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テッド・チャン『息吹』ついに発売! 翻訳・大森望氏によるあとがきを公開します

いよいよテッド・チャン『息吹』が発売となりました! 本作の翻訳をつとめた大森望氏によるあとがきを公開します。

息吹_帯

※書影はAmazonにリンクしています
【書誌情報】
■書名:息吹
■著者:テッド・チャン
■訳者:大森 望
■発売日:2019年12月4日発売
■価格:本体1900円+税
■判型:四六判上製
■出版社:早川書房

訳者あとがき
大森 望

 当代最高の短篇SF作家による当代最高のSF短篇集『息吹』をお届けする。
 原書 Exhalation は、2019年5月、文芸出版の老舗、アメリカのアルフレッド・A・クノッフ社からハードカバーで刊行された。本書はその全訳にあたる。

 著者のテッド・チャンにとっては、第1作品集『あなたの人生の物語』以来、17年ぶり2冊目の著書。まったく、寡作にもほどがあるというか、古今東西のSF作家を集めて“寡作王”決定戦を実施したら、優勝はまちがいなくこの人だろう。なにしろ、23歳のときに書いた「バビロンの塔」で1990年に商業デビューして以降、現在までの29年間に出した本は、本書を含めてわずかに2冊。数ページの掌篇4篇を含め、全部で18篇の中短篇しか発表していない。なのに、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、シオドア・スタージョン賞、星雲賞など世界のSF賞を合計20冠以上獲得。短篇一本書くだけで世界中のSF読者のあいだでセンセーションを巻き起こすのはこの人くらいだろう。

 とはいえ、2年に1作くらいのペースでぽつぽつ短篇を発表するだけの兼業作家とあって、SF外ではそこまでよく知られているわけではなかった。その状況が一変したのが2016年のこと。最初の短篇集の表題作「あなたの人生の物語」が、エリック・ハイセラー脚色、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、エイミー・アダムス主演で、Arrival として映画化され、パラマウント映画の配給で劇場公開されたのである(日本では「メッセージ」のタイトルで2017年に公開)。原作の(ハードSF的なアイデアを除いて)エッセンスをみごとに映像化したこの作品は、米アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚色賞など8部門にノミネートされ、音響編集賞を受賞。他の映画賞でも高く評価され、原作者であるテッド・チャンの名は、ジャンルと国の境界を越えて全世界に知れ渡った。かねてからファンの多かった日本でもさらに読者を増やし、同作を収録した『あなたの人生の物語』は、SF短篇集としては異例の、15万部を超えるベストセラーとなっている。極端な寡作のまま、テッド・チャンは現代SFを代表する作家に昇りつめたのである。

 そのテッド・チャンの待望ひさしい2冊目の著書が、本書『息吹』。チャンの全小説作品のちょうど半数にあたる9篇が収録されている。しかも、収録作のうち、最後の2篇、「オムファロス」と「不安は自由のめまい」は、本書のために書き下ろされたバリバリの新作で、この2篇を含めた5篇が本邦初訳となる(ただし「オムファロス」のみ、SFマガジン2019年12月号のテッド・チャン特集に先行掲載されている)。
 この1冊をまとめるのに17年の歳月を費やしただけあって、作品の質の高さは『あなたの人生の物語』にもひけをとらない。最近10年のSF短篇集では、おそらく世界ナンバーワンだろう。

 オバマ前アメリカ大統領は、自身のフェイスブックで、2019年夏の推薦図書リストに、コルソン・ホワイトヘッドの新作長篇 The Nickel Boys や、村上春樹『女のいない男たち』、ローレン・ウィルキンソン American Spy などと並んで、出版されたばかりの『息吹』を挙げ、「ここに収められた短篇を読むことで、読者はさまざまな難問について考え、それと格闘し、人間について理解を深めることになる。最上のサイエンス・フィクションだ」と評している。

 文芸誌〈ニューヨーカー〉では、全米図書賞作家のジョイス・キャロル・オーツが、「SFが描く未来はディストピアとはかぎらない」と題する長文の書評を寄稿。フィリップ・K・ディック、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、アーシュラ・K・ル・グィン、マーガレット・アトウッド、村上春樹、チャイナ・ミエヴィル、カズオ・イシグロの系譜に連なる作家として著者を位置づけ、チャンは伝統的なSFの枠組みをおよそ伝統的ではないやりかたで探求してきたと分析する。いわく、『息吹』では、生命倫理、仮想現実、自由意志と決定論、タイムトラベル、ロボットに搭載されたAIなどに関する現代的な問題が、飾らないストレートな文体で語られ、技術的な発想から倫理的な葛藤が生まれる。チャンの文章には“ジョージ・オーウェルが理想の散文の特徴として唱導した、窓ガラスのような透明さ”があり、現実離れしたひとつのイメージに焦点をあてるような寓話的な物語を伝えるのにそれが役立っている。『息吹』に収められた短篇群は、答えのない謎かけのようにいつまでも心に残り、読者を焦らし、悩ませ、啓発し、ぞくぞくさせるだろう──と、オーツは書評を結んでいる。

 ここであらためて、本書収録の各篇を簡単に紹介すると、表題作の「息吹」は、人間がひとりも出てこないヒューマン・ドラマ。現実とはまったく異なる世界を設定し、その世界の秘密を探る科学者を主役に、驚きに満ちた物語を展開する。突拍子もないアイデアから出発しているのに、ラストでは読者に深い感動をもたらす。英国SF協会賞、ヒューゴー賞、ローカス賞などに輝く、21世紀本格SF短篇の頂点に立つ傑作だ。

 同じ構造は、創造説をテーマにした新作「オムファロス」にも共通する。こちらの舞台は、数千年前、へそのないアダムとイブ(原始の人間)が神の手によってつくりだされたことが証明されている世界。天地創造という奇跡がかつてただ一度起きたことが明らかなこの世界で、科学者はどんな役割を果たすのか? 〈SFマガジン〉のテッド・チャン特集用に翻訳原稿を送ったところ、担当編集者が「面白すぎて座ってられず最後まで直立不動で読み通しました」と興奮のツイートを投稿したくらいで、こちらは「地獄とは神の不在なり」と裏表の関係にある記念碑的な名作だ。

「息吹」や「オムファロス」では、“世界のことわり”を解明することが小説のテーマに直結するが、本書には、自分の人生とどう向き合うかを描く作品もいくつか収められている。
 アラビアン・ナイトのスタイルを借りた時間SF「商人と錬金術師の門」では、現代物理学と矛盾しないタイムトラベルを使って、語り手が自分の過去と向き合うことになる。もうひとつの「あなたの人生の物語」とも言うべきこの作品は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞両賞を受賞している。

 現実ときわめて近い設定で書かれた“子育て”小説も、3篇おさめられている。ヒューゴー賞を受賞した「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」は、AIを育てることがテーマだし、「デイシー式全自動ナニー」では機械による子育てがテーマ。「偽りのない事実、偽りのない気持ち」では、新たなライフログ検索システムによって、父親と娘の関係に新たな光が当たり、父親はみずからの子育てをふりかえることになる。
 新しい技術を通じて人間を描く点では、巻末に置かれた新作中篇「不安は自由のめまい」が新たな代表作のひとつだろう。プリズムと呼ばれる機械によって、並行世界とのコミュニケーションが実現し、「もしあのときこうしていたら?」という問いに対する答えが得られるようになる。そのとき、人は何を感じるのか。そして、人間の性格はどのようにしてかたちづくられるのか……。
「予期される未来」と「大いなる沈黙」は、ともに小品ながら、ずっしり重い読後感を与える問題作。テーマは、自由意志と知性。とりわけ、自由意志の問題は、「あなたの人生の物語」以来、チャン作品の重要なテーマのひとつになっている。著者自身もやはり、自由意志など存在しないと考えているのだろうか。以前質問したことがあるので、そのインタビューの一部を抜粋して引用しよう。
 
 それは“自由意志”という言葉をどう定義するか次第だね。脳は物質でつくられており、物質は古典物理学の法則にしたがってふるまう。だとすれば、ある時点におけるシステムの状態は、その直前の状態によって決まる。そういう決定論の考え方と自由意志とは両立しうると考える人もいるし、決定論などまったく受け入れられないと思う人もいる。僕自身は、決定論の主張には大きな説得力があると思う。しかし、最大の問題は、未来についての情報を得られた場合、人間がどうふるまうかだ。
「あなたの人生の物語」「商人と錬金術師の門」「予期される未来」は3つとも、この問題を扱っている。未来についての情報を得ても、未来を変えることはできない。変えられるとしたら、未来についての情報を得たことにならないからね。
 たとえば、通りを歩いていてバスにはねられ、全身麻痺になるという未来を知っていたとする。その瞬間に向かって通りを歩き出すとき、頭の中でなにを考えるか。これはとても困難な問題だ。未来を知ることで何が変わるのか。
「あなたの人生の物語」の語り手は、ある精神状態に到達し、この問題に対してひとつのありうべき答えを出す。もうひとつのありうべき精神状態は、「予期される未来」で書いたような無動無言症だ。ほかにどういう解決があるのか、僕にはわからない。いや、もうひとつあるか。未来についての情報を得たとたん、それ以降、悪いことはなにひとつ起こらなくなる(笑)。だれも怪我をしないし、だれも悲しい思いをしないし、だれも死なない……。
 でも、宇宙のふるまいが変わらないとしたら──死や災厄がなくならないとしたら──精神がそれにどう対処するかは大きな問題だ。禅の公案みたいなものだね。悟りをひらいて、バスにはねられる未来に平然と立ち向かえる人は非常に少ないと思う。ほとんどの人は必死に運命に抗おうとするんじゃないかな。もちろん、未来についての情報を得たとたん、すべての人間がとつぜん悟りをひらくという可能性もあるけどね(笑)。
 いずれにしろ、未来についての情報が得られたらどうなるかという話で、さいわい、実際にはまず実現しないから、僕らはそれについて心配しなくて済む。(SFマガジン2010年3月号より)
 
 著者がここで語っている問題を、「避けられない困難に直面したとき、知性はどうふるまうか」と言い換えれば、本書のほとんどの作品がこのテーマに関連している。理解しようと努力することに意味があるという表題作のポジティブなメッセージと、知性が持つポテンシャルに対する信頼が通奏低音となって、それぞれタイプの違う9つの物語をひとつにまとめあげる。科学と技術の問題だけでなく、つねに心の問題を中心に置く点が、ジャンルの垣根を越えてテッド・チャン作品が広く読まれつづける理由かもしれない。[後略]

息吹

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