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【2/28日まで】韓国発ベストセラーSF短篇集、キム・チョヨプ著『わたしたちが光の速さで進めないなら』より「巡礼者たちはなぜ帰らない」全文公開!

今もっとも韓国の女性たちの共感をあつめる、
新世代作家のデビュー作にしてベストセラー。
生きるとは? 愛するとは?
優しく、どこか懐かしい、
心の片隅に残り続けるSF短篇7作。

冒頭の短篇「巡礼者たちはなぜ帰らない」を期間限定で全文公開します。

『わたしたちが光の速さで進めないなら』(2020年12月3日刊行)
キム・チョヨプ
カン・バンファ、ユン・ジヨン訳

『82年生まれ、キム・ジヨン』の大ヒットをきっかけに、急速に注目が高まっている韓国小説。早川書房では、今韓国で一番売れているSF小説を刊行!
本書は、第2回韓国科学文学賞中短篇部門大賞受賞の「館内紛失」同佳作の表題作、また、映画『はちどり』で国内外の賞を総なめにしたキム・ボラ監督の次回作原作「スペクトラム」など、女性とマイノリティに寄り添う粒ぞろいの短篇7作を収録。

刊行を記念して、冒頭の短篇「巡礼者たちはなぜ帰らない」を期間限定で全文公開します。
地球へ巡礼の旅に出たまま帰らない若者たち。その身にいったい何が……?
ル・グィンの名作短篇への、著者からの誠実な返歌としても読むことができそうな、奥深い内容の一篇です。

わたしたちが光の速さで進めないなら

(クリックするとAmazonサイトにとびます)

巡礼者たちはなぜ帰らない

キム・チョヨプ
カン・バンファ訳

 ソフィー。何から話そうか。
 この手紙が届くころには、すでにわたしが旅立ったことが噂になってるでしょうね。大人はかんかんに怒ってるかしら。こんなふうに、成年になる前に村を飛び出した人はこれまでいなかったもの。よかったら代わりに伝えてくれない? 今も変わらず皆さんのことを愛してる、でも自分の決心を後悔はしていないって。
 あなたも知りたいでしょう? どうしてわたしがこんな選択をしたのか。
 嘘みたいな話だけど、わたしは今「始まりの地」へ向かってる。そう、わたしたちが巡礼に出かけるあの場所へ。金切り声で責め立てるあなたの姿が目に浮かぶようだわ。「どうせもうすぐ行くことになるのに、どうしてわざわざもめ事を起こしてまで今行くの?」そっくりに言えたと思うんだけど、聞かせてあげられなくて残念。
 巡礼についての話よ。成年式の風景は、目を閉じれば今も鮮やかに思い出せる。あなたもそうでしょうね。わたしたちは毎年のようにあの道をたどっていたのだから。十八歳になった巡礼者たちが「始まりの地」の装いをして村の広場に集まる光景は、いつでも目新しくてわくわくした。肌身離さず持っていろと念押しされながら、大人たちから小さな金属のかけらを受け取ると、彼らはわたしたちが花や宝石の粉をちりばめておいた道を通って出発地点へ歩いていった。わたしたちはその道で、羨ましさと名残惜しさ、ちょっぴりの妬みが入り混じった気持ちで手を振りながら別れを告げ、その長い行列がたどり着く先には、古くてガタつく移動船がハッチを開けて待っていた。
 移動船のことだけど、考えてみると、あのへんてこな機械がどうやって動くのか誰も教えてくれなかった。心配ないよ、っていう大人たちの言葉を信じるしかなかったのよね。もちろん巡礼の儀式に参加する者は、誰一人不安の色を浮かべたりしなかった。そりゃそうよ、大人になるための門出で、たかがオンボロ機械くらいにひるむのは恥ずかしいことだもの。
 移動船が発つ瞬間を、大人たちは決して見せてくれなかった。覚えてる? 旅立っていく巡礼者たちと向き合って順に握手し、頬ずりしながらお別れの挨拶をし終わると、大人たちはわたしたちに不思議な香りのする飲み物をひと口ずつ飲ませたでしょう? いつか学校で、先生があの水の意味を説明してくれたことがあった。この先の一年間、巡礼者たちの前に立ちはだかるであろう苦難と葛藤を分かち合うために飲むんだって。成年式を祝う酒だとごまかす大人もいたけど、お酒くらいこっそり飲んだことがあるもの、あれがお酒じゃないってことはわかってる。飲むとしばらくめまいがして、少しのあいだ意識を失った。
 五分から十分くらい。気が付いたときには、移動船はすでに発ったあと。
 そうしてちょうど一年が経つと、巡礼者たちは約束でもしたかのように同じ移動船に乗って戻ってきた。彼らは元来た道を歩き英雄然として村に入ると、ついに一人前の大人として認められた。でもいつだって、戻ってきた人の数は旅立っていった人の数より少なかった。仲のよかったお姉さんやお兄さんの顔が行列のなかに見えないことなど当たり前で、不思議なことに、彼らの名前はたちまち村から「忘却」された。
 忘却。それはわたしが巡礼者について最初に抱いた疑問でもあった。もしわたしに日記をつける習慣がなかったら、わたしもまた帰らなかった人たちの存在を忘れていたでしょうね。毎年、巡礼の儀式が終わって家に戻ると、わたしは日記に記したその質問を指先でなぞりながら、それを忘れまいと努めた。そしてもしかすると、ソフィー、あなたも一度くらいは同じ疑問を抱いたことがあるんじゃないかと考えた。忘却をもたらしたのかもしれないあのひと口の飲み物が、わたしたちから消し去ってしまったのだろう、あの質問を。
 ある巡礼者たちはなぜ帰らないのか。
 この手紙は、その質問に対する答えよ。同時に、なぜわたしが「始まりの地」へ向かっているのかについての答えでもある。手紙を読み終えるころには、あなたもわたしの選択を理解しているはず。
 そう、あの話をしなきゃ。
 この春の、帰還の日について。
 旅から戻る巡礼者たちを歓迎しているかのように美しい日だった。数日前まで寒さに身をこごめていた植物たちも、折よくいっせいに花を咲かせていた。ソフィー、あの日あなたは調香師たちと一緒にいたんだっけ? 一日中離れ離れで過ごしたのよね。わたしはブーケ係の代表に選ばれて、巡礼者のための花束を作っていた。特別きれいな花を選(よ)りすぐってブーケにする力を認められたわけだから、とても誇らしい気持ちだったのを覚えてる。作業中、風に運ばれてくる香りの素晴らしかったこと! どれがあなたの手によるものだったのかわからないけど、すごく素敵だったわ。
 空は青く澄んで、やわらかな風は花のものとも香水のものともつかない香りを道に振りまき、いつの間にか、到着した移動船から降りた帰還者たちが砂の道を歩いてきていた。
 わたしたちブーケ係はあらかじめ割り当てられていた持ち場に立った。帰還者を歓迎する頭飾りを載せて。旅立っていった人たちの半分も戻らないことをわたしたちも大人たちも知っていたけれど、ブーケはいつだって旅立った人の数だけ用意されていた。すべての帰還者が移動船から降りて村へ入ったとき、今回は半分をゆうに超える花が残っていたわ。わたしが余ったブーケを見せると、大人たちは当然といった顔で、それを小屋へ運ぶように言った。帰還の最後の手順、対面式が行われる場所の飾りに使えということだった。でも、どうして誰も、半分以上残ったブーケの意味について触れなかったのか。
 帰還の日を前に、先生に尋ねたことがあった。「ひょっとして巡礼者たちは、『始まりの地』で何かひどい目に遭うんですか? 恐ろしい目に? だから帰れなくなるんですか?」先生はなんともかわいらしくほほ笑ましい話を聞いたかのように笑うと、「デイジー、そんなはずないでしょう? 巡礼者たちはそこで選択をするの。誰にも強いられることなくね」と、わかるようなわからないような返事をしただけだった。大変なことなんてないってこと? その言葉を信じないことだってできたけど、先生の笑顔があまりに屈託なくて、それでいてどこか寂しそうに見えたものだから、それ以上は訊き返す気になれなかった。
 帰還者たちのほとんどは明るい表情だった。久しぶりに会う先生たちに誰もが満面の笑みで挨拶し、なかには会いたかったよ、とわたしたちを抱きしめてくれる者もいた。体格はわたしたちとさほど変わらないはずなのに、不思議なことに本当に大人になって帰ってきた気がしたわ。
 村の大人たちは彼らを小屋に連れて行った。わたしたち子どもは山のようなおやつをもらうと、さっさとその場を離れなければならなかった。巡礼に出るまでは「始まりの地」の話を聞いてはいけないから。わたしはブーケ係の代表として最後まで片付けを手伝っていたけど、そろそろ席を外すようにという大人たちの態度に、それ以上いられなくなった。
 わたしは小屋の扉を開けて外へ出た。辺りには誰もいないようだった。さて村の中ほどへ戻ろうとしたとき、木から木へと飛び移る一匹のリスが目に留まったの。そしてリスを目で追いかけるうち、小屋の裏側で視線が止まった。
 ブーケが転がってた。自分で作ったんだもの、ひと目でわかったわ。丹精込めて作ったブーケがあんな所に捨てられてるなんて。残念な気持ちになって、せめて家に飾ろうと思いながらブーケに近づいたら……。
 そこに誰かがいた。捨てられたブーケは彼のものだったの。
 その人、泣いてた。
 わたしが近づくのに気づくと、男はびっくりして立ち上がった。こんなこと言っていいのかわからないけど、わたし、この村で、あんなに惨めで絶望的な表情を浮かべている人を初めて見た。すべてを失ってしまったかのような、悲嘆に暮れた顔。あれはなんと言うか、そういった感情が存在することは知っていたけど……それはあくまで本のなかの話だと思ってたんだもの。
「どうかしたんですか? 大丈夫ですか?」
 彼はかぶりを振った。そしてしげしげとこちらをうかがい見ると、わたしがさっきのブーケ係だと気づいたみたいだった。彼の手には見慣れない、まるでこの村の外から来たような機械らしきものが握られていた。わたしがじっと見入っていると、彼はぎくっとしてそれを背後に隠した。
「それ、何ですか?」
「君もいつかわかるよ」
「それのせいで悲しいんですか?」
「いや、『始まりの地』に残してきたものがあって」
「何を?」
 彼は答えなかった。それ以上訊いても無駄だろうってことがわかったわ。彼は泣きはらした目で立ち上がり、小屋の裏の森のなかへと消えてしまった。
 村に戻ったわたしは、今年の帰還者たちについて何か知っていることはないかとほかの子どもたちに尋ねた。あの男は誰だったんだろう? 帰ってきたのは誰で、帰らなかった人は誰なんだろう? 彼は何を残してきたんだろう? 残してきた「もの」と言ったけど、本当は物じゃなく人なんじゃないか? ひょっとして、帰らなかった人のうちの誰かが、彼の言う「残してきたもの」なんだろうか?
 あなたにも同じことを尋ねたかしら?
 巡礼に出るまでは「始まりの地」について知ろうとしてはいけないというタブーのせいで、わたしたちは巡礼者がそこで何を経験するのかまったく知らなかった。わたしを含むほんの少数の子どもだけが、帰らない巡礼者がいるのはその地で起こる悲劇のためじゃないかとおそるおそる推測した。でも、ほとんどの子はそう考えなかった。たぶんあなたもそのうちの一人だったんじゃないかしら。こう言ってたのを覚えてる。
「巡礼が本当に危険だとしたら、どうしてそんな所にわたしたちを送り出すのよ?」
 その言葉にわたしも思わずうなずいてた。だけど今思えば、心から信じてたわけじゃなかった。どこかにとても怖くて恐ろしい場所があって、大人たちがわざわざわたしたちをそこへ行かせるだなんて、想像したくなかっただけ。
 いつだったか、かつての人類の成年式に関する文書を読んだことがあるの。歴史上の、さまざまな場所、さまざまなかたちで行われてきた成年式を比較したもので、なかにはこの村のように、大人になる少年少女を遠い場所へ送り出す習わしもあった。子どもが大人になったことの証(あか)しに過酷なテストを課すのよ。ひとりで獣を捕まえてこさせたり、鋭い剣の刃の上を歩かせたり。厳しいテストに臨んで、生き残った者だけが一人前の大人として認められた。そんな野蛮な習わしは過去のものにすぎないと思っていたけど、そのとき初めて、それは成年式そのものに備わる、テストの意味合いを持つものなのかもしれないって思ったのよ。
 すると、いまだかつて考えたこともない疑問が次々に浮かんできたの。
 本のなかの世界には葛藤や苦難や戦争があるのに、この村はどうしてこんなにも平和なんだろう?
 この村に大人が少なく、子どもばかりがたくさんいるのはどうしてだろう?
 帰ってこない巡礼者たちがいるのはどうしてだろう?
 あの男の人はどうして、すべてを失ったかのように泣いていたんだろう?
 ソフィー、あなたも覚えてる? 学校で「始まりの地」の歴史を学びながらうとうと居眠りをしていたある日の授業で、かしこいオスカーがこんな質問をしたのを。
「先生、ところでどうして僕たちには歴史がないんですか?」
 先生は笑顔でこう答えた。
「おかしなことを言うのね。あなたたちもみんな、リリーとオリーブの話はよく知っているでしょう? この村をつくった人たち。わたしたちは彼らによってこの美しい村を授けられ、詩と歌と祭りを教わったのよ」
「でもそれは『始まりの地』の歴史に比べて短すぎるし、穴だらけです」
「オスカー。大人になればすべてを知ることになるわ。それまで待つのよ」
 恥ずかしいことに、わたしはオスカーがそんな質問をするまで、自分たちの歴史について考えたこともなかった。ひょっとしたら、日常に亀裂を見つけた人だけが世界の真実を追い求めるようになるのかしら? わたしにとっては紛れもなく亀裂と言えた、あの泣いていた男の人に出くわして以来、ある衝撃的な考えが頭から離れなくなったの。
 わたしたちは幸福だけれど、この幸福の出どころを知らないということ。
 ソフィー、裏庭に関する噂を聞いたことはない? 学校の裏庭には禁書を集めた図書館があるの。あなたも行って確かめてみるといいわ。そこは一見、なんの変哲もない庭のように見える。びっしり植えられた背の高い花々に視界を遮られて、そこに怪しい空間があることにもなかなか気づけないほどの。
 ともかく、そこへ行ってじっくり庭を観察してみれば、妙にぴんと伸びた花が植わった、四角い花壇が見つかるはずよ。ずいぶん観察してようやく気づいたんだけど、そこの花は風が吹いてもびくともしないの。近づいて花に手を伸ばすと、ビリビリって感覚が腕に伝わるわ。びっくりでしょう?
 噂っていうのはほかでもない、その裏庭を守る門番についてのものよ。裏庭でおしゃべりでもしようものなら、突然壁からけたたましい音がして、侵入者たちを追い払うっていう。わたしは村に隠された広大な禁書エリアについて聞いたことがあった。そして、実はその門番が守っているのは裏庭ではなく、禁書エリアなんだと確信したの。
 そこに近づくには忍耐が必要よ。わたしは門番の気を引くために、その裏庭に十日も通って花の手入れをした。ブーケ係として花々の性質に通じていたのはラッキーだったわ。門番は明らかにどこかからわたしを見ているはずなのに、何も言ってこなかった。
 よし、このくらいならこの十年で一番美しい庭になったんじゃないかな。そう思えたころ、わたしはやっと勇気を出した。
 花壇の前に立って話しかけたの。
「門番さま、そこにいらっしゃいますか?」
 どこかから声が聞こえてきた。
「お前は誰だ」
「わたしは村に住むデイジーと申します」
「巡礼の儀式は終えたのか?」
「まだです。禁書エリアを探しているんです」
「ここは子どもの立ち入りは許されていない」
「わたしは世界の真実を知りたいのです」
「世界の真実はここにはない」
「ですが、真実をどこに求めればいいのかはわかるはずです。わたしを入らせて頂けませんか? 気になって眠れない夜を過ごしているのです」
 門番の物々しい声に少しもひるまなかったと言えば嘘になる。でも、わたしの言葉は嘘じゃなかった。実際毎晩のように、世界の真実は一体どこにあるのかと考えてろくに眠れなかったのだから。
 門番は悩んでいるようだった。十分、いや、一時間。それより長かったかもしれない。わたしはじっとそこに佇(たたず)んで、門番の判定を待っていた。計り知れない時が流れた末に、ガチャリという音が聞こえたわ。彼は言った。
「いつかの子に似ておるようだ」
 花壇の向こうの、壁にしか見えなかったものがみるみる光に包まれていった。それは……書架へ通じる扉だった。わたしは見えない門番に深くお辞儀してから、そこへ足を踏み入れた。
 禁書エリアの書架はとても狭くて、かび臭い匂いがした。日当たりが悪くて暗かった。ここ数年は訪れる者もいなかったのではないかと思われるほど埃が積もり、並んでいる本は不思議なほど小さくて薄っぺらだった。
 これが本? わたしはつぶやいた。
 わたしはリリーとオリーブの名前を探した。リリーとオリーブ。この村をつくった人たち。巡礼の儀式を始めた人たち。皆がその名を称(たた)え、崇(あが)め立てる人たち。
 そこにオリーブの記録があった。
 小さく薄っぺらな本を書架から抜き出して開いた瞬間、それが本物の本じゃないことがわかったわ。開いたページからまぶしい光がこぼれ出て、空中に何かを描き出したの。まるで禁書エリアへの入り口が現れたときみたいに。
 それは、わたしたちが知ることを許されない、「始まりの地」のテクノロジーだった。
 そこには一人の女性がいた。目が合ったような気がしたわ。
 ああ、それはわたしのよく知る顔だった。オリーブ。この村の歴史。でも、肖像画で見ていた年老いた姿ではなかった。せいぜい、巡礼を終えたばかりの帰還者くらいの年にしか見えなかった。
 2170.10.2
 絵の上に数字が浮かんだ。
「われわれはなぜここへ来たのか」
 文字が点滅した。
 オリーブの背後に広がっていた風景がゆがみ、変化し始めた。そこははるか彼方……ここにはない世界のように見えたわ。オリーブは何かの記録を残すかのように、手首に巻かれた機械に口を近づけて淡々と語り始めた。
「リリーはわたしを愛するあまり、この町をつくった。
 その事実を知ったのは一年前のことだ」
 
***
 
「リリー・ダウドナを探しているんですが」
 自然史博物館の案内デスクにいた男は、声のするほうを振り向いた。ロビーにある巨大なゾウの模型の下に、一人の女が立っていた。
 女はフードをかぶっていた。半ばフードに隠れた顔には、やけどのような大きなあざが広がっていた。まだらな皮膚にぞっとして男は思わず眉をひそめたが、すぐに平然と腰を上げて言った。
「どちらから入られたんです?」
「入り口からです」
「閉まっているはずですがね。観覧時間は過ぎてますから」
 午後七時。観覧者が出入りできる時間はとっくに過ぎていた。女は男の言葉の意味がわからないかのように、じっと彼を見据えた。男は多少の苛立ちを感じた。出入り口の戸締まりをしっかりして回るよう言いつけたのに、新入りの警備員がまたヘマをしたようだ。だが、間違って鍵を閉め忘れた扉があったとしても、外にはロープパーティションが置かれているはずだ。まさか無視して入ってきたのだろうか?
 女が訊いた。
「リリー・ダウドナに関する情報はどこにありますか?」
 職員はいつの間にか窓口のそばに歩み寄っていた女の顔をまじまじと見た。
「失礼ですが、お名前は?」
「オリーブです」
「オリーブさん。今は閉館時間です。入ってこられては困るんですよ。恐縮ですが、例外はありません。明日またおいでください」
 職員は内心、自らの忍耐力と優しさを褒めてやりたかった。だが、女のほうは無頓着な様子で鼻筋にかすかにしわを寄せると、こう言った。
「どちらにせよ、こちらにダウドナの情報があるということですね?」
 自分の言葉に耳を貸そうともしない目の前の女に、職員は内心腹が立った。
「もちろんありますよ。リリー・ダウドナを知らない人はこの博物館に勤めることもできないでしょうね。明日になったら、午前十時きっかりに二階へ上がって『新人類館』を見て回るといい。彼女に関して知りたいなら、一日かけて飽きるほど調べられますよ」
 職員は自分の声がとげとげしくなっていくのを感じた。博物館に勤めて十年になるが、ダウドナにここまで執着する人間は初めてだった。女は不服そうな色を浮かべたが、職員の頑とした態度に渋々引き返した。
 職員は監視カメラの画面で女が本当に外へ出たのを確かめると、再び腰を下ろした。今日中に提出する書類の整理が残っていなければ、最初から自分の手で女を追い出していただろう。
 夜が深まるにつれ、男はひどく不安な気持ちに駆られた。さっきあの女をあんなふうに行かせるべきではなかった、どやしつけるくらいはしておくべきだったと、遅ればせながらに思ったのだった。
 俺はさっき、「新人類館」と言ったのだったか?
 男は二階の新人類館へ上がってみた。緊張しながら明かりを点けたが、当然そこには誰もいなかった。保安システムにも異常は届いておらず、誰かが侵入した形跡もない。男はほっとした面持ちで館内を一周すると、出入り口を出た。
 いや、出ようとした。
 その瞬間、何かに気づいた男の顔がこわばった。
 館内にあったリリー・ダウドナの研究ノートが消えていた。
 
 オリーブが降り立ったのは砂漠のただ中だった。移動船に内蔵されていたプログラムは「東部への接近は不可能」と長らくくり返した挙げ句、西部の荒れ地に突っ込んだ。移動船は動かない鉄の塊と化した。充電の仕方もわからない。オリーブは辛うじて通訳モジュールと辞書だけを取り出した。
 門番の言うとおりだった。やみくもに地球へと飛び出したのは、あまりに無謀な行動だった。村の真実、そして自分の母親「リリー」の過去を突き止めたいという一心だったが、それだけではここで生き残れないかもしれないという思いが、地球にやって来た初日からオリーブを捉えて離さなかった。延々と歩いてなんとかモハーベ砂漠の唯一の町イタサを見つけていなかったら、真実を突き止めることはおろか、到着から一週間で死んでいたかもしれない。
 オリーブのいでたちは町では目立ちすぎた。町の人々はタイトなプラスチック素材のスーツを着ていて、それは夜になると華やかな色を放った。それに比べ、オリーブがまとっていたのはぼろきれも同然だった。町の外れで見かけた少年たちのほうが、いくぶんオリーブの格好に近かった。古びた布をまとって観光客にスリを働いていた彼らは、オリーブの身なりをちらと見るには見たが、金目の物などないと思ったのか、それ以上は目もくれなかった。
 宿を見つけるのも簡単ではなかった。村を発つ前に門番が聞かせてくれた話によれば、認証カードはすぐさま地球で使えるよう細工されていたが、問題はそれ以外のところにあるようだった。人々はオリーブを、まるでゴミ扱いした。
 町にたどり着いて三日目、ついにオリーブはその理由に行き当たった。地球と村の関係についての手掛かりを見つけるために方々を探し回り、通訳モジュールが使い物にならないことに絶望しかけたころ、一人の老人が話しかけてきたのだ。
「お嬢さん、その顔はどうしたんだね?」
「はい?」
 老人は、村では一度も目の当たりにしたことのない眼差しでオリーブを見つめていた。難癖をつけるふうではなかったが、オリーブは彼の視線が気に入らなかった。どうやらオリーブの顔のあざのことを訊いているようだ。オリーブは小さく笑って見せると、こう言った。
「わたしは生まれつきこうですよ」
「それはかわいそうに」
「どうしてそう思われるんです?」
 オリーブの問いに、老人はいっそう同情するような顔になった。
「施術を受けなかったのかい? 胎生施術じゃよ。それほどの欠陥ならスクリーニングに引っかかるはずだが」
 オリーブは通訳モジュールが作動していないに違いないと思った。老人の言う意味がまったく理解できなかったのだ。
「胎生施術とはなんのことでしょう?」
 老人は気の毒そうにため息をついた。
「いや、すまないね。余計なことを言ったようじゃ」
 そう言うと老人は、ポケットをまさぐって何かを取り出した。
「イタサでの暮らしは楽なものではないだろうよ。どうして若いお嬢さんの身にそんな災いが降りかかってしまったのか……」
 老人が舌を打ちながら差し出したのは、門番が「クレジットチップ」と呼んだものだった。オリーブは受け取ろうとしなかったが、老人はそれを無理やりオリーブの手に握らせ、足早にその場を立ち去ってしまった。
 オリーブは苦々しい気持ちになった。けれどその理由をうまく説明できなかった。村では一度たりともこんな経験はなかった。
 いずれにせよ、はっきりとわかったことがある。地球の人々はオリーブを何かしら違った目で見ている。そして、オリーブの顔にある大きなあざがその理由の一つであるということ。
 町外れに暮らしながら、オリーブはこの地の生態をゆっくりと学んでいった。そこにはオリーブに似た人たちが多かった。顔に大きなあざがあるわけではないが、少なくとも同等の扱いを受ける特性を備えた人たち。彼らは自らを非改造人と呼んだ。オリーブの目にはなんの問題もなかったが、彼らは自分に問題があると信じていた。知能が低いとか、見た目が醜いとか、チビでひ弱だとか、病気なのだと。
 彼らに言わせれば、オリーブも非改造人だった。
 オリーブはそこで、いくつか下働きの仕事に就くことができた。町の中心部は多くの観光客でにぎわい、毎日のようにショーとパーティーが開かれていた。町外れには朝から晩まで働きっぱなしの人々が暮らしながら、町の中心部に送る物資と食べ物を作っていた。中心部でオリーブを雇ってくれるところはなかった。オリーブは町外れで、ロボットよりも安い賃金で働いた。
 通訳モジュールが地球の言葉に適応するまでには時間がかかった。「百年前の言葉だから多少の違いはあるかもしれない」とは門番の言葉だが、これほど差があるとは言わなかった。機械自体は地球でも広く使われているものだったが、なにせ発する言葉があまりに古めかしく、人々はオリーブが何か言うたびに噴き出したり眉をひそめたりした。
 オリーブはふた月も経たぬ間に村が恋しくなった。ここにはとうていオリーブが探し求める真実などないように思えた。門番はなぜここに答えがあるはずだと言ったのだろう?
 夜になると、オリーブは人々がたむろする飲み屋に出かけた。村では想像もできないジョークが飛び交う場所だった。オリーブはそこでおしゃべりをしている連中のなかにそっと割り込み、「リリー」を知っているかと尋ねた。たいていは「リリー? 俺の知ってるリリーは二十人ほどいるが、どいつのことやら」とはねつけられたり、初めから相手にされなかったりした。「リリー」はあまりにありふれた名前で、人々はオリーブが少しおつむの弱い女だと思っているようだった。
 三番目に勤めた店で、オリーブはデルフィーと出会った。デルフィーは店のカクテルバーで長いあいだ酒を出してきたバーテンダーで、オリーブに簡単な厨房スタッフの仕事を教えてくれた。デルフィーは力持ちで、気性も激しかった。騒ぎを起こす客がいればためらうことなく銃で脅したが、最後に銃を使ってから数年になると言う。もちろんそれは、銃を引っ張り出したデルフィーの前で乱暴を働く客がもういないからだ。ロボットの扱いも手慣れたもので、近所のロボットは主人でもないのに彼女の命令に従った。時に、隣の店の主人が言うことを聞かないロボットに手こずって駆け込んでくると、デルフィーはぶつくさ言いながらも数分ですっかり元どおりに修理するのだった。
 だが、オリーブがデルフィーに惹かれたのは別の理由だった。デルフィーはどこかほかの人とは違っていた。デルフィーはイタサで唯一、オリーブの容姿に動じない人と思われた。
 地球にやって来てから、オリーブは人々の気まずい視線にさらされ続けていた。それは軽蔑や同情の目だった。何が問題だというんだろう? オリーブには理解できなかった。そしてデルフィーだけが、オリーブと同じように何が問題なのかわからないと言った。
 オリーブがわけもなく客に頬をぶたれそうになったとき、デルフィーはかんかんになって客をつまみ出した。ドアの前で、また店に現れることがあれば殺してやると面罵した。だが、ドアを閉めて振り向いたデルフィーの顔は悲しげだった。
「本当に馬鹿ばっかり。それもこれも引け目しかないからさ。でも、こんな世の中になったのはわたしたちだけのせいじゃないんだ、あいつらばかり責めてもね」
「じゃあ、こんな世の中になったのは誰のせいなの?」
 本当に知りたかった。地球はどうしてこんなにも村と違うのか。ガラスコップを拭いていたデルフィーが、肩をすくめて言った。
「さあね、百年前に現れて新人類をつくっちまった一群のハッカーたち? ねえオリーブ、あんた一体どこから来たの? どうしてこんな常識中の常識を訊くんだい?」
 オリーブは答えられず口をつぐんだ。「村」について地球の人にどう説明できるだろう。困り顔のオリーブを見つめていたデルフィーは、愉快そうに笑った。
「仕事が終わってから、夜中に時間があるならまた店に寄りな。店をしまうころに」
 何を言われるか見当がつかず、うんと緊張して店へやって来たオリーブは、空っぽの店でピアノを弾いているデルフィーに出くわした。そのピアノが使われていたのは、しばしば店にピアニストを招待してリサイタルを開いていたころのことで、最近では埃が積もる一方だった。音は村にあったものよりずっと鈍く、手入れが行き届いていないようだった。
 しかし、デルフィーの演奏はまったく別の音を奏でた。彼女は生来のピアニストのように、鍵盤の上で指を滑らせた。
「気に入った?」
 オリーブは胸がいっぱいになってうなずいた。村で聴いていた音楽とはまったく違う。だから余計に美しかった。
 デルフィーは自分を、出来損ないの改造人なのだと言った。彼女の両親は、娘を優れた音楽家に育てたかった。音楽家になることは、彼ら自身の叶えられなかった夢だった。だが、彼らには大金を払って遺伝子施術をする余裕がなかった。低価で施術を引き受けたハッカーは、デルフィーの胚に豊かな芸術的才能を植えつけることには成功したが、それは一方で別の胎生的問題と性格の欠陥をもたらした。
 十代後半になると、デルフィーは家を出た。そして彼女を抑圧しコントロールしようとする両親が二度と自分を見つけられないよう、西部にやって来てDNA指紋を変える施術を受けた。やぶ医者に任せた副作用で、デルフィーは片方の耳がほとんど聞こえなくなった。
「あなたが乱暴だなんて。どうかしてるわ」
「さあね。社長はあたしがあんたにだけ優しいってぼやいてたけど?」
 オリーブはその言葉に顔を赤らめた。デルフィーが飴玉を噛み砕きながら言った。
「あんたは一体何を探してるの? 昼間は毎日図書館通い。イタサでそんなに向学心の強い女は初めて見るよ。まだろくに話せないくせに、文字は読めるのかい? あのけったいな機械で読んでるのかしら」
「わたしは……」
 オリーブは一度正直に言いかけたものの、肩をすくめてこう言った。
「ただの散歩みたいなものよ。図書館の本の匂いって素敵でしょ」
 デルフィーは信じていない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
 そのころになると、オリーブは通訳モジュールを介さなくてもこの地の言葉で話せるようになっていた。資料を探すときはいまだに通訳モジュールの助けが必要だったけれど。リリーに関する調査はまったく進んでいなかった。オリーブは時折、すべて諦めて村に帰る方法を調べようかという思いに駆られた。だがそんなときは、なぜかデルフィーの名前が胸をよぎった。
 イタサは分離主義政策を堅持する町の一つだった。都心は改造人のエリア、その辺縁部は非改造人のエリアとして徹底的に分けられていた。都心は華やかで整然とした美しい場所、郊外は打ち捨てられた人々の世界。郊外ではけんかや言い争いが絶えなかった。
 ある日、そろそろ店じまいというころ、中年の男たちがぞろぞろと入ってきた。デルフィーが今日は終わりだと言うと、彼らはぶつくさ言いながら引き返しかけたが、そのうちの一人は違った。男はオリーブを見ると、面白いものを見つけたという顔で近づいてきた。
 男がにやにやしながらオリーブの肩に腕をのせた。
「俺、こいつ知ってるよ。お前あれだろ? おつむのイカれた女」
 デルフィーが顔をしかめてこちらを見ていた。オリーブは戸惑った。
「そうだろ? 別の店でよく見かけたよ。おかしな女って噂さ。リリーって女を必死で捜してるんだろ? 昔の恋人なのかい? ひょっとしてそいつ、目が見えないのか? 大したタマだぜ。顔にこんな……ひどいもんがあるってのによ」
 男はくっくっと笑いながら侮辱するようなしぐさをした。オリーブは男よりも、後ろから見ているだろうデルフィーが気になった。別の店でリリーについて尋ねて回ったのは事実だが、デルフィーには知られたくなかった。変な誤解などされたら。
 連れの男たちはオリーブに絡む男を、にたにたしながら見物していた。オリーブはぎゅっと口を閉じた。
 いつの間にか、デルフィーが何か鋭い物を男に突きつけていた。
「出てっとくれ」
 男はヘッと笑って武器を奪おうとした。デルフィーのほうが速かった。浅く切れた男の腕から血が流れた。後ろに立っていた男が脅すように言った。
「客になんてことしやがる! 警察を呼ぶぞ」
 デルフィーは屈することなく言った。
「ここは非改造人エリアだよ。警察なんか来ると思ってんのかい? とっとと失せな」
 デルフィーはナイフを構えたまま、顎で店の出入り口を指した。男たちは呆れたような表情を浮かべながらも、引き下がって店を後にした。
 扉が閉まると、デルフィーは口をつぐんだ。オリーブは泣きそうな気分で言った。
「さっきの男たちが言ったこと、気にしないで。リリーって女の人は決して……」
「あんたの捜してる『リリー』なら知ってるよ」
 デルフィーの口から出た予想外の言葉にオリーブは驚いた。
「どうしてあなたが?」
「さあね。おばかな西部の奴らは知らないが、わたしはちゃんとした教育を受けてる。大学出の奴なら知らないはずがないさ。でも、あんたが本当にあのリリー・ダウドナを捜してるとは思わなかった。普通はディエンって呼ばれてるから」
 オリーブはリリーの姓がダウドナだと知らなかった。だがこの瞬間、直感した。デルフィーの言う「リリー」は自分が捜しているリリーに違いない。
 デルフィーが訊いた。
「リリー・ダウドナとはどういう関係?」
 オリーブは門番の言葉を思い浮かべた。地球では絶対にリリーとオリーブの関係を打ち明けてはならない。
「個人的な興味から調べてるだけ。よく知る間柄でもないし」
 デルフィーはかぶりを振った。
「ごまかしても無駄だよ、オリーブ。リリーの顔にもあんたと同じあざがあったんだ」
 オリーブの表情がこわばった。
 デルフィーはオリーブの顔を見ていた。いや、顔のあざを見ていた。オリーブが覚えている限り、デルフィーがオリーブの顔のあざについて触れるのは初めてだった。
「偶然だと思ってた。でもさっき、リリー・ダウドナを捜してるって言うのを聞いて確信したよ。ひょっとして、ダウドナはあんたの先祖なのかい? ひいひいおばあちゃんよりも上になりそうだね。実際に会ったことは一度もないだろうけど」
「その、わたしは……」
 答えようとして、オリーブは何かがおかしいことに気づいた。だから代わりにこう尋ねた。
「どうしてリリーがそんなに昔の人だと思うの?」
「わたしはバカじゃないよ」
 デルフィーは肩をすくめた。
「リリー・ダウドナは百年以上も前の人だろ。そして彼女こそ、この悪夢のような世界をつくった張本人さ」
 
***
 
 この先はオリーブの音声記録だ。
 
 リリー・ダウドナは二〇三五年、コロンビアのボゴタに生まれた。そして七歳のとき、家族と一緒にボストンに移住する。リリーは親戚にいた、生命工学界で名を馳せた科学者たちの話を聞いて育ち、自身の興味と才能を早々に見出した。エリート科学者は順調に育ってゆき、彼女はMITを卒業すると、博士課程を歩みながらどんどんキャリアを積んでいった。ところがある日、すべてを捨てて姿をくらました。
 バイオハッカー集団が本格的な活動に乗り出したころのことだった。手軽な遺伝子編集技術の普及、地球上のほぼ全種のゲノムに関する知識と「ミニラボ」の広まりにより、多少の知識を持つ人なら誰でも自宅に実験室を構え、遺伝子操作した生物体を生み出すことができた。たいていは無残な失敗に終わったが、なかにはゲノムへの直感と知識によって企業でも成功しなかった遺伝子パズルを解く者もいた。そのうちの一部はフリーランスのバイオハッカーで、あまたの企業からラブコールを受けつつも独立した活動を続けていた。
 リリー・ダウドナが再び現れたのは、匿名のフリーランス・バイオハッカー「ディエン」としてだ。ボストンのどこかにヒト胚のデザインをするハッカーがいるという噂が流れた。当初は誰も信じなかった。遺伝子編集技術の発達につれてヒト胚のデザインを試みた者はいたが、そのほとんどが失敗に終わっていたからだ。
 ところがディエンと呼ばれる匿名のハッカーは、ヒト胚のデザインを完璧に成功させた。大金を払える富裕層を中心に、ディエンの名声は高まっていった。彼女が使うツールはほかのハッカーたちと同じものだったが、彼らのように「青写真」を描くだけにはとどまらなかった。ディエンは発生段階はもちろんその後にまで関与した。依頼を受けた子どもを個別の人工子宮で育て、マシンとロボットで新生児を養育した。きっかり六ヵ月になると、依頼者の家の玄関前に子どもを抱いた保育ロボットと遺伝子証明書が届けられた。
 バイオハッカーたちはディエンがヒト胚のデザインに成功した理由を、発生とエピジェネティックな改変を完璧にコントロールした点にあると推測した。彼らはディエンを真似ようと、彼女の小さな研究室と人工子宮培養室への侵入を試みた。多くはディエンのいた痕跡さえも見つけられなかった。だが、ディエンのクライアントから漏れ出た情報をもとに、ハッカーたちはディエンのやり方を少しずつ習得し始めたのだった。
 ディエンの正体がリリー・ダウドナであることはにわかに知られていった。だが、ディエンがなぜそんなことをするのか、いい大学を出、科学者として成功街道をひた走っていた彼女がなぜ突然違法バイオハッカーになったのかについてはわからなかった。無数の憶測だけが飛び交った。
 ディエンがボストンに現れておよそ五年、アメリカ全域でヒト胚施術が流行していた。誤った施術によりむごたらしい奇形児が生まれた。誰一人として開祖の、つまりディエンの実力に及ばなかった。ディエンはヒト胚デザイン禁止法案にのっとって指名手配されたが、絶えず引っ越しをくり返しながら新たな研究室を構え、依頼を引き受け続けた。リリーの手掛けた子どもは数千、数万にのぼるという噂まで広まったが、そこにはなんの誇張もないように思われた。
 ヒト胚施術が珍しいものではなくなってくると、水面下でバイオハッカーたちを集め、一種のヒト胚デザイン会社を作るケースも出てきた。だが依然として企業に抱き込まれないハッカーも多く、そこにはディエンの存在が大きく影響していた。ディエンは研究結果をオンラインで公開した。ハッカーたちが独自に研究した「遺伝ブロック」は、容易に組み合わせられるレゴブロックのごとく共有された。デザインされた子どもたちは一世代を築くほどに増えた。人々は設計された、美しく、有能で、病気を持たず、寿命の長い新しい人類を「新人類」と名付けた。カリフォルニア大地震で西部の町が荒廃すると、新人類に生まれそびれた非改造人たちは西部へ追いやられた。災害にもびくともしなかった東部の町は、そのほとんどが改造人の拠点となった。
 そしてこの一連の出来事の出発点にして元凶とされるディエン、リリー・ダウドナはある日、突如として姿を消した。
 彼女が消えたのは、ディエンとしてバイオハッキングを始めておよそ二十年後、四十代半ばに差し掛かったころと推測される。なかには、ヒト胚デザイン反対団体の企みによって殺害されたのではないか、はたまた連邦政府のひそかな追跡により逮捕されたのではないかと疑う者もいた。だがどの文献にも、ディエンの最後の行方に関する手掛かりは残っていなかった。
 
 最愛のリリーがほかでもない、この地獄を生んだ人間だったとは。すぐに村に帰って、リリーを問いただしたかった。リリーはすでに永遠の冬眠に入っていたけれど、凍りついたリリーの胸ぐらでもいいからつかんでやりたかった。
 でもわたしには、まだ地球で調べなければならないことがあった。
 この資料はその後の出来事に関するものだ。リリー・ダウドナがなぜ突然ボストンから消えたのか、そしてなぜ「村」へやって来たのかに関する話。
 わたしはリリーが最後の瞬間に残した資料を探して回った。そしてデルフィーは、そのすべての旅路に付き合ってくれた。
 リリーが主に活動していた東部全域を回った末に、わたしはついにスミソニアン自然史博物館に所蔵されていたある資料に行き着いた。それはリリーが姿を消す直前に作成された記録だった。英語ではなく不可解な言語で書かれており、一見すると休み時間に描き殴った絵のように見えた。研究者たちはそのノートを単純な落書きとみなし、それ以上掘り下げて考えることもなく、観覧者のための展示物に回した。実際は、リリーが保安のために自ら考案した新しい形態のアルファベットを使い、あえてデータファイルではなく手記で残したものと思われる。そしてその文字は、わたしたちが村で使用する文字でもあった。わたしにはその記録をたやすく解読することができた。
 それはリリーが地球から姿を消す前に残した最後の記録であり、戸惑いと苦しみの記録だった。
 リリーは長らく自分の人生を呪ってきたようだった。リリーにはわたしと同じ病、顔に決して消えることのない醜いあざを刻む遺伝疾患があった。村で育った者にとっては、リリーのあざは特別な情報を持たない一つの特性にすぎなかったが、地球の人々にとってそれは、リリーをとことん蔑(さげす)み、忌み嫌いうる烙印だった。移民の娘、そして醜い姿をした、陰気で痩せぎすな少女。リリーは人生の初期において、誰ともまともな関係を築けなかったようだ。
 リリーは自らを怪物のような存在だと考えた。病を持っていたにもかかわらずこの世に生まれてしまったのは、親の間違った判断だったと。リリーの両親は貧しく、病院で事前に勧められる遺伝子診断をまったく受けなかった。その診断で該当疾患が実際に見つかっていたかどうかはわからないが、すべての問題は自分の誕生が決まった瞬間に集約されるとリリーは考えた。
 リリーがよりによってヒト胚のデザインに乗り出したきっかけについて、正確な記録は残っていない。だが理由を推し測ることはできる。リリーは生まれてくる子どもに美しさと、なんの病気もなく、ひとえに優れた特性のみからなる人生を贈ることが、自分にできるある種の善行だと信じていたようだ。結果的にリリーのヒト胚デザイン研究は世界に排除対象の階層を生んだだけだが、彼女はある時点までは、自分の仕事になんらの疑問も抱いていなかった。世界を救うためだと信じていた。
 四十歳になったとき、リリーは「初めて子どもをほしいと思った」と書いている。それまで誰かと恋人関係にあった気配はなく、結婚もしていないリリーがなぜ突然そう思ったのかはわからない。だが、リリーの心境の変化から察するに、たったひとりで逃げ続ける人生に飽き飽きしたのだろう。手元にはバイオハッキングで稼いだ莫大な金があり、優秀なハッカーである彼女を外見だけで見下すような人もいまや周囲に存在せず、彼女の人生は安定期に入ったのではないか。
 リリーにとって子どもをつくるのは、いとも簡単なことだった。彼女はまず、自分のクローン胚を作った。そして自分自身が備えたかった最良の特性を、美しさと知性、好奇心と魅力を余すことなく遺伝子に刻み付けた。彼女は自身の娘を人工子宮にそっと移し、発生過程で起こる遺伝子のあらゆるノイズをきめ細かくコントロールした。
 そしてわたしが生まれた。
 リリーがわたしの「欠陥」に気づいたのは、発生初期のことと推定される。デザインが予定どおりに運んでいるかを確認する手順は、どんなプロセスにも必ず含まれるからだ。ミスは常に一定の割合で発生し、それを処理するのも難しいことではない。胚はあくまで胚にすぎず、廃棄して作り直せばそれでいい。人間は受精した瞬間から存在するのではなく、発生過程を通じて完成する。まだ人間になる前の存在を廃棄することは、リリーにいかなる罪悪感も呼び起こさせなかったはずだ。つまり、わたしに彼女と同じ遺伝疾患があるとわかったとき、ただちに廃棄することもできた。
 けれど、リリーはそうしなかった。
 彼女は何を思ったのだろう?
 わたしの欠陥を見つけてからのリリーの記録は、解読困難だ。読み取れるのは一行だけ。
 リリーはこう書いている。
「こうして、わたしは生まれる価値がなかった命であることを証明するのか?」
 リリーはわたしに、自分を重ねて見ていたのかもしれない。世界から望まれない存在として生まれたリリー。世界から排除されたリリー。だが、しぶとく生き残り、たとえどんなやり方であっても命の可能性を立証したリリー・ダウドナ。
 彼女の決定に対して何を言えばいいのか、わたしにはいまだわからない。リリーは自身の人生を呪ったけれど、自身の存在を呪うことはできなかった。
 当時はまだ、発生過程にあったわたしを人間として受け止めていなかったことは確かだ。リリーがわたしを廃棄しなかったのは、わたしが人間だったからではない。それは可能性の問題だった。その存在に生きる権利が与えられるのかを決める問題だった。リリーは結局、わたしに生まれる価値がないという烙印を押せなかった。それはリリー自身の問題でもあったからだ。
 バイオハッカー、ディエンが活動をやめて完全に雲隠れしたのはそのころと思われる。
 その後のことはお粗末な記録によって推測されるのみだ。リリーはマシンのなかで成長中のわたしを冷凍した。計画の成功までには長い時間が必要だと判断したのだろう。リリーはそれまでのヒト胚デザイン研究をすべて廃棄した。すでにアメリカ全域に広まっていた新人類の誕生をなかったことにはできないが、少なくとも彼女自身が生み出した研究結果の原本はすべて消去した。そして代わりに、新たな遺伝子研究を始めた。
 彼女は、顔に醜いまだらを持って生まれても、病気があっても、片腕がなくても不幸じゃない世界を見つけたかったのだろう。まさしくそんな世界をわたしに、彼女自身の分身に与えたかったのだろう。美しく優れた知性を備えた新人類ではなく、相手を踏みつけてその上に立つことをしない新人類を生みたかったのだろう。そんな子どもたちだけからなる世界をつくりたかったのだろう。
 地球の外に「村」が存在するのは、彼女の研究が成功したという証拠でもある。
 わたしは村で暮らしながら、誰かがわたしのまだらについて悪しざまに言うのをただの一度も聞いたことがない。わたしは自分のユニークなまだらを誇りに思ってさえいた。村では誰一人、互いの欠点を気にすることはなかった。だから、欠点は欠点として感じられなかった。
 わたしたちは村で、決して互いの存在を排除したりしなかった。
 
***
 
 もうわかったでしょう、ソフィー。
 どうして本のなかの「始まりの地」とわたしたちの村はこんなにも違うのか。どうしてわたしたちはみんな機械の子宮から生まれるのか。この幸福の出どころはどこにあるのか。わたしたちは悲しみを知っているけれど、それにもかかわらず継続する葛藤や苦しみ、不幸はどうして常に想像の概念としてしか存在しないのか。
 でも、まだわたしが村を出た理由を説明してなかったわね。ここからはその話をするわ。
 わたしは、オリーブがこの記録を残したあとの行動を知りたかった。村の真実を突き止めたオリーブは、村へ戻って生涯そこで暮らしたのか? 自分を愛するあまりにこの世界をつくり上げたリリーを、それでも愛したのか? わたしがオリーブの記録を最後まで聞いたとき、門番がこう言ったの。
「オリーブはその記録を残してから十年後、再び地球へ向かったのだよ。そして地球で生涯を終えた」
 またもや衝撃的な話だった。オリーブが地球へ戻ったという事実は、その後も長いあいだわたしの心をかき乱したわ。わたしはオリーブが村へ帰ってきた理由、そして再び地球へ戻った理由について想像を巡らせた。門番はわたしの推測にはっきりとは答えなかったけど、「ありえそうな話だ」って言ってくれたの。
 門番はわたしに、オリーブはデルフィーのそばで永遠の眠りに就いたことを教えてくれた。地球に行ったら、その墓に花を供えてやってくれとも。地球へ戻ったオリーブがどんな人生を送ったのかに関する記録はわずかしかない。でも、門番が教えてくれたわ。彼女の墓碑はボゴタにあって、こう書かれてるの。
「デルフィーのオリーブ。分離主義に立ち向かった人生。
 彼女の愛はここに眠り、結実はのちに訪れるだろう」
 オリーブはデルフィーと共に地球に残った。そして共に分離主義に抵抗した。彼女の母親、リリーが地球に残した痕跡を少しでも変えようと闘ったのよ。
 もしかしたら地球に発つ前、オリーブが村に残した最後の痕跡こそ、この巡礼の習わしなのかもしれない。わたしたちは成長するにつれ、外の世界に興味を抱き、この平和な村の外で何が起こっているのかを知りたくてうずうずし始める。そしてついに、巡礼の旅に出る。
 オリーブはそうやって、わたしたちが必ず一度はこの世界を離れるようにしたの。
 きっと、地球に降りてすべてを目撃し、わたしたちが何から目を背けてきたのか、わたしたちが自分たちだけの美しい村で暮らすあいだ、その惑星では何が起きているのかを見てこいという意味で。
 さあ、残る質問は一つね。
 地球が本当にそこまで息苦しい場所なら、わたしたちがそこで学ぶのが単に人生の不幸な裏面なら、旅立っていった巡礼者たちはなぜ帰らないのか?
 彼らはなぜ地球に残ったのか? この美しい村を離れ、保護と平和を顧みず、あんなに残酷で孤独でわびしいばかりの光景を見ても、なぜここではなくあちらの世界を選ぶのか?
 ソフィー。どうしてわたしたちが「互いに」恋に落ちないのか考えたことある? 「始まりの地」の歴史を学ぶなかで、過去の人々があれほど愛し合うのを目の当たりにしながら、わたしたちはこの村で生まれ育った者たちが恋人同士にならないのを不思議に思わなかった。同じ子宮から生まれ兄弟姉妹のように育ったわたしたちが互いにときめきや性愛を感じないのは、単なる偶然だと思う?
 地球にはわたしたちとはかけ離れた、驚くほど異なる存在がうじゃうじゃいるはずよね。今なら想像できるわ。地球へ向かったわたしたちは彼らと出会い、多くは誰かと恋に落ちる。そしてわたしたちはやがて知ることになる。その愛する存在が相対している世界を。その世界がどれほどの痛みと悲しみに覆われているかを。愛する彼らが抑圧されている事実を。
 オリーブは、愛とはその人と共に世界に立ち向かうことでもあるってことを知ってたのよ。
 この話をすべて信じられる?
 真実を知ってから、わたしは毎日のように夜通し地球に、巡礼者たちの生涯に思いを馳せた。
 巡礼者たちは誰を愛したんだろう。地球の人たちは南米や、アメリカ西部や、インドに散らばっているはずよね。きっと多様な姿で、多様な生き方をしてる。でも、彼らがどんな姿であろうと、巡礼者たちは彼らのなかに唯一の、愛さないわけにいかない何かを見つけたのでしょうね。
 そして彼らが相対している世界を目にする。わたしたちの原罪。わたしたちを愛するあまりにリリーがつくり上げたもう一つの世界。最も美しい村と、最も悲惨な「始まりの地」の隔たり。その世界を変えなければ、誰かと共に完全な幸せを手にすることはできないことに、巡礼者たちは気づくことになる。
 地球に残る理由は、たった一人で十分だったのよ。
 手紙を書いてる今も、ずっと考えてる。わたしたち以前の巡礼者たちは、少しでも地球を変えられたんだろうか? そこはオリーブが降り立った数百年前と変わらず、悲しみと痛みに覆われているんだろうか? 世界の至る所に巡礼者の痕跡が残っているはずだけど、彼らは、リリーとオリーブの子孫たちは世界を変えるために何をしたんだろう……。わたしは、どうしても自分の目で確かめたくなった。これ以上は待てなくなったの。
 ソフィー。最後に一つだけ。わたしが初めて村に疑問を抱くようになったきっかけ、あの小屋の裏にいた帰還者のことよ。定められた成年式より少し早く地球に行くことを決めたとき、こっそり彼を訪ねて訊いたの。地球で何があったのかって。
 彼は悲しい真実を語ってくれた。地球で彼が愛していた人と、そのやるせない死について。その人が残した、幸せになってくれという遺言について。
 わたしは言ったわ。あなたの最後の恋人のために、あなたができることがあるはずだと。そして訊いたの。もう一度一緒に地球に行かないかって。
 地球へ行くと答えたときの彼は、それまで見かけていた沈鬱な顔に比べれば、いくらかましな微笑みを浮かべていたわ。
 そのときわかったの。
 わたしたちはかの地でつらい目に遭うだろう。
 でも、それ以上に幸せだろう。
 
 ソフィー、これでわたしが先に旅立つ理由をわかってくれるものと信じてるわ。
 それじゃあ、いつか地球で会いましょう。
 その日を待ちわびながら、
 デイジーより。



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