スターダスト

【第3シーズン7/18刊行開始記念】《ローダンNEO》おさらいその1:第1巻『スターダスト』の前半分第9章までを連続掲載(第6章)

6


「ジョン! 来て! 殺しあいになっちゃう!」
 スーはノックもなしに、ジョン・マーシャルの部屋のドアを勢いよく開けた。ペイン・シェルターの規則違反であり、規則を絶対視するスーにしては珍しいことだった。
 ジョンは座ったまま振り向いた。椅子がギシリときしむ。
「誰と誰が殺しあいを?」
「デイモンとタイラーよ!」
 スーは叫んだ。ハアハアと息を切らしている。この少女はすばっしっこいものの、体が弱かった。ほんの少しの疲れでも息があがってしまうのだ。
「何が原因だね?」
「わからない! 二人とも何もしゃべらないの。とにかく、はやく来て!」
 そう言ってスーは部屋を走り出た。
 ジョンは後ろ髪を引かれる思いで立ち上がる。ディスプレイの前から離れるのは気が重かった。その夜、ネバダ宇宙基地から戻ってきた彼は、そのまま休みなくネットに向かい、シドの行方につながる手がかりを必死に探していた。だが成果はかんばしくなく、シドの〈ポッド〉もオフラインのままだ。
 シド。マーシャルが意識を取り戻したときには、少年は忽然と姿を消していた。あの後、マーシャルはネバダ宇宙基地の病院で目を覚ましたのだ。骨のように青白い岩々と巨大な鋼の球体のビジョンにうなされながら。
 あの謎めいたビジョンは彼の心を乱した。心の目で見たあの光景は、何かとても重要なものだ。とてつもなく重要なものだ。マーシャルは直感的にそう感じていた。どう重要なのか、それはわからないが──。
 だが今は、あのビジョンのことは後回しだ。もっと差し迫った問題がある。シドの身に、いったい何が起きたのだろうか?
 マーシャルは自分のなかで期限を決めていた。真夜中までだ。それを過ぎたら警察に届けよう。だが、それはシドに対する裏切りのようにも感じられた。この施設の子供たちのほとんどがそうであるように、シドは警察を恐れているのだ。
「ジョン! 何してるの、はやく!」
 スーが再びドアの前に顔を出した。マーシャルは自分にむち打ち、ぎしぎしときしむ幅広の階段を駆け降りた。前を走るスーは軽やかな足どりで、どんどん彼を引き離していく。
 スーの案内がなくとも、一階の食堂から聞こえる騒ぎが、向かう先を教えてくれた。
 食堂内ではテーブルと椅子が隅に寄せられ、中央にスペースが作られていた。鈴なりになった子供たちが、そのまわりで輪をつくっている。
(全員いるな)
 マーシャルは慣れた目線で確認する。部屋、工房、キッチン、裏庭、あらゆる場所から子供たちが集まってきていた。
「ここで何をしている!」
 マーシャルは声をはりあげた。彼はふだん声を荒らげることはなく、ましてや怒鳴るなど論外だった。それはひとえに、こうした非常事態に備えて大声をひかえておくためだ。
 子供たちの輪の一部が解け、マーシャルとスーのために道が開いた。スーはマーシャルの斜め一歩後ろに付き従っている。自分の体は脆弱すぎて危険を冒すことができないと、少女はよく理解していた。彼女は袖を通していない欠損した片腕を、Tシャツの下でぎゅっと体を押しつける。まるで、それが言葉にできないほど大切で壊れやすい宝物であるかのように。
 輪の中心には二人の黒人の少年がいた。どちらも筋骨たくましく、一般に長身とされるマーシャルよりもさらに頭ひとつ分背が高い。
 二人は開いた脚をバネのように弾ませながら、円を描くようにじりじりと動いていた。
 いつでも相手に飛びかかれる姿勢で、互いに攻撃のチャンスをうかがって。その手にナイフを握って。彼らは、まるで鏡像のようだった。
 デイモンとタイラーは双子だった。ようやく一五歳になったばかりの、大人の体をもった子供なのだ。双子はマーシャルに目も向けなかった。完全に互いへと意識を集中している。そして自分たちがマーシャルより強いことも知っていた。二人の殺し合いを止めることは、たしかに彼には不可能だろう。
 スーはもうだいぶ前から、デイモンとタイラーを施設から追い出してほしいと、くり返しマーシャルに頼んでいた。彼女もまた一五歳だが、その体つきは幼児のようだった。だだし、スーは路上生活のせいで年よりもずっと大人びていた。そして、規則に従わずしょっちゅう人に殴りかかる双子たちを恐れていたのである。
 双子はこの施設の不安の種だった。時限爆弾みたいなものよ、とスーは警告していた。
 デイモンとタイラーは、どこかに何かを隠し持っている。もしかしたらドラッグかもしれない、そうスーは訴えていた。しかし、マーシャルは双子を施設に置き続けていた。外に放り出したなら、二人は半年も生きられないだろう。シュガーランド地区のギャングは、彼らのような少年を手ぐすね引いて待っている。まさに理想的な新人だからだ。二週間もすれば二人は立派な麻薬の売人となり、三カ月後には殺し屋になっているだろう。あとはもう、別の殺し屋に消されるのは時間の問題だ。
 自分のせいで二人が死ぬなどマーシャルには耐えられなかった。この双子にも美点は必ずある。それは人知れず深く埋もれているのかもしれないが、きっと存在するはずだと、彼は信じていたのである。それを掘り出すチャンスがあればの話だが。
「何をしているのかと聞いているんだ!」
 マーシャルがくり返したものの、返事はなかった。スーが彼のシャツをそっと引いた。マーシャルは少女の視線の先を追って、タイラーの首もとを見る。そこには何もない。いつものお守りが見当たらなかった。
「お守りはどこにやったんだ、タイラー?」
 マーシャルが尋ねると、少年はやっと反応した。
「奴が盗みやがったんだ!」
 タイラーは怒りに燃える目で、ナイフの刃先を兄弟につきつけた。
 そのお守りは、タイラーにとって世界で一番大切な宝物だった。幼いイエスを背負って川を渡る聖クリストフォロスをかたどったものだが、安っぽいプラスチック製のがらくたで、塗料もはげ落ちていた。この施設に拾われるずっと前に、タイラーが路上のゴミ箱で見つけたものだ。聖人が常にそばにいて、自分を導き守護してくれる、少年はそう信じていたのである。
 聖人も神も信じないマーシャルにとっては馬鹿げた考えだが、広く一般的な信仰だろう。
 子供たちは誰もが、信じすがる何かをもっている。お守り、指輪、うさぎの前足の魔除け、古びた硬貨。シドにとっての宇宙飛行のような、何かに対するこだわりもそうだ。
「でたらめ言うんじゃねえ! あんなクソ聖人、盗るわけねえだろ!」
「どこにもないんだ! おまえが盗ったに決まってる!」
「なぜデイモンが盗んだと思うんだ、タイラー?」
 マーシャルはすかさず尋ねた。双子はようやく沈黙を破ったのだ。今はとにかく、できるだけ話し続けさせることだ。
「どこかに置き忘れた可能性はないのか?」
「あるわけねえだろ! 肌身離さずつけてたのに!」
「そんな大切なものがなくなって、心配なのはわかる」マーシャルは続けた。「だからといってなぜ、よりにもよって自分の兄弟が犯人だと考えるんだ?」
「あいつは俺のお守りがうらやましかったんだ! ずっと前から!」
「そんなわけねえだろ!」
 デイモンが叫んだ。目を閉じて話だけを聞いたら、まるでトレーディングカードをめぐってけんかする二人の小学生だった。しかし、ことはそう呑気な事態ではない。
 マーシャルは意識を集中させ、心の内側に耳をすました。彼は感じる。人生で一度たりとも愛されたことのない少年たちの心の傷を。常に爆発し、他人を傷つけてしまう抑えがたい怒りを。
 あまりに激しい怒りの感情に、マーシャルはこみ上げる涙をぐっとこらえた。もはや間違いようがなかった。一刻もはやく手を打たなければ、本当に死者が出てしまう。
「さっさと出せよ、デイモン!」
「だから、知らねえって言ってるだろ!」
「嘘つくんじゃねえ!」
 タイラーがさっと前に動き、右手を突き出した。デイモンは避けきれず、ナイフの刃が彼の上腕を切り裂く。
 その瞬間、まるで自分自身が刃を受けたかのような痛みがマーシャルを襲った。うめき声をあげ、焼けるように痛む上腕を右手で押さえる。傷を探るが、そんなものがあるはずもなかった。
 マーシャルのなかで怒りがわきあがる。それは、お守りを失ったタイラーの怒り、一方的に自分を責めたて傷つけた兄弟に対するデイモンの怒り、そしてマーシャル自身の怒りだった。ただ子供たちのためを思っているのに、その子供たちに、そして自らの理念に絶望を感じている彼自身の怒りだった。
 マーシャルの意識が消えていき、子供たちの騒ぐ声が背景音のように遠のいていった。まるで施設の南側を走る高速道路から、かすかに届く車の音のように。スーの心配そうな叫び声が、どこかずっと遠くでこだました。突然、周囲の世界がぐるぐると回りだす。どんどん、どんどん速くなり……
……そして、唐突に止まった。マーシャルは今までとは違う場所に立っていた。広い室内に並ぶ工作台と潤滑油のにおい。そこは施設内の工房だった。
 マーシャルはタイラーになっていた。
 彼は今、作業に没頭していた。もう何時間も、持ち主のない壊れた自転車の修理に夢中で取り組んでいる。週に一度、市のゴミ収集車がこうした自転車を施設に運びこむのだ。
 タイラーになった彼は自転車のリムの上に身をかがめる。蹴りつけられたのか、リムはひどく曲がっていた。アルミニウムの部品に刻まれた痛みを、タイラーになった彼は感じとる。彼は慎重に車輪を外そうとしたが、どこかが引っかかって外れない。少年は前かがみになり、車軸を両手で引っぱった。やはりだめだ。もう一度、さらに強く引っぱる。
 彼は気づかなかった。お守りを首から下げていた革ひもが、自転車の固定用ホックに絡まっていることに。車輪を外そうとぐっと体を引いたその瞬間に、革ひもがぷつりと切れたことに。そして彼のお守りが、すぐ横に積み上げられた錆びたジャンクパーツの間に転がり落ちていったことに……。
 マーシャルは、はっと目を開く。そこは元いた食堂だった。
「タイラー!」
 その声にこめられた何かが、少年の気を引いた。
「タイラー、少しだけ待て! いいな?」
 少年からの返事はない。だが彼は、血を流す兄弟にとどめを刺すことなく動きを止める。
 マーシャルはスーに向き直ると、膝をつき、目線をあわせてささやいた。
「工房にいくんだ。タイラーの作業机の横に積まれたジャンクパーツ、その下にお守りがある」
「どうして……なんで、そんなことがわかるの?」
「わかるものはわかるんだ。さあ、はやく!」
 スーは走り去った。長い数分が過ぎていき、子供たちはじっと押し黙っている。ある者はマーシャルと双子をあからさまに見つめ、またある者はどちらを見ればいいのかと、おろおろ視線をさまよわせていた。
 デイモンとタイラーは互いににらみあい、相手の様子をうかがっていた。デイモンは怪我など意に介さないかのように装っている。傷口からしたたる大粒の血のしずくが床に弾け、無数の血の玉となって飛び散った。いっぽうのタイラーは、マーシャルが何をしようがどうでもいいという態度を装っている。
 マーシャルはといえば、あたかも自分の行いに自信があるかのように装っていた。しかし、実のところ心の中では、自分は絶望のあまり理性を失い、ありもしない幻覚を見たのではないかと思えてならなかったのである。
 スーがようやく戻ってきた。
「あった! あったわ!」
 廊下から声が響く。食堂から工房まで行って戻るには、建物内をほぼ横断しなければならない。スーは息を切らしながら食堂に飛びこんできた。健全なほうの腕を高く掲げており、その手にはタイラーのお守りが握られている。
「あったわ、タイラー! あなたのお守りよ! 工房で見つけたの。きっと気づかないうちに落としたんだわ!」
 スーは背丈も体重も自分の二倍はある少年に駆け寄り、お守りを差し出した。恐がりな彼女らしく、健全なほうの細い腕をめいっぱいに伸ばしている。
 タイラーはスーの手のひらから、そっとお守りを取り上げた。途方もなく大切な宝物を扱うような手つきだった。それから、ふと施設の全員の視線が集まるなかで、心の内をさらしてしまったことに気づいたようだ。彼はお守りをズボンのポケットにさっと突っこむと、無造作にナイフの刃先をしまった。そして口のなかで何かつぶやき、彼のために開いた人の輪の切れ目を抜けて立ち去っていった。
 デイモンのほうもナイフの刃先をしまい、兄弟とは反対の方向に去っていく。
「一件落着ね!」
 スーが嬉しそうに飛びはねながらマーシャルに駆け寄った。
「でも、なんで工房にあるって──」
「だいぶ時間がかかったようだが」
 マーシャルは少女の言葉をさえぎって尋ねる。
「私の言った場所にお守りはなかったかい?」
「ううん、ちゃんとあったわ。でも……」
 そこでスーは何かを思い出したように、ぎょっと目を見開いた。
「そうだ、途中でお客様がきて……それで玄関に行ったの。誰も呼び鈴に気づかなかったから」
「そうか。まあ、さっきはお客どころじゃなかったからな」
「そうそう!」
 スーは強くうなずくが、すぐに首を振った。
「違う、大変なの!」
「どうした?」
「スーツを着た男のお客様なんだけど、変な身分証を見せて……ジョンに話があるって」

「ジョン・マーシャルさんですね?」
 玄関の前にいたのは、すらりとした若い男だ。まだ三〇手前のようだが、流行遅れのスーツがまるで似合っていなかった。
 マーシャルは、一年に数回ほど何かの間違いで保護施設に迷い着くセールスマンを思い出した。こんな場所にも商売のチャンスあり、と誤解して訪れる者がたまにいるのだ。しかし、その手のセールスマンにしては、この男は堂々としすぎている。
「ええ。私がマーシャルですが」
「結構」
 男はうなずいた。マーシャルは男の肩越しに通りへと目をやった。廃墟と化した住宅の三軒先に、グレーのシボレーの電気自動車が停まっている。この男のものに違いない。路上に車を停めようなどという勇気ある──あるいは無謀な──人間は、最近ではほとんど見なくなった。シュガーランドのギャングたちのよいカモになるからだ。
 男はスーツのポケットから身分証を出して、マーシャルの目の高さに掲げた。国土安全保障省とある。
「エージェントのモレノです。少しおじゃましても?」
「ええ、もちろん」
 マーシャルは、男を通さざるを得なかった。
「こちらにお住まいで?」
 玄関ロビーで足を止め、天井のしっくい装飾を仰ぎ見ながらエージェントが尋ねた。
「そうです」
「いいものですね、昔ながらの広い屋敷というのは。しかし、いかんせん冬は暖房費がかさむ。それに、しょっちゅう修理も必要だ。さぞかしお金がかかるでしょうね」
「まあ、そうかもしれません」
 このエージェントは、いったい何がしたいのだ? マーシャルは、役人の訪問には慣れていた。この保護施設には市の職員や青少年局の担当者、それに警察官が毎週のようにやってくる。路上で拾われた子供が三一人もいれば、規制やごたごたがつきものなのだ。
 そういった来訪者はたいてい、少し感じのよい言葉をかけたり──いざとなれば、マーシャルはいつもうまくやれていた──最悪の場合でも賄賂を渡して追い払うことができた。
 とはいえ国土安全保障省となると、これまでの相手とはレベルが違う。
「さあ、行きましょうか」
 エージェントが促す。マーシャルではなく、自分が家主であるかのような態度だ。エージェントは廊下に続くドアを開けた。
 ドアのきしむ音にまぎれて、たくさんの靴底が床にこすれる音が響く。子供たちだ。彼らは好奇心旺盛で、それでいて臆病である。ここの子供たちは全員が、何かしらのお役所のやっかいになっている。だから、隠れておくに越したことはないのだが、それでも彼らは何が起きているのか知りたくてたまらないのだ。
 マーシャルも同じだった。国土安全保障省が、この施設にいったい何の用があるのか?
 答えはひとつだった。シドだ。この訪問は、彼に関わることに違いない。
 エージェントは、自分の一挙一動をじっと見守る無数の視線にはまるで気づかぬ態度で、空っぽになった廊下をぐるりと見回した。
「この施設にはストリートチルドレンを?」
「ええ」
 マーシャルは答えてから、彼本来の好みからすれば多少早急ぎみにつけ加えた。
「三一人います。グレーター・ヒューストン市内には、彼らを受け入れる場所がほかにないものですから」
「悪ガキが三一人……さぞ骨が折れるでしょう。一人でもそうとう手を焼くというのに」
「まあ、ときには。でも、みんないい子たちですよ。こちらがやさしく接すれば、彼らのほうも周囲とやさしく関われるようになる」
 エージェントは関心を示す様子もなく、無言で階段をのぼっていった。その無礼な態度にマーシャルはむっとした。この施設は彼の家なのだ。思わず男を呼び止めて問いつめようとしたが、ぐっとこらえた。国土安全保障省には自分にははかりしれないほどの権力があるのだ。それに、シドのこともある。下手なことはできなかった。
 エージェントは部屋から部屋へと歩みながら、鼻をゆがめた。
「換気をすべきですな」
 部屋はどこも狭い。四、五台、ときには六台ものベッドがところ狭しと並び、立つ場所もないほどである。
「もっと部屋数があればいいんですが」マーシャルは言う。「基金の運用で得た資金だけが頼りなものですから。寄付金も少ないし、必需品を買うのが精一杯です」
 エージェントは無言のまま家じゅうを歩きまわり、鼻をしかめ、さっと物陰に隠れる子供たちを完全に無視して上階へ上階へと進んでいった。
 ついに彼らは、屋根裏にあるシドの部屋の前にやってきた。ドアにはおぼつかない綴りのへたくそな字で「うちゅう人いがい、入しつ禁止」と書かれた手作りのポスターが貼られている。エージェントはドアをノックしたが、返事はなかった。
「おや? いないようですな」
 彼はドアを開け、入り口に立った。
 シドの部屋は一人部屋だった。ぜいたくな、しかしやむを得ない措置である。シドはほかの子供たちと同じ空間で眠ることに耐えられなかったのだ。それに、ほかの子供たちもシドとの同室は耐えられないだろうとマーシャルは踏んでいた。
 部屋の壁には、ポスターや紙切れが幾重にも貼られている。宇宙船、星雲の写真、シドがどこかのゴミ箱から拾ってきた古いSF雑誌の表紙を破りとったもの、ネットからのプリントアウト。NASAの記者発表の記事もあった。見えすいたプロパガンダだが、シドはすっかり信じこんでいた。宇宙は現在信じられているような、空っぽで荒涼とした場所ではないと伝える科学系ウェブサイトの記事もあった。火星にバクテリアが存在する間接的証拠が発見された、地球に似た太陽系外惑星が何光年もかなたに存在する、そういった内容のものである。
 プリントや模型や宇宙船のおもちゃが散乱し、床は足の踏み場もなかった。エージェントは無言のままその場に立ち、ゆっくりと室内を見回した。そして転がってきた宇宙船の模型を靴のつま先でわきに押しやる。それは球形の宇宙船だった。これが理想的な形状なんだと、シドは風船に紙を貼りつけて丸い宇宙船を工作しながら、そう力説していた。
 マーシャルは、あのビジョンに現れた球体を思い出していた。もしかしたら、原因はこれなのか? あのとき、発射場の観衆の熱狂に耐えきれなくなった自分の潜在意識が、この球形の宇宙船のイメージをつくり出し、彼の意識をどこか遠くに飛ばしたというのか?
 心臓がどくどくと脈打っていた。
 そろそろエージェントから何か話があってもいいはずだ。こちらに何の説明もなく、さんざん好き勝手に歩きまわったのだから。ネバダ宇宙基地で、シドはいったい何をしでかしたのだ? あるいは、彼の身に何かあったのだろうか?
 だが、説明はなかった。エージェントはくるりと振り返って部屋を出ていった。
「あなたの部屋はどちらに?」
 マーシャルは先に立って、ちょうど反対側に位置する自室に彼を案内した。そこは屋根の斜面の下に設けられた、この家で一番狭い小部屋だった。大人の背丈では頭がつかえるほどである。エージェントは先に入るよう促し、自分はマーシャルに続いて部屋に入ると、後ろ手にドアを閉めた。
 マーシャルはにわかに、逃げ出したい気分になった。エージェントはぴったりと彼の後ろに立っている。触れるほどに近く、男性用の消臭スプレーのにおいが鼻をつく。あまりに強いその香りは、病院の消毒剤を思わせた。
「これで、施設内はじゅうぶん見せていただきました」エージェントが言った。
「最後にひとつ質問させていただきたい。なぜ、あなたのような有能な人物が、こんな臭くて汚らしいガキどものために、人生を浪費するのです?」
「なっ……なんだって?」
 驚きのあまり、マーシャルは言いよどんだ。
「あなたのことは調べさせてもらいましたよ、マーシャルさん。国土安全保障省はあなたに関して幅広い身上情報を把握している。数年前まで、あなたはウォールストリートでももっとも成功した投資銀行家の一人だった。いわゆる天才というやつですな。まだ三〇にもならない若さで、将来は安泰。本当なら今頃、とっくに自分の会社やファンドを立ち上げるか、南国の太陽の下で残りの人生を満喫していたはずでしょう」
 マーシャルは言い返そうと必死で言葉を探した。そして目の前の男の傲慢さに、その視野の狭さに、こみあげる怒りを必死に抑えようとした。
 先に口を開いたのはエージェントのほうだった。「まあ、やめておきましょう」と手を振ってみせる。
「答えはわかりました。それがあなたの生き方なんでしょう。私は人間のあらゆる愚行を見てきたつもりでしたが、どうもそうではなかったようだ」
 彼は頭を振ると部屋のドアを開けた。
「行きましょうか。あなたに見せたいものがある」
 施設の玄関を出たところで、エージェントは路上に停まっていた車に合図した。音もなく近づいてきたシボレーが玄関先で停車する。窓がスモークガラスのため、車内をうかがい見ることはできなかった。
 運転席の男がサイドウィンドウをすっと下げた。その男はモレノと名乗ったエージェントと双子のようによく似ている。
「彼は危険な人物ではない」モレノは運転席の男に声をかけた。
「出してやれ」
 カチリと音がした。モレノは車の後部座席のドアを開け、なかに乗っていた人物を路上へと引き出す。
 それは、シド・ゴンザレスだった。少年はふるえていた。うつむき、肩を落としている。恥ずかしさのあまり地面に沈みこんでしまいたい、そんな様子だった。
「この子をどこで?」マーシャルは問うた。
「ネバダ宇宙基地の、立入禁止区域です。発射台の真下のね。生きたまま丸焦げにならずにすんだことを、神に感謝すべきですな」
「いったい、どうやってそんな場所に?」
「さあ、それはわかりません」
 エージェントは肩をすくめると、助手席のドアに向かう。
「今後はもっとよく監督なさることだ。その子のせいで、けっこうな数の人間が冷や汗をかいたのですから」
 エージェントが助手席に乗りこむと、シボレーは走り出した。車が遠ざかり、壊れた信号機のある交差点を曲がって消えていく様子を、マーシャルは見送った。
「ジョン」背後から声がした。
「あの……ごめんなさい。もう二度としないよ、約束する! ぼく……」
 マーシャルは振り返った。
「どれだけ心配したと思っている! 自分がいったい何をしたか、わかってるのか?」
 シドはマーシャルの視線をかろうじて受け止めた。
「でも、ちゃんと気をつけたんだ、本当だよ。爆風のこない場所はわかってたから──」
「おまえだけの話じゃない!」
 マーシャルはどなった。どならずにはいられなかった。
「おまえの勝手な行いが施設にどれだけ迷惑をかけるか、少しだって考えなかったのか? この施設はぎりぎりのところで存続しているんだ。あのエージェントが──こちらを毛嫌いして、関わるのさえ不名誉だと言わんばかりだったあの男が、もし傲慢でいけすかないだけの人間でなかったら、いったいどうなっていたと思う? また昔のように路上に戻りたいのか? 私たちみんなが路上に放り出されてもいいのか? どうなんだ!」
 シドはさっと顔色を失った。
「ぼく、そんなつもりじゃなかったんだ。ただ……ただ、ローダンと《スターダスト》の近くにいたくて」
 シドは息を呑みこむ。
「ジョン、ぼく、馬鹿だった。大馬鹿だ! もう二度としない、絶対しないから! だから──」
 シドの言葉をさえぎるように、マーシャルの〈ポッド〉から着信音が鳴り響く。基金の管理を任せているシャロンからだ。いつもメールで用を済ませるはずの彼女が、なぜ?
 マーシャルが通話をオンにすると、アバターと見紛うほどの完璧な美貌がディスプレイに映し出された。
「ジョン」シャロンが口を開いた。
「話があるの。内々にね。来てもらえないかしら?」

【第7章へ】(7/13以降公開)

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