天象の檻

【11月20日発売!】第7回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作 葉月十夏『天象の檻』冒頭公開★壮大なSFファンタジー

第7回ハヤカワSFコンテスト特別賞を受賞した葉月十夏『天象の檻』の冒頭を公開します。新鋭による壮大なSFファンタジーをお楽しみください。

■あらすじ
遥かな昔、大地の上で人が住む十二の地域は系(けい)と呼ばれ、神と人との間に生まれた神人(かみびと)を支配者として戴いていた。
系から隔絶されたアタの山に住む少女シャサは、ある日集落が襲撃を受けたことで多くの仲間を失ってしまう。
壊滅した集落に迷いこんだ少年ナギの協力を得て、シャサは姿を消した四人の仲間を探し、まだ見ぬ外の世界へと旅立つ。

シャサたちが訪れた、神人メネが治める『銀鱗』、神人イナーが統べる『暁』などの系では、ある噂がまことしやかに囁かれていた。
曰く、この雄大にして堅固な大地はまもなく海中に没すると――。
時を同じくして、神人タニャを担ぐ『蛇』が勢力拡大を狙って大侵攻を開始。危機迫るなか、シャサは思いもよらぬ力を発現させ、世の理に干渉してしまう。 その行いが、世界と神人の真実に迫るとも知らずに……。

新鋭による壮大なSFファンタジー長篇。第七回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作。

天象の檻

(以下、冒頭抜粋)

 風が吹く。
 一方から一方へ。遙かな過去から一度もやんだことのない、それどころか衰えたことさえない風。
 だがその威力にひれ伏すものも、その轟(とどろ)きに打ちのめされるものもない。
 風が吹く。吹き荒れる。
 ある時、凄(すさ)まじい風の猛威を突き破り、彼方から飛来した光が筋を引いた。
 繰り返される薄明と闇。混沌に刺さった衝撃は拡散し、結合し、揺れ動く。
 風が吹く。吹き荒れる。荒れ狂う。
 永久に続くかと思われた風の王国に翳(かげ)りが見えたのは、はたしていつのことか。
 風が、やんだ。
 灰色の雲が割れ、大地は初めて天と相対した。
 青白い光を纏(まと)った巨大な円盤が、漆黒の中で煌々と輝いていた。

聖なる場

 拒否。
 天を仰げば、昨日と変わらぬ穏やかな日和だ。白雲の浮かぶ青い空で、太陽が燦然(さんぜん)と輝いている。
 だがその下、地上に広がる光景は今まで見たことのないものだった。
 自分の視覚を信じることができない。頭がこの異常な光景を受け入れられない。
 わたしは夢を見ているのではないか。
 何度も自問し、眼を閉じ、開けてみる。しかし、夢は覚めない。自分の中のどこかで、これは現実だという囁(ささや)きが聞こえてくる。
 拒否。
 視覚だけではない。嗅覚も馴染(なじ)みのない臭いに圧倒されていた。木々の芳(かんば)しい香りを消し去っているのは異様極まりない悪臭だ。油が燃えた臭い。その残滓(ざんし)である何かの燻(くすぶ)る臭い。そして強烈な血の臭い。初めはその正体がわからなかったほど、非日常的な臭い。
 半ば焼け落ち、半ば破壊されている住まい。その合間に倒れている人影は不自然な格好で地に伏し、微動だにしない。その周囲に広がるどす黒い染み。辺りは静まり返り、空気が固まっているかのように何の物音もしない。
 ようやく五感との連携を再開した脳が、辺りの観察と認識を始める。嫌々ながら、のろのろと。そして当然湧き起こる疑問を意識の表に浮き上がらせる。
 何が、起きた。
 聴覚が、異質な音を拾った。風に揺れる葉のざわめきではない。愛らしい鳥や涼やかな虫の声でもない。何かが落ちて転がるような音。
 誰か、いる。
 硬直していた身体が跳ねた。
 生きている者がいる。
 しかし喜びは湧いてこない。体の隅々まで満ちている警戒音は鳴り止まない。
 これは何か。いや、何者か。
 音源を目指して走る。乾燥果実の貯蔵庫だ。不審の念は増す。
 そっと入り口を覗く。倒れた籠(かご)から転がったアタの乾燥果実が床に散乱している。その中に屈み込み、動いている背中。くちゃくちゃと果実を噛(か)む咀嚼(そしゃく)音。
 こいつは、食べている。こんな時に、こんな状況で。
 かっと頭に血が上った。警戒も不審も消え、膨れ上がった凶暴な思いのままに、その不愉快な背中に突進する。だが振り上げた手は届かない。思いの外(ほか)、相手の動きが速い。身を翻(ひるがえ)して避けられる。こちらを向く。やはり見知らぬ顔だ。
「何だよ、おまえ」
 意外だった。相手の声は震えている。体の前で構えている刃物のようなものも一緒に。
「ここの者か。生き残りか。言っておくがな。俺じゃないぞ。俺が殺したんじゃない。俺が来た時にはもうこんな状態だったんだ」
 変な抑揚(よく よう)だ。だが聞き取れないほどではない。
「ここで何をしている。おまえはどこから来た」
 質問すると、相手の眉間(みけん)に皺(しわ)が寄った。どうやら向こうも、こちらの言葉が聞き取りにくいらしい。
「腹が減っていた。森の中を彷徨(さまよ)って偶然ここに入り込んだ。でも」
 俺じゃない、俺じゃないと繰り返す声は次第に小さくなっていく。落ち着きのない瞳をこちらに向けたまま後ずさりをしていく様は、どう見ても怯(おび)えていた。
 怖いのは、わたしだ。
 急速に悲しみが突き上げてきた。体の奥から、抑え切れない大きな塊がせり上がってくる。現状を拒否しても何も変わらない。アタの場の中心に足を踏み入れた時から、心の底ではわかっていたことだった。昨夜まで確かに共に暮らしていた者たちがいない。日差しに蒸発する水溜りのように消えてしまった。
 今ここに、わたしに繋がる者は誰ひとりとして存在しない。
 眼の前の見知らぬ人物の輪郭が歪(ゆが)み、ぼやけた。

          ☆

 どうしたらいいのだろう。
 突然現れた少女はナギの眼の前で崩れるように膝を突き、泣き始めた。両眼からほろほろと零(こぼ)れ落ちた滴(しずく)はすぐに止め処(ど)ない流れとなり、くぐもった嗚咽(お えつ)は空気を裂くような叫びとなった。
慰めてやりたい、と強く思う。しかしいったいどんな言葉をかければいいのか。
 ナギがここに来た時、すべては終わっていた。この集落を蹂躙(じゆうりん)した襲撃者の姿は既になく、鼻を突く異臭が漂っているだけだった。物音もせず、火も完全に消えているようだと判断し、ナギはこの見知らぬ集落に足を踏み入れたのだ。空腹に耐えられず、襲撃者の掌から零れたかもしれない食料を漁るために。
 椀(わん)を伏せたような変な形の小屋が点在していた。そのあちこちに人が転がっていたが、既に物体と化しているのは明らかだった。何体かに近寄ってみたが、どれもこれも酷い有り様だったのだ。傷から流れる血は最早(もはや)固まって変色していたし、生きている者では有り得ない角度に首が曲がっていたりした。
 泣き声が止んだ。少女はふいと面(おもて)を上げ、漆黒の瞳でナギを見た。
「おまえは誰だ」
「俺の名前はナギ。山の麓(ふもと)に住んでいる。森の中で迷ってしまった」
 嘘は言っていない。隠していることはあるが。初対面の相手に余計なことを口にすることもないだろう。
「腹はまだ空いているか」
 ナギは耳を疑った。ほかに尋ねることは山ほどあるはずだ。
「あのさ。おまえ、俺に空腹かって聞いているのか。ええと、つまり食べ物が欲しいか、と」
「そうだ」
「あのな、もっと大事な質問があるんじゃないのか。ここを襲った者を見たか、とか、おまえがやったのか、とか」
 少女の片方の眉がぴくりと動いた。
「おまえがやったのか」
「冗談じゃない」
「ならばその話は後でいい。腹はまだ空いているか」
 やはり衝撃のあまり気が触れたのかとも思ったが、少女の落ち着いた態度からは狂気の影は感じられない。正直満腹感からは程遠い。こんな小さい乾燥果実を数個齧(かじ)っただけで腹が膨れるはずがない。無言で頷くと、少女は顎をしゃくってナギを誘った。
「手を貸してくれ。そうすれば食料を出す」
 返事も聞かずに少女はさっさと出て行く。先程まで号泣していたとは思えないほど、しっかりとした足取りだった。慌てて後を追い、横に並ぶ。
 綺麗な子だよな。
 率直にそう思う。だがその容貌を素直に称賛するには少々抵抗があった。少女には背筋がぞくりとするような違和感が纏わりついている。得体の知れない硬さの中で、より印象的なのはその眼だ。闇夜のような漆黒は清冽(せいれつ)な泉のように濁りがない。泉を満たしているのが清らかな水でもその底は窺(うかが)い知れないように、少女の眼は深く、強烈だった。
 顔立ちや身長からして、おそらく自分と同じくらいの年齢だろう。ほっそりした体格だが、颯爽(さっそう)とした動きから察するに体力はありそうだ。背中まである髪も漆黒で、飾りのついた紐でひとつに束ねている。足には甲全体を包む形の靴、下衣は足首まで届かない長さで細めの袴(はかま)、襟は合わせで丈は膝上の上衣を腰帯で留めている。つまり装いも自分とほとんど同じなのだが、生地はまるで違う。目が細かく滑らかで、とても肌触りがよさそうだ。とてつもなく上等な品ではないか。色も独特だ。一見ただの薄い黄色なのだが、まるで磨かれた輝石のような光沢がある。いったいどんな染料を使っているのか、見当もつかない。しかも襟元と上下の衣の裾(すそ)には、何を象(かたど)ったのかわからない、恐ろしく複雑な模様が色とりどりの糸で刺繍(ししゅう)されている。更に見事なのは腰帯だ。やけに幅広で、緻密に織られたであろうその中央には奇怪な模様があった。幾重もの同心円上のあちこちに、色彩も大きさも様々ないくつもの丸が描かれている。まったく見たことのない意匠だ。
 そこでナギははたと気がついた。口が語らなくても、腰帯が己の出自を主張していることに。用心しているつもりでいたが、やはり空腹が頭を鈍らせていたのだろう。
 迷ったが、このままでいることにした。今更慌てふためくのは却(かえ)って目立つ。それに腰帯の替えも持っていなければ、ほかに上衣を留められるような紐さえないのだ。しかもナギの事情など、この少女に今は何の意味もないだろう。
「俺は何を手伝えばいいんだ。それに、おまえの名は」
「弔(とむら)いだ。そしてわたしの名はシャサという」
 げんなりした。腹が引っ込んでいる状態で肉体労働はつらい。
「あのう、先に食べちゃ駄目かな」
「弔いは、すべてを日があるうちに済ませなければならないんだ」
 断固たる口調だ。最早抗(あらが)えず、ナギは黙ってシャサと名乗った少女の後に従った。
 シャサはひとりの死者の傍らに跪(ひざまず)き、乱れた姿勢、衣と髪を丁寧に整えた。それから頭(こうべ)を垂れ、何かをもごもごと呟く。多分葬送の言葉だろう。
「わたしが肩を持つ。おまえ、ええと、ナギは足を持ってくれ」
 墓地が近いといいなと願っていたら、拍子抜けした。乾燥果実の小屋のすぐそば、似たような形状だが大きさは倍くらいある小屋だった。高さはナギの身長の三倍はあるだろうか。
 中に入って驚いた。さっきは食べるのに夢中で気にも留めなかったが、小屋はナギが見知っているどんな建築物とも異なっていた。まず円形というのが珍しい。壁を形成しているのはナギの胴体回りほどある無数の丸太だ。出入り口以外、僅(わず)かな隙間もなく密着している。しかもその丸太壁は天井でもあった。天辺に向けて少しずつ撓(たわ)みながら内側に傾斜し、丸い屋根となっている。その中央に穿(うが)たれた小さな穴の周囲には、何故か青々とした葉っぱの群れが揺れていた。
「ここは新しい弔いの場だ。近々寿命を終えそうな者がいて、久しぶりに用意していたところだった。はっ、それがまさかこんなに都合のいいことになろうとは」
 何も言えなかった。ナギは指示のままに遺体を置き、シャサを真似て土を両手で掬(すく)ってその全身を覆った。額に血の滲(にじ)んだ年老いた女の顔が黒い土で隠されていく。
 後はその繰り返しだった。遺体を見つける度にシャサはその側に跪き、きっと死者を送る言葉であろう何かを唱え、墓地へ運んで土を掛ける。
 当たり前だが、シャサは相当つらそうだ。取り乱しはしないものの、懸命に漆黒の泉の決壊を抑えているのが傍目(はた め)にもわかる。顔色も悪ければ、足取りも重い。
「なあ、少し休もう。あんまり無理するなよ。遺体に接するのはきついもんだ。俺は慣れているからいいけれど」
「遺体に慣れるって、どういうことだ」
「俺は『暁(あかつき)』だ。〈始まりの祭〉は有名だろう」
「知らない。『暁』は山の北だな。おまえはそこから来たのか」
 シャサは惚(とぼ)けている風ではない。虚を衝かれるとはこのことだった。
 腰帯の文様は、その人の多くを語る。ナギの腰帯には『暁』の意匠を真ん中に、右側には父母それぞれの文様がある。左側には何もない。成人すればそこに自分の文様を、この先無事に生き延びられれば職業や妻子など、更に様々な文様を加えていくことになる。系(けい)によって文様の彩りや配置に若干の違いがあるものの、腹の中心を陣取っているのは系の意匠だと相場は決まっている。意匠を見れば系は一目瞭然、それはこの大地に住む人すべての常識のはずだ。しかも『暁』の、あの悪名高い〈始まりの祭〉を知らないとは。
「ナギ、わたしはほかの場に住む人に会ったことがないんだ。おまえは男だろ。そのヨウタイを見るのも初めてだ」
「よう、何だって」
「幼体。未だ人ではないもの」
 二の句が継げない。少年や子供という言葉はないのか。しかも虫でもあるまいし、幼体とは何という言い草か。ナギは今まで弔った人々の姿を思い返し、ぞっとした。
「なあ、ここには何人の人が住んでいたんだ。まさかおまえのほかは、皆爺さん、婆さんばっかりってわけじゃないよな」
「二十七人だ」
「たったそれだけで暮らしていたのか。いったいここはどこだ。どうやって食っていたんだ。巡礼も来ないのか、商人と取り引きはないのか。どこの系ともつき合いがないのか」
「昨夜まではな」
 静かな声に激烈な怒りが籠(こ)もっている。ナギは口を噤(つぐ)んだ。
 夕刻、すべての死者の弔いが終わった。総勢二十二名。数が合わない。だがそれをシャサに問い質すのは躊躇(ためら)われた。案内された泉で手足を洗い、その傍らで言われるままに休んでいると、シャサが皿と籠を手に戻ってきた。
「ほら、約束の食料だ。火が使えないので、こんなものしか用意できないが」
 シャサは申し訳なさそうだったが、ナギの眼には充分なご馳走(ちそう)に映った。様々な種類の干し魚や乾燥果実が山盛りである。冷たい茶の独特な香りも疲れた体に染みた。
 味のあるものを食べ、水以外のものを飲むと、やっと人心地がつけた。そうなると、頭の中で躍っていた疑問符が再び騒々しくなってくる。
 ここはいったいどこなのか。一昨日の晩に『暁』を出、無我夢中で山に登った。主要な山道を外れて森の中を彷徨ううち、定められた〈入らずの境界〉を越えてしまったのだろう。今まで入り込んだことのない奥まで来てしまったことは確実だ。だがいつも見上げていた山の頂(いただき)近くに、よもや人が住んでいるとは思わなかった。
 まさか伝説の〈始原の園〉じゃないだろうな。
 子供の頃よく聞かされた話だ。大地の真ん中に聳(そび)え立つ山の天辺に、この世界を創り上げた人々が永遠の時をまどろむ美しい土地がある。今の人より大きな人々が、すべてのものの素(もと)を手に、次に何を創ろうかと思案している。すべてのものの素とは何か。伝説は具体的に語っていないが、それは世界の創造という壮大な事業の後にもふんだんに残っているという。彼らの思考を妨げないよう、森の奥に足を踏み入れてはならない。
 周囲を見渡し、ナギは口元を歪めた。ここにはその伝説が語るものは何もない。虹色の光を放つ始原の塔、すべての種類の果実を一本の木に実らせる源の木、すべての種類の花が咲き乱れる源の原、金の鱗(うろこ)の魚が跳ねる泉、芳しい香りを漂わす川もない。ましてや巨人もいない。遺体は皆通常の人の大きさだったし、シャサもそうだ。
 はっきり言って、薄気味悪い場所である。ナギは赤く染まりつつある空を背景に黒々と浮かび上がる家に眼を遣った。先程、どうやってたくさんの丸太を隙間なく密着させているのか、天井付近の葉はわざわざつけているのかと尋ねてみたところ、仰天する答えが返ってきた。何とこれはこういう形態の植物だという。しかも生きたままの。
「アタを知らないのか」
 シャサは心底驚いたようだった。
「アタは古い植物であり、わたしたちの友だ。その幹は住まいであり、樹皮は繊維となり、葉は飲み物となり、花は染料となり、果実は食料となる」
 遠くを眺めれば、見慣れた森の樹木がある。それらは住み分けの約束でもあるかのように、アタとやらがぼこぼこ地面に生えている場所に入り込んでいない。ただ草の類(たぐい)や低木は例外らしく、ナギも見知っている様々な草木の姿が見られた。
 柔らかな草の絨毯(じゅうたん)の上に点在する大小たくさんのアタは、すべて根が繋がっているという。ナギが座る地面の下にもアタの根が張っているかと思うと、何となく居心地が悪い。今晩は仕方がないが、早々にこんな得体の知れない場所からおさらばしたいと思う。
 不意に周囲が明るくなった。シャサが何か奇妙な形の道具を操作している。卵の倍くらいの大きさ、滴の形をした透明の入れ物の中で青白い光が揺れている。炎ではない。よく見ると、不定形の塊が光を発しているようだった。ナギはごくりと唾を飲み込んだ。
「これは何だ」
 シャサは、ハッコウセキを点火しただけだが、と首を傾(かし)げる。
「だからそれは何だって」
「光を発する性質の石だ。その欠片を硝子(がらす)の火屋(ほ や)に入れてある。これをこうやると」
 シャサが火屋の一部をいじると、光度が増した。首筋がぞくりとしたのは、より強い光で青白く浮かび上がったシャサの顔のせいか、それとも未知の技術のためか。こんなに曇りがない硝子の火屋も発光石も、ナギの常識の中にはないものだ。
「いったいここはどこなんだ。おまえたちは何者だ」
「そう聞かれてもな。わたしたちは単にアタの場と言っていたし、わたしはシャサという名を持つ幼体だとしか言いようがない。逆に尋ねるが、おまえはいったい何者だ」
 ナギはぐっと言葉に詰まった。『暁』のナギとしか言いようがない。
「おまえは森で迷ったと言っていたな。ここを襲った者を見なかったか」
「見ていない」
「こんなことをしそうな者の心当たりは」
 一瞬ありそうな気もしたが、すぐに首を横に振った。いくら『暁』が〈始まりの祭〉の最中でも、ほかの系の人に危害を加えるはずはない。しかも女を殺すはずは。それに、だ。
 あのおかしな痕跡は何だろう。
 明らかに血で染められた地面と草。弔いの手伝いをしている間、そんなところをいくつも見た。遺体もないのに人が倒れたようなその跡は、犠牲者の数より非常に多かった。老人たちは力及ばずとも、襲撃者に傷を負わせる程度には報いたのかもしれない。
 だがその痕跡すべての周囲に入り乱れた足跡があり、不自然に湿っているのは何故か。あたかも血を水で洗い流そうとし、そして果たせなかったというような。綺麗好きな襲撃者とはお笑い種だし、老人たちの周囲にそんな形跡はなかった。どうも合点がいかない。
「昨夜、いったい何があったのだろう」
 シャサが呟くように言った。
「普段と変わらない夜だと思っていた。いつものようにわたしは自分の住まいから抜け出してここから、つまりアタの場の中心から遠く離れたモエラの住まいにいた。嫌な夢を見て眼が覚めた。大地が揺れていた。今までより大きいとは感じたが、最近は地震など珍しいものではない。
 だが、モエラの姿がなかった。外へ探しに行こうとしたら、モエラが突然現れて、わたしの前に立ち塞がった。自分が戻ってくるまで絶対にここにいろ、もし夜が明けても戻らなかったら、太陽が中天に来るまで待ち、それからくれぐれも用心してアタの場の中心へ様子を見に行け、と。今まで見たこともないほど怖い眼、厳しい口調だった。わたしは、従うしかなかった」
「モエラって人はおまえの親か。それとも恋人とか」
「いいや。モエラは足腰の弱い老いた女だ。普段はほとんど座ったままなのに、あの時はやけに素早く動いていて驚いた。それに、わたしに親はいない。自分を産んでくれたという意味では。わたしにとっては、人が皆親だった。モエラとは、特に性(しょう)が合った」
「そうか。気の毒だったな。でも親しかったおまえが手厚く弔いをしたんだ。きっと迷わず死者の世へ行ける」
「いや、ナギ。さっき弔った者の中に、モエラはいない。それから、セレン、セイシス、カテラも」
「皆、おまえの親か」
「セレンはそうだ。モエラたちよりかなり若いが。カテラとセイシスは友、いや姉妹だ。血の繋がりはなくとも」
 シャサは眼を細め、口元を綻(ほころ)ばせた。ナギの肩からすっと力が抜ける。出会って初めて見るその柔和な表情には、多少言動がおかしくてもシャサが怪物の仲間ではなく、人の側にいると安堵(あん ど)させるものがあった。
「皆はよく言っていた。わたしたちの性はばらばらだが、三人まとまるととてもしっくりくる絵になる、と。よき姉妹だ、と。カテラはわたしよりふたつ上で、涼し気な切れ長の眼をしているんだ。すごく手先が器用で、わたしができない刺繍も難なくやる。そのうえ賢くて頭の回転が速いから、口も回る。わたしやセイシスはよくやりこめられた。セイシスはわたしのひとつ年下だ。きらきらした丸い眼とふっくらした頬、ぷっくりした唇をしていて、よく笑い、よく泣く。甘い菓子が大好物で、セレンに料理を習い始めたけど全然上達しない。まあ、刺繍も料理も皆に溜め息をつかれるわたしが偉そうに言えることではないが。セレンはセイシスの実の親だ。でもセレンはセイシスとわたしたちを分けるような振る舞いをしたことはない。セイシスと接するように、わたしとカテラに向き合ってくれた。セレンに頭を撫でられると、その手の温かさが全身に伝わっていく。心も陽だまりみたいになる。叱られても嬉しかった。優しく諭してくれるから。昨日も」
 唐突に、シャサの弾んだ声は途切れた。当然だ。継続していたはずの時は断絶した。今日は、昨日とはまるで違うものに変貌してしまったのだから。ナギは静かに切り出した。
「こんなにのんびりしていていいのか。四人を探しに行かなくても」
「のんびりなどしていない。亡くなった者はその日のうちに弔わなければならない。それは残った者の務め。まずそれをしなければならなかった。それに、正直途方に暮れているんだ。四人ともアタの場にはいない。どこを探せばいいのかわからない。モエラとセレンはともかく、カテラとセイシスがアタの場を出るはずがない」
「でも、こんな突発的な事態が起きたんだ。足の悪い婆さんだって走ったんだろう。いくらこの場に留まっていたくても、止むに止まれず逃れていることはある」
 我が身を振り返って、ナギは力説した。
「それに森の中で息を潜めているか、怪我をして助けを求めているかもしれないぞ」
「それはない。アタの場とフチの森には誰もいない。いるとすれば命を落としている。もしそうなら一刻も早く弔いをしなければならないが、確かめるのは、怖い」
「何で死んでいるって決めつけるんだよ」
「シキがないじゃないか。あるのはアタやほかの植物のシキカイだけだ。そうだろう」
 同意を求められても困る。意味不明だ。
「シキカイって何だ」
 シャサの眼が丸くなり、口がぽかんと開いた。
「発光石が何かと聞かれるより驚いた」
 その率直な物言いが癪(しゃく)に障った。まるでこちらが何も知らない野蛮人のようだ。
「おまえな、ここの常識がすべての系に通じるものだと思うなよ。俺はシキカイもフチの森も聞いたことがないし、アタなんて不気味な植物は見たこともない。もっと言えば、山の上にこんな薄気味悪い、年寄りばかりのちっぽけな集落があることも知らなかったよ」
 威勢よくまくし立てた直後、ナギは自己嫌悪に陥った。集落の大半の仲間を一度に失った相手に、面と向かって放つ台詞ではない。気まずい思いで、シャサの様子を窺う。意外なことに、シャサは怒っても泣いてもいなかった。ただ衝撃を受けているようだった。
「モエラが語っていたことは真実か」
 半ば呆然とし、半ば納得しているような口調だった。
「ここはほかと噛み合っていない特異な場だ。そしてそれはもう保っていられなくなるだろう。いずれ出て行く時が来る、とモエラは言っていた」
「いったいここはどういう場所なんだ。すべてを自給自足で賄(まかな)ってきたのか。おまえたちの祖先はどこから来た」
「詳しいことは知らない。もちろん、モエラたちはたくさんの昔語りをしてくれた。しかしそれは、何と言うか、そう、あくまで伝説の類だ。わたしはもっと現実的、実際的なことを知りたかったし、ほかの場を訪れてもみたかった。カテラやセイシスはわたしを変わり者だと笑ったが。アタの場の人と認められる日、つまり十五歳の成年の儀式の後、アタの場の外へ行くことも許され、様々な知識を授けられるはずだった」
「それは同じだな。『暁』だけじゃなくて、『銀鱗(ぎんりん)』も『蛇(へび)』もそうだ。十五歳が大人の年齢で、祝いの儀式を行う」
「オトナ、とは。ここには、人と幼体しかいない」
「それ、俺たちの言葉では大人と子供。人はそれをひっくるめた言葉。成年の儀式の後、子供は大人と認められる」
 そうか、とシャサは破顔した。細められた瞳は星となって煌(きらめ)き、両端の上がった唇は紅の花となる。ナギはふいと眼を逸(そ)らした。
 今、心臓が飛び跳ねなかったか。
「ほかはどうだ」
 意味がわからない。『疾風(はやて)』か、と尋ねると、シャサは不思議そうに首を傾げた。
「暦は大地を巡る。わたしはそう教えられたが。新年と月の満ち欠けを合わせるための十三番目の月『山(やま)』以外に、この大地には一年の月の名と同じ十二の系があるのだろう。そしてそのすべてには人が住んでおり、それぞれ独特な花を咲かせている、と」
 今の暦と系の起源を、語り部たちはこう語る。〈始原の園〉に籠もる遙かな前、十二人の大きな人たちは散り散りに山を下り、それぞれ技巧を凝(こ)らした塔を造った。それから自然界の神々と手を携え、塔の周囲に人の住める場を形成した。その後大きな人たちはひとつひとつの塔を順番に訪れ、月の満ち欠けが一巡する期間滞在して祝宴を催した。〈始原の園〉に虹色の光を放つ塔を建てたのは、十二の塔を見守るためである、と。
 だがそれはあくまで伝説だ。現に『暁』に塔は存在しない。その跡地だという場所に神殿があるだけだ。
「今この大地で人が住んでいる系は三つだ。北に『暁』、東に『蛇』、西に『銀鱗』。南にあった『疾風』は俺が生まれた時にはなかったよ。二十年くらい前、内乱で滅んだそうだ。それから十三番目の調整月の名は、ただの『山』じゃなくて『聖なる山』。これは『暁』以外の系も同じ。暦を共有しないと、商売なんかが不便だろ」
 シャサは額に手をやり、落胆と戸惑いが入り混じった複雑な表情になった。
「本当にここを訪れる外部の人はいなかったのか」
「いない」
「ただのひとりもか」
「わたしの知っている限りでは」
 そんなことが有り得るだろうか。『暁』の〈入らずの境界〉は、これより上へ行くべからず、という掟(おきて)である。同様の決まりは『銀鱗』、『蛇』にもあるそうだ。その目的は伝説のいう、〈始原の園〉で沈思黙考している大きな人への敬意ではなく、もっと現実的な話だ。水源地の保全である。
 だが系の規律に縛られない巡礼はどうか。かなり強硬な巡礼団もあると聞いている。伝説の塔を探して山の上まで来ることもあるだろう。ここは険しい山奥の果てではない。容易ではないが、人の足で充分歩いて来られる距離だ。それなのに誰ひとり侵入した者がいないとは。ましてや、この集落は周囲に堅固な防壁を築いているわけではないのだ。それとも集落の際で、子供の眼に触れる前に皆追い払っていたのだろうか。
 苦い笑いが漏れた。そんなはずはない。二十数人の年寄りが、血眼(ちまなこ)になって伝説を追っている巡礼にどうやって対抗できよう。
 もしかしたら、どこかの巡礼団がここを襲ったのかもしれない。だが、何のために。
「いや、そうでもないか」
 シャサの声に、ナギは暗い物思いから浮かび上がった。
「訪問者とは違うかもしれないが、セレンはここの生まれではなかったはずだ。昔覚えたと言って、独特な節回しの歌を歌ってくれた。幼い頃、わたしはそれをとても気に入っていたんだ。何で忘れていたんだろう」
 シャサの口から、穏やかで心地よい旋律が流れ出す。歌詞の内容からして子守唄のようだ。妙に半端なところで、シャサは唐突に歌うのをやめた。
「何だよ。折角(せっかく)聞き惚れていたのに。綺麗な優しい歌だ。全部歌ってくれよ」
「そうしたいのは山々(やまやま)だが後は思い出せない。なあ、この歌に聞き覚えはないか」
「ない。少なくとも『暁』の歌でないことは確かだ」
『暁』の旋律はもっと荒々しい。子守唄でさえ勇ましい。炎に喩(たと)えられる『暁』の支配者、神と人との間に生まれたと噂される老いないイナーのように。
「ではセレンは『暁』から来たのではないか。ほかの三つ、いやふたつのどちらか」
「そのセレンという人は、いつからここにいたんだ。二十年くらい前だったら、『疾風』の可能性もあるぞ。系が滅んで住む場所をなくして、ここに来たのかもしれない」
「いや、そんなに前のことではない。十二、三年前か。セイシスを身籠もっていた時だと聞いている」
 不意に、シャサが何かを探すように首を巡らした。
 地面が揺れている。最近とみに地震が多い。その影響か、『暁』でもいくつかの井戸が涸れたと聞いている。山を冒涜(ぼう とく)した不心得者がいるに違いないと憤慨する者もいた。ナギが〈入らずの境界〉を越える前の話だから、ナギのせいではない。
 揺れはすぐ収まった。だが、ナギの緊張は解けない。どこか遠くから、人の声が聞こえる。ひとりやふたりではない。かなりの人数のざわめきだ。
 襲撃者が戻ったのか。
 ナギは腰の短刀を握り締めながら、そう言えばシキカイの意味をまだ聞いていなかったな、と妙に暢気(のんき)なことを考えていた。

          ☆

 これがすべて、人、か。
 シャサは眼を見張り、大きく息を吸い込んだ。樹木の合間にいくつもある焚き火、それを囲む人、人、人。老いた者、若い者、幼体、男、女。まるで人の見本のようだ。
 こんなに人がいるのに、どういうことだ。
 識界が形成されていない。粘り気があるのに妙に希薄、そんなちぐはぐな感じの個々の識が渦巻き、あちこちで散開している。アタの場の者の識と識界とはまるで違う。
 そしてナギとも。ナギの識はおおらかで柔軟、濁りがない。だからシャサは、アタの場があんなことになった直後に会ったにもかかわらず、ナギが襲撃者ではないと思えた。
 そのナギの言葉が、シャサにひしひしと迫ってくる。
 アタの場の常識はすべての系に通じるものではない。
 何事もなく時が過ぎていれば、太陽が復活する次の新年の日に晴れて人になるはずだった。正直に言えば、気分は既に人だった。それなのに何ということか。アタの場が崩れてみれば、自分には何の知識もない。
 わたしは、未だ幼体か。
 幼体。無からの授かりもの、まだ何者でもないもの。どのような枝ぶりを形成し、どのような花を開花させるかわからない種のその時期を、アタの場では幼体と言った。だがその言葉も、大勢の人が住む場には存在しないという。
「こいつらは、襲撃者じゃないと思う」
 ナギに耳元で囁かれ、物思いに耽っていたシャサは現実に引き戻された。
「ガキや年寄り、身重の女までいる。山を根城にしている盗賊の噂は聞くけど、それにしては変だ。家もないし、それっぽい男もいない。普通の人がただ寄り集まっているみたいだ。こんなことは前にもあったのか」
 シャサは、わからない、と首を振る。今ふたりがいる場所は、アタの場の中心から一番離れていたモエラの家より山を下っているのだ。こんな遠方に来るのも初めてなのに、縁(ふち)の森の普段の様子など知ろうはずもない。
「おまえの仲間があの中にいそうか」
「よく、わからない」
 頭が重い。四方八方で、季節を無視した様々な鳥や虫が一斉に鳴いている。そんな騒々しさが神経に障る。眩暈(めまい)もした。耐え切れず、シャサは地面に手を突き、背を丸めた。
 不意に肩が温かくなった。生きている者の手、ナギの手が肩にある。そこからじんわりと広がってくる。安心、慈しみ、そんなほっとするもの。
「ここにいろよ。気分が悪いんだろう。衝撃の連続だもんな。俺がちょっと様子を見てくる。いいな、俺が戻るまで絶対にここを動くなよ」
 咄嗟(とつ さ)に、シャサは腰を浮かせたナギの手を掴んだ。意表を衝かれたように動きを止めたナギに向かい、シャサは切に訴えた。行くな、と。
「でも奴らの正体を知らないと。それに、おまえの仲間の行方もわかるかもしれない」
「モエラは戻らなかった」
 ナギは困った顔をした。困らせているのだろう。だが、この手を離したくはない。
「おまえも戻らないかもしれない。わたしは、どうしていいかわからない」
 ナギは逡巡(しゅんじゅん)していたが、やがてシャサの手から自分の手をそっと抜き取った。
「跳躍しなければ熟した果実は食べられないって言うだろ。俺は絶対戻るから」
 笑顔を残し、ナギの後ろ姿が小さくなっていく。それにつれ、心が引き伸ばされるように細くなる。こんな気持ちは生まれて初めてだ。
 いつも、誰かがいた。
 モエラ。セレン。カテラ。セイシス。料理上手なリネイス。刺繍の名手ダダリ。アタの成形が得意なノイ。釣りの達人ネト。もうすぐ安らかに旅立つはずだったハファ。それから、それから。
 何故、誰もいないんだ。
 倒れ伏していた皆の姿が、シャサの胸を押し潰す。血の気の失せた白い顔。血に塗(まみ)れた肌。変な方向に曲がった手足。切り裂かれた体。誰ももう動かない。誰ももう話さない。遠くへ行ってしまった。シャサをひとり残して。
 ぐっと唇を噛み締める。泣いてはいけない。今涙を流したら、永久に止まらなくなってしまうような気がする。皆の消息を知るまでは、伝説のいう己の涙で溺(おぼ)れてしまった愚かな女にはなるまい。
 無理矢理背筋を伸ばし、前方を窺った。ナギの姿は見えない。一から百まで心の中で数を数える。ナギは戻らない。気を静めるために深呼吸をし、もう一度一から百まで、更にもう一度。それでもナギは現れない。
 大木の陰から這い出し、シャサはゆっくりと移動を始めた。ただじっとして待っているのは耐えられない。せめてもう少しあの人たちの様子が窺えるところへ行きたい。
「あら、あなた。あまり遠くへ行っては危ないわよ」
 突然、声が聞こえた。息が詰まる。心臓をぎゅっと掴まれたようだ。恐る恐る声の主へ首を巡らす。シャサの右側、少し離れたところに、女がひとり立っていた。見るからに汚れた服、干からびた眼、風に舞う灰のように軽い識。
「用を足すなら丁度いい場所があるわ。こんなに暗いと怖いでしょ。いらっしゃいよ」
 聞き慣れない発音、抑揚。ナギとも少し違うようだ。
「どうしたの。ああ、もう用は終わったのね。それなら早く火の近くへ行きましょ」
 驚いた。女はシャサを仲間と勘違いしているのだろうか。
 どう反応していいのかわからず黙って突っ立っていると、女は訝(いぶか)しげに首を傾げた。
 突然、女の瞳に異様な輝きが走った。思わず、シャサは後ずさりをする。
「大丈夫よ。あたしは怪しい者じゃないわ。さあ、いらっしゃい」
 女は前進してくる。あたしはあなたの味方よ、温かい食べ物があるわ。先とは違う、ふわふわと宙に浮かんでは溶けるような掴み所のない声が、シャサの足を絡め取る。女の手がシャサの手首を握り締めた。その冷たさに、ようやく体が動く。シャサはその氷のような手を振り切ろうとした。ところが女の力は想像以上に強かった。
「どうしたの。あたしは何もしない。カミビトに対して失礼なことはしないわ。シンデンへお連れするだけよ。ツチノシンカンがカミビトは何人いてもいいって」
 誰がカミビトか。カミビトとは神人か。シンデン、ツチノシンカン、違う場の言葉。
「噂では、既にひとりはお迎えしたのだけど」
 蕩(とろ)けかかっている脳に鋭利な刃が食い込む。意識が鮮明になり、シャサは叫んだ。
「今、何と言った」
 女はひっと短い悲鳴を上げた。しかし、その手はシャサの手首を掴んだままだ。
「おまえたちは誰だ。ひとり迎えたとはどういうことだ」
 一瞬怯(ひる)んだようだった女の表情が、生き生きと蘇った。鼻腔を膨らませ、黄色い歯を剥(む)き出してシャサに顔を寄せてくる。
「あなた、この山の上に住んでいたんでしょ。あなたの仲間がひとり一緒にいるの。会いたいでしょ。ね、あたしといらっしゃい」
 この女の言葉が本当なら誰かに会える。モエラたちの識が感じられないのは、この周辺に人がたくさんいるせいかもしれない。気持ちは風にそよぐ草花のように揺れた。この女について行きたい気もする。だが逃げ出したいとも思う。
 不意に、弔った人々の姿が脳裏を過(よ)ぎった。
 この女の元に誰かがいるとしても、それは遺体かもしれない。
 シャサは激しく身を捩(よじ)って女の手から逃れようとした。だが女の腕力は強い。背中から抱え込まれ、口を塞がれ、シャサは意に反して引き摺られていく。逃がさない、逃がさない。ぞっとするような呟きが、シャサの耳に届く。
「おい、どうした。何だ、そいつは」
 野太い男の声がした。続く女の叱責。しっ、黙って。捕まえたの。何だって。生き物が動いている。不愉快な臭いが近寄ってくる。頭上で行き交う、半分意味不明の会話。これで俺たちもサンノタミになれる。やっと運が向いてきたわ。皆に気づかれないよう、こっそり戻ろう。そうよこの幸運はあたしたちだけのもの。このこどもがカミビトか、ただのおんなのこにみえるが。でもへびのものじゃないわことばがおかしかったもの。このへんなもようはなんだみたことがないな。ほかのやつらにあやしまれないように。かくせ。かくさなきゃ。何かが転がる音。ばさばさと何かを振る音。このふくろをかぶせておけ。吐き気を催す臭いが鼻を突く。視界に影が躍る。
 い、や、だ。
 叫ぼうとした。だが息苦しくて声が出ない。力を振り絞り、口を塞いでいる何かに噛みつく。どこか遠くで悲鳴が聞こえたような気がした。ふっと体が軽くなる。腕を振り回し、絶叫し、足を動かす。あちこちから声が迫ってくる。まるで悪夢の中で溺れているように、すべての感覚が定かではない。あらゆるものが歪んで見える。足首に紐が巻かれ、その先に重石(おも し)がついているように自由が利かない。
 アタの場へ戻りたい。その一心で懸命に走る。走っているつもりだ。だがよくわからない。何かにぶつかり、跳ね返され、体が浮き、痛みを感じ、何故か頬に土が触った。差し出した手が動かない。前は真っ暗で行くべき道が見えない。カテラが笑う。外は恐ろしいところよ。セイシスが泣いている。外は怖いところだわ。恐ろしい、怖い、外。
「落ち着け。俺だ」
 突然、明瞭な声が聞こえた。知っている声だ。誰だろう。
 眼を凝らす。人がいる。何十人もの半透明の人だ。次の瞬間、それらはひとりの人の姿に集束した。
 ナギ。折角ひとりになったその姿が、再び分散していく。輪郭がぼやけていく。
「待った。倒れるな。しっかりしろ。走れ、とにかく走れ」
「おまえ、その顔」
「返り血だ。でも殺していないぞ。走れ」
 ナギはシャサの手を引き、猛烈な勢いで走る。竦(すく)んでいたシャサの足も、次第に滑らかに動くようになった。朦朧(もう ろう)としていた頭の霞(かすみ)も、肩を切る風が吹き払ってくれた。
 首を捻(ひね)って後方を窺う。聞き取れない怒号が行き交い、火を背景に黒々とした人の姿が右往左往している。その光景にはまったく現実感を覚えなかった。

          ☆

「どうして大人しく俺の帰りを待っていなかったんだよ。おかげでとんだ重労働だ」
 星明かりだけを頼りにようやく泉の辺りまで辿り着くと、ナギは開口一番怒鳴りつけた。地面にへたり込み、俯(うつむ)いているシャサの口から小さな声が漏れる。すまない、と。
「いくら待っても戻らないから、少し、ほんの少し動いた。そうしたら声を掛けられて」
 シャサの気持ちはわからないでもない。ナギは大きく深呼吸し、口から出たがっている更なる文句の数々を何とか抑え込んだ。
「ナギ、おまえが来てくれて、よかった」
 縋(すが)りつくような瞳で見上げられ、ナギはふいと横を向く。今度は怒りが急速に萎(な)えていく自分が腹立たしい。無言で頷き、血のついた短刀を腰帯に挟んである布で拭く。その所作をシャサが不安そうに見ているのに気づき、ナギは断言した。
「殺してはないからな」
 その必要はなかった。腰帯から『蛇』と知れた者たちは、まったく楽な相手だった。子供はともかく、大人の男も女もろくな戦闘能力がない。木の枝、最近手に入れたと言わんばかりの新品の槍、刃毀(こぼ)れした古い長剣。そんな代物をただ闇雲に振り回す。そればかりか真っ当な筋肉さえ持ち合わせていないようだった。足を払うと面白いように転んだし、走ればすぐに息が切れていた。格闘の訓練などしたこともないのだろう。ナギが愛用の短刀を振るったのは、汚いずた袋を持ってしつこくシャサを追い回していた髭面の男だけだ。そいつは腕を切りつけただけで、子供のような悲鳴を上げた。出血は多かったものの、命に係わる傷ではないというのに。その判断もできないのかもしれない。
 使い慣れた殺傷道具を眺めながら、皮肉だな、とナギは思う。
 あれほど嫌だった『暁』の風習が、役に立つなんて。
『暁』では男も女も幼児の頃から武術を叩き込まれる。ほかの系との戦に備えているわけでも単なる鍛錬でもない。女はともかく男にとって、己の戦闘能力を高めることは本当に生きるか死ぬかの問題なのだ。ナギにとっても他人事(ひとごと)ではない。次の新年で成人になれば、参加しなければならないのだから。
 七年に一度の〈始まりの祭〉、男同士の、男だけの殺し合いに。
『暁』は今、ほかの系の者が忌み嫌うその祭の真っ最中のはずだ。成人した男というのが参加条件だから、一番年若いのは十五歳。これが不利かというと必ずしもそうではない。得手不得手もある。運不運もある。剣の扱いだけでなく、駆け引きや作戦もものを言う。それに女の介入もある。どうしても守りたい男がいれば、その男の前で女が剣を構える。女を傷つけるのは重罪、悪くすれば死罪だから、相手も慎重にならざるを得ない。生き延びる確率が高くなる。また、どこかに隠れていたり、逃げ回ったりして、ひとりも倒せない男は軟弱者と蔑(さげす)まれ、臆病者の烙印(らく いん)はその一生に影を落とす。
 祭の開始と終了の時を決めるのは、神人(かみびと)イナー。『暁』の支配者だ。
 神と人との間に生まれたとされるイナーは、噂に聞く『蛇』の神人のように神殿に籠もっていない。『暁』のそこら中をひとり気ままに出歩いている。鼻歌を歌いながら散歩するイナーをナギは何度も見かけたし、言葉を交わしたこともある。その怒りは雷鳴の如く、その気性は雨季の空のように変わり易いと言われているが、普段は気さくな美しい女だ。
 そう、イナーは美しい。少し吊り上がった黒い眼。筋の通った鼻筋、薄く形のよい唇。艶やかな黒髪、均整の取れた体型、皺ひとつない肌。その容貌はナギが幼児の頃からまったく変わらない。いやナギの親、そのまた親が子供の頃、数えられないずっと昔から。
 イナーは年を取らない。
 その一点だけでも充分に人ではない。しかも、イナーは特殊な能力を持っている。天候の変化を察知し、地下に潜る水脈を見、植物の生長に合う土を示す。時に来る魚の大群の影を捉え、山中を走る獣の群れの動向を読む。故に『暁』の人々は飢えを知らない。イナーの力を恐れて、『蛇』が侵攻してくることもなく、また系の中の犯罪も少ない。
 だから、イナーは支配者であり続ける。
 そのイナーが催している祭を、どうして人々がやめるだろう。祭の当事者たる男たちからも、非難の声が上がることはない。何故なら七年に一度のその血みどろの戦いを生き抜けば、男たちの生活はある意味優雅な楽園と化すからだ。例外はあるが、基本的に系の生存を維持する役目、つまり狩猟も漁業も農業もすべて女の仕事なのである。何人の女と結婚しても構わないし、家族に生きる糧(かて)を運ぶ必要もない。
 男に課せられた唯一絶対的な仕事は、誕生した子供の養育だ。子供に知恵を授け、格闘の手ほどきをし、系の規律を教えるのは父の役目であり、それを怠る者は不道徳で野蛮な人として軽蔑される。そうなると次の祭では女の援助も得られない。そればかりか子供が男子の場合、ほかならぬ我が子から刃を向けられないとも限らない。子供の養育と己の鍛錬。極言すれば、それだけが『暁』に生まれた男たちの人生のすべてとも言える。
 次の祭に取っておけ。それは諍(いさか)いが起こった時の、大人の男たちの戒(いまし)めの言葉だ。祭ではない時に人を殺めれば死罪になりかねない。しかし、祭では何の躊躇(ちゅうちょ)もいらない。祭の時は覚えておけ。これは喧嘩(けんか)の捨て台詞。
 異常ではないのか。
 男には珍しく、ナギの父は自然界の神々を祀(まつ)る神殿の神官だ。その父にナギは以前尋ねたことがある。臆したわけではない。イナーを批判するわけでもない。ただ、こんなことは人として、命のあるものとして不自然ではないのか。森の獣たちは同族殺しをしない。それなのに何故、知恵ある人が血に塗れた惨劇をしなければならないのか。
 父は寂しそうに笑い、昔いろいろあったのだよ、と言葉を濁すだけだった。
 父。ナギの胸に言いようのない恐怖が突き上げてきた。
 床に伏した父。父を見下ろす母。母の背がやけに高い。いや違う。浮いているのだ。獣のようにぎらぎら光る母の眼が、ナギを認めた。鮮血を塗ったような赤い唇が、ナギを呼んだ。母が、母のように見える何かが、宙を滑って接近してくる。手を伸ばしてくる。捕まる、と思った瞬間、ナギの体は動いた。走って家を出、『暁』を出た。
 あれは本当の出来事だったのだろうか。夢だったのではないか。だが夢にしては、あまりにも記憶は生々しい。
 肩を叩かれ、ナギははっと我に返った。シャサが遠方を指差している。点在するアタの家の向こう、山頂に近い方だ。そこに青白い光がいくつも揺れていた。松明(たいまつ)の炎ではない奇妙な光が、蠢(うごめ)く白いものを闇から多数浮き出させている。全身に緊張が駆け巡った。
「巡礼だ。どの巡礼団かわからないけど、さっきみたいな烏合(うごう)の衆じゃない。行こう」
 次の瞬間、激しい水音が静寂の夜に響き渡った。何という失態。ナギは自分の頭を殴りたくなった。立ち上がって方向転換した時、泉に片足を突っ込んでしまったのだ。
 白い集団の注意が一斉にこちらへ向いた。頭巾に長衣。遠目にもわかるその風体は間違いなく巡礼だ。夜に対抗するかのような白い衣が、ナギたちに向かってくる。
 ナギはシャサの手を引き、彼らに背を向けて走り出そうとした。
「ナギ、あちらには行きたくない」
 そうだった。この方向で山を下れば、『蛇』の集団の懐へ飛び込むことになる。
「それに、逃げなければならないのか。巡礼は、悪い者ではないと聞いた覚えが」
 確かにシャサにとってはそうかもしれない。だがナギは個人的に巡礼が嫌いだった。宙に浮く母、母のように見えた何かは、あの時白い頭巾と長い衣を着ていた。
 ナギはシャサの手を強引に引っ張った。だがシャサの動きは鈍い。
「何だよ、不満なら置いていくぞ」
 シャサは弱々しく首を振った。頭がぐらりと傾ぎ、握っていた手から力が抜けた。ナギは慌てて手を伸ばす。かろうじて支えた体はぐったりとナギに倒れかかり、膝が折れた。額に触れてみる。酷く熱かった。シャサの背に腕を回し、抱えるようにして走る。これではとても速度が上がらない。それにいったいどこへ行けばいいのか。
 アタの家から家へ隠れるように移動する。気は焦るが、考えがまったく纏まらない。活路を求めて彷徨う眼が、森の樹木の合間に揺れ動く複数の松明を捉えた。
 最悪だった。ナギは、少なくとも夜が明けるまで『蛇』の連中は次の行動を起こさないと踏んでいた。何せナギは滅茶苦茶に暴れ回ったのだから。彼らは小さな焚き火に手を翳(かざ)しながら口々に言っていた。神人はまだ山にいるそうだ、神人を連れ帰れば三の民になれる、安心して暮らせる、と。何故か彼らはシャサたちを神人と思っているらしい。それに落穂拾いをしているのなら、昨夜アタの場を襲撃したのも『蛇』だった可能性は高い。
 ナギはぞっと身を震わせた。恐慌に陥った彼らがナギの腰帯など見ているだろうか。彼らはナギのことを同じ境遇の『蛇』だと勘違いしているかもしれない。それで闇の森を厭(いと)うことなく進み、我先に掻(か)っ攫(さら)われた獲物を奪い返そうとしているに違いない。
 正直、泣きたくなった。背負った荷物は岩のように重く、投げ出してしまいたい衝動に駆られる。それを留まらせているのは、抱えているシャサの、荒い呼吸に動いている背中から伝わる体温かもしれない。
 アタの場に白い衣のひとつが入り込んできた。続いて、ふたつみっつ。感嘆の声が聞こえてくる。どうやらアタに関心を持っているらしい。伝説の、聖なる地、そんな言葉がナギの耳に届く。青白い光は彼らの持つ奇妙な照明器具だった。シャサのものと似ている。
 ナギは気持ちを奮い立たせ、下腹に力を込めた。意を決し、『暁』の方角へ向かう。とりあえず、地理が少しでもわかる場所を目指した方がいい。巡礼の注意が逸れている今なら何とか発見されずに済むかもしれない。
 だが思惑通りにはいかない。シャサはついに膝を突き、座り込んでしまった。
 ナギはシャサを持ち上げようとした。だがシャサは同じくらいの身長がある。ナギの手には余った。とても無理だ。額に脂汗が滲む。
「おい、おまえ」
 突然背後から声をかけられ、ナギはぎょっとして振り返った。
 破壊されたアタの影に、人がひとり蹲(うずくま)っている。暗くて顔はよく見えないが、声からして男だ。
「ここから離れたいんだろう。来いよ。俺も巡礼は嫌いなんだ」
 どう見ても巡礼の格好をしている男がしれっと言った。
「この装いは便宜上だ。さあ早く。飢えた『蛇』と白衣の愚者から逃れたいのだろう」
 白衣の愚者とは、巡礼を揶揄(やゆ)する言葉だ。
「ああ、その子。動けないのか。どれ」
 ナギが何か言う間もなかった。男は素早く正体を失ったシャサを抱き上げ、来い、とナギを促す。
 背中を向けた男がきっと振り返った。
「それはやめてくれ。俺は味方だ」
 頭巾の下から覗く鋭い眼が、ナギの手元を見つめている。すぐにも攻撃を仕掛けられるよう、緊張している右手を。
「幼いとはいえ、『暁』の者の腕を侮(あなど)る気はない」
 どう反応したらいいのか迷っているナギの背中を押したのは、巡礼たちの声だった。誰かいる、お待ちを、わたしたちは危害を加える者ではありません。
 男が走り出す。一斉に迫ってくる足音に追われるように、ナギも闇の中に駆け出した。

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