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ゴキブリはどれほど賢いのか。アンディ・クラーク『現れる存在』イントロダクション試し読み

7/20の発売直後からSNSを中心に話題を呼んでいるアンディ・クラーク『現れる存在――脳と身体と世界の再統合』(池上高志・森本元太郎監訳)。「イントロダクション――ゴキブリの脳を載せたクルマ」を特別公開します。

『現れる存在』早川書房

イントロダクション――ゴキブリの脳を載せたクルマ


1950年代のSFと1960年代の科学ジャーナリズムの中で、約束されたはずの「人工の心」はどこにいってしまったのか。われわれが作り出した最高の「知的」人工物は、なぜいまだに、言いようもなく手の施しようがないアホなのか。一つの可能性は、われわれが知能そのものの本質をまったく誤解しているということだ。われわれは心というものを、ある種の論理的推論装置が、明示的に蓄えられたデータと結びついたものと考えていた──論理機械とファイリングキャビネットを組み合わせたようなものだと。こう考えるとき、われわれは心はいろいろなことを起こすために進化したという事実を無視している。われわれが無視している事実とは、生物の心が何よりもまず、生物の身体をコントロールするための組織だということだ。心は動きを作り出す。それもすばやくでなければならない──敵に捕まる前に、あるいは獲物に逃げられる前に。心は決して身体を伴わない論理的推論装置ではないのだ。

このちょっとした視点の転換から、現代の心の研究において、非常に興奮させられる革新的な仕事が生まれた。「ニューラルネットワーク(神経回路網)」の方式でモデル化を行う研究は、心の計算論的構造に対する極端に異なる見方を養った。認知神経科学の研究によって、実際の脳がニューロンとシナプスというリソースを使って問題を解決する際に見せる、しばしば驚嘆すべき方法が明かされ始めている。そして最近高まりつつある、単純な実世界ロボティックスの研究(たとえば、ゴキブリロボットを歩かせたり、餌を探させたり、危険を回避させたりといった研究)は、生物学的な生き物が、生存に必要なすばやくなめらかな現実世界での行為を、いかにして達成できるのかをわれわれに教えてくれる。これらの研究が収斂するところに、われわれは生物の認知がもつ本質の新しい見方をかいま見ることができる。それは、明示的なデータの蓄積と論理操作をせいぜい二次的な付属物と位置づけ、現実の脳と身体と環境とをカップルさせるようなダイナミクスと複雑な応答ループを第一とする見方である。野生の認知には、ファイリングキャビネットの中を探している暇は(文字どおり)なさそうだ。

もちろん、誰もがこのことに同意しているわけではない。まったく逆の見解の極端な例としては最近、5000万ドルをかけてコンピュータに常識的理解を植えつけようという試みがあるが、そのために莫大な明示的知識の蓄積がコンピュータに与えられる。このプロジェクトは(encyclopedia[百科事典]を省略して)CYCとして知られており、人間の大人が駆使できる一般的な知識の大部分を包含する、莫大な知識ベースを手作りしようとしているのだ。1984年に始まって以来、CYCは1994年までに100万近い知識項目をコード化することをめざしていた。このプロジェクトはおよそ二人世紀(2人だけでやったとすると100年かかる)のデータ入力時間を消費する。それがすめば、CYCは「一線を越える」と思われていた。つまり、CYCが書かれたテキストを直接読んで吸収し、自分の知識ベースの残りを「自己プログラム」できるところに到達するだろうと。

CYCプロジェクトのもっともきわだった特徴は、私の見方からすれば、明示的なシンボル表象がもつ力に対する極端なまでの信念だ。つまり公共の言語における単語の列と同じつくりの、内在化した構造があると信じている。CYCが使う表象言語は、情報を次のようなユニット(「フレーム」)でコード化したものである。

ミズーリ州
州都:(ジェファーソンシティ)
住民:(アンディ、ペパ、ベス)
所属:(アメリカ合衆国)

この例は単純化してあるが、基本構造はいつも同じである。ユニットには「スロット」(右の3つの小見出し)があり、スロットは値として内容のリストをもっている。スロットは別のユニットを参照しても構わない(たとえば「住民」スロットは、もっといろいろな情報を含んだ別のユニットへのポインターになっていてもよく、そうしていくらでも続けていける)。このユニットとスロットからなる機構は、より強力な言語(CycL 制約言語)によって拡張していくことができる。この言語はもっと複雑な論理関係を表現することができ、たとえば「すべての項目に関して、もしその項目がXならば、それはYの性質をもつ」のようなことを表せる。CYCが推論を進めるときには、いくつかの簡単な推論タイプのいずれかを使うこともできる。しかし、基本的な考え方は、コード化された知識にほとんどすべてを任せ、推論と制御の構造は簡単な現在のテクノロジーの範囲内にとどめておくというものだ。CYCの生みの親であるダグラス・レナートとエドワード・ファイゲンバウム(1992, p.192)は、適応的知能にとってのボトルネックは知識であって、推論や制御ではない、と論じている。CYC知識ベースは、われわれが知ってはいるが、普通わざわざ口に出さないような、世界についてのどんな小さなことでも明示的にしようとする。つまりCYCがめざすのは、われわれみんながもっているけれどめったに唱えることのない、知識項目をコード化することである──その項目には次のようなものがある(ibid, p.197)。
こんにちのほとんどのクルマは、4つのタイヤの上に乗っかって走っている。もし運転中に居眠りすれば、クルマはすぐにも車線からはみ出すようになる。もし何か大きな物が、あなたとあなたの欲しい物のあいだにあれば、おそらくそれを避けて行かないといけない。

このような「みんなが認める現実[consensus reality: 合意的現実]についての知識」の大部分を明示的にコード化すれば、CYCは、正真正銘の知能をもった応答が可能なところにまで達すると思われている。さらには、CYCは類推的な推論も用いて、莫大な知識ベースのどこかに部分的に類似するところを見つけ、新しい状況にもうまく対処できるだろうと期待されている。

CYCは重要かつ野心的なプロジェクトである。これまでにCYCがコード化した常識のデータベースは、よりよいエキスパートシステムを開発するためのリソースとしては、間違いなく大変な実用性をもつだろう。しかし、CYCの目的として、二つの可能性を区別すべきである。一つは、これまでのコンピュータシステムでも可能な、常識的理解の最良のモデルを提供するという目的である。もう一つは、CYC知識ベースの助けを借りて、正真正銘人工的な心の、初めての例を作り出すという目的である。

現在のCYCの性能では、後者の目的は果たせそうもない。CYCはこれからより大きくて凝ったものになっていくだろうが、依然として、根本的には脆くて理解をもたない「エキスパートシステム」のままだろう。もっともっとたくさんの知識をCYCに足したとしても、このことは改善されないだろう。その理由は、CYCには環境に対する、もっとも基本的な適応的応答が欠けているからである。この欠点は、システムが明示的にコード化した知識が比較的少量であることとは関係ない。それよりも、動いて感じるという現実世界の問題をもたらしている、環境とシステムとのあいだに、なめらかなカップリングがいっさい欠落していることが原因である。下等なゴキブリであっても、これから見ていくように、この種のなめらかなカップリングを見せてくれる──ゴキブリが示しているのは、ほとんどのコンピュータシステムにはどうしようもなく欠落している、ロバストで、柔軟で、実用的なタイプの知能なのである。だがこのように単純な生き物に、「明示的に表現された知識の巨大な蓄積」を駆使しているなどという濡れ衣を着せることはまずないだろう! したがってCYCプロジェクトは、それが機械の中に正真正銘の知能と理解を生み出そうという試みだとすれば、絶対的に、根本的に、致命的に、欠陥プロジェクトだ。知能と理解が根ざしているのは、明示的な言語ふうのデータ構造をもっていてそれを操作することではなく、何かもっと泥臭いものである。つまり、身体化された有機生命体が感じて動いて生き残れるように、現実世界への基本的な応答をチューニングすることが根底にあるのだ。

この判断は目新しいものではない。AIに対する主な哲学的批判もずっと、身体性を伴わないシンボル操作によって知能を引き出すことには疑いをかけてきた。そして同じように、状況に置かれた推論(つまり、実際の物理的環境の中で動く身体化された存在による推論)の重要性を主張してきたのだ。だがこうした疑念は、何か神秘主義の残滓に起因するものだと、安易に受けとめられてきた──魂のような心の本質に対する非科学的信念とか、哲学者が好む領域へと科学が侵入することへの頑迷な拒絶からくるのだろうというふうに。しかしいまでは、「身体性のない明示的なデータの操作」というAIの見方に対する代替案をもつことが、ハードサイエンスからの撤退ではないことがしだいに明らかになってきている。それはもっとハードなサイエンスの追求である。知能をそれがあるべき場所に戻すのだ。そこは日常のなめらかな行為の根底にある、生命体と世界とのカップリングである。CYCからサイクリングレースへ、そんなラディカルな転回が、身体化された心という新しい科学を特徴づけている。

たとえば、卑しいゴキブリを例にとってみよう。ゴキブリはゴキブリなりの常識的知識をかなりの量受け継いでいる。少なくとも、賢明そうな現実世界の行動の鍵は明示的な知識にあると考える理論家には、そのように見えるはずだ。なぜならゴキブリは恐るべき逃避の達人であり、たくさんの内的・外的要因に合わせて回避的行為をとることができる。以下はリッツマンの詳細な研究(1993)から抜粋した、アメリカゴキブリ[Periplaneta americana: ワモンゴキブリ]の逃避技術の簡単なリストである。

ゴキブリは、襲ってくる捕食者の動きが原因の風の乱れを感じることができる。
ゴキブリは、捕食者が原因の風と、通常のそよ風や気流とを区別することができる。
ゴキブリは、他のゴキブリと接触することは回避しない。
ゴキブリが逃走行動を始めるときには、ただランダムに走りだすわけではない。自分の最初の向き、(壁や角といった)障害物の存在、照明の程度、風向きなどを考慮に入れている。
なるほど、こいつらがいつも逃げおおせるわけだ! リッツマンが指摘するように、この最後の一連のコンテキストを考慮することで、単純に「捕食者を感知したらランダムに走り始める」反射よりも、応答はずっと賢いものになる。ゴキブリの専門家(というのがいたとして)はこれまで反射ですべて説明がつくと思っていた。このさらなる複雑さをうまくとらえて、リッツマンは、ゴキブリと同じように「賢い」自動車で例えている。このクルマは、近づいてくる乗り物を感知できるが、普通に走っている場合は無視する。衝突が起こりそうなことを察知すると、自動的に方向転換を始めるのだが、それは自分の状態(エンジンや加速についてのさまざまなパラメータ)を考慮し、道路の方向と表面に注意し、別の危険に陥ることを回避しながらである。ゴキブリの知能をもったクルマというのは、いまの自動車の最先端技術よりも先を行っているのは明らかだろう。それなのに「ゴキブリの脳を載せたクルマを買おう」では、最優秀宣伝文句としてみんなの心にすぐには響かない。生物の知能の基本形式に対抗して、大きくて凝った「ファイリングキャビネットと論理機械」をひいきにする偏見は、あまりに深刻である。

ゴキブリはいったいどうやって逃避をなしとげるのだろうか。その神経メカニズムがいまわかってきている。風が来たことを検知するのは、2本の尾角(アンテナのような構造で、腹部後方についている)である。尾角は風の速度や向きに敏感な毛で覆われている。逃避行動が活性化されるのは、風が0・6m/s 2以上で加速しているときだけである。こうしてこの生き物は、通常のそよ風を捕食者の突進と区別している。感覚から応答までの間隔は非常に短く、静止したゴキブリで58ミリ秒、歩いているゴキブリなら14ミリ秒である。最初の応答は方向転換で、20から30ミリ秒かかる(Ritzmann 1993, pp.113-116)。方向転換を起こしている基本的な神経回路にはニューロンの集団がいくつか含まれ、どこにあってどうつながっているのか、いまではかなりよくわかっている。この回路には100を超える介在ニューロンが含まれ、ゴキブリの現在位置と周辺環境の状態に関するコンテキスト情報に照らして、さまざまな方向転換命令の調整を行っている。基本的な風の情報を運んでいるのは腹側巨大介在ニューロンの集団である。しかし最終的な活動を組み立てているのは、他のコンテキストの特徴に敏感なたくさんの神経集団からの調整の結果である。

ゴキブリがみごとに賢明な逃避手順を示すのを目の当たりにすると、理論家は誤って、ある種の準言語的データベースの蓄積を仮定するかもしれない。CYCの精神に従うならば、ゴキブリは次のような項目を含んだ知識フレームにアクセスしていると想像するかもしれない。もしも襲われていたら、壁のほうに突っ込んでいってはならない。もし何か大きなものが餌とのあいだにあれば、それを避けていくようにしなさい。穏やかなそよ風は危険なものではない。

哲学者のヒューバート・ドレイファス(1991)をはじめとする人々が指摘しているように、問題なのは、実際の脳がそのような言語形式の文章に似たリソースを使って、世界に対する巧みな応答をコード化しているようには見えないことである。そしてこのことはかえって幸いである。なぜなら、そのような戦略では、膨大な量の明示的なデータの蓄積と検索を必要とするため、実際の行為に必要な迅速な応答を作り出せないだろうからだ。実際ちょっと考えてみれば、一人の人間の大人が知っていることすべてをとらえるために、書き下さなければならない「常識的」知識には、はっきりとした際限がないことがわかる。ゴキブリの身体化された知識であっても、詳細をとらえるためにはおそらく何分冊にもなってしまうだろう!

だが、AIには他にどのような進み方があるだろうか。一つの見込みのあるアプローチは、自律的エージェント理論として知られるようになった方法である。自律的エージェントとは、複雑である程度まで現実的な環境中でリアルタイムに、生き残り、行為をし、運動することができる生き物のことである。現存する人工自律的エージェントの多くは、昆虫ふうの歩き方と障害物回避が可能な実ロボットだ。その他は、そのようなロボットのコンピュータシミュレーションであり、コンピュータベースでシミュレーションされた環境の中でだけ動いて行為をすることができる。現実世界の設定と実ロボットだけを支持する研究者たちと、「単なる」シミュレーションを活用するので満足な研究者たちのあいだには論争がある。しかし2つの陣営は次の点では一致している。彼らは現実的で基本的なふるまいをモデル化する必要性を強調しており、「身体性のない明示的な推論」型の頭でっかちな解決策を信用していない。

自律的エージェント研究についてのこの一般的イメージを念頭に、ごく手短ではあるがわれらがヒーローのゴキブリに話を戻そう。ランドール・ビアーとヒレル・チールは、ゴキブリの移動と逃避に対する、コンピュータとロボットを使ったもっともらしいシミュレーションを作り上げた。逃避反応をモデル化するにあたってビアーとチールがめざしたのは、動物行動学と神経科学のデータの強い制約のもとで自律的エージェントモデルを開発することだった。つまり研究の目的は、実際の生物学的データから、現在可能な限り離れないことである。そのために、彼らは自律的エージェントの方法論とニューラルネットワーク型のモデル化とを組み合わせた。また、計算論的モデルをゴキブリの実際の神経組織について知られていることと矛盾のないように、制約をかけた。そしてニューラルネットを使って仮想昆虫(シミュレーション)の身体をコントロールしたのである(Beer and Chiel1993)。このネットの回路は、現実のゴキブリの逃避反応をひき起こしている、神経集団とそのつながり方に関して知られている事実によって制約されていた。訓練がすむと、このニューラルネットワークコントローラーは、さきほど議論したような逃避反応の主要な特徴のすべてを、仮想昆虫の体で再現することができた。ここからの章の中で、なぜそのような成功を収めることができたのかについて、何かしらの理解を試みてみる。いま概要を述べたようなタイプの研究が、発達科学、神経科学、心理学の考え方とどのように組み合わされて、単純な行動と複雑な行動のどちらも幅広く解明することができるのかを、詳細に見ていこうと思っている。そして、身体化され環境に埋め込まれたエージェント──動きながら自分たちの世界に働きかける存在──には、驚くほど多様な適応戦略が用意されていることを調べていくことにしよう。

このイントロダクションを書いた目的は、根本的な対比を強調することにある。つまり、身体性と時間性のない知性偏重的な心の見方を思い浮かべて、身体化された行為のコントローラーとしての心のイメージをそこに並べることだ。コントローラーとしての心のイメージでは、時間と世界と身体の問題を真剣に扱わざるを得ない。コントローラーは適切な行為を急いで生成しなければならない。身体と変化し続ける環境とのあいだで進行する相互作用に基づきながら。古典的AIの計画システムも、じっくりと時間をかければ、そのうちシンボルで表現されたうまい行為の連なりを表すことができる。身体化された計画エージェントは、すばやく行為をとらなければならない──他のエージェントの行為によって生命を絶たれる前に。シンボルで文章のようにコード化したものが、そんな必死の決断に何らかの役割をもつかどうかは、まだ確実ではない。しかしそれが核心にあるのでないことは、いまや明らかなようである。

心をすっかり計算論的に理解する道筋は、レナートとファイゲンバウムの言い回しを借りれば、路上を土嚢で塞がれている。何年にもわたって研究者たちは、その土嚢の周りを迂回したり、それを巧妙に取り除こうとしてきた。そうしてほとんどのことはやってきたのだが、それを腰を据えて動かそうとはしなかったのである。レナートとファイゲンバウムは、土嚢とは知識のことだと考えている──心についての謎は、常識的な知恵の明示的な形式化を備えた、よくできた巨大なデータベースさえ整えば、自ずから消えてしまうだろうと。しかし野生の認知は、これとは違うことをわれわれに教えてくれる。土嚢とは知識ではなく、基本的な、リアルタイムの、現実世界での応答性のことである。ゴキブリは、現状最高の人工システムには欠けている、ある種の常識を携えている──数少ないもっと抽象的な問題領域でわれわれの役に立っているかもしれない、明示的なコード化と論理的導出のおかげでは決してない。根本ではわれわれの心もやはり、現実世界の状況下で次の動作をすばやく仕掛けるための組織である。この組織は、行為の生成に素晴らしく適合したもので、周辺環境と実時間の中に広がっている。ひとたび心を身体行為のコントローラーとみなせば、それまで知恵と認めてきた数々の階層は一気に崩れさる。知覚と認知の区別、脳に執行役であるコントロール中枢があるという考え方、合理性そのものについての広く行き渡った見方、これらはすべて疑問を投げかけられる。それに心と脳を研究する際に、周辺環境の性質や、身体の動きと行為が与える可能性にほとんど目を向けていない方法論的な仕掛けも、打ち壊していかなければならない。心の科学の本質的なかたちが変動期を迎えている。ここからの先の章では、光の当たり方が変化しつつある心の景観を散策していくことにしよう。

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著者紹介 

アンディ・クラーク (Andy Clark)
1957年生まれ。哲学者。サセックス大学教授。心の哲学、認知科学の世界的第一人者。著書に『認知の微視的構造』『生まれながらのサイボーグ』、Associative Engines(1993)、Mindware(2001)、Supersizing the Mind(2008)、Surfing Uncertainty(2015)など。

監訳者紹介 

池上高志 (いけがみ・たかし)
東京大学大学院教授(複雑系・システム論)。著書に『動きが生命をつくる』『人類と機械のあいだ』(共著)など。
森本元太郎 (もりもと・げんたろう)
理化学研究所生命機能科学システム研究センター技師。



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