【試し読み】大人気〈刑事ワシントン・ポー〉シリーズ最新作。シリーズ最大級のボリュームと最大級の面白さ!『ボタニストの殺人』冒頭公開
大人気〈刑事ワシントン・ポー〉シリーズ最新作『ボタニストの殺人』(M・W・クレイヴン/東野さやか訳)は好評発売中!
今回ワシントン・ポーが挑むのは、なんとふたつの密室殺人事件! さらに、エステル・ドイルが容疑者となり……。今回もドキドキワクワクな傑作ミステリの冒頭を特別公開です。
ぜひお楽しみください。
〇シリーズこれまでのあらすじ
元カンブリア州警察のワシントン・ポーは、今は国家犯罪対策庁の重大犯罪分析課の部長刑事として働いている。同僚で分析官であるティリー・ブラッドショーとともに、ストーンサークルで発見された焼死体をめぐる事件や、カリスマシェフ冤罪事件、人体連続切断殺人事件、サミット開催が迫るなかで起こった殺人事件などの様々な難事件を解決してきた。そして今回、ポーとティリーが挑むのは、ボタニストと呼ばれる姿なき毒殺魔! さらにポーの同僚のエステル・ドイルが容疑者として逮捕され……。
〇冒頭試し読み
1 日本、西表島
そこにはいまいましい木があり、足止めの木があり、存在しない建物があった。
いまいましい木には長さ六インチものとげが大量に生え、幹を守っていた。触れると手痛い教訓を学ぶことになる。足止めの木はそこまで物騒ではないが、癪にさわることには変わりない。先が鉤状になった細い蔓が枝から垂れ、注意の散漫な者をとらえ、巻きつき、身動きできなくしてしまう。
しかし、全員の目を奪ったのは皮膚を突き刺すとげではなく、建物のほうだった。ずんぐりした灰色のその建物は自然とほぼ同化していた。太い根によって石積みがゆがみ、壁のひとつが崩れ落ちている。木々の陰をねぐらにしているオオコウモリの糞で屋根が真っ白だ。
一行は言葉もなく見つめていた。
「これはなんなの?」ドーラという二十代前半の女性が質問した。彼女は大学を卒業して就職までのモラトリアム期間の半ばを過ぎたところだった。六カ月後には父の指示に従ってロンドンの金融街に職を得、そののち、資産管理の仕事をしている婚約者と結婚し、無気力な子どもを何人か産むことになる。
「はっきりしたことはわからないんですよ」ガイドは答えた。アンドルー・トレスコシックという名のこのガイドは、英国陸軍に交じってベリーズでジャングルナビゲーションの極意を学んでいた。「戦争の遺構でしょう。この島のどこかに、決号作戦関連の建物があると言われていますので」
「決号作戦?」
「天皇がもはや勝利はかなわないと悟ったのちに立案された、決死の防衛戦略です。〝一億総玉砕〟という御旗のもと、侵略に抵抗せよと全日本国民に呼びかけました。壊滅的な死傷者数を目の当たりにすれば、アメリカ軍も無条件降伏を引き出す目的で無理な戦いをつづけるのを躊躇すると考えたのでしょう。あわよくば停戦にもちこめ、日本本土は占領されずにすむかもしれない、と。その戦略のひとつが、燃料や弾薬を保管する要塞を内陸に建設することでした。この建物は燃料の保管場所ではなさそうなので弾薬庫として使われていたと思われます。日本の降伏後、連合国側はなかにあったものをすべて押収しましたが、建物そのものにほとんど手をつけなかったのです」
「ふうん」ドーラは言った。「じゃあ、戦後は誰の目にも触れられなかったの?」
「その可能性はありますね」
それは事実ではない。トレスコシックは実利的なガイドで、かれこれ五年間、いくつものグループを率いてこのジャングルの島を横断してきた。決号作戦の要塞がある場所はすべて把握しており、どのグループもそのうちのひとつを〝発見〟するようにはからっていた。客が写真を撮ったり、あたりを見てまわったあとは、一年ほどそのままにしておく。ここの厳しい環境では、何十年にもわたって手つかずだったように見えるまで、そう長い時間はかからない。このくらいは害のない詐欺だと本人は考えており、ベースキャンプに戻ったときのチップの額は確実に増える。
「なかに入ってもいいの?」ドーラは訊いた。
トレスコシックは肩をすくめた。
「かまわないんじゃないですかね」
「やったー!」
「でも、ハブには気をつけてください」
木のドアで残っていたのはさびの浮いた蝶番(ちょうつがい)だけだった。ドーラと一行の大半はおっかなびっくりなかに入った。
しんがりをつとめた、不似合いな帽子の男が振り返った。「あんたは来ないのかい、アンドルー?」
トレスコシックは首を横に振った。
「あとで行きますよ」なかになにがあるかはわかっている。四角い部屋がひとつと、大きな地下貯蔵庫だ。壁には日本語の表示、床には動物の糞。ほかの要塞となんら変わらない。おそらく全員、十五分ほどなかにいるだろう。上で五分、地下の貯蔵庫で五分、お気楽な写真撮影にさらに五分。お茶を一杯淹れるには充分な時間だ。
ティーバッグをカップに入れる時間もなく、ドーラの悲鳴が聞こえた。トレスコシックはため息をついた。おそらく動物の死骸にでも出くわしたのだろう。
二年ほど前、こことはべつの建物でも同じことがあった。ツアー客がこの島にしかいないイリオモテヤマネコというベンガルヤマネコの亜種の腐乱死体を見つけたのだ。屋根にあいた穴から落ちて出られなくなったらしい。それで餓死したようだった。
トレスコシックは腰をあげ、古い要塞に入った。一行の声が聞こえる。地下貯蔵庫にいるようだ。階段を駆けおりると、駆けあがってくるドーラと鉢合わせした。
「わたし、吐きそう」彼女は言った。
トレスコシックはまたもため息をついた。まったく都会の連中ときたら、少しは鍛えたらどうなんだ。ツアー客を案内するたび、必ず一回は同じ言葉が頭をよぎる。現代の似非探検家どもは、何年も前にともに訓練を受けた新兵ほどにも強くない。なんでもないことで、いちいち驚きすぎる。動物の死骸、ツイートについた意地の悪いコメント、安定の悪い像……。
彼は一行が期待する、毅然とした元兵士らしい顔になり、貯蔵エリアに入った。
三十秒後、彼は大きく息を切らしながら外に戻ると、大急ぎでリュックサックのなかの衛星電話を探した。
ドーラが悲鳴をあげたのは動物の死骸があったからではない。
それとはまったくちがうものだった。
それよりはるかにおそろしいものだった。
トレスコシックが衛星電話をかけたのと同じころ、ぱっとしない服装のこれといった特徴のない男がグラスゴー郊外の工業団地にある駐車場に平凡な白いバンをとめた。男はバナー化学に入っていき、カウンターに歩み寄った。
「アセトンを二百リットル頼む」男は会社のロゴ──図案化されたBの文字に試験管で下線が引いてある──がついたポロシャツ姿の店員に告げた。
「写真つきの身分証をお持ちですか?」店員は言った。「アセトンは爆発物の製造に使われるため、カテゴリー3の前駆体化学物質です。当社の方針として身分証を拝見することになっています」
これといった特徴のない男はすぐに忘れてしまいそうな名前の入った運転免許証を提示した。カウンターの店員はその情報をコンピュータに入力した。アセトンの代金の支払いが終わると、店員は訊いた。「車は外の駐車場でしょうか?」
「そうだ」
「係の者がそこまで運びます。車に積むお手伝いをいたします」
「ありがたい」
「あっと、最後にもうひとつ。コンピュータに〝購入の目的〟を入力しないといけないんでした」
「害虫に悩まされていてね」これといった特徴のない男は言った。
2 十八カ月後 ロンドンにある『モーガン・ソームズ・アワー』のテレビ番組収録スタジオ
照明は熱くなるよう設定され、インタビューはしだいに熱くなっていた。
熱すぎるほどに。
予想をはるかに超える熱さだった。
「これはそうとう物議を醸すだろうな」スタジオのオーナーは何週間も前からそう言っていた。
「わたしとしては〝受ける〟という言い方のほうがいい」ジャスティン・ウェッブという女性のディレクターが返す。
「何百、場合によっては何千もの苦情が寄せられるかもしれん」
「大当たりまちがいなしよ」
「それはどうだろう」
「内容についてはわたしに最終決定権がある。やりましょう」
もちろん、ディレクターとオーナーがこのやりとりをするはるか以前から、会議と委員会がおこなわれてきた。ことケイン・ハントに関するかぎり、これは意外でもなんでもない。ハントは行く先々で物議を、それも周到に仕組まれた物議を醸している。テレビに生出演する機会はしだいに減ってきていた。
しかし、『モーガン・ソームズ・アワー』は物議を敬遠したことは一度もない。
最終的に問題は以下の二点、バランスの取れたニュースへの配慮と、番組の司会者、モーガン・ソームズがハントにうまく対処できるかどうかに絞られた。
バランスについての議論はこうだ。ハントのインタビューがおこなわれるとされる前の週にサフロン・フィップスの出演が予定されており、彼女の考えは立場こそ正反対ながら、同様に極端な内容だ。フィップスは一九六七年に出版された『SCUM宣言』の著者、ヴァレリー・ソラナスの意見は的を射ていると主張している。フィップスはソラナスとはちがい、男性は抹殺されるべきとまでは言っていない。しかし、男性にはX染色体がひとつしかないため、遺伝的に不完全で中途半端な女性であると書いたソラナスは正しいと言っている。男性は不完全であるがゆえに感情面の能力が貧弱で、自己中心的で、共感力に欠け、みずからが体感したこと以外わかろうとしない。ケイン・ハントは反フィップスの立場をとり、SCUM宣言の対極にある存在だ。だから、彼を出演させることで、『モーガン・ソームズ・アワー』が誇るバランスがもたらされる。
反対派にとって、この議論はあまりに雑だ──ケイン・ハントは不快な主張をまくしたてる女性差別主義者だが、それは男にはセックスをする基本的権利があると本気で信じているからではなく、そのほうが著書が売れるからだ。番組に出演させれば、彼の最新作の売上げが大幅にアップするだろう。
第二の問題点、モーガン・ソームズがハントにうまく対処できるのかについては、意見の相違はなかった。彼女はどんな状況に置かれても臆することがない。
多数決で決着がついた──ゲストをめぐって制作陣が決を採るのはこれがはじめてだった。ディレクターのジャスティンは反対票を投じた。彼女は番組の責任者であり、起こりうる結果に対処するのは彼女だからだ。筆頭放送作家も反対票を投じた。モーガンの顔がつぶれるような事態になった場合に、部下たちを危険にさらしたくないからだ。
ソーシャルメディアの担当者は当然、一も二もなく賛成票を投じた。彼女はツイートの嵐になると予見していた。テレビ局側も賛成だった。視聴率があがれば、金になるからだ。
その他の制作陣の意見は真っ二つに分かれた。番組のプロデューサーであるアランが決定票を握った。心のなかでは賛成意見に傾いていた。ケイン・ハントの女性観がどれほどばかばかしかろうが、モーガンは天敵のいない、いわば頂点捕食者だ。彼女はハントに生き地獄を味わわせるだろうし、そうなれば国民の九十九・九パーセントは喜ぶだろう。しかもそれが重要だ──というのも、ハントはあまりに長いあいだ、ただ乗りしてきたからだ。マスコミによる検閲があるという彼の主張は計算ずくの戦略だ。あまりに極端な主張をすればテレビに出られなくなり、テレビに出られなくなれば見解に異議を唱えられることはなくなる。検閲は彼が身をひそめるための盾なのだ。
けれども、彼は何カ月にもわたってモーガンから挑発を受けていた。彼女の番組の冒頭のモノローグは決まって、彼に対する皮肉で始まった。締めくくりでは必ず、彼をジョークのネタにしていた。
ずっと、彼がテレビに出るよう仕向けていたのだ。
誰もが驚いたことに、ハントはその挑発に乗った。おおっぴらに。一対一であることと、あらかじめ質問を通知するならば出演すると言ったのだ。しかしながら、モーガンはその提案に乗らなかった。答える時間はあたえてもいいが、演出には口出しさせないと突っぱねた。ハントは不承不承、同意した。そこで引きさがれば、そのあと何年もモーガンの笑いのネタにされるのは目に見えていた。
そういうわけで、アランはケイン・ハントの出演に賛成だった。
しかし彼は反対票を投じた。アランの姓はジャスティンと同じウェッブで、それはふたりが結婚しているからだ。ふたりは二十年間、一緒に仕事をしてきた仲で、夫婦になって十年がたつ。ふたりは公私ともにチームだった。仕事の面でも私生活の面でも、彼の仕事は彼女のサポートをすることだ。
モーガンに伝えるのはジャスティンの役目になった。その夜の番組が始まる直前に伝える判断をしたのは、そのほうがあしざまに言われる時間が限定されるかもしれないと考えてのことだ。モーガンは弾劾された大統領と不祥事を起こした首相にインタビューした経験がある。王族をペテンにかけ、戦争犯罪者を落涙させたこともある。へたに怒らせないほうがいい女性だ。
ジャスティンはモーガンの楽屋のドアをノックして入った。モーガンはメイク中で、長年にわたる相談役でもあるヘアメイク担当が小さなブラシと小さなスプレーを使って髪に手を入れていた。首と襟のあいだにティッシュがはさんであるのは、二千ポンドもする濃紺のオスカー デ ラ レンタのベルスリーブのブレザーに撮影用の濃いメイクがつかないようにするためだ。このメイクを私生活でやったらスーパーヴィランにしか見えないが、カメラごしならば非の打ちどころがなく見える。
モーガンは振り返り、いつもの冷ややかな灰色の目でジャスティンを見つめ、顎をしゃくった。たっぷりとしたつやつやの鳶(とび)色の髪はぴくりとも動かなかった。
「ちょっといい、モーガン?」ジャスティンは言った。
「ええ」モーガンは言った。「今夜のモノローグを練習していたところ。きのう、首相が犬の糞を踏んづけた件で、もうひとつジョークを入れようと思って」
「なんでそこまでこだわるんでしょうね──もう充分、おもしろいのに」メイクアップアーティストが言った。
「ケイン・ハントのことだけど」ジャスティンは言った。「あの企画は無理」
「そうなの?」モーガンの声は剃刀のように鋭かった。
「制作側の意見は一致してる。リスクがありすぎる。慰めになるかわからないけど、投票結果は僅差だった」
モーガンはメイクに戻った。髪の仕上げにかかった。彼女は鏡に映るジャスティンに目を向けた。
「投票なんかくそくらえだわ」
それでおしまいだった。ジャスティンはすごすごと楽屋をあとにし、スタジオのオーナーを探しにいった。
「彼はホットみたいね」ジャスティンが言った。
「ホット?」アランが返す。
「セクシーの意味のホットじゃなく、汗ばんでいると言ってるの」
「それはそうだろう、五フィートしか離れてない場所に石英灯があるんだから」
「石英灯? まだそんなものが残ってるとは知らなかった。どうしてLED電球を使わないの?」
石英灯は長年にわたり定番商品だったが、発熱量が多く、電力を大量に消費した。それに取って代わったのがLED照明で、基本的に同じ役目を果たすが、熱を過剰に発することはない。言い換えれば、無駄な電気代を支出せずにすむ。
「モーガンがどうしてもと言って聞かなくてね」アランは言った。「だが、使うのはハントの側だけだ。彼の顔色を悪くして、汗をかかせるのがねらいだ」
ジャスティンはしばし考えこんだ。「ふうん、頭がいいわね」
ふたりがいるのは『モーガン・ソームズ・アワー』の構成がおこなわれる、ギャラリーと呼ばれる部屋だ。ここの主役は〝ガラス張りのコックピット〟──複数の情報源を表示しているバーチャルモニター群──だ。ジャスティンもアランもギャラリーの監視役としてアシスタントディレクターのひとりを残し、自分たちはスタジオフロアにつめるほうが好きだが、今夜はビジョンミキサーの担当者のそばについていたかった。ヨセフという名のビジョンミキサー担当者はコントロールパネルの前にすわり、どのカメラを使うか選んでいた。ジャスティンとモーガンはふだん、担当者にまかせきりにしている。ヨセフならモーガンとゲストが映る配分をうまく調整してくれるし、質問しているときにはモーガンの顔を映してほしいことも、ゲストの反応のほうが大事なタイミングも心得ているから、安心してまかせられる。
今夜はちがう。生放送を中止する権限を持つ唯一の人物であるジャスティンは、ヨセフに指示するためにそばにいる必要があり、アランはアランで、ジャスティンが相談したくなった場合にそなえ、同じ場所にいてやりたいと考えていた。生放送の中止はディレクターがくだすなかでもっとも重大な決断だ。
放送が始まってすでに三十分が過ぎ、これまでのところ順調に進んでいた。モーガンは番組をきっちりとコントロールし、ケイン・ハントも物議を醸すような発言をひかえていた。
モーガンがデスクのうしろに手をのばし、この日、使う予定の唯一の小道具を出した。一冊の本だった。個人出版された本だが、かなり金がかかっている。
「彼、具合が悪そうよね?」ジャスティンが言った。
ハントは頭はジェルのつけすぎで、服装はくだけすぎていた。着ているのはパイロットジャケットに穴あきジーンズで、超一流のテレビのトーク番組に出演するというより、アマチュア劇団の『理由なき反抗』のオーディションを受けにきたように見える。
「たしかに具合が悪そうだ」アランは相づちを打った。「やけに水を飲んでいるし、ずっと目をこすっている」
「あと三十分は死なないでもらいたいものだわ」ジャスティンは言った。
「新しく出た本についてうかがいます、ケイン」モーガンが言った。「『チャド宣言』というタイトルですね。〝チャド〟とは、精力旺盛な魅力的でもてる男性を指すという理解でいい?」
「そのとおり」ハントは言った。「チャドとは遺伝というくじでたまたま当たりを引いただけの男で、最近の研究によれば、その数は男性のわずか二十パーセントにすぎないが、セックス全体に占める割合は八十パーセントにおよぶとのことだ。これは残りの男にとって数学的な問題である──充分な数の女性が残ってないのだからね。『チャド宣言』はこの不公平なゲームを是正するのを意図している」
「なるほど」モーガンは相づちを打つ。「で、その理論がインセル運動の一部を形成しているわけですね?」
「そのとおり。不本意の禁欲者(イン ヴォ ラン タリ ー・ セリ ベイト)だね」
「女性の肉体は天然資源であるという考え方かと思われますが」
「よくわかっていらっしゃる」ハントはスイッチが入ったように身を乗り出した。「いま現在、男性はなんの落ち度もないにもかかわらず、規制緩和されたセックス市場から閉め出された状態にある。『チャド宣言』はより公正な分配システムを提唱している。二十一世紀に生きる男たちは誰ひとり、セックスを奪われるべきではない」
「セックスを奪われる?」モーガンは無表情に言った。
「納得していないようだね」
「ええ。女性は不都合な知性を持った生命でしかないというあなたの考えは、まったくばかげているとしか思えません」
「本当にそうかな?」ハントは反論した。「人類の歴史の九十九パーセントにおいて、女性は性の相手を選べなかったという点を忘れてはいけない。交際などというものは存在しなかった。女性は政略結婚という形で男性に引き渡されるか、戦利品としてとらわれてきた。近年の文化の変化によって、一部の男性の権利が奪われてしまったのだ」
モーガンは本を手に取り、ページをめくった。
「あなたはその解決策をお持ちなんですね?」
ギャラリーでジャスティンが言った。「彼女、思ったよりも突っこみが鋭くない感じ」
「たしかに」夫は応じた。「ちょっと心配だな」
「同感」
「どんな作戦を考えているのか、きみにも言わなかったのか?」
ジャスティンはそうだというようにうなずいた。
アランは生放送を中止するボタンに歩み寄った。
「われわれの解決策は単純だ」ハントは言った。「性犯罪法の全面的な見直しを提案する。とくに、売春に関する項目を」
「それだけですか?」モーガンは言った。「売春宿を合法化しろということですか?」
「そういうわけではないが、この厳しい法律を変えることは、今後のために必要不可欠だ。われわれの提案を実現するには、性的サービス、客引き、宣伝、営利目的での売春の管理に関する項目を撤廃する必要が出てくる」
「要するに、売春宿を合法化したいわけですよね?」
「まったくちがう」ハントは言った。「しかし、セックス市場に大変革をもたらしたいとは考えている」
「くわしく説明願います」
「セックス市場の収益化はいまの時代には完璧に理にかなっている。ほかのものはすべて金で買えるのに、なぜセックスはだめなのか? しかも、女性をくどくのにどれだけの金が使われているかを考えれば、政府にとって安定的でかなりの額の収入源になる」
「国営の売春事業を展開すべしとおっしゃるのですか?」
「まったくちがう。わが国の政府はきわめて単純な事業ですらまともにできない。必要なのは自由市場の見えざる手だ。昔からこの国の強みである起業家たちに、セックス市場の運営をまかせたい」
「運営というのは具体的にどういうことでしょう?」モーガンは質問した。「巨大売春宿? ナンパ目的でののろのろ運転の合法化?」
「定額の性サービス」ハントは答えた。「ネットフリックスやアマゾン・プライムのたぐいだ。男性は月額料金を払い、女性には一定額の給料が払われる。映画やテレビ番組を選ぶのと同じように、契約するコースのなかでこれはという女性を選ぶ。女性たちは五段階で評価され、高い評価の女性ほど支払額が増える。たとえば、基本コースの場合、ふたつ星の女性と月に三時間、あるいはひとつ星の女性と五時間、セックスができる。当然、プレミアムコースを利用した場合は、より高ランクの女性と、より長い時間、セックスするのが可能になる」
「誰が女性を評価するのでしょう? あなたのような人ですか?」
「市場だ」ハントは答えた。「その一方、利用者も評価される。ウーバーの運転手と客が互いに評価をつけるのと同じ形だね。男性は評価が低ければ低いほど、払う金が高くなる。低評価の女性は当然ながら、高評価の女性よりも実入りが少ないわけで、一回一回をできるかぎり充実したものにすることが全員の経済的利益につながる」ハントはグラスを手にし、中身の水を半分飲んだ。「マーケティングの専門知識を持つ民間企業が参入すれば、すぐに成長して主要産業になるにちがいない。しかも、当初はインセルを対象として立案されたこのサービスは、二年もすればLGBTを筆頭とするさまざまな性指向の人のための定額サービスになると期待される」
「すばらしい」
「疑っているようだが、ひとつ思い出してほしい。出会い系サイトについても同じようにみな懐疑的だったじゃないか。それがいまや数十億ポンドもの価値がある市場にまでなった。しかも、定額制の性サービスは政府に何百万ポンドもの税収をもたらすだけでなく、公衆衛生の面でも恩恵がある」
「どういうことでしょう?」
「女性にご理解いただきたいのだが、いい犬でも蹴りつづければけっきょくは悪い犬になる。セックス市場から閉め出されている男性がいることが、イギリスにおけるレイプのおもな原因であり、アメリカでは銃乱射事件にもつながっていると、われわれは考えている。宣言に書かれた政策にはこのようなことが書かれている」
「ここでいったん休憩を入れようか?」アランはジャスティンに訊いた。「モーガンが態勢を立て直せるように。いまのやりとりはハントが勝ったようなものだ。出会い系サイトはたしかにいまや主流になっている。これがうまくいかないと、誰に言える?」
「わたしは言える」ジャスティンが答えた。「全女性が言える。わずかでも良心のある人なら誰だって言える」
「そうだとも」アランは地雷原に足を踏み入れたのを察して、そう言った。「まったくもって下劣な考えだ」
妻であるジャスティンはほほえんだ。「心配しなくていい。モーガンはちゃんとわかってやっているんだから」
「よろしければ、次はあなた自身についてお話をうかがいたいのですが、ケイン?」モーガンは言った。
「なんでもどうぞ」
「あなたは乳糖不耐症ですか?」
「いまなんと?」
「簡単な質問です。あなたは乳製品の消化ができますか?」
ハントは顔をしかめた。「意図がわからないのだが、モーガン」
「あなただけじゃないのね」ジャスティンは夫に言った。
アランは肩をすくめた。
「彼女はなにをたくらんでいるのかしら?」彼女はそうつづけた。
「いや、わたしは乳糖不耐症ではない」ハントは言った。「なぜそう考えるのだね?」
「抗議する人たちからやたらとミルクシェイクをかけられているのに、なぜ今夜にかぎってボディガードが必要になったのか気になりまして」
「わたしは知名度が高い。殺してやるという脅迫状が何通も来ているんだよ」
「それは知りませんでした。警察には届けたのですか?」
「警察の半分は女性だ」ハントは鼻で笑った。「彼女たちがわたしへの脅迫をどれだけ深刻に受けとめると思う?」
「あなた以外の人への脅迫と同じくらい深刻にとらえると思いますが」
ハントは内ポケットに手を入れ、折りたたんだ紙を出した。「これを見るといい。いちばん最近のもので、数日前に届いた」
モーガンは渡された紙をひらいた。膝になにかが落ち、拾いあげた。
「あれを大写しにして」ジャスティンが指示した。
ヨセフがすべきことをすると、マスターモニターいっぱいにモーガンの手が映った。
「なんだ、あれは……?」アランが言った。
押し花だった。可憐なライラックの押し花。先端が尖った五枚の花びらが星の形を作っている。きれいだ。身の危険を感じさせるものではない。
「花ですね」モーガンは言った。「これがなにか?」
「手紙を読んでみてくれ」
プロ中のプロであるモーガンは、渡されたばかりのものをいきなり声に出して読むほど愚かではなかった。まずい内容がないかざっと目を通したが、とくになかった。内容は詩だった。
「オクターブのようね。わたしの思い違いでなければ、八行からなる詩だわ」
彼女は3カメが撮影できるよう紙を傾けると、声に出して読んだ。
吊るし人の頭巾(ず きん)の下、
滴る血の下、
黄色い果実の下に
悲鳴をあげる根がある。
耳をふさいで、地面から引き抜き、
乾燥させ、叩きつぶせば、
あなたが果てしない眠りについたとき、
あなたの棺のかたわらで、すすり泣く者はひとりもいない。
「わかりませんね」読み終えるとモーガンは言った。「なぜこれが殺しの脅迫だと思うのでしょう?」
「ちがうというのか? 棺の文字が出てくるではないか」
「へたくそな詩にきれいな押し花がはさんであるだけでしょう。いますぐ、陸軍特殊空挺部隊の手をわずらわせるほどのものではないと思います」
ハントは黙っていた。額の汗が顔を伝い落ちる。ヨセフがそれに気づいてくれるといいけれど、とモーガンは心のなかで祈った。コマーシャルをはさむ予定だったが、先をつづけることにした。「でも、当然、ボディガードをつける必要を感じているのでしょう?」
「おっしゃる意味がよくわからないのだが」
「アニタ・ファウルズという名前にぴんときませんか?」
「さあ、記憶には──」
「法律を学ぶ学生で、裸の写真がなぜかあなたのウェブサイトに掲載されたため、あなたを相手取って訴訟を起こしたものの、敗訴した女性です」
ハントは肩をすくめた。かすかにうすら笑いを浮かべた。「その件はすでに法廷で決着している」
「ええ、そのとおり」モーガンはひと呼吸おいてからつけくわえた。「あなたは女性が怖いのですか、ケイン?」
ハントはおかしそうに笑った。鼻から汗がひとしずく落ち、彼は空咳をひとつした。「とんでもない。なんで怖がらなきゃいけない?」
「さあ」
「女など怖くもなんともないね、モーガン。あなたのこともだ。しかし、誰もがわたしのような恵まれた立場なわけではなく、なかには女に恐怖を感じる男もいるだろう。だから、わたしは『チャド宣言』を執筆した」
「しかしですね、あなたは女性のことを思い浮かべるたび、かわいい息子がしぼんでしまうと聞いています。チョコレートでコーティングしたピーナッツのようにバイアグラを飲んでもどうにもならず、あなたの兵隊さんは直立不動の姿勢を取れなくなるとか」
「うそでしょ?」ジャスティンは言った。「1カメ、ハントの顔のアップ。ヨセフ、早く!」
「やってます」
石英灯の強い光ですら、ハントの首から顔へとひろがっていく赤みを隠せなかった。彼は歯を食いしばった。額の血管が浮きはじめた。
「ばっちりだわ」ジャスティンは言った。
「なにを言いだす?」ハントは怒鳴った。「バイアグラを使ったことなど一度もないぞ! わたしが関係を持った女性は、それこそ何百人といるが、全員が忘れられない一夜を過ごしている。しかも、百パーセント、自然にね」
「今夜、はじめてうそのない発言をされたようですね」モーガンの声は気味が悪いほど甘い響きを帯びていた。「あなたがご自宅に連れ帰った女性たちは、たしかにその夜のことを忘れられないようです。プロによるセラピーを受けたあとも」
「どこからそんな情報を仕入れたのか知らないが、わたしならリサーチャーをお払い箱にするね。気がついたら、深刻な法的問題に……」
モーガンがジャスティンを含む全員に隠していた品物を披露した。トートバッグを逆さにすると、ガラスのテーブルになにかが落ちた。
男性器の形をしたそれは黒いシリコン製で、ハーネスがついていた。安っぽいと同時に哀れに見えた。
「あれはいったいなんだ?」アランはモニター画面を食い入るように見つめながら訊いた。
「うそ、ペニスサックだわ!」ジャスティンがアランの質問に答えた。「性的不能の男性の息子にかぶせるもので、ストラップで固定するようになってる。つまり、挿入性交が可能ってこと。いちおうね。あんなものを持ち出して、テレビの生放送でなにをするつもりなの?」
「なんでそんなことを知って──?」
「何年か前、勃起不全をテーマにしたドキュメンタリーをやったじゃない、覚えてない?」
アランは覚えていた。斬新な内容ではなかったものの、そう悪い番組でもなかった。
「ここでコマーシャルに行こうか」アランは赤いボタンの上に手をかざした。
「本気で言ってるの? ここでモーガンの発言を中断するつもり? そんなことをしたら彼女に皮をはがれて、帽子にされちゃう」
「そりゃそうだ」
「でも、準備だけはしておいて」ジャスティンは言った。「ハントはいまにも心臓発作を起こしそうな顔をしてる」
ジャスティンの言葉はおおげさでもなんでもなかった。ハントは本当に具合が悪そうだった。モーガンがテーブルの上のペニスサックを押しやった。ティッシュペーパーで。
「これをアニタ・ファウルズのフラットに置き忘れたそうです。あなたに返してほしいと、彼女に頼まれました」
「そ、そ、それはわたしのではない!」
「ちがうんですか?」
「あたりまえだろう!」
「でも、あなたのもののように見えますが」
「わたしのもののように……わたしのもののように見えるというのはどういう意味だ?」
「あら、ごめんなさい。まだ言ってませんでしたっけ? アニタはあなたがふにゃふにゃの息子さんをその道具に入れているところをこっそり撮影していたんです。どうしてペニスバンドを着けているのかと訊いたら、あなたはわっと泣きだしたそうですね」
「あの女は秘密保持契約(NDA)に署名した」ハントは言った。「動画などないに決まっているが、たとえあったとしても、それを第三者に見せることはできないはずだ」
「もちろん、そのとおりです。たしかにアニタはNDAに署名しています」モーガンは相づちを打った。「女性たちは全員がNDAに署名しています。今日(こんにち)までインターネット上になにも出てこなかったのはそれが理由です。あなたにとって残念なのは、アニタは法律を学ぶ学生で、彼女が撮影した動画にはあなたが隠し芸を披露するところが含まれていたことです。つまり、スタンガンで煙草に火をつけるところが。心当たりはありますか、ケイン?」
ハントは無言だった。息が荒くなりはじめていた。
「ところで、ご存じないかもしれませんが、あらゆる契約と同様、NDAも違法行為の保護には使えません。弁護士に相談したところ、あなたが違法な武器を所持し、使用したことで、当該NDAは無効と考えられるとのことでした」
「気分がすぐれない」ハントは言った。
「気分がすぐれない?」モーガンは訊いた。「なるほど。もっと気分が悪くなる話をしましょうか。インターネット上に写真を掲載されたアニタは、報復してもかまわないと思ったようね。番組が始まると同時に、問題の動画を送信したんです。いくつものウェブサイトや新聞の編集者、それに──」
「いや、そうじゃなくて、本当に体の具合が……」
ハントは椅子に力なくすわりこんだ。それも一瞬のことで、すぐに磨きあげたスタジオの床に倒れこんだ。意識を失った状態で嘔吐した。
ジャスティンは唖然としてモニターに見入った。ヨセフはライブ中継の映像をモーガンの引きつった顔に切り替えていたが、3カメはまだハントの顔をとらえていた。ビーツのように真っ赤だ。口の端から嘔吐物が滴っている。
「CMに行って!」ジャスティンが甲高い声を張りあげた。
アランがカットボタンを押し、中継が切れた。そしてスタジオの床では、ケイン・ハントが臨終を迎えようとしていた。
3
「ポー、なんで、あたしの足の爪なんかほしがる人がいるの?」
ワシントン・ポーは飲んでいた紅茶のほとんどを鼻から吹いた。残りは顎とTシャツに飛び散った。隣で高性能の双眼鏡をのぞきこんでいたステファニー・フリン警部が忍び笑いを漏らした。
マチルダ・〝ティリー〟・ブラッドショーに言われたなかで、もっとも奇妙なことというわけではなかった。トップ5にも入らないが、なんの脈絡もなく、トップ10内に滑りこんでくることはあるだろう。9位あたりに。雲の形を好きな順に並べてみてと言われたときよりも奇妙だが、臀部のほくろを調べてほしいと頼まれたときにくらべれば断然ましだ。
「助けてくれよ、ボス」ポーは自分のTシャツを見おろしてため息をついた。洗濯済みのTシャツはあと一枚しかない。
フリンは首を横に振ったが、目は双眼鏡から離さなかった。うしろでひとつにまとめたブロンドの髪が、馬の尻尾のように揺れた。
「お断り」フリンは言った。「ティリーはあなたに質問したんだし、わたしはいまも母乳で育てなくてはいけない理由を一時間にわたって聞かされたばかりなんだから」
「まだ母乳をやめちゃだめよ、フリン警部」ブラッドショーは言った。「世界保健機構が明言してるもの。十八カ月間、母乳をあたえることで、赤ちゃんの栄養状態が改善して、病気にかかりにくくなるって。二歳になるまでずっと、病気と戦うのを助けてくれるんだから」
「ふうん、そう。でも、息子が吸いつくのはあなたの乳首じゃないものね」
「ひび割れを起こしてるの? 母乳を保湿剤がわりに使ってみた?」
今度はポーが忍び笑いを漏らした。ブラッドショーの言動にはいつもながら、聞いているこちらが恥ずかしくなる。
「そういうのはいいから、ティリー」フリンは答えた。「それにお医者さんにちゃんと相談したの。もう卒乳してもかまわないそうよ」
ブラッドショーは顔をしかめた。彼女に言わせれば、医師は歯科医より一段上なだけの存在だ。つまり、ほとんど役に立たない。
「それはともかく」フリンはつづけた。「あなたはポーに自分の足の爪を売ろうとしてたんじゃないの?」
4
これほど奇妙な張り込みをポーは経験したことがなかった。
ターゲットの向かいに住む八十代のエムズリー夫妻が所有する物置部屋に三日間。
三日間、なにも起こらなかった。
誰の姿も目撃されず、監視対象の住宅に人が住んでいる気配もない。雨、風、みぞれ、そしてエムズリー夫妻が飼っている関節炎で腹にガスがたまったようなミニチュア・シュナウザー犬のコリンがときおり顔を出すのが三日間つづいただけだった。
すでにクリスマスは過ぎ、一月の風は身を切るように冷たく、灰色の雲は手が届きそうなほど低く垂れこめている。気温は氷点下をかろうじてうわまわる程度。骨身にしみる寒さだが、雪が積もるほどではなかった。どれだけ気をつけても、外を歩くたび、ジーンズの下から六インチのところまで泥水が飛び散ってしまう。
エムズリー夫妻──国家犯罪対策庁(NCA)の一部門であり、連続殺人犯と連続強姦犯の追跡を任務とする重大犯罪分析課(SCAS)を迎え入れるのに、はじめのうちは心を躍らせていた──ですら、いいかげんいやになってきていた。エムズリー夫人は午前中ずっと、お勧めされているサーガ・クルーズの格安ツアーに行きたいというようなことを遠回しに言っていた。
フリンは当初、それほど長くかからないと説明していた。でたらめを言ったのではない。ターゲットの自宅周辺には三十人近くの警官を配置させており、予算が無尽蔵にあるわけではない。
少なくともおれたちは屋内にいられる、とポーは心のなかでつぶやいた。エムズリー家の物置部屋は監視任務の司令部になっていた。フリンは電波状況がまともで、ターゲットの自宅を見通せる場所が必要だと考えた。それにくわえ、ひとりになれて、雨に濡れる心配をせずに母乳を搾れる場所も必要だった。定期的にそれをやらないと乳房が痛くなるのだと、ブラッドショーはポーに説明した。ポーはどこでそんな知識を仕入れたのか、あえて尋ねなかった。
ポーは以前にも張り込みの経験があった。それこそ何百回も。長いこと警官をやっているから、考えなくてもできる。フリンも同じくらい経験がある。
しかし、ふたりともこういう張り込みははじめてだ。
理由のひとつはターゲットだ。マスコミが“ばね足ジャック”と名づけたその人物は、しばらく前からワトフォードの女性たちを死の恐怖に陥れていた。卑劣な犯人はガイ・フォークスの仮面で顔を隠し、白昼堂々と残忍な犯行を重ねていた。八回の犯行のうち六回では、一般市民が取り押さえようとした。また、二匹のジャーマンシェパードによる警察犬隊が現場周辺を巡回していたときもあった。
犯人は逃げた。
やすやすと。
なぜなら、ばね足ジャックはトレーサーだからだ。つまり、フリーランニング、跳躍、スウィング、クライミングを組み合わせたパルクールという運動方法で体を鍛えているということだ。追われるたび──ばね足ジャックにとって追われるのは快感そのものとポーは信じて疑わない──防犯カメラや携帯電話のカメラにとらえられてきた。ビルをよじのぼり、長距離を跳び、追いつめられると追っ手を飛び越える姿はにわかには信じがたかった。
そのため、作戦には若くて運動神経のいい警官が多数集められた。なかにはオリンピックのイギリス代表だった女性警官もいた。動きらしい動きがほとんどなく、うっとうしい天気であるにもかかわらず、ポーが何度様子を見に顔を出しても、ひとことの愚痴も聞こえてこない。全員がばね足ジャックをとらえ、すごい技を披露できるのはおまえだけではないと悟らせてやりたいと思っているからだ。
この張り込みが異常であるもうひとつの理由は、ブラッドショーが参加していることだった。彼女は分析官であり、分析官は普通、監視作戦に参加しない。ポーはこれまで文官がいる張り込みなど経験したことがなかった。べつに縄張り意識からそうしているわけではない。文官は組合に入れるが、警察官はちがう。
今回はブラッドショーがぜひにと言って譲らなかった。
屋外に出ると目を細くしがちであるため〝モグラ人間〟と愛情をこめて呼ばれる彼女のチームは、防犯カメラや携帯電話にとらえられた映像からばね足ジャックの動きを分析して評価するプログラムを書きあげた。それをユーチューブやその他のウェブサイトにあるフリーランナーやトレーサーの何千時間分もの動画と比較した。そして、ばね足ジャックほどのパルクールの技量を有する者が、それを隠しとおすのは至難の業(わざ)だという、ごく当然の結論に達した。犯行の際に目立つのなら、日常生活でもひけらかしているはずだ。
それが実を結んだ。
誤差を考え、六人の容疑者候補のリストが作られた。警察による入念な捜査の結果、リストはひとりの容疑者に絞られた。それが、パトリック・〝ザ・トリック〟・バーネットソンだ。
フリンは自宅で取り押さえる方針を固めた。極秘侵入チームはバーネットソンが不在なのを確認したが、歯ブラシから採取したDNAのサンプルによって彼がばね足ジャックであることが確認された。フリンはその事実を公表せず、待つ判断をした。さらなる犠牲者が出る危険もあるが、おおやけにすればバーネットソンは逃亡してしまうかもしれない。しかも、犯罪人引渡条約を結んでいない国のパルクール仲間の伝手(つ て)を頼れば、永遠に捕まらない可能性もある。
ブラッドショーはバーネットソンの自宅周辺の地図を作成し、それをコンピュータで三次元モデルに変換した。身柄を確保しようとする警官を振り切った場合、どの方向に逃げ、どのような行動を取るかを予測するシミュレーションをいくつもおこなった。そのため、追跡する警官に指示を飛ばすには、自分も張り込むしかないと主張したのだった。
滞在が長引いた結果、真の理由があきらかになった。張り込み中の食事がどんなものかをポーに聞かされて肝をつぶしたブラッドショーは、母乳育児中のフリンが栄養的にバランスのいい食事をとれるよう配慮するのは自分の役目と考えた。そして、フリンが果物、野菜、木の実、脂ののった魚を食べるのに、ポーの食事がパイ、フライドポテト、ケバブ、中華のテイクアウトでは不公平だと考え、みずからなんとかすることにした。ポーには食事はフリンが用意していると言い、フリンにはポーが用意していると言った。ブラッドショーは生まれてこの方、意図的に人をだましたことがないため、ふたりは互いに確認を取ろうとは考えなかった。
最初になにかおかしいと思ったのは、ポーが物置部屋に足を踏み入れたときだった──ケバブ店のようなにおいがしなかった。
フリンはポーがなにも持っていないのを見て言った。「カレーはどうしたの、ポー?」
ブラッドショーが用意したのは、ふたりが楽しみにしていた、焼いたり、油で揚げたり、砂糖たっぷりだったりのスナックではなく、ナツメヤシとクコの実を使った栄養バー、新鮮な果物、ニンジンスティックとフムス、無塩のナッツ、それに独特なにおいがするパンだった。また、エムズリー家の冷蔵庫を使わなくてすむようにと、小型の冷蔵庫も持ちこんだ。
「ヨーグルトが入ってるぞ、ボス」ポーは愚痴をこぼした。「張り込みのときにヨーグルトなんか食ってられるか」
「でも、生きた乳酸菌が入ってるんだよ、ポー」ブラッドショーは言い返した。
「乳酸菌などくそくらえ──」
「そのくらいにしておいて、ポー」フリンが割って入った。「それから、ティリー、ポーをいじめるのはやめなさい」
「ポテトチップスはないのか?」ブラッドショーがいなくなるとさっそくポーは言った。「安いソーセージロール、しゅわしゅわするキャンディー、なかにあやしげなちっちゃいチューブが入ってる肉は?」
「彼女が寝たら買いに行けばいいでしょ」フリンは言った。
「あいつは寝ないし、おれたちがいるのは住宅街のど真ん中だ。歩ける範囲にある店といったら新聞の販売店くらいだし、バーネットソンを警戒させる恐れがあるから、見慣れない車を近くに置いておくわけにもいかないだろ」
フリンはため息をついた。
「がまんするしかないわね、ポー」
ブラッドショーが茶色い紙袋を手に戻ってきた。ポーは袋をにらみつけた──腹立たしいことに、油染みひとつついていない。
「わさび味の緑豆を食べる、ポー? オーガニックだよ」
ポーがまた文句を言いはじめると、フリンはひとりごとをつぶやいた。「もっと楽に稼げる仕事が絶対にあるはずだわ」
5
ティリー・ブラッドショーは人間の〝外(はず)れ値〟だ。外れ値という語を使いたがらない数学という分野における天才だ。最初に好きになったのは数学だが、彼女は正真正銘の博学者、すなわち複雑な知識体系を駆使して多面的な問題を解決できる人材だった。十三歳のときに通っていた学校から引き抜かれ、オックスフォード大学に全額奨学金つきで居場所をあたえられたときから、ずっとそうだった。大学では、一世代にひとりという頭脳が開花し、潜在能力を思うぞんぶん発揮することができた。
学業の面では周囲の期待をはるかにうわまわる成績をおさめた。学問の修得を終えると、そのまま大学に残って研究の道に進んだ。ほっとした両親は特殊な頭脳を持つ娘が、その頭脳にふさわしい数少ない特殊な居場所を見つけたのだと信じた。
何年かはその場所で不足はなかった。
やがて、状況が変わった。
彼女は誰にも言わずに重大犯罪分析課(SCAS)のプロファイラーの職に応募し、首尾よく合格した。採用試験の問題のうち三問の間違いを訂正して提出したところ、過去最高得点を、同点にすることはできても追い抜くことはできない点を叩き出した。平均点が六十三点の試験で百点満点を獲得したのだ。
こうしてSCASで働きはじめた。
すると誰もが驚いたことに、彼女は苦労した。
彼女は頭脳明晰で、ほかの人にはできないことができる。ほかの人なら思いつきもしないことをやってのける。オーダーメイドの解決法を考案し、どんなコンピュータよりも速く、データのパターンを見つけられる。ほぼすべての犯罪科学の分野の第一人者となった。法廷会計学、デジタルとマルチメディア、指紋解析、血痕のパターン、銃器および線条痕の検査、地理的プロファイリング、歩行解析。しかも、過去のある時点における空の状況を特定できるよう、法天文学まで学んだ。
イギリスの法執行機関にとって、誰よりも貴重な人材になってもおかしくなかった。
しかし、教授や客員研究者、さらには両親でさえもわかっていなかったのは、あまりに幼い時期から大人向けの教育をほどこせばそれなりの代償をともなうという点だ。
彼女は子ども時代を奪われて育った。
それよりなにより、自分とはちがう人たちと交流する機会がなかった。そのため、社会性が身につかず、言われたことを頭から信じ、皮肉や嫌みを理解できずに育った。しかも、自分の考えを他人が理解できる言葉にうまく変換できないせいで、悪意なくなんでも正直に言ってしまうところが無作法だと誤解されたりもした。
彼女はつき合いやすい相手ではなかった。
変わり者だった。
どこでも、変わり者はいじめられる。
彼女の能力に嫉妬したSCASの職員の何人かが、彼女の私物を盗んだ。連中は競うようにして、彼女に非常識なことをやらせようとした。口汚く彼女をののしった。
ブラッドショーは殻に閉じこもった。自分が情けなかった。
そんなとき、ポーが彼女の人生に登場した。一年半の停職をへて職場復帰した彼は、SCASで最高のプロファイラーを現場に同行させたいと要望した。以前はポーがついていた警部の役職に昇格したフリンが、ブラッドショーを勧めた。彼女と言葉を交わしたポーはふたつの点に気がついた。第一に、つき合いづらさと悪気のない無礼さの下に、とてつもなくやさしく聡明な若い女性がひそんでいること。
もうひとつは、彼女がいじめられていることだった。
ポーは人をいじめるやつにがまんがならない。
これまでもそうだったし、これからもそれは変わらない。
そういう連中を見ると血が騒ぐ。過剰に反応してしまうのだ。
ブラッドショーをいじめるのはポーをいじめるのも同然だと、SCASの人間はほどなく悟った。実際、そう悟ったほうが身のためだった。
人生経験に関してはふたりは正反対──ポーのほうはいくらか経験があり、ブラッドショーは皆無──で、知力の点ではほとんど理解し合えなかった。うまが合うはずがなかった。
しかし、結果はちがった。
ブラッドショーは子どものように不調法で、無神経な発言をし、謙虚さのかけらもないが、ポーがこれまで出会った誰よりも好人物だった。頑固なまでに誠実で──これはふたりに共通している──度が過ぎるほど気前がよく、しかもポーを守るためならミツアナグマ並みに獰猛になる。彼女は二度、ポーの命を助け、殺人罪に問われるのを阻止してくれたことも一度あり、数え切れないほどの悪人の逮捕に協力してくれた。さらには彼の心にひそむ悪魔を抑えるのにも、彼女の存在がひと役かっている。彼が進もうとしている暗い自滅の道以外にも道はあると彼女に教えられた。同じ通りでも明るいほうを歩けばいいのだと。
そのかわり、ポーは彼女がいまも慣れずにいる複雑であいまいな世の中の水先案内役をつとめている。相手を怒らせることなく同僚と意思疎通をはかるにはどうすればいいかを教えた。おかげで彼女はボディランゲージや皮肉や嫌みをだいぶ理解できるようになった。
それでもブラッドショーであることに変わりはない。見事なまでに無垢な歩く手榴弾であり、カーライルの主教に腹がゆるくなるからリコリス茶は飲まないと言ってのけたときの彼女のままだ。いつもTシャツとカーゴパンツという恰好で、流行のデザインのものを買う余裕がありながら、ハリー・ポッターみたいな眼鏡を好み、しかも灰色の目が実際よりも大きく見えるほど分厚いレンズが入っている。
だから、彼女の足の爪の切りくずをほしがっているやつがいるというのは、ジョークの出だしとして言ったわけではなかった。
本当に買いたがっているやつがいたのだ。
――(本篇に続く)
■著者情報
M・W・クレイヴン
イギリス・カンブリア州出身の作家。軍隊、保護観察官の職を経て2015年に作家デビュー。2018年に発表した『ストーンサークルの殺人』で、英国推理作家協会賞最優秀長篇賞ゴールド・ダガーを受賞した。
■書誌情報
●タイトル:『ボタニストの殺人 上・下』
●著訳者:M・W・クレイヴン/東野さやか訳
●定価:各990 円(税込)
●発売日:2024年8月21日
●ISBN: 9784151842559、9784151842566
●レーベル:ハヤカワ・ミステリ文庫