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グリコ・森永事件の犯人がモデルにしたと言われる「ハイネケンCEO誘拐事件」の真相『裏切り者』

1983年、オランダ・アムステルダムで、世界的ビール会社ハイネケンのCEOフレディ・ハイネケン氏とその運転手が5人の若者に誘拐された。犯人グループは、個人の誘拐としては当時の史上最高額となる3500万グルデン(約23億円)の身代金を要求。事件は世界中を震撼させ、あの「グリコ・森永事件」(1984・1985年)の犯人がこの事件を参考に犯行に及んだとまで言われているーー。
ハイネケンCEO誘拐事件の当日、犯人を家族に持つ一家では何が起きていたのだろうか? 主犯格コル・ファン・ハウト(コル)とウィレム・ホーレーダー(ウィム)の事件後の様子を間近で目撃していたウィレムの実妹による貴重な記録を、彼女の著書『裏切り者』の中から抜粋します。
『裏切り者』著者アストリッド・ホーレーダーから見た人物関係

ウィレム・ホーレーダー…通称ウィム。アストリッドの実の兄。ハイネケンCEO誘拐事件の実行犯の一人で、釈放後には「オランダ史上最悪の犯罪者」と呼ばれるほど誰からも恐れられる人物になる。

コル・ファン・ハウト…通称コル。アストリッドの義理の兄。ハイネケンCEO誘拐事件の主犯格。

ソーニャ…アストリッドの実の姉(ウィレムの妹)で、コルの妻。

フランシス…アストリッドの甥(コルとソーニャの息子)


ハイネケン誘拐事件(1983年)

 事件当日、それは速報として飛び込んできた。フレディ・ハイネケンが運転手のアブ・ドーデラーとともに誘拐されたのだった。ハイネケンはまさに、父の生活の中心をなす人物だった。父は25年以上にわたってハイネケン社に勤務し、来る夜もくる夜もこの「ビール会社」についての自分の構想を披歴し、彼特有の度が過ぎた熱意で、いかに会社に貢献したいかについて語った。私は会社に対する父の異常な献身ぶりを恥ずかしく思っていたが、ハイネケン氏に対する敬意は理解できた。そのハイネケン氏が、アムステルダムの本社前の通りで連れ去られたというのだった。
 その数日後のこと、ウィムがコルと姉の家に夕食に立ち寄り、私もその場に居合わせた。テレビは誘拐事件の続報を伝えていた。
「これ、お前はどう思う?」ウィムが訊いた。
「ばかなことしたもんよね」私は答えた。「ハイネケンを誘拐するなんて。女王よりも力のある人よ。どんな犯人も逃げ切れっこない。死ぬまで追われ続けるわ」
「そうかな?」
「そうにきまってる」
「そりゃまたどうして?」
「ウィム、あの人は大金持ちだし、君主みたいなもんでしょ。世界中のリーダーと知り合いで、女王ともすごく親しい。真面目な話、犯人が誰であれ、大変なことをしでかしたものよ。この事件は全世界の注目を集めることになるわ」
「小賢しいクソガキめ」ウィムが吐き捨てた。
 いつものように、私の見解はウィムをいら立たせた。そこに変わった点はない。彼は話題を変えた。「タイプライターのリボンを買っといてくれ。どこで買えばいいかわかるな?」
「うん」私は答えた。
「明日必要なんだ。この金で買え。お前は何でもすぐ忘れちまうけど、これだけは忘れるなよ――すごく大事なことだから」
 ウィムの言うとおり、私は忘れっぽかった。でもその声と目つきから、兄が真剣なことがわかった。
「母さんに渡しといてくれ」
「わかった」私は言った。
 翌日、私は放課後自転車で書店へ行き、リボンを買って母の家に戻った。そこにはすでにウィムが待ち構えていた。
「はい、これ」そう言って、私はリボンの入った箱を兄に渡した。そのときはこのリボンが何に使われるのかなど知る由もなかった。
「ごくろうさん、アシー」ウィムはすぐに出ていった。

 その夜、私はまたソーニャの家に泊まった。フランシスは子ども部屋のベビーベッドで眠り、私はソーニャと一緒に主寝室に寝ていた。
 慌ただしい大きな足音がにわかに近づいてくるのに気づき、私は目を覚ました。足音がどこから聞こえているのか確かめようと目を開けると、6人の屈強な男たちがベッドを取り囲んでいた。全員が目出し帽で顔を隠している。男たちは大きなライフル銃を私たちに向けていた。ソーニャと私に逃げ場はなかった。
 あまりの恐怖に、私たちは抱き合って悲鳴を上げた。殺される。頭にはそれしかなかった。すると次の瞬間、ふたたび大きな音がし、第二陣がわめきながら押しかけてきて、ドアとクローゼットを残らず開けてまわった。
 いったいどういうこと? なんで命を狙われなくちゃならないの? 私はソーニャと引き離され、ベッドから床にたたきつけられた。
「伏せろ! 腹ばいになれ! 伏せるんだ!」彼らは叫んだ。「頭の後ろで手を組め!」
 私は腹ばいになって、頭の後ろで手を組んだ。上方のようすをうかがうと、脇に立った男のひとりが私の後頭部に銃を突きつけているのが目の端に入った。正面にはフランシスの部屋があった。フランシスの泣き声が聞こえ、銃を持った大柄な男が子ども部屋に入っていくのが見えた。
 ソーニャが悲痛な声で叫んだ。「私の子、私の子よ!」
 ソーニャは自分を押さえつけている大男から逃れようともがいた。私も死に物狂いで床を這って子ども部屋へ向かい、フランシスを抱き上げて保護するなり何なりしようとした。しかし、脇に立っていた男に「じっと伏せていろ!」と怒鳴りつけられ、脚をつかんで引きずり戻された。男は私の首を足で踏みつけ、頭を押し下げてカーペットに頬をぎゅうぎゅうと擦りつけた。
 どうやら、事態をさらに悪化させてしまっただけのようだった。私は男の目の色をうかがい、何をするつもりなのか探ろうとした。銃が目に入り、男が自分を射殺するつもりなのだと確信した。もう逃れることはできない。観念した私は目を閉じて、最期のときを待った。
 そのときだった。また叫び声が聞こえた。すると今度は、通常の制服に身を包んだ男たちが乗り込んできて、大声で言った。「警察だ! 警察だ!」
 警察ですって? 私は思った。そうか、警察だったのね! この人たちは物盗りでも人殺しでもないんだ! 警察なら、私たちを撃ったりしない。助かった! 私はまだ、警官の靴に首を踏みつけられたまま床に横たわっていた。彼らが家中を捜索している音が聞こえた。警官たちがソーニャを怒鳴りつけていた。
 彼らは私にコルの所在を問いただした。だが、私は彼がどこにいるのか知らなかった。コルはソーニャや私に行き先をけっして教えない。警官たちは私を立ち上がらせ、リビングへ連れていった。私はどういうことなのか尋ねたが、返答はなかった。ソーニャは別の部屋に入れられ、話し合うことはできなかった。刑事に付き添われて、私は着替えのために寝室へ行った。
 そのとき、電話が鳴った。
 ソーニャと私は顔を見合わせ、同じことを考えた。コルからの電話だと。
 ソーニャは電話に出ようとしなかったが、刑事が出るよう命じた。
「もしもし」受話器を取ったソーニャの耳にコルの声が届く。姉が口を開く前に、刑事が受話器を取った。
「ピートだ」刑事は言った。
 それが――つまり、見知らぬ人間が家にいて、電話に出るということが――何を意味しているのかをコルは悟った。けれども私たちには依然として、事の次第がまったくわからなかった。
 ふたりとも着替えをすませると、私たちは別々の車で警察署へ連行された。フランシスはソーニャが抱いていった。
 警察署で私たちは同じ部屋に入れられた。
「どういうことだと思う?」ソーニャがまた訊いた。
「さっぱりわからないわ」私は答えた。「コルが何か悪事でも働いたのかな?」
「どうかしら」ソーニャは言った。「思い当たることはないけど、警察がコルを追ってるのはたしかね」
 そこまでは明白だった。警察に連行された理由についてソーニャとあれこれ推測していると、ドアが開いて、私はコンクリート製の寝台とそのすぐ脇にトイレのある独房に連れていかれた。空気がひんやりとしていて、壁にはさまざまな落書きがされていた。
 そのうちに、私は壁の文字を読み終えてしまった。もう何時間も経っていた。窓の外が明るくなりつつある。学校へ行く時間だ。その朝、私は学校一厳しいヤンセン先生のドイツ語のテストを受けることになっていた。これだけは受けないわけにはいかない。そこでインターコムのボタンを押した。
「はい」強ばった声が答えた。
「すみません、ドイツ語のテストを受ける必要があるので帰りたいのですが」沈黙。
 私は再度ボタンを押した。「はい」
「すみませんが、出してもらえませんか? 学校へ行かなければならないので」
「それはできません」
 その後も私は気力が尽き果てるまでボタンを押し続けたが、まったく応答はなかった。テストは受けられそうもない。先生にどう言い訳したらいいだろう? 警察の留置所にいたと言おうか? 先生はきっと信じてくれないだろう。私は日頃から真面目で分別のある生徒で、問題を起こすようなタイプではなかった。そんな私が留置所に入れられていたなんて誰が信じるものか。テストには合格できないだろう。
 頭のなかでは何時間も、さまざまな思いが堂々巡りをしていた。コルは何か大変なことをしでかしたに違いないが、それが何かはわからなかった。コルはいつも私に優しかったし、彼の母やきょうだいをはじめ、誰に対しても思いやりがあった。ユーモアたっぷりで、一緒にいて楽しい人物だった。そんな彼にどんな犯罪ができるのか? 今何が起こっているのだろう? 私はどれぐらい、そしてどんな理由でここにいなければならないのか? かりにコルが法律に背いたとしても、なぜ私が警察に追われるのだろう?
 私はソーニャとフランシスのことを思った。ふたりは今も一緒にいるのだろうか? それとも、ソーニャの家で警官に脅されたとおり、フランシスは児童保護サービスに連れていかれてしまったのだろうか? ウィムもこの件に一枚かんでいるのかもしれない。なにしろ、彼はコルと年中一緒にいるのだから……。
 数時間後、さっとドアが開き、大柄な男がずかずかと入ってきた。「署名しろ!」大声で言うと、書類を突きつけた。
「署名?」私は面食らって尋ねた。
「そうだ、署名だ!」男がまた怒鳴り声を上げたので、私はその書類に目を落とした。そこには、私がハイネケン誘拐に関連して逮捕されたと書かれていた。
 ハイネケン誘拐? いったい何のこと? 前夜に見た映画が頭をよぎった。それはフランツ・カフカの『審判』をもとにした映画だった。カフカの小説のような世界に私自身が入り込んでしまったのだった。署名すれば二度と釈放されない気がして、私は署名を拒んだ。
 だが、大男は私の拒絶を認めなかった。顔を間近に寄せて怒鳴りつける。「署名するんだ! 今すぐにな!」私は何の文書に署名しているのかもわからぬまま、とにかく署名をした。続いて独房から別の部屋に連れていかれると、そこで手を差し出すように促され、爪を切られた。私は怖かった。相手が警官だとわかっていても、もう安心はできなかった。あとは何をされるのだろう? 爪なんか切ってどうしようというのか?
 二五年後、私は事件のファイルを調べることを許され、その理由が判明した。警官たちはハイネケン社が身代金に吹きかけておいた薬品の痕跡を探していたのだ。警察は私がその紙幣に触れたかどうかを確かめたかったのだった。
 爪を切られたあと、私はまた別の部屋に移された。私は17歳の未成年で、まだ弁護士とも接見していなかった。当時は弁護士を求める権利があることすら知らなかった。それにもかかわらず、警察は取り調べを行なった。私はロブ・フリッフホルスト、フランス・メイヤー、ヤン・ブラート、コル、コルの異父弟マーティン・エルカンプスの写真を見せられた。何と答えたのかまったく記憶にないが、何も知らなかったのだから、たいした話はできなかったに違いない。
 どうやら捜査官もほどなく同じ結論に達したらしい。逮捕翌日、午前中のうちに独房の扉が開き、私は何の説明もなく警察署の外へ送り出された。自宅に戻ったが、誰もいなかった。みんなどこへ行ったのだろう? すると、玄関でノックの音がした。上の階に住む女性で、腕にフランシスを抱いていた。まがりなりにも、フランシスは見つかったわけだ。フランシスの状況が一番気がかりだった――ほかの者は自分のことは自分でどうにかできるのだから。フランシスを近所に住む彼女に預けてしばらく面倒をみてもらえるよう、ソーニャが警察に頼んだのだと教えてくれた。私は彼女に残りの家族の行方を知らないかと尋ねた。
「警察はヘラルトも連れていったわ。階段でものすごい音がしてね。建物じゅうに武装警官がなだれ込んできたの。映画さながらだったわよ。うちの窓から、ヘラルトが警察車両に乗せられていくのが見えた。お母さんは今朝ソーニャの家に出かけたけど、まだ戻ってないのよ。ニュースによると、お母さんも警察署にいるみたい」
「ソーニャもよ」私は彼女に伝えた。「私と一緒に連行されたの」
「まったくひどい話ね、かわいそうに」彼女は慰めの言葉をかけてくれた。
 彼女の声の温かみとさっきまでのつらい経験とのあまりの落差に、私はしばし泣き崩れた。
「どういうこと? 何が起こっているの? 母さんに帰ってきてほしいけど、どうすればいいのかわからない。私に何ができるの?」私は泣き叫んだ。
「よしよし、落ち着いて。きっと大丈夫だから」彼女は言った。「私のところに捜査官が来て、あなたたち家族について山ほど質問していったんだけど、その人からもらった名刺が家にあるわ。電話してみるといいかもしれない」
 当時17歳だった私はまったくの世間知らずで、ひどい経験をしてきたばかりだった。何も悪いことをしていなくても、こんな悪夢が降りかかることがあるのだ。私にとって、警官に連絡することは、刑の執行人に切り落としてくださいと手を差し伸べるに等しい行為に思えた。あのような不当な扱いをする警察の関係者には、どうしても電話をかけたくなかった。
「いやよ、また連れ戻しにくるかもしれないじゃない。家で待ってみる。そうすれば、ソーニャが戻ってくるまで、フランシスの面倒もみられるわ」
「わかったわ、アシー。助けが必要になったら、いつでもいらっしゃい」その10分後、玄関のチャイムが鳴った。私はフランシスを腕に抱いたままドアを開けた。階段の下に男性がひとり立っていた。「児童保護サービスの者です。フランシス・ファン・ハウトを迎えに来ました!」
 フランシスを連れていく? 「必要ないわ!」下に向かって言い放つと、私は腕にフランシスを抱えて、隣人の家まで階段を駆け上がった。児童保護サービスの男も私のあとを追ってくる。
「開けて!」隣人の家に向かって私は叫んだ。不気味な男に脚をつかまれたので蹴とばし、最後の数段を駆け上がって隣人の部屋へ飛び込むと、後ろ手に勢いよく扉を閉めた。ぎりぎりセーフだった。
「扉を開けなさい」男は言った。
「いやよ。フランシスはどこへもやらないわ」
「警察を呼ぶぞ」
「好きにすれば!」私は怒鳴った。
「落ち着きなさい」隣人がささやいた。「こんなことしても無駄よ」彼女は男と話を始めた。男は隣人の女性に、犯罪者一家の私にはフランシスの面倒はみられないと話した。世の中はどうかしてしまったのではないか? 隣人は自分が赤ん坊の面倒をみると男を説得した。男はこれに納得した。
 私はホッと息をついた。私が見知らぬ男にフランシスを渡したと知ったら、ソーニャは怒り狂っただろう。私はフランシスを泣きやませることができなかったが、隣人はとても母性的な女性で、フランシスをうまくなだめてくれた。
 フランシスは上の階で眠り、私は下の階で座っていた。そのとき、玄関で音がした。私は恐怖に身がすくんだ。まだ終わってないの? また私を捕まえに来たのだろうか? 私はソファの背後に隠れた。ドアの開く音がする。いったい誰? 家の中に入ってくる。私はできるだけ身を縮め、息をひそめる。
「誰かいる?」ヘラルトだ!
 私はソファの陰から立ち上がって叫んだ。「いるわ!」
 ヘラルトは驚いて飛び上がった。「何やってんだよ、このバカ! 腰を抜かすかと思ったぞ!」
 このときばかりは、ヘラルトの見下したような物言いも心地よく響いた。私の「弟」が帰ってきた!
「いったいどうなってるの、ヘル?」彼が答えられることを期待して、私は訊いた。
「わからない。でも、相当にヤバいな」ヘラルトの声は震えていた。
 ヘラルトは武装した男たちがアパートメントに乗り込んできたのに気づき、バルコニーに隠れようとしたという。だがすぐに見つかり、銃を突きつけられて連行された。
 車に乗せられたあとで、相手が警官であることを告げられた。それまでは、誘拐されたのだと思い、縮みあがっていたという。
「それで?」私は言った。「母さんはどこにいるの? ソーニャやコルやウィムは?」
「まったくわからない、アス、お手上げだ」ふたりとも信じられない思いだった。
 その晩はそのまま自宅で待ち続けた。
 私は母に会いたくてたまらなかった。
 隣人が夕食に招いてくれた。テレビがついていて、誘拐犯についての情報が繰り返し流されていた。自分の知り合いの名前がテレビから聞こえてくるのは奇妙な感じがした――コル、ウィム、コルの異父弟のマーティン。彼らにこんなことができるだろうか? とてもそうは思えなかった。「私たち、これからどうすればいいんだろう?」私がそうこぼしたとき、母が大声で呼びかけるのが聞こえた。「誰かいないの?」
「母さん、ここにいるわ!」
 ようやく母が帰ってきた! 母はソーニャの家に着いたとたんに逮捕されたと話した。私たちが連行されてまもなくのことだった。
 特殊部隊の大勢の隊員たちが家じゅうを捜索していて、そのうちのひとりが玄関の見張りに立っていた。玄関が開け放たれているのを見て、母は中に入ろうとした。すると、隊員のひとりが母の頭に銃を突きつけた。
「動くな」その男は言った。
 母は動じなかった。「どいてちょうだい」母は鋭く言い返した。銃を押しのけると、奥へと向かった。「ここで何をしているの? ほかにやることがあるでしょうに。ハイネケンの誘拐犯を追っかけなさいよ!」母は本心からそう言ったのだが、それこそまさに目の前で展開されていることだとは知る由もなかった。

「あのコルのろくでなしが!」母が話を転じた。「どうしてこんなことをしでかしたのか。気でも狂ったのかね? よくも平気な顔して家に来られたもんだ。コルはおしまいね! ソーニャはもうあの男には会えないだろうよ。ほんとに汚らわしいやつさ! なんでもっと早く気づかなかったんだろう? あの極悪人!」
「どういうこと、母さん?」私は訊いた。
「コルがハイネケンを誘拐したんだよ!」母は大声を上げた。
「でも、ウィムも一枚かんでるんでしょ?」私は応じた。
 それを聞いた瞬間、母はくずおれ、ソファに座り込んだ。「ウィムが?」戸惑ったようにつぶやく。「ウィムもかかわってるのかい?」
「母さん、警察で聞かなかったの?」
「いいや」母は言った。「聞くって何を?」
「ウィムも仲間だってこと」
「聞いてない」母は口ごもって、遠くを見つめた。「いいや、そんなことは聞いてない。コルのことしか」
 母の世界は崩れ落ちた。母は泣きはじめた。
「あの子が、あの子が――私の息子がどうしてあんなことを? なんてひどい、ひどすぎるじゃないか。あの子はどこだい? ウィムも警察に連れていかれたの?」
「わからない」私は答えた。
 そのとき、テレビのニュース番組で、ハイネケン誘拐犯の何人かが逮捕されたが、依然としてふたりが逃亡中であることが報じられた。
 私は母を見守っていたが、その目には苦悩が浮かんでいた。息子は今や逃亡犯となっていた。
「ウィムにはもう二度と会えないかもしれないね」母はつぶやいた。「あの子たちはこんな厄介ごとを私たちに残して、逃げちまったんだから」

 ソーニャが釈放されたのは翌日のことだった。彼女は家に着くとまっさきにフランシスに駆け寄り、娘をきつく抱きしめた。彼女は捜査官たちに、誘拐について知っていることをすべて話さないと、子どもを里子に出して二度と返さないと脅されていた。
 けれどもソーニャは何も知らなかった。警察もそれをようやく確信して、彼女を解放したのだった。ソーニャは完全に取り乱していた。コルにも、ウィムにも怒り心頭だった。ふたりはみんなをこんな目に遭わせてどうして平気でいられるのか? 私たちは誰もが腹を立てていたが、同時に心配でもあった。今どこにいるのだろう? 見つかったらどうなるのか? 逮捕の際に殺されてしまうのではないか? ニュース報道によれば、ふたりを追う大規模な捜索が展開されており、身代金の一部がまだ回収されていないとのことだった。
 このときから、コルやウィム、そして消えた身代金の行方をつかむ糸口を見つけようと、警察による尾行が始まった。店で買い物をすれば、身代金で支払われていないかと逐一チェックされた。
 私たちは釈放されたが、自由ではなかった。監視され、盗聴されていた。プライバシーはいっさいなかった。私たちは世間に犯罪一家とみなされ、背を向けられたり、背を向けられて当然だと面と向かって言われたりした。私の所属するバスケットボール協会の会長は、役員会は私に兄の犯罪の責任を問わないことを決定し、協会のもとでプレーを続けることを許可すると知らせてきた。
 兄の犯罪の責任を問わない? プレーを続けることを許可する? どうして私がプレーする許可を得なくてはならないのか?
 やがて、良識が消え失せたのはバスケットボール協会だけではないことが判明した。行く先々で同じようなことが起こった。
 突如として、私は「ハイネケン誘拐犯の親族」であるというだけで、その犯罪の加担者とみなされることになった。長年父の独裁のもとで暮らし、その逆鱗を恐れるあまり逃げ出すことすらできなかった私たちは、世論という法廷において、だしぬけに全員が有罪を宣告された――ウィムのせいで。
 メディアは世論に熱烈に同調した。反論はするだけ無駄だった。私たちは「悪」であり、更生は不可能とされた。どこへ行っても、私たちは犯罪者の「親族」であり、独立した個人ではなかった。
 姓が私たちのすべてだった。ホーレーダーという姓こそが、私たちを定義した。
 この事実を偽り、自分の出自について嘘を重ねていかざるをえなくなるのは、私はいやだった。そのため私は常に本名を名乗り、「親族」かと問われれば、そうだと答えた。すると相手は、私が何か恐ろしい病気に感染しているかのような目でこちらを見るのだった。
 同じことが家族全員の身に降りかかった。この共通の経験によって、家族の絆はいっそう強まった。家族の結束のなかだけは安全だったので、母とソーニャ、ヘラルト、そして私は、以前にも増して身を寄せ合って暮らすようになった。
 かつて私は一家の変わり者扱いされていたが、今では家庭だけが、私が疎外感を味わわずにすむ唯一の場所となった。


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