経済学の最新動向を一冊に凝縮!『経済学者のすごい思考法』解説試し読み
11月20日に『経済学者のすごい思考法――子育て、投資から臓器移植、紛争解決まで』(エリック・アングナー、遠藤真美訳、早川書房)が刊行されます。本書の原書を授業で使ったことがあり、「初心者にも経済学の面白さと有用性を伝える格好の良書だ」と高く評価する若田部昌澄さんによる解説の一部を編集し、特別に試し読み公開します!
解説 初心者に経済学の有用性を伝える良書
若田部昌澄(早稲田大学政治経済学術院教授)
はじめに
2023年秋に、私は本書を教科書として使ったことがある。私が勤務している大学に学部生向けアカデミック・リテラシー演習「英語で経済学を学ぼう」という授業がある。実は、別の本を予定していたのだが、開講直前に邦訳が刊行されることがわかり、慌てて差し替えることにした。これから英語で経済学の本を読もうというのに、邦訳が出ていては学生の学習意欲に影響が出るのは必至である。結果として、本書を選択したことは正解だったと思う。入門レベルの経済学を学んでまもない受講生たちは、経済学がどのように社会で使えるのか、使われているのかについてはまだピンときていない状況だった。本書を読んだ後の受講生の反応は総じて良いものだった。
著者エリック・アングナー
本書は、How Economics Can Save the World: Simple Ideas to Solve Our Biggest Problems (Penguin Business, 2023) の全訳である。
著者エリック・アングナーは、スウェーデン生まれの米国籍の経済学者、哲学者である。スウェーデンのウプサラ大学で哲学理論・数学の学士号、哲学理論の修士号を取得後、米国ピッツバーグ大学で科学史・科学哲学と経済学の二つの分野で博士号を取得している。その後、アラバマ大学バーミングハム校、ジョージ・メイソン大学を経て、現在ストックホルム大学の実践哲学の教授を勤めている。著書には経済学の博士論文を基にしたハイエクの研究書や、行動経済学の入門教科書がある他、多数の論文を刊行している。本人は生年を明らかにしていないが、1995年に学部を卒業しているところから推測するに、現在50代に差し掛かったあたりだろうか。
本書について
経済学に対する人々の関心は依然として高い。ことに日本の場合、独自の経済学文化があるためか、一般向けの経済学解説書が陸続と出版されている。ただ、一般向けの経済学解説書には、主流の、現在標準とされている経済学を批判する色彩のものが多い。例えば、『ゾンビ経済学──死に損ないの5つの経済思想』、『世界を破綻させた経済学者たち─許されざる七つの大罪』、『経済学のどこが問題なのか』といった題名の本が書棚に溢れている。そのものズバリ、『反経済学』、『反経済学講座』という本もある。
確かに、これまでも経済学の切れ味の鋭さと面白さを伝える本も多数刊行されている。スティーヴン・D・レヴィットとスティーヴン・J・ダブナーの『ヤバい経済学』が有名だ。この本は、米国で1990年代に犯罪率が激減した理由は1970年代の妊娠中絶の合法化にあった、日本の大相撲では八百長が頻繁に行われている、といった主張の奇抜さもあり、世界的に大センセーションを引き起こした。とはいえ、そういう本は特定の研究を基にしており、経済学の全体像を教えてくれるわけではない。 もちろん、経済学の全体像を伝えてくれる良書も多数刊行されている。例えば、ジャン・ティロール『良き社会のための経済学』、アビジット・バナジーとエステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学』などがある。彼らはいずれもノーベル経済学賞受賞者だけあって、どれも洞察に満ちている。しかし、それだけに経済学の玄人向けで、全くの初心者には敷居が高いだろう。
そうした類書に対して、本書は、経済学をこれまで学んだことがない初心者にも、経済学の面白さと有用性を伝える格好の展望を示している。経済学史、科学哲学を学んだ経験を十分に生かして、経済学を俯瞰する視点が生きている。しかも経済学史家や科学哲学者は、ややもすると現代の主流派経済学に対して批判的になりがちなのに対して、著者の経済学との距離の取り方は絶妙である。
ここで、三つの命題に整理してみるとわかりやすい。
①「経済学は役にたつ」
②「経済学は完璧ではなく、多くの問題を抱えている」
③「経済学はもっと良いものにできる」
この三つの命題は同時に成り立ちうる。多くの論者は②と③に焦点を当てがちだが、②と③を認めつつ、①を主張することは可能である。反経済学の人たちは経済学を全面的に否定する傾向にあるかもしれないが、著者が①を強調するからといって、②と③を無視しているわけではない。著者は次のようにまとめている。
著者は本書の最後の章で、③に関するいくつかの提案をしている。その中でも、経済学の側からふつうの人々に、「経済学とはなにか、なにをするのか、なんのためにあるのかがあまりにも知られていない」こと、いわゆるコミュニケーションの不足を挙げている。だからこそ自分がこの本を書いたということだろう。
行動経済学の入門教科書が三版を重ねているように、著者の説明の分かりやすさには定評がある。貧困の根絶という大きなテーマの次は子育ての話といった身近な話を取り上げるなど、硬軟取り混ぜての説明は実にうまい。全体を「大きな課題」(第1、3章)、「社会の課題」(第4、5、9章)、「個人の課題」(第2、6、7、8章)にまとめることもできる。読者の興味関心に合わせて読むことができよう。
それぞれの話題について、的確に代表的文献を紹介しながら、全体として「経済学は役にたつ」というメッセージが力強く打ち出されている。行動経済学の解説書の中には、これまで経済学の基礎にあった合理的選択理論を否定しかねない傾向が見られるが、著者は合理的選択理論と行動経済学の長所をそれぞれうまく使って説明している。
経済学をすでにある程度学んでいる読者は、終章から読み始めると良い。かつて、理論重視の傾向が大きかった経済学は、21世紀に差し掛かるあたりから急速に実証科学へとシフトしている。これを経験的転回(empirical turn)という。独自のデータ収集の発達、計算能力の向上、計量技法の進化を受けて、現代経済学はあたかもデータサイエンスのようになりつつある。理論においても、行動経済学が台頭し、合理的選択理論と共に経済学の一角を占めるようになった。結果として、経済学の世界はこれまでになく豊かになっている。(中略)
変化し続ける経済学
本書刊行の後も、経済学は変化し続けている。特に経験的転回後の経済学では、実証分析が出るたびに知見が書き換えられている。その点を補足してみよう。
第一に、本書第1章に出てくるランダム化比較試験については、「黄金律(gold standard)」と言われつつも、さまざまな問題が指摘されている。例えば、実験のサンプル内では因果関係が判明したとしても(「内的妥当性」があるという)、そのサンプルの外でも結果が成り立つのかどうか(これを「外的妥当性」の問題という)。場合によっては、「内的妥当性」と「外的妥当性」の間にはトレードオフがあるかもしれない。実験を進んで行う主体は、そもそも思った通りの実験結果が出やすいからかもしれない。また、効果はわかってもそれを生み出すメカニズムは、ブラックボックスでわからないかもしれない。さらに、介入は特定の部分だけを見ているもので、それが経済全体にもたらす間接的な効果まではわからないかもしれない。
第二に、本書では簡単に言及されている再現性の危機の問題は、2021年夏に噴出した。米国でのブログ記事による告発によって、行動経済学の大立者ダン・アリエリーとフランチェスカ・ジーノの研究が再現可能でないことが明らかになり、データ改竄の疑いが浮上した。結果として、ジーノは勤務先のハーヴァード大学から無給での休職処分を受けている。同じ頃、「行動経済学の死」というブログ記事も出て、ちょっとしたセンセーションを引き起こした。この記事は、損失回避が再現できないこと、また行動経済学の政策的提言であるナッジの数量的効果は小さいこと、の2点を問題視している。
ただ、行動経済学という分野そのものの死を宣言するのは行き過ぎであろう。損失回避は多くの研究で再現されているし、ナッジの効果が小さいとしてもそれがわかることもまた、一つの立派な研究成果である。さらには、比率で測った時に小さいとしても、額で見たときには小さくないかもしれない。例えば10パーセントとされてきたナッジの効果が1パーセントだとわかったとしても、予算規模が大きければ額は小さくないという見方はある。私自身は、再現性の問題が提起されたのは、行動経済学が実証科学として進歩し成熟するために必要な健全な過程であると考える(むしろ不可解なのは、ジーノが大学から事実上の停職処分を受けたのに対して、アリエリーが依然として何の処分も受けていないことだ。これは経済学の問題なのか、それとも学界の問題なのか)。
第三に、気候変動を論じた第3章は、主として炭素税についての解説にあてられている。経済学者がピグー税というもので、本書にもあるように、主流派の経済学者が好む気候変動対応策である。ただ、炭素税は重要ではあるが、世界的に見てまだ導入は始まったばかりである。
ここで、気候変動についての知見をまとめておこう。まず、気候変動は激化している。世界の平均気温は上昇を続けている。そして、気候変動は人間活動によるものであり、そのようなものとして人間によって対応することが可能である。化石燃料を代替する太陽光、風力、バッテリーといった新しいエネルギー源によって、成果は出始めている。その結果、2010年代以降の世界での二酸化炭素排出量は安定化の傾向が見られる。とはいえ、平均気温の上昇はまだ続いている。また、気候変動対応では、地域によって大きな差がある。米国、EU、日本といった先進国での排出量は減少してきている一方で、中国、インド、その他の地域では増加している。さらに、現在では二酸化炭素ガスと経済成長のデカップリングが進んでいる。世界の先進国では、一人当たりの実質国民所得は増えている一方で、二酸化炭素ガスの排出量は減っている。
この「大デカップリング(great decoupling)」の背景にあるのは、すでに指摘した再生可能エネルギーコストの急激な低下である。特に、太陽光エネルギーの価格低下が目覚ましい。政府による税金、代替的エネルギー源への補助金、環境規制といったトップダウンのイニシアティブだけでなく、個々の企業家、経営者の努力、そして環境問題への規範の変化が、ここまでの成果を生んでいる。もちろん、中国やインドではまだデカップリングは進んでいない。また、気候変動を止めるだけの二酸化炭素ガスの削減が成功するかどうかという問題はある。この点で、炭素税の導入に期待するのは理解できる。しかし、それ以前に、気候変動対応で進歩を遂げつつあるのも事実である。
第四に、全体としてマクロ経済学については扱いが少ない。最近の経済学批判の多くが、2008年から2009年にかけての世界金融危機(Global Financial Crisis。日本ではリーマン・ショックと呼ばれているが、これは海外では通じない)を受けて、現代マクロ経済学とファイナンス理論に向けられている。この点についての著者の記述は、経済学の目的は予測ではなくてパターン予測であると述べるに留まっている。いかにも、ハイエクや科学哲学に詳しい著者らしいが、もう少しマクロ経済学についての記述があっても良い。確かに、現代マクロ経済学とファイナンス理論には多くの改善点があるのは事実である。しかし、「50年か100年に一度の危機」とまで言われた世界金融危機が1930年代の世界恐慌に陥らなかったのは、経済危機への対応が進化したからだと言える。マクロ経済学は経済危機を通じて学習し、なにがしかの進歩を成し遂げたというべきだろう。(中略)
第五に、第5章で論じられているオークションについては、日本の読者向けの補足をしたい。この領域では、日本と海外との差はますます広がっている。例えば、本書でも簡単に触れられている周波数オークションは、OECD加盟国38 カ国中、日本だけが実施をしていない。導入の動きは起きてい
るが、まだ導入されていないのが現実である。日本の政策論議では、成長政策というと、日本独自のものを提唱したがる傾向が見受けられる。しかし、必要なのは海外の多くの国で一定期間以上実践され、これまで成功を収めている政策を着実に実施していくことではないだろうか。
第六に、お金で幸福は買えるのだろうか。本書第6章で紹介されているカーネマンとディートンの研究は、その後も続いている。彼らの研究に異議を唱えたのが、キリングズワースである。ここからの話が面白い。ディートンは、キリングズワースに、結果の違いがなぜ出てくるのか解明しようと、共同研究を持ちかけたのだ。そうして彼らが書いた論文の結果は興味深い。大部分の人々は、所得が増えると幸福度が増すし、最も幸福度の高い人々では所得の増加による幸福度の増加は加速すらする。この点では「お金で幸福は買える」。しかし、下位20パーセントの最も幸福度の低い人々では、一定の所得水準に達すると、それ以上幸福度が増えることはないという。つまり、総じて、「お金で幸福は買える」とは言えるが、所得から得られる幸福度には、人によって差があることもわかってきたのである。(中略)
経済学は、ますます面白く、そしてますます役立つようになるだろう。
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■著者略歴
エリック・アングナー Erik Angner
ストックホルム大学の実践哲学教授で、哲学・政治学・経済学(PPE)プログラムを指導している。25年にわたり複数の大学で経済学と哲学を教えている。本書の他に経済学と哲学の接点に関する2冊の著書がある。妻と3人の子供とともにストックホルム在住。
■訳者紹介
遠藤真美 Masami Endo
翻訳家。訳書にセイラー『行動経済学の逆襲』(早川書房刊)、マクレイ『2050年の世界』、セイラー&サンスティーン『NUDGE 実践 行動経済学 完全版』、ドーリング『Slowdown 減速する素晴らしき世界』ほか多数。
■本書の目次より
序章 世界を救うには
第1章 貧困をなくすには
第2章 心を整えながらしあわせな子どもを育てるには
第3章 気候変動を食い止めるには
第4章 悪い行動を変えるには
第5章 必要なものを必要な人に届けるには
第6章 しあわせになるには
第7章 謙虚になるには
第8章 お金持ちになるには
第9章 コミュニティをつくるには
第10章 終章
読書案内
用語集
解説/若田部昌澄