樹木たち文庫カバー03-02

樹木たちは見えないところで友情と愛情を育んでいる? しかも親密さで対応まで変わる!? 傑作ノンフィクション『樹木たちの知られざる生活』(早川書房)から特別抜粋

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樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声
ペーター・ヴォールレーベン/長谷川圭訳 ハヤカワ・ノンフィクション文庫

◉書評・メディア情報
朝日新聞(1月13日)記事(伊藤比呂美氏・詩人
HONZ(3月13日)書評(足立真穂氏)
朝日新聞(12月15日)書評(東直子氏・歌人、作家)
週刊朝日(11月10日)書評(西條博子氏)
朝日新聞(7月30日)書評(椹木野衣氏・美術批評家、多摩美術大学教授)
東京新聞(6月25日)書評(宇江敏勝氏・作家、林業家)

◉本書の抜粋記事
人間の知らないところで、樹木たちは会話をしている? でも、どうやって?
木が葉っぱを落とすのはトイレのため?! 驚きの冬の過ごし方の数々。

著者の新作『動物たちの内なる生活』(本田雅也訳)が好評発売中! 抜粋記事

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「友 情」(本書 第1章)


私が管理している森のなかに、古いブナの木が集まっている場所がある。数年前、そこで苔に覆われた岩を見つけた。それまでは、気づかずに通り過ぎていたのだろう。ところがある日、その岩が突然目に入った。近寄ってよく見ると、その岩は奇妙な形をしている。真ん中が空洞でアーチのようになっているのだ。苔を少しつまみ上げてみると、その下には木の皮があった。つまり、それは岩ではなく古い木だったのだ。

湿った土の上にあるブナの朽木は、通常は数年で腐ってしまう。だが驚いたことに、私が見つけたその木はとても硬かった。しかも、持ち上げることもできない。土にしっかり埋まっていたのだろう。ポケットからナイフを取り出し、樹皮の端を慎重にはがしてみた。すると緑色の層が見えてきた。緑色? 植物で緑といえばクロロフィルしか考えられない。新鮮な葉に含まれていて、幹にも蓄えられている ”葉緑素” である。これが意味するのはただ一つ、その木はまだ死んでいないということだ!

そこから半径一メートル半の範囲に散らばっていたほかの ”岩” の正体も明らかになった。どれも古い大木の切り株だった。切り株の表面の部分だけが残り、中身はとうの昔に朽ち果てたのだろう。察するに、400年から500年前にはすでに切り倒されていた木にちがいない。

では、どうして表面の部分だけがこれほどの長い年月を生き延びられたのだろうか? 木の細胞は栄養として糖分を必要とする。葉がなければ光合成もできない。つまり、普通に考えれば、呼吸も生長もできるはずがない。そのうえ、数百年間の飢餓に耐えられる生き物など存在しない。木の切り株も同じはずだ。少なくとも、孤立してしまった切り株は生き残ることができないだろう。

だが、私が見つけた切り株は孤立していなかった。近くにある樹木から根を通じて手助けを得ていたのだ。木の根と根が直接つながったり、根の先が菌糸に包まれ、その菌糸が栄養の交換を手伝ったりすることがある。目の前の “岩” がどのケースにあたるのかはわからなかった。とはいえ、無理やり掘り起こして確かめる気にはなれない。古い切り株を傷つけたくないからだ。

まわりの木がその切り株に糖液を譲っていたことだけは確かだ。だからこそ切り株は死なずにすんだ。栄養の受け渡しをするために根がつながっている姿は、土手などで観察できる。雨で土が流れて、地中にあった根がむきだしになっているのを見たことはないだろうか? 樹脂について研究した結果、根が同じ種類の木同士をつなぐ複雑なネットワークをつくっているのを発見した学者もいる。ご近所同士の助け合いにも似たこの “栄養素の交換” は規則的に行なわれているようだ。森林はアリの巣にも似た優れた組織なのである。

ここで一つの疑問が生じる。木の根は地中をやみくもに広がり、仲間の根に偶然出会ったときにだけ結ばれて、栄養の交換をしたり、コミュニティのようなものをつくったりするのだろうか? もしそうなら、森のなかの助け合い精神は──それはそれで生態系にとって有益であることには変わりないのだが── ”偶然の産物” ということになる。

しかし、自然はそれほど単純ではないと、たとえばトリノ大学のマッシモ・マッフェイが学術誌《マックスプランクフォルシュンク》(2007年3号、65ページ)で証明している。それによると、樹木に限らず植物というものは、自分の根とほかの種類の植物の根、また同じ種類の植物であっても自分の根とほかの根をしっかりと区別しているらしい。

では、樹木はなぜ、そんなふうに社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が一本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。

逆に、たくさんの木が手を組んで生態系をつくりだせば、暑さや寒さに抵抗しやすくなり、たくさんの水を蓄え、空気を適度に湿らせることができる。木にとってとても棲みやすい環境ができ、長年生長を続けられるようになる。だからこそ、コミュニティを死守しなければならない。一本一本が自分のことばかり考えていたら、多くの木が大木になる前に朽ちていく。死んでしまう木が増えれば、森の木々はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木も増える。そうなると夏の日差しが直接差し込むので土壌も乾燥してしまう。誰にとってもいいことはない。

森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。数年後には立場が逆転し、かつては健康だった木がほかの木の手助けを必要としているかもしれない。互いに助け合う大きなブナの木などを見ていると、私はゾウの群れを思い出す。ゾウの群れも互いに助け合い、病気になったり弱ったりしたメンバーの面倒を見ることが知られている。ゾウは、死んだ仲間を置き去りにすることさえためらうという。

木はその一本一本がコミュニティを構成するメンバーだが、それでもやはり、すべての木が同じ扱いを受けるわけではないようだ。たとえば、切り株のほとんどは朽ち果て、数十年後(ほとんどの樹木にとっては数十年は短期間にすぎない)には完全に土に還る。先ほど紹介した“苔むした岩”のように、数百年も延命措置がなされるのはごくわずかといえるだろう。

では、どうしてそのような ”差” が生じるのだろう? 樹木の世界も人間と同じく階級社会なのだろうか? 基本的にはそのとおりなのだが、 “階級” という言葉は当てはまらないだろう。むしろ仲間意識が、さらにいえば愛情の強さの度合いが、仲間をどの程度までサポートするかを決める基準となっているように思える。

森に入って、葉の茂る天井、いわゆる “林冠” を見上げてみれば、誰にでもわかることがある。通常、木は、隣にある同じ高さの木の枝先に触れるまでしか自分の枝を広げない。隣の木の空気や光の領域を侵さないためだ。一見、林冠では取っ組み合いが行なわれているように見えるが、それはたくさんの枝が力強く伸びているからにすぎない。仲のいい木同士は、自分の友だちの方向に必要以上に太い枝を伸ばそうとはしない。迷惑をかけたくないのだろう。だから “友だちでない木” の方向にしか太い枝を広げない。そして、根がつながり合った仲良し同士は、ときには同時に死んでしまうほど親密な関係になることもある。

切り株を援助するといった強い友情は、天然の森林のなかでしか見ることができない。私はブナのほかに、ナラ、モミ、トウヒ、ダグラスファー(ベイマツ)の切り株が仲間の助けで生き延びているのを見たことがある。もしかすると、どの種類の木も同じことをするのかもしれない。

中央ヨーロッパの針葉樹林のほとんどは植林されたものだ。そうした植林地では、樹木はまた違った行動をとることが知られている(本書の「ストリートチルドレン」の章を参照)。植林のときに根が傷つけられてしまうので、仲間とのネットワークを広げられないのだ。たいていは一匹狼として生長し、つらい一生を過ごす。とはいえ、そうした植林地の樹木は(種類によって差はあるが)100年ほどで伐採されるので、どのみち老木にまで育つことはない。

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ペーター・ヴォールレーベン/長谷川圭訳『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』は好評発売中!

著者/ペーター・ヴォールレーベン

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© Tobias Wohlleben
1964年、ドイツのボンに生まれる。子どもの頃から自然に興味を持ち、大学で林業を専攻する。卒業後、20年以上ラインラント=プファルツ州営林署で働いたのち、フリーランスで森林の管理を始める。2015年に出版した本書は全世界で100万部を超えるベストセラーとなった。2016年、さまざまなアウトドア活動を通じて、人々に森林と樹木のすばらしさに気づいてもらうため、"森林アカデミー"を開設した。同年発表の続篇『動物たちの内なる生活』(早川書房刊)もドイツで27万部を突破し、28カ国で順次刊行されている。

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