悲劇喜劇1月号

悲劇喜劇2017年1月号収録『未来のための落語論、演劇論』その2 サンキュータツオ(「渋谷らくご」プロデューサー)×  九龍ジョー (ライター、編集者)

 大人が楽しむエンターテインメントとして、人気を二分する落語と演劇。そこで、ポップカルチャーから伝統芸能まで詳しい九龍ジョー氏と、初心者向けの落語スポット「渋谷らくご」キュレーターのサンキュータツオ氏によるスペシャル対談を敢行。落語の真の魅力とは? 演劇の行く末は? 時代の空気といまを知るおふたりに語っていただいた。

 第一部は12月9日に公開。今回はそれに続く第二部です。

■古典・芝浜クロニクル

タツオ 例えば立川談笑師匠なんかは、古典の改作をひとつのギミックとして立てていて、古典落語の傑作「芝浜」もやるけれど、「シャブ浜」っていう話もなさいます。解説しておくと、「芝浜」というのはある魚屋が酒に溺れて仕事をしなくなり、お金がいよいよなくなって、奥さんに仕事に行ってくれと何度も懇願されて、ようやく重い腰をあげるんだけど、芝の浜でお金を拾って、そのまま働かずに帰ってきて……っていうお噺です。

 これを今の人がやるとして、じゃあたとえば魚屋がその町内においてどれくらいの存在感の商売人だったかなんて、理解できない情報ですよね。昔は肉食が盛んではなくて、目利きの魚屋がいるかどうかが町内の胃袋をすべて担っていた。むしろコンビニ的な存在だったわけで。

九龍 今の魚屋とは担っていたものも違いますからね。

タツオ そう。しかも頑張ればすごく儲けもある商売だったから、いま町の商店街にある魚屋とは全く違う存在だったと思うんです。談笑師匠は、それを現代に置き換えて、すごく稼ぐこともできて、自分で荷物を調達・流通するトラックの運転手にしたわけです。その人がお酒ではなくてシャブに溺れるという、かなりブラックな設定にして(笑)。これって、人を運ぶかごやを単純にタクシーの運転手にするのとは違って、当時の“肌感覚”の移植ですよね。肌感覚で聴くために拡張子を変える作業を談笑師匠はしているわけで。先ほどの九龍説を聞いて、いろいろ理解できましたね。

九龍 「芝浜」つながりでいえば、「快快(ふぁいふぁい)」という劇団が、演劇で「芝浜」をやったことがあるんです。『SHIBAHAMA』ってタイトルだったんですけど。彼女たちが演劇とパーティがほとんど一体化してしまうようなギリギリの領域を追求している時期のピークとも言える作品で、なにがすごいって「芝浜」から〝パーティ〟を抽出したんですよ。お金を拾った魚屋は、気持ちが大きくなって友達を招いて大盤振る舞いするじゃないですか。あそこを広げてみせて、DJを呼び込んだりしながら、ただひたすらどんちゃん騒ぎが続くという(笑)。物語としても、あの場面はまさに夢と現実の淡いなわけで、なるほどと。しかも最後は「これだとサゲじゃなくて、アゲだから!」というツッコミで終わるっていう(笑)。なるほど、あの噺にはそんな位相も隠れていたのかと。

タツオ イリュージョン的解釈だったんだね。

九龍 そうなんです。落語を定石通りにやるのもちろんいいんだけど、そういうふうに落語噺の奥深く眠っていて、でも誰も気づいていなくて圧縮されていた面白い部分を発見して解凍する方法もあるんだな、と。普通、芝浜であればもっと泣ける夫婦噺にするとかあると思うんだけど、そこを広げるか! っていう。

タツオ 僕はそういう裏に隠れた噺の復元が好きなんですよね。

「芝浜」に関していうと、なんで魚屋は酒に溺れてるんだ? ていうことが気になりまくってしょうがない(笑)。噺は、もう仕事に行かなくて3週間前から始まっていて。

九龍 確かに、きっと前日譚があったはずで。

タツオ 僕はそれをクリエイティブ・リーディングって言ってるんですけど、創造的読み方、むしろ同人的な、原作には書かれていないこととか、書かれていないところで何が起こっていたかとかっていうことを再解釈して、再構成するのが現代で味わう落語の魅力のひとつかなと思うんですよ。つねに時代にあったバージョンの話というのが淘汰の末に残り続けてきている。また、一度淘汰してしまったけど、現在的解釈によって復活する話もあるし。本当に噺塚に葬られてしまった禁演落語が復活したこともあるし、そういうなかで常に現代的解釈でアップロードされ続けているっていうのが落語の面白さかな、と。

九龍 演劇における戯曲みたいに、落語にはこれがフィックスバージョン、っていうものがないですよね。だから、テレビで『超入門! 落語 THE MOVIE』みたいな番組も始まりましたけど、でも本当に面白いのは、あらすじを追うことではない、っていう気がするんです。演劇的に立体化しても、「だったら落語でいい」ってことのほうが多い。それよりは落語に圧縮されているコアな部分や隠れたレイヤーを発見して解凍するほうが意味があるんじゃないかと。快快の『SHIBAHAMA』もそうなんだけど、例えば別役実さんの不条理劇に仕立てた『らくだ』とかも、そこの視点があるから面白かったりしますからね。

タツオ もう換骨奪胎するしかないですよね。だって、例えば吉原にしたって、いま生きている日本人は誰一人見たことないし、行ったこともない。そんな場所を舞台にしちゃうわけですから。それ自体が、すでにすごく不条理ですよ。

九龍 そういえばこのあいだ、花緑師匠が歌舞伎の尾上松也さん主演のミュージカル『狸御殿』でコメディリリーフ的な役を務めていて、すごくよかったんですよ。落語家の持っている身体的なポテンシャルを感じました。ああいうふうに落語家が舞台のほうに進出していくのも、もっと観たいですね。すでに活躍されている方も多いですが。

タツオ 笑福亭鶴瓶師匠なんてまさにそうですよね。

九龍 まさに、です。テレビですけど、舞台スキルとして、『スジナシ』なんて本当にすごいことやってると思いますし。

タツオ やっぱりあの師匠も、演じ分けるっていうことはしてないですよね。笑福亭鶴瓶でしかない。

九龍 新作「山名屋浦里」が歌舞伎になったりもしましたね。

タツオ そう。話体の追求であったり、自分にしかできないことを追求していくと、やっぱり最終的には人になっちゃうんです。つまり、いかに自然な状態で、落語を語ることができるか。その「自然」「体」=自然体っていうものを鶴瓶師匠とかは生来身に着けてる方なんで、お芝居やるときもコントやるときも自然体。落語やっても鶴瓶師匠だから、強いですよね。

九龍 それにほら、まだ二ツ目ですが、瀧川鯉八さんなんて、一人芝居というジャンルでも通用するぐらいのオリジナリティがあるじゃないですか。もちろんあれこそが落語っていう見方もできるんですが、演劇のお客さんにも、ああいった落語をもっと観てほしいなと思います。

タツオ そうですね。鯉八さんはもうお笑いや演劇の客を納得させることができる! (立川)吉笑さんなんかもそうですけど、落語の省略された表現技法ならではのメリットっていうのをアドバンテージにしていて、落語でしかできない笑いやドラマをちゃんと作り上げてる人たちだし、次世代の落語家ですよね。そういうアップデートされた落語も、演劇観てる人たちにはぜひ観てもらいたいですよ。

        

■落語の想像性vs演劇の具現性

九龍 演劇と比べると、やっぱり落語は個人のパフォーマンスによる部分も大きいですよね。その人が上手ければ色々な解釈なりテキストが想像できるし、その人のキャラクターとか、持ってるリズムやメロディーもあるから、脚本の善し悪しに左右されず楽しめる。一方で、演劇のつまらないときは、もうどうにもならないですから。

タツオ うん、落語って演者が下手でも自分の想像の中でなんとかできちゃいますね。対する演劇のメリットといえば、想像を超える具現化。“いい女”って落語で表現されたら、それぞれの中のいい女を想像するわけですけど、お芝居では、演じた女優がマジ超絶いい女だったらすべてをクリアできますから(笑)。そっか、こういう人だったんだって、新たな解釈の提案にもなっていくというか。

九龍 確かに。落語は客の想像力に対してアタックするのではなく、トスを上げる感じですよね。

タツオ 演劇の場合はやっぱり観客のカメラがどこを向いてもいいようになっているから、喋ってる人以外の人も観ることができるし、背景で何が行なわれているかも観ることができる。すべての情報が前景化してるんです。でも落語の場合は解釈に必要のない情報は後景化させるので「なぁ、ばあさん」って言っても、一言もしゃべらない。空間にばあさんがいたのをそこではじめて知るし、どんなばあさんがいるんだろうって、そこは想像するしかない。そこにちゃんと芝居するばあさんがいると、二人の関係性がもうちょっとリアルに見えてきたり、黙って針仕事していることにも何かの意味をつけられたりもしますから、芝居はその情報量の多さが強みですよね。逆に足かせにもなるでしょうけれど。

九龍 「なあ、ばあさん」って話しかければ突然ばあさんを召喚できるという落語的なアビリティを、昔、東京デスロックという劇団が『3人いる!』という芝居で使ってましたね。何もない空間に話しかけるだけで、そこに透明なんだけれど、人がいることになるっていう(笑)。

 あと、これはタツオさんの専門ですけど、明治の言文一致から現代口語までの流れを考えれば、そこには坪内逍遥や三遊亭圓朝がいるわけですよね。

タツオ そうそう。言文一致小説の先駆けとして知られる二葉亭四迷の『浮雲』は、初代圓朝の落語の速記を参考にしたものですしね。『浮雲』も第一部、第二部、第三部でどんどん言文一致になっていくっていうような進化をあそこでしたのが日本の小説の源流ですからね。その喋り言葉を、さらにどういうふうに舞台にあげていくかっていうところになると、僕は現代口語演劇理論を実践した平田オリザに行きつくんじゃないかと思っていて。

九龍 ここで重要なのは、言文一致にしろ、自然主義にしろ、現代口語演劇にしろ、やはりそれはリアルな話し言葉ではないっていうことだと思うんです。あくまで作られた文体であって、でも、言葉をアップデートすることで、扱えるテーマの解像度が変わってくる。例えばセックスはどの時代にもあるものですけど、現代のカップルの行為を王朝文学の文体で記述するのはちょっと無理がある。まあ、そういう違和感をギャグで使うっていう手はありますけど。つまり、現代口語演劇によって初めて捉えることが可能になった卑近なテーマや、今日的なサイコロジーがある。そうやって表現の間口を広げるための日本語の改良において、落語や演劇は大きな存在でもあったと思うんです。

タツオ 今の指摘はすごく大きくて、やっぱり大衆が楽しめる知識にしているっていうのはポイントだと思うんですよね。で、漱石も同時代の森鴎外と比較すればやっぱり口語にこだわったことで、より多くの人に伝わるものになったと思うし。偉人たちの功績は、大きいですね。

(対談は三回に分けて公開します。次回は12/16(金)を予定しています。)

サンキュータツオ(さんきゅう・たつお)「渋谷らくご」プロデューサー。漫才師(米粒写経)、日本語学者、一橋大学非常勤講師。1976年、東京生まれ。卒業論文では、落語家・立川志の輔に2年間密着取材。アニメオタクとしても知られる。著書、共著に『東京ポッド許可局』(SHINSHOKAN)、『学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方』『ヘンな論文』(共に、角川学芸出版)、『俺たちのBL論』(河出書房新社)など。

九龍ジョー(くーろん・じょー)ライター、編集者。1976年、東京生まれ。ポップカルチャーから伝統芸能まで幅広く執筆。『文學界』で「若き藝能者たち」、『カルチャーブロス』で「これから生まれる古典のはなし」連載中。著書に『メモリースティック ポップカルチャーと社会をつなぐやり方』など。編集を手掛けた書籍も多く、演劇・落語では、岡田利規『遡行 変形していくための演劇論』、立川志の輔『志の輔の背丈』、立川志らく『雨ン中の、らくだ』、立川吉笑『現在落語論』などがある。

渋谷らくご

ユーロスペース内/渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 2F

〈問い合わせ先〉03-3461-0211

聞き手:田中あか音

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