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全米350万部の実話『ガラスの城の約束』衝撃の冒頭シーン。NYの街角で見かけた母の姿――

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ハヤカワ文庫『ガラスの城の約束』(ジャネット・ウォールズ/古草秀子 訳)は、5月2日(木)発売です。
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ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに10年以上ランク・インし続け、世界35カ国で翻訳された『ガラスの城の約束』。アカデミー賞受賞女優ブリー・ラーソン主演で映画化され、今、再び注目が集まっています。(日本では、6月14日より全国公開。詳しくはファントム・フィルム『ガラスの城の約束』
本書がセンセーションを巻き起こしたのは、NYで華やかに活躍する人気コラムニストだった著者が、秘めてきたホームレスの両親や極貧の少女時代を勇気をもって明かしたことにひとびとが胸を打たれたから――。読みはじめたらページを繰る手が止まらなくなる、冒頭シーンを特別公開!

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 第一章 路傍の母 


今夜はちょっと着飾りすぎかしらなどと思いながら、タクシーの窓からふと外を見ると、母が道ばたの大きなゴミ箱をあさっている姿が目に入った。ちょうど日が暮れたばかり。マンホールから立ちのぼる蒸気が三月の冷たい風にあおられ、歩道を行く人々は襟を立てて家路を急いでいた。私が乗ったタクシーは、目的地のパーティ会場の二ブロック手前で交通渋滞につかまっていた。

母はほんの一五フィート先にいた。体に何枚もぼろを巻きつけて春先の寒さを防ぎ、ゴミ箱を物色している。黒白のテリアの雑種犬が、足元にじゃれついていた。母のしぐさの一つひとつが見慣れたものだった──小首をかしげ、下唇を突きだしながら、ゴミ箱から拾いあげた品々を値踏みして、気に入った品物を見つけると、子どものように目を見開いてうれしがる。

長い髪には白い筋が混じり、絡まりあってもつれ、両目はひどく落ちくぼんでいたけれど、それでもまだ私の目には、崖から湖面めがけてみごとに飛び込み、砂漠で絵を描き、声高くシェイクスピアを朗読していたという若いころの姿を彷彿とさせた。頬骨は昔と変わらずに高くしっかりしていたが、肌は冬の厳寒や夏の炎暑にさらされ、干からびて赤らんでいた。道行く人々にとっては、このニューヨークに無数にいるホームレスのひとりにしか見えないだろう。

そんな暮らしをしていることは、すでにずっと前から知ってはいた。だが、母がゴミ箱から顔を上げた瞬間、私はパニックに襲われた。もし、母が私を見つけて声をかけてきたら、そこへ同じパーティへ向かう知り合いが通りかかったら、そして、母がその人に自己紹介をはじめたら、これまでずっと秘密にしてきた自分の過去がすっかり暴かれてしまう。

私はシートに深く身を沈め、運転手にパーク・アベニューの自宅へ戻るように頼んだ。

タクシーが建物の前に着くと、ドアマンがドアを開けてくれ、エレベーター係が自宅の階へと運んでくれた。夫はその晩もいつものように遅くまで仕事で留守だったので、室内は静まり返っていて、磨かれたフローリングに私の靴音だけが響いた。思いがけず母の姿を、うれしげにゴミ箱あさりをしている姿を目にしてしまった衝撃で、体がまだ震えていた。私はヴィヴァルディの音楽をかけて、なんとか心を落ちつかせようとした。

私は室内をゆっくり見まわした。二〇世紀はじめのブロンズとシルバーの花瓶の数々、擦り切れた革表紙の古書の列、どれも骨董市で集めてきたものだ。額装させたジョージ王朝時代の地図や、ペルシア絨毯、一日の終わりにかならず腰かける座り心地のいい革張りのアームチェア。私はここに自分自身の家庭を築こうとつとめ、自分が理想とするような人が住むのにふさわしい場所にしようとつとめてきた。

だが、心の奥底では、父と母が路傍の焚き火で寒さをしのいでいるのではないだろうかと、心配しない日はなかった。両親のことは心配でならなかったが、同時に誰にも知られたくない恥ずかしい存在でもあり、その一方で、親が食べ物や住居に不自由しているというのに、真珠で身を飾ってパーク・アベニューで暮らしている自分を恥じてもいた。

いったいどうすればよかったのだろう? これまで何度も援助を申し出たけれど、父はなにもいらないの一点張りだったし、母は香水スプレーとかヘルスクラブの会員権とか、ばかげたものをねだるばかりだった。自分たちは好きなように生きているのだと、両親は言っていた。

母に見つからないようにタクシーのシートに身を隠した日からずっと、私はひどい自己嫌悪にさいなまれた。蒐集したアンティークも、身につける服も、住んでいるアパートも、たまらなくいやだった。耐えきれずに、母の友人に電話して伝言を託した。それが母との連絡手段だった。

いつものようにそれから数日後、母から電話があった。母の声はあいかわらず快活でのんきで、まるで前日に一緒に食事したばかりのような口調だった。会いたいからうちへ来てほしいと頼むと、だったらレストランで食事をしたいと母は答えた。外食好きな母の意見をきいて、母のお気に入りのチャイニーズ・レストランでランチをすることにした。

店に着くと、母はもう席に座ってメニューを眺めていた。身なりは母なりに整えていた。染みがあまり目立たない分厚いグレーのセーターに、男物の黒い革靴。顔は洗ったらしいが、首まわりやこめかみのあたりは黒く垢じみている。

私を見つけるなり、母は元気よく手を振った。「ここよ、待ってたわよ!」大声で歓迎する。私は母の頬にキスした。母はテーブルに置かれた小さなビニール袋入りの醤油やダックソースや辛口マスタードを、ありったけさっさと自分のバッグに詰めこんでしまっていた。そのうえ、木製のボウルからおつまみの乾麺をバッグに移した。「小腹が減ったときのためにね」と言い訳しながら。

食事をしながら、母はピカソについて語りはじめた。作品についてあれこれ振り返ってから、結局のところ彼は大幅に過大評価されていると決めつけた。母によれば、キュビズム時代の作品はすべていかさまだ。バラ色の時代以降はこれといった価値ある作品はないというのだ。

「ママのことが心配なのよ。できることがあったら、なんでも言って」私は切りだした。

母の笑顔が消えた。「なんで、あなたに助けてもらわなくちゃならないの?」

「わたしは裕福じゃないけど、少しならお金もある。だから、必要なものがあれば遠慮なく言ってほしいの」

母はちょっと考えて答えた。「電気脱毛をやってみたいわね」

「まじめに話して」

「あら、私は本気よ。女はね、美しくなれば気分が良くなるのよ」

「ママ、お願いだから、真剣になって」母とこんな話をするたびに、私はひどく肩が凝るのを感じる。「わたしはね、ママたちの暮らしが少しでも良くなるように、なにかできないかしらって思ってるのよ」

「私の暮らしを良くしたい、って?」母は問い返した。「べつになんの不足もないよ。あなたこそ助けが必要よ。価値観がまるで混乱している」

「このあいだ、ママがイーストヴィレッジでゴミ箱をあさってるのを見たわ」

「ああ、この国の人たちは無駄が多すぎるんだよ。私はリサイクルを実践してるだけ」母は料理を頬張った。「で、どうして、声をかけなかったの?」

「恥ずかしかったのよ。だから隠れたの」

母は箸の先を私に向けた。「いい? それよ。だから、言ってるのよ。心が弱すぎる。パパにしろ私にしろ、ありのままを受け入れなさい。ありのままを」

「じゃあ、『ご両親は?』って訊かれたら、どう話せばいいの?」

「真実を話せばいいのよ。簡単でしょ」母は当然だと言わんばかりだった。


 第二章 砂  漠 


自分の体が炎に包まれていた。

それが私の最初の記憶だ。当時私はまだ三歳で、アリゾナ州南部の町のトレーラー駐車場で家族と暮らしていた。町の名前はわからない。私は祖母が買ってくれたピンクの服を着て、狭いキッチンのガス台の前に椅子を置いて、その上にのぼった。ピンクは大好きな色。スカートにはチュチュのような裾飾りがついていて、鏡の前でくるりとまわれば、バレリーナの気分だ。けれど、そのときの私は、小さな窓から遅い午後の日差しが入ってくる狭いトレーラーのキッチンで、鍋の熱湯のなかでソーセージがふくらんで踊りながら茄であがるのを眺めていた。

隣の部屋からは、絵を描いている母の鼻歌がきこえていた。足元で、黒い雑種犬のジュジュが物欲しげに私を見つめている。私はフォークでソーセージを一本突き刺し、身をかがめて犬にやった。ソーセージが熱かったので、犬はおずおず舐めた。体を起こして、ふたたび鍋をかきまぜようとしたとき、右半身に猛烈な熱さを感じた。ふと見ると、服が燃えている。恐怖のあまり凍りついているうちに、黄色っぽい炎がピンクのスカートを茶色く焦がしながら、みるみる鳩尾まで這いのぼってきた。つぎの瞬間、炎がはじけて顔に飛んだ。

悲鳴が喉から迸った。焦げた匂いが鼻をつき、髪の毛やまつげがぱちぱち恐ろしい音を立てて燃えていた。ジュジュが狂ったように吠える。私はもう一度悲鳴をあげた。

母がキッチンに走りこんできた。

「ママ、たすけて!」必死に叫んだ。私は椅子の上に立ったまま、鍋をかきまぜるのに使っていたフォークを振りまわして、炎を防ごうとした。

走ってきた母は、ちくちくするいやな感触の陸軍払い下げの毛布を、私の頭からすっぽりかぶせて、なんとか火を消しとめた。父が車で出かけてしまっていたので、母は私を抱え、弟の手を引っぱって、隣のトレーラーへ急いだ。そこに住んでいる女の人は、洗濯物を干している最中で、口に洗濯ばさみをくわえていた。母が妙に冷静な口調で事情を説明し、病院まで乗せていってもらえないかと頼んだ。女の人は洗濯ばさみも洗濯物もその場に放り出して、すぐさま車へ走った。
 
病院へ着くなり、ストレッチャーに載せられた。看護師たちが大きな声で指示を交わし、心配そうに囁きあいながら、ぼろぼろに焼けこげたピンクの服をぴかぴかの鋏で切り裂いた。そして、小粒の氷を敷きつめた大きな金属製のベッドに私を仰向けに寝かせて、さらに体の上からも氷で覆った。

黒ぶち眼鏡に白髪の医師が、母を処置室の外へ連れだした。立ち去りぎわに、非常に深刻な状況ですと医師が母に話しかけているのがきこえた。看護師たちは残って、私を見守っていた。自分がとんでもない大騒ぎを引き起こしてしまったのはわかったので、私はひたすら黙っていた。すると看護師のひとりが私の手をぎゅっと握って、大丈夫だからねと声をかけてくれた。

「うん。でも、もしだめでも、しかたないの」私は答えた。

看護師はもう一度私の手を握って、下唇を噛んだ。

処置室は狭くて白くて、明るい照明と金属製の戸棚があった。私は天井板に並んでいる小さな点を見つめていた。鳩尾も胸も頬も氷に覆われていた。と、顔のそばに垢じみた小さな手がのびてきて、氷をつかんだのがちらっと見えた。ベッドの下のほうで、氷を噛み砕く音がいやに大きく響いた。下をのぞくと、弟のブライアンが氷をかじっていた。
 
死なずにすんだのは幸運だったと、医師たちは言った。胸から腹にかけて火傷がひどい部分には、大腿部の皮膚を切り取って張りつけた。「しょくひじゅつ」という手術だそうだ。手術がすむと、私の右半身は包帯ですっかり覆われた。

「ねえ、はんぶんミイラみたいでしょ」私は看護師に言った。彼女は笑顔を見せてから、三角巾で包んだ私の右手をヘッドボードに固定して動かせないようにした。

医師も看護師も私にあれこれ質問した。どうして火傷したの? これまでお父さんやお母さんに乱暴されたことはある? 体中に痣や切り傷があるのはどうして? 

両親に乱暴されたことなどないと私は答えた。痣や切り傷は外で遊んでいるときにできたのだし、火傷はホットドッグをつくっていたせいだと。まだ三歳なのに自分でホットドッグをつくってたのはどうして、と彼らは訊いた。簡単だからと私は答えた。

熱湯のなかにソーセージを入れて、茄でればいいだけ。もっと大きくならなければできないような、むずかしい料理ではないと。鍋に水を入れると重すぎて持てなかったので、幼い私はシンクの前に椅子を置いて、よじ登ってはコップに水を入れ、鍋を置いたコンロの横の椅子の上に立って、コップの水を鍋に注いだ。そうして何度もくりかえして、鍋に水を満たした。それから、コンロに火をつけ、湯が沸いたらソーセージを入れるのだ。

「ママが、わたしはしっかりしてるって。だから、りょうり、してもいいって」私はそう説明した。

二人の看護師はたがいに顔を見合わせて、ひとりがクリップボードになにか書きつけた。なにがいけないのと、私は尋ねた。なんにも、と看護師は答えた。大丈夫よと。

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この続きは、5月2日発売の『ガラスの城の約束』(ジャネット・ウォールズ/古草秀子 訳、ハヤカワ文庫)でお楽しみください。

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