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「底なしにも思える奈落を超高速で走り抜けるジェットコースター」ジャン゠クリストフ・グランジェ『死者の国』解説公開

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前回の記事「読める煉瓦発売中! ジャン゠クリストフ・グランジェ『死者の国』厚さ対決にて500円玉やみかんと死闘を繰り広げた『死者の国』。内容の分厚さを存分に語った、ミステリ書評家・三橋曉による解説を公開いたします!

 解説                

                     三橋曉

 昨年の夏、書店に並んだフレンチ・ミステリの1冊に、久しく音信の絶えていた旧知の友が、不意に訪ねてきたような嬉しさを覚えた。同じ懐かしさに駆られた読者も少なくなかったろう。ジャン=クリストフ・グランジェの『通過者』という作品である。

 グランジェは今から18年前、大ヒット映画の原作者として日本に紹介された。その「クリムゾン・リバー」は、アルプス山麓の2つの町で起きたそれぞれの事件を、パリの司法警察局から派遣されたジャン・レノと、地元警察のヴァンサン・カッセルという好対照の二人が追うが、やがてそれが1つに重なり合っていくというミステリ映画だった。封切りとほぼ同時に刊行された原作は、日本の読者にも好評をもって迎えられた。

 続けて出たデビュー作『コウノトリの道』と「エンパイア・オブ・ザ・ウルフ」として映画化もされた『狼の帝国』の初期作2篇は、『クリムゾン・リバー』が決してフロックでなかったことを窺わせたが、そこでなぜか翻訳紹介は滞ってしまう。未訳作品のリストは長くなっていき、『通過者』が日本のミステリ・ファンの前に届けられるまでに、実に13年という歳月が流れてしまった。

 主人公が心の中で失踪を遂げる物語、とは『通過者』を評した作者自身の言葉だそうだが、ギリシャ神話に見立てた連続殺人の意想外の顛末は、記憶の片隅に眠るこの作家への興味を目覚めさせるのに十分な衝撃があった。デビュー作から数えて9作目、作家として歩んだ17年というキャリアが、その作品世界を飛躍的にスケールアップさせていたことに驚くほかなかった。

 さて前置きが長くなった。本書は、そのジャン=クリストフ・グランジェが昨年母国フランスで上梓したばかりの新作『死者の国』(La Terre des morts 2018)である。

 バーレスク・ショーのダンサーをしていたニーナことソフィー・セレが殺され、ごみ処理場で見つかってから、すでに13日が経過していた。死体は、下着を使って特殊な方法で縛られ、耳まで裂かれた口の奥には石が詰め込まれていた。成果があがらなかった初動捜査を引き継いだのは、パリ警視庁犯罪捜査部のステファン・コルソ警視だ。部下の4人にニーナの人間関係を徹底して洗うよう命じる一方、自らも被害者が出演していたストリップ劇場《ル・スコンク》のオーナーを皮切りに関係者を訪ね歩いていく。

 SMの専門家から縛めの結び目が意味するものを教わり、仲の良かったポルノ男優からは、被害者がいかがわしいオンラインゲームに出演していたとの情報がもたらされる。チームのナンバー2である女性刑事バルバラのお手柄もあり、捜査は新たな局面を迎えるが、さらに彼女は被害者の裂傷がゴヤ晩年の絵画に似ていると指摘する。向かった先のマドリードの美術館で、コルソはニーナの恋人と目される白いスーツとボルサリーノ帽の人物を目撃するが、その頃パリの郊外では、被害者の同僚が死体となって見つかっていた。

 この『死者の国』は全体が3部からなるが、かいつまんで紹介したのは、その第一部の途中までに過ぎない。二段組のポケミスで760ページを越えるボリュームに臆する向きもあろうが、心配は無用と言っておく。読者は冒頭の第1章を開き、主人公とともにパリの夜にぽっかりと口をあける《ル・スコンク》の舞台に続く黒い階段を降りていくだけでいい。そこには、底なしにも思える奈落を超高速で走り抜けるジェットコースターが、待ち受けている。

 連続殺人もののミッシングリンクやフーダニットをはじめとして、サイコサスペンスのシリアルキラー像やその犯行動機、さらには警察小説やリーガル・スリラーの要素までをも包含するアマルガム状の物語は、時間を過去に遡ったかと思うと、国境を越えてボーダーレスな展開もみせる。フランスには、中世から伝わる綴織(タピスリー)の伝統があるが、本作の絢爛たる絵柄は、絵画以上に高度な技術が必要とされ、芸術性も高いといわれる至高の工芸品を連想させる。

 物語を織り成していくのは、ストーリーを描く横糸と、下地になる縦糸だが、ダンサーが相次ぎ犠牲となっていく連続殺人の意匠を横糸が浮かび上がらせていく一方で、縦糸は探偵役ステファン・コルソ警視の人となりやその来し方を詳らかにしていく。

 惑わずの歳を目前に控えた彼は、パリ警視庁犯罪捜査部第一課の長として、4人の部下を率いて捜査にあたる。チームの副官格でバービーの愛称もある女性刑事のバルバラ・ショメットとのやりとりは、男女こそ逆だが、『通過者』の気性の激しい女性警部とハンサムな警部補の関係を思い出させたりもする。

 常に苛立ち、独断専行の多いコルソは、警察官として決して褒められる人物ではない。司直の手を逃れようとする容疑者には厳しく、時に一線を越え職務違反まがいのこともやってのける。そんな上司の暴走を、バルバラは天性のひらめきと的を得た指摘で軌道修正する役割を果たしていく。

 警察組織の内にはもう1人、彼を支える女性がいる。犯罪捜査部の部長カトリーヌ・ボンパールだ。薬漬けになり、社会の底辺でのたれ死に寸前だった少年時代のコルソを窮地から救い出し、警察官への道を開いたのは彼女だった。現在は直属の上司であり、数少ない理解者の1人でもある。

 決してプレイボーイではないし、一見女好きにも見えないが、その実コルソは女性との縁が深い。部下のバルバラについ見惚れたり、その昔上司とは男女の仲だったこともある。仕事で煮詰まった時には、避難所としてミス・ベレーという都合のいい恋人もいて、さらには裁判の敵方、弁護士のクローディア・ミュレールにまでただならぬ思いを抱いてしまうのだ。

 生い立ちをたどれば、北にアルプスをのぞむ伊仏の国境に近いニースで生まれ、それがコルソというイタリア風の苗字を貰った理由でもある。親を知らぬまま育ったことで、家族というものに対する屈折した感情とともに成長するが、離れて暮らす幼い息子タデへの一途な愛情や、その養育をめぐる妻エミリアとの捻れた関係にも、それが表れている。

 さらには、匿名出産(生まれた子どもを養子に出す前提で、自分の名を伏せたまま出産できるフランスの制度)で生を受けたニーナや、両親に見放されたミス・ヴェルヴェットら連続殺人の被害者たちに対しても、社会から突き放された者同士という点で、どこか共鳴しあう部分がある。読み進めるうちにコルソ自身の物語だと思う読者もあるだろうが、それはあながち的外れともいえない。

 さて、著者の作品が〈ハヤカワ・ミステリ〉に収められるのは初めてなので、略歴を記しておこう。ジャン=クリストフ・グランジェ(Jean-Christophe Grangé)は1961年7月、パリ近郊のブローニュ゠ビヤンクールで生まれた。ソルボンヌ大学に学び、コピーライター業を経て、28歳の時に出会った写真家ピエール・ペランとのコンビで、パリ・マッチ、サンデー・タイムズ、ナショナル ジオグラフィックといった各国の有名誌に寄稿、ジャーナリストとして活躍する。

 その傍らで最初の小説『コウノトリの道』(1994年)を刊行に漕ぎ着けるが、作家としての地歩を固めたのは、ベストセラーとなった次作の『クリムゾン・リバー』(1998年)だった。二年後に映画化が実現すると、人気は一気に仏本国から欧州諸国へも広がり、現在グランジェの小説は30以上の言語に翻訳されているという。

 ミレニアムを挟んで作家活動を軌道に乗せたグランジェは、20世紀に活躍したノワールや心理スリラーをはじめとする多種多様なフランス作家たちと、近年注目を集めるピエール・ルメートルら新世代を繋ぐ存在でもあった。紹介の不幸もあり、日本の読者には長らくミッシングリンクであったが、昨年来『通過者』、『クリムゾン・リバー』の新版、本作と、グランジェの作品をめぐる状況が変わりつつあることは心から歓迎したい。

 文字通りの出世作『クリムゾン・リバー』の映画化では、監督のマチュー・カソヴィッツと組んで原作から脚本へのアダプテーションを担当したことからも、映像メディアへ参画する姿勢は当初から積極的だったことが判る。自作の映像化でも映画「エンパイア・オブ・ザ・ウルフ」の他、TVのミニシリーズになった「コウノトリの道」と「通過者」(全6話・日本未放映)、主人公のピエール警視を「すべて彼女のために」のオリヴィエ・マルシャルが演じたスピンオフ作品の「クリムゾン・リバー」(全八話・日本未放映)にも脚本家として関わっている。

 また、原作提供以外で注目すべきは、プロデュースにも名を連ねた映画「スウィッチ」(2011年)だろう。モントリオールで暮らすヒロインが、ネットの自宅交換サービスを利用してパリを訪れるが、ショートステイを楽しもうとした矢先、身に覚えのない殺人容疑で逮捕されてしまう。オリジナルの脚本は監督のフレデリック・シェンデルフェールとの共同名義だが、シチュエーションの面白さはグランジェの小説に通底するものがある。

 話を本作に戻すと、地獄めぐりにも似たコルソの執念の捜査は、やがて紆余曲折の果てに悪夢のような真相へとたどり着く。そこで容赦なく暴き出されていくのは、非合理的ともいうべき犯行動機である。作者はそれを悪魔的(デモーニッシュ)としかいいようのない論理(ロジック)で、犯人の心に巣食った暗い景色として描き出してみせるが、これはゴシック・ロマンスがもっとも得意とした領域でもあった。

 フランスのスティーヴン・キングの異名もある作者だが、ゴシック・ロマンスという古い酒を、モダンホラーという新しい革袋に入れてみせたのがスティーヴン・キングだったとすれば、ジャン=クリストフ・グランジェが古酒のために用意したのは、現代ミステリという新しい入れ物だったのではないか。『クリムゾン・リバー』にも発露はあったが、心の暗黒を覗くことこそが現代のゴシックだと考えた作者は、そこへの旅という形で自らの小説のスタイルを作り上げていったのかもしれない。

 そのひとつの成果が、先の『通過者』であり、この『死者の国』だとすれば、次にグランジェという作家がどういう心の風景(ビジョン)を見せてくれるのか。心の騒めきを抑えつつ、それが届けられる時を楽しみに待ちたい。

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ジャン゠クリストフ・グランジェ/高野優監訳、伊禮規与美訳
死者の国
本体価格3000円+税 早川書房より好評発売中



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