「人種差別や性差別が嫌われている時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見なのだ」マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』試し読み
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「人種差別や性差別が嫌われている時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見なのだ」マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』試し読み

実力も運のうち_帯

マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』鬼澤忍訳、四六判上製、4月14日発売予定

【試し読み】

容認されている最後の偏見

イギリス、オランダ、ベルギーで行なわれた一連の調査で、社会心理学者のあるチームがこんな発見をした。大学教育を受けた回答者は、教育水準の低い人びとに対する偏見が、その他の不利な立場にある集団への偏見よりも大きいというのだ。この研究者チームは、高学歴のヨーロッパ人が、差別の被害者になりやすいさまざまな人びと──イスラム教徒、西欧に暮らすトルコ系住民、貧しい、太っている、目が不自由、低学歴といった人びと──にどんな態度をとるかを調べた。すると、教育水準の低い人びとがとりわけ嫌われていることがわかった。

アメリカで行なわれた似たような調査では、研究者たちが不利な立場にある集団の改訂リストを提示した。このリストには、アフリカ系アメリカ人、労働者階級、貧しい、太っている、低学歴といった人びとが含まれていた。アメリカ人の回答者もまた、学歴の低い人びとを最下位にした。

つまり、人種差別や性差別が嫌われている(廃絶されないまでも不信を抱かれている)時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見なのだ。欧米では、学歴が低い人びとへの蔑視は、その他の恵まれない状況にある集団への偏見と比較して非常に目立つか、少なくとも容易に認められるのである。

この研究論文の執筆者たちは、大学卒のエリートが学歴の低い人びとに向けるさげすみの目を明らかにしただけでなく、いくつかの興味深い結論を提示している。第一に、高学歴のエリートは学歴の低い人びとよりも道徳的に啓発されており、したがってより寛容であるというよくある考え方に異論を唱えている。高学歴のエリートも低学歴の人びとに劣らず偏見にとらわれているというのが彼らの結論だ。「むしろ、偏見の対象が異なっているのだ」。しかも、エリートは自らの偏見を恥と思っていない。彼らは人種差別や性差別を非難するかもしれないが、低学歴者に対する否定的態度については非を認めようとしない。

第二に、こうして恥の感覚が欠如する理由は、能力主義に基づく自己責任の強調にある。エリートたちは、貧しい人びとや労働者階級に属す人びと以上に、学歴の低い人びとを嫌う。貧困や所属階級は、少なくともある程度まで、個人の力ではどうにもならない要因によるものだと考えているからだ。対照的に、学業成績が悪いのは個人の努力不足であり、したがって大学へ行けなかった人の落ち度を示すというわけだ。「労働者階級とくらべると、学歴の低い人びとはより責任が重く、より非難に値すると見なされる。彼らはより大きな怒りを買い、よりいっそう嫌われるのだ」

第三に、学歴の低い人びとに不利なこうした評価は、エリートだけのものではない。学歴の低い回答者自身が、それを共有しているのだ。ここからわかるのは、成果に関する能力主義的見解がいかに深く社会生活に浸透しているか、それが、大学へ行けない人びとの自信をどれほど失わせるかということだ。「学歴の低い人びとが、自身に押しつけられた否定的な属性に反抗しているという形跡は見られない」。それどころか、彼らはこうした不利な評価を「内面化しているようにすら思える」し、「学歴の低い人びとは、学歴の低い人びと自身によってさえ、自らの状況に責任があり、非難に値すると見なされている」。

最後に、論文の執筆者たちによれば、能力主義社会において大学へ行く重要性を執拗に強調すれば、大学の学位を持たない人びとの社会的汚名を強めることになるという。「教育こそ社会問題を解決する万能策なのだと示唆すれば、社会経済的な地位の低い集団が特に否定的に評価される一方、能力主義のイデオロギーが強まるリスクが大きくなる恐れがある」。そうなれば、人びとはさらに躊躇なく不平等を受け入れ、成功は能力の反映だと信じやすくなる。「教育が個人の責任だと見なされれば、人びとは、教育の違いから生じる社会的不平等への批判を弱める可能性が高い……教育成果の大部分が受けるに値するものだと考えられるなら、その帰結もまた受けるに値するものなのである」

学歴による分断

2016年、大学の学位を持たない白人の三分の二がドナルド・トランプに投票した。ヒラリー・クリントンは、学士号より上の学位を持つ有権者の70%超から票を得た。選挙研究によれば、所得ではなく教育が、トランプへの支持を予測するのに最も役立つことがわかった。所得が同じくらいの有権者でも、教育レベルの高い者ほどクリントンに、低い者ほどトランプに投票したのである。

学歴による分断は、前回の大統領選挙からの最も重要な投票の変動を説明するものだった。大卒者の割合が最も高い50郡のうち48郡で、ヒラリー・クリントンは実のところ4年前のバラク・オバマをしのぐ結果を出していた。大卒者の割合が最も低い50郡のうち47郡で、クリントンはオバマよりかなり成績が悪かった。トランプが初期の予備選挙における勝利の一つを祝って「私は学歴の低い人たちが大好きだ!」と言い放ったのも不思議ではない。

一方で、立候補してから大統領在任中を通じて、トランプは自分の知的経歴をたびたび自慢した。大統領の言葉遣いに関するある研究によると、トランプは小学四年生の語彙レベルで話しているという。これは、過去一世紀の大統領のなかでは最低だ。トランプ政権の国務長官は彼を「能なし」呼ばわりし、国防長官は世界情勢に関するトランプの理解を小学五年生か六年生並だと語ったとされている。自分の知性をさげすむこうした論評に気分を害したトランプは、苦心しながらも、自分は「頭のいい人間」であり、実のところ「沈着冷静な天才」であると主張した。2016年の大統領選挙期間中、助言を求めている外交政策専門家の名前をたずねられ、トランプはこう答えた。「私が相談しているのは自分自身だ。私はとても頭がよく、多くのことを語ってきたのだから……私の第一の相談相手は自分自身なのだ」。トランプは、自分はIQが高いが、自分を批判する者たちは低いと繰り返し言い張った。彼は特にアフリカ系アメリカ人に向かってこうした侮辱を投げつけた。

IQの遺伝学がすっかり気に入ったトランプは、自分の叔父はマサチューセッツ工科大学教授(「天才的な学者」)を務めたが、これは自分、つまりトランプが「優れた遺伝子、きわめて優れた遺伝子」を持っている証拠だとたびたび口にした。最初の閣僚を任命するやいなや、トランプは「われわれは、かつて組織されたあらゆる内閣の中でもずば抜けてIQが高い」と公言した。大統領に就任した翌日、CIA職員に向けた風変わりな演説で、トランプは自分の知性に対する疑念とおぼしきものを払拭すべく、こう語った。「私を信じてほしい。私は、そう、頭のいい人間なのだ」と。

トランプは、聴衆に自分の学歴を思い出させる必要があると感じることがよくあった。彼はフォーダム大学で二年を過ごしたあとペンシルヴェニア大学へ移り、そこでウォートン・スクールの学部課程の授業を受けた。トランプは「入学の最も難しい世界最高の大学……超天才の集団」に通ったのだと自慢した。2016年の選挙運動中、トランプはこんな不満を述べている。彼が絶えず自分の知的経歴を語り、擁護しなければならないのは、保守主義者に対するメディアの偏見のせいなのだと。絶えず自分の知的経歴を語り、擁護しなければならないのは、保守主義者対するメディアの偏見のせいなのだと。

私がリベラルな民主党員として立候補すれば、メディアは私を世界中のどこであれ最も賢い人物の一人だと言うだろう。まさにその通り! ところが、保守的な共和党員だと、メディアは──何と、厳しく批判しようとする。だから、私はいつも「ウォートン・スクールへ通った、優秀な学生だった、あそこへ行った、これをした、富を築いた」などと言って話を始める。そう、私はいつでも自分のいわば経歴を示さなければならない。われわれは少しばかり不利な立場に置かれているからだ。

トランプ自身が不満や不安に駆り立てられていたとはいえ、自分は「頭のいい人間」だという度重なる主張は、批判者にとってはどれほど物悲しく滑稽に響こうとも、一つの政治的資産となった。トランプの選挙集会に参加した不満を抱えた労働者階級の共感を呼んだのだ。彼らはトランプ同様、エリートたちの能力主義的おごりに怒っていた。トランプの異議申し立てによって浮き彫りになったのは、能力主義社会が押し付ける屈辱だった。トランプはエリートをののしる一方で、エリートからの敬意を切望してもいた。2017年の選挙運動形式の集会で、トランプはエリートを激しく非難したあとで、自分自身がエリートなのだと主張した。

さて、ご存じの通り、私は成績優秀な学生だった。私は常々エリートについて耳にしている。そう、エリート──彼らはエリートなのだろうか? 私は彼らよりよい学校に通った。彼らより優秀な学生だった。彼らより大きく、立派な部屋に住んでいる。ホワイトハウスでも暮らしているが、それは本当にすごいことだ。私は思うのだが──おわかりかな? われわれこそエリートだと思う。彼らはエリートではない。


バイデンも誇張

能力主義的な経歴に関する問いかけに直面して、守勢に回った政治家はトランプだけではなかった。ジョー・バイデンは1987年の最初の大統領選挙戦で、ある有権者からどこのロースクールに通い、成績はどうだったかを答えるようしつこく迫られ、気色ばんでこう言い返した。

私のIQは、おそらくあなたよりずっと高いと思いますよ。私は全額給付の奨学金を得てロースクールに進みました。全額給付の奨学金を受けたのはクラスで一人だけでした……さらに実際、クラスの上位半分に入る成績をとりました。学年末には政治学部できわめて優秀な学生でした。学部から3つの学位を受け、123単位があればよいところを165単位を得て卒業しました。あなたと私のIQをじっくり比較させてもらえれば大変うれしく思います。

ファクトチェックによれば、バイデンの返答は誇張に満ちたものだった。彼は経済的必要性から一部給付の奨学金を受け、クラスで最下位近くの成績で卒業し、三つではなく一つの学士号を取得した(専攻は二科目だったが)などなど。だが、驚かされるのは、政治家たちが学歴を粉飾していることではなく、そうする必要があると思っていることだ。

能力主義的な経歴に問題がない人びとでさえ、ときとして、保身のためにそうした経歴を独善的に持ち出すことがある。2018年の上院によるブレット・カヴァノーの指名承認公聴会について考えてみよう。カヴァノーはトランプによって最高裁判事に指名された(そして最終的には承認された)人物だ。資格審査も終盤にさしかかったところで、カヴァノーの承認に疑義が生じた。ある女性が、高校時代のパーティーでカヴァノーから性的暴行を受けたと告発したためだ。

酔った上での性的暴行の嫌疑について上院議員たちが問いただすと、カヴァノーは告発を否認しただけでなく、奇妙なまでに的外れな能力主義的弁明をした。高校時代にどれほど懸命に勉強したか、いかにしてイェール大学に、さらにイェール大学ロースクールに合格したかをとうとうと述べたのだ。

高校の年報に飲酒と性的所業の件がはっきり書かれていると問われると、カヴァノーは答えた。「私はがむしゃらに勉強し、クラスでトップの成績を収めました。バスケットの代表チームではキャプテンを務めました。イェール大学に合格しました。イェール大学に入ると、イェール大学ロースクールに進みました……わが国でナンバーワンのロースクールです。大学院にコネがあったわけではありません。大学で必死に勉強して合格したのです」

カヴァノーの能力主義的な経歴には何の疑義もなかった。彼が18歳のときに、パーティーで酒に酔って若い女性に性的暴行を加えたかどうかという問いと、彼の学業成績にどんな関係があるのかを理解するのは難しい。ところが、2018年には、物事の判断基準として学歴偏重主義が大きな力を持っていたため、それが信頼を得るための一種の万能のレトリックとして機能し、キャンパスの門のはるか彼方で繰り広げられた道徳的・政治的闘争で出番を与えられたのだ。

学歴が武器となる現象は、能力や功績がいかにして一種の専制となりうるかを示すものだ。こうした現象が生じてきたプロセスは、再現してみる価値がある。グローバリゼーションの時代に、巨大な不平等と賃金の停滞が労働者を襲った。アメリカでは、上位10%の富裕層が利益の大半を懐に入れ、下位半分の人びとはほぼ何も手にしなかった。1990年代から2000年代にかけて、リベラルで進歩的な政党は経済の構造改革を模索し、こうした不平等に直接には取り組まなかった。その代わりに、彼らは市場主導のグローバリゼーションを受け入れ、それがもたらす恩恵の偏りに対処するため、機会の平等の徹底を図った。

これが、出世のレトリックのポイントだった。達成への障壁を取り除くことができれば、誰もが成功を収める平等な機会を手にするはずだ。人種、階級、性別にかかわらず、自分の才能と努力が許すかぎり出世できるのである。さらに、機会が本当に平等なら、頂点に登り詰めた人びとは、成功とそれがもたらす報酬に値すると言っていいだろう。これが能力主義の約束だった。それは、より大きな平等の約束ではなく、より大きくより公正な社会的流動性の約束だった。収入のはしごの間隔がますます開きつつあることは容認し、はしごを上る競争をより公正にしようとするものにすぎなかったのだ。

*マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』より一部編集のうえ抜粋


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