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ドルが危ない? 果たして円は? 宮崎成人『強い通貨、弱い通貨』試し読み

国際経済・金融の分析は一種の「ミステリー」と言っても過言ではありません。かつて圧倒的な覇権通貨であった英ポンドは世界大戦を経て20世紀前半に没落しました。金本位制という当時の硬直的なシステムの下では、それ以外の結果を想定するのは困難です。ポンドは、金本位制という「現場」で、世界大戦と大恐慌によって「殺された」のでした。
では、もしドルが没落への道をたどる場合、ドルを「殺す」者は誰でしょうか? 今世紀半ばに私たちが直面するであろうシナリオを推理する『強い通貨、弱い通貨』(宮崎成人、ハヤカワ新書)より、「はじめに」を公開します。

『強い通貨、弱い通貨』宮崎成人、ハヤカワ新書(早川書房)
『強い通貨、弱い通貨』宮崎成人

はじめにーマイノリティ・リポートー
事件が起きる前に

世界中のほとんどの国は、自分たちの国に特有の通貨を持っています。日本なら円、アメリカならドル、といった具合です。

当たり前のようですが、必ずしもそうではありません。
例えば強い経済関係にある大国の通貨をそのまま国内で用いたり、国内の高インフレへの解決策として信用力のある他国の通貨(主にドル)を自国内で流通させたりすることはよくあります(いわゆる「ドル化」)。企業や家計が自発的に外貨を用いるのみならず、政府が外貨に国内通貨としての法的地位を与えることも珍しくありません。

このような場合、自国通貨あるいは独自コインと他国通貨が併用されるのを公認するケースが多いですが、自国通貨自体を廃止してしまうケースもあります【注1】。ドルとの関係では、併用の例として20世紀初頭以来のパナマをはじめとする中南米諸国が挙げられますし、廃止の例としては2000年代のジンバブエが有名です。ヨーロッパでは、ユーロの導入後バチカン市国、サン・マリノ、アンドラなどの小国がユーロを法定通貨とし、独自通貨はありません。最近では2023年11月の選挙で当選したアルゼンチンのミレイ大統領が、同国の積年の経済問題(特にインフレ)への解決策として、ドル化(ペソの廃止)と中央銀行の廃止を公約として掲げていました。

これらの国々は受動的にドルやユーロを流通させているだけですから、当然アメリカの連邦準備制度理事会(以下「FRB」)や欧州中央銀行(以下「ECB」)の金融政策決定など、ドルやユーロに関する意思決定過程には参画できません。もっともフランスやドイツといったユーロ圏諸国にしても、通貨政策はユーロ参加国全体の合議で決まるので、個々の国としてユーロに関する完全な主権を持っているわけではありません。その意味で、厳密にはユーロを自国通貨と呼べないとも言えるでしょう。

いずれにせよ、世界に約200か国あるとすれば、それに近い数の通貨があり、その信用力や流通範囲、取引に関する規制等は様々ですし、国際的に用いられる度合いもそれぞれです。例えば輸出入の契約書の中で貿易品の価格の単位に使われるものは「インボイス・カレンシー」と呼ばれますし、各国の公的な外貨準備に積まれるものは「準備通貨(リザーブ・カレンシー)」と呼ばれます。数多くある通貨の中には、広く国際的に利用され信用力の高い有力な通貨(国際通貨)がいくつか存在します。そうした国際通貨の中で最も重要なものを、日本では「基軸通貨」と呼ぶのが通例です。

本書は、まず基軸通貨に対する筆者の考え方を明らかにした上で(本書の「コラム1」)、有力通貨興亡の見地から過去を振り返り、将来を展望することを目的にしています。

歴史的な経緯に基づきドルが現状で圧倒的な存在感を持っているのは否定できない事実です。その結果、ドルには特別な地位と役割、そして責任が伴っています。各国はその事実を所与のものとして受け入れ、むしろ面倒なことはドルに任せて自国の繁栄を追求していると言ってよいでしょう。つまり、アメリカが主観的にドルを世界最強の通貨と見ているだけでなく、各国ともその状況を追認し、特に困らない限りアメリカの行動の自由を容認しているわけですから、現在もドルは覇権を握った通貨(覇権通貨)なのです。

一方で、アメリカの軍事的・政治的・経済的覇権が相対的に弱まっている、というのは一般に広がっている現状認識だと思います。では、なぜドルの覇権が依然として強力に維持されているのでしょうか? ドル以外の通貨が覇権を握る条件は何でしょうか? もしドルの覇権が失墜するとしたら、それはどのような要因によってもたらされるでしょうか? 過去の歴史は、この問題にどのようなヒントを与えてくれるでしょうか?

日本に住む我々にとっては、国際経済・金融秩序が変容していく中で円の役割がどうなっていくかにも関心があります。経済規模で米中や欧州の後塵を拝する日本にとって、円はどのような立ち位置を目指すべきでしょうか?

これらはあまりにも大きな問題設定であり、筆者の能力ではとても決定的な答えを導くことはできませんが、本書を通じて読者の皆さんが何らかの考えるヒントを得ていただければ、望外の喜びです。

国際経済・金融の分析はミステリーと言って過言ではありません。論理は大事ですが、予想外のどんでん返しも珍しくありません。市場にはサスペンスがあるでしょうし、当局の議論は密室(?)かもしれません。

圧倒的な覇権通貨であった英ポンドは、二度の世界大戦の結果、20世紀前半に没落しました。金本位制という当時の硬直的なシステムの下では、それ以外の結果を想定するのは困難です。つまりポンドは、金本位制という「現場」で、世界大戦と大恐慌によって「殺された」のでした(本書第二章)。もしドルが没落への道をたどる場合、ドルを「殺す」者は誰でしょうか? 

本書は、今世紀半ばを想定して、いくつかの候補を検討した上で、一つの結論に達します。当然ながら、唯一無比の結論だと言うつもりはありませんし、将来の状況によって(つまり現場が変わってしまえば)、結論も変わり得るでしょう。そもそも「事件」が起こらない可能性もかなり高いはずです。その意味で本書は、まだ起こっていない殺人事件の犯人捜しをしようという無謀な試みですから、あくまでも一つのエンターテインメントとしてお楽しみいただければ幸いです。

本書の各章には、その章の内容を象徴するような古今の名作SF・ミステリーのタイトルを用いました。筆者の遊び心であり、それらを読んでおられなくても全く問題ありません。もちろん、本書をきっかけにそれらの名作を読んでいただけるのであれば、出版社に代わって御礼申し上げます。

本書に引用されたデータなどは、特に出典が明示されていない場合、国際通貨基金(以下IMF)・世界銀行・OECDなどの国際機関か、日本や各国の政府・中央銀行などのホームページから取っています。また、本書に含まれる意見は、あくまでも筆者の個人的な考えであり、筆者がかつて、あるいは現在所属するいかなる組織の意見も代表するものではありません。

では、始めましょう。

【注1】固定相場制と「ドル化」や「ユーロ化」との中間的形態として、「カレンシー・ボード」という制度があります。これは外貨準備として保有するドルやユーロの量を上限として、固定されたレートで自国通貨を発行するもので、ドルに対しては香港や1990年代のアルゼンチンが、ユーロに対してはエストニアやブルガリアが代表的な事例です。


この続きは是非本書でお確かめください(電子書籍も同時発売)。

著者略歴

宮崎成人(みやざき・まさと)
1962年東京都生まれ。1984年東京大学法学部卒業。1988年英オックスフォード大学にて国際関係論修士号(M.Phil)取得。1984年大蔵省(現・財務省)入省。主計官、国際機構課長、副財務官など歴任。ロンドン、バーゼル、ワシントンなどで、BIS、IMF等の国際機関に通算17年間勤務。2016年より東京大学大学院(総合文化研究科)客員教授。現在、三井住友信託銀行顧問。他の著書に『教養としての金融危機』がある。

本書内容より

序章  鷲は舞い降りた 国際通貨覇権の淵源
第1章  幼年期の終り ドルの誕生
第2章  死にゆく者への祈り 最初の基軸通貨英ポンドの凋落
第3章  黄金三角 短命に終わった基軸通貨としてのドル
第4章  ゴッドファーザー 生き延びたドル秩序
第5章  大いなる幻影 ユーロの挑戦
第6章  ¥の悲劇 地盤沈下する円
第7章  レッド・ドラゴン 人民元の興隆
第8章  電気羊の夢 デジタル・カレンシーの登場
第9章  アクロイド殺し ドルを殺す者は誰か?
第10章 そして誰もいなくなった? 国際通貨覇権の行方

記事で紹介した書籍の概要

『強い通貨、弱い通貨』
著者:宮崎成人
出版社:早川書房(ハヤカワ新書)
発売日:2024年8月21日
本体価格:1,060円(税抜)

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