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【試し読み公開】第12回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞した異色の幻想SF――犬怪寅日子『羊式型人間模擬機』

2025年1月22日(水)に発売される第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作、犬怪寅日子『羊式型人間模擬機』。本作は、男性がみな死ぬ前に「御羊」に変身する一族に仕える機械「わたくし」の視点で、その生と死の連続を描きだしたクロニクル。現役書店員の著者による堂々のデビュー作です。刊行を記念して、本欄ではその冒頭試し読みを無料公開します!

犬怪寅日子『羊式型人間模擬機』
装画:金井香凛 装幀:田中久子
四六判上製 定価:1760円(税込)



 きょうのあさ、だから今朝、大旦那様が御羊おひつじになられた。太陽はすでにのぼっていた。大旦那様の部屋のドアーは堅く重たいものである。固く重たく太い木なので、叩くと叩いた方の体がゆれる。大旦那様は耳の聞こえないようになっているので、もとより返事はないのだった。まずは廊下のジェイドの水差しの細い首をいつまでも傾けて、ドアーの前に葡萄酒をたらす。理由不明であるが大旦那様はそれをせずにドアーを開けるとたいそうお怒りになられる。葡萄酒には匂いがあって、それは鼻の内側がすうすうと鳴る匂い。ドアーには取手がついていて、それは蛇という名の生き物に似て、太く、腹を浮かすようにしてややゆがみ、のっぺりとして堅く重たい太い木のドアーにずっとついている。きのうのあさ、それはつまり昨朝? そのときもへびはそこについていた。
「おおだんなさま」
 八回声をかけた。理由不明だが、三回ではいけないし十七回でもいけない。八回声をおかけしてからお部屋に入らないと、大旦那様はお怒りになる。大旦那様は朝にお怒りになると一日お怒りになる回数が増えるので、朝はお怒りさせないほうがよい。へびごと太い板をおして中に入ると、窓のそばに巻いた毛がいくつもいくつも存在し、そのうちの一本が浮いており、あさのひかり、それは朝光というか、調光、朝高、兆候、でてこないので言わないのかもしれないが、光にさらされ巻き毛は浮きつ、光りつしてあった。
「大旦那様」
 対面のときには自然な語調で声をかけるのがよい。外からの呼びかけでは、やわらかくしなやかに、というのが大旦那様の言いつけであった。しかししかし、すでにして大旦那様は寝具の上で御羊になられているので、そのようなことはもはや、守る必要はなかったのかもしれず。許諾がないので、失礼をして、寝具の上の大きな毛のまとまりと、ほんの少しの顔である生き物を、やや覗きこんでみる。おそらく御羊であろう。いいや、御羊である。すこし記憶がとおく、記録? それが遠いので、御羊の顔をすぐには思い出せなかったようだ。ドアーのそばの葡萄酒の掃除をするのと、この知らせをご家族にするのとでは、どちらが優先であるのか。おそらくは後者であると、すぐに解析がおわった。しかし御羊が裾をかんでいる。
「大旦那様、わたくし、おしらせにまいりますので」
 御羊の口を上と下、もちあげて離し、真鍮しんちゆうの花瓶に入っている細長い緑の穂を鼻先へさしだすと、御羊は口を上下よりは左右に動かし、ともに首を動かし、寝台をゆらし、穂をみはじめたのだった。葡萄酒を飛んで廊下へ。大旦那様の、いいえ、御羊の、別邸の近代建築は三階。壁は白色の中にほんのすこし翠玉すいぎよくのまじった、草餅のような色味。土の匂いがいつまでもする三階の奥。それが大旦那様の寝室。つまり、次の旦那様、大輝だいき様のいる本邸へ参るには陽光の差しこむ踊り場を二回、しかし今朝はまだ早かったので光はさほどではなかった、やや薄暗かった、それを経由して、孔雀くじやくの寝床の渡り廊下も経由、孔雀はしかし起きていた。それから次兄の冬弥とうや様のご相棒であらせられるヌマワニの池の端の端を窓の向こうの遠くに眺めながら、走り、走り、その先にある板戸を開け、深い紅朱の絨毯廊下を、走り、走り、犬のポチはもう起きていて、共に走る。猫のタマはまだ眠っており訝しげな眉。食堂の白色のオーブンと八つのコンロを横目にまた走り、サロンにたどり着くと、朝のお花を生けている長女の日野ひの様の横、活けらるるお花たちをぼうっとして眺め立ち、口の端からブラシの柄と泡をみえ隠れさせている大輝様の前に至った。
「あら、ユウ」
 まず日野様が声をあげ、長い長い黒い黒い髪の端を持ち上げ、ぱらぱらと指先から落とされた。
「ちょうどよかったわ。髪を結ってくれる?」
「ええ。日野様、ええ」
 思わず頷き日野様の髪を触ると、それはそれは艶めいて柔らかく、指の腹から御髪おぐしのこぼれるはらはらが聞こえるようであった。大輝様はそろりと振り返ると、お勝手口を開いてすぐの小さな湿った森となった雑草たちの上にお口の中のものを吐き出して、口の端のかすかな泡をそのままに戻って来られ、こちらを見下ろし首を傾けられた。
「俺に用事だろう」
「ええ、ええ」
 わたくしが日野様の御髪を櫛でかしながら応えると、あらやだ、と日野様は口に手をあて、直線の前髪を揺らして笑われた。
「嫌だわ。今の言い方。俺に用事だろう? 俺に用事だろうですって。ねえ、ユウ」
「何かおかしかったかな」
「おかしかないわ。嫌だと言ったの」
「でも、じゃあなんて言えばよかったんだろう」
「何も言わなければよかったのよ。用事は向こうからやってくるのだから」
「そういうわけにもいかない気がするよ。ユー。用事はなんだい?」
 大旦那様が御羊になられたことを伝えると、大輝様はいちど目をお開きになった。それから静かに微笑み、二回頷き、日野様に向かって肩を少し上げて、下げて、眉を下げた。
「こういう用事は自分から迎えに行ったほうがいいんだ。そうだろ、姉さん」
「それでなにかが変わる? 変わらないわよ。ねえ、ユウ、祝いの髪に結ってね」
「ええ、ええ」
 すでにして日野様の御髪は、お身内が御羊になられた際の祝髪に結い終わりつつあった。髪の上半分をまとめ、それをまた半分にして下向きの輪をつくり、御羊の角の生長を願うのである。大輝様は口の端の泡をぬぐい、水色の繻子しゆすのパジャマの腿のあたりを二度指先で掻かれた。
「さて、じいさんの肉はうまいかな。俺は父親の肉を食べたことがない。ユー、親父はどんな御羊だったろう」
 大輝様のお父様、つまり大旦那様のお次に当主になられるはずであった廉宮かどみや様は大変に体が弱くていらっした。くわえて、少々他の方とは異なる性質をもっていたように思われる。ぶ厚い虫眼鏡をもって、いつでも土の上に両の膝をつけ、両の手とあわせて四つでどこまでも歩き回られていた。体重をかけ這い回るので、手のひらにはいくつも小さな石が埋まって、そのうちのいくつかの石はそのまま廉宮様のお体の一部になってしまわれた。お勝手口の外の雑草の密林は、廉宮様が苦労して作られた意味のない特別な景色である。遠くお庭の果ての滝まで這って、落ちゆく滝々の裏側に生えるシダ類を連れてきては、何度となくお勝手口の裏に移植しようとされていた。
「うまくいかない。ユゥ、どうしてだろう」
 廉宮様のお洋服はそのお祖母様、つまり大旦那様のお母様である里木さとき様が古くに着られていた学童時代の水兵服で、汚れたさきから新品のようなものがいくつもいくつも箪笥たんすから出てくるのであった。背中側の襟にはどれも小さな刺繍が施してあり、廉宮様はそのうちのナナホシテントウの柄と、アズマモグラの柄を特に気に入ってらした。その日はオヒキコウモリを背に、少しばかり前に勝手口の裏へ連れてきたシダの、穂先の茶色く溶けているのを覗き込んでいらっした。
「なにがいけないのかな、ユゥ」
「ええ、元の住処とはずいぶん暮らしが違うようですから」
「なにがちがうんだろう?」
「お水がすくないように思います」
「ううん。そうか。あそこは滝の水がかかっているからなあ」
 思考を錯誤して、試行錯誤をして、廉宮様は生涯を勝手口の裏の名もなき密林にささげられた。そのうちに移植もお上手になって、雑草共は不思議と、いともたやすく勝手口の裏に住み着くようになり、暗く湿ったちいさな森を作り栄えていた。あたりはだいぶん湿り気を帯び、色濃く、さまざまの生き物が住んでいるとみえ、夜中には獣の鳴き声が聞こえるようである。そうしていつだか、土の増強のお手伝いに一輪車を押している際、ふと廉宮様はこんなことを申された。
「ユゥ、お前の小さな細い腕は、いつまでも同じ長さをしているな」
「ええ、ええ。わたくしは十一の年頃の体です」
「うん。それはとてもいいことだ。とてもいいことだと僕は思うんだ」
 成長されると廉宮様は熱の出される日が多くなり、土の上を四つん這いで動きまわることができなくなると、みるみる衰退されていった。許嫁いいなずけ真昼まひる様はその時まだ十四のうら若き少女であり、ちょうどそのときは、南の島へのバカンスへと向かう船の中にいらっした。熱にうなされる廉宮様から白い体液を取り出すのは、なかなかに骨が折れる作業であったが、どうしてもという大旦那様のお言いつけであったので、奥医師となんとかして取り出し氷漬けにしたのであった。そうして二十日ほどの長雨が続いた夜中、廉宮様は雑草の密林の奥に住むだろう獣たちへ肉を届けようと寝台を抜け出し、お勝手口まであと少しというところで御羊になられたのであった。
 廉宮様は御羊になられて幾分かで亡くなられたとみえ、そのようなことは初めてで、とにかく即座にきようする必要があった。たいていは、御羊になられて三日、どんなに短くとも二日は御羊の姿で生きているものであり、適宜、絶命を見極めその直前さばくものであるが、廉宮様にはそれができなかった。死んでしまってからの、しかも息子の御羊を食べるという事業はなかなかあることではなく、大旦那様は眉根をよせつつ、やや固くおなりになった御羊の肉を味わっておいでだった。
 真昼様はそこにはおられなかったので、御羊は饗されなかったと記録がある。遠く南の島まで乾いた御羊の一片を送ったが、空から帰ってこられる真昼様と御羊の肉一片はどこぞで交わらない交差をし、そのまま行方のしれぬようになったのである。今でもどこか、暖かい場所で、おそらくは本当の密林で、あるいは獣に饗されているかもしれず、そう思えば廉宮様の若き情熱も報われようというものだが、大旦那様は真昼様が御羊を饗されなかったことをいつまでも大層お嘆きになっておられた。十七の花盛りとなった真昼様に保管されていた廉宮様の白濁がそそがれ、長女の日野様がお生まれになり、大輝様がお生まれになったのはその後のことであるので、大輝様が父親である廉宮様の御羊肉を食べたことがないのは、であるから、それは、ごく当然、至極真っ当なことである。
「廉宮様はそれはそれは立派な角をお持ちの御羊でした」
 御羊になられてすぐに亡くなられてしまったので、事実の廉宮様の角は爪の先程度のものしか出現しなかった。しかし一族の歴史書には立派な角と書き記されてある。前代未聞の、無先例の、前古未曾有みぞうの、果てしのない長さと猛々しさをもった角であると、書き記されている。すると大輝様は頷かれた。
「そうか。うん。お祖父様の角もきっと立派なものになるだろう。ユー、御羊のことは頼んだよ。俺は初めてのことだから」
 大輝様は早くも旦那様の貫禄。すこしおっとりとされているが、一族のすべてを受け入れる寛大な器をお持ちである。さっぱりきっぱりとした日野様と共に、立派にこの家を守っていかれるであろうと思われる。
「ねえ、ユウ、早くおちびちゃんたちにも知らせてあげたらいいわ」
「ええ、ええ」
 太陽は徐々にてっぺんを目指している。お庭にそそがれる陽光の下、植物たちは各自の色を光で洗い清めているようであった。お庭の生き物たちは廉宮様の密林とは色の汚れがまったく違う。細かにどこまでも管理徹底、毅然として優美で、そうして未知の現象にことごとく弱い。次兄の冬弥様はおそらくヌマワニのお近くにいるはずなので、遠く見える森の池へと向かう。森へと進むにはなだらかな丘をひとつふたつ越え、丘に挟まれたなだらかな谷の蓮池を越え、またひとつの丘を越えれば到着する。その谷の蓮池の小橋を渡っているところ、その向こうから声が掛かった。
「ゆー。冬弥兄さまをおさがしですの?」
 お声に向かい、なだらかな円を描く橋の頂点までゆけば、橋の終着のその向こう、波打つ芝生の上で末の妹御、つまり末妹の桃子ももこ様が布と綿の動物様方とピクニックをしておいでだった。薄い水色のシーツを芝の上にお敷きになり、お茶会の真っ最中。主賓は赤白のバク様。横には珊瑚色のドードー様。若緑色の子豚様。不言いわぬ色のセンザンコウ様。その他お歴々が首をそろえている。桃子様はここ最近、特に気に入られている茶葉をつかって動物様方を持て成しているご様子。
「ええ、桃子様、冬弥様をさがしております。桃子様にもそのあとでご用事が」
「ねえ、ゆー。これは花のあじがしておいしいわ」
「またご用意します」
「朝はみんなでお茶をすることにしたの」
「ええ、ええ。とてもよろしいことです」
 水色のシーツの先には本物の蜜蜂が参加しているようだった。おそらく、それは言わぬがよいことである。桃子様はくたびれた白色のうさぎの両の耳を握りこんで、振り回し、皆さまとのお茶会へのよろこびを表現している。動物様方の中で、うさぎの彼だけはどこにでかけるのにも共におり、毎度大怪我をして帰るのである。もはや綿はすべて入れ替わって、外布もあと一片ばかり本来の肌をたずさえているのみである。
「わたくしもいっしょに、お兄さまをさがしますわ」
 そういうと、桃子様はお茶会をうさぎに託し立ち上がられた。うさぎの彼は耳がへたり、両の目を耳で隠しながら、下座にぐったりとして、お茶会の主人をになわれる。首元から綿が少し出ているようである。また帰られたら糸で繕う必要があるだろう。
 桃子様の手は小さく、しかし指にはふくふくと肉がついている。人と歩く時には手をつなぐもの、それが子女の礼儀であると桃子様は重々理解しているようであった。桃子様の体は芝の弾力にはずみ、ときどき飛んでいかれるような気配があり、そのたび握る手にほんの僅か、力を込めるけれども、おそらくは無駄な努力である。桃子様がその気になって空を飛び始めたら、わたくしのこの小さな十一の体の重さでは、共に空へ浮かんでいくしかないであろう。
 ヌマワニの池は広く、黄土色に濁る中央地と、白砂がおどる境界地、緑玉の輝く外遊地が複雑なうねりの線でもて分かたれて、ときに混ざり、酔いのまわる景観を誇っている。お子様たちのうち、長女の日野様には真昼様の闊達かつたつさと自由さが、長男の大輝様には廉宮様のひらめきと鷹揚さが、末の桃子様には両名の夢見心地が受け継がれた。そうして次男の冬弥様には、真昼様の意固地と自意識、廉宮様の落胆と遮断、またあるいは一族すべての感情のおり、そういったものが受け継がれているようであった。きのうのよる、つまり昨晩、ヌマワニのお食事である科学的栄養素のつまった四角を食冷蔵庫にいっぱいに詰めておいたが、今朝はわずかばかりのものが残っているだけであった。冬弥様は廉宮様から受け継がれた一輪車にそれらの四角を乗せてでかけたとみえ、池のまわりのぬかるみに、よろめく一本の筋がみえている。
「冬弥兄さまは、このごろはコトウをつくっているのです」
「ええ、ええ」
「ぽつねん島、とおっしゃるの」
 ぽつねん、ぽつねん、という言葉とともに桃子様がまた飛んでいかれそうになるので、しっかと小さな肉の手を包みこみ、土に繋ぎ止めつつぽつねん島を目指し征く。冬弥様は廉宮様の夢でなく悪夢を受け継いだうえ、真昼様の遠い場所への焦躁をも受け継いでおられ、表の庭は明るく美しく、奥地の池周りはおどろおどろしい陰りで彩られている。
「あすこよ」
 孤島には太陽からの直射が今まさに振り降りているところ。ヌマワニはその陽光で皮膚を焼き、背中の虫々をこらしめるついでにまぶたを深くおろしつつ、しずかな呼吸を繰り返し繰り返しているところ。冬弥様はその傍ら、コトウの縁に植わった緑の子どもたちの、きらめく花弁の先を触っているようである。
「冬弥様」
 孤島へ向かうには複雑に浮かぶ水丸太をひとつひとつ、踏んでいかねばならない。桃子様を抱きかかえ、間違えのないようにゆっくりと進んでいると、中腹で冬弥様が両手をこちらに伸ばされた。
「冬弥お兄さま、おはようございます」
 桃子様は花の香りをさせながら、冬弥様の腕に移っていかれ、鼻先の甘い匂いが消えれば、風の涼やかさが肌を寂しくさせる。冬弥様は素早く水丸太の上を移動され、桃子様をぽつねん島へ下ろすと、こちらへも手を伸ばしてくださるのであった。しかし、こうした細やかな神経は冬弥様の別の神経を食いつぶす虫であること。
「ありがとう存じます」
「この子、おきていますの?」
 桃子様はヌマワニの眉間を撫でてそう仰ったが、たしかにヌマワニはまぶたを深いまま、今や少しも動いていないように見受けられた。背中で苔が輝き、亡くなりたての神のよう。冬弥様は桃子様をそっと自分の膝の上に乗せられ、同じように少しだけヌマワニの眉間を撫ぜ呟かれた。
「眠っているよ。ご飯を食べたからね」
「そうですの。たくさん召しあがった?」
「そうだね」
「お茶をさしあげたかったわ」
 桃子様がポシェットを叩いて花の茶葉の存在を示すと、冬弥様は静かに微笑まれた。
「かわりに僕がもらおうかな。お茶会は? 今日はもう終わったのかい?」
「きょうはうさぎにかわったのです。冬弥兄さまには午後にお茶をさしあげます」
「うん。そうだね。今日は午後もいい天気だから」
 ヌマワニの呼吸はどこまでも深いようであった。死を真似るような細く永遠に続く長い息。その横で冬弥様が見遣るのは池の縁、人間の目には見えないほど遠くの岸で、子鹿の一匹死んでいる。足がちぎれ朽ち、もしかするとそれは噛み跡であるのかもしれなかった。冬弥様はきょうのあさ、つまり今朝、それをご覧になったのだろうと思われる。
「塚をつくりますか?」
 そう申し上げると、冬弥様はヌマワニの呼吸と同じ速度で微笑まれた。
「うん。そうだね」
 微笑みは途切れ。
「ところでU、君は僕に何か用事があるんじゃないだろうか」
「ええ、ええ」
 大旦那様と冬弥様は一本の糸ほども類似した場所がなく、すべて、何ひとつをとっても通じないのであった。正反対でさえなく、交わらぬ別世界の感情、思想、体躯、もろもろのすべて。ただ血のみを共有しておられる。
「今朝、大旦那様が御羊になられました」
 桃子様はちいさな歌を奏でておられた。小さな、可憐な、楽しげな、まさに桃子様そのものの音のつらなりである。歌は花のように香りのように、かすかに空気に混じりとけ、孤島はあたたかくある。
「そうか。うん。そうなんだね」
 冬弥様は二度つぶやいて、まだ細く柔い桃子様の髪をすくって祝いの髪に結いはじめ、そうしてほろを被せるようなお声で桃子様に伝えられた。
「もも、おじいさまが御羊になったよ」
「おひつじに?」
「御羊になったら、どうするかわかる?」
「お肉をいただくのよ」
「そうだね。僕たちはおじいさまの御羊肉を」
 ふと手を止めて、冬弥様はまた遠くを眺めた。鹿はただゆっくり死んでいる。冬弥様は、もちろん日野様も大輝様も桃子様も、これまで誰の御羊も饗されてはおらず、孤独な血のみを受け継いでおられる。その事実は日野様の体で渇望となり、大輝様の体で期待となり、桃子様の体で余地となり、そうして、冬弥様の体の中では、忌避となっている。
「おうちをかえるのね?」
 桃子様はヌマワニの苔むす背中の上に指を歩かせ、弾ませながらすぐ先の未来を夢想されているご様子。
「おじいさまの新しいおうちをたてるのでしょう?」
「ええ、ええ」
 それはわたくしの役目。御羊にまつわる諸事こそが、わたくしの存在の源。冬弥様はヌマワニの食された疑似食のかけらを指でつまんで、指の力の中ではじける様をご覧になりながら静かに頷かれた。疑似食は飛び散ると、蛍石の色味をほうぼうへ分け与え、砂や池や草や鰐の肌にひっついて消えていく。冬弥様は指先に残るきらめきを、呻き声に似たかんばせでもって、眺め、こちらへ双眸を向ける。
「僕に手伝えることはある?」
「ええ、ええ」
 御羊の御殿を建てるのには、白樺の建材が必要である。
 さあれば日のてっぺんに昇る前に済ませてしまおうと、冬弥様と共に、朝食後のまどろみをすっかり終えられた大輝様が森の奥までご一緒してくださることとなった。ヌマワニの池は果てには沼となり、白樺の森はその果ての向こうの霧の先にある。重々準備をして出発し、池の果ての沼の先の霧の中へ入ると、大輝様も冬弥様も人体の形が溶け、声だけが水の粒を伝ってあちこちから聞こえるようになった。
「冬弥、明日は祝いの席だ。お前も御神酒おみきを飲むんだよ」
「うん。兄さん。わかっているよ」
瑠璃るりを飲むといい。瑠璃は舌にこないからな」
「そうかな。本当に?」
「甘いのを作らせるさ。それから少し白粉おしろいをはたいて、紅も引くといい」
「紅はあまり好きじゃないな。しなくちゃだめ?」
「眠りの浅い顔色だ。やはり部屋を別にしないほうがよかったんじゃないか」
「変わらないよ。もう無理なんだ。変わらないんだよ、兄さん」
「そんなことはない。お祖父様もいなくなるんだ」
「お祖父様は関係ないよ。僕はもう頭が弱っちゃったんだ」
「馬鹿を言うな。俺がきっとよくしてやる。そんなものはすぐよくなる」
「そうかな。うん。そうかもしれないね。兄さん」
 霧の中、あちこちから聞こえるおふたりの声に混じって、遠い場所から狐狸の遊び声がする。彼らは森の空気の中を走り飛び、すぐ近くへ来たかと思うと、次には幻のように遠い声をあげている。狐狸たちの声を引き連れて、霧々を歩き、歩き続けると、まず大輝様の人体に縁取りがつき、ついで冬弥様も人体を取り戻した。景色が目に戻り、ぬらっとした細い長い白い脚が空へ向かって伸びている。白樺の森にたどり着いたのである。頭上からは無数のさらさらさらさらの音がする。しかし葉の姿は霧に隠れて見えず。
「これがいいんじゃないか?」
 大輝様は傷の若い汚れの少ないものをお選びになった。老いた権力に若い繊麗せんれいの搾取と犠牲はつきもの。わたくしはさっそく体にロープを巻き付けて、白樺の頭を切り落とす旅に出る。冬弥様は古い、幾筋もの深く醜い傷を付けた老木に手をかけながら、わたくしの旅の見送りをされた。
「気をつけるんだよ、U。無理をしてはいけないよ」
「ええ、ええ」
「冬弥、こっちへおいで。俺たちはもう少し離れよう」
「うん。わかっているよ、兄さん」
 ご兄弟が白樺の細い脚々の間を縫って離れてゆく。冬毛の獣たちも遠目から、こちらの様子を窺っているようだった。おふたりが安全な場所へ退避したのを確認して、上へ上へ、天上へ、木登り爪を使って昇っていく。かさかさと葉の音が近づいてくる。上へ上へ、ずいぶんと昇る。そうしてついに、てっぺんの近くまで昇っていくと、あたりに陽光が差し込みはじめた。霧の上で光がぬくぬくと遊んでおり、外界へ降り注ぐ気持ちは少しもないといった気色。そのぬくもりの中、白樺の緑の小さな葉子どもたちは、風もないのにさやさやと身をふるわせて遊んでおる。わたくしが昇ってきた白樺の首の先に刃を入れても、他の者たちは知らぬふり、そればかりか、もはや半分も首の切れたその白樺のてっぺんにいる緑の葉子どもたちでさえ、すぐ先の未来で自らが土の上へ落下しようとは思っておらぬよう。さやさや、そよそよ、くすぐったそうに笑うばかりである。刃の音がいよいよ高くなってくると、なにかに気がついたとみえて、緑の葉子どもたちは、あっというような声をあげた。すでに刃は陽光に光り輝き、白樺の首は外界へ落ちたあとである。首のなくなったので少し降りていき、同じように適宜の長さで白樺を切り落としていく。麓まで着けば土の上に白樺の首たちが乱雑に落ちている。そのうちのほとんどは大輝様と冬弥様の手によって、ロープで美しくまとめ上げられている。またいつの間にやら老驢馬ろばのゼーロン氏が、眠ったような顔を大輝様の方へ向けていた。さきほどから大輝様がいくら呼んでも来ないとぼやいていらっしたが、そこは老獪なゼーロン氏。帳尻合わせで最後にはどのような場所であっても姿を現し、怠惰と不服の混じった視線で主人を見ているものである。御羊御殿の建材は十分に揃った。
「さあ、もういいだろう。さあ、行くんだ。さあ」
 大旦那様はよく何十何百とゼーロン氏の尻を叩いたものであるが、それでも気が向かなければゼーロン氏は自らの歩みの態度を変えることはなかった。しかし大輝様はゼーロン氏の尻を叩くようなことはせず、ただぬめぬめと撫でるので、気色が悪いのかゼーロン氏は深く眉をひそめ、かえって渋々と歩みを速めるのであった。冬に似た冷たい土の上に怠惰なひづめが乗って音を立てる。永遠の旅路を歩くような倦みの音。それは一定の音である。しかしそんなゼーロン氏もときおり振り返って、大輝様ではなく冬弥様の顔を見られた。それに気づくと冬弥様は微笑まれて、情愛のこもった声音とあわせて小首をかしげる。
「どうしたの? 疲れたかい?」
 ゼーロン氏は首を短く縦や横やに振るって、また歩みを進めるのであるが、その時のまなざしは慈悲深き神のものであり、英雄に側仕える騎士のものであり、酒場の女のものでもある。ゼーロン氏は幼き冬弥様を背中に乗せたときのことを覚えているであろうか。その時のゼーロン氏は精悍な顔つきをしてあった。
「これから忙しくなるぞ」
 霧が晴れ森の沼が池に姿を変え、死んだ子鹿の傷の腐臭がただよいはじめたころ、大輝様の溌剌はつらつとした声が響いた。それはどこまでも高く遠くまで届くので、空を飛んでいたさぎが声を見下ろし、鬱陶しさを払い除けるようにまた鳴いた。それを天の喜びの声と受け取って、ますます大輝様のお声に力がみなぎる。
「冬弥、俺が御羊の肉をたらふく食わせてやるからな。それで真実、俺たちはこの家の人間になるんだ」
「うん。わかったよ、兄さん」
 冬弥様は池の縁のそれを見ないようにして横切られた。
 子鹿の足はえぐれている。やはりヌマワニがかじったらしかった。ヌマワニは科学的栄養素の四角い食べ物を召されているので、だいぶん、いつでも眠りに近い性格をしていらっしゃるが、ふとその夢から目を覚まされる一瞬があり、その時こうした狩りを行うことがあるのである。このようなことが再びおこらないよう、また科学的栄養素の四角い食べ物に、野生の眠る薬を増やして入れるべきであるかもしれない。
 ご家族が早い昼餉を召し上がる間、白樺の建材を御羊の御殿に使う長さにすべて切りそろえた。本日は昼を境に気候は晩冬から初夏へ。そのため、見学されたいという日野様と桃子様に白いワンピースをご用意。日野様はうすい水色のはいった白色、桃子様はお名前どおり、うすい桃色のはいった白色である。お二方ともスカートは甘く広がってくるぶしまでの丈に。陽光が泳ぐための布のふくらみと波の加減も忘れずに。足元にはお揃いの赤い靴。裏庭の大木のそばにパラソルを立て、南国のお飲み物を注いだところでおふたりが揃っていらっした。日野様に手をひかれて歩く桃子様は、たいそうご満悦のご様子で、ちいさな御御足おみあしは一歩一歩、宙を浮くようである。日野様はお母様の真昼様より受け継いだ丸い色眼鏡をおかけになって、陽光の陰るのを愉しんでおられる。
「ユウ、どうかしら。愚弟は役に立って?」
「ええ、ええ」
「日野お姉さま、これはなんともうしますの?」
 桃子様は御殿の木材の上を小さな指で、つとと、とお触りになってから匂いを嗅がれた。
「虫のはねのにおいがします」
「あら、鼻がいいのね。それは白樺よ。これでお祖父様の御殿を作るのよ」
「とてもよいにおいです」
「そう。ああ、桃は本当に鼻がいいのね。お父様に似たのだわ。きっと。偉いわ」
 桃子様を抱えあげながら日野様はおっしゃった。まだ小さな時分に話してさしあげた廉宮様の生涯のご記録は、日野様のなかですっかり人型となり、ご自由に動き回っているご様子。おそらくは四足で、地面を這い回って、草の匂いを嗅ぎ分けて。
「あらうさぎ、もどってきたのね」
 桃子様はパラソルの下で白うさぎとご再会。さきほど朝の茶会に置き去りにされていた動物様方を連れ戻しに行くと、うさぎの彼は堂々お歴々の下座にて茶会を守りつつ、耳の端を蜜蜂たちにねぶられていた。彼の耳には不思議な魔力があるらしく、どんなに洗っても繕っても、はたまた中身を入れ替えても、あらゆる動物たちがそのお耳を奪っていくのである。今では耳の端からかすかに蜂蜜の匂い。十分に陽光を楽しまれてから、日野様は桃子様と共にパラソルの下に着席された。
「さあ、はじめて頂戴。あの子はどうせ最後に来るつもりでしょうから、待つ必要なんてないのよ」
 御殿作りには必ず跡継ぎの方が参加されるきまりであるが、大輝様は午睡の只中である。もとより参加していただくのは最後の釘打ちだけなので、日野様の号令をお借りして、さっそく御殿の組み立てに入った。白樺から香る虫の羽の匂いに陽光が差し込み、建材の白肌に遊色が走る。その遊色は陽光をまとって跳ね返り、日野様と桃子様の南国のお飲み物に反射し、あたりに七つの色彩を瞬かせた。眠りを誘う色光なのか、やがて桃子様は日野様のお膝の上で、うとうとと、目をおろしなさる。ちいさな手にはきつく白うさぎの耳が握られて、白うさぎのの人は、ウロの目でこちらを眺めおる。くるくると、漆黒の目の中で遊色の光が回りおる。
「お祖父様は死ぬのだわ」
 突然、日野様がおっしゃった。ストローを齧りに齧り、平べったくなったものをまた開くように齧り、齧り、また少しずらして齧り、繰り返し、齧り、繰り返してかえってまた丸みを帯び始めたストローを疎ましそうに眺めながら日野様はもう一度おっしゃった。
「死ぬのよね? ユウ」
「ええ、ええ」
 それは誰もが存じ上げていること。御羊になられて生き続けた方はおられない。なぜならそれはゆくゆくのとき、絶命の直前を見極め腹を切り裂き食べてしまうから。廉宮様のように御羊としての天寿を全うされるのは、まこと珍しきこと。
「こんなに素晴らしいことってあるかしら? ねえ」
 日野様は桃子様を抱えながらやわらかく立ち上がり、テーブルの上、いまや水滴が輝くのみとなった南国のグラスの目前に桃子様をそっと横たわらせ、真綿の薄水色のクッションをその御顔の下に差し入れた。
「御羊肉ってどんな肉なのかしら。ねえ、覚えている? ユウ。きっと覚えているわね。私はやりきったのよ。お祖父様は、私を立派なこの家の女だと思って死ぬでしょう」
 日野様は赤いエナメルのヒールを土に突き刺すようにして、堂々仁王立ち。ひた隠してこられたあのころの少年のかんばせを取り戻し、こちらに不敵に笑いかけるのであった。夏の日。あれはまったくの夏の日であり、日野様はまだ九つであった。短い散切りの青々とした御髪を振り乱し、青い短パンに白シャツ一枚、来る日も来る日もあたりを走り回り、冒険に次ぐ冒険。擦り傷、切り傷、なんてことはない。昨日より遠く、また険しく、獣道を駆け、あらゆる動物、植物、物の怪、そんなようなものすべてを倒し、勲章をひけらかすように、救急箱の前にその御御足、その御手、あるいは口の端、あらゆる血のにじむ皮膚をわたくしに差し出しては満足げに処置を受けられ、またお供して同じように傷ついたわたくしの皮膚を豪快に治癒し、微笑まれた。日野様は一家のご長女、しかも祈祷師の手違いで十月十日、生まれるそのときまで男子と信じられ生まれてきた立派なご長女であった。足蹴の強さ、立ち上がる早さ、物怖じのなさ、その挙動ひとつひとつを、しかし、大旦那様はお嘆きになった。
「なにゆえ男児でないのか」
 されど、そのような言葉はどこ吹く風、いやさ、どのような風もひとたび浴びれば日野様の身体にすすいと吸い込まれ、豪快な笑い声へ変わって消える。男児でないことがいかばかりのことか、足蹴の強さ、立ち上がる早さ、物怖じのなさ、すべて女児であるおのが身のうちにあるのだ。
「じいさまはぜんたい何が不安なんだろう?」
 日野様には大人の憂いはすべて笑いごとであって、それ以上でもそれ以下でもない。そのような些事をふと思い出すこともあるが、さっと捨ておき、まずは冒険、冒険。廉宮様が決死の思いで辿り着いた滝裏も、日野様のたくましい四肢にはいささかの苦労もない。苔薫る水辺はやや退屈といったご様子で、うなだれるシダの類はその近類。しかし滝の裏から臨む滲んだ世界はお気に召し、時折、静かに意思強くぼうっと長く眺めておられた。
「こんな風にあやふやならいいのに。もっと自分にわからないものが欲しいよ。なあユウ、そうは思わないか?」
「ええ、ええ」
「何もかも届いてしまってつまらない。もっと危険はないのかな」
 日野様の四肢に適う大自然はもはやなく、思いつくすべての冒険は乗り越えられていた。そんな時分、届いたのはご母堂である真昼様のお手紙。どこかにある遠い場所を追い求め、我が子を捨ておき空を、海を、また山を駆け抜ける真昼様のお姿は日野様の信仰の宛先である。その真昼様から、空を、海を、また山を超えて届くお言葉は、すべてすべからく日野様の原風景となるのであった。真昼様がお手紙により伝えられたのは真夜中の大蛇のこと。真夏の、なべての魂が還る祝祭の中日、お庭の北のほこらの先に一家の禍々しきウロを飲み込み育つ大蛇が住むという。ひとたび見かければ病を得、触れれば厄災の訪れ、そうして一段と日野様のお心に残ったのは、最後のひとこと。
「ただし、交われば歓喜の生をえる」
 幼き少年の、ああ、まったき少年の理解はどのようなものであったか。交わり、歓喜、そうした言葉はやはり、日野様の体には冒険のたぐいであったのだ。はたして、祝祭の中日の真夜中、昼間のあらゆる儀式、されどそれは男児不在のかりそめのもの。そのことをお嘆きになる大旦那様の顔もなんのその、日野様は完璧にこなしてみせ、来賓の方々は立派立派とお帰りになる。そうしてひとときの眠りも得ずに爛々とした眼、隆々とみなぎる肌々の張りでもって、冒険を、そう、最後の冒険を、自らの足で踏み分けはじめたのであった。
「ユウ、大丈夫か? こっちだ」
 その御手はすでにして、逞しさと共に儚さをたずさえ、柔肌を身に纏いつつあった。しかしそれゆえ、断末の、首落ちる前夜の御花の、最期の光輝を放ち、真夜中の肌はまるで猛き獣の毛艶に似て、月の明かりのごとくであった。北の祠は凹凸の岩々、山のような、谷のような、森林のような、荒れ地のような、あらゆるすべての冒険を織り交ぜた道々の先にある。擦り傷、切り傷、勲章が増えるたび笑いつ歪む御顔は、御体は、やはり最期を知っていてのこと。
「大丈夫だ。ユウ、大丈夫だよ。こんなことは、なんでもない」
 その言葉の、いかに体に染み入るか。鳥居を三つくぐり抜け、百と二十三の石階段を登りきり、日野様はついに北の祠へとたどり着いたのである。祝祭の中日の真夜中、獣共は恐れをなして引き下がり、はるか遠くから遠吠えの残響がわずかに聞こえるばかり。闇色に近い深い植物たちの葉先に包まれて、その小さな祠はわびしくそこに在る。一体、誰がまたここを訪れるだろう。以前にここを訪れたのは、どなたであったか。しかし不思議に手水ちようずに苔はなく、葉の一枚も落ちてなく、祠には一粒の光が変わらずそこで瞬いているのであった。
「ユウ、これはなんだい?」
 それは北の祠の祀るもの、誰も由縁の知らぬ鉱石である。黒曜に似て黒く見え、しかし時折には赤く見え、青く見え、見るものは見られるものとでもいうように、常に何がしかの輝きを携えそこにある。日野様はしばらくじっとそれを眺めておられたが、それは滝裏から見る世界のように曖昧模糊とした不可思議ではなく、厳然として不可解な一個なのであった。なにを思ったか、日野様の御手はその石に伸び、指先が石の肌に触れる。直後、神木の影から白々しく大蛇が現れた。果たして、その眼は祀られる石と同じ存在である。日野様のふらりとした一歩。それはかつてのその四肢にはついぞ見られなかった、惑いの一歩である。大蛇の瞳。
「ユウ、そこで待っておいで。すぐに戻るから」
 それが日野様の少年時代の最期のお言葉であった。冒険の終わり。しかし日野様に訪れたのは歓喜とはほどとおい生である。なぜならば、それまでもそれからも、真昼様のお手紙のお言葉は、ついぞ正しくあったことがないのである。真昼様もまた、夢を見る者。夢も見るものはうつつを見やらず。ああ、そうして冒険の終わり。血を流し戻ってこられた日野様の体に、改めて大旦那様の呪いの言葉が降りかかる。
「男児であれば」
「御羊ってどんな風にして死ぬのかしら!」
 今やその声は甘高く、日野様の四肢は細く柔くどこまでも白い。それでも残る傷跡のなんと痛ましい、なんと勇ましいことか。日野様は丸く重くなりゆく体のために冒険を捨て、大蛇よろしく呪いを飲み込み成長することを選ばれた。大旦那様の認める立派な女となり、肉を食らうそのときまで。
「ユウ、私にも打たせて頂戴」
 艶めかしい四肢をたずさえ、日野様はあの頃の大股で一歩、一歩としっかりとした足取り。踏みしめられた庭芝が、深く沈んでまた持ち上がり、日野様の足跡の後に音を立ててついてくる。金槌を差し上げると、日野様の細い指がその柄を強く握り込み、御殿の入り口、一等堅く意固地な建材へ激しい一槌を下された。細くか弱く柔らかくおなりになったその四肢であるが、繰り出される一挙は往時と寸分変わらず勇ましい。
「はやく戻りたいわ。ねえ、ユウ、お祖父様の肉を食らったら、あなたが髪を切ってね。ぞろぞろとして鬱陶しいったらないわ。この肉も、残らず削いで頂戴ね」
 御羊を食べてしまったあと、日野様はまたあの剛健な青年に戻られるおつもりなのである。いかにして人体を改造するのか、強くも淑やかな女性の性を模倣しながら、夜な夜な研究を重ねられているのである。
「姉さん、どうしたの」
 そこへやってこられたのは大輝様。午睡を存分に楽しまれたご様子で、顔色麗しく、足取りはやや夢見心地、それを認めると日野様はお体からすっと力を抜き、金槌を戻された。
「なにもかもどうでもよくなる顔ね。ユウ、私の幸せは間の抜けた弟を持ったことだわ」
「大輝お兄さま。おはようございます」
 桃子様も目を覚まされ、お決まりどおり、大輝様が最後の一槌をお打ちになる。日野様の豪快な打ち下ろしにくらべ、大輝様はまどろみに似た大らかなひとつ。ふたつ。みっつ。そうしてよっつの打ち下ろしでついに御羊の御殿は完成と相成った。まったく気の抜けると嘆息される日野様の横で、大輝様は出来上がりに満足そうに微笑まれ、そっとねぎらいの一言。
「ユー嬢、とてもいいものができたね。お祖父様もきっとお喜びになる」
「ええ、ええ」
 しかし大輝様はわたくしの顔を眺められたまま、微笑み続けておられる。奇妙な間を持ってから、大輝様はそっとその口をわたくしの耳にお寄せになり、嬰児のごとく透明な声を出された。
「大叔母様がお呼びなんだ。準備を手伝ってくれるかい?」
 ちょうど日野様と桃子様は、午後の一服のお誘いのため、冬弥様探索の旅に出られるとのこと。御羊の御殿の開くのは午後の遅い時間、夕暮れの終わる頃合いがよく、大叔母である真都まと様のもとへ向かうためのご準備をするにはやや時間が短いように考えられる。
「ええ、大輝様、すぐに、いますぐに」
「悪いね」
 そうとなれば蔵へひと走り、重いかんぬきをよいと除け、中から真珠の匂いのする若木を九年乾かしたのを一抱え、急いで叩き割り薪にして、また叩き割り薪にして、また一抱え、別館の湯治場へ走り走り、釜には塩のついた黝簾石ゆうれんせきをひとつかみ、また外に走り、窯には八十二年前の古新聞、中でもできる限り凄惨な事件を報じたものに緑のマッチで火をつける。燃え上がるバラバラの殺人の文字文字のあいだから、かびとかすかな果実の匂いの立ち昇る。これは三百日前にまぶした柑橘の皮と桃の果汁の匂いである。これらはすべて真都様のお言いつけであり、また新たな古新聞、また新たな果実、また新たな緑色のマッチ、またまたまたと次の来訪の準備をせねばなるまい。真都様には大旦那様以上のこだわりがおありになるのである。
 さて湯を沸かすあいだに香水のご準備。これは猫の倒した瓶のものと決まっている。屋敷に走り、走り、眠るタマを探してお伴のポチと共にまた走る。さまざまな香水瓶をいくつも並べる間、タマのまた逃げ回り、ポチが首根っこを咥えて連れてくる。なんと利口な犬よと撫ぜるあいだに、香水瓶は見事に倒されており、あら仕事上手な猫よと一声掛けるまもなくタマはどこぞへ走り去った。倒された香水瓶を持ち走り、また走り、湯の沸いたのを確認して、大輝様をお連れし、ご入浴のあいだにまた衣服を揃えに走る、走る。朱の入った女物の襦袢じゆばん、これには大柄のお花がまんべんなく、それとほのかに緑が含まれていればなおのことよい。箪笥たちの口をすべてあんぐりと開けて、お眼鏡に適いそうなものをひっつかみ、走り走り、ポチがあとを追いかけ落とした帯を咥え走る、おお、なんと忠義者の犬であるか。広間の椅子の下、タマは眠りを覚まされたことに疎ましげな一瞥、りりんと鳴るその鈴のなんと冷ややかなことよ。
 湯殿へ戻れば大輝様はすでに湯からお上がりになって、お体の点検をされているところであった。一分の狂いなく盛り上がる肉の筋は芸術のたぐい、流れる雫も楽しげに檜の床へ落ち遊んでいる。左の背の脇の黒子ほくろを撫でて点検は仕舞いになったご様子。香水を含ませた浴巾でお体を拭いていると、ふと大輝様は鏡に映るご自身に問いかけた。
「俺もいずれは御羊になるのだな」
 大輝様の四肢は若かりし日野様の逞しさとはまた別種の趣があり、適切な隆起はまさに芸術の凸凹、なべて鑑賞のためだけに研ぎ澄まされたものである。しかしその内に宿るのは空洞の魂。それはときに鷹揚さに見え、闊達さに見え、間の抜けたように見える。この度の香水には雨降りの土の香りが混じっており、その魂は怪しく見える。
「あとはなにをするんだっけ? ぼくは」
 お一人になるとき、とくに真都様のお部屋に訪問されるときには、大輝様はご姉弟にはお見せにならない人格でいらっしゃる。自由に動いてみせるお人形のごとき、伽藍堂がらんどうの魂ですべらかに儀式の遂行に入られるのである。
「耳輪をおひとつ」
「ああ、そうだった」
 右のお耳に黒い輪をつけて、御髪はやや濡れたまま、胸元はいくらか開き、こうして外の形が整いはじめるとそのお心は一層空疎に、また真摯に役に沿い、なにものかを取り込んだように、すっと背筋の伸びて、微笑みも寸分の狂いなく、真都様のお好みの美麗なものへとお変わりになる。そのほんのお心はどこにあられるのか。大輝様はどなた様の前でも、見る者の望む姿へと変貌される。真都様がいらっしゃる別棟へは長い長い渡り廊下、模様の入った朱の飾り軒の下に風鈴がいくつも続き、重く怠い甘い匂いの香が遠くより流れ来るのを渡っていく。いつもの気軽なおしゃべりは止め、そそそと歩くお姿は幼きころと変わらず、まだ足首の細くか弱い幼少のみぎりより、大輝様は堂々としたお人形であったことよと、記録が自然と呼び覚まされる。
「じょうずにごほうもんできればいいんだよね」
 そのころのお声はまだあどけなく、わずかばかり成功への期待を背負う喜びをお持ちであった。大輝様は別棟にいらっしゃる真都様の虎の子の舌がお好きだった。虎の子は真都様の重く怠い甘い匂いのする薄暗い部屋の天蓋の下であくびをして、この世のもののすべてままならぬ夢であることを理解している様子でのったりとしているのである。大輝様はよくその口の先にご自分の手の甲を差し出して、今か今かとその舌が出るのを待ちわびていらっした。そうしてついに棘生えるちいさな肉の舌に撫ぜるように舐められると、ふるふると体を震わせ、恍惚とその瞳の上へもったりと瞼がかかるのだった。今や虎の子は虎となり、真都様の足元にある。お部屋には暗い重い怠い甘い、なべての要素が濃度高く部屋の隅から隅までを満たしており、真都様のベッドからは数多の寝具が波のように床へ垂れ落ちている。
「こちらへおいで」
 大輝様はいつものように襦袢を脱ぎ籐の椅子へ腰掛け、左の足を真都様の手の中へお上げになった。見分の順序は幼きころよりかわらず、左足の腿から足の爪の先のいっぽんいっぽん、右の足おなじく、左の二の腕から爪の先の、いっぽんいっぽん、右の腕同じく、首筋、鎖骨、左の耳の裏の骨、右同じく、うっすらと柔らかい左眼の下の皮膚、右同じく、両の|顳顬《
こめかみ》。正面が終われば、背面、大輝様は籐椅子の背へ両手をついて虎のごとく伸びをする。左の肩甲骨、脇腹の下、腰骨、右の肩甲骨、脇腹の下、腰骨。ひとつひとつ、時間をかけて真都様がそのお体の部品を点検するあいだ、大輝様は徐々にまったきお人形になられる。魂を空に、肉体のみの存在となり、ただひとつ、虎の舌の見えるときだけ、ふと気を持ち微笑まるる。
「楽にしてよろしい」
 号令がかかって、大輝様はそそそと襦袢を肩にかけ籐の椅子に正しく腰掛けた。真都様の腕と指先が煙管を持たれる場合の形になられたので、いそぎ煙管箱よりご用意、手捷てばしこく緑のマッチで火をつけてひとつふたつ吸い込み、煙の細長くたなびくのを確認して、く疾くと物言わぬまま急かす指先に形よく置く。一服なさり、真都様はふとこちらを見られて、わたくしに右の足の薬指の爪の形がすこし悪いと声をかけられた。
「ええ、ええ」
姪孫てつそんや。ここへ下ろし」
 真都様が足元の虎の腹へ足を下ろすように言いなさるので、大輝様は速やかにそのようにした。なるほど、右の足の薬指の爪の先が、やや尖っているようである。わたくしが虎の腹の中へ膝をさしいれながら、音を立てぬよう爪を整える間、真都様はお人形である大輝様のお顔をじっと眺めなさっているようだった。
「愚兄が御羊になったというね」
 大輝様は指の先まで魂を失ってお人形になられている。
「はい。今朝のことです」
「やっとお前も肉を食らえるというわけ」
 伏し目がちに虎の腹の虎模様を眺めながら大輝様は、ええ、とかすかな声を漏らした。真都様はすっと目をおつぶりになって、数秒の後、ほう、と深く息を吐かれた。遠く永い記憶の旅をなさったのであろう。
「姪孫や。血の味を覚えておいで。わかるかい。血の味だよ」
 真都様は大輝様の左の手の甲の皮膚を両の親指でもって広げるように、乾いた皮膚の指先でお触りになった。御羊の肉を食らわぬは一族の異端である。そのため真都様はこれまで、大輝様たちにそのときが正しくあるように、近くあるように毎夜毎夜お祈り遊ばしていたのである。それというのも真都様こそ御羊の肉を食べぬまま生きながらえていらっしゃる唯一のお方。長い一族の歴史の中でもついぞそのようなお方はお見えにならない。たとい人生のうちに一度や二度、食べ損なわれたとて、この家のお方であればどうということはない。必ずどこかで御羊の肉を口にされる場面が訪れるのである。しかしその契機なく真都様は成人され、御羊の肉を食らわぬまま婿を取るわけにはいかぬと、次こそは次こそはと御羊の肉を期待されながら、今日まで別棟にお一人でお住まいになっている。
「私のようになってはいけないよ」
 最初は真都様のお祖父様である真治しんじ様の御羊肉。真都様はご自宅にあってしかし非道ひどい障りにあい、生きるか死ぬかの夢とうつつをさまよわれた。胃の腑のものはすべて外に出され、水も飲んだそばから白濁の液となってお外に漏れる。ただひとつ指の先に乗るほどの氷であれば身のうちに収められるといったもので、御羊肉などもってのほかであった。お父様の伊那いな様、お母様の里木様もこれは仕様のないこと、肉を食らわせ冬虫のごとくか細い息が絶えてはならぬと無理には御羊をお与えにはならなかった。この機を逃したとて、真治様の弟君の虎洞ことう様、東伯とうはく様、そのそれぞれの御子息である首里しゆり様、久能くのう様、と、御羊となられる方々は真都様の未来にぞくぞくとおられる。しかし指の先の上に乗る氷を舌先でねぶりながら夢うつつを行ったり来たりの真都様は、階下から聞こえる饗宴の音たちを耳に感じると、強く目をつぶられ、たびたび唸るような声をあげられていたのである。ともすれば未来の夢をみていたのかもしれず。その後もたびたびの不運が重なり、ついぞ真都様は御羊を饗されることがなかった。
「ねえ、ゆう、御羊の味はどんなものかしら」
 幼少のみぎりには眩しがるように、成人されては疎ましげに、屋敷に居残られてからの真都様は淡々と、そのようなことをおっしゃられた。そうしてふと、わたくしのお伝えした先人の一節、御羊肉へのお言葉を思い出されるのである。
「血の味のして舌のしびれる」
 そう呟かれたあとには必ず氷を食まれる。真都様のこだわりのなかでも氷食への情熱は随一で、無味有味、七色十色、六角八角十二角、光るものに弾けるもの、あらゆる冷ややかな個体が真都様のお部屋の真中にて倒立する観音開きの塔のなかに鎮座されている。足元の虎を大きくまたぎ、真都様はまた氷食のため塔を開けられた。無味有味、七色十色、六角八角十二角、光るものに弾けるものたちは涼やかに、外界の空気を物珍しげに感じ、各々、光り光らず、弾け弾けず、ほんのすこしずつ溶け始めるのである。大輝様はそちらは見られず、虎の腹に足を乗せたまま、まどろむ大きな獣の顔と、その中にある舌を夢想しているようなお顔で、うっとりとつぶやかれた。
「大叔母様と共に御羊にありつけるのは、とても喜ばしいことです」
 呼吸にあわせて虎の顔は上下して、たまに舌を出し口元を舐る。爪の形はすでにして他のものと寸分変わらぬ形に整えられた。ぱりん、と弾けるような音。それは真都様の氷食をされた音。塔の目前に立って、つぎつぎと、真都様は冷ややかなる個体を身のうちへお納めになる。
「そうなればよいけれど」
 ご訪問は恙無つつがなく終わりを迎え、大輝様は帰り際、ややお恥ずかしそうに虎の顔の前に自らの手の甲を差し出された。大きくおなりになった虎はちょいと一瞥。部屋の気色と同じく重く怠く甘ったるく、肉の棘の舌で大輝様の手を舐められた。お首元の鈴がりんりんと鳴り、大輝様のお人形のお瞳に輝きが七色十色。
「さて、あとはお祖父様を御殿に移して今日は終わりだね?」
 別棟から本邸へお帰りになる廊下を歩みながら、大輝様は一族のためのお人形の手順をお考えになる。空疎の心を満たすのには惰眠がどうしてもご入用とみえ、また少し眠られるという。襦袢の裾のめくれあがり、ふわふわとしたあくびを置いて、芸術の四肢は自室へ向かう廊下を曲がられた。予測より問題のないご訪問により、時間にはまだもうひと仕事をはさむ余地があり、ぽつねん島のへりでお亡くなりの子鹿の墓を作ることにした。蔵をひっくりかえし、大道具小道具を一輪車へ詰め込み詰め込みしていると、うしろから可憐なお声がかかる。
「ゆー。おはかをつくるのね」
 振り返れば、蔵の外、初夏の直射をあびながら桃子様のお立ちになっている。日野様がお替えになったのか、空色のドレスに白いピナフォアをおつけになり、両手を後ろに小首をかしげ、暗がりから見るそのお姿は、まことに夢幻のようである。
「ええ、ええ。桃子様」
「わたくしも行きますわ。よごれてもいいようにしておりますの」
 うしろ手を前に回すと、握られたうさぎの耳にひっついて、うさぎの本体がぐるりと宙を切る音のする。それならばと一輪車から押しトロッコへお荷物をうつし、後方へ作りたての羽毛の敷き布を詰め、桃子様とうさぎはそちらに座してもらうこととした。また桃子様にはつばの広いお帽子をご用意。墓作りの旅の出発と相成った。
「ゆー。とてもよい気持ちですわ」
 生命が漲りはじめる初夏の直射は桃子様のお眼鏡にかない、トロッコから足をお出しになって、うさぎの顔をちぢめひろげつぶし、喜びをあらわにされる。線路はお庭を迂回しながら遠く果てまで続いている。しかしゆらゆらと惑うような線を描いたかと思えば、気の遠くなるような直線を明後日の方向へ進むため、ゼーロン氏の登場でその活躍の場は減るばかり。ただこの度はちょうど子鹿の死ぬ池の縁はトロッコの通り道であるゆえ、このような移動が最適解である。只今の気温であれば、子鹿は早朝よりはいくらか腐り、土に染み込んでいるであろう。
「あたたかいのはいいことね。うさぎもそう思っているでしょう? ねえ、ゆー」
「ええ、ええ」
「大輝お兄さまは、おおおばさまのところへ行ったのね」
 桃子様は足をばたばたとさせ笑われた。
「かわいそうです。みんなおかわいそう。不自由ですわ」
 うさぎの耳をそれぞれひっつかみ、互い違いに上下させながら桃子様は笑われている。日野様の逞しさ、大輝様の美しさ、また冬弥様の密やかさとは違って、桃子様の四肢は妖しさに満ち満ちていらっしゃる。一目では可憐に、二目でも軽やかに甘く、しかし三度見ればどなたでも、その内より漏れ出る妖しげなる香りに気が付かれるのである。ちいさな御御足の先が木枠の外でぱたぱた、ぱたぱた、と遊ばれていた。
「たいへんな子を生んだわ」
 真昼様がそのとき、めずらしく驚きになったことが記録されている。真昼様はまじまじと、お生まれになったばかりの桃子様の下腹部にかすかに認められる陰茎を眺めておられた。若い奥医師の手は震え、助手は右往左往、当の桃子様はその時分より堂々としておられ、外界へ飛び出たばかりの肌を呼吸にあわせて上下させ、泣きはせず笑うような口の形をされていた。
「女の子なのよね?」
 長い見分の終わり、真昼様の問いかけに奥医師は惑いながらもうなずく、助手はやはり右往左往、どのように調べても陰茎のほかには異変はなく、まったき女性であるとのこと。
「そう。じゃ女の子でいいわね。疲れたわ。ゆゆ、あとはよろしく頼んだわよ」
 そうして真昼様は夢路へ旅だたれ、奥医師と助手は何をも言わぬはしから他言はせぬと血判を押した。血の指の形に光るのを見て、やはり桃子様は笑われたように思う。そのように思わせる力が、お生まれになったころから桃子様には備わっているのである。
「おじいさまのお肉をたべるのね。それがみんなお大事なのね。わたくしとうさぎにはよくわからないことです」
「ええ、ええ」
 トロッコは曲線を描き、庭園の端の崖のそばをコトコト進み、崖の下には穏やかな浜辺が見え、初夏の風がふき、桃子様のご機嫌はますます上々、庭園の巨木を仰ぎながらお鼻歌を奏でられた。帽子のそよぎ、実に十全であるご様子。実際、桃子様のご存在はたったそれだけで十全であられるのだ。両性の具有せぬはそれだけで不幸。まわりを見ればわかることと、口にはせずに存在で語っておられる。日野様も大輝様も冬弥様もそのことをお知りにならないのは、持たぬものへの配慮というもの。お鼻歌の弾むのに合わせ、木々の間からちらちらと光が漏れ、その細く小さくしこうして豪健な肉体の肌に反射するのであった。トロッコのコトコト音は、森に入りヌマワニの住む池をぐるりして、ぽつねん島を横目に、ついに目的地にたどり着いた。子鹿は池の縁のぬかるんだ場所へ、ちぎれてなくなった足先をつけ、顔をべっとり陸地につけ、目を開いている。暗がりの森の中でも初夏の昼下がりとなればところどころに日の当たり、ちょうど子鹿の瞳に陽光が差して、内側にある水晶がまばたくような瞬間がいくつかいくつか訪れた。
「死んでいるのね」
 桃子様はお鼻歌とおなじような弾みを持って呟かれ、子鹿の顔をお覗きになった。うさぎの顔がぬかるみにつき、そちらの瞳は翳っているご様子。やはり子鹿はヌマワニに足を食われたようである。その噛み跡は凹凸激しく、剥がれた皮と肉が腐り始めている。腐臭は初夏の光の温度と同じ勢いで、互いを打ち消すことなく増幅しているようであった。しかし、桃子様はお鼻がつきそうなほど近くで、ヌマワニの噛み跡を観察されている。
「ここに歯があたっています。かんだのね。肉をかまれて、ひきずられたのだわ」
 ちいさな指先が子鹿の腐りおる肉先に触れられる。それはぬかるみよりも形のあるもの、まだ中身の詰まった下腹部は桃子様のちいさな指先を押し返したようだった。負けじと指先に力をいれて桃子様の爪の内側が白くなる。肉に飽きると今度は手のひらで腹を押し、そのまま閉じられた子鹿の下腹部をまさぐりなさる。子鹿は尻と腰のあわいのあたりが禿げている。股のあいだのもぞつきもぞつき。 ふふ、と桃子様はかすかに笑われた。
「オスね」
 ぬかるみに落とされたうさぎの耳をひっつかみ、桃子様はピナフォアを汚すように泥のついたうさぎを抱きしめられた。
「おかわいそう。うめてさしあげましょう」
「ええ、ええ」
 桃子様はトロッコにもどられ、御御足をやや外にだし、お寛ぎになりながら水筒の甘茶にお口をつけ見学の構え。まずは子鹿のまぶたを下ろし、すこし陸地へひきずりあげ、塚に適する場所はどこであるかとあたりをつける。するとトロッコの木枠の中から桃子様の足がするりと伸ばされた。
「ゆー。あそこがよろしくってよ」
 その御御足のちいさな指先が示すのは森の日陰の一等濃くなった先、一箇所だけ丸い木漏れ日の出来ている。幾重にも重なる木々の葉どもが、そこだけ禿げているらしい。光あたるぬかるみから森の暗がりへ、子鹿の死んだのを抱えて進めば、光の場所より土の匂いは一層濃くなり、腐臭は暗がりに逃げていくようであった。木漏れ日に子鹿の足先が入り、短い毛先に光のあたり、暗闇が退散する。そこだけ風もやんでいる。子鹿を下ろし、土を掘り返す。さまざまな生き物の死んで、土の中に染み込んでいる匂いのする。死んでいるものの匂いの上に、生きているものの勢力が覆いかぶさって、木漏れ日を広げているように見える。子鹿の足元はすでに死んでいるものから生きているものへ移り変わりをはじめているようである。
「しんでしまった肉を食べるのかしら?」
 桃子様は暗がりまでいらっして、木漏れ日の中の子鹿に目をやられた。うさぎは柔らかく胸中にあって、耳は自然に空に向かって伸びている。
「おじいさまはまだ生きていらっしゃるのでしょう?」
「ええ、桃子様、ええ」
「どうやって食べるのかしら」
「わたくしがご準備します」
 十全な肉体の桃子様は不可思議そうに死んでいる子鹿を眺めておられる。御羊の前足はこのようにすらりと長くなく、太い。
「しんでしまってから食べるのかしら」
 もう一度桃子様は同じようなことを呟かれた。どのような過程で御羊が饗されるのか、まだお知りでないらしい。廉宮様の例外もまだご存知でないかもしれない。
「御羊は生きているまま腹を裂きますので、死んでしまう前の御羊肉が饗されます」
 ほう、と桃子様のお口から息のもれる。うさぎの顔が潰されるように抱きしめられる。桃子様は暗がりからこちらに歩まれて微笑まれた。
「それがいいわ。それが自然だわ。生きていた肉をたべるのがいいわ。わたくしどもは生きていますから。おなじようなものを体にいれるのが自然です」
 桃子様は満足そうに子鹿の尻と腰のあわいの禿を撫ぜられた。掘り進めた土の中に入れると、子鹿は途端に形に意味をなさなくなったようである。毛は毛、骨は骨、肉は肉、それぞれすでに土の生き物に変わりはじめている。
「ヌマワニが見ているわ」
 桃子様の目線の先を向けば、子鹿のたおれられていた場所からほんのすこし離れて池の水から顔を出し、子鹿のすでにいないのを眺めているようであった。桃子様はつとそちらに走りよられて、池の縁までお進みになる。ヌマワニはそそそと泳いで、やや池の縁に近づいてきたようであった。
「あなた、鹿の足をお食べになったの?」
 問いかけられたヌマワニの下顎から空へむかって飛び出ているいくらかの歯のうち、下顎の右側、空へむかって生えている歯の先だけがやや汚れているようであった。科学的栄養素の中の眠り薬がやや切れているご様子で、ヌマワニの瞳はほんの少し爛々としている。桃子様はうっとりとそのお顔を眺めておられた。
「結構ですわ。とても結構です。けれどあなた、冬弥お兄さまがかなしまれるでしょう?」
 お茶会にならぶ動物たちへ向けるのと同じように、桃子様はヌマワニにお話しになる。そうしてお茶会にならぶ動物たちと同じように、ヌマワニはただ桃子様の言葉を浴びている。
「人間がかなしむのがふしぎ?」
 ヌマワニの背中で苔が水に踊っている。
「わたくしもふしぎに思います。でもおかわいそうでしょう?」
 ヌマワニはものを言わぬままじっとして、しばらくお二方は見つめ合っておられたが、ふいと桃子様が目をそらされると、ヌマワニも遠くへ泳ぎ去られた。子鹿の塚には桃子様のお友達であられる狒々ひひのお人形がよりそわれ、その理由は顔の赤いものがいれば淋しいことはないだろうということである。帰りのトロッコでは桃子様は御御足を木枠の内におさめて、泥の乾いてこぼれるうさぎを抱えながら夢見心地であった。
「おひつじはいつ見られるのかしら」
「このあと御殿に入られます」
「そうなのね。けれど今日はもうねむいのです」
「明日には真昼様もいらっしゃいます」
「あら、そう。そうなのね。おひさしぶりね」
 そこでことりとお眠りになり、そのまま起きられなかった。本邸の前までトロッコを押し進めると、玄関口の階段に冬弥様の座っておられる。トロッコのことことに気が付かれると冬弥様は立ちあがってこちらへやってくる。朝方よりは顔色のややよろしいようである。
「眠ってしまったの?」
「ええ、ええ」
 冬弥様は桃子様のピナフォアの泥を見下ろされ、こちらを向きなおり。
「塚をつくってくれたんだね。ありがとう」
 塚には顔の赤いものが寄り添われているとお伝えすると、冬弥様は眉をお下げになって、微かに口元を上げて微笑みの形を作られた。
「桃子はぼくが部屋までつれていくよ。Uには準備があるでしょう?」
「ええ、冬弥様、それでは」
「うん。いってらっしゃい。ぼくもあとで手伝うよ」
 抱えられて桃子様は眠りのなかでも満足そうである。冬弥様はトロッコの隅で潰れていたうさぎの耳についた泥を少し払われて、桃子様の腹のあたりに丁寧に置き直し、本邸の中へ去っていかれた。その後姿に影がついていく。冬弥様の後ろ姿にはもう長いこと影がつきまとっているようである。蔵に戻り道具を片付け、トロッコを端へおいやり、御殿に敷くための青草を取りにお庭の西へ向かった。
 お庭の西には水田が五つあるがそのうちの三つが御羊のためのものである。あとの二つは御羊のためのものが駄目になった場合のものである。いずれも繁栄と滅亡と再生を繰り返し、現在はすべての水田が栄華を誇っている。あぜに昨朝潰してまわったタニシの、目の潰れるような明るい躑躅つつじ色の卵の成れの果てが点在している。太陽の山の端に近づいて、陽光は橙の色彩を帯び始めている。荷車を三番目の水田の前まで引き、青草の列の九番目から刈りはじめる。これは大旦那様の言いつけである。御羊になった暁には、九列目の青草をお与えになるようにと仰った。三列目でも十一列目でもいけない。九列目。鎌を入れると青草は断末の匂いをあたりに放つ。青の匂いは夏の土の匂いに混じって、肌が湿ってくるようであった。いくらか刈り進めていると、畦道を冬弥様が歩んでこられた。
「荷台に乗せればいいね?」
 刈った青草を持ち上げながら、その目は潰して回ったタニシの躑躅色の卵に向けられている。ああ、幼いころもまた、冬弥様は同じように躑躅色の点在を眺めておられた。また記録が自動に再生される。
「どうしてつぶしてしまったの?」
 幼き冬弥様のお声はいまよりやや高く、そうしてか細く弱くお小さく。
「悪さをしますので」
「それはほんとうに悪いこと?」
 横にいた日野様は冬弥様のそのお言葉を一笑され、目の前で青草に張りつくぷっくりとした凸凹のタニシの躑躅色の卵胞を、畦道に転がし、踏み潰してみせた。それは潰れるときに音はたてず、ただ体液のようなものが土の上に広がるばかりである。冬弥様は息を短く鋭くお吸いになって、瞬きのように痙攣けいれんされた。躑躅色の塊はまだそれは生き物にはなっておらず、しかし土草の上に張りつくのは生命の体液である。そのことを冬弥様は大変に気にしておられる様子だった。
「生まれてしまってからでは遅いのよ。草を食べてしまうのだから」
 日野様は心の柔らかくある冬弥様をことに気にされて、労るお気持ちで厳しく接しておられるようだった。遠くで大輝様は青草の刈られる匂いを吸い込んで満足げに山の端を眺めている。冬弥様はその場にしゃがみこまれ、祈るように畦の上に額をつけ苦しまれた。
「これだけあるのだから、これだけあるのだから」
 念仏のように唱えられた言葉は日野様の嘆息に吹き飛ばされ消える。冬弥様はそのまま大いにお泣きになり、ついに痙攣の止まらず、日野様と大輝様に水田をおまかせし、わたくしが急ぎ奥医師のもとへ走り届けた。鉱石のような体がお背中でびくりびくりと震えなさる。医処の消毒液のこもった空間へ入ると、ややその体のこわばりは溶けたようであった。おうおう、と老医師は森の大きな霊長類のような声をだして、目覚めと眠りのあわいの椅子から立ち上がってよろよろとこちらへ歩んでこられる。
「よよよ、またなんぞ?」
 老医師お得意の感嘆詞を聞いて、冬弥様の体にはまたほんのわずか、柔らかさが戻る。ほとんど冬弥様の住処となっておられる医処の寝台には毛羽立った毛布が蛇のように丸まっていた。横たわるとすぐに毛布に体を包みこちらを背に丸まり、ひくひくという震えは徐々に呼吸と同じ起伏におさまってゆく。お耳打ちで老医師にことの仔細を伝えれば、また感嘆詞。
「よよよ。それはそれは」
 皺のないところのない骨の手で、老医師は冬弥様のお背中を叩いた。
「どうだ。ほら、もっと叩いてやろう」
「いいよ、いいよ」
「そういうな。お前さんにはこれが一番効くんだ」
 ぱんぱんと、毛布ごと叩かれるたび、くたくたと冬弥様の体は柔らかく溶けなさる。老医師が大声で笑いながら叩くのに合わせて、冬弥様のお顔が毛布からお出になる、歯の見えて、笑っておられるご様子。
「もういい、もういいよ」
「まだまだ。ほれほれ」
 医処の窓より西日の入り、埃が輝くように舞い上がった。しばらく叩かれていると笑い疲れたとみえ、冬弥様は眠られたようだった。すうすうと、苦しみを知らない眠りの中にいる。自室での眠りでは苦しみに取り憑かれ、ほんの数十分ずつ目を覚ますので、もはや医処でしか深い眠りを得られないのである。しかし、老医師はこうした発作のときしか医処での眠りを許さなかった。
「なにか飲むかな?」
「ええ、いいえ、わたくしは」
 辞意の表現をすると、老医師は笑った。
「ほほ、それはそうだ。いつでもそうだ。そうだと知って問わずにはいられないのが老境というもの。ではちょいと失敬」
 そういって彼は薬缶を火にかけ、巻煙草を口にされた。手の震えてマッチのなかなかつかない様子である。僭越ながらつけさせていただくと、やはり感嘆詞。
「よよよ。失敬失敬。ご友誼に感謝」
 その手にはもはや冬弥様の背を叩く力強さはなく、骨と皮ばかりになった腕に空気の重みがべっとりと張りついて、ところどころが垂れ下がっている。座ると軋む椅子に座れば、煙だけが動き、老医師の体は少しも動いていないように見える。ときの止まってしまった老医師のかわりに茶を淹れ戻ってくると、巻煙草は灰皿の上で崩れ、彼は眠っているようであった。
「お茶を」
 声をかけると、おうおう、と老医師は目を覚まして、居住まいを正す。そうして、ややぬるめにしたお茶を啜り、唸るようにつぶやいた。
「無念だな。実に、どうしてよいものか」
 なにごとか懸念があるのかと問えば、髭を擦られる。
「思うに、そうだな」
 言い淀んで、彼は安寧の眠りのなかにおられる冬弥様の背中を眺めた。
「対象にかぎりがない。目で見て、耳で聞いて、肌で受けて、思う。そのどれもがな、果てがないのだよ。すべてに思いをよせられている。だからこうして崩れてしまう」
 彼は冬弥様の病状について述べているようであった。
「長い時間が必要だ。長い時間をかけて、受け取らぬように、流すように、捨てるように、しかし、それも苦しい道だ。さみしい道だ。ああ、無念」
「なにが無念でしょう」
 けれどもまた、老医師は眠りについてしまったようである。くすぶっている巻煙草を消して、冬弥様の丸まる体の上にもう一枚毛布をかける。安寧の眠りにはこの体に巻き付いている毛布でなくてはならず、他のものでは換えがきかない。しかし唯一の毛布の端は破れ、糸ほどの隙間が無数に開いている。いずれ朽ち朽ちてしまうことは必定。どうにかして復元できぬものかと考えるが、新しいものでは意味がないという。
「私は遠くまではいけぬ」
 突然、老医師がはっきりとした声音で言った。振り返れば、その丸まった背中が見える。いつの間にこれほどまでに朽ちていたのだろう。少し前まではやや年を取った初老であった、もう少し前は静謐を知りつつも闊達な壮年であった、そのもう少し前は無遠慮で明朗な青年であった、その前は、まだ彼はこの家にはいなかった。今ではその静謐と無遠慮と闊達と頑固とに、悲壮と諦観が覆いかぶさろうとしている。
「はじめてお前さんを羨ましいと思うよ。私は坊っちゃんの長いさみしい道のそばにいつもいて、背を叩いてやることはできない。なあ、お前さん」
 老医師はわたくしの手を取った。ひやりとした皮の、薄いような、それでいて厚いような、実に奇妙な感触の指であった。
「お前さん、坊っちゃんの背を叩いてやれるか?」
「ええ、いいえ、わたくしは、いいえ」
 老医師の瞳には琥珀こはくが眠っている。少し前まではこのように淀んではいなかったはずであるが。指の先はもはや力の入れる方法を忘れているようである。老医師はそれでも強く、自らの中では強いと思われるような力でわたくしの手を握っていた。
「そうだろう。お前さんは、いつでもそうだ。いつまでもそうだ。叩いてやることはできぬのだ。決まりに逆らうことは出来ぬのだ。無理を言ったな。老いた者は無理ばかり言う。そうでもせねば、ままならぬのだ。許しておくれ。そうでもせねば、ああ、ままならぬ。ままならぬ」
 ぱたりと手を離されて、また老医師は眠った。そのようなことはしてよいのか分からず、しかし、冬弥様が目を覚まされていれば、きっとそうお望みになるので、わたくしは、老医師の体にも毛布をかけた。医処にはふたつの眠りが共にある。ひとつはいずれ目覚めねばならぬもの。ひとつは、いずれ目覚めの訪れぬもの。老医師の体は御羊にはならず、冬弥様の血肉になることもできない。ああ、なんという。ままならぬとは。ままならぬとは。
「U、どうしたの?」
 風の吹いて、青草は遠くから近くまで波のように寄って去る。畦道に立ち、大きくおなりになった冬弥様はこちらを眺め、かすかに微笑まれている。
「疲れたかい? ぼくが代わろうか?」
 そんなことはないと知って、わたくしにそのような疲労が訪れることはないと知っていて、そのようなことをおっしゃるのだ。そればかりか、衣服の汚れるのも厭わず、水田に足を踏み入れじゃぶじゃぶと、歩み、歩みよる。
「Uは本当に働きものだ。ぼくらはUがいなくちゃなにもできないよ」
「ええ、いいえ」
「あとどれくらい刈るの? ぼくにもやらせてみせて」
「ええ、冬弥様、ええ」
 しかしその鎌を持つ手は苦しまれ、青草の匂いを嗅げば思いの限りなく、刈られて命の尽きる青草へ、薄い涙の膜が浮かぶのである。限りがない。限りがない。
「冬弥様」
「なんだい?」
「お背中を」
「背中?」
 刈られた青草をしっかと掴み、一葉もこぼさぬようにと抱え、西日を浴びて冬弥様の振り返る。お顔の色悪く、微笑みになって。
「背中がどうかした?」
「ええ、いいえ。いいえ──わたくしは、すこし、混雑しているようです」
 すると冬弥様は眉をお下げになった。そうして青草を片手で抱え直し、開いている方の手をわたくしの頭にお乗せになった。
「いいんだよ。それが普通だ。それは自由というんだ。思いというんだ」
「じゆう、おもい」
「苦しくても、大事にしなくちゃいけないよ」
 風のまた走って、やはりわたくしの頭は混雑をしているようである。荷車いっぱいの青草を引き、御殿に戻り、すぐに大旦那様のお部屋の御羊をお迎えし、すみやかに、手順よく、ただしく、お宅入たくいりの儀式を済ませた。みなさま、おのおのの、おもいで、御殿の、御羊をおながめに、なる。わたくしの、本日のお勤めは、これにて。
「ああ、ユー。もう時間だ。眠るといい」
「ええ、ええ──」
 号令のお声が響いたので、わたくしは目を閉じる。


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