その部屋に_いる

異色の家ホラー『その部屋に、いる』冒頭試し読み!

一見なごやかなホームパーティー。しかしマークとステファニーの年の差夫婦のあいだは、どこかギクシャクしていた。そして二人が休暇に訪れたパリで出会う悪夢とは?

三津田信三さん推薦の、『その部屋に、いる』(S・L・グレイ、奥村章子訳、ハヤカワ文庫NV)。冒頭2章を特別公開します。

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1 マーク

 もう一本ワインを取りにふらふらとキッチンへ行くと、酔っているのがわかる。体がぽかぽかとして動作が鈍り、やけに忘れっぽくなっているのは、酔いがまわりはじめた証拠だ。カーラはいつものように、亡霊もびっくりして部屋の隅に隠れてしまいそうなほど大きな声で笑っている。カーラのけたたましい声にまじって、ステファニーのためらいがちな小さな笑い声も聞こえる。彼女の笑い声を聞くのは、あれ以来、数週間ぶりだ。
 ポテトチップスもお代わりが必要だと思い、過ぎたことは忘れようとしながら狭いストックルームのいちばん下の棚に置いてある袋をつかむと、ふたたびキッチンに戻る。カーラの友人が高価な赤ワインを持ってきて私に手渡しながら、今夜は飲まずに特別なときのために取っておいてくれと言ったが、べつにいま飲んでもかまわないはずだ。ポテトチップスの袋を開けてひとつかみ頬張り、カウンターの上の汚れたグラスや皿の横に置いたそのワインボトルに手を伸ばそうとすると、裏庭に取りつけたばかりのセンサーライトが光る。あわてて窓を見上げたせいで手元が狂い、ワインボトルが汚れたグラスの上に倒れて、皿の上にのっていたナイフやフォークが飛びはねる。
 一瞬、キッチンは大混乱状態におちいって、割れた皿やグラスの破片とナイフやフォークが足の上や床に落ちるが、騒ぎはすぐに収まる。私は、センサーライトが化け物を追い払ってくれると思っているかのように、窓越しに裏庭を見つめつづける。
 しかし、実際には一瞬の出来事ではなかったはずだ。なにも照らし出さないままセンサーライトが消えるとキッチンが静寂に包み込まれるが、誰かがキッチンの入口からなかを覗いているのか、背後に人の気配を感じる。
「マーク?」ステファニーの声がする。「大丈夫?」
 私はふと我に返る。「ああ。すまない。うっかり落としてしまったんだ」
 ステファニーは皿やグラスの破片が飛び散った床を素足で歩いてくる。
「来るな」と止める。「怪我をするぞ」
 それでも彼女は爪先立ってそばに来て、真っ暗な裏庭に目をやる。「なにか見えたの?」と、小声で訊く。「誰かいたの?」
「たぶん猫だろう」
「ほんとうに大丈夫?」ステファニーが私の腕をつかむ。
「大丈夫だ」そう言いながらも私は自分の過剰な反応を恥じて、ワインボトルを手に、食器の破片のあいだを縫うようにしてステファニーをダイニングルームへ連れていく。彼女ひとりではダイニングルームまで戻れないので連れていってやったように見えるが、じつのところは気丈でしっかり者の彼女とこんなふうに並んで歩いていると、自分のほうが世間知らずで頼りなく思えてくる。「飲めるうちに飲んでおこう」
 ステファニーがちらっと私を見る。「不吉なことを言わないでよ」
「いや、そんな──酔っぱらって味がわからなくなってしまったらもったいないと思って」
「だから、残しておいて特別なときに飲んでください」名前は忘れてしまったが、カーラの最新の友人がドックスピーカーにスマートフォンをセットして、洗練された心地よい曲をさがしながら言う。「でないと、評判のチョコレート風味が充分に味わえないので」
「評判のチョコレート風味?」カーラはダイニングチェアに座ったまま、キッチンで大きな物音がしたことになど気づいていないふりをして訊き返す。「要するに、評判が悪いってことでしょ? あれは、ワイン通を気取った人たちが好む、まさに悪魔の水よ。ごめんなさい。気を悪くしないでね、デイモン」
「気にしてないよ」
 私もダイニングチェアに座って、デイモンがテーブルに戻ってくるのを眺めながら彼とカーラの関係を訝しむ。デイモンは、カーラがこれまで何人もの若い男と付き合っていたのを知っているのだろうか? カーラはデイモンのどこに魅力を感じているのだろう? デイモンも、カーラのどこに魅力を感じているのだろう? デイモンはカーラより二十五歳近く若いはずだ。しかし、人のことは言えない。私もステファニーより二十三歳上だ。けれども、ふだんはそれを完全に忘れている。私は自分が四十七歳だと思っていないし、ステファニーの目に、腹が出て締まりのない体をした醜い中年男として映っているとも思いたくない。人生に挫折してくたびれはてた哀れな中年男に彼女が同情しているだけだとも思いたくない。
 うしろに立って私の肩をさすっていたステファニーが身を乗り出すと、ハーブ入りのシャンプーと夕食のスパイスのにおいのする彼女の髪が私の顔にかかる。もはや、ステファニーの気持ちを推し量る必要などなくなる。
「二階へ行ってヘイデンの様子を見てくるわ」と、ステファニーが言う。
「大丈夫だよ。モニターがそこにあるじゃないか? なにかあったら音がするはずだ」
「ちょっと覗くだけ」
「そうか。わかった。ありがとう」
「カーラが大きな声で笑っても寝てるのなら、多少のことでは目を覚ましませんよ」ヘイデンを見たこともないデイモンが、彼女のことをよく知っているかのようにステファニーの背中に向かって言う。カーラは笑みを浮かべて目をまわすふりをする。やはり、ふたりの関係はよくわからない。
 私はデイモンが持ってきてくれたワインをひと口飲んで──チョコレートの味などまったくしないのだが──ドックスピーカーから流れてくる、スローテンポの気だるい歌を聴きながら、ふたたびほろ酔い気分を楽しもうとする。
「もう大丈夫なの?」と、カーラが私に訊く。「心配してるのよ」
 私は肩をすくめ、ため息をつきながらちらっとデイモンを見る。
「大丈夫さ」と、デイモンが言う。「でも、たいへんでしたよね。じつは、ぼくの兄も同じ目にあってるんです」
 ステファニーが戻ってきて、ヘイデンはすやすや寝ていると目で伝える。「やめてよ、デイモン」ステファニーが腰を下ろすのを見てカーラが止めるが、デイモンはそのまま続ける。
「まったく、ひどい国だ。よその国じゃ、こんなことは起きないはずです。もちろん、よその国にも泥棒はいるだろうけど、人を痛めつけてまで──」
「頼む」今度は私が止める。「その話はしたくないんだ」
「私に気を遣ってくれてるのなら、いいのよ、カーラ」と、ステファニーが言う。「平気だから」
「ああ」と、私もカーラに言う。「ステファニーはもうすっかり立ち直ってるんだ」私自身はまだ立ち直っていないが、それは口にせずにテーブルの下でステファニーの太腿に手を置くと、彼女が私の手を握る。
「すみませんでした」と、デイモンがムッとした口調で言う。「ぼくには関係のないことなのに」
「いいんだ。ただ、ちょっと……」
「いや、気持ちはわかると言いたいだけです」と、デイモンが弁解する。「大勢が同じような目にあってるので。ほんとうに、この国はどうかしてますよ」
「ああ、たしかに」
「ちょっと黙っててくれない、デイモン? ふたりの気持ちを理解してくれるのはうれしいけど、あなたがひとりで息巻いてたらマークたちがしゃべれないじゃないの」
「外で煙草を吸ってくるよ。そのあいだはしゃべらずにいられるから」デイモンは席を立って玄関へ向かう。私は、家のなかにいれば安全だから外には出るなと言いたい衝動を抑え込む。テーブルの上座に座っているカーラは、素足の爪先を私の向こうずねに押しつけてゆっくりと足首まで這わせる。どういうつもりなのか、理解に苦しむ。ハグをするか肩をたたくかしたいのに、立ち上がるのが面倒なので代わりに爪先を這わせたのだと思うしかない。カーラとは、もうずいぶん長いあいだそういう関係ではないからだ。となりに座っているステファニーはまったく気づいていない。
「あんなにきついことを言ってもいいのか?」と、カーラに訊く。
 カーラは肩をすくめる。「すぐに機嫌が直るわよ。彼も礼儀作法を身につけないと」
「きみも変わってるよな」
 カーラはそれを無視して、「ねえ、セラピーは受けてるの?」と訊く。
「おれが?」
「ふたりともよ。それに、おチビちゃんも。ああいうことは幼い子供にもトラウマとして残るのよ。ヘイデンにもアートセラピーを受けさせたほうがいいかも」
「そんなお金はないわ」と、ステファニーが言う。「それに、効果があるかどうかもわからないし」
「でも、警察のカウンセリングは受けたんでしょ?」
「ああ」と、私が答える。たしかにカウンセリングは受けた。事件の翌日、私たちはわざわざシャワーを浴びて、私がスーパーで買ってきた安い服に着替えて最寄りのウッドストック署へ行った。署のロビーには、なにか訴えたいことがあってやって来た頭のおかしな男や酔っぱらった女が大勢いたので、場違いなところに来たような思いはしたものの、警官は意外に礼儀正しくて親切だった。私たちは長い廊下の奥にある小部屋に案内された。その部屋の窓からは、中庭の向こうにある留置場が見えた。留置場の窓は鉄格子で覆われ、鉄格子からは引き裂いた布が垂れていて、壁は、内側からにじみ出てきた恨みに侵されたかのように、はがれたりひび割れたりしていた。署のカウンセラーは美人でやさしくて、おまけに、おぞましい現実を見聞きしても動揺しない強い精神力の持ち主で、私たちの話にじっくり耳をかたむけてくれた。カウンセラーがステファニーに邪気が浄化された状態を思い浮かべる瞑想法を説明しているあいだ、私はヘイデンがカーペットの上でブロック遊びをしているのを見て消毒用のハンドジェルを持ってくればよかったと後悔しながら、部屋の隅にある狭くて薄汚いシャワールームと、おもちゃや人形を入れたプラスチックのケースを見つめていた。つぎにカウンセリングを受けにくる被害者のために置いてあるのだと思うと額に冷や汗が噴き出したが、そこから目をそらすことはできなかった。「もっと悲惨な事件がいっぱい起きてるから、警察も、中流家庭に強盗が入ったぐらいたいしたことじゃないと思ってるみたいだったけど」
「なにを言ってるのよ、マーク。あなたには自尊心が必要ね」
「自尊心? なぜ?」
 ステファニーは、黙り込んだまま震える手でワイングラスの脚をまわしている。カーラは私の前に身を乗り出してステファニーの腕に手を置く。「ふたりでどこかへ行ってきたらどう? きっといい気分転換になって、状況も好転するはずよ。間違いないわ」
「どこかって、どこへ?」と、ステファニーが訊く。
「エキゾチックなところがいいわ。バリ島とかタイとか。それとも、ロマンチックなところのほうがいい? バルセロナとか、ギリシャの島とか……パリとか」
「そうね、パリがいいわ!」ステファニーがうれしそうな声をあげる。「ねえ、マーク、そう思わない?」
「二歳児を連れてパリへ行くのか? それはさぞかしロマンチックだろうな」
 カーラがテーブルに視線を落とす。「なんなら私が……ううん、無理だわ。母性本能なんてこれっぽっちもない私に子供の世話ができるわけないわよね」
「いいんだ、パリへ行く金なんてないし。ステファニーの車の修理代さえ工面できずにいるんだから」
 ステファニーがため息をつきながらうなずく。「ええ」彼女の目にちらっと浮かんだ光が消えるのを見ると、心が痛む。彼女には望みどおりの人生を送る権利がある。もっといい男と、もっと豊かな人生を送る権利が。いまの私が彼女に与えてやれるものはなにもない。以前はわずかな蓄えもあったが、あっというまに底をついた。
「なにか手はあるわ」と、カーラが言う。「簡単にあきらめちゃだめよ。あなたたちには──」
 とつぜん、けたたましい音が鳴り響く。私はとっさに立ち上がって、なんの音かわからないまま廊下へ向かう。通りに駐まっている車のアラームが鳴っているだけだと途中で気づくが、体は脳からの指令を無視して勝手に動いて、止めようとしても止められず、勢いよく玄関のドアを開けて薄暗い通りに目を走らせながら、あわてて走り去る足音は聞こえないかと耳をすます。が、デイモンの煙草の煙が私を現実に引き戻してくれる。
「どうしたんですか、マーク?」
「いや、その……どの車のアラームが鳴ってるのかと思って」アラームはすでにやんでいて、十七番地に住んでいる男が車に乗り込んで走り去る。私は、家のなかにいるステファニーに心配しなくていいと叫ぶ。
「ずいぶん神経質になってるようですね」デイモンはそう言って煙草の箱を差し出す。
 煙草を吸うとますます神経が過敏になるのを知っていながら、一本手に取る。私はふだん煙草を吸わない。吸うと吐き気をもよおすからだが、吐き気が込み上げてくれば、目に見えない忌わしい化け物のことを気にしなくてすむかもしれない。
 デイモンのかざしてくれたライターで煙草に火をつけると、山のほうから吹いてくる生温い風を髪や耳のうしろに感じながらひと吹かしする。「きみは強盗に入られたことがないのか?」
「ええ、おかげさまで。でも、そのうち順番がまわってくるでしょうね。強盗に入られた知り合いは大勢いるんです。ムカつきますよ」
 私はうなずいて、ゆっくりと煙を吐く。警察のカウンセラーは、心を蝕む恐怖を吐き出して、うちにこもった負のエネルギーを癒しの気に変えろと言った。けれども、恐怖を吐き出す勇気はない。恐怖にもそれなりの効用があって、警戒心を保つ役には立っている。
 私とデイモンがプランターで煙草を揉み消してなかに戻ると、ステファニーの声が聞こえる。「私は前々からオルセー美術館に行きたいと思ってたんだけど、行けずにいたの。たんにお金がなくて」
「なんのお金がないんですか?」ステファニーの話の最後のほうだけ耳にして、デイモンが訊く。
「カーラは、休暇を取って外国へ行けばトラウマから解放されると思ってるんだ」と、私が解説する。「でも、そんな金はないからな」
「ハウススワップをしたらどうですか?」と、デイモンが提案する。「去年、ルームメイトと試してみたんです。仲介するウェブサイトがあるんですよ。こっちが誰かの家へ行って、向こうがこっちへ来るんです。ぼくはルームメイトとボストンにある瀟洒な一軒家へ行って、その家の住人がぼくたちのところへ来たんですが、喜んでもらえました。宿代はタダだし、食費を節約すれば、そんなにかからないし」
「でも、知らない人を泊めるんだろ? 家のなかをぐちゃぐちゃにされたあげくに、なにもかも盗まれたらどうするんだ?」
「サイトの利用者はみんな登録していて、感想や評価も書き込めるようになってますから。ぼくたちのところへ来たアメリカ人の夫婦はこれまで八回ハウススワップを利用して旅行していて、すべての家の持ち主から高い評価を得てたんです。ハウススワップの経験者で評価も高ければ、信用しても大丈夫ですよ」
 ステファニーが笑みを浮かべる。「おもしろそうね。そう思わない、マーク?」私はそれを聞いて、デイモンがステファニーに希望の芽を植えつけたことに気づく。大きくならないうちに摘み取ったほうが彼女のためだ。
「宿代がタダでも無理だ」と、私が言う。「飛行機代も安くはないうえに、ビザを取るのにも金がいるし、向こうでの交通費や入場料、バカ高いコーヒー代といった具合に、とにかくパリは金がかかるんだよ」困ったことに、早くもステファニーの顔が曇る。こういうことは──若者の夢を打ちくだくのは──得意なのだ。いつも大学で見せつけている、数少ない特技のひとつだ。が、ステファニーがしぶしぶうなずくのを見て、言わなければよかったと後悔する。自分の皮肉めいたうしろ向きな発言が相手にもたらす影響を、私はいつも過小評価してしまう。ステファニーがまだ若くて、夢や希望を持っていることも、ついつい忘れてしまう。少し気をつけたほうがいい。
「でも、おもしろそうだな」と、わざとらしく付け足す。「これまでになかった、きわめて合理的なアイデアだ」なんとかステファニーの顔に笑みをよみがえらせようとするが、もう遅い。
 その夜、私はふと目を覚まし、スマートフォンを握りしめて廊下に出る。心臓は激しく脈打ち、左足はがたがた震えている。防犯カメラのモニターには、赤い字で2:18 と表示されている。となりの家のジャーマンシェパードが吠えていて、たがいの敷地を隔てる塀のこちら側でドスンという音がする。それも、一度ではなく二度続けて。
 路地になにか──あるいは誰か──いるのか、書斎へ行けば窓から見えるのだが、警報装置をセットしてあるので、書斎に入るとアラームが鳴る。アラームは切りたくない。誰かが路地に入ってきたのなら、こっちがアラームを切るのを待っているかもしれないからだ。床がきしむとヘイデンが目を覚ますかもしれないので、廊下に突っ立ったままゆっくりと体の向きを変え、聞き耳を立ててあたりを見まわす。超音波も聞き取れるすぐれた聴力やスーパーマンのような透視力があればいいのだが、そんなものはないので、じっと突っ立っていることしかできない。
 誰かが敷地内に入ってきたのならライトがつくはずだと自分をなだめる。だから大丈夫だと。
 やがて犬が鳴きやみ、もう不審な物音は聞こえず、ライトもつかないので、ようやく寝室に戻る。ステファニーは仰向けに寝て、あきらめ顔で天井を見つめている。
 私はまだベッドの横のラグの上に立っている。「書斎はアラームを切ったほうがいいような気もするけど、鉄格子があったって、簡単になかに入れるからな」
「ええ、切らないほうがいいわ」
「でも、それだと外を見ることができないんだ」
「誰かが敷地内に忍び込んできたらライトがつくから」
「まあな」相槌を打ちながら、スマートフォンをナイトテーブルに戻す。「こうやって夜中に話をするのも悪くないな。べつに甘い言葉を交わすわけじゃないけど」私が冗談を言っても、ステファニーは黙っている。笑いもしない。だが、当然と言えば当然だ。私はベッドの横の時計の赤いデジタル表示に目をやる。「少し眠ったほうがいい。起きるにはまだ早い」
「あなたはどうするの?」
 また強盗に入られるかもしれないので、つねにどちらかが起きていたほうがいいと──そもそも、眠ってしまったのが間違いだったと──思うものの、ステファニーには言わない。言ってもしょうがないからだ。「ちょっと緊張をほぐしてからベッドに戻るよ」
「ときどき、ここにいるのがいやでたまらなくなるの」
「気持ちはわかる」
「旅行の話だけど、考えてみてくれない? いい気分転換になると思わない?」
「無理だよ。そんな贅沢をする余裕はないんだから」
 ステファニーが体を起こし、枕をクッション代わりにしてベッドのヘッドボードにもたれながら小さくうめく。「けっして贅沢じゃないわ。私たちには必要なことよ。行けば、よかったと思うはずよ。とくにあなたは」
「おれが?」
「ええ」ついにステファニーが笑うが、冷めた笑いだ。「旅行をすれば、視点が変わって気持ちが楽になるかもしれないし。行ってみなければわからないでしょ? 意外と楽しいかも」
 すべてにおいて自分のほうが上のように振る舞っているのに、ステファニーとこのような話をするのは気が進まないので、顔をそむけてベッドの足元のほうに座り、ドレッサーの鏡に映った彼女を見つめる。「たとえ金を工面できたとしても、おれが精神的にまいってるから行くというのはいやなんだ。おれの症状が深刻だから、無理をしてでも行くというのは──おれがストレスに押しつぶされないように、少しでも気分が楽になればと思って行くというのは。だから、行かない。心配するな。自分でなんとかする」
 ステファニーは私の自己診断に同意も否定もしない。私の性格をよく知っているからだ。
「いろいろ考えたんだけど、ヘイデンは大丈夫だと思うの。最近はよく寝るようになったし、ベビーカーやなんかも借りられるとカーラが言ってたから。パリでは、子供をベビーカーに乗せてどこへでも連れていくんですって。フランス人のようにベビーカーを押して公園を散歩するのって、すてきだと思わない?」
 そんなことを言われても私の気持ちは変わらないが、鏡のなかのステファニーが無邪気な笑みを浮かべているのを見て、彼女の夢を打ちくだくのはやめようと心に誓う。どうせ実現はしないので、彼女が楽しい旅行を思い描いて笑顔を取り戻してくれるのなら、しばらく夢を見させておくことにする。


2 ステファニー

 あの晩、カーラが夕食を食べに来るとマークから聞いたときに、きっぱり断わるべきだった。強盗に入られて以来、私が両親以外の人間と会うのを避けているのはマークも知っていたので、断わってもいいと言ってくれたのだが、いつまでも落ち込んでいるのはよくないと思ったのだ。そろそろ外に目を向けるときだと。顔を見に行きたいと言ってきた友人はそれまでにも何人かいたが、すべて断わっていた。〝それにしても、ヘイデンが目を覚まさなくてよかったわ。それに、あなたもレイプされずにすんで〟などという、くだらない慰めの言葉を聞くのにうんざりしていたからだ。マークは無理をするなと言ったが、私はいつものようにたっぷり時間をかけて準備をした。一九五〇年代の専業主婦にも負けないほど家じゅうをピカピカに磨きあげて、ふだんは買わない値の張る食材を買い込んだ。カーラが来るときは、いつもそうしていた。
 カーラには畏敬の念に近い思いを抱いていた。嘘ではない。彼女は大学で教えていて、詩集も出している。私と違って自信に満ちていて、センスがよく、人を惹きつける魅力があって、がりがりに痩せていた。彼女の詩はひとりよがりでわけがわからないと、内心では思っていたものの、彼女は国内だけでなく外国でもいくつか賞を取っている。このころの私はまだ、あまり知られていない文学系のウェブサイトに無報酬で二本ばかり書評を書いただけだった。あの世代のリベラルな人間はみなそうだが、カーラも反アパルトヘイトの元闘士らしくはっきりとものを言い、公安警察に拘束されたという武勇伝をことあるごとに披露していた(もっとも、私の両親のようにアパルトヘイト時代になにもしなかったことをみずから認める中年の白人をさがし出すのはきわめてむずかしいのだが)。それに、もちろん彼女とマークは長い付き合いで、それは私がマークと知り合う前の話だが、知り合ってからもこっそり会っていたらしい。男女の関係ではないとマークは言ったが、信じていいのかどうか、もはや私にはわからない。
 私は心が狭いのかもしれない。カーラのことを嫌っていたのはたしかだが、彼女はけっして悪い人間ではなかった。ヘイデンの夜泣きが激しくて、私とマークが何カ月も睡眠不足に悩まされてまいっていたときも、週に一度はレンズ豆のムサカを持って訪ねてきてくれた。ただし、私もマークもそれを食べたことはなく、毎回、冷凍庫に押し込んだ。もしかすると、いまでもそのままになっているかもしれない。
 あの晩、私はローストチキンとベークトポテトと、高価なチョコレートでつくったムースをテーブルに並べ、ヘイデンの様子を見てくるというのを口実にときおり抜け出して息抜きをしながら、へらへらと愛想笑いを浮かべていた。みんなの話はほとんど聞かずに──話をしていたのはカーラとカーラのボーイフレンドだけで、おかしなことに、あの晩のことは鮮明に覚えているのに、カーラのボーイフレンドの名前は思い出せないのだが──ただ聞いているふりをしていた。ところが、旅行の話が出たとたんに──ふたりでどこかへ行ったらどうかと、カーラが何気なく言ったとたんに──話に引き込まれた。カーラがなにか言うと、マークは彼女の機嫌を取るためにたいてい賛成するので、その気がないことを彼がはっきり伝えたのはうれしかったものの……パリの魅力には抗えなかった。
 私はシャンゼリゼ通りを歩いているマークと自分の姿を思い浮かべた。ヘイデンはマークの腕のなかですやすや眠っていて、洗練されたフランス人が、すれちがいざまに私たちを見てほほ笑みかけてくれる。街角の洒落たカフェでパラソルの下に座ってコーヒーを飲みながらクロワッサンを食べたり、古風なビストロでフレンチ・オニオンスープとクレープの夕食をとったりしている自分たちの姿も思い浮かべた。そういった陳腐なシーンがつぎからつぎへと浮かんで頭のなかがいっぱいになったが、私を虜にしたのはパリの魅力だけではなかった。ハウススワップに惹かれたのだ。強盗に入られて以来、なぜかわが家の雰囲気は変わってしまった。なにかが陽光をさえぎっているかのように暗くなったのだ。あわてて講じた防犯対策も裏目に出た。窓に取りつけた鉄格子は床に細長い影を落とし、ドアを開けるたびにアラームが鳴って、たえずびくっとしなければならなくなった。だから、誰かが住んでくれたら──誰か、ほかの人が住んでくれたら──邪気が消えると思ったのかもしれない。
 マークがカーラのボーイフレンドと大統領のジェイコブ・ズマの話をはじめたので、私がそっとテーブルを離れてコーヒーをいれにキッチンへ行くと、驚いたことにカーラもついてきた。なにか話があるのだと思って、ちょっぴりうろたえたが、私の勘は当たっていた。
「マークには助けが必要よ」カーラは、キッチンに入ってくるなりそう言った。「セラピストに診てもらったほうがいいわ」カーラの声には非難めいた響きがこもっていた。マークがセラピストのところへ行くのを私が止めているとでも言いたかったのかもしれないし、すべては私のせいだと思っていたのかもしれない。あるいは、マークはまだ苦しんでいるのに私だけさっさと立ち直ったように見えたのかもしれない。実際はその逆だったのに。私はカーラに顔を見られないようにシンクの前へ行って、わざわざコーヒーポットを洗った。「あなたは強いわね」と、カーラが先を続けた。「うまく対処できているみたいだから。マークはストレスに弱いのよ。ゾーイがあんなことになって、まだそれほど経ってないし……わかるでしょ? こういうことがあると、潜在的なトラウマが誘発されて……」カーラは長々としゃべり続けたが、私は相槌すら打たず、手が震えているのを悟られないように神経を集中してコーヒーをスプーンですくった。
 あの晩はなかなか寝つけず、結局、寝たのはカーラが帰って何時間も経ってからだったが、マークが二時半に飛び起きたので私も目が覚めてしまった。そういうことはよくあった。あれ以来、私たちはバスルームの電灯のまわりを飛びまわる蛾の羽音や近所の犬の鳴き声にも、ぎくっとして目を覚ましていた。私は、様子を見に行ったマークが寝室に戻ってくるのを身じろぎひとつせずに待った。もしかすると銃声だったのかもしれない、誰かが頭を殴られたのかもしれない、誰かが家に押し入ってきたのかもしれないなどと最悪の事態を想像すると、口のなかがからからに乾いて……ふたたび眠りに落ちるのは空が白みはじめるころになるとわかっていたので、マークがうとうとしはじめるのを待ち、あらたに買った安いラップトップを持ってヘイデンの部屋へ行った。家のなかで安心して過ごせる場所はそこだけだった。暑い日は、夜になって気温が下がると柱がみしみしときしんだりしなったりするが、私にはそれがドライバーを挿し込んで錠を開ける音のように聞こえた。あるいは、ゆっくりと廊下を歩いてくる足音に。きちんと錠がかかっているか、マークが何度も確認したし、警報装置もセットしてあるのだから大丈夫だと思おうとしてもだめだった。家に押し入ってきた男たちの影がまだ家じゅうに残っていたからだ。バスルームの前を通ったときは、開け放したドアに掛けてあるバスタオルが鋭いナイフを手にした男の姿に見えたし、階段の上に置き忘れていたランドリーバスケットは、身をかがめて襲いかかろうと待ちかまえている人影に見えた。だから、無事にヘイデンの部屋へたどり着いたときは心臓が破裂しそうになっていた。
 続いて、ハウススワップを希望しているパリジャンの目にとまるように、〝陽光降り注ぐケープタウンにある、歴史の重みに満ちた住み心地のいい家!〟というアピールを打ち込んだ。ここの通りにはヴィクトリア朝風のテラスハウスが並んでいるが、〝歴史の重みに満ちた〟というのは、いくらなんでも言いすぎだ。〝安全な〟という言葉も付け足したが、罪悪感を覚えて消した。しかし、そのままにしておいたところで嘘をついたことにはならない。強盗に入られた日の翌朝に父が鋼材と溶接バーナーをピックアップトラックに積んではるばるモンタギューから駆けつけてくれたおかげで、上げ下げ式の窓は頑丈な鉄格子に覆われている。マークは見た目が悪くなるとぶつぶつ言っていたが、父がわが家をアルカトラズ刑務所のようにしてしまうのを止めはしなかった。マークに父を止めるだけの勇気はなく、その日は極力顔を合わさないようにしていた。〝しっかり家族を守るのがきみの役目じゃないか〟という、父の無言の非難に耐えられなかったからだろう。
 続いて、ハウススワップを希望しているパリジャンの目にとまるように、〝陽光降り注ぐケープタウンにある、歴史の重みに満ちた住み心地のいい家!〟というアピールを打ち込んだ。ここの通りにはヴィクトリア朝風のテラスハウスが並んでいるが、〝歴史の重みに満ちた〟というのは、いくらなんでも言いすぎだ。〝安全な〟という言葉も付け足したが、罪悪感を覚えて消した。しかし、そのままにしておいたところで嘘をついたことにはならない。強盗に入られた日の翌朝に父が鋼材と溶接バーナーをピックアップトラックに積んではるばるモンタギューから駆けつけてくれたおかげで、上げ下げ式の窓は頑丈な鉄格子に覆われている。マークは見た目が悪くなるとぶつぶつ言っていたが、父がわが家をアルカトラズ刑務所のようにしてしまうのを止めはしなかった。マークに父を止めるだけの勇気はなく、その日は極力顔を合わさないようにしていた。〝しっかり家族を守るのがきみの役目じゃないか〟という、父の無言の非難に耐えられなかったからだろう。
 グーグルでパリまでの航空便も調べた。エールフランスは二月に特別プランを用意していて、三日以内に予約すれば格安の値段で航空券が買えるのがわかり、パリへの旅行はしだいに現実味を帯びてきた。ハウススワップの仲介サイトに登録している人たちとただちに連絡を取るつもりはなかった。運を天にまかせて、向こうからメールが来るのを待つことにしたのだ。私はそれから、六時にヘイデンに起こされるまでぐっすり眠った。
 朝から喧嘩をしたくなかったので、ハウススワップの仲介サイトに登録したことはマークに話さなかった。マークは相変わらず睡眠不足でいらいらしていて、「おれが出かけたらきちんと錠をかけておくんだぞ」とだけ言って、あわただしく職場に向かった。私はヘイデンにシリアルを食べさせると、テレビの前に座らせて子供向けの番組にチャンネルを切り替えた。私自身はあまりお腹がすいていなかったが、まだボウルに半分残っていたチョコレートムースを冷蔵庫から出して、スプーンでせっせと口に運びながらメールをチェックした。今月もまたカードの使用限度額を超えたという銀行からの警告メールが二通届いていたが、ハウススワップの仲介サイトからは、〝ご登録ありがとうございました〟というメールが届いているだけだった。
 母が、朝の日課のひとつとして私たちの様子を尋ねる電話をかけてきたので、ヘイデンを泊まりに来させてほしいという、いつもの哀願を聞き流したあとでハウススワップの話をした。すると、母はたちまち興味を示した。ケープタウンを治安の悪い危険な街だと思っていた母は、私たちが街を離れるのを望んでいたのだ。「で、マークはなんと言ってるの?」
「彼はあまり乗り気じゃないの。それに、お金もないし」私が働けば余裕ができるのだが、それは考えないようにした。
「説得しなさいよ。飛行機代を貸してあげるわ。いいでしょ、ヤン?」
 父は、遠くでうなるように相槌を打った。
「そんなことをしてもらうわけにはいかないわ」両親は二年前に民宿を買い取って経営しているものの、あまりうまくいっていなかった。
「それぐらい、なんとかなるわ。マークも、あなたのことをもっと大事にしてくれないと」
「いろいろあったけど、彼はよくしてくれてるのよ」
 母は聞き取れないほど小さな声でなにか言うと、その話はそれでやめた。議論をするのが嫌いなのだ。
「宿のほうはどう? 予約は入ってる?」
「オランダ人がふたり、一週間泊まってるの。ゲイのカップルなんだけど」
「パパはそのふたりがゲイだと知ってるの?」
「ええ、もちろん。お父さんはそんなに古い人間じゃないわ。それはともかく、そのあとは三月まで予約が入ってないの」母はしばし間を置いた。「だから、旅行に行くのならヘイデンを預かってあげるわ」
「ヘイデンも一緒に連れていくわ」
「遠慮する必要はないのよ。それはわかってるでしょ?」
 母が懸命に説得を試みているあいだ、私はグーグルで検索して〝二月のパリでするべき十のこと〟というサイトを覗きながらメールをチェックした。ハウススワップの仲介サイトから、〝ステファニー198さんへ、プティ08さんからのメッセージです! 詳細はここをクリックしてください〟というメールが届いているのに気づいたのはそのときだった。あわてて電話を切ってメールを開いた。〝ボンジュール、ステファニー&マーク! あなたたちはすてきな家です! 私たちの家も見てください。私たちはいつでもオーケーです😉ではまた!!!! マル&ジュニー・プティ〟
 リンク先をクリックすると、アパルトマンと三十代のカップルをアップで写した小さな写真があらわれた。自撮り写真のようで、ふたりとも頭にサングラスをのせて、白い歯を見せて笑っている。コマーシャルに出てくるような、幸せそうなブロンドのカップルだ。彼らのアパルトマンの写真は六枚あったが、どれも建物の外観の写真で、内観は縁にワイン色のタオルを掛けた足付きのバスタブの写真しかなく、説明も、〝恋人たちの街の中心に建つおしゃれで豪華なアパルトマン! 二、三人向け〟という短いものだった。建物は古いが、優雅な造りで、大きな一枚板の扉や、縦長の窓を囲う渦巻き模様をかたどった真鍮の飾りは、いかにもフランスらしい。口コミはなかったが、だからどうだと言うのだ? 私たちにも口コミはない。もしかすると、彼らも私たちと同じく登録したばかりなのかもしれない。
 迷うことなく〝ボンジュール!〟と打ち込んだ。〝メールをもらえてうれしいです!〟

ⒸS. L. Grey ⒸAkiko Okumura 禁転載

『その部屋に、いる』(S・L・グレイ、奥村章子訳、ハヤカワ文庫NV)

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