に2%の憐みをまぶした表情だ。
「はい、先生、助けてください」
 空間にまぶたという切れ込みが走り、その中に蠢く白い眼球が光る。
「もちろん助けるとも」
 唇と歯と舌はそれだけを取り出してみると独立した生き物のように見える。
「まずは薬を飲んで様子を見よう」
 頬の咬筋は点滅する羽根のように上下してやがてふっつりと消えた。


3

 その薬というのがひどい代物だった。
 この世界のどんな製薬会社もたった六八人のヴィンダウス症患者のために新薬を開発したりしない。この病気は難病というよりも奇病と言った方が的を射ている。僕らに処方されているのは、だから、ヴィンダウス症にも効果があるかもしれない別の何かってことになる。象の耳糞かもしれないし、マンドラゴラの根っこかもしれない。僕はその薬を服用してすぐに、ひどい譫妄と多毛症に悩まされることになった。この副作用は本当にひどいものだった。僕はあやうく気のふれたチューバッカになりかけた。ヴィンダウス症患者は、ただでさえイカれてると思われがちなのに、その上譫妄まで加わったら、火炙りまであと一歩といってもいい。こんな薬は勘弁だ。金泰淳を含む、我らがヴィンダウス68の中に薄毛で悩む人がいれば別だが。
 というわけで僕はウー先生に処方された薬を、釜山は西面の裏通りに捨てた。そこは気の利いたカフェの二階で、全身脱毛と美容整形を済ませた女が兵役明けの筋肉ゴリラと指を絡ませるような場所だ。ボードゲームをしながら水煙草を味わえるのが売りなのだが、もちろん僕には、カフェの全容は見えない。上下するコーヒーカップや、貧乏揺すりする足、髪を弄る指などが虚空に浮かびあがって見えるだけだ。静止しているものが見えない僕がどうやってこのカフェまで来られたかだって? それは、チェ・ドユンが手を引いてくれたからだ。ドユンは僕の兄貴と同じ隊にいて、兄貴がヘルメットをかぶったままライフルで命を絶つのを目の当たりにした男だった。
「喉から脳天に向けてライフルを構えて、ウヌは引き金を引いた。銃弾はヘルメットを貫通しない。内側からベルトの掛かった顎を持ち上げて、頭をポーンと引き抜いた。樽の中の海賊を剣で突き刺す玩具があるだろう? ちょうどあんな具合にウヌの頭は飛んでいった」
 だそうだ。
 内向的で本の虫だった兄が軍隊生活に馴染めるとは思っていなかったけれど、まさか死ぬとは考えなかった。ヴィンダウス症に罹った僕がその現場にいたら、突如、空中に兄貴の頭が現れ、シャンパンのコルクよろしくふっ飛んでいく様を目撃したろう。ドユンはイジメに加担はしなかったが、兄貴を守ることができなかったことを悔いている。律儀な男だ。兄貴だって恨んじゃいないと思うよ。
「で、薬を止めるのか?」
「うん、気分、最悪でさ」
 僕はドユンの動く唇と瞬く眼に向かって言った。
 ストローの先から水滴が垂れているのが見える。すると縮まったストローの袋が芋虫のように蠕動する姿が現れた。短命な芋虫が蝶にならないまま消えてしまう一方、虚空の平面上では、ガラス壺の内壁に象られた水の塊が、収める器もなく、それ自体としてブクブクと泡立っている。その上には、赤く熱せられたココナッツの炭が赤く、これまた何の支えもなく浮遊しつつ明滅する。吸い口から引き込まれた空気が、炭を熾し、水を動かすという一連の変化。それだけを純粋に抽出して僕は見ている。
 なんという世界だろう。美術の教科書に載っていたシュールレアリズムの絵画が動き出したらこんな感じに違いない。
 ──ほら、ドユン、見えるかい? 
 切り取られた前腕部がダンベルを上下させる様が。ホイルスピンするタイヤと跳ね上がる泥であれば、タイヤが路面を噛んだ瞬間、前進する車体が召喚される。ボディ無きヘリのローターは回転しながら虚空をホバリングする。これらは、ほとんどの人間にとって悪夢じみた光景だったとしても、僕にとっては見慣れた現実なのだった。
「俺には想像もできない。止まっているものが消えてるなんて」
 ゆっくりと首を振るドユンの顔全体が視界に映じた。連動して動く肩も見える。消える鼻。現れる眉。間欠的に明滅するこめかみ。フラッシュする福笑いに鈍い相槌がオーバーラップする。この虚無と肉片のパッチワークを人間と呼ぶべきだろうか。
「ああ、正確に言うとね、動いているものじゃなくて変化しているものなら見えるんだ」
「わからないな」傾げる首が言う。
「たとえば、定点撮影で街並みを撮るとするよね。じっと見ていても変化に乏しい。でも数時間分の映像を早回しにすると太陽の向きや光の強さが変化していることがわかる。影も動く」
「そうだな」
「つまり、普通にしてると僕には見えないけれど、早回しにすると見えてくるんだ。それは変化が急激でわかりやすいからだ。脳がこれは変化だと認識して像を結ぶからね」
「なるほど、わかったぞ、おまえの脳はだな、情報の推移を認識するってことだな」
「そう」今日のドユンは物分かりがいい。
「運動は位置の変化だけど、色や向き、形状の変化でもいい」
「お見事だよ、ドユン、あなたは本当にドユンかい?」
「こいつ、バカにしやがって」ドユンの手が空中に現れて、同じく現れた僕の頭を小突くのが、突如として出現したガラスに映って見えた。
 ──つまり、こういうことだ。
 ガラスは運動していないが、僕らの運動を映し出すという変化を被ったことで、だしぬけに見えるものになった、というわけ。
「とにかく薬はもう飲まない」
 そう言って僕は薬のタブレットをテーブルの下に落とした。テーブルの存在は肘を乗せている感触でわかる。では、肘が存在していることはどうしてわかる?
 動かせば見える。なら、動かす前には? さぁどうだろう。
 この身体はどのように存在しているのだろうか。血流、神経の微震、筋線維の収縮を感じられないならば、それは存在していると言えるのか。微睡む非運動体と同じく、自己もまた不動の死物だ。
 ヴィンダウス症であるなしにかかわらず、五感で受け取る情報は、その実在を意味しない。見えていたからといって存在するとは限らないし、その逆も然りだ。聴こえない歌が耳元で鳴っているかもしれないし、嗅ぐことのできない香りに包囲されているかもしれない。
「薬が床に落ちた。落下という変化のさなかだけ僕は見る。そして消えた」
 それはまるで〝捨てた〟という行為までが消えてしまったかのようだった。巨大な消失が全方位から僕を取り囲んでいる。

4

 僕は自分なりに世界を取り戻そうとした。
 もう一度、見えなくなった部分を可視化するためには、その変化を感じ取ればいい。僕の出した推論はこうだ。

 前提1 僕の脳は変化だけを可視化する。
 前提2 この世界では実のところ、すべては変化しつつある。(それを感じとれないとしても)
 仮説 変化を感得したところに可視化は起こる。
 結論 ゆえに、変化を拾い続けろ。集音マイクで雑踏の音を拾い集めるように。

 視覚以外の知覚も総動員して、世界の変化のパラメーターを感得し続けるならば世界はもう一度現れ、そしてあわよくば消えずにいてくれるはずだ。
 しかし、言うまでもないことだが、それは至難の業だった。
 たとえば、どんなものでも摩滅し、酸化し、崩壊を起こしている。ミクロのレベルで起こるそれを僕らは〝変化〟として認識できない。つまり、人間の粗雑な知覚にとって、それは無変化の状態にあることになる。金属の酸化、鉱物の風化、海岸線の浸食作用、原子の崩壊などを僕らの生きる時間のスケールと知覚では変化としてとらえることは不可能だ。しかし、それでも確かに変化は起きている。
「それを捉えることができれば、僕はまた見えるようになるはずなんだ」
 僕はドユンに言った。
「確かに、新築の家も、眼に見えないが、どんどん値打ちが下がっていくもんな。三年も住めば見た目はピカピカでも半額以下さ」
 除隊したドユンは不動産屋でマンションを売っている。この時のドユンがどんなふうに見えていたかは想像にお任せしよう。
 窓の外では降りしきる雨と走る車、道行く人々が見えた。窓が見えたのは、そこを伝う水滴のおかげだ。大量の水がアスファルトに流れているから、こんな日は可視化の範囲が広い。
「だんだんと冷えていくマグカップ。僕はこの温度変化そのものを認識しているから、ほらマグカップが見える」
 僕は自分に言い聞かせるようにして見えない手元を見たが、あるべき場所にカップはなかった。軽く手を動かすとレモン色のカップがそこに現れた。ダメだ。微細な変化の傾斜そのものをキャッチするのは難しい。
「でもさ、その……固視微動ってのは言ってみれば、画面を揺さぶって環境を視覚化するって仕組みだろ。だったらおまえも常に頭を振ったり、視線をキョロキョロ動かしたりすればいいんじゃないか?」
 いい質問だ。カメラである視覚そのものが動いている時、世界は消えない。だから歩いていたり、走っていたりする時は、ほぼ健常者と同じものを見ていると言っていい。
「ヴィンダウス症の恐ろしさはそこなんだ」と僕は説明する。「この症状は、進行すると視覚のブレを補正してしまうんだ。まるで性能のいいカメラみたいにね」
 デレク・ウー先生の言葉を思い出す。
 ──手ブレ補正のカメラってあるだろう? あれとは逆に人間の眼は、わざとブラすことで物を見る。
 だとしたら、僕の眼はあえてブレないことで物を消去していくわけか。
「おまえの症状は、その……どこまで進んでるんだ?」
「僕のブレ補正機能は最新のカメラでも敵わないくらいになってる。飛んでも跳ねても、世界はブレず、つまりは消えたままだ」
 明るく言ったはずなのに、ドユンは暗くなって消えた。そうだ、表情に変化が乏しくなって、ドユンは僕の可視領域から外れてしまう。
 ここはドユンのアパートだろうか、それとも僕の部屋だろうか。見えるのは時計の秒針だけ。秒針だけが虚空を回転し続けている。
 もうすぐ僕の症状は完成するだろう。
 どんなバネやジャイロの補正よりも完璧にブレなく捉え、そのことによってすべてを抹消する機能が。


5

 僕の訓練は続いた。
 生まれてこのかた発揮したことのない集中力で事象の変化を感じ取ろうとした。空気を漂うにおいの推移を、肌に触れる湿度の変化を──味覚で、聴覚で、ほんのわずかな、毛の先ほどの兆しを読み取ろうと奮闘した。
 僕は一日に数度、過度の集中によって失神した。
 でも、やめることはできない。成功しなければ、世界が消失してしまうのだから。部屋には、兄の遺品である玩具たちが溢れている。宙を周回し続ける列車。ひたすらにシンバルを打ち鳴らす、身体なきゴリラの腕。櫛歯とシリンダーだけが剥き出しになったオルゴールの動きは緩慢で、か細いメロディーと一緒に、いまにも消え絶えてしまいそうだ。すでに消失してしまった無数のフィギュア。ソフトビニールの怪獣とヒーローたちに呼びかけても応じる声はない。ブリキのロボットたちはどこだ? 地球の命運は誰に預ければいい?
 僕は兄の死を思った。ライフルを喉にあてがい引き金を引くまでの数秒、どれだけの永遠がそこに流れただろう。
 ──死。
 それは向こう側を絶対に見せてはくれない試着室のカーテンだ。あっち側では、どんな衣装に着替えさせられるかわかったもんじゃない。不似合いなタキシードを着た兄を想像して思わず吹き出す。それから涙が出た。
 それともそっちには本当の不変があるのか?
「僕を助けてくれ、ウヌ」
 兄の名を呼ぶのは何年ぶりだろう。
 兄貴、世界を再創造する力をくれ。
 まぶたの裏で、一張羅の兄貴がはにかみながら首を振った。イメージは脳内で像を結ぶものの、ひとたび眼を開けば、そこには運動と白けた虚空との不気味なモザイクがあるだけ。灼けつくように喉が渇く。非空間化され、霞がかった部屋の片隅をまさぐると、空中から花びらを取り出すマジシャンのように僕はマイナスドライバーを手にしていた。ありがたい。手がひどく震えるせいで錆びついた工具は実体として消えずにいてくれる。こいつを喉に突き立てれば──この渇きから解放されるだろう。そうすべきだろウヌ?
 そして僕はこの日、三度目の気絶をした。
 ぼんやりと眼を開けると部屋が見えた。認識の死角に消えていった、たくさんの玩具たちだけでなく、ベッドが、床が、天井が、フィギュアを詰め込んだアクリルケースが、フェンダーのギターが、壁にピンで留められた写真が、
 ──すべて見えた。
 あらゆる怪獣とヒーローたちが戻ってきた。行き過ぎたミニマリストのそれのように空っぽ同然だった部屋が、いまや押し合いへし合いの混雑の様相を呈している。
 ヴィンダウス症が出ていない?
 そうじゃない。固視微動は戻ってきていない。だが、僕の知覚が世界のどんなわずかな変化をも捉えているがために世界は在るのだった。少なくともこの部屋にあるすべての物質における変化の推移を僕は感得している。
 音響に軋む壁、湿度によってたわむ建材、その湿度と気温の滑らかで気取らないダンス。時計の歯車の振動や僕の着ているセーターの毛羽が擦れ合う微動から電子のゆらめくスピンに至るまで、僕はすべてを感じていた。
 それゆえに何もかもが再視覚化されていた。
 ひと昔前、日本のアニメや小説では異世界に転生するというネタが流行ったそうだが、僕はといえば世界の方を召喚した。
 世界を再視覚化することで転生させたのだ。
 自分で望んでおきながら、なぜこんなことが可能なのかわからなかった。あれだけの集中でも不可能だったことが、いまでは何の苦も無くできている。
 それだけじゃない。この無限の変化のさざめきの中に、ひとつの大いなる統合が聴こえてきた。宇宙の全容ではない、宇宙さえその要素として含む何かの全容が在る。
 ──総体と全容。
 ドユンが知ったら、と僕は思った。
 イカれちまったのかと驚くだろう。明滅する福笑いではなくなった、その顔を見るのが楽しみだった。


6

「ついにイカれちまったのか?」
 ほらな。ドユンは冷麺をすすりながら言った。
 口の中に吸い込まれていく冷麺だけが見える、わけじゃない。いまやドユンの全体が見える。固太りの冴えない男がそこにいた。ボーダーのラガーシャツに色褪せたジーンズを合わせている。髪型はドユンよりひと回りは若いアイドルの真似だろう。真っ青に染めていないだけマシだが。
 改めて紹介しよう、これが愛すべき我がチェ・ドユンだった。
 すべてがくっきりと視界のキャンバスの中に描き残しもなく収まっていた。なんと素晴らしいこの世界。
「そうかもしれない。でも僕はこれでいい。イカれたままで」
「なぁ、母さん、テフンが悟りを開いたお祝いにプデチゲをご馳走してやってくれ!」
 ドユンが厨房に向かってわめいた。そう、ここはドユンの母の食堂なのだ。
 僕たちは食事を終えると、海雲台のビーチをブラブラ歩いた。
 目覚めの日から何日たっても世界はこぼれ落ちる心配はなかった。むしろ圧倒的な情報量で迫ってくる。このビーチに佇んでいてさえ、大量の変化の波が押し寄せてくる。それを僕はひとつひとつ聞き取りながら、同時に聞き流していく。
「なぁテフン。聞いてくれよ」とドユンがバツの悪そうな顔で言う。
「なんだい?」
「イ・ユナにプロポーズしようと思う」
「彼女はドユンの頼みならなんでも聞いてくれるよ。ドユンの壮絶に汚い部屋を掃除してくれたんだ。結婚には消臭剤もビニール手袋もいらないだろ」
「まったく、テフン、おまえもうちょっとマシな気休めが言えないのか。だいたいおまえは年長者に対して敬語もなしだ、そんなじゃ厄介な病気が治ったからといって……」
「わかった、わかったってば」
 ドユンの説教は本気じゃない。イ・ユナのことで緊張しているのだろう。イ・ユナは兄貴の彼女だった人だ。僕の意見が気になるのもわかるけど、もちろん僕はなんとも思っちゃいない。兄貴だってドユンなら喜ぶはずだ。こじんまりした玩具屋の店主となって、はにかみ屋のイ・ユナと平凡に年老いていくことを兄は望んでいたが、彼自身のいない世界では、イ・ユナは信頼できる親友の隣にいるべきだと考えるだろう。
「……指輪も用意した!」
「うん。安物だけど愛がこもってる」
「おまえ見てもいないくせに安物だってなぜわかる?!」
「いいから、いいから」と僕はドユンの肩に手を回し、波打ちぎわで靴を濡らしながら、たっぷりとドユンをからかった。
 結婚によって、ひとりがふたりになるのは悪いことじゃない。
 それは数と価の変化であり、さらなる何かだ。


7

 ウー先生の対面診察は四か月ぶりだった。
 香港への渡航費用もバカにならないから、最近は釜山・香港間でのテレビ電話による問診で済ませていた。僕は薬を飲んでいないことを隠していたし、もう治療の必要もないことも黙っていた。たまに香港に来る時は、まとめていろいろな検査をしたものだったが、今回は問題が起きた。
 ウー先生は僕の脳のMRI画像を見て血相を変える。
「信じられん。君の脳は……形状が変わった。前回までは確かに普通だった。しかし、これは──」
「いろいろ心境的な変化がありまして」
「心境の変化で脳が変わってたまるか」
 ウー先生らしくない興奮ぶりだった。
「わたしは脳の専門家じゃないが、これは尋常ではない」
 このままじゃモルモットにされる予感がしたから、僕はとうとう言うべきことを切り出した。
「ウー先生。その言いにくいんですが、僕にはもう治療は必要ありません。よくなったんです」
「なんだと、完治したというのかね?」
「ええ、先生の足から今飛んでったスリッパ、あそこにある、ええ、裏返ってますよね」
 ウー先生はスリッパと僕を交互に見た。まさか君たちが知り合いだったとは、とでも言いだしそうな顔で。
「ええと、だからいろいろお世話になりました。感謝してます」
 僕は深くお辞儀をした。
 戸惑いを隠せないウー先生だったが、ベテラン看護師の棘のある視線を浴びると「そうか」と言った。「患者が健康になる、医師にとってそれに勝る喜びはない。ただ、医師の責任として、君の病状の経過を見守らなければ」
 僕はそっと手を差し出し、長年の戦友であるウー先生と握手をした。僕にとっては別れの挨拶のつもりだったのだけれど、先生からしてみたら別の意味があったのかもしれない。先生の手の中にある無数の変化の束を僕は読み取った。脈拍や手の湿り気、握力の加減……。
「先生、少し睡眠が浅いでしょう? お酒を減らして自転車を買うといいですよ」
「……なんだって?」
「心臓が弱ってます。きっとお気に召すサイクリングロードが見つかるはずです。沙田から出ているコースはいかがですか。大美督ではなく烏渓沙へ続くコースへ。ビーチがきれいだし、潮風も気持ちいい。心臓に負荷をかけないようにゆっくりと漕ぐんです。バターにナイフを入れるみたいにね」
「いや、そうじゃない。私が君に言いたいのは……」
 僕は先生を無視して自分のMRI画像を眺めた。
 眼に飛び込んできたのは、菩提樹の実のような美しい構造だった。


8

 僕がヴィンダウス症を克服してちょうど一年ばかりが経った頃、サンギータ・レグミはやってきた。渡された名刺にはこうあった。
 ──トリヴァンドラム物理センター所長。
 ──バンガロール大学理論物理学科准教授。
 二四歳になったばかりの僕は、ドユンに紹介された〈洞窟〉に勤務していた。正しくは〈プラトンの洞窟〉、VRを使った資格取得スクールである。ここのインストラクターである僕にサンギータは英語で話しかけてきた。
「ヘイ、キム。探したわ。あなたに協力して欲しいの」
「君は?」
「サンギータ・レグミ。デレク・ウー医師をご存知?」
「最近はご無沙汰だけどね。彼は元気かな?」
「一五段変速ギアのロードバイクを買ったわ」
 サンギータは、インドからわざわざ僕に会いにきたという。ヴィンダウス症の経過について知りたいらしい。まだ二〇代に見えるが、ハイブランドの青いサリーの上からビニール製のロングコートをまとった彼女は、雨の多いこの季節には相応しい姿だった。
「じゃあ、一〇分後に。海洋資源開発技師の実習観境で話そう。水深四〇〇〇メートルのコンチネンタルライズで待っててくれ。チャンネルは⑭に合わせて」
 サンギータと落ち合ったのは、一五分後だった。
「すまない。仕事が押して」
 僕たちは緩やかな大陸斜面に腰かけた。
 仮想空間でなければ、生身で生存できる環境ではない。水温一・五℃、水圧は──考えたくもない。真っ暗な深海のはずだが、設定を変更しわずかな光源を引き込む。薄明りに映し出された深海魚たちはぶしつけな客を嫌がるように冷たい水底を泳ぎ去っていく。
「それで?」
 僕は訊いた。この場所は単なるシミュレーションに過ぎず、溺死することも圧死することもないと知りつつも、本能のどこかが、ここは人の来る場所でないと警告を鳴らし続けていた。
「わたしはヴィンダウス症について調べているの」
「サンギータ。君は医者でも生物学者でもないだろ。どうして病気のことなんか?」
 そう、名刺を見る限り、彼女は物理学者であり、世界に六八人しかいない奇病に関わり合う義理はない。
「……ええ、それについては、あとで話させて。ご存知の通り、ヴィンダウス症は現在は七一人の患者が報告されている珍しい疾患です」
 最新情報ありがとう。喉元過ぎればなんとやら、症状を克服した僕はろくにヴィンダウス症について追いかけていなかった。加入していたニュースグループからも遠ざかっていたから、新入生が三人増えてたことを知らなかった。
「発症すれば、完治することのない、いまだ治療法も未確立の──いわゆる不治の病ね」
「何かの手違いでよくなることもあるんじゃないの」
 僕は僕のことをほのめかした。
「ウー医師から報告を受けましたが、あなたでさえもよくなってはいない。固視微動は戻らず、発症前の健康を取り戻してはいない」
「完治や健康の定義によるけど、まぁ、そう言えるね」
 ウー先生はやはり僕に起きた現象を吹聴しているようだ。インドくんだりから偉い学者がすっ飛んでくるほど大っぴらに。
「ただ、新しい健康を手に入れたとは言えるみたいね。別の機能によって症状の弊害を取り除いた状態。つまり、腕を無くした人が精巧な義肢で生活に不自由していないような」
「そういうことだね。腕は生えてこなかったよ」
 でも、新しい腕は元の腕よりもいい具合だ。リンゴも剥ける。
「もうひとり、キム、あなたのような意味で自己回復に至った者がいるの」
 お仲間がいるとは光栄だ。秘密結社ヴィンダウス68の中にそんな奴が? いやヴィンダウス71か。
「マドゥ・ジャイン。一四歳のジャイナ教徒の少女よ」
「へぇ、その娘も取り戻したんだな」
「そう」サンギータの豊かな髪は水の中でバラバラに広がることはない。この水圧の中ではむしろ顔にはぴったりと張り付いてしまう。僕はまた設定に手を加え、この場所の物理設定のほとんどを無効にした。
「マドゥは六歳の頃に固視微動を失ったの」
 僕は同情を禁じえなかった。病気を告げられた時に感じた自己憐憫と同じ程度には。
「この病の進行の果てがなんであるか、実はあまり知られていない」
 サンギータは顎に指を添え、考えるポーズを取った。彼女の彫像じみた顔立ちなら深海での沈思黙考もサマになるんだな。僕がやったら破裂したクラゲにしか見えないだろう。
「脳はだんだんと運動と変化を捉える機能を衰退させていくけれど、それはまだ完全に失われない。患者は、中途半端な中吊りのまま、時折、何かが動くだけの世界、消えたり点いたりを繰り返す点滅世界でしばらくは生き続けることになる」
 そうだ、部屋の明かりのスイッチをパチパチ点けたり消したりする悪戯と同じだ。オンとオフを繰り返す外界……僕なら気が狂うだろうな。
「あなたはもう一度、部屋の電気を灯したのね」
「そう。ウー先生になんて聞いてるか知らないけど」
「マドゥはあなたと逆向きに行ったの」
「というと?」
 僕たちは座っているのに飽きて深海の底を歩き出した。もっと深い底へと。
 黒煙を吹き出す熱噴出孔が前方に見える。そこには無数のチューブワームと盲目の端脚類たちが生存を賭けて身をよじっている。もっと浅い場所へ戻れば美しいガラス海綿類の姿を楽しむこともできる。透かし編みのシリコンでできた白い籠である偕老同穴、ビーナスの花籠とも呼ばれるそれは、インドの女の子をきっと喜ばせるはずなのに、なぜか僕たちは暗い深淵へと向かっている。
「彼女は部屋の明かりをすべて消そうとしたの。これがどういう意味を持つかあなたならわかるでしょう」
「世界を消そうとしたのか?」
「ええ、運動と変化のない世界へ。真っ白な余白が続く場所へ向かったわ」
 運動しているもの以外は消えてしまう症状であるヴィンダウスにとって、非運動体は無に等しい。そして無に行き着きたければ……?
「すべての現象をデジタルな刹那の瞬間として認識し続けることで、世界は細切れの停止した断片になるでしょう?」
 ストップモーションの一コマ一コマに世界を還元していくような作業。
「常軌を逸してる」
「あなたもね」
 そうだ。僕がすべてをアナログな連続体として認識し続けようとしたのとちょうど逆向きにマドゥは最小単位で連続を切り刻んだ。そうすることですべてを停止させ──Poof!!──彼女の世界は消失したのだろう。
「人間の成し得る集中の極限に、あなたとマドゥは立った。そして興味深いことに二人の脳にはシナプスの増設と新たな接続が果たされた。まるで別の種族の脳のように形状も変化させてね」
「ちっ、あの香港人め。やっぱり僕の脳画像をバラまいてやがったのか」
 それは新しいポルノだ。世界中の学者が僕とマドゥの脳味噌で自慰行為にふけっているに違いない。
「それで? 外界が消失した彼女はどうやって生きてる?」
「神の至福に浸ってるわ。これについてはインドの特殊な事情といってもいいでしょうね」
 インドでは奇形や障害も神の力の顕れと見做されることがある。象に首を挿げ替えられた神や、多面多臂の神々の住む土地だ。
「もともとジャイナ教の熱心な信者の家庭に生まれたマドゥは、症状による外界の消失を恐れなかった。というよりむしろ望んだのね」
「そんな」
 僕は深海であんぐりと大きく口を開けていたに違いない。塩辛い水が流れ込むこともなく、しゃべり続けた。
「それで、どうやって生きることができる?」
「彼女を聖女と見做した人たちが付き添っているの」
 僕は想像した。インドの農村に押し掛ける人々。ひれ伏し、ルピーと果物を捧げ、祭司に額の印をつけてもらう。
「彼女は二十世紀に活躍したアーナンダ・マイ・マーという聖女の生まれ変わりとして崇められています」
 また転生か。
 とてつもない話だが、病院に隔離されるよりはよほどいい。彼女は完全看護の状態におかれ、周囲の人間は安らぎと啓示を得る。どこにも問題はない。
 部屋の明かりを灯した者と消した者。
 いや、彼女にとってはあの消失の虚空こそが溢れる光の世界なのかもしれなかった。僕が裸足で逃げ出した場所へ彼女は自ら飛び込んでいったのだ。僕にとってそれは、ギロチンの刃にダイヴするのと同じだったが、彼女には天国のドアだったというわけ。
「そのマドゥって娘の事情はわかった。で、サンギータ、あなたはどんな事情でアジアの半島まで来たのかな?」


9

 サンギータと僕は、〈洞窟〉を出ると、現実の釜山を楽しんだ。
 ガイドブックに載っている、世界でもそんなに悪くない都市釜山。
 しだいに秋へと向かう季節。僕は前にドユンと歩いた海雲台ビーチを、逆向きに歩いた。〈洞窟〉の先輩は、サンギータが僕のガールフレンドだと早とちりして一万ウォン札を四枚握らせてくれたから、ちょっとしたモノならご馳走してやれるだろう。
「わたしの事情を話すには、もう少しマドゥの話を続けなければいけないわ」
「じゃ、どうぞ?」
 僕にとっては、遠いインドで至福に浸っている女の子よりも、眼の前のサンギータの方が魅力的だ。ミルクチョコレート色の手足はすらりと長くてしなやかで、どんな遠くにあるものでも手を伸ばせば取れそうだ。朝鮮半島だって、彼女にかかれば手ごろで掴みやすいアイスのコーンのようなものかもしれない。
「インドに星の数ほど存在する聖者たちの例に漏れず、彼女も奇跡を行なったの。病気を治したり、空中から物質を取り出したりね」
「胡散臭い話だ。集団催眠、プラシーボ効果、それに手品といろいろ考えられる。いや、これは彼女に悪気があるって話じゃない。彼女を利用して一儲けを企んでいるやつがいてもおかしくないってことで」
「いいえ、彼女については現実的な科学的検証を行ったの。いまほど有名になる前のことだけど」
「うん」僕はサンギータの次の言葉を待った。
「驚くべき結果だったわ。マドゥの周囲では、物理の法則がまるで違ってしまったみたいだった。精密な実験室でしか作れない非結晶金属が無数に検出されたり、氷の多型として知られる一七種類とは異なるアイスⅩⅧとでも言うべき秩序相、それにジャンクDNAの著しい活発化による──」
「ストップ。ごめん、ひとつもわからないや」
 まるで火を見たことがない原始人を見るような眼でサンギータは僕を見た。ちょっといいなと思い始めてた女の子にこんなふうに見られるのはつらいものだ。
「つまりマドゥは本物の超能力者だったってわけだ」
 僕の要約にサンギータは首を振る。
「彼女は、コミックに出てくるような鉄骨を捻じ曲げたり、戦車を爆発させたりする類のサイキックじゃない。あなたたちの観測行為は、能動性を帯びて、静かに急速にすべてに影響してる」
「あなたたち? 僕もそうだと?」
「可能性は高いでしょう。現象そのものを感得しようとする行為が、現象そのものに変化を及ぼす。ミクロの世界ではわりと当たり前のことね」
「だったら、引き続きマドゥの研究を続けるべきなんじゃないのか?」
「言ったでしょ。インドは複雑な国なの。聖なるものとなったマドゥには誰も触れられなくなった。もし、彼女をラボに連れ込もうとしてみなさい。わたしは八つ裂きにされて路上に転がる羽目になるわ」
 ちょっと大げさだろ、と思ったが、サンギータの眼はあくまで真剣だった。
「だから、あなたに協力して欲しいの。人類と科学の発展のために」
 サンギータは足を止めて、僕に懇願する。
 夕映えに照らされたビーチはロマンチックという名の書割のようだった。
 遠くで僕らを見ている人がいたら、エキゾチックな美女に僕が告白されていると勘違いしただろう。
 僕、キム・テフンはここで人生を左右する決断を下すことになる。
 サンギータと手と手を取り合い、ブッダの生まれた国へ高飛びするか、それとも大韓民国で兵役を免れた立派で一人前の男として、深い洞窟にこもるか。
 僕だけのために遠い国からやってきた女の子の頼みを断ることができるのか、海の泡がはじけて消えるほどの時間をかけて答えを出した。
「ごめんなさい」


10

 だってそうだろ?
 インドでモルモットになって毎日カレーの生活が待ってたかもしれなかったんだ。僕なんかが、あんなに美しい女性とお近づきになれるチャンスはまずない。でも、科学者と被検体というカップリングはぞっとしない。
「おまえの童貞ライフここに極まれり、だな」
 ドユンは左手に結婚指輪を煌めかせながら、居丈高に言った。
 おそろいのティーカップだとか、お風呂は一緒だとか、靴下まで履かせてもらってる、とか宇宙一どうでもいいトピックを提供してくれる貴重な男ドユン。僕はこの男をいつか手にかける日が来るような気がしてならない。
「のろけをさんざん聞かせたと思ったら、今度は童貞ディスか。韓国で一番危険で先鋭的なグループを敵に回したな」
「インドもいいじゃないか」
「他人事だと思いやがって」
 とにかく僕は丁重にお断りしたのだ。サンギータと親密な仲になりたいのはやまやまだったけど、ボリウッド版X‐MENになるつもりはない。
 帰国後もサンギータはなかなか引き下がらなかった。というかまだ諦めてはいない。いまでも毎日のように説得のメッセージを寄越す。
「これはもう付き合ってるのと同じだよね」
「違うな」ドユンはスマホゲームをしながら弟分の牽強付会ぶりをたしなめた。「彼女はおまえをモルモットとしか見ていないぞ。宗教もスパイスもねじ伏せて男としての気概を見せつけないからだ」
 僕はいたたまれなくなってドユンの母の店を出た。代金はもちろんドユンにつけといた。
 いつものように定時に〈洞窟〉へ出勤する。
 客がいないうちにマシンの調子をチェックする。離脱薬のパッチを腕に貼り、ヘッドセットを装着すると僕は釜山から月面へ飛ぶ。月面作業員の実習観境。来春からなんと韓国も月面ステーション建設に着手するのだ。希望者はひっきりなしだ。僕は灰色の月面に立ち、宇宙の虚空と向き合う。地平線上に浮かぶ母なる地球にしばし望郷の念を覚える。所詮は仮想空間と言うなかれ、ヘッドセットだけでなくエプソムソルトを注入されたスーツをまとっての実習中はちゃんと六分の一Gをリアルに体感することができる。リアルな月面作業を習得するなら、我らが〈プラトンの洞窟〉がおススメだよ。
 ──問題ないか?
 先輩からの通信が入った。
「はい。大丈夫です。今日も頑張りましょう」
 そう言って仮想空間からログアウトしようとした時だった。
 月の地図上で、神酒の海と呼ばれる場所に反応があった。
 先に誰かがいる。
「まだ営業時間前だぜ」
 気の早いお客が紛れこんだのか。受付のパク・ミョンジャは抜けてるところがあるからな、と僕は苦笑を浮かべる。
 僕は神酒の海へとスキップした。仮想空間では距離を飛び越えるのは造作もない。
「お客さん、もう少しお待ちくだ──」
 言葉を失った。そこにいたのは死んだ兄貴だったから。
「──ウヌ!」
 兄貴は生前と変わらぬ姿で、月だというのに宇宙服もまとわず、ワイシャツとハーフパンツといういで立ちだ。なんだタキシードじゃないのか。こまめに磨かないからメガネが曇っている。月でもレンズが曇るんだと僕はバカなことを思った。
「そうかドユンだな。悪戯にしては趣味が悪いぞ」
 もちろん、ここは仮想現実の世界だ。本人とは別の姿を送り込むことはできる。ここは実習観境だから、ほとんどの人間は自分そのままの姿をスキャンして投影させるのだが。
「わたしはマドゥ・ジャイン」
 兄貴が言った。
 それはサンギータから聞いた奇跡の少女の名前だった。
「やっぱりドユンだな」
 兄貴のことを知っていて、かつマドゥについて話したのはドユンだけだったから、この悪趣味な仮装の主は、ドユン以外ではありえなかった。
「どこだ? どこから入ってきた?」
 遠くからログインすることももちろん可能だったが、まだ通いで技能を体得する者が多い。実際の工具や装備を扱いながら仮想空間に入るほうが効率がいいためだ。
「マドゥ・ジャインの身体はカルナータカ州の寝台の上にある」
「ふざけるな。しつこいぞドユン」
 そろそろバカらしくなってきた。
「わたしはマドゥ。このアクセスは非公式となる。アドレスを追っても無駄だ。痕跡も残らない」
 兄貴の顔をした誰かは無表情にそう言った。
「キム・テフン。あなたに忠告をしに来た」
 だんだんと笑えなくなる。本当にこいつはマドゥなのか。ドユンがわざわざ兄貴の生前の姿を精巧にモデリングまでしてここに投影してくるとは思えない。兄貴が生きていた時代は、まだ各種エントリーシート用に全身の3Dデータを作成するという習慣はなかった。
「君が本当にマドゥなら、これもまた君の奇跡だってわけか?」
「奇跡か。我々が月にいるということほど奇跡的なことはあるまい」
「これはヴァーチャル空間だ。コンピューターが作り出した幻影だ」
「すべてが幻影なのだ」厳然とマドゥは言った。「君がサンギータの誘いを断ったのは賢明だった。彼女は物騒な企業の後押しを受けている。もし君が協力したならば、大変なことになっていただろう」
「大変なことって?」
「積み重なる死。それもまた幻影だが、生には貴重なチャンスとしての価値がある」兄の姿をした存在はちょっぴり自分の死を悔やんでいるように見えた。
「どういうことだ?」
 サンギータの研究内容が恐ろしい大量破壊兵器を生み出すのか、それとも時空を歪める悪魔の装置を作るのか。マドゥを名乗る兄貴の姿をしたものはゆっくり首を振った。
「生という移ろいやすい舞台の上でこそ、人は神へと心をゆだねることができる。キム、あなたもヴィンダウス症というまたとないチャンスを与えられながら、こちらへ踏み込まなかった。儚い幻影に魅かれた」
「ああ、僕はこの世界が在るように望んだんだ。君とは逆にね。それが僕にとっての明るい部屋だった」
「──明るい部屋か。わかった。君はそこにいるがいい。サンギータの誘いには引き続き耳を貸さないことだ」
「わかったよ」
 この期に及んで、僕はまだドユンの悪ふざけだという線を捨てていなかった。
 そんな僕の内心を読んだようにマドゥはこう言った。
「これを君に」
 マドゥが投げ渡したのは月の石だ。コンピューターによって仮構された月の石。重さも手触りもあったが、この仮想空間でだけ、実体を持つ仮初の石。放り出されたそれは弱い重力のせいでゆっくりと山なりの軌道を描く。
「テフン」
 マドゥが言った。いや、その声は兄貴のものだ。
「テフン、ドユンの奴に伝えてくれ。彼女を幸せにしてくれ、と」
「わかったよ、わかったけどさ──」
 弟に言うことはないのかよ。兄貴らしいといえばらしい。兄貴の眼の奥から、インドの少女の透明な視線が僕を射た気がしたが、それも錯覚かもしれない。
 僕は〈洞窟〉からログアウトした。
 月面から舞い戻った僕は地球の重力を味わう。
 ヘッドセットを外し、大きく息を吐くと、先輩が怪訝そうに僕を見た。
「キム・テフン、その石をどこから?」
 僕は握りしめた左手の中身から眼が離せなかった。


11

 奇跡というのは、イカれた現実の別名だ。
 僕が仮想の月面から持ち帰った石は、韓国航空宇宙研究院に鑑定をゆだねたが、悪戯と見なされて突き返された。〈洞窟〉の防犯カメラをチェックしてみると、出勤した僕のズボンのポケットに不自然な膨らみが確認できた。あの石を僕は気付かぬまま持ち込んでいたのかもしれない。しかし、それとて仮想現実の物体が実体化するのとさして変わらぬ奇跡だ。インドから韓国の僕の意識下の行動を操作するなど信じがたい離れ業だった。
 僕は七転八倒ののち考えるのをやめた。
 同じ頃、新婚旅行中のドユンから絵葉書が届いたが、そこにはローマのコロセウムの写真と殴り書きのハングル文字があり、僕はそれを一瞥するとデスクの前の壁にピンで留めた。さて次の便りは──最近ようやく間遠になったサンギータからの説得のメールかと思ったが、そうではなかった。ここしばらく確認を怠っていたメールボックスには、デレク・ウー医師からの熱烈な誘いの言葉が溢れかえっていた。時系列にそって古いものから開封していくと、さして時間はかからずにウー先生の言いたいことは飲み込めた。どうやら、ヴィンダウス症の究明に大きな進歩があったらしい。ついては、極めて特異な寛解への経過を辿った僕の協力を要請するとある。
〈寛解〉
 それはどんな意味だったろうか。
【全治してはいないが、症状がおさまって穏やかであること】
 この地球上でたった二人だけ寛解へ至ったのがキム・テフン、そしてマドゥ・ジャインである。確かに貴重なサンプルであることは間違いない。僕とて同じ病気に苦しむ患者のため、この身を捧げるのにやぶさかではない。しかし、ウー医師は僕の症例を世界中の研究者にバラまいた疑いがある。そのせいでサンギータという美しくも危険な香りのするインド女性が僕の人生に登場したのだった。
「香港人はもう信用しない」
 僕はひとりごちた。ドユンがそばにいれば相談するのだが、彼は新妻とヨーロッパを周遊しており、今頃はスペインの片田舎で牛にでも追いかけられているに違いない。マドゥはとんでもない方法でサンギータに近づくなと伝えてくれたが、ウー先生については何も言っていない。
 インドと香港の綱引きの間に立たされた僕はどちらにも応じないと決めた。たとえ法外なギャラを提示されていても、だ。僕にはようやく手に入れた健康な身体とマンネリでも堅実な就業先がある。同じ病気に苦しむ人たちを助けたい気持ちはあるが、僕は自分で思うほど慈善家でもロマンチストでもなかったようだ。これからはヴィンダウス症などという奇病に罹っていたことはすっぱり忘れて人生を謳歌したい──
 が、そこに青天の霹靂とも言える事態が起こった。


12

 同僚のパク・ミョンジャからの電話は珍しかった。
「キム。大変よ、〈洞窟〉が営業停止処分になったわ」
 その時、僕はといえば、部屋でビデオゲームに夢中だった。ヴィンダウス症の寛解以来、どんなゲームも楽勝で、難易度をハードからナイトメアに上げてもまるで歯応えがない。反射速度や動体視力が向上したのではない。寛解した新しい脳は、僕の行動様式を外界と折り合いのつかない幼児同然のものと改めて見なすことで抜本的な再学習を開始したのだ。
 これは僕の努力でもなければ決意ですらない。成人とて歩くことや食べることにおいて習熟しておらず洗練から遠いが、僕の脳はそんな不備を見逃さなかった。さらに高度な運動となれば、なおさら無限に成長の余地がある。そんな自分自身に、僕はまだいくらか戸惑っていた。電話を受けたのは、ちょうどロシア産超難解ゲームを鼻歌混じりにクリアした時だった。
「どういうこと?」
「どうもこうもないよ、オーナーがやらかしたの。あのハゲ、離脱薬にまだセプラードを使ってたの!」
「マジか。メセドンに替えたって」
「在庫が大量に余ってたから無くなるまで使おうとしたみたい。そこに手入れが入って一発アウト」
 VR空間への没入を助ける離脱薬には、セプラードという薬が使われていたが、最近になってその副作用が危険視され薬事法はそれを禁じた。間質性肺炎やアナフィラキシーショックなどの症状が認められたからだ。僕はほとんど影響を感じたことはなかったが、体質によってはネガティヴな作用が発現する場合がある。実を言うと僕はそれを〈洞窟〉に勤める以前から安価な脱法ドラッグとして使用していた。通常空間においてセプラードは笑気ガスに似た効果を及ぼすためささやかな憂さを晴らすにはぴったりの嗜好品として街に出回っていた。店長も在庫を抱えるのが嫌なら、僕に預ければよかったのに。
「ドケチだし、そもそも従業員をなんだと思ってんのよ!」
 受付のパク・ミョンジャは離脱薬を使う業務はなかったが、仰る通り、オーナーの非人道的な方針には許しがたいものがある。
「ってことはつまり僕らは──」
「そ、失業よ」パク・ミョンジャはそう告げると荒っぽく通話を切った。
 数秒ほど宙を仰いでから、僕はウー医師からのメールに返信をした。テレビの画面にはゲームのエンドロールが流れていたが、プレイヤーである僕にとってこれは新しい何かの始まりだった。

第2部 成都


1

 出迎えたウー医師は元気そうな僕の姿に驚いたけれど、僕だって浅黒く健康的に日焼けしたウー先生に眼を丸くしたと思う。
「君に勧められて以来ハマってしまってね。いまやサイクリングは第二の人生だよ」
 先生の大腿部は細身の女性の腰ほどの太さがあった。白く光る歯は清潔感を通り越して作り物めいている。
「研究所には居心地のいい部屋もあるが、気に入らなければ外で見つけてもらってもいい、成都は我が国における、疫学、神経科学、遺伝子工学などのメッカとなりつつある。きっと実りのある研究ができる」
 僕は香港ではなく、中華人民共和国四川省は成都に降り立った。ひっきりなしに人が行き交う双流国際空港のコンコースで僕らは視線と握手を交わした。
「サンギータを送り込んだのは先生ですか?」
 僕のトランクを引きながら、ウー先生は気まずい表情になったが、タクシーに乗り込む頃には持ち前の明るさを取り戻した。
「あれについては、彼女の独断だよ。私は君の個人情報を明かしてはいない」
「わかりました。信じます」
「どうだい、成都の街は?」
 蜀の都として名高い四川の省都は、中心部に伝統的な街並みを残したまま郊外と地下部分に先進的な都市機能を配備した、古く、そして新しい街だ。上海、北京、深圳などに続く高度にキャッシュレス化した経済圏を誇り、虹彩と声紋のスキャンによって、屋台から小売店までほぼすべての支払いを済ますことができる〈先進技術実証特区〉である。古びた石畳の内側には電子回路と光学的デバイスが静脈のように埋設されている。旧市街の老朽化した高層ビルの間を縫うように飛ぶエア・レースでも名高い。
 壮麗にして空虚なだまし絵成都。
 主治医であるウー医師がここ成都の研究施設に引っ張られたのであるから、僕の次の人生のシークエンスも同じくここ成都で繰り広げられるというわけだ。
「風情がありますね」
 僕は新陳代謝する都市の律動に耳を傾けた。
 水路のさえずり、タイヤと路面が奏でる摩擦の音階、若者の嬌声、気象衛星から降る情報の雨音……変化の総体が僕にとっての成都を現前させていた。
「気に入ったかい?」
「ええ、とても」
 埃っぽい路面を疾走する自動タクシーは、中央五区を縫って、青白江区で停車し、僕ら乗客を吐き出した。
「わたしは香港が懐かしいよ。さぁ着いた、四川生化学総合研究所だ」
 故郷に後ろ髪を引かれつつも、ウー先生は現在の勤務施設への思い入れも隠さなかった。それはものものしい威容を誇る、巨大で武骨なコンクリート塊だった。成都の中央部には、高層建築はほとんど残っていない。都市機能の大部分は地下に埋設され、地上は見晴らしのいい城下街のような光景を呈している。中国の未来は世界の未来、それがこの街のスローガンだ。
「ここは刑務所だったんだ。不気味だが居心地はいい」
「ウー先生はここの偉い人なんですか?」
「いや、重要ではあるが、それほど大きくはないひとつのセクションを任せられているだけだ」
「ヴィンダウスは中国でも?」
「いや中国では患者はあまりいない。治療に訪れている人間も海外からだ……何人かはここで暮らしているよ」
 いずれ会わせるとも紹介するとも言われなかったが、同じ病気の人間と面識のなかった僕は強く興味を引かれた。
「まずは荷物を置いてくるといい。うまい店がある。そこで夕食でも食べよう。研究の進展のあらましはそこで話そう。会わせたい人物もいる」
 麻婆豆腐発祥の店として知られる陳麻婆豆腐はその長い歴史を古めかしいスライドショーにして壁面に映し出していた。ホロヴィジョンではこの風合いは望めないだろう。
 僕とウー先生は瀟洒な個室で、どぎつく赤黒い豆腐をレンゲで少しずつ口に運んでいった。
「成都に来たから一度はここに来ないとね。それとも君は観光名所には興味がないかな」
「そんなことはないですよ。どこに来ても、僕は物見高いお調子者です」
 僕はズボンの後ろポケットに丸めて突っ込んであったガイドブックを取り出した。
「香港にも詳しかったからね」
 ウー先生の口ぶりは僕が患者だった頃より、ずいぶん砕けた調子になっていた。慣れるまで時間がかかるかもしれないが、なにしろ僕はすべての変化を歓迎すべき人間なのだ。これもまた吉と取ろう。
「さて、君の協力が得られたお祝いだ。乾杯しないか」
「いいえ、僕、お酒はダメなんです。それにまだ手伝うと決めたわけじゃない。とりあえず話を聞いてみないとね」
 差し出された白酒のグラスを押し返し、僕は冷淡さを心がけて言った。
「メールでも書いた通り、ヴィンダウス症の研究は長足の進歩を遂げている。現在三六七人の患者から得られるデータは君が患者だった頃とは比べ物にならない量と質が見込めるようになった」
「……驚いたな。そんなに増えてたなんて」
「増えたのもあるが、診断から漏れていた患者がようやく認知されたということもある。ヴィンダウス症のことを知る医師も多くなった」
 つまりこうだ。以前より、世界にはヴィンダウス症の患者は存在していたが、それは潜在的な形に留まっていた。世間的な認知が定着したために未知の不調だったものがようやくヴィンダウス症という名実を得た。
「とするなら、まだまだ増える?」
「ああ、不謹慎な言い方だが、このユニークな疾患は医学界では静かな注目を浴びているんだ。いや、医学の分野だけじゃない。もっと広範な分野からのニーズを得ている」
 甘味、辛味、酸味、麻味、塩味の五味は四川料理において基本となる味覚である。麻とは山椒のような舌をしびれさせる味覚のことで、まさに麻婆豆腐の主要な味付けとして、僕の感覚を刺激する。味覚は、ヴィンダウス症の僕にとって、重要な命綱のひとつだ。味覚という変化のパラメーターは、共感覚的な変換を得て、世界を強く可視化させてくれる。
「ヴィンダウス症の研究は、人間の存在を根底から問い直すのに有力な材料となるだろう。君の助力はだね、我が中国だけでなく、人類全体の進歩に寄与するものとして長く記憶されることになるはずだ」
 味覚が作り出す世界の量塊を捨てて、僕はウー先生の存在にすべての感覚をフォーカスした。ヴィンダウスの症状に手も足も出なかった頃のように世界が消えていく。しかし、あの頃と違うのはどれを選んでどれを捨てるかを自分の意思で決められるということだ。
「僕なんかがお役に立てるとは思えませんが」
 これみよがしな謙遜をしてみる。韓国人の処世術が、中華文化圏でどんな効果を発揮するかはわからないが。
「君は自分の価値がわかっていないようだな。ヴィンダウス症を寛解に持ち込んだのは君と例のインドの少女の二人きりだ。エア・レースのA級パイロットよりも稀少な存在なんだよ。君は体重と同じ重さの黄金ほどの価値がある」
 ウー先生の呼吸と脈拍に甚大な変化がある。瞳孔の微妙な拡大などはわかりやすいが、さらに僅少な変化なら数知れず、全身の毛穴がやや窄まり、見て取れぬほどの加減で頭髪が逆立っている。血液の粘度が増し、脳の代謝物質のシンフォニーがささやかだが決定的な不協和音を奏で出す。ドーパミンのビートが乱れる。これらはアルコールのせいばかりではない。虚偽による無意識の緊張のせいだ。
「バラバラに砕かれたり、引き裂かれても黄金の価値は変わらない。でも、僕はそんなふうになりたくはない。巨大国家の繁栄のための取るに足らない犠牲になんてね」
「無論だ。文化再革命ののち中国は限りなく民主主義国家に近づいた。私が愛する香港を捨てて四川に来たのは、現行の中華人民共和国に信頼を寄せているからだ。君が非人道的な目に遭う心配はない」
 鳴りやまない嘘のサイン。
 僕の見立てでは、ウー先生は何か巨大なものに取り込まれ、かつてあった良心というシリンダーをすっぽり引き抜かれてしまっている。いまや飴と鞭の区別すらついているかも怪しいものだ。
「では、そう期待するとしましょう。さて、ヴィンダウス症について解明された新しい事実について聞かせてくれますか?」
「ああ、もちろんだとも」と先生は汚れた口元をナプキンで拭い、財布から札束を抜き出した。
 キャッシュレス社会でも大金を見せつけることはいまだ有効な示威行為となる。ウー先生は服務員のエプロンポケットに高額のチップをねじ込み、その代わりに、しばらくこの個室に誰も近付けるな、と言い含めた。
「我々はヴィンダウス症の患者たちから、多くの共通項を抽出することができた」
「興味深いね」
「ひとつは主食がトウモロコシ、米、小麦、キャッサバ、ジャガイモなどであること」
 下らない統計だ。肉と魚を主食とするイヌイットにたまたまヴィンダウス症の患者がいないからといって、それで重要なことが明らかになったとは思えない。世界の大半がウー先生の挙げた食物を胃に押し込んでいる。
「もうひとつは、社会にどこか居心地の悪さを感じていながらも、なんとか周囲に溶け込もうと必死に努力していること。妄想癖があり、コミックやアニメ、ゲームなどに一定の嗜好を示す」
「バカげてる」
 とうとう僕は口にしてしまった。
 放火犯や性犯罪者についての稚拙なプロファイリングにもならない。犬や猫にだって当てはまりそうだ。化石同然の保守的な識者の言いそうなことだ。いや、中国ではそんな意見も真っ当に受け止められているのか。
 これが進展だと? たぶんウー先生一流のジョークなのだろうが、僕の好みじゃない。僕は韓国にとんぼ返りしたくなった。
 次のウー先生の言葉を聞くまでは。
「最後のひとつは……ヴィンダウス症の患者のすべてが兄弟姉妹を失っていることだ」
「──なんだって?」
「驚くだろう。そうなんだ」
「まさか」
「ああ、確認の取れるすべての患者の来歴をチェックした。ほんのわずか、本人すら認識していないパターンもあったが、流産や死産で知らないうちに兄弟を亡くしているという場合が多い。生き別れ、別居など、生活圏を離されたのちに一方が死んでいるケースも報告されている。控え目に言ってこれは異常だね。もちろん君だって例外ではない」
「バカげてる」
 同じ応答を別のニュアンスで僕は発した。これはまったくバカげてる。兄弟を失うことが発病の原因となる? そんな病気があってたまるか。
「面白いことに異母兄弟、異父兄弟ではヴィンダウス症は発症しない」
「なぜだ、先生、どうしてそんなことが起こる?!」
 僕は噛みつくように迫った。
 先生は穏やかに首を振った。
「さてね、それをこれから突き止めたいと思ってるんだ」
「何かあるはずだ。教えてくれ!」
「これは仮説に過ぎない。極めて個人的なね。それでもいいなら話そう。つまるところ兄弟とはなんだと思うね、キムくん?」
「兄弟とは家族だろう。眼の上のたんこぶだし、互いにかばい合ったりもする。親の愛情やお気に入りの玩具を取り合うのも兄弟だ」
「多くのメロドラマがそこから生まれる、葛藤や愛憎を通じて人間は理解する」
「何を?」僕は断っていた酒を自分からすすんで呷った。
「自分自身を。兄弟とは、そうあり得たかもしれないもうひとりの自分なのだよ。……おっと笑いを堪えているな。それとも椅子を蹴って街に飛び出したくなったかね? あいにくそれはやめといた方がいい。降り出したみたいだよ。成都の雨は気持ちのいいものじゃない。まぁ、ナイーブでひとりよがりな思索だと我ながら思うよ」
 ウー先生の眼の周囲が赤くなっていた。アルコール度数の高い白酒のせいだ。
「続けてくれ」
「兄弟は、両親という同じ遺伝子のプールから生まれた存在だ。違うのは素材の取り合せだけだ。同じ食べ放題ビュッフェでトレーに何を載せてくるか、違いはそこにある」
「ああ」
「君はお兄さんとして生まれていたかもしれない。だが、不思議な偶然によってそうはならなかった」
 あっけなく滑稽な死に方をした兄。あっけないほど滑稽な生き方をしている僕。それは兄の弟だからだ。同じ可能性の別の様相が僕と兄なんだ。
「一卵性双生児ではない兄弟姉妹たちは、それぞれに似ても似つかぬこともある。しかし、それが故に彼らは互いの歪んだ鏡であると思わないか? 正しい鏡像を映し出さないことそのものが、自分自身を知る手がかりになるような」
「先生の言ってることは……なんていうか文学的過ぎる」
 血走った眼で熱弁していたウー先生は、この僕の言葉にひるまず、さらに語を継いだ。
「兄弟、それが鍵だよ。彼らは穏やかでリラックスした関係を築くこともあれば、抜き差しならぬ間柄になることもある」
「僕と兄は普通でしたよ。それに有史以来、兄弟の死を体験した人間なんていくらでもいたはずだ。それがなぜいまになって?」
「それはまだ──」
 その時、個室のドアを礼儀正しく叩く音がした。案内の女性に導かれて登場したのは、五十がらみの男で、雨滴のついたスーツに白いものの混じった髪が絵になる中年だった。自己紹介はおろか挨拶さえしないままにまくし立てた。
「確かにウー先生の話は文学的過ぎるな。実験によって確かめられたのは、チンパンジー程度の哺乳類において兄弟の喪失は脳の構造にある不可逆な変化をもたらすということだ。具体的にはLMH120という未知の神経伝達ペプチドが生成された。それが一定量を超えた時にまずは視覚野からの情報処理機能に不調が生じるとわかった。距離感にはじまり立体視、色感、さらには時間概念の消失など、深甚な影響を認知機能に及ぼす。性別年齢などに有意な差は認められなかったが、このペプチドの生成が何かのきっかけで抑制が効かなくなるとヴィンダウス症が発症する。そして驚くべきことに寛解時には、脳内のニューロネットワークがまるで相転移を起こしたかのように変化することがわかった。新しいタイプのニューロンが脳を変貌させる。上縦束の病変が全体化したと見る意見もあるが、それについてはまだ仮説の域を出ていない」
「こちらは?」僕は立て板に水の弁舌に呆気に取られたまま訊ねた。
 ──王黎傑。中央機構編制委員会弁公室主任。
 渡された名刺には厳めしい漢字が並ぶ。少なくとも政治家であって科学者でないことは確かだった。四川省委員会組織部長でもあるらしい。外国人の僕にはよくわからない肩書だった。
「この街の王様さ」と皮肉っぽくウー医師が首を傾ける。科学者としてのお株を奪われたのが悔しいのか、さらにグラスを呷ると、大声で「小姐!」と服務員を呼びつけて酒を追加した。
「私のようにあちこち駆けずりまわっている王などいるものか。それにウー先生。『小姐』という呼びかけは蔑称であり、いまや使わないのが常識だ。古い映画に影響され過ぎだな」
 たしなめながら王は、壁に映写された記録映像を眺めた。そこに映し出される声なき人々の口元から僕は件の単語を読み取った。変化していく言葉と偏見の残骸。ヴィンダウスであっても時空の一点に存在する限り、長久なタイムスパンでの変遷をくまなく感得することはできない。文化コードの推移もそのひとつであり、負荷と価値の絶え間ない攻防を物理現象のように見通すことは不可能だった。
 呼ばれた女性服務員は気にした素振りもないが、ドンと酒のボトルを置く仕草にはお世辞にも細心さは感じられず、無表情な眼の奥では何を考えているのかわからない。大ぶりの碧玉のイヤリングが印象に残った。
 ──成都の王。
 目の前の神経質そうな人物がそうなのか、僕には確信が持てない。
「なんでそんな人がここにいるんですか?」
「君はどんなふうにウー先生から聞いてきたのかわからないがね」
「治験のようなものだと。ヴィンダウス症の患者のための治療法を確立するために実験に協力するんだって」
「違う。まったく違う」王は苛立たしげに目尻を上げた。「私など比べ物にならない本当の王からのご指名なのだ」
「それってどういう……?」
 まごついた僕はウー先生と王の顔を交互に見回した。
「君にはこの都市の中枢になってもらおう。ヴィンダウス・エンジンにね」

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