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AI裁判官vs不敗弁護士の特殊設定ミステリ! 『AI法廷のハッカー弁護士』試し読み

もしも、AIが裁判の判決を下すようになったら?――AI裁判官が導入された日本を舞台とするSFミステリ連作『AI法廷のハッカー弁護士』が刊行されました。作者は第8回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作『人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』竹田人造さん。

SF作家が描くAI時代の法廷ミステリ、本ページで試し読みを公開! ハッカー弁護士の活躍をどうぞお楽しみください。

【作品概要&登場人物紹介はこちら↓】

主人公・機島雄弁
(イラスト:shirakaba)

Case1 魔法使いの棲む法廷

   1

ヒッキー・フリーマンのスーツ +133
同ブランドのダークレッドのネクタイ +61
アレン・エドモンズの黒の六穴革靴 +89
アップル社製タブレット +4
すらりと伸びた手足(身長百七十八センチ)+131
ジム通いで得た健康的な胸板 +88
適度に張った頬骨と高い鼻(整形済) +146
青色カラーコンタクト +31
矯正&ホワイトニング済の白い歯 +87
耳に残るバリトン声 +162
ワックス輝くオールバック +43
磨き抜かれた弁護士バッジ +1

 合計976。これは魔法の数字だ。魔法使いだけがその意味を理解できる。
 この私、機島雄弁は魔法使いだ。いい大人が何を言っているのかと思うだろうが、事実だから致し方ない。
 釘を刺しておくと、976は何の値なのか、教えるつもりはない。誰にも教えないし、誰も見破れない。それこそ魔力の源なのだから。

*     *

「こういった仕事をしていると、それはもう多様な呼び名をいただく事がありまして」
 私は高級なブランドの靴で証言台の周囲を歩き回り、高級な音を鳴らした。
「一方では不敗弁護士。魔法使い。他方では無罪捏造家。冷血男。犯罪ロンダリング装置。諸悪そのもの。間接殺人犯などと言われることもありました」
 大動脈を思わせる電源ケーブルに視線を這わせ、その先の法壇を窺う。
「〝人の心がない〟などと罵られる辛さは、裁判長ならわかっていただけると思いますが」
 日本の正義、法を司る神聖なひな壇の上に、三台の裁判官が座していた。
〝三人〟ではない。〝三台〟だ。そこにはネットワーク接続されていない、スタンドアローン状態のサーバーマシンが並んでいた。
 AI裁判官。複雑化していく訴訟社会にあって、最高裁判所の鳴り物入りで導入された機械の裁判官だ。誤解なく、偏見なく、正義を正確に執行する。裁判を省コスト化、高速化し、広く国民に法の恩恵を行き渡らせる。そんな触れ込みで生まれた新たなる法の番人。
 かつて録音録画が禁止されていた聖域に、所狭しとマイクとカメラが並んでいる。天井からはぶら下げ式のモニタが三枚。室温は年中二十六度。AI制御の空調システムと大型消音ファンが、常にサーバーにとって快適な温度を保っている。
 ある弁護士は「法廷から四季が消えた」と言い、去りゆく裁判官は「ここは宇宙戦艦か?」と皮肉った。
 今、法廷は一つの機械となっていた。
「異議あり。意図が不明瞭な発言です」
 検察官からユーモアの欠片もない異議が飛ぶ。
『異議を認めます』
 裁判長のスピーカーは合成音声でそう鳴らした。
『弁護人、これは最後の被告人質問です。有効な質問を行うように』
「失礼。少々前置きが過ぎました。私が言いたいのは、今から皆さんのご期待に応えようということです。つまり……」
 ここで一度タメ。裁判官、検事、依頼人、その他オーディエンスが次の一言に集中するのを待つ。
「正義を代弁して、依頼人を責め立ててみようかと」
 意表を突いた宣言に検事が眉をひそめる。傍聴人もひそめる。あいにくと裁判官にはひそめる眉がない。最も面食らっていたのは、もちろん依頼人だった。
「ま、待ってくださいよ! 突然何を言い出すんですか、機島先生!?」
 依頼人は爆竹のように叫んだ。小柄で痩せぎすで低所得な青年だが、元気は十分。役者としては及第点だ。雇った弁護士に法廷で裏切られたのだ、自然な反応だろう。その自然さこそ私が望むものだ。
「依頼人……いえ、被告人。あなたは事件当日の午後十時に、虎門氏の高級マンションを訪れ、翌日一時まで二人で酒を飲んでいた。間違いありませんね?」
「弁護士の裏切り以上の間違いなんてあります!? 利益相反じゃないんですか?」
「イエスか、ノーですよ。質問するのは常に私だ」
「……間違いありません」
「被害者の死因は失血死。凶器のナイフには貴方の指紋が付着していた。認めますね?」
「…………認めます」
「よろしい」と私は笑ってみせた。
 通った鼻筋と大きな瞳は、私の笑顔をより力強い印象に変えてくれる。それだけでも、高級車一台分の整形代には価値があった。
「では続けましょう。死亡推定時刻である午前一時ごろから救急隊が到着した三時四十三分まで、マンションの監視カメラにはあなた以外誰も映っていなかった。そうですね?」
「そう、聞きましたけれど」
 傍聴席もいよいよ裏切りを実感したのか、法廷全体がざわつき始める。動揺と困惑の囁きは、私にとって擦れ合う木の葉同然の癒し系環境音だ。もし法廷での録音行為が許されていれば、録り溜めして夜中にベッドで流していた。
「あなたは現場から被害者のスマートフォンを持ち去った。それも事実ですね?」
「……事実です」
 ざわめきが渦を巻いていく。傍聴人達は思ったはずだ。これはシンプルな密室殺人で、被告人以外に犯人はありえない。だから弁護人が音を上げて、証拠から動機まで全て認めさせたのだと。裁判長がブザー音で黙らせるまで、傍聴人席のざわめきはやまなかった。
「では──」
 私は皆の視線が再び集まるのを十分に待って、最後の質問を繰り出した。
「被害者は酔ってバケツを蹴りましたか?」
「はい?」意表を突かれ、依頼人の声が裏返る。
 私は肩を竦めて、タブレットをスワイプし、法廷のメイン画面に現場の写真を映した。時価四百万は下らないだろうペルシャ絨毯を、ガラス机が無造作に踏みつけている。生々しい血痕のついた机の脇に、仰向けに倒れた男が一人。彼の腹にはナイフが突き刺さっており、机の反対側には薬瓶と錠剤が散乱していた。
 どこをどう見ても事件の核心はこの遺体周辺だ。しかし、私は凶器も血痕もスルーして、机付近から階段を三段上ったところにある上流マンション御用達のバーカウンターを拡大した。上流御用達の黒い大理石カウンターに上流御用達のワインセラー。上流御用達のラベルのついた空き瓶が転がっている。
「ここにワインクーラーがありますね。中の水がこぼれています。さて、被害者はこのバケツを蹴りましたか?」
「……ええ。酔っ払って蹴飛ばしてましたね」
「虎門氏は自らバケツを蹴った。あなたはそれを目撃した。事実ですね?」
「その通りですよ。次はなんです? UFOの目撃証言でも聞くんですか?」
 依頼人の声が苛立ちで高まる。
「まさか。貴方の精神鑑定は終わっています」
 私は裁判長に向かって、恭しく頭を下げた。
「以上になります。裁判長殿」
『検察官、異議はありますか?』
 田淵検事が私を睨む。自分にかけられた魔法を見透かそうと、無い知恵を絞って悩んでいる。私に言わせれば時間の無駄だ。肉を差し出されて食わない狼はいない。
 結局、検事は素直に頷いた。
「ありません。ただいまの供述で、事実関係が立証されたかと思います」
 かかった。私は笑いを噛み殺しながら、もう一度深々と頭を下げる。
 法廷の空気が臭う。正義を求める空気だ。金銭がらみで動機は明白。カメラと指紋で証拠は十分。挙げ句に弁護士にまで裏切られた。被告人席にいるのは純度百パーセントの人殺し。絶対に断罪されるべき。誰もが事件の真相如きに気を取られ、法廷で何が起こっているのか見えていない。所詮彼らはユーザーだ。スペシャリストには程遠い。
 被告人席に戻るや否や、依頼人は私に食ってかかった。
「どういうつもりですか、機島先生。どうしてみんなの反感を買うような真似……!」
「『何故、弁護士は依頼人を裏切ったのか?』……それが聞きたいのなら、やめておきたまえ。時間の無駄だよ」
 噛み付いてきそうな依頼人から目を逸らし、私は裁判官席を見やった。カメラアイを閉じて、行列演算ユニットのファンを激しく回転させている。室温の若干の上昇を感じる。
「三分足らずで変わるのさ。『何故、裏切ってなお勝訴したのか?』にね」
 宣言通り、きっちり三分後。AI裁判長はこう読み上げた。
『判決。被告人を無罪とします』
「ほらね」
 傍聴席から怒声と罵声が膨れ上がる。ふざけるな。不当判決だ。ありえない。これだけ証拠が揃っていて何故。犯罪者を野放しにするのか。それらの囀りをじっくりと味わいながら、私は背広についた糸くずを払う。
 傍聴人の誰かが叫んだ。「ここに正義はないのか」と。
「バカバカしい」
 正義とは勝訴のことだ。百パーセントの無罪と勝訴。それが私の魔法だ。

   2

 形態は機能に従う。
 アメリカ建築三大巨匠の一人、ルイス・サリヴァンの言葉だ。私の座右の銘でもある。
 美とは、すなわち最適化なのだ。
 渋谷駅から徒歩二分。筍のように生え並ぶオフィスビルの一角。打ち明けられない悩みを抱えた人物が、人混みから隠れてそっと入れる場所。
 そこに、機島法律事務所は居を構えている。人流データと心理学と懐事情を考えた、最適な立地だ。
 事務所の内装にも、当然意を用いている。
 大手の法律事務所と比べれば立地もサイズも見劣りするが、格調は負けていない。自動ドアを入ってすぐのカウンターには、スマートスピーカーと3DCGホログラムディスプレイを組み合わせた受付AIを配置している。居酒屋チェーンの受付に毛が生えた程度の代物だが、気鋭のCGデザイナーに発注したゴッホ風猫のモデルと自らカスタマイズした対話モデルで、ひと味違うと感じさせる出来だ。
 猫君の案内で角を曲がると、そこは自慢の待合室だ。反射を抑えた黒を基調とした落ち着いた色合いの部屋である。米国著名法律事務所で好まれる著名ブランドのテーブルに、七十万かけてイタリアから取り寄せたレザーソファー。そして壁には自慢の名画。あえて端の方に目立たない形でかけることで、事務所の格式を見せつける効果がある。控えめな環境音楽と共に時を刻むのは、馴染みの古物商から是非先生にと言われ買い取ったアンティーク柱時計……おっと、二秒遅れているな。私は電波時計を見ながら振り子をそっと指で押し、柱時計の秒針を調整した。これでよし。
「いや、我ながら見事な仕事だった。意表を突く逆転演出。検察の吠え面。特等席で観戦した気分はどうだね? 依頼人君」
 待合室の椅子に座り、ソファーでうつむく青年に聞く。
「……いい加減、名前で呼んでくれませんかね。軒下ですよ。軒下智紀」
 そういえば、そんな名前だったか。
 依頼人、軒下智紀。二十七歳。関東近郊のベッドタウン出身で、並程度の大学を出て、中規模の企業に就職した、ごく普通のサラリーマン。全国を震撼させた殺人事件の被疑者とは思えない、満員電車一両に三人は乗っていそうなモブ男。それが彼という男だった。
 誤解しないでもらいたいが、ここでモブは褒め言葉だ。私に言わせれば、ごく普通の依頼人は、金払いのいい依頼人の次に優秀だ。予想内の感情、予想内の行動、予想内の証言、予想内のこだわり。ノイズにならない人格は、私の最適な仕事を乱さない。仕事を終えればすぐ忘れられるというのも、メモリの節約になっていい。
 モブ下君はうつむいたまま、じっと自分の手を見つめている。
「機島先生。俺は迷ってるんですよ。右か、左か」
「と言うと?」
「右手は先生に差し出したい握手で、左手は先生に叩きつけたい拳なんです」
「利き手は?」
「左です」
 私は彼の左側の席から右側の席に移った。
「理解はしてるんです。先生がいなきゃ、俺は来年には絞首台だ」
 大げさだが、ありえない話じゃない。反省なしの強盗殺人だからね。最低限の自己認識はあるようだ。
「正直、捕まった時は絶望でしたよ。いくら事実をありのまま訴えても、他の弁護士先生はどう罪を認めて情状酌量を引き出すかの話しかしませんでしたから」
 それもそうだろう。依頼人の主張は信憑性があまりに薄い。鍵のかかった現場で、被害者と二人きり。殺人を裏付ける決定的な証拠こそないが、その状況で「僕以外の誰かが殺した」と言われて、誰が信じられる?
「中には虎門の厄介者イメージを利用しようなんて言う人までいて……無実を信じてくれたのは、機島先生だけだった。だから依頼したんです」
 信じたというより、単に興味がないだけだが。
 こちらとしても依頼人の案件は都合が良かった。虎門氏の死はセンセーショナルな事件で、大口顧客獲得のための宣伝商材にうってつけだったのだ。
「先生は本当に魔法みたいに無罪を勝ち取ってくれましたね」
 検察は即日控訴しましたけど。と彼は付け加えた。
「そうとも。君は私の魔法で得た無罪と保釈で、こうして自由を謳歌している。そこに一体何の不満があるんだね?」
「その、魔法ですよ!」
 依頼人はカッと目を見開いて立ち上がった。膝を机にぶつけても痛い顔一つしない。
「あんな詐欺みたいな弁護じゃ誰も納得出来ません! 見てくださいよ、この有様!」
 依頼人はスマートフォンでネットのニュース記事を開いた。
 画面に映った依頼人のアパートは、それはもう新種の芸術ではないかという有様だった。落書き、卵、廃材、生ゴミが溢れ、住居と三角コーナーの中間の存在になっていた。だからネットは見るなと言ったのに。
「監視カメラを取り付けておいて正解だったろう? 新生活の準備資金は彼らの財布に期待しよう」
「それだけじゃないんですよ。テレビだって俺を人殺し扱いだ!」
 依頼人はそう言って、今度はワイドショーの動画を見せてきた。どこの局でも、小難しいコメンテーターが小難しい顔つきで婉曲的に軒下を罵っていた。
「慰謝料が増えるな。新しい家にバスルームが二つ作れる」
 依頼人は重いため息をついて、再び席に腰を落ち着けた。
「そういう問題じゃないんですよ。素人にプロの世界は難しいのかもしれませんけど、どうしても何が起こったのかわからないんです。俺は嘘を一つもつかなかったのに、気付いたら虎門が自殺した事になってた。……一体最後の質問はなんだったんですか? 虎門がバケツを蹴ったことに何か意味が?」
 さてね。私は曖昧に首を振った。企業秘密の最たるものだ。教えてやるわけがない。
「ごく普通に事実を並べただけだよ。被告人は情緒に問題を抱えていて、裁判官は虎門氏の自殺の可能性を考慮した。それだけのことさ」
「本当に、そんなこと考えたんですか? あの機械が? 変なバグを起こしたわけじゃなく?」
 依頼人が吠える。何にでも噛み付くスイッチが入ったらしい。
 負けてこの手のラッダイト思想に染まる話は聞くが、無罪で言い出すのは珍しい。
「虎門だったら、絶対にあんな裁判許しません。だってあいつのモットーは」
「『幸福とは納得だ』だったかね」
 虎門金満。享年二十八。ここ数年で頭角を現したIT業界の寵児だ。納得主義の権化と言われる頑固者で、経営、技術、あらゆる面で自分が納得するまで一歩も企画を進ませなかった。
 そんな虎門が社会に与えた最大の影響は、やはりクローンバースになるだろう。日本発、虎門発の、メタバースの再発掘的な位置づけで生まれたバズワードだ。現実空間をそのままコピーした仮想空間を作り、そこに物質的社会的制約のない世界を作るというものだ。ゼロから空間を設計するよりもデザインが容易で馴染みやすく、そのわかりやすいコンセプトが投資家の興をかきたてた。今やクローンバースの情報から離れて暮らすには、目を瞑って耳をふさぐしかない。
「『幸福は納得であり、納得は選択だ。俺は自分の生きる世界すら選択できるようにする』……そんなこと、人前で豪語する奴です。決めたことは徹底的にやり遂げます。絶対自殺なんかしない」
「君からは、そう見えていたのだろうけれどね」
 私は壁の隅にさり気なく飾った絵を指した。
「たとえば、そうだ。私はあの絵に四百万払ったのだが、どう思うかな?」
「あの缶の奴ですか? どうって、なんというか、高い買い物だと思います」
「では、あれが実はかの有名な、アンディー・ウォーホルの未発表作だと聞いたら? 途端に私の運と目利きに感服してしまうだろう」
「え、あれが……?」
「虎門氏の自殺だってそうさ。あのガッツは誰しもが認める所だが、噂によれば、彼はサヴァン症候群だったそうじゃないか」
 虎門の少年期を物語る逸話に、こんなものがある。
 十三年前、国立宇宙開発機関主催で流星群の軌道予測コンペが行われた。年度終わりの余った予算を流し込んだのではと邪推されるほどの賞金額で、日本のみならず海外の研究機関まで参加した。しかし、並み居る頭脳を押さえて最も正しく夜空を描いてみせたのは、なんと当時十四歳の少年だった。彼はどのチームよりも正確な軌道を、たった一人で導いてみせた。しかも、全て暗算で。
 少年は自身の頭を指差して言った。『ここに世界のクローンがあるんだ』
 三文雑誌発祥で真偽不明の与太話だが、虎門がそのコンペで出会った男と株式会社クローンバースを設立したのは事実だ。
「とある雑誌ではこう考察されていたよ。『天才は自らの力を人々に分け与えることで、孤独を解消しようとしている』とね」
「……そうかもしれませんけど」
「不屈の起業家の不自然な死も、見方を変えれば偏屈で孤独なサヴァンの悲劇に早変わりというわけだ。つまりね、依頼人の……ええと……」
「軒下です」
「軒下君。世間が君をバッシングしているのは、負けたと感じたからだ。理由付けや議論の過程など誰も気にしない。納得なんて関係ない。胸を張って堂々としていればいい」
 だからこそ、私の魔法も未だにベールの中にあるのだ。
「……堂々となんて、無理ですよ。友達が殺されたんですよ?」
 依頼人は私を睨みあげた。
「性格も、ナイフの刺し方も、どう考えたって自殺じゃない。先生は弁護士でしょ? 思うところとかないんですか? 真実を証明するのが仕事じゃないんですか?」
 私はつい鼻で笑ってしまいそうになった。
 どうやら、我々の方向性には致命的なズレがあるらしい。それなりに歩み寄ったつもりだが、残念。君とはここまでのようだ。機島雄弁という勝訴装置に、不確定要素は必要ない。
「ならば聞くが。事件当日、君は虎門氏のスマートフォンのアラームで目覚めたそうだね」
「ええ。くぐもった音で、ソファーの下から聞こえてきました」
「虎門氏のスマートフォンを拾った君は、急いで警察と救急に通報し、現場から逃走した。これも間違いないかな?」
「虎門に『このスマホだけは誰にも渡さないでくれ』って頼まれてたので……。それがどうしました?」
「いやなに、少し同情しただけさ。アラームの時刻は午前一時三十分。警察への通報が午前二時十二分だ。殺人犯の影に怯えながら、一一○番を思い出すのに四十二分。この調子では日常生活もさぞ苦労するだろう」
「……それは」
 依頼人が手元とコップで視線を反復横跳びさせる。所詮はこんなものだ。有罪無罪にかかわらず、大抵の被疑者は腹に一物抱えている上、それを守る鎧も薄い。台本なく証言台に立たせれば、裁判は二時間で終わるだろう。
 誰にだって、触れられたくない秘密はあるものだ。
 私は懐に忍ばせていた契約解除の書類を机に並べて、ボールペンも差し出した。
「私の弁護方針が気に入らないなら他を当たってくれたまえ。世の中広い。きっと見つかるさ。耳触りのいい真実を共有してくれる相手がね」
「……わかった。いいですよ。見つけてやりますよ。あなたよりずっとマトモな弁護士を」
 依頼人は勢いよくボールペンを掴み、机にぶつけた指を少し振ってから、書類に名前を書き殴った。私は大変に沈痛な面持ちでそれを受け取った。
「最後に言っときますけど、先生」
 依頼人は壁の名画を指差した。
「あんな絵、アンディー・ウォーホルが描くわけないでしょ!」
 妄言を吐き捨てて、彼は怒りの足音を立てて去っていった。
 私は執務室に向かい……。
「見る目がないね。絵も弁護士も」
 とっておきのシャンパンの栓を抜いた。
 この決別で、私の完璧な仕事は仕上がった。

  3

 想像してほしい。あなたはハンバーガーチェーンの経営者だ。資本主義の基本に則って、金を稼がなければならない。
 佐世保バーガーのようなご当地グルメを想像した方は残念。あなたのハンバーガーは、主にミドルクラス以下のカロリー補給用だ。
 顧客はあなたのハンバーガーをありがたがっていない。金さえあれば鉄板焼屋で霜降りステーキを食べたいと思っている。なので、客単価はあげようがない。
 ならば、どうやって稼げばいい? そう、回転率を上げるんだ。
 駅前を確保する。店内にやかましいCMを流す。注文窓口を増やす。座席を増やす。持ち帰りや宅配に手を出す。椅子を固くしてコーヒー一杯で入り浸る学生を追い出す。それから、厨房をオートメーション化する。
 これさえ成功すれば、あなたは大金持ちだ。
 では、もう少し大きなバーガーの話をしよう。
 諍いを捏ねて怒りの火を通し、法と議論で挟んで食べる。そういうファストフードの話だ。
 訴訟大国アメリカでの、PL法関連の賠償額の平均は六千二百万ドル。中央値は二千万ドルだ。そのうち三分の一が法律事務所の懐に入っている。
 顧客はあなたの事を詐欺師の親類だと思っており、金さえあれば……繰り返す必要もないだろう。客単価は上がらない。ならばどうする?
 そう、回転率だ。オートメーション化だ。AI裁判官のご登場だ。
 裁判は実にスピーディーになり、案件の処理速度は実に三倍に向上した。法律事務所の収入も三倍になり、彼らが食べるステーキも三倍厚くなった。
 だが悲しいかな。アメリカという抗争あふれる人種のるつぼであっても、諍いという〝資源〟は無限には湧いてこない。アメリカ法曹界は新天地に目をつけた。
 この国にAI裁判官が導入されたのは、そういう経緯だ。
『人の偏見を取り払った、公平公正な裁判』
『被害者を救うスピーディーな解決』
 そういった法務省の美辞麗句がお好みなら、それも結構。
 人々が正義の高速化と公平性を求め、AIが実現した。それは事実だ。その過程で少々悪い虫が紛れ込んだところで、収支プラスなら問題はないだろう。
 何かを得るためには何かを差し出さなくてはならない。
 問題はそのトレードをどれだけ有利な条件に持っていくかにある。賢い者は、価値が低く、軽薄で、どうでもいいものを差し出して、偉大なる成功を手に入れる。
 賢い私は何を差し出すのかって? それはもちろん、価値が低く、軽薄で、格別にどうでもいいものさ。
 つまり──倫理だ。

 虎門氏殺害事件はあらゆるメディアが注目する一等品の宣伝材料だが、関わるのは一審だけで十分だ。これ以上のタダ働きはうまみが薄い。依頼人都合の契約解除なら経歴に傷はつかないし、逆転敗訴してくれれば宣伝効果は倍ドンだ。
 依頼を放り出したと非難したければすればいい。結果は私に味方する。
 勝ち逃げの祝杯をあげ、炭酸の刺激を喉で楽しむ。とっておきのチーズ菓子に手を付けようとしたときに、スマートフォンが震えだした。留守電に任せてしまおうかとも思ったが、やめておく。それがキャリアの電話ではなく、通話アプリanom signalの着信だったからだ。
「もしもし。こちら法廷の魔術師」
「うわ。めっちゃご機嫌じゃん」
 電話口から聞こえてきたのは、よく知る女の声だった。
 anom signalは国家や大企業の監視を受けない秘匿通話アプリだ。一般の通話アプリより音質は悪いが、重宝している。主に、国家にも企業にも明かせない会話をする時に。
「一応、礼を言っておこうか。私の実力あっての無罪だが、先日の裁判官応答ログは役立った」
「お礼より、もらいたいんだけど。今月分」
「おっと失礼。迂回先を変えたので、少々手続きに手間取った。翌々営業日には振り込まれるはずだ。名目はそこで確認してくれ」
「そ。今回もやるの? お布施」
「もちろんだ。来月頭に例のルートで最高裁の情政課に匿名の報告を。翻訳モデルを使うのはやめた方がいい。いい加減、自前のデータで学習出来るはずだ」
「魔法、また捨てちゃうんだ。出るよ。もったいないお化け」
「一度は奇跡、二度目は故意さ。どうせ使えない穴なら塞いでしまった方が良い。協力者には善意のデバッガーで話を通しているんだろう?」
「でもいいの? 手ぶらで勝てる? 二審」
「さぁ。二審の弁護士の腕によるかな」
 煽りが不発で拍子抜けしたのか、露骨な嘆息が聞こえた。
「うわ、放り出したんだ。依頼人。血とか涙とか、まだ残ってる?」
「使い所がある限りはね。それに、先に手を切ったのはあちら側だ。捨て台詞までセンスのない男だった」
「あー……。またなんか言われたんだ。コレクションのこと」
「機島法律事務所随一の名画を贋作扱いさ」
「アンディーくんの絵? それ」
「そうだよ。かの巨匠、アンディー・ウォーホルの缶の絵だ」
「サバ缶だよね」
「サバ缶だとも」
 相手はしばらく電話口でウケるを繰り返した。どういうわけか、彼女はコレクションの話がツボに入りがちだった。葛飾北斎が描いた大政奉還など、大笑いしていた憶えがある。
「ま、いいや。サバ缶によろしく。ハッカー弁護士くん」
 そう一言残して、通話は一方的に打ち切られた。
「…………ハッカー弁護士、ね」
 不名誉極まりない呼び名に、私は反論しなかった。
 これが倫理を差し出すということだ。
 法律とは条文だけで完成するものではない。運用も含めて初めてシステムになる。条文の穴を突く者がいるのなら、運用の穴を突く者も出て当然。運用にAIが含まれるのなら、その裏をかく手段がハッキングだ。
 AI裁判官を騙し、勝訴を手にするハッカー弁護士。それが機島雄弁だ。
 気を取り直して、もう一杯やるか。私はグラスにシャンパンをそっと注ぎ始める。三回程度に分けて注ぐのが一般的だが、私は六回だ。勢い余って一雫でもこぼしたら、せっかくの勝利気分が台無しだ。
 水面の泡立ち具合を観察しながら、慎重にボトルを傾け……。
「あー……。機島先生」
 シャンパンが袖を濡らして床にこぼれた。
 ありえない者がそこにいた。
 完璧な仕事を汚すノイズ。切り捨てたはずの不確定要素。
 軒下智紀が立っていた。

 執務室のドアから、袂を分かったはずの依頼人の顔が覗いていた。
「…………何故」
 君がここにいる。そう聞いたつもりだったが、その声はこぼれ続けるシャンパンの、泡の弾ける音に負けるほどか細かった。
 血管の収縮がはっきりと感じ取れる。喉に氷柱を刺された気分だ。
「君は、帰ったはずでは」
「トイレ借りたんで。一応お礼を。その、結構なお手前でした」
 ……は? 何だって? 喧嘩別れした直後に、相手の事務所のトイレを借りた? もっと良い弁護士を見つけると捨て台詞を吐いて、そのままトイレに直行? そこからお礼だと?
 こいつはなんだ? 気まずさに関わるニューロンが全部死んでいるのか?
 空気が硬直する。軒下はライオンを目にしたウサギのように固まっている。私も固まっている。
 落ち着いて、考えろ。今何を聞かれた? ハッカーから裁判応答ログを受け取ったこと。その人物へ迂回経路で報酬を渡していること。一審の魔法の種のこと。法務省への匿名通報のこと。ハッカー弁護士という蔑称。
 なるほど。致命傷だ。
 しかし、それがどうした。この程度の修羅場、何度だってくぐり抜けてきたはずだ。
「あの、何かヤバめな空気ですけど。俺何も聞いてませんので」
 機島雄弁は弁護士だ。いつも法廷でやるように、華麗に煙に巻いてやればいい。
 私は深呼吸して、少しえずいて、こう言った。
「…………いくら欲しい?」
「お疲れさまです!」
 軒下は一目散に逃走した。それはもう速かった。
 私は飛び上がって彼を追いかけようとしたが、足がもつれて壁に顔を打ち付けた。くそ、鼻のシリコンがずれたらどうしてくれる。
 鼻を押さえながら何とか走っていくと、軒下は自動ドアのロックに引っかかって出られないでいた。強化ガラスのドアの間に指を突っ込もうと四苦八苦している。
「先生、開けてほしいんですけど」
 軒下が私を見上げる。こうして近くで見るとより明らかだが、体格はこちらが上だ。
「落ち着きたまえ。先程はお互い感情的になり過ぎた。どうだね。今から二審の作戦会議でも。真相とやらを暴く保証はしないが、君の秘密にも立ち入らないと約束しよう」
「……帰りたいんですよ。先生」
 ドアの外、通路の灯りは既に消えている。当ビルの各種事務所の営業は終わり、あとは警備員が定期的に見回りをするだけ。二十分は誰も現れない。
「マジで、何も聞こえてないので。たとえ聞こえてても、誰にも何も言いませんし。一応助けてもらった恩もあるんで」
 誰にも言わないだと? 信用出来るか。私の弱みを握れるとなれば、検察は司法取引すらやりかねない。命と義理を天秤にかけて、義理を選ぶバカが何処にいる。
 秘密を握られた以上、もう他の弁護士には渡せない。収監もさせられない。あらゆるシステムの最大のセキュリティホールは人間だ。そのような隙は、機島雄弁にあってはならない。
 彼から一歩離れ、ずれたネクタイを直す。頭に昇った血も落ち着き、私のペースが戻ってくる。
「現状確認をしようじゃないか。軒下君」
「マジで、言いませんので。つーか言えませんので」
 軒下の指が、自動ドアの隙間に強く食い込む。
「君の身元保証人は私だ」
 軒下の手が止まる。
「保釈保証金を立て替えたのも私だ。私の報告一つで、君は拘置所に逆戻りだ」
 身寄りのない人間が身柄を拘束されたまま弁護士を探す苦労は、軒下も一度経験済みのはずだ。まして保釈取消の前科ありとなれば、一体何人が話を聞いてくれるのか。彼もその想像がつかないほど愚鈍ではないだろう。
「それ、脅迫になるんじゃないですか。先生」
「繰り返すが、現状確認さ。解釈は君の自由だが」
 軒下はこちらから見て取れるほど強く奥歯を噛み締めた。
「……もし、先生に依頼するとして。真犯人を見つけてくれますか」
「それは警察の仕事だ」
「せめて自殺を否定してくれませんか」
「断る。自殺説が最有力だ」
「俺が欲しいのは納得だけです。望みが薄くても、納得を諦めちゃいけないんです」
「納得なんて知ったことか。最短手順で、最適な論理で、最高勝率で、君は無罪になるのだよ」
 軒下が目を細める。
「いいスーツですね、先生。アメドラに出てきそうな」
「……何が言いたい」
「青川以外のスーツ屋入ったことないですけど、きっと俺の給料じゃ三ヶ月働いても……ああ、もう無職だから、何年働いても無理ですね」
「弁護士を脅迫とはいい度胸だ」
「現状確認ですよ。捨てるものがないのは、俺の方です」
 しばらく、無言の睨み合いが続く。
 やがて我々は悟った。他に選択肢はないことを。

  4

AI裁判に三審はない。品質の画一化された裁判官は、同じく画一化された判決を出す。重大な新証拠がなければ、判断も変わらない。憲法解釈に関わる内容でない限り、最高裁に上ることはない。
 つまり、この東京高等裁判所で依頼人の運命が決まるのだ。
『これより東京高等裁判所令和N年(う)221437号事件の審理を始めます』
 金属製の裁判官が抑揚なく開廷を告げる。
 田淵検事の様子を窺う。黒縁メガネの奥の瞳が、雨晒しの捨て犬のように弱々しい。真面目一辺倒で経験の浅い若手検事は、一審のダメージをまだ引きずっているようだ。AI裁判のスピードに追従するため、近年は地方検察庁と高等検察庁を兼務する検事が増えている。彼はその風潮の被害者というわけだ。
『弁護人、問題はありませんか』
「問題? もちろんありません。逃げなかった検事さんを褒めてあげたいですよ」
『しかし、被告人がはみ出ているようですが』
 見ると、確かに軒下が被告人席からはみ出ていた。私から椅子を離し、警戒心むき出しの目でこちらを見ている。その位置取りと態度は、もはや法廷の第三勢力だ。①弁護人、②検察官、③馬鹿。
「問題ありません。許容可能なはみ出しです」
「い、異議あり!」
 田淵が噛み付いてくる。
「裁判長。被告人のはみ出しは過度であり、審理に支障をきたします。あ、ほら。また離れた」
「何をおっしゃるのやら、田淵検事。はみ出し者を受けいれるのも法廷の役割です」
「はみ出しって、被告人は物理的に……」
「田淵検事! 人々の更生を担う職務につきながら、この程度のはみ出しも受け入れられないのですか、あなたは!」
「えっ、す、すみません?」
『被告人の一メートル以内のはみ出しを認めます。検察官は寛容の心を持つように』
 裁判長の忠告に深々と頭を垂れる田淵。本気にされると軽く引くな。
 なお、軒下は定規で測ったように一メートルギリギリまで席を離していた。
〝つつがなく〟冒頭手続を終え、弁論の第一声で、田淵はこう言った。
「一審の無罪判決は、虎門氏の自死の可能性が疑われたことによるものです」
 田淵検事は、検視と証拠写真をもとに実に妥当で捻りのない話を始めた。
「ですが、虎門氏の死因はナイフによる刺殺です。抉るような傷口で、深く、ためらい傷もありません。自殺とするには不自然です。また、自殺の意思があったのなら、被告人を招いたその日その場で決行する理由がありません。証拠、動機、社会的影響。どこを考慮しても誠に遺憾な判決です。保釈取消と然るべき刑罰を求めます」
 何度も練習したのだろう、田淵は淀みなく言い切った。
『それでは弁護人、検察側の弁論に対する反論を』
 私はカメラに見えない角度で深呼吸した。
 ──検察の主張は難癖に過ぎません。腹部のためらい傷は首や手首に比べて稀です。傷の深さも、机にナイフを立てて、覆い被さるように刺したとすれば説明がつきます──
 手札ならいくらでもある。被害者が取締役から外された事件。被害者の精神科通院記録。複数の病院で処方をうけていた大量の睡眠薬。主治医ではないが、彼が自らの特性に悩んでいたと証言する精神科医も用意している。
 自殺で通そうと思えば、ランチ前に片付けられる。……しかし。
「………………」
 軒下の視線が釘となってこめかみに刺さっている。
 最適解の美を捨てなければならないのか。私は舌を噛み切りそうになりながら、こう言った。
「検察の発言に、一部同意します。被告人は自殺ではありませんでした。もちろん事故でもない」
 有利な側のちゃぶ台返しだ。傍聴人が一斉にざわめく。
『一審の主張を翻し、他殺を認めるのですか?』
「そうなりますね」
 裁判官の確認に首肯する。これで満足か? 軒下君。
『では、被告人による犯行を認めるのですね?』
 AIが認めるの〝ですか〟? ではなく〝ですね〟? を選んだこと。これは人間の言葉以上の意味がある。裁判官は既に起訴事実が立証されていると認識しているのだ。
 被疑者一人の密室殺人。被告人は操縦不能なはみ出し男。旗色は最悪だ。
 しかし。私は不敵な笑みを取り戻す。それでも機島雄弁は勝ってしまう。
「計算が早いのはよろしいが、早合点は困ります。主張は一貫して無罪ですよ」
『犯行現場は閉鎖空間です。他殺だとすれば、被告人の他に犯行可能な人物はいないはずですが』
「その閉鎖空間というのが、誤りだとしたら?」
「あ、誤りなど!」
 突然のことに呆けていた田淵検事が、飛び上がって反論する。
「被害者のマンションは非接触型のカードキーです。ピッキングは不可能ですし、合鍵も──」
「作れますよ。合鍵」
 田淵検事の反論を一言で切って捨てる。
「あの手の非接触型カードキー……RFIDのスキミングは、専用の機械さえあればそう難しい技術ではありません。ソフトや設計図はネットで手に入りますし、八万円前後で作成可能です。もちろん対策も進んでいますが、イタチごっこだ」
「し、しかし、凶器には被告人の指紋が付着しており!」
「軒下氏は泥酔して眠っていたのです。指紋をつけるなど容易いことでは?」
「エレベーターの監視カメラには、被告人と被害者以外の姿はなく……」
「非常階段があるでしょう。軒下氏も現場から離れるときにはそちらを使った。監視カメラの死角さえ知っていれば、マンションの住人全員に犯行が可能です」
 軒下の逃走理由、スキミングの方法、エトセトラ。粘る田淵検事の反論を一つ一つ丹念に折っていく。
 密室に支えられていた検察の主張は、もはや完全に腰砕けだ。
 誰かが虎門を殺した。しかし軒下だとは断定出来ない。推定無罪の原則がある限り、勝つのは私だ。軒下はまだ不服そうだが、こちらとしては最大限の譲歩だ。あとは警察に任せればいい。
 私が反論するたび、新米検事のタブレットのスワイプ回数が増えていく。手詰まりは明らかだ。真相は霧の中。笑うは弁護士。トドメを刺してやろうとした、その時だった。
「……非常階段、使われてません」
 背筋に氷柱を刺された気分だった。その横槍は、またも依頼人から発せられたのだ。
「非常階段を下りていった時、見たんです。どの階の非常ドア前にも、うっすら埃が積もっていました。それって、使われてないってことですよね」
「無視してください、裁判長。軒下氏は世間のバッシングにより精神的に不安定で」
「確かに見たんです。犯人は非常階段なんか使ってません」
「友人の死を目の当たりにしたことで記憶に錯誤が」
「真犯人は、虎門と同じ最上階の住人です!」
 何を、勝手に。私は軒下を睨んだ。自分が何をしたのかわかっているのか? 今告発した真犯人とやらにアリバイが見つかれば、君の有罪は確定だぞ。
『被告人。非常階段に使用した形跡が見られなかった、というのは事実ですか?』
「はい。間違いありません、裁判長」
 軒下は私に一瞥もくれず、頷いた。机からはみ出すに飽き足らず、私の弁護方針からもはみ出すとは。彼に僅かでも理性と生存本能を期待した私のミスだ。最初に退廷させておくべきだった。
 当初のプランは崩れた。最上階の住民は被害者を除けばたったの一人。そして、その人物は証人リストに載っている。
 田淵検事が挙手する。
「裁判長。検察は証人として、被害者と同じマンションの最上階に住む人物……井ノ上翔氏の尋問を申請します」
 そうして証言台に立ったのは、長細い男だった。頭髪の右半分をビビッドなピンクに染めており、皮肉めいた笑みを口元に貼り付けている。
 井ノ上翔。二十八歳。突飛な物言いで若い世代からカリスマ扱いされる実業家だ。先端企業への投資に造詣が深く、虎門の経営する企業二つの共同出資者で、どちらにも取締役として名を連ねている。
「ご紹介しましょう。バズジャパン誌が選ぶ今年のインフルエンサー二年連続ベスト5入り。オンラインサロン会員数は十万人超、YouTubeチャンネル登録者数は百万人。虎門氏と並ぶクローンバースの火付け役!」
 田淵検事はやや早口で井ノ上の経歴をまくし立て、こう締めた。
「触れたもの全てを金に変える、現代のミダス王と呼ばれる起業家、それこそ、この井ノ上氏なのです!」
「イエス。井ノ上、イノベーション」
 田淵検事が語り終えるや否や、井ノ上は決め台詞らしきものを口にした。
 それにしても、輪郭が溶けそうな薄味検事にしては、やけに気合の入った口上だったな。一体どんな関係なんだ。
「いい紹介だった、検事さん。これで、少しは皆にもこの井ノ上のプライスを理解できただろう。サロンのシルバー会員に昇格してあげよう」
「恐悦至極でございます!」
 最悪の関係だった。大丈夫か検察の新人教育。
 呆れている間にも裁判は進む。田淵検事が被害者との関係を尋ね、井ノ上は語る。
「……虎門ちゃんと初めて会ったのは、中学の頃の流星群軌道予測コンペだ。同世代のガキに正面から負けたのは初めてだったんで、印象に残ったよ。四年後にサークルの新歓で再会したわけだが、正直驚かなかったね。同じ大学に行くのはわかりきってた。だが、会うなり「お前、生きててつまらないだろ」なんて言われたときには面食らったよ」
 井ノ上は苦笑しながら続ける。
「「自分の選択に納得せずに生きてきたからだ。選択肢を提示出来なかった社会と世界の問題だ。俺と納得ずくの世界を作らないか」だ。四年ぶりの再会でそれだぜ? 失礼だろ? あり得ないだろ? だから井ノ上は思ったのさ。この男は金になるってね」
「それから、お二人は夢を実現すべく在学中に起業されたのでしたね。しかし、最初に起業されたのはIT系の企業ではありませんでした。塗装品販売業の……」
「はっきり言っていいよ、検事さん。オービス避けのスプレー販売で金を集めた」
 ナンバープレートに吹き付けて、オービスのナンバー読み取りを妨害するスプレー、だったか。行儀の悪い連中相手に随分稼いだと聞いている。
「元手を作った井ノ上達は、各所の技術をかき集め、鎮火したメタバースのミイラを蘇生させる企業を立ち上げた。それがクローンバースデイ。今のクローンバースの生みの親さ。クローンであってコピーじゃない。一人一つ、自由で生活可能な第二の世界を目指した」
「では、あなたと被害者は親友でありビジネスパートナーでもあったのですね?」
「イエス。あいつは恨まれて当然の粘着野郎だ。出された料理に納得行かなきゃ、シェフ呼びつけて隠し味まで白状させるような奴だ。だが、井ノ上だけは味方だった」
 一瞬、井ノ上と軒下の視線が交差する。虎門の友人を名乗り、相手を殺人犯だと非難する者同士。その胸の内を読むことは出来ない。
『井ノ上さん。あなたは被害者と親しい関係にあるため、犯人ではないと主張されているのですか?』
 この程度のお涙頂戴なら、つけいる隙はいくらでもある。最悪の自体に備えて、マンション内の目ぼしい人物全員に虎門殺害の動機を用意してきた。だが、私のカンは告げている。この証人はそこで終わらない。
 井ノ上は首を振り、こう言った。
「違うね。今のはただの感傷だ。そもそも、証拠ならとっくに揃ってる。検事さん。あれよろしく」
 井ノ上に言われ、田淵検事は現場の写真をモニタに映した。シワの寄った絨毯に、艶のあるガラステーブル。蓋の開いた薬瓶が転がり、二十錠から三十錠の睡眠薬の錠剤が散らばっている。ペルシャ絨毯に滲んだ毒々しい赤色の血痕は、それはそれである種の柄になっていた。
『証人、この写真のどれが証拠なのでしょうか』
「視野が狭いね。裁判長。現場のどれが、じゃあない。証拠は現場そのものさ」
 やはり、仕掛けてくるか。私は身構えた。
 AI裁判は、裁判のあり方を一変させた。その変化の最たるものが、予定外の証明だ。
 重大事件では、公判数週間前に証明予定事実記載書面という書類を提出する。そこには検察官と被告人がどんな証拠を提示し、そこから何を語るのかが書き込まれる。裁判の台本とまでは言わないが、それに近いものだ。従来の裁判では、このリストに載っていない証拠や証人の提示は認められないか、後日に持ち越されるのが一般的だった。
 この書類は、弁護士や検察以上に裁判官の助けになっていた。裁判官の抱える案件数は弁護士の比ではなく、事前資料なしでは立ち行かなくなっていたのだ。
 しかし、AI裁判官は証拠の理解に時間を必要としない。何万ページの報告書であっても、一ミリ秒かからずベクトル化して取り込める。そのため臨時追加の証拠でも認められるケースが増え、議論が現場で百八十度ひっくり返ることも珍しくなくなった。
 そして、今まさに、井ノ上はその予定外の証明をやってのけようとしていた。
「神はサイコロを振らない。マクロ世界の常識だ。完璧に再現された世界で正しく犯行を再現すれば、割れた陶器の破片、散らばった血痕、散乱した睡眠薬、カーテンのシワまで、全てはぴたりと一致する。指紋やDNAと同じように、物理法則が決定的証拠になる」
 井ノ上は両手を広げて法廷を睥睨する。その態度は、証言というより講演会のそれだ。
「では、もし事件を完璧に再現し得る、もう一つの世界があったとしたら? 事件のクローンを生み出す舞台が整っていたら? それこそ、法廷を変革するイノベーションに違いない」
 まさか。私が懸念を抱くと同時に、井ノ上は指を鳴らす。
 すると、写真に時間が宿った。空調の風でカーテンのレースがそよぎ、撮影者の存在を無視してカメラが自在に動き始める。これは写真でも動画でもない。CGなのだ。フォトリアルなCG自体は珍しいものではないが、このように重さや材質まで再現するのは並大抵の予算では不可能だ。実際、一審で検察が提示したCGはジオラマレベルだった。
 目を見張る傍聴人に向け、井ノ上は一礼した。
「スマホ一つで世界をコピー。これこそ社名を冠する新技術、クローンバースデイ。井ノ上と虎門が作る理想世界の第一歩だ」
 法廷で新製品のプレゼンとは、やってくれるじゃないか。
「こいつの肝は、従来のアルゴリズムで捨てられていた情報を拾うことにあってね。……弁護士さん。あんた、LiDARの仕組みは知ってるか?」
「比較的波長の短い赤外線を利用したレーダー、という認識ですが」
 LiDARは物体の三次元的な位置を観測するセンサーだ。波長の短い赤外線を使用することで、赤外線反射率の高い金属や、複雑な構造の物体の三次元構造を取得出来る。
「そう、そこさ。材質の推定に赤外線反射率と時間的な変化を組み込んだんだ」
 LiDARの生情報も含めて材質推定を行うモデルを作ったと、そういうことか。言うだけなら簡単だが、楽な手段じゃない。カメラとLiDARでは座標軸やデータ取得の間隔が違う。学習用のデータセットを作るだけでも相当な労力がかかるはずだ。目的のためならどれほど泥臭い作業も惜しまない。これが井ノ上翔、いや虎門金満のやり方か。
 次に、井ノ上は事件前の現場のクローンバースを表示した。虎門が事件直前に投稿したSNSの写真から再現したものだ。物体の位置は写真から、材質は二審前にクローンバースデイで作成したモデルから推定したそうだ。もちろん、事件の関係者である井ノ上が直接CGを作ったのではない。彼はあくまでアプリの提供と助言役で、実際に手を動かしたのは鑑識だ。
「この仮想空間の現場で、納得行くまで事件を再現する。見つけようじゃないか。このクローンバースで、真相のクローンを」
 検察官と被告人双方立ち会いのもと、別室で井ノ上の体を測定する。最も類似した成人男性3Dモデルを選択し、身長や筋肉量を調整する。軒下のモデルは作成済だったが、再度本人の体形を確認する。二人の身長は三十センチ近く違っていた。
『外部プログラムの実行を受理します。仮想環境コンテナを起動します』
 軒下と井ノ上、二人のモデルがそれぞれクローンバースで被害者と対峙する。仮想の現場で仮想の殺人が始まる。軒下を想定した犯人モデルが百万人。井ノ上も同じく百万人。彼らはそれぞれ犯罪データベースからサンプリングされた百万通りの動きで、CG虎門の胸にナイフを突き立てる。血液が飛び散り、花瓶が割れ、電気スタンドが倒れ、薬が散乱する。それを幾度も繰り返す。虎門がこの世に遺した未練ごと抹殺するように、執拗に。
 耐えきれなくなったのか、軒下が画面から目を逸らす。私も別の意味で目を逸らしたくなってきた。初めは激しく変動していた数値だったが、やがて落ち着いていく。そして。
『既定数の実験が終了しました』
 裁判官AIが淡々と画面の数値を読み上げる。
『被告人モデルによる最大現場一致率は0.9931。証人モデルの一致率は0.0021でした』
 人工音声に冷たさを感じ取ってしまうほどに、無慈悲な宣告だった。田淵検事すら、そのあまりの差に驚愕を禁じ得ない様子だ。
『被告人は、証人よりも有意に犯人の可能性が高いと言えます』
「イエス。井ノ上、イノベーション」
 静まり返った法廷で、井ノ上だけがこの結果を当然として受け入れていた。
 ……あり得ない。結果があからさま過ぎる。現実の近似に過ぎないCG空間で、さらに近似に過ぎない犯行の推定をしたのだ。これほど如実に差が出るわけがない。
 では、一体どうやって? 物理シミュレーターは米国の裁判でも使われる実績あるものだ。被害者の挙動も公的な犯罪データベースを引用している。軒下や井ノ上、虎門の体形も精密に再現されており、恣意的な実験とは言えない。資料に目を通した限り、クローンバースデイ自体も不審な点はない。開発はチームで行われていて、鑑識によるコードのチェックも入っている。井ノ上の一存で何か仕込む余地があるとは思えない。
 一体、何が起きた? クローンバースそのものが、生みの親を守ったとでもいうのか。
 井ノ上は証言台の上で髪を梳かしながら、薄い唇で私を嗤った。
「もう異議ないよねぇ。機島先生?」
 やるじゃないか。井ノ上君。ハンデ戦とはいえ、この私の目の前で魔法を使うとは。
 しかし、だ。それでも機島雄弁は勝訴する。ミダス王に魔法使いが敗れることなどありえない。あらゆる状況を想定し、全てに反論が……。
「…………ありません」
 なかった。

 天気予報によれば、裁判所からの帰り道は快晴のはずだった。渋滞予測によれば、首都高を十五分で抜けられるはずだった。それがどうだ。私のメルセデスは薄暗い曇天の下、事故渋滞に巻き込まれ、ステッカーだらけの軽自動車にクラクションを鳴らされている。自動運転に切り替えないのは、単に気を紛らわすためだ。
 バックミラーを覗くと、うつむいて地蔵になった軒下が映っていた。
「エチケット袋が必要かね? 軒下君」
「平気です。車酔いしない方なので」
「仇討ちには酔うのにね」
「……すいません。口喧嘩に付き合う余裕ないんで」
 そこを叩くのが当事務所の方針だ。
「人の電話は盗み聞きする。持論は曲げない。勝手に告発する。機島雄弁のアートを邪魔した結果がこのザマだ。いい加減、自分のバカさ加減に気付いてくれたかな」
「犯人は井ノ上です。俺が告発しなかったら、尻尾をつかめなかった」
 軒下はミラー越しに私を睨んだ。
「もう楽な方に逃げる気はないんです。虎門は言ってました。『納得のためなら喉を掻っ切ったっていい』って。俺だって──」
「切ってくれるんなら止めないよ。虎門君も信者を道連れに出来てご満悦だろう」
「機島先生、あなたは……!」
「──私は」
 つい、声のボリュームが上がってしまう。
「実際に、喉を切ったがね」
「…………なんですって?」
 自分の喉仏あたりを左手の人差し指でなぞる。
「ここを四センチ切開して、甲状軟骨と輪状軟骨の距離を五ミリ縮めた。一審の時に比べて声が高くなったのだが、気付かなかったかな?」
 現代医療の力を借りれば、一週間で傷口は完全に馴染む。しかし、触ると肌に突っ張りがあるのがわかる。
「どうして、そんな」
「君を無罪にするためさ」
 軒下が開きかけた口を閉じる。
「AI裁判官は知性を感じるバリトンボイスがご贔屓でね。大法廷となると響きが変わるから、チューニングが必要だった」
「ご贔屓って……裁判官が声で差別してるってことですか? AI裁判は万人に平等で偏見がないって話じゃ」
「AI自体に差別はなくとも、学習データにはあるんだよ」
 お待ちかねかは知らないが、解答を教えよう。
 魔法の数字、976とは、裁判官AIから機島雄弁への好感度だ。自作アプリで算出した推定値だが、結果を見るに概ね外れていない。
 人が人を外見で判断するように、AIにもルッキズムは存在する。数十万時間の法廷映像を学び続けた裁判官AIのパラメータには、勝つ弁護士と負ける弁護士の声や姿が染み付いている。もちろん、判決を左右する主要な要素ではない。勝率に影響するとしても、一パーセント未満だ。それでも、私はその端数を欲する。
「喉だけじゃない。目も耳も鼻も口も頬も、腕も腹も足も、爪一枚、髪の毛一本まで、勝訴のために作り上げた。この体にメスの入っていない場所はないのさ。『無罪のためなら喉を掻っ切ったっていい』。たとえ君が犯人でもね」
 引かれただろうか。まぁ無理もない。感情と倫理と理性と合理の区分は曖昧で、大抵の人間は真の最適に踏み込めない。
「で? 軒下君は君自身を救うために何をした?」
 背後でクラクションが鳴る。いつの間にか、私が渋滞の先頭になっていたようだ。湿気ったアスファルトに視線を戻し、アクセルを踏む。ようやく、一人で戦える。

  5

 ヒッキー・フリーマンのネクタイをほどき、休憩室横のシャワーを浴びる。
 疲れと汚れを泡に混ぜて落とし、壁一面の鏡に相対する。鏡を見るのは嫌いじゃないが、少しばかり気力がいる。そこに映った男が自分だと気付くまで、一呼吸いるからだ。
 石鹸台に防水スマートフォンをおいて、日課の発声練習を三分ほど。
(発声評価値155。外見と合わせて、969か。やや下がったな)
 雑念のせいか。声出しをしていると、先日の軒下とのやり取りを思い出してしまう。らしくないことをした。すでに秘密を握られた相手だからといって、これ以上手の内を明かしてどうする。いつもの私なら、厄介な依頼人の一人や二人、適当に煽てて小手先で転がしてほくそ笑んだはずだ。それが何故か……いや、やめだ。仕事に思考を戻そう。
 井ノ上は法廷をハックした。クローンバースデイ殺人実験の結果は、明らかに不正の産物だ。
 仕掛けはやはり井ノ上の自社製品、クローンバースデイにあると考えるのが自然だろう。しかし、知人に依頼したリバースエンジニアリングの結果はシロだった。自分でも可能な範囲で調査したが、何も見つからない。
 残る手がかりは二百万回分の再現実験動画だが、実時間で視聴するのは不可能だ。どうにか効率的に異常を探索するスクリプトを書ければいいが……今日も帰れそうにない。
 シャワーを終え、休憩室を出ると、待合室に小柄な男の影があった。強盗か。一瞬、自席の3Dプリンタ銃までの距離を計算したが……。振り返った顔を見て、私は脱力した。
「先生、お願いがあってきました」
「……また君か。軒下君」
「再現実験の動画を見せてもらえませんか。俺なら、何か手がかりをつかめると思うんです」
 呆れた。ここまで話の通じない男だったとは。強盗のほうがまだマシだ。
「いいかね。まだ僅かにでも塀の外に未練があるなら、その顔を見せないでくれたまえ。君のような無神経な依頼人に事務所を荒らされると、仕事の能率が……」
 と、そこまで口にして、私は事務所の様子に違和感を覚えた。何かがおかしい。そうだ、絨毯だ。軒下が事務所に来た時はいつも好き放題踏み荒らされていたのに、今は毛先が東側に揃っている。それだけではない。三秒遅れになっていたアンティーク柱時計も、電波時計と同じ時間を指している。まさか、軒下が調整したのか?
「その時計、あと十一時間三分で一秒ずれますよ。いい加減買い替えたほうがいいんじゃないですか?」
 機島雄弁相手に数字でハッタリか。
「事件の日、虎門のスマホのアラームで目を覚ましたって話。あれ嘘なんです」
 畳み掛けるじゃないか。
「本当に目を覚ましたのは、アラームよりもずっと後、二時十一分だったんです。それからすぐ通報して、現場から逃げました。でも警察の人に『現場を荒らさずソファーの下のスマートフォンを見つけられるはずがない。本当は犯行を見ていたんじゃないか』って詰め寄られて、つい」
「……正直、私も同じ質問をしたいがね」
「なんか、わかっちゃうんです。そういうの」
 軒下はポケットから六面サイコロを取り出した。モノポリーについてくるような、粗雑な作りのものだ。
「これ振ってもらえませんか。数字当てます」
「私は忙しいんだが」
「外れたら、もう金輪際口出ししないので」
 いかにも企みがありそうな提案だ。だが単に何も考えてない可能性もある。依頼人の性格を冷静に考えれば、後者の方が有力だ。
「いいだろう。自分でした約束は守りたまえよ」
 サイコロが手を離れた瞬間。「6」と軒下は宣言した。サイコロは机の上で二度跳ねて、出目は6だった。予言通りだ。
「……運が良いね。被疑者のわりに」
「運じゃないんです。もう一度どうぞ」
 訝しみながらも、私はリクエストに応えてやる。すると。
「1」「3」「3」「5」「4」「6」「2」
 まるで見えない手に細工されたかのように、軒下の予測と出目が一致する。机に転がしても、床に落としても、壁に投げても、全て正解だ。
「頭が良いわけじゃないんです。ただわかるだけ。物がどう転がるかとか、ぶつかったらどうなるかとか」
 あり得ない。何かのトリックに決まっている。私はサイコロ代わりに手持ちのコインで試し、サイコロを二つに増やして試し、サイコロを蹴り、ゴミ箱に投げ込み……。そして、反証の手を失った。
「先生。十三年前の流星群の軌道予測コンペの話、してましたよね」
「……まさか、君」
「俺なんですよ。暗算で一位になった少年」
 得意風を吹かせるでもなく、むしろ恥ずかしそうに軒下は言った。
「褒められると思ったんです。有名人になれるって。でも、蓋を開けたら待っていたのは不正失格でした。そりゃそうですよね。プログラムも計算式も抜きで答えがわかるなんて言っても、誰も納得させられませんから」
 軒下は抑揚なく言った。
「それで塞ぎ込んでた時、虎門が約束してくれたんです。『お前の孤独を消してやる』って。俺の方が友達多かったんですけどね」
 やや骨ばった手が震えている。親しい人物の死を実感するのは、怒りや興奮が抜けたあとだ。私にも経験はある。
「先生。今度こそ、納得行く結論を出したいんです。……手伝わせてもらえませんか」
 私は眉間を揉んだ。
 最悪だ。何度考えても、軒下の力を借りるのが最適解になってしまう。

協力の方針を決めた以上、完璧にこなすのが機島雄弁だ。
 二十三時間座り続けられる人間工学デザインチェアーに、同セットの作業机。グラフィックに特化した高性能ゲーミングPCと、同時再生用に超解像度高FPSモニタ四枚。給水用のウォーターサーバーに、菓子のアソート。
 あんぐりと口を開ける軒下の前で、ツナギの男達が秘密基地さながらの作業環境を組み上げていく。彼らは機島法律事務所の御用業者だ。彼らの裏帳簿を握ってからというもの、深夜の電話にも二つ返事で応えてくれる。PCのセットアップと必要ソフトのインストールを終えると、ツナギ男は帽子を床に叩きつけて帰っていった。
 私は絨毯の毛先を爪先でそっと直し、帽子をゴミ箱に放り捨てた。
「作業スペースは自由につかってくれて構わない。システム関連のトラブルは私に連絡を。仮眠用のベッドは第二打ち合わせ室だ。間違っても休憩室のは使うんじゃない」
「……これ一式でいくらしたんですか、先生」
 軒下は恐る恐る聞いてきた。
「請求してもいいなら教えるよ」
「じゃあ結構です」
「手間賃込みで百六十万だ」
「結構って言ったのに!」
「君の薄っぺらな財布には期待しちゃいない。投資は結果で返してもらう。いいね」
 そこからの軒下の集中力は、まぁ値段なりのものだった。モニタに齧りつき、水分補給の時すら目を離さない。モニタの中で友人がのたうち回って死ぬ様を、朝焼けの光が差し込んでもなお見つめ続けた。
 柱時計がちょうど一秒遅れ始めた頃、彼は呟いた。
「……重すぎるんだ」
「見つけたのか」
 ソファーから飛び上がった私に、軒下は動画の一部、フローリングを滑る花瓶の破片を拡大してみせた。
「この花瓶、絵付けされた部分がやけに重いんです。だからほら、こっちの破片、他の破片と衝突しても、あまり動いていないでしょう?」
 スピンする花瓶の破片を指で追って説明されるが……正直、あまりピンとこない。
「質量に仕掛けがあると?」
「というより、材質ですね。絨毯は一部の毛が硬化していて、ピンボールみたいに睡眠薬を弾いてます。カーテンのシワも、よく見ると揺れ方が不自然です。こっちのグラス、ガラスにしては跳ね方が大き過ぎます」
 軒下の目が、クローンバースに潜む微細な異常を次々と看破していく。一つ一つの影響は僅かだが、積み上がればその異様さの輪郭が掴めてくる。
「金属化してるんです。物体の一部だけ。多分、材質はアルミですね」
 流石は自称現代のミダス王。洒落の効いたトリックじゃないか。
「どうです? 井ノ上はクローンバース内の物質を金属化して、実験結果を改竄した。これで勝てますか? いけますよね?」
 軒下が身を乗り出して訴えてくる。目の輝きが鬱陶しい。
「いや、無理だね」
 輝き鎮火。
「仕掛けの正体が掴めてない。クローンバースデイのエラーと主張されたら、振り出しに戻るだけだ」
「そんな……じゃあ、俺は一体どうすれば」
「そうだね、軒下君。とりあえずは……」
 私は脱力する軒下の肩を叩き、
「帰りたまえ。用済みだ」
 玄関先につまみだした。目を白黒させる彼に飲みかけのペットボトルやら菓子の空き袋を投げつける。我に返って扉に飛びついた時にはもう遅い。自動ドアの電源は切ってある。
 ガラスの向こうで「ひどすぎる」だの「まだ納得が」だのと聞こえてくるが、知ったことか。本音を言えば、軒下のために経費を一銭でも使うのが耐えがたい。事務所前の酸素を許可なく吸わないでほしい。
 思えば、とんだ貧乏くじを引いたものだ。軒下智紀の弁護を引き受けたのは失敗だった。事務所の敷居をまたがせたのも、電話を聞かれたのも、はみ出した時退廷させなかったのも失敗だ。最適からは程遠い、機島雄弁にあってはならないミスの連続だ。
 だが。私は四枚のモニタ上で滑る、花瓶の破片を見つめた。
 この仕事は正解だ。

  6

 二審二日目。決着の日だ。
 この日、この東京高裁で殺人犯が確定する。軒下か。それとも井ノ上か。
 再び証言台に立った井ノ上は、証言台で退屈そうに軽口を叩いた。
「あのさぁ。弁護士さんに検事さん。井ノ上の稼ぎと重要性ってのをわかってくれるとうれしいなぁ。この裁判はもうイノったんだよ。こうやって無駄な時間使わされるたび、刻一刻と手からイノベーションがすり抜けていくわけ。わかんないかな。この感覚」
 裁判官AIに諫められても、余裕と自信に満ち溢れた態度を崩さない。彼にとって、この裁判はもはや消化試合なのだろう。
 田淵検事からは、追加の見分結果の報告があった。
 まず現場、虎門の自宅マンションにコピーカードで侵入可能かどうか。答えはイエス。次に、軒下以外にマンション内で非常階段を使った者がいるかどうか。こちらはノー。
 マンション最上階は密室であり、犯人は軒下と井ノ上の二択。前回の議論を肯定する結果だ。
 その後、井ノ上のエンジニアスキルについて質問が続いた。この場合、無能を装うのが正解なのだが、井ノ上は自らの能力を誇示し続けた。そしてこう締めくくった。
「最後に、これだけ覚えておいてよ。マンションという密室。刺された虎門。被疑者は二人。迷宮入り確定の難事件。真犯人を見つけ出したのは、我が社のクローンバースデイ。井ノ上と虎門の新技術だ。──井ノ上、イノベーション」
 予定調和と自己顕示の主尋問が終わる。
『弁護側、反対尋問はありますか?』
「もちろんですよ」
 裁判官AIに促され、私は証言台の周囲で高級な靴音を立てる。反撃開始だ。
「素晴らしいコマーシャルでした。井ノ上さん。借金の額が社長の器だなんて話もありますが、優秀な経営者はピンチをチャンスに変える力があるのでしょうね」
「井ノ上がいつピンチになったって?」
「そりゃ、一審の判決が出た時でしょう」
 井ノ上の眉が微かに動いたのを楽しみつつ、私は歩き回る。
「順を追ってお話ししましょう。数多のイノベーター達の発明同様、貴方の犯罪計画はシンプルだ。被害者と軒下氏が酔いつぶれて寝静まったタイミングを見計らい、コピーカードで侵入する。虎門氏をナイフで刺殺し、軒下氏に罪を着せる。これだけです」
 虎門の様子は隠しカメラなどで監視していたのだろうが、情報がないので口にはしない。
「しかし、あろうことか軒下氏は無罪になってしまった。機島雄弁という計算外が現れたことでね」
「自意識過剰な妄想だな」
「お言葉ですが、私の自意識はジャストフィットです。さておき、貴方は困った。警察はしつこいですからね。軒下君を挙げ損なったとなれば、躍起になって次のホシを探すでしょう。そこで貴方は、ある技術で法廷をハックすることにした」
 ここで一呼吸。観客の理解を待って、話を進める。
「それが、クローンバースによる再現実験です。貴方は自身に有利な結果が出るよう、仮想空間の現場に魔法をかけた。絨毯の毛、電源コードの一部、陶器の側面、カーテンの下部……。それらを金属化し、質量や硬度を変え、挙動を操ってみせたのです。かのミダス王のようにね」
「魔法? 金属化? 付き合ってられないね」
 井ノ上が鼻を鳴らす。
「難癖と呼ぶにも雑な主張だ。百歩譲ってクローンした現場に何らかの不備があったとしても、それは鑑識のミスかクローンバースデイのバグで──」
「あ、結構です。そういう小賢しい予防線。もう証明出来ますので」
 私は裁判資料の一枚を抜き取り、その場で折り紙を始めた。出来上がったのは、刃渡り二十センチの折り紙ナイフだ。
「裁判長。我々は仮想実地検証を申請します。内容は──」
 裁判官AIの無機質なカメラが、じっと私を見つめている。マイクの感度を澄ませて、私の言葉の意図を掴もうとしている。人の争いを裁くためだけに生まれたAIは、不完全な知性を日々磨き続け、使命を全うしている。
 それを欺く不届き者は、私一人で十分だ。
「折り紙包丁による、井ノ上氏の犯行の再現です」
「はぁ!?」
 軒下の驚愕は、またたく間に法廷中に伝播した。裁判長がブザーで静粛を呼びかけても収まらない。私の繊細な聴覚によれば、このざわめきはクローンバースデイ登場より十デジベル高い。勝った。
「等倍速再生、一度きりで結構。電気代にもさほど影響しないでしょう。世界一地球に優しい殺人だ」
 井ノ上がピンク髪をかき上げる。
「……弁護士さん。あんた自分が何言ったかわかってるのか? その紙きれで、人を殺すって?」
「ご存知でしょう? 出来るって」
 薄ら笑いの下、井ノ上は祈っている。この提案が自白を引き出すためのブラフであることを。魔法がまだ自分だけのものであることを。私は舌なめずりした。
 田淵検事が腰を浮かして抗議する。
「却下を、裁判長! 審理の引き伸ばしを目的とした無意味な実験です!」
「引き伸ばしがお嫌でしたら……こうしましょうか」
 さも今思いついた風に、私は言ってやる。
「もしこの折り紙で虎門氏を殺せなかったら、潔く有罪を受け入れますよ。軒下君が」
「ええ!? ちょ、先生!? そんな、どうして!」
 軒下は立ち上がり、袖を掴んでくる。その瞳には驚愕と困惑、そしてわずかな恐怖が浮かんでいる。いい気味だ。私は余裕の笑みを返してやる。
「『何故、弁護士は依頼人を裏切ったのか?』……そう聞きたいのかね?」
 数秒の睨み合い。やがて、軒下は手を離した。
『仮想実地検証を実施します。検察は折り紙ナイフの3Dモデルの作成を』
 衆人環視の中、鑑識が折り紙ナイフを写真と3DLiDARでスキャンして取り込む。
 そして、クローンバースデイが仮想空間上の3Dモデルを作り上げる。
 三面モニタに、CGの現場が映し出される。
 CG井ノ上が折り紙ナイフを腰だめに構える。助走をつけて、CG虎門に体当たりする。
 二人が折り重なるようにガラスの机に倒れ込む。そして。
「……血だ」
 誰かが呟いた。虎門がもんどり打って転がる。血液がガラス机に尾を引き、絨毯に血溜まりがじわりとにじみ、広がっていく。
 被害者の腹部には、深々と折り紙が刺さっていた。
 どよめくオーディエンス。理解の追いつかない検察官と被告人。そこで見物していたまえ。この法廷で、私だけが一歩先の未来を知っている。この瞬間がたまらない。
「ど、どうして」
 軒下が疑問詞だけを吐き出す。
「ト、トリックだ。その紙、本当は鉄で出来て……!」
 井ノ上の文句を先回りして、私は折り紙包丁を曲げてみせる。
『弁護人。ただいまの実験結果について、説明を求めます』
 AI裁判長が尋ねる。
『何故、折り紙が凶器の代わりを果たしたのですか』
「これを使ったのですよ。裁判長」
 私は五百ミリリットルサイズのスプレー缶を提出した。
「被害者と証人が昔販売していた、オービス避けスプレーです。人の目には無色透明。しかし赤外線には極めて高い反射率を誇る塗料だ」
 オービスの役目は二十四時間車を監視することだ。昼夜問わず同じ照明条件でナンバープレートを読み取るには、可視光は心もとない。そこで採用されるのが赤外線撮影で、それを妨害するのがこのスプレーというわけだ。
「先日の井ノ上氏の講義を思い出して頂きましょう。仮想空間作成アプリ、クローンバースデイの特色は、LiDARの生情報も特徴量に含めて材質推定を行う点です。言い換えれば、赤外線反射率込みで被写体の材質を判定するということです。現実世界では単なるA4用紙でも、このスプレーをかけてやれば……」
 ここでタメ。たっぷり深呼吸二回分。聴衆がツバを飲む音が聞こえてから、
「クローンバースデイにとっては金属だ」
「い、異議あり!」
 田淵検事が跳ねる勢いで挙手する。
「クローンバースデイの欠陥は認めます。しかし、証明手順の性格が悪すぎ……いえ! 事件との関連性が不明瞭です!」
 抗議というより、説明を求めているようだ。がっつきたい気持ちはわかるが、落ち着きたまえ。
「これこそミダス王の力の源なのですよ。証人は現場の各所に赤外線反射スプレーを吹きかけ、クローンバースデイに金属だと誤認識させた。それによって実験結果を書き換えたのです。事前に膨大なシミュレーションは必要ですが、彼には金も時間もありますから」
 田淵はまず目を見開いて、次に金魚のように口をぱくつかせ、やがて顎に手を当てて考え込んだ。
「……現場を再調査します」
「どうぞどうぞ。証人の仮想マシン利用料を洗うのもオススメしましょう。どこを切っても、辿り着く結論は一つです。虎門氏を殺害したのは、井ノ上氏だ」
 横目で軒下を窺うと、膝の上で拳を握りしめていた。今度こそ、私に叩きつける拳でなければいいが。
 法廷が静まっていく。外気に触れたマグマが凝固していくように、皆が事実を飲み込み始めていく。勝負はついたのだ。
「……異議ありだ……」
 唯一声をあげたのは、井ノ上だった。
「異議だ。田淵! 実験をやめさせろ!」
 井ノ上は髪を振り乱して叫ぶ。
「殺せなかったら有罪を受け入れる! 弁護士はそう言った! 虎門はまだ生きてる!」
 言われてみれば、なるほど。モニタ上の虎門氏は、まだ腕を震わせている。虫の息まで嫌にリアルだ。
「サロンのプラチナ会員にしてやる! 年会費無料だ! おい、こっち見ろよ。わかってるのか? 井ノ上が舞台を降りたらどうなる? クローンバースの夢が消えるんだぞ?」
「まだ語るんですか、クローンバースを!」
 我慢が効かなくなったのか、軒下が叫ぶ。
「クローンバースは虎門の夢だった。あなたが壊したんだ!」
「違ったんだよ、黙ってろよ、ついて来れない外野はさぁ!」
 井ノ上は倍の声で怒鳴り返す。肩で息をしながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「誰もが自分の世界を持つ社会。……それが、虎門と井ノ上の夢のはずだった。ビジョンが曖昧だってのは百も承知だ。それでも、世界すら好きに選ぶ生き方って虎門の夢に、井ノ上は共鳴した。情報商材のピエロ役も、夢のためなら苦にならなかった」
 そう語る顔には、いつもの人を喰った態度やむき出しのプライドは見られなかった。
「でもな、クローンバース関連の法制度の検討を始めてから、虎門の言動がズレだしたんだ。政府の陰謀、司法の裏取引、そんな事を平気で口にするようになった。スマホに真実を溜めてるとか言って、黒背景に白文字の動画を見せびらかしてきてさ。血の気が引いたよ。だから相棒として忠告したんだ。一旦離れてクールダウンしろって。そしたらあいつ、なんて答えたと思う?」
 口の端を引きつらせ、井ノ上は言う。
「「十三年前の約束がある」だ。ビビったよ。あいつ、流星群軌道予測のチーターを信じてやがったんだ。頭の中に宇宙があるなんて与太話を本気で……!」
「それって」軒下が息を呑む。
「井ノ上の……俺の知っている虎門金満は唯一無二のオリジナルだった。誰かの書き込みを得意げに口にする連中とは違う。成功者を持ち上げて悦に入る雑魚とも、逆張り人形とも違う。自分の頭で考え抜いて納得するまで動かない奴だと思ってた。だが実態は違った。かかげた夢すら単なるクローンだった。だから、井ノ上は……いや」
 すだれのようなピンクの長髪から、血走った目が被告人席に向く。軒下が身を震わす。
「俺じゃない。虎門を殺したのは……!」
 私は咳払いした。
「あー。失礼。盛り上がっているところ水を差すようですが」
 三面モニタを指差す。そこには、ピクリとも動かなくなったCGの遺体が転がっていた。
「死んじゃいましたよ。虎門氏」
「────ぁぁあああああ!」
 井ノ上がモニタに飛びつこうとして、法廷警備員に取り押さえられる。地面に引き倒され、すだれのようなピンク髪の隙間から、モニタを見上げる。
「い、生きろ。生きかえってくれ! 頑張れ虎門! 俺のために生きろよ! 夢を返せよ! 俺は無罪になるべきなんだよ。志があるのは俺だけだ! 見ただろ、俺の法廷ハック! 他の誰にも出来やしない。俺だから出来たんだ! 俺を認めろよ! 最期ぐらい俺を見ろよ! 甦れ! 死ぬな! 死ぬな! 死ぬなァ!」
 井ノ上は決壊した。ピンクの髪を掻きむしって崩れ落ちた。軒下と虎門への恨み言を交互に吐き捨てているようだが、どれも文法がめちゃくちゃだ。
 すまないね。正義と倫理と道徳でもって説き伏せてやれれば良かったんだが、あいにくと持ち合わせがない。
 量刑に違いはあっても、君と私は同じ穴のムジナだ。
 君が塀の中に行くのは、罪を犯したからじゃあない。虎門と作り上げたという点に固執し、クローンバースデイの不完全性に縋ったからだ。自分の技術に嘘をついて勝てるほど、機島雄弁は甘くない。
 要するに、井ノ上翔は最適ではなかった。それだけだ。

  7

ヒッキー・フリーマンのスーツ +133
同ブランドのダークレッドのネクタイ +61
アレン・エドモンズの黒の六穴革靴 +89
アップル社製タブレット +4
すらりと伸びた手足(身長百七十八センチ)+131
ジム通いで得た健康的な胸板 +88
適度に張った頬骨と高い鼻(整形済) +146
青色カラーコンタクト +31
矯正&ホワイトニング済の白い歯 +87
耳に残るバリトン声(再調整済) +164
ワックス輝くオールバック +43
磨き抜かれた弁護士バッジ +1
合計978。
入り浸る元依頼人 -600(目算)
合計378。

 美しい事務所の美しい菓子器のえびせんべいを平らげ、指についた塩を舐めている元依頼人を見て、私はスマートフォンに手をかけた。
「警告しておくが、軒下君。私の心は通報に傾いている。用がないなら今すぐ帰ることをお薦めするね」
「お薦めありがとうございます。でもあるんですよ。用が」
「では、わけもなく帰ることをおすすめするね」
「一審、なんで無罪になったんです? 納得出来ないんですけど」
 またその話か。ハッカー弁護士の秘密を知られているといえ、詳細な手口を教えるのはハイリスクだ。適当なカバーストーリーでも作ってやろう。……と思ったが、軒下が何処からか持ち込んだサバ缶を開けたので考えを改めた。一刻も早くお帰り願おう。
「〝虎門氏は自らバケツを蹴った〟」
「はい?」
 顔に疑問符を浮かべる軒下に構わず、私は続ける。
「この質問で、私は虎門自殺説を認めさせたのだよ。君にも、検察にもね」
 軒下は目をしばたたかせた。サバを食いながら。
「認めさせたって、いやいや。先生は僕に現場と凶器について質問しただけですよね?」
「〝人間には〟、そう聞こえただろうね」
 頭の固い軒下君は他殺説を曲げようとしなかったし、検察が追認なんてするはずない。
「だが〝機械には〟違った。私は君を裏切った風な質問をしつつ、AI裁判官にだけ、全く別の証言を聞かせていたのだよ」
「……それが、バケツを蹴った?」
 珍しく話がスムーズだ。存外やるじゃないか。DHA。
「日本語では聞いたそのままの言葉だ。しかし、英語では死ぬことを意味する慣用句になる」
「な、なんで英語の慣用句が出てくるんです? 日本の裁判の話ですよね」
 当然の疑問だ。
「簡単に言ってしまえば、裁判官AIがアメリカ人だからさ」
 軒下は首を傾げた。
「裁判官AIは日本語を直接理解しているわけじゃあない。我々の言葉を英語翻訳して伝えているだけで、大半はアメリカ判事AIがそのまま流用されているのだよ」
「ど、どうしてそんな面倒な事するんです?」
 理由はいくつでも挙げられる。判事AIの詳細な情報共有にアメリカ司法省が難色を示したこと。判事AIのベースとなった言語処理モデルである、XLGPNTv7の日本語版がまだ存在しないこと。
 だが決定的なのは一つだ。
「法廷データの不足だよ」
 日本の法廷は録画録音が禁止されている。だからこそ法廷画家という職業があるわけだ。証人のプライバシーを守り、萎縮させないための規則だが、AIの学習には邪魔だった。
 データがなければAIは作れない。当たり前のことだ。
「判事AIのローカライズを担当したのは富士東テックだが、実際のところ、大した事は出来なかった。AIの根本には手を加えられないまま、翻訳ソフトと手続きの流れと条文コーパスとエンベデッドモデルだけ実装したのだ」
『既存のシステムはそのままにして、外側を機械学習してほしい』
 そうした注文は意外と多い。A社の不良品判定機のパラメータチューニングをB社が請け負う。A社とB社の間にコミュニケーションはなく、全ての情報が入ってくるのは納入先のC社のみ。C社には機械学習屋がおらず、結果、各企業の部分最適化によるキメラが生まれるのだ。
 富士東テックは日本語特有の表現の翻訳には気を配ったが、直訳時の英語表現には気が回らなかった。判事AI開発元のゴルーム社も、情報共有をしなかった。その結果がこの有様だ。
「君の〝虎門氏が自らバケツを蹴った〟という証言は、日本語では単なる事実の羅列でしかない。しかし、裁判官AIにとっては……」
「自殺の目撃証言……!?」
 そういうことだ。他にも転移学習の問題などがあるのだが、これ以上は軒下も限界だろう。置いておく。
「ちょ、待ってくださいよ! 機島先生。それって、ハッキングじゃないですか!?」
 私の告白がよほど驚きだったのか、軒下が目を大きく見開く。……って、ん?
「そっちが待ちたまえ。何だね、その初耳のような反応は」
「初耳の反応ですよ!」
 はい?
「ど、道理でおかしいと思ってたんですよ。いや、でもまさかそんな、裁判官を」
 ふらつく頭を押さえ、自分の正気を確認するために、質問する。
「軒下君。君は私の秘密を聞いたのでは……?」
「だから言ったじゃないですか。何も聞いてないって」
「本当に何も聞いてない奴がそんな事言うものか!」
「言いますよ!」
 言うか。まあ、言うな。論理的には間違っていない。軒下は事実をありのままに話しただけ。全て私の独り相撲。わかった。それでいい。
 軒下は顎に手を当てて、うろうろと歩き回る。
「とんでもない人に弁護されちゃったな。善良な一市民としては、こんな悪徳弁護士が放置されているのは納得出来ない。かと言って恩人を警察にも突き出せないし」
「……百万でどうだね」
 軒下は歩みを止めない。ろくろに乗っているように一箇所を回り続ける姿を見ていると、どうにもろくでもない予感がしてくる。
「今回の裁判みたいに、先生には手綱を握る人が必要かもしれません」
「二百万」
「ところで俺、前の会社クビになったんですけど」
「一千万!」
「雇ってもらえません?」
 私は崩れ落ちた。

―――――—

(Case1「魔法使いの棲む法廷」終)

井ノ上翔
(イラスト:shirakaba)
軒下智樹
(イラスト:shirakaba)


Case2 考える足の殺人


機島法律事務所所訓
第一条:自分に勝つより裁判に勝て
第二条:データなくして戦略なし
第三条:立っているものは親でも使え。座っていたら立たせて使え
第四条:誠意を見せて利用しろ
第五条:営利目的忘れるな

二〇××年四月一日 制定(同七日 クレームによりHPから削除)

 

  1

 早朝五時半。私は地上六階の冷えた窓のブラインドを右手の指でこじ開けて、その隙間に二本目の右手に持ったスマートフォンのカメラを向けた。三本目の右手で拡大率を上げ、寂れた駅のホームを映す。
 その医師は始発電車を待ちながら、電話を耳につけていた。聞こえてはいるらしい。
 私は左手側のスマートフォンに向けて言った。
「念の為、忠告しておきますが。夜勤明けで耳が遠い、などというつまらない言い訳はさせませんよ。大槻さん」
『……本気で、身内相手に裁判なんて起こすの。千手先生』
 ふと思う。大槻が私を先生呼びするようになったのは、一体いつからだったか。私が新米だったころは、院長と紛らわしいからと下の名前で呼ばれていた。今の彼女は、立場の違いを自覚できているはず。私は千手病院に勤める医師で、脳波義肢開発課の課長。彼女の直属の上司。病院の親会社にあたる千手電子の直系で、血統書付きのエリート。そして。
「千手脳波義肢とポストヒューマンの名に傷をつけるわけにはいきませんから」
 私は二本目の左手で自らの肩を撫でた。肩甲骨から伸びる、細く白く、そして硬い十本の腕……。ニューロフィードバック義肢。この私が作り上げた、脳波を読み取って動く義手。真の意味で思うがままに動く腕。この私が生み出した、遺伝子に頼らない進化の形。
 次なる人類を決めるのは私。誰にも邪魔させない。たとえ、大槻先輩であっても。
「これ以上、無許可で治験を継続するようでしたら、被害者たちと集団訴訟を行います」
 大槻が電話から口を離して、深呼吸しているのが見えた。自分の患者を被害者呼びされたのが気に食わないのでしょう? 知っています。
『……ねえ。千手のお姫様。あなたの開発した千手脳波義肢の性能も、トレーニング法も素晴らしい。それはみんな認めてる。でも、まだ不足なの! 条件反射に対応出来ないままじゃ、いつ次の怪我人が出てもおかしくない』
「現行モデルの不足があったとしても、錦野パッチに例の問題がつきまとう以上、解決手段としては使えません」
『問題って、オカルトマニアが騒いでたあれのこと? 冗談やめて。問題点を洗い出したいのなら、科学に則りなさいよ。治験中止を取り下げて!』
「わたくし、あなたのことも心配しているのですけれど」
 電話口から大きな音がした。大槻が足元に転がっていた空き缶を踏み潰したみたい。わかっているでしょう? そうやって感情のままに動けるのも、私のおかげ。大槻の両足も、私が与えた千手義肢なのだから。
『もういい。あんたがどんな与太話を吹聴しようと、この足で錦野パッチの安全性を証明してみせるから』
「わたくしの言うことが聞けないと?」
『そういうことよ。わかんなかった?』
 そう。……わかりました。そちらを選ぶのね。通話の向こうから発着メロディとアナウンスが聞こえる。残念だけれど、時間切れ。
 さようなら。大槻先輩。
『え……──』
 何の前触れもなく、大槻は跳躍した。夜勤明けとは思えない、お手本のような垂直跳び。一回、二回。肩下げバッグを落としてしまっても、まだ続ける。
 カメラ越しでは表情までわからないけれど、きっと、困惑で目を見開いている。だって、その跳躍は彼女の意志ではないのだから。でも、全ては彼女が選んだこと。
 三回目の着地と同時に、彼女は右足から走り出した。真っ直ぐに、線路の方に。ベンチを飛び越え、その先へ。
 急行のライトに照らされながら、彼女は白線を踏み超えた。
 ──だから言ったでしょう。その義足には魂が宿るって。

  2

 思い出すのも腹が立つが、ことの始まりは事務所に届いた一通のメールだった。

From:NK
件名:助けて。50万円
本文:つかまった。50万円

意味不明な件名。簡潔すぎる本文。安い弁護料。最初はよくある嫌がらせに見えた。
 この私、機島雄弁はただの弁護士じゃあない。AI裁判官時代を生きる絶対勝訴のシステムだ。法廷戦術から言葉選び、仕草や顔形に至るまで、AI裁判官の評価値稼ぎに特化している。出る杭は打たれる法則で、この手の依頼風スパムが送りつけられるのは珍しくない。
 しかし、from欄のアドレスを見て間違いに気付いた。差出人が・あの・錦野翠博士だったからだ。
 いつもなら一笑に付してゴミ箱に放り込むメールでも、錦野博士直々の依頼となれば話は別だ。
 私は爆笑してからゴミ箱に放り込んだ。
 ここまではいい。しかし、話はこれで終わらなかった。一時間後に二通のメールが届いたのだ。

From:N子
件名:逮捕だ。50万!
本文:檻から出してよ。50万円

From:NNKK
件名:おいでやす留置場
本文:50万円あげるからさ

私は失笑してから、最初のメールを含めた三通をスパムに登録し、全てのアドレスをブロックした。
 すると一時間後、今度は四通のメールが届いた。アドレスも件名も本文も先程と違ったので、スパムフィルタをくぐり抜けたようだ。けれど、内容は同じだった。
 私はスパム登録を増やし、NGワードを追加して帰宅した。

翌朝、メールのことなどすっかり忘れて出勤した私を待ち受けていたのは、世にもおぞましいメールの雪崩だった。別のアドレスから、別の件名で、全く同じ内容のメールが、無数に並んでいた。
 見ると、帰宅後から一時間おきに二倍の量のメールが届いていた。八通、十六通、三十二通、六十四通、百二十八通、二百五十六通、五百十二通、千二十四通……。
 どれだけスパム登録しても、自動NGワード登録スクリプトを組んでも、きっちり倍の数が届き続ける。五十万をNGワードにすれば四十五万に値切ってくる。万や円をNGにすればUSドルに換金してくる。
 メールボックスの容量上限の警告が来る頃には、流石の私もスケジュール表に面会予定を入れていた。

換気が悪いのか、警察署の面会室はどうも湿気た臭いがして、呼吸のたびに健康を吸い出される気分になる。それでも、私は三回深呼吸するまで会話を始められなかった。
「念の為、確認するんだが」
 外に聞こえないギリギリの声色を意識しつつ、強化ガラスの先の女……錦野翠博士を睨む。
 久しぶりに会ったが、相変わらず何故か絵になる容姿だ。
 色素の薄い肌に、ほっそりした手足。それらは単に引きこもりと「食べたくなった時食べる」という雑な食習慣の結果なのだが、サマになっている。睡眠時間が不規則なわりに髪もつややかでまとまっている。ともすれば近寄りがたい冷たさを感じさせる顔立ちだが、表情にはやや幼さが見える。
 要するに不摂生なギークそのものなのだが、自然体で何となく雰囲気が出ている。結局、目の力なんだろう。ぱっちりとして、無駄に知性を感じさせる目が全体をまとめている。
 日に一時間半は鏡に向かっている身からすると、癪に障る顔だ。
「我々の関係が表沙汰になるのは、あまり愉快なことじゃあない。それはわかっているんだろうね?」
 それに対し、強化ガラスの先の女……錦野博士は、あどけなく微笑んだ。
「愉快じゃないのに、来てくれたんだ。優しいとこあるじゃん」
「どの口が……!」
 つい身を乗り出してしまい、ガラスに額を打ちつける。
「うわ、すっごい音」
 一ミリも悪びれず、カラカラと笑う錦野。
 どうにもふやけた雰囲気だが、騙されてはいけない。
 錦野博士はフリーランスのエンジニアで、クラッカー寄りのハッカーだ。独自の情報網と監視網を持つ事情通で、最高裁判所事務総局情報政策課直轄のAI裁判官運営組織にも、独自のソースを持っている。
 彼女がもたらすデータを吸わなければ、ハッカー弁護士というシステムは窒息してしまう。さしずめ、錦野はハッカー弁護士の肺といったところだ。
「随分、効いたみたいじゃん。私のメール魔法」
「あんな程度の低い嫌がらせで、魔法を名乗らないでもらいたいね」
 魔法とは、機島雄弁の法廷魔術のような華麗なものを指すのだ。
「え。大口。そこまで言うからには、わかってるんだよね。中身」
 錦野は唇を舐めた。
「単にプログラムで作文して、botネットからメールで送ってきただけだろう」
「作文って、具体的には?」
「SVOのはっきりしない文体からして、XLGPNTv7に代表される大掛かりな言語処理モデルではないだろうね。君の口語調のテンプレートを過去のメール文を参照しつつ、ランダムな変換をかけている。古いチャットボット系モデルの改変じゃないか」
「留置場から送信命令出せたのは?」
「ただのハートビート」
 一定時間ログインがなければ、迷惑メールを送りつける仕掛けだ。
 どうだね。私にかかれば、魔法の解体など造作もないのだ。
 錦野はさも感慨深そうに頷いてから、こう言った。
「そこまで気付けて、出来なかったんだ。対策」
 ……やかましい。
「私なら、概念フィルタモデル学習させるけど。データは勝手に送られてくるんだし」
 しまった! その手が。ガラスの向こうで錦野がニヤついている。私のプライドが同じ対策を許さないと知っているのだ。
 錦野が下を指差す。テーブルの下に付箋が貼り付けられていた。そこにはランダムな文字列とURLが書かれていた。
「今の話面白かったから、ご褒美。これ返信すれば止まるから」
 ランダムな文字列が停止用パスワードなのだろう。その下にあるのは、Gitのリポジトリか。これ公開しているのか。
「…………あのー、すいません。そろそろ自己紹介いいですか?」
 とぼけた空気に脱力していたところ、これまで黙っていた小柄な青年が手を挙げた。
「誰、この人」
 錦野は青年を睨む。ずっと私の隣に座っていたのだから、気付いていないわけがないだろうに。
「軒下智紀っていいます。以前の事件で機島先生に助けてもらって、今は機島法律事務所のパラリーガルやってます。どうぞよろしく」
 パラリーガルとは、弁護士の指示に従って法律事務業務を補佐する職業だ。契約書等の文書作成や調査の代行等が主な役割になる。わが国では一般的なスタッフとの線引きが曖昧だが、アメリカでは州によっては資格が必要になることもある。
「パラリーガルって、法律知ってるの、君」
「人の物は盗んじゃいけないと思いますね」
「ただの道徳じゃん。それ」
「得意科目です」
 軒下が胸を張る。道徳を得意科目と言う奴初めて見た。
 錦野が冷ややかな目でこちらを睨む。
「機島くん、こんなの雇ったの?」
「あくまで、試用期間中さ。正式採用じゃない」
 言いたいことはわかっている。どうしてこんな奴にハッカー弁護士の秘密を漏らしたのか、だろう? 説明はしないが、一割ぐらいは君のせいでもあるんだぞ。
 私は咳払いして、話を戻した。
「そんなことより、早く本題に入ってくれないか。君と違って暇じゃあないんでね」
 錦野はしばらく不服そうに口を尖らせていたが、やがて唇の筋肉が疲れたのか、ボソボソと事件のあらましを話し始めた。

今月三日、ある医師が急行電車に飛び込んだ。
 被害者は千手病院に勤める若手医師の大槻水琴。三十三歳。脳波義肢の治験とリハビリに従事していた。彼女自身幼い頃の事故で両足を失っており、千手の脳波義足のユーザーでもあった。
 かなりのオーバーワークだったようで、残業時間は過労死ラインを超え、職場の人間関係も悪化していた。その上事件の直前まで上司と電話で口論していた。
 これだけの材料がそろっていながら、警察は自殺の可能性を否定。義足の暴走と断定した。
 判断の決め手になったのは、監視カメラに残された・自分の足に抵抗する・被害者の姿。そして以前から囁かれていた、とある噂。
「千手の新型脳波義肢には、魂が宿る──だってさ」
 錦野は他人事感丸出しでそう言った。
「いやいや、オカルトじゃないんだから」
 軒下が彼にしては真っ当なツッコミをする。
「義足の人なんて、今どき珍しくもないでしょう。最近じゃもう、お年寄り以外車椅子の人の方がレアじゃないですか」
 脳波義肢の登場は従来の義肢市場を大きく開拓した。近年登場した千手の脳波義肢は、脳波測定器の大幅な小型化に成功し、CM戦略も相まって一種のブームを引き起こした。義肢に求められる最高の要素とは、やはり考えた通りに動くということなのだろう。
「都会に行けばいくらでも千手印の義足が見れるのに、今更魂がどうって言われても」
「違う。旧型でしょ。それ」
 錦野が素っ気なく言う。
「噂の新型脳波義肢は、販売中のモデルとは違うという事かね」
 私が尋ねると、錦野は頷いた。
「見た目は変わらないけど、新しいんだ。AIが」
 AIが噂の元凶か。
「治験でさ、問題出てたんだよね。喉が渇いたなと思ったら、義手がコップをとっていた、とか。気付かない間に、水たまりを飛び越えていた、とか。勝手に手すりに?まって、離れなくなった、とかとか」
「あ、最後のやつ見たことあるかもしれません」
 そう言って、軒下はスマホで動画を見せてきた。
 ガラガラの電車内で、エイのような僧帽筋の大男が細い義手で手すりに掴まっている。落ち着いた様子で、カメラの方を見てもいない。なんてことはない電車に乗った義手マッチョなわけだが、動画の五秒あたり、次の駅のアナウンスがあった直後に異変が生じる。
 大男が扉側に歩き出そうとして、眉をひそめる。振り返って、手すりを握り続ける義手を見つめる。肩の筋肉を隆起させ、体を震わせたあと、首を傾げて生身の左腕で義手に触りだす。
 義手が手すりを離さないのだ。肘が伸び切るまで引っ張っても、腕をねじっても離さない。指を広げさせようとしても、義手はより強くポールを握りしめるばかり。男は二の腕の非常ボタンらしきものを連打したが、それでも無理。
 自分の腕に悪戦苦闘するマッチョをしばらく映したあと、次の駅でドアが開いて車内に入ってきた乗客のぎょっとした顔で動画は終わる。
「確かに、こう見ると・義手に意思が宿った・って言われてもわかるような」
 軒下が能天気に言う。
「一体誰がアップしたんだね。こんな動画」
「元ツイートによれば、偶然乗り合わせた人だそうですよ。フェイク動画かどうかで論争になったんですが、別の乗客も事件の様子を撮っていたので本物確定したんです」
 偶然、ね。私は記憶野にメモを挟んだ。
「で、錦野君はその新型脳波義肢の開発に関わっていたのか?」
「そうっぽいね。なんか」
 組織への帰属意識皆無のふわっとした返答だ。
 錦野が言うには、彼女は元々フリーランスのサーバーサイドエンジニアとして千手メディカルと年契約を結んでいたらしい。しかし、とある医師にAIエンジニアとしての腕を見込まれ、共同で千手義肢AIの反応速度向上パッチを開発したそうだ。事件を引き起こしたのは、そのパッチだった。
「共同開発者の名前は?」
「大槻水琴」
 被害者じゃないか。
「なんですかそれ。俺、納得いかないんですけど」
 軒下が憤る。
「無事故に越したことはないですが、それも含めて治験でしょう? 開発者を逮捕なんておかしいですよ」
 その通りだ。その通りだが、軒下と同調は出来ない。どうせ、錦野が何かやらかしたに決まっているからだ。錦野はしばらく押し黙っていたが、私が目で促すと、渋々答えた。
「……中止になってたんだよね。治験」
 二ヶ月前、先程の電車マッチョ動画の影響で千手メディカルに多数の抗議が寄せられた。世間の目と患者の不安を重くみた役員は、治験の打ち切りを決断。参加していた患者たちは元のバージョンの義肢に段階的にダウングレードすることになった。
 そんな中、中止の決定に不満を抱き、最後まで粘ったのが被害者と錦野だった。二人はテスト用義肢の安全性を証明しようと、被害者自身の義足を使って実験を続けた。
 その挙げ句が今回の悲劇だ。
「……錦野君。こんな事は言いたくないんだが」
「じゃあいいよ。言わないで」
「百パーセント自業自得では?」
「めっちゃ言うじゃん」
 言いたかった。
「何故打ち切られた治験を独断で継続したんだね!」
「聞いたらダメって言われそうだし」
 私は眉間を揉んだ。ダメなら、ダメだろ。
「つまり、なんだ。まとめるとこういうことか? 『打ち切られた治験を勝手に続けたら人が死んだので無罪にしてくれ。弁護料五十万で、あの千手を敵に回して』」
「好感度、上がるよ。私の」
 私は眉間を揉みに揉んだ。シワが固まってしまいそうだ。裁判官の評価に響く。
 千手病院、千手メディカルの親会社である千手電子は、日本でその名を知らないものはいない大企業だ。ゴールデンタイムにテレビをつければ、どこかのチャンネルで必ずその名前とスローガンを聞かされる。
 その千手は今、今回の刑事訴追とは別に民事で錦野を契約違反で提訴しようとしている。日本を代表する上場企業と、一介のフリーランス。どちらにつけば得かは、火を見るより明らかだ。
 私は手帳の一ページを開いて、強化ガラスの向こうに見せた。
「なにこれ」
「よその弁護士事務所の電話番号だよ。まぁ、そこそこに良心的な商売をしている」
 私には劣るが、この程度の案件なら十分だろう。私には劣るが。
「覚えたね? くれぐれも私からの紹介だともらさないように。……さて、帰るぞ。軒下君」
「い、いいんですか? 先生」
 いいに決まっている。これが全体最適な選択だ。私が弁護を外れることによる勝率の低下よりも、我々の関係が明るみに出る危険性の方がはるかに深刻だ。
「私は業務妨害の抗議に来たのだよ。仕事を請けるためじゃない。留置場に足を運んだだけでも大サービスさ」
「見捨てるんだ。私のこと」
 批難と冷笑の入り混じった声で、錦野は言った。
 なんとでも言いたまえ。お互い、掘れば手が後ろに回る身の上だ。もたもたと鞄に筆箱を押し込む軒下を置いて、私はドアノブに手をかけ、面会室から……。
「欲しいよね。『あかさたな』の新情報」
 錦野の一言が、私の手を止めた。言葉が時間をピン留めしたような感覚だった。
「止まっちゃうんだ。やっぱり」
 振り返ると、錦野は爪をいじっていた。
「……何か掴んだのか」
「おー、食いつくね。単なる乱数のいたずらだって思っとけばいいのに」
「答えてもらう。『あかさたな』の手がかりを見つけたのか?」
「正しくは、見つける途中? アキバで中古の外付けハードディスク買ってさ。入ってそうなんだよね。なんか」
「なんかとは、何だね」
「わからん。サルベージしなきゃ」
 錦野は強化ガラスの穴を指でなぞり始めた。手がかりが欲しければここから出せと、そういうことか。
 私は席に戻った。目を合わせようとしない錦野に、契約条件を確認する。
「弁護料五十万。実費は別。新情報は余さず渡してもらう。それでいいね」

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この続きは書籍版でお楽しみください。

錦野博士
(イラスト:shirakabaさん)



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