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宮沢章夫「松原俊太郎『山山』を読む」(悲劇喜劇7月号より)

悲劇喜劇7月号の掲載戯曲は、松原俊太郎「山山」。6/6にKAAT神奈川芸術劇場で初日を迎えます(KAAT×地点)。このたび悲劇喜劇7月号では、戯曲「山山」に寄せて、作家・宮沢章夫、演出家・三浦基のエッセイを掲載。読み巧者、宮沢章夫は松原俊太郎をどう読んだのか。公演を記念し「松原俊太郎『山山』を読む」を特別に公開。
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松原俊太郎『山山』を読む 宮沢章夫(劇作・演出)

 つい私たちはちょっとした笑いをテキストに入れたいと欲する。
 なぜなのか。なにより書いていることの快楽がある。舞台に笑いがほしいという上演を想定した考えもあるだろう。あるいは俳優たちへの奉仕の精神か。そして、笑いの質はそのときどきによって変化するが、たいてい人気のあるテキストの流儀に影響を受けるから、たとえば別役実はその後の劇作にどれだけ大きな影響を与えたかわからない。きわめて抽象性の高いテキストを簡単にまとめるのは難しいが、たとえば、いつのまにかそうなっている状況に登場人物は置かれ、自分でも気がつかないうちに裸に近い姿をしている(『天才バカボンのパパなのだ』)。暴力的な行為はそこにはない。観ているこちらもその不条理さに巻きこまれる。登場人物は「男1」であり「女1」だ。人数が多ければ、その数字が増えてゆく。そして淡々とした、きわめて不自然な言葉の連なりによって出来事は生まれ、流れてゆく。ベケットをはじめとする不条理劇の影響を受けているとはいえ、それを初めて読んだ者らは奇妙な劇言語だと感じただろう。しばしば別役実が語るのは、満州生まれの自分には原体験的な言葉がないという述懐だ。
 だから松原俊太郎の『山山』を読んで一番に印象に残ったのは、これらの言葉がどこからやってきたかだ。
 これもまた奇妙な言葉の使い方だ。構造を取り出そうとすると幾筋もの線のようにそれはある。けれど、ごく普通の戯曲のようにも読める。だからこそなにか異なる表面の手触りを感じることが奇妙だ。
 では、ここに登場する者らの人物像はなにか。あるいは作者はどのような視点で人間を考えているのか。戯曲では台詞が多くのことを代表する。ではこの言葉を発する者らはどのような身体をしているだろう。母が口にする。
「ああよかった、今日はあの日のことを思い出さなかったわ」
 この「わ」という語尾を発する人物が生きる世界を形成するのは、現在の演劇ではきわめてノンセンスな世界に感じるが、それはなにも「無意味な笑い」のことではない。さらに独白する人物たちの徒労とも思える熱情のこもった言葉が浮遊する空間の虚無感だ。それを発する人物のからっぽな内面のどこから声は出ているのか。もっというなら、言葉が音としてどこにもあたらず、なんの反響もないように感じる世界だ。ぞっとするような冷たい無音室だ。さらにその娘は、「さすがにね今は平成だから黙示録を胸に抱えて教壇に立つヨハネ先生は世界は男尊女卑で成り立っているんです女は結婚して子どもを生むべき男は長時間労働で家庭を支えるべき子どもは大人しく年寄りの意見を聞いてハイになるべき女の無言は同意とみなす暴れればねじ伏せるべきなんてダイレクトには言わずに平静を装う平成オブラートに包んで言うんだけど明治大正昭和から中身変わってないじゃんいま先生が言ったことぜんぶ間違いです基本的人権ググれカスってみんなでビブラートを響かせましょうよ、ねえ、」とまくしたてる。いやそのように感じさせるエクリチュールだ。日常の言葉ではない。まして言葉は、誰に向かって発しているのかわからないまま音として放たれる。いま書いたように本作の魅力は無音室のなかで言葉がやりとりされているかのような感触で、だからこそ「作業員」は、「おいおい糞は多様性の塊の山山なんだぜ」と言う。ここでもまた、「おいおい」と口にする者のいる世界が想像できず、あきらかにこれは、九〇年代以降に生まれ、その後の演劇に強い影響を与えた、日常的な言葉で構成される劇作の方法とは異なる。
 意識してそう書いているのか。
 それともまったく無意識なのか。
 たとえば、二〇〇四年に発表された岡田利規の『三月の5日間』の言葉から読むことのできる人間観は、その時代の若い世代が置かれた状況と密接に関係していた。主要な登場人物の男女がともに「フリーター」であることが、このテキストの言葉が登場人物の身体から発せられるのにいかにもふさわしいと考えられる。というのも、つまりそこに次のような言葉が発せられるとき、読む者は、よく知っている誰かを想起するからだ。ラストの直前、男優4が言う。「っていう、そういうことにこれからなるそのコとその相手の男が、三月の5日間の最後の朝に銀行で男が金おろして、っていう、女のコがそれを待っているっていうのを今からやって、それで『三月の5日間』を終わります」。これが、作品が発表された二〇〇四年前後のこの国だ。二〇〇三年に小杉礼子の『フリーターという生き方』が刊行され、〇四年に『三月の5日間』が公演された。〇五年には杉田俊介の『フリーターにとって「自由」とは何か』が刊行されている。だから岡田利規の書く言葉が、この時代のいわば「非正規雇用者」の言葉として、さらに社会を構成する空気を描き出すのにきわめてふさわしかった。
 現在はどのように語ることができるのか。
 本作はそのことへの試みのひとつだ。過去のテキストへの後退かのような語尾の「わ」にはもっとべつの意味がある。
 そんな人間にはめったに会えない。
 無情の世界だ。そして、作品のなかでもひときわ目をひく言葉は、先にも引用した娘の「さすがにね今は平成だから黙示録を胸に抱えて教壇に立つヨハネ先生は」にあり、繰り返して読めばかわるように言葉はどこまでも読点によって区切られつつ、しかし句点がないまま語られる。このことによってテキストは現在を描いているように思えるし、この言葉たちの奇妙な成立そのものでしか描けない現在があるとするなら、どんな身体、どんな背景がここにあるのか。

 作業員 山山だよ。
 ブッシュ 山山?
 夫 ああ、山山を越えて、来い!
 ブッシュ 山山、越える、ブッシュは?

 これを字義通り「言語遊戯」と呼んでいいだろうか。だが、それほどうまいとは思えない。とはいえこの言葉の遊びには魅力的な響きがある。それは無音室に響く言葉と同様の感触だからだ。さらに、この「山山」という言葉に含まれた重層性に注目すべきだろう。「労働2 観光」と指示のある章では、観光客に向かってどうやら観光ガイドが、「両手で山山を指差して、あれが山山です」と言い、それが汚染され作業員たちが「朝も昼も夜も、精を出して働いてい」ることを告げ、さらにガイドは次のように口にする。
「わたくしごとで恐縮ですが、わたくしも作業員さんたちの作業に参加したい気持ちは山山なのです」
 いったい「山山」とはなんだろう。
 配役表に「カップル」と記された男女が(おそらく二人同時に言葉を発するのだが)、「ガイドが両手で山山を指差して、あれが山山です、一方は美しい山でしたが、もう一方の汚れた山に浸食され始めています、このような汚れの伝染を防ぐべく、作業員さんたちは交替制で朝も昼も夜も、精を出して働いています、誰もが忌み嫌う作業を、他ならぬわたしたちのために、」と語るのを読むと、そのようなことを想像するのがいまでは凡庸であるかのように福島の原発に汚染された地域を考える。けれど、凡庸になってしまうのをあえて「山山」という言葉で迂回しながら語っているように感じる。語らずにいられないように。さらにカップルの言葉は続き、「ツアー客らは、波の爪痕や山山の汚れを指差しひそひそ声目配せうなずき、」とあるのを読めば、東北での震災が背景にあるのはあきらかだ。だがその単純さから逃れた作者は、特別な言葉で世界を構想する。そうとしか「現在」は語れない。得体の知れない登場人物たちによる言葉のやりとりは、本来の対話として成立するのを拒むようにある。作業員が「お前はおれが山山に埋まる瞬間を目撃したか?」という。その言葉は誰に向かって語られたかわからないはずだが、夫と名付けられた者が即座に「わたしはお前の妻じゃない。」と応答する。この応答の意味のなさはなにか。なにしろ誰も妻のことなど話題にしていない。すべての演劇的な言葉のやりとりが秩序だって正しく進行することを目的とするなら、その秩序やリニアに流れる意識のありようを無化しようするかのようだ。
 どのように迂回し、その中心を語るか。
 やはり、ここにあるのは「言語遊戯」だ。とはいえ、井上ひさしのそれとも、野田秀樹のそれとも異なる質を持つが、どこかで読んだ記憶がある。けれどそれがなんだったか思い出せないのは、これが独創的だからというのではなく、巧みに言語の空間から逃れているからだ。だから正しく書くなら、「非言語遊戯的遊戯」ともいうべき劇言語だ。それは現在を表象するための豊かな言葉の織物だ。だから夫はラストでこう口にする。
「終わらせやしないさ、だらだらとでもいい、つづけよう、一つとして同じ時間などないのだから、そのつづいているなかにいつもとは違うものがまぎれ込んでいるのだから、それを見つけて、またつづけよう。」
 この宣言は作品そのものの、無音室から発せられ、音は響かず誰かに届ける意志のない、けれど、きわめて強い意味を持つ言葉によって発せられた見事なメッセージだ。(悲劇喜劇7月号より

★松原俊太郎「山山」冒頭はこちら

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宮沢章夫(みやざわ・あきお)劇作家、演出家、小説家。早稲田大学文学学術院教授。1956年、静岡県生まれ。85年、竹中直人、いとうせいこうらとラジカル・ガジベリビンバ・システムを結成。90年から遊園地再生事業団を主宰。92年「ヒネミ」で岸田國士戯曲賞受賞。10年『時間のかかる読書』(河出書房新社)で第21回伊藤整文学賞を受賞。

[今後の予定]本年9月、早稲田小劇場どらま館で公演予定。詳細はあらためて告知されます。


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