内田樹「カミュの『誤解』という『世にも奇妙な物語』について」(悲劇喜劇2018年11月号)
日本でも繰り返し上演されてきたアルベール・カミュの戯曲『誤解』。岩切正一郎氏の新訳に寄せて『悲劇喜劇』11月号に掲載された内田樹氏による示唆に富んだ解説を全文公開します。(新国立劇場『誤解』2018年10月4日~21日)
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人が真率であること
──『誤解』という「世にも奇妙な物語」について
『異邦人』のムルソーは独房の藁布団の下に古新聞の切れ端を見つける。そこにはチェコスロヴァキアで起きた事件のことが書かれていた。
「一人の男が一旗揚げようと故郷のチェコの村を出た。二十五年後、金持ちになったその男は妻と子ども一人を連れて帰郷した。彼の母親は故郷の村で、彼の妹といっしょに一軒のホテルを経営していた。彼らを驚かそうと、男は妻子を別の場所に残して、母の家に行った。母親は彼が誰だかわからなかった。彼はふと部屋を借りるというアイディアを思いついた。彼は持ち金をみせびらかした。その夜、母と妹は男を金槌で殴り殺して、金を奪い、死体を川に棄てた。翌朝、妻がやってきて、何が起きたか知らず、旅人の身元を明かした。母親は首を縊り、妹は井戸に身を投げた。私はこの話を繰り返し繰り返し読んだ。まるでありそうもない話のようにも思えたし、いかにもありそうな話にも思えた。いずれにせよ、私はこの旅行者は自業自得だったと思う。運命を弄んではならない。」(Albert Camus, L’Étranger, in Théâtre, Récits, Nouvelles, Gallimard, 1962, p.1182)
古代からかたちを変えながら繰り返し物語られてきた「世にも奇妙な物語」の一つであるこの伝説は「家族はどうあるべきか」についての根源的な思考に人を誘う。
家族については二つの禁忌がある。「近親相姦の禁止」と「家族による家族の殺害の禁止」である。家族は家族をある限界を超えて愛してはならず、ある限界を超えて憎んではならない。ある限界を超えて親しんではならず、ある限界を超えて疎遠になってはならない。それが家族についての人類学的な基本ルールである。私たちはしばしばその禁忌を冒して、奈落の縁まで行ってしまうことがある。
アメリカの都市伝説「屋根の上の赤ん坊」はこんな話である。若い夫婦が赤ん坊を連れてドライブにでかける。エンジンが過熱したので、車を止めて冷やすことにした。少しでも涼しいようにと赤ん坊はベビー・ベッドごと車の屋根に乗せた。そのうち夫婦は言い争いを始めた。エンジンが冷え、車が走り出してもまだ車内では怒鳴り合いが続いた。そのうちに二人はふと先ほどから赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついた……。
ヨーロッパの伝説「体内の蛇」では主客が転倒する。女性が不用意に蛇の卵を呑み込んだために、蛇が体内で育ってしまう。それが食べ物の匂いにつられて外に出ようとして、女は喉を詰まらせて窒息死する。こちらは子どもが親を殺す物語である。
『誤解』は禁忌を冒して、奈落に落ちてしまった男の物語である。
人類学的な一般規則として、家族は家族を支援し扶養しなければならない。私たちは幼児の時、老衰した時、病気や怪我や失業の時、身近なものの支援を必要とする。家族は生き延びるための「安全保障」である。しかし、このルールを機械的に適用していると、家族内の相対的に有能で健康なものはもっぱら「支援の持ち出し」になる。それが続くと、やがて自分の資源を自分一人のために排他的に利用したいと思うようになる。しかし、その誘惑に屈して家郷を棄て、家族を扶養する義務を履行しなかった者は、「家族と疎遠過ぎたこと」についていつかは報いを受けなければならない。
ジャンはかつて家族を捨てた。だから、彼はいずれそれについて処罰されることになる。ジャンは自分の帰郷を、かつて棄てた二人の家族に遅すぎた支援をもたらすものだと妻には説明しているけれど、内心では自分が歓待されるとは信じていない。
「ぼくにとってはふたりが必要ってわけじゃない。でも、ふたりはぼくがいなくてきっと困っているだろうって」
自分で言う通り、ジャンの側は二人を必要としていないし、したこともない。彼の帰郷を切望しているのは母と妹の方である。彼にある「義務」を履行させるために。
「人には義務がある。僕の義務は、もう一度みつけること、お母さんと、祖国を……」
ジャンの「祖国」とは、彼がいつか戻ることを宿命づけられている場所のことである。夫を一人で彼の「祖国」であるホテルに残すことに不安を感じている妻のマリアにジャンはこう説明する。
「ぼくの夢、っていうか義務っていうか、それはそのまま受けとめて欲しい。そこから一歩外へ出るとぼくには何もなくなる(je ne serais rien en dehors d’eux)。」
ジャンの「夢」と「義務」は同じコインの裏表である。「夢」は故郷に戻って、母と妹に歓待されることである。「義務」は故郷に戻って、母と妹に処罰されることである。この二つは切り離すことができない。というのは、歓待も処罰も、成立するための条件は同じだからである。それは二人が彼のことをひとときも忘れたことがないということ、彼の離郷以来つねに彼の不在を欠落として痛みとして感じ続けてきたということである。この歳月の間に、母娘にとっては「家族に棄てられた」ことが、息子にとっては「家族を棄てた」ことがそれぞれの牢固たるアイデンティティーになっている。だから、この「夢と義務」から一歩でも外に出ると、ジャンは自分は何ものでもなくなってしまうと感じるのだ。
それはジャンにとっての「夢も義務もない帰郷」がどんなものになるかを想像すればわかる。それは母と妹が彼のことをすっかり忘れ果て、彼の不在を少しも気にかけることなく暮らしていた場合である。その時にジャンが感じる絶望は三島由紀夫の『天人五衰』の最後の場面で、門跡が本多繁邦に向かって、「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」と訊いたときに本多が感じた墜落感に似たものとなっただろう。
「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか? 何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」と言われて、本多は「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」と感じる。
カミュがje ne serais rienというジャンの台詞に託した状態はたぶんこれに近い。もし、母と妹の二人が自分を歓待/処罰してくれなかったら、ジャンは「記憶もなければ何もないところに、自分は来てしまった」と思うはずである。カミュが「追放」とか「忘却」と呼んでいるのは、そのような事態のことである。「追放」と「忘却」を恐れるなら、「祖国」に戻らなければならない。
「人は、追放されていたり忘れられたままでいたりしては幸せになれない。いつまでもよそ者ではいられない。ぼくは自分の国をもう一度見つけたい」
残念ながら、ジャンのこの願いは(生きている間には)かなえられない。ジャンは「追放と忘却」のうちに死を迎えてしまう。彼の死は家族を棄てたことについての「処罰」でさえない、まったく無意味な死である。悲しい物語だ。だが、カミュ自身はこれを救いのない物語として読むことを読者には禁じている。
「この戯曲が運命への屈服を擁護するものだと思うのは間違いである。反対に、これは反抗の物語である。(…)人間が自分自身として認められたいと望むなら、自分が何ものであるかをまっすぐ告げるべきだ。口を噤む者、嘘をつく者は、孤独のうちに死ぬことになる。」(Camus, Préface, Ibid., p.1793)
ジャンは彼の夢をかなえ、義務を果たすために、「祖国」に戻ったが、その真率さを貫くことができなかった。その一瞬の怯えゆえに、ジャンは、彼自身がうかつにも予言してしまった通り、追放と忘却のうちで、孤独のうちで死ぬことになる。ムルソーが言う通り、人はつねに真率であるべきなのだ。
『誤解』は一九四三年、ナチ占領下のパリで書き上げられた。そして、この作品をレジスタンスへの誓言として読むことをカミュは読者に求めている。もちろん私たちには作家の指示する読み方に従う義務はない。けれども、そのようにして読むと、この「世にも奇妙な物語」は伝説とはたしかに別の相を開示するのである。
内田樹(うちだ・たつる)1950(昭和25)年、東京生れ。神戸女学院大学名誉教授。武道家、多田塾甲南合気会師範。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。主著に『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』ほか多数。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞受賞、著作活動全般に対して伊丹十三賞受賞。神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」主宰。『アルベール・カミュⅠ カリギュラ』(ハヤカワ演劇文庫)で解説を執筆。