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8月17日(水)発売!『終わらない週末』(ルマーン・アラム/高山真由美訳)冒頭試し読み公開!

早川書房から8月17日に『終わらない週末』が刊行になりました。アメリカで2020年10月に刊行後、オバマ元大統領の夏の読書リストに選ばれ、全米図書賞最終候補にも残った話題作です。
『終わらない週末』から、冒頭3章を特別に公開いたします。

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■あらすじ
アマンダとクレイは、子供ふたりと一緒にニューヨーク郊外に借りた別荘で一週間、休暇を楽しむつもりだった。
束の間の休暇を楽しんでいたのに、夜中に突然ドアをノックする音が……。
別荘の持ち主だと名乗る老夫婦が現れ、ニューヨークが停電になり大混乱に陥ったとアマンダとクレイに告げる。
やがて起こる奇妙な現象の数々。
インターネットもテレビも電話も繋がらなくなり、外の世で何が起こっているか知る由もない6人が、生き残るすべを求め、暗中模索を始める……。

試し読み

 1

 そう、日はさんさんと照っていた。一家はそれを幸先がよいと思った──人はなんでもなにかの前兆に変えてしまうものだ。見える範囲には雲一つなかった、といえば済むものを。太陽はいつもの場所にあった。太陽は絶えずそこにあり、無関心だった。
 道路が合流すると車の流れが悪くなった。彼らの灰色の車は鐘形ガラス器(ベルジャー)のようなもので、局地気候だった──エアコンがかかっており、思春期特有の悪臭(汗、足、皮脂)と、アマンダのフランス製のシャンプーのにおいがして、ガラクタががさがさと音をたてていた。いつものことだった。車はクレイの領域で、クレイはそんなに厳しくなかったので、結果として、まとめ買いしたグラノーラバーのオーツのかけらとか、なんでここにあるのか説明のつかないチューブソックスの片方とか、《ニューヨーカー》の折り込みの購読申込用紙とか、こよりにしたティッシュペーパーとか(鼻水が固まっている)、いつのものかわからないバンドエイドの裏のあの白い剥離紙なんかがある。子供たちにはいつだってバンドエイドが必要だった、夏の果物みたいにピンク色の皮がぺろりと剥けるから。
 腕に日が当たっているのが心強かった。皮膚がんを寄せつけないように、窓はUVカットのスモークガラスだった。ハリケーンが勢力を増す季節だとニュースでいっていて、事前に承認されたリストから嵐に次々奇抜な名前がついた。アマンダがラジオの音量を落とした。いつも決まってクレイが運転するのは、やはり男女差別ではないだろうか? まあ、アマンダは、左右交互駐車とか二万キロごとの点検みたいな、おかすべからざる付帯事項に耐えられないのだ。それに、クレイは誇りを持ってこういうことをやっていた。クレイは教授で、暮らしに役立つ仕事を好むのはそれと関係があるようだった。リサイクルに出すために古新聞を束ねたり、歩道に氷が張りそうなときに凍結防止の化学薬品を撒いたり、電球を交換したり、小さなプランジャーでシンクの詰まりを解消したりするのが好きなのだ。
 車は贅沢といえるほど新しくはなく、ボヘミアンといえるほど古くもなかった。中流階級向けの中流の車で、強烈な魅力で人目を惹くというよりは、人の気分を害さないように設計されており、鏡張りの壁と申しわけ程度の風船があるようなショウルームで売られている代物だ。
そういうショウルームではたいてい販売員のほうが客より何人か多く、二人か三人ずつ固まってうろうろしながら、〈メンズ・ウェアハウス〉のようなチェーン店のズボンのポケットに入れた小銭をチャラチャラさせている。ときどき、クレイは駐車場でべつの操作をしてしまい(車は人気モデルの〝グラファイト〟)、キーレス・エントリー・システムがうまく働かないといっていらいらしていた。
 アーチーは十六歳だった。パンの固まりみたいな大きさの不恰好なスニーカーを履いていた。赤ん坊みたいなミルクのにおいを漂わせていたが、その奥には汗とホルモンのにおいもした。それらすべてを軽減するために、アーチーはモジャモジャの腋毛に化学薬品をスプレーした。自然界にはまったくありそうにないにおい、ある特定の消費者グループで男性の理想のにおいとして意見の一致をみた商品だった。ローズはもっと気をつけていた。〈花咲く乙女の影に〉──まあ、ブラッドハウンドならこの初心者向け化粧品の香りの奥に金属質のなにかを嗅ぎつけたかもしれない。リンゴやサクランボを模した思春期好みの香りだった。車内の全員にわかるくらいにおいがしたが、窓をあけて高速道路を走るわけにはいかなかった。騒音が大きすぎる。「これには出ないと」アマンダはスマートフォンを宙に掲げて全員に通告した。べつに誰もなにもいっていないのに。アーチーは自分の電話を、ローズも自分の電話を見た。二人ともゲームと、親に事前承認されたソーシャルメディアにアクセスしていた。アーチーは友人のディロンとテキストメッセージのやりとりをしていた。ディロンには父親が二人いて、離婚協議が進行中だったが、その埋め合わせとして、ディロンはこの夏をバーゲン・ストリート沿いにある褐色砂岩づくりの邸宅の最上階でマリファナを吸って過ごせることになっていた。ローズはすでに何枚も旅行写真を投稿していた。まだ郡境を越えたばかりだというのに。「もしもし、ジョスリン──」誰がかけてきたかわかっている電話にこまかい気遣いは不要だった。アマンダは営業部長で、ジョスリンは顧客担当主任、つまり現代の会社の用語でいうなら三人いる直属の部下(ディレクト・リポート)のうちの一人だった。韓国系のジョスリンはサウス・カロライナ生まれで、それなのに奥歯にものがはさまったような奇妙なアクセントがあるのはおかしいと、アマンダはずっと思っていた。これはあまりにも人種差別主義的なので、人にいったことはなかった。
「お邪魔して申しわけありません──」ジョスリン特有のシンコペーションのような呼吸だった。アマンダが怖いというよりは、権力が恐ろしいのだ。ちなみにアマンダがキャリアを開始したのは、聖ザビエルのような髪形をした気むずかしいデンマーク人の会社だった。アマンダはそのまえの冬にレストランで彼と出くわしており、胃がむかむかするような不安を覚えたものだった。
「問題ないわ」アマンダは寛大なわけではなかった。電話があってほっとしたのだ。部下からは必要とされたかったから。人々が祈りつづけることを神が望むのとおなじように。
 クレイは革のハンドルを指で連打し、妻から横目でちらちら見られていた。クレイはルームミラーを見て、子供たちがまだそこにちゃんといることを確認した。二人が幼かったころに身についた習慣だった。子供たちの呼吸は安定していた。スマートフォンには、コブラ使いの吹く、まんなかの膨らんだ笛のような効果があった。
 誰も高速道路の景色をきちんと見ていなかった。脳は目をそそのかす──最終的には期待が現実に取って代わる。黄と黒の交通標識、プレハブのコンクリート壁へと消えていく小さな丘、ときどきちらりと見える乱平面づくりの家、鉄道の踏み切り、野球のグランド、地上プールといったものがどんどん流れ去っていった。アマンダは通話中うなずいていたが、電話の向こうの相手のためというよりは、自分がちゃんと聞いていることを自分自身に証明するためだった。
ときどき、うなずいていながら、聞くほうはおろそかになっていることもあった。
「ジョスリン──」アマンダはいくらか知恵を授けようとした。ジョスリンに必要なのは入れ知恵ではなく承認だったのだが。オフィスの上下関係は専制的だった、ほかのすべてとおなじく。「それでいいわ。賢明だと思う。こっちはちょうど高速道路の上にいるところ。電話してくれてかまわないから。心配しないで。でももうすこし離れると電波が入らない場所が出てくる。去年の夏もおなじような問題があったでしょう。覚えてる?」アマンダはいったん口をつぐんだ。恥ずかしくなった。なぜ部下がアマンダの前年の休暇のことを覚えているというのだ? 「今年は遠くまでいくのよ!」アマンダは冗談にしてしまおうとした。「だけど電話して。あるいはメールでも。もちろん、かまわない。幸運を祈ってる」
「会社のほうは大丈夫なの?」クレイは〝会社〟という言葉を発するときに、独特のひねりを加えずにはいられなかった。アマンダの仕事を表すための──妻の仕事については、完全ではないにせよ、だいたいのところは理解していた──一種の比喩でしかないと考えていたからだ。妻も自身の人生を持つべきだとクレイは思っており、実際、アマンダの人生はクレイの人生とはかけ離れたものだった。たぶん、それが二人の幸せを説明できる理由の一つだった。ちなみに二人の知り合いの夫婦のうち、すくなくとも半分は離婚していた。
「問題なしよ」アマンダが自明の理として心得ていることの一つに、仕事のうち何パーセントかはどこでもおなじ、というものがあった。仕事そのものを評価するメールを送ることは、どんな職業にもついてまわった。職場での一日は、その一日についてのいくつかの報告からはじまって、お役所的な礼儀正しさのうちに進行するもので、そのあいだに七十分のランチと、二十分のオープンスペースでの意見交換と、二十五分のコーヒーブレイクを含む。アマンダはそういうジェスチャーゲームのなかで演じる自分の役割を、ときには取るに足りないものと感じ、ときには差し迫ったもののように感じた。
 車の流れは悪くなかったが、高速道路から一般道に降りると悪くなった。死期の近い鮭が生まれた川を必死で遡上するのにも似ていた。ちがいはただ、生い茂る緑の中央分離帯と、雨染みのある漆喰い壁の商店が並んでいることだけだった。町には肉体労働者と中米人でいっぱいのエリアと、裕福な白人に囲われるようにして働く配管工やインテリアデザイナーや不動産業者の多い、栄えたエリアの両方があった。本物の金持ちはどこかべつの王国に住んでいた。そう、ナルニア国のような。一般人が偶然足を踏みいれ、でこぼこ道をすべるようにたどってお約束の終点である行き止まりにたどり着くと、こけら葺き屋根の豪邸と、池を眺められる庭があるのだ。空気は潮風と思いがけない幸運の混じりあった甘いカクテルのようで、トマトやトウモロコシもよく育ちそうだが、高級車や、美術品や、富裕な人々がソファに積みあげるやわらかい織物といった贅沢品の気配も感じられるのだった。
「軽くなにか食べに寄るかい?」クレイはそういい終えるとあくびをして、首を絞められたような音をたてた。
「はらぺこだよ」アーチーが大げさにいった。
「バーガーキングに行こう!」ローズが途中で見かけた店を挙げた。
 クレイには妻が神経を尖らせているのがわかった。アマンダは家族に(とくにローズに)健康的な食事をさせたがっていた。クレイは超音波探知機のようにアマンダの不賛成の気持ちを感じとることができた。勃起の前触れの膨張感のようなものだった。二人は結婚して十七年だった。
 アマンダはフレンチフライを食べた。アーチーはグロテスクなほど大量にチキンナゲットを注文して紙袋に入れ、そこにフレンチフライを交ぜて、さらにアルミホイルの容器から甘くてベタベタするブラウンソースをドボドボ注ぎ、満足げに咀嚼した。
「気持ち悪い」ローズは兄に文句をいった。兄のやることにはなんでも反対なのだ。そのローズも、自分で思ったほど取り澄ましてハンバーガーを食べられなかった。ピンクに塗った唇のまわりにマヨネーズの輪がついた。「ママ、ヘイゼルがマップにピンを立ててる──これを見て、あの子の家がどれくらい遠いかわかる?」
 アマンダは、乳児だった子供たちを胸に抱いたとき、あまりにもうるさくてショックを受けたのを思いだした。排水口のような音をさせてひっきりなしに吐きだしたり飲みこんだりし、いやに冷静なゲップや、不発の爆竹みたいなくぐもったおならをした。本能のままにふるまい、恥じるところがなかった。アマンダはうしろに手を伸ばしてローズのスマートフォンを受けとった。電話は食べ物と指の脂でべたべたで、使い過ぎたせいで熱くなっていた。「ハニー、ここはわたしたちが行く場所に近いとはいえない」ヘイゼルは友達というより、ローズが固執する相手の一人だった。ローズは幼すぎてまだ理解できなかったが、ヘイゼルの父親は国際金融グループ〈ラザード〉の重役だったので、こちらとあちらの家族の休暇が似たものになろうはずもなかった。
「いいから見て。もしかしたら向こうの家まで車で行けるかもっていってたじゃない」
 これはアマンダが半分しか注意を払っていないときに口にして、あとあと後悔するたぐいの約束だった。子供というのは親がした約束を覚えているものだ。アマンダは電話を見た。「ヘイゼルのところはイースト・ハンプトンよ、ハニー。すくなくとも一時間はかかる。日によってはそれ以上かかる」
 ローズはシートの背にもたれ、聞いてはっきりわかるくらい不満をこめていった。「電話を返してもらえます?」
 アマンダは向きを変え、拗ねて顔を赤くした娘を見た。「悪いけど、お遊びの約束のために夏の渋滞のなかを二時間も車内に座ってる気にはなれない。わたしだって休暇で来ているんだから」
 娘は腕組みをし、武器さながらに口を尖らした。お遊びの約束! 馬鹿にされてる、とローズは思った。
 アーチーは窓に映った自分を見ながら咀嚼をつづけた。
 クレイは運転しながら食べた。七百キロカロリーのハンバーガーに気を取られていたせいで一家全員衝突事故死などということになったら、アマンダは激怒することだろう。
 道はさらに狭くなった。農産物の販売所があった。自己申告システムの無人販売所──緑のフェルトでつくられた一パイント容器のなかの毛の生えたラズベリーが果汁に浸って腐りかけていたり、五ドル置いていけば木製の箱が買えたりする──が、大通りを外れた細い車道沿いに立っていた。なにもかもがあまりにも緑で、はっきりいってちょっと異常だった。いっそ食べればいい──車を降りて、両手両足をついて、大地そのものに齧りつけばいい。
「すこし新鮮な空気を入れよう」屁こき童たちの悪臭を追い払おうと、クレイは窓を全部あけた。そして車の速度を落とした。道が魅惑的な曲線美を描き、こちらへあちらへと揺れたから。デザイナーのつくった郵便受けが、渡り労働者の残す目印(ホーボーサイン)のようだった──趣味のよさと大きな富がここにあると伝えていた。まわりは何も見えないほど木々が密集していた。シカのマークの警戒標識がいくつかあった。頭の足りない、人慣れしたシカが出るのだ。シカたちの大きく見ひらいた目はろくに見えておらず、堂々と通りに姿を現す。シカの死体はあらゆるところで目についた。死んで膨張した栗色の死体。
 カーブを曲がったところで、べつの車輛の後尾についた。四歳のころのアーチーなら名前を知っていたはずの車──グースネックトレーラーだった。巨大な空っぽの荷台が、がっしりしたトラクターに牽引されていた。運転手はうしろの車などおかまいなしだった。トレーラーがでこぼこ道を息を切らして進むあいだ、よく見るよそからの侵入者に対する地元民ならではの無関心を貫いた。トレーラーは二キロ弱走ってからようやく帰るべき家である農場へと脇道を入っていったが、そのころにはアリアドネの糸だかなんだかとにかく上空の衛星とつながっていたはずの線が切れていた。おかげでカーナビが現在位置を表示してくれず、一家はアマンダの指示に従うはめになった。熟練の企画者であるアマンダは、メモ帳に行き先を書いてあった。
左に曲がって、右に曲がって、次は左、また左、それから二キロ弱走って、そうしたらまた左、あともう三キロくらい走ってから右。完全に迷ったわけではなかったが、迷っていないわけでもなかった。
    
 2

 家は煉瓦づくりだったが、白く塗ってあった。煉瓦の赤がこんなふうに変容するさまには、どことなく心惹かれるところがあった。家は古く見えるが新しかった。堅固に見えるが軽いつくりだった。たぶん、家や車、本、靴などに矛盾する要素を両立してもらいたいと思うのは、アメリカ人の根本的な欲求か、あるいは単に現代的な衝動なのだろう。
 アマンダはここをオンラインの民泊仲介サービスで見つけた。〈Airbnb(エアビーアンドビー)〉に掲載された宣伝で〝究極の隠れ家〟と謳われていたのだ。家を説明する親しげな口調も気に入った。
〝外の世界をあとにして、わたしたちの美しい家へどうぞお入りください〟。アマンダはおなかに載せて使っていたノートパソコンをクレイに手渡した。パソコンは腹部の潰瘍を孵化させることができるくらい熱くなっていた。クレイはうなずき、なにやらはっきりしない返事をした。
 しかしアマンダはここで休暇を過ごしたいといい張った。昇進したときに昇給もしたし、おまけに、まもなくローズは高校にあがり、家族を軽視するようになるだろう。子供たちがまだ子供でいてくれるのは、いまこの瞬間だけなのだ。まあ、アーチーの身長はもう百八十センチを超えそうだったけれど。アマンダは、女の子みたいにかん高かったアーチーの声を、腰にぶつかる肉の固まりみたいだったローズを、再現することはかなわないにしても、すくなくとも記憶していた。古い諺(ことわざ)にもあるが、死の床に就いたとき、クライアントを三十六番ストリートのあの古いステーキハウスに連れていって「ご家族はお元気ですか」と尋ねたことを思いだすのと、子供たちと一緒にプールにぷかぷか浮かんでいたこと──塩素消毒された水が玉になって彼らの黒いまつげについていたこと──を思いだすのではどちらがいいだろう?
「悪くないね」クレイは車のエンジンを切った。子供たちはシートベルトを外し、ドアをあけて、旧東ドイツの秘密警察もかくやという熱意で砂利の上に飛び降りた。
「遠くまで行かないで」アマンダはいった。だが無意味な言葉ではあった。行くところなどどこにもなかった。あるとすれば森くらい。アマンダはライム病の心配をしていた。ダニが媒介する感染症だ。こんなふうに威厳をもって口を差し挟むのは母親として当然の行動だった。まあ、子供たちがアマンダの日々の申し立てに耳を貸さなくなってからもう長いのだが。
 クレイの運転用の革靴の下で、砂利がジャリジャリと音をたてた。「屋内にはどうやって入るの?」
「ロックつきの箱があるはず」アマンダはスマートフォンを見た。通信サービスがなかった。
道路にさえ届いていなかった。アマンダは電話を頭上にかざしたが、小さなアンテナのマークは頑として立たない。しかしここの情報は記録してあった。「ロックつきの箱は……プールヒーターのそばのフェンスの上。暗証番号は6292。なかに入ってるキーで横のドアがひらく」
 家はきれいに刈りこんだ生け垣に隠されていた。整えた者がさぞかし自慢に思ったであろうその生け垣は、雪堤(せってい)のようでもあり、壁のようでもあった。前庭は棒杭(ぼうくい)の柵で囲まれていた。わずかなアイロニーさえ感じられない白い柵だった。フェンスはほかにもあった。木とワイヤーでできたプールまわりの柵で、こうしておけば保険料がすこし安くなったし、家の所有者たちはときどきシカが水に誘われて迷いこんでくるのを知ってもいたのだろう。もし数週間家を空けるときにこの頭の足りない生き物が溺死し、膨張して、爆発したら、プールは怖気がたつほどぐちゃぐちゃになる。クレイがキーを取ってきた。アマンダは湿った午後の空気のなかに驚くばかりの気持ちで立ち、静けさのなかの奇妙な音に聞き入った。静寂は、街に住んでいると手に入らない──あるいは手に入らないとアマンダが主張する──ものだった。これだけ静かだと、昆虫かカエルか、あるいはその両方がたてる鈍い低音や、風が木の葉をそよがす音や、飛行機か芝刈り機のような音が聞こえた。もしかしたら遠くのハイウェイの騒音が届いているのかもしれなかった。海のそばにいるときに、寄せては返す波の音が聞こえつづけるのとおなじように。まあ、一家は海のそばにいるわけではなかった。経済的にそこまでの余裕はなかった。しかし波の音さえ聞こえてきそうだった。意志の力で。代償行為として。
「さあ、あいたよ」クレイはドアの鍵をあけ、必要もないのにそういった。クレイにはときどきそういうことがあった。必要のないことをいい、自分でそれに気がついて神妙な顔をするのだ。この家には、金のかかった家だけが持つ静けさがあった。静かなのは、家がしっかりと垂直に建ち、内臓部分もうまく機能しているからだった。セントラル空調の呼吸、不眠不休で働く高級冷蔵庫。そして信頼できる頭脳によって、どのデジタル表示の時刻もほぼ一致していた。まえもって設定された時間になると外の明かりが点灯した。ほとんど人間を必要としない家だった。床は幅の広い厚板でできており──木材はユーティカの古い紡績工場から回収されたものであり──真っ平らで、軋(きし)んだり不平がましい音をたてたりはいっさいしなかった。窓はピカピカで、どこにでもいるような鳥が誤ってガラスに突っこみ首を折って死ぬ、などということは毎月のようにあった。この家では有能な手がいくつか働いたようだった。ブラインドを巻きあげたり、サーモスタットの設定温度をさげたり、あらゆるものの表面をウィンデックスのクリーナーで磨いたり、〈ダイソン〉の掃除機をソファの隙間に使って、オーガニックの紫トウモロコシのトルティーヤチップスのかけらを吸いこんだり、こぼれた小銭を拾いあげたりしていた。「うん、いいね」
 アマンダは玄関口で靴を脱いだ。靴を脱いだほうがいいと痛切に感じた。「ここはすてきね」ウェブサイト上の写真は一種の約束のようなもので、その約束は果たされた。オークのテーブルの上にペンダント・ライトがさがっていた、夜にジグソーパズルをしたくなったときのために。灰色の大理石のアイランド・キッチンではパン生地をこねるところが想像できたし、窓の下のダブルシンクのまえに立てばプールが見渡せた。コンロには、鍋を動かさなくても水を入れられるように銅の蛇口がついていた。この家を所有している人々には、配慮を形にできるだけのお金があるのだ。アマンダがシンクで皿を洗うあいだ、クレイはグリルのあるデッキのすぐ外でビールを飲みながら、プールで目隠し鬼をしている子供たちを見張った。
「荷物を取ってくるよ」クレイの言葉の裏の意味は明らかだった。煙草を吸いにいくつもりなのだ。この悪習は公然の秘密だった。
 アマンダは家のなかを歩きまわった。テレビを備えた大部屋にはデッキへ出られるフレンチドアがあった。小さめの寝室が二つあって、一方はアクア系、もう一方はネイビー系の色で統一されていた。二つの寝室のあいだにはどちらからも入れるバスルームがあった。ビーチタオルの入ったクローゼットと、二段重ねの洗濯・乾燥機があり、主寝室へつながる長い廊下があった。廊下の壁には、あたりさわりのないビーチの風景のモノクロ写真が並んでいた。趣味がいいかどうかはともかくとして、すべてが考え抜かれていた。洗濯用洗剤のプラスティックのボトルを隠すための木箱や、固形石鹸──まだ包装紙がかかっている──の受け皿として使われている大きな貝殻にいたるまで。主寝室のベッドはキングサイズで、三階にある一家のアパートメントには階段で引っかかって運びこめないだろうと思えるくらいどっしりと大きかった。主寝室とつづきのバスルームではすべてが白かった(タイルも、シンクも、タオルも、石鹸も、貝殻の石鹸受けも)。自分自身の排泄物という現実から逃れられるように、丹念につくりあげられた清浄な幻想だった。こんなに途方もない家が、一日たった三百四十ドル(プラス、クリーニング料金と払い戻し可能な保証金)なのだ。寝室にいるアマンダからは子供たちが見えた。速乾性のスパンデックスにすでに体を押しこんで、穏やかな青い水へ突進していた。アーチーは長い四肢に鋭角な体つきで、胸にはほとんど筋肉がなかったが、ピンク色の乳首のそばでは茶色い縮れ毛が生えはじめていた。ローズは、ふわふわの産毛に覆われて優雅な曲線を描く体を軽く揺らしていた。水玉模様のワンピースの水着が脚のそばで引きつれ、外陰部のかたちを浮き彫りにしていた。予想どおりの悲鳴とともに、二人は楽しそうにバシャリと水に入った。プールの向こうの森のなかでなにかが音をたてはじめ、茶色い景色のなかから羽ばたいて視界に飛びこんできた。いかにも鈍重な野生の七面鳥が二羽、侵入者に苛立っていた。アマンダは笑みを浮かべた。
    
 3

 食料品店での買出しはアマンダが進んで引きうけた。ここへ来る途中に店のまえを通りかかったので、アマンダはその道を戻った。窓をあけたまま、ゆっくり運転した。
 店内は冷房が効きすぎていて、照明が明るく、通路が広かった。アマンダはヨーグルトとブルーベリーを買った。ターキー・スライスと、全粒粉のパンと、つぶつぶの入った黄土色のマスタードと、マヨネーズも買った。ポテトチップスとトルティーヤチップスと、コリアンダーのたっぷり入ったサルサの瓶詰めも買った。アーチーは絶対にコリアンダーは食べないのだが。
ホットドッグ用にオーガニックのソーセージと安いバンズと、誰もが買うようなケチャップを買った。それから冷たくて固いレモンと、炭酸水(セルツァー)と、〈ティトーズ〉のウォッカと、九ドルの赤ワインを二本買った。乾麺のスパゲティと有塩バターとにんにくも買った。厚切りベーコンと、小麦粉の一キロ入りの袋と、安っぽい香水みたいな切子模様のガラス瓶に入った十二ドルのメープルシロップも買った。挽いたコーヒー豆を四百五十グラム──真空包装なのに外まで漂うほど香りが強い──と、四~八杯用のフィルターも買った。フィルターは再生紙だ。それを気にする? アマンダは気にするのだ。ペーパータオル三パックと、日焼け止めスプレーと、アロエも買った。子供たちが父親とおなじ色素の薄い肌をしていたから。客人が来たときに出すような高級クラッカーと、家族が一番好きなリッツのクラッカーと、ほろほろ崩れるホワイトチェダーチーズと、ガーリック風味の強いフムスと、サラミの固まりと、子供の指くらいのサイズに切りそろえるまでコロコロ転がって止まらないにんじんも買った。〈ペパリッジファーム〉のクッキーを数袋と、〈ベン&ジェリーズ〉の高潔な政治的メッセージのこめられたアイスクリームを三パイントと、〈ダンカン・ハインズ〉のイエローケーキ・ミックスを一箱と、おなじく〈ダンカン・ハインズ〉の赤いプラスティックのふたのついたタブ型容器入りチョコレート・フロスティングを一つ買った。親になってわかったことだが、休暇中にも雨降りの日は必ずあるわけで、そういうときに箱詰めのケーキミックスがあれば一時間ほどケーキを焼きながらのんびりできるのだ。それから膨れあがったズッキーニと、スナップエンドウ一袋と、縮れた葉が黒っぽく見えるほど濃い緑色のケールを一束買った。オリーブオイルのボトルを一本と、クラムがトッピングされた〈エンテンマン〉のドーナツを一箱、バナナ一房、ホワイトネクタリン一袋、イチゴ二パック、赤玉の卵を一ダース、洗浄済みのほうれん草を一パック、プラ容器に入ったオリーブ、グリーンとショッキングオレンジのマーブル模様が入ったくしゃくしゃのセロファンでラッピングされた在来種(エアルーム)のトマト数個を買った。牛挽肉を一・五キロ弱と、ハンバーガー用のバンズを二パック──下のほうが粉っぽくなっている──と、地元でつくられたピクルス一瓶も買った。アボカド四つと、ライム三つと、砂つきコリアンダーを一束買った。またもやアーチーは絶対に食べないというだろうけれど。全部で二百ドル以上になったが、かまわなかった。
「ちょっと手を貸してもらいたいんだけど」すべての品物を茶色い紙袋に入れている男はたぶん高校生か、もしかしたらちがうかもしれない。黄色いTシャツを着ていて、髪は茶色で、全体的に四角張った印象だった。まるで木片から切りだされたような。働いている彼の手を見ていると、なんとなくむらむらした。休暇にはそういう作用があるものだ、そうではないだろうか。人を淫らな気分にさせたり、なんでもできるような気にさせたりする。ふだん送っている生活とはかけ離れた世界だ。アマンダだって、〈ストップ&ショップ〉の駐車場で大人になったばかりの男の熱い舌を吸う魔性の女であってもおかしくなかった。あるいは、街からやってきて大量の食料品に大金を払っただけのよくいるただの女であってもおかしくなかった。
 少年は──いや、たぶん男というべきだろう──荷物の袋をカートに積み、アマンダのあとについて駐車場まで運んだ。男は荷物を車のトランクに積みこみ、アマンダは男に五ドル札を渡した。
 アマンダはエンジンをアイドリングさせたまま座り、スマートフォンの通信サービスが届いているかどうか確認した。メールの到着──ジョスリン、ジョスリン、ジョスリン、代理店の所長、クライアントの一人、オフィスの全員宛に送られたプロジェクト・マネージャーからの同報メールが二通──とともにエンドルフィンがほとばしり、さっき荷物運びの男を見て感じたうずきにも似た、性的な興奮に近い気持ちを引き起こした。
 職場では重要なことはなにも起こっていなかったが、それをきちんと確認できるほうが、なにかあったかどうかやきもきしているよりずっと安心だった。
 アマンダはラジオをつけた。半分聞き覚えのあるような音楽がかかった。ガソリンスタンドに立ち寄って、クレイのためにパーラメントを一パック買った。なんといっても休暇なのだ。今夜はハンバーガーとホットドッグと焼いたズッキーニを食べたあと、さらに、砕いたクッキーをトッピングにして──イチゴをいくつかスライスしてもいいかもしれない──アイスクリームを食べたあと、もしかしたらファックするかもしれない。愛しあうのではない、それは家にいるときにすることだ、休暇中にはファックするのだ、他人の家の〈ポッタリーバーン〉のシーツに欲望をそそられ、湿っぽく、汗まみれになって。それから外に出て、あの温水プールにすべりこみ、水が体をきれいにしてくれるに任せる。その後、二人で煙草を一本ずつ吸いながら、長年結婚がつづいている夫婦がしゃべるようなことをしゃべるだろう──お金のこととか、子供たちのこととか、不動産関係の熱っぽい夢とか(こんな家を自分たちだけのものにできたらどんなにすてきかしらね!)。あるいはなにもしゃべらなくてもいい、それもまた長年つづいた二人ならではの喜びだ。テレビを見てもいい。アマンダは煉瓦を白く塗った家へ戻るべく運転した。
(試し読み終わり)

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書誌情報
書名:『終わらない週末』
著訳者:ルマーン・アラム/高山真由美訳
解説:渡辺由佳里
装画:太田侑子
装幀:早川書房デザイン室
本体価格:2,600円(+税)


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