
読者の中に残り、「発酵」しつづけるもの──『同志少女よ、敵を撃て』文庫収録、高橋源一郎さんによる解説全文
デビュー作にして本屋大賞受賞、2022年〈いちばん売れた小説〉に輝いたベストセラー『同志少女よ、敵を撃て』が文庫化! さらには、現在ハヤコミで連載中の鎌谷悠希氏による漫画版『同志少女よ、敵を撃て』のコミックス第1巻も同時発売です。
独ソ戦下、女性だけの狙撃小隊がたどる生と死を描き、多くの読者の心を揺さぶった本作。2021年11月に刊行されてから年数が経った今、この物語を読むことの意味を問う、高橋源一郎さんの解説全文です(文庫内収録)。
丘を降りよ
作家
高橋源一郎
『同志少女よ、敵を撃て』を久しぶりに読み返した。読むのは4度目になる。その度におもしろい、素晴らしいと思う。その度に新しい発見がある。それは、優れた作品すべてに共通する特質だ。
いちばん嬉しいのは、登場人物たちと再会することだ。久しぶりだね。元気だった? 変わりはないかい? 会いたかったな。そう声をかけたくなる。紙の上に書かれた言葉の中にしか存在しない者たちなのに、そう思う。しかし、そう思えるのはなぜだろうか。

1942年、独ソ戦のさなか、モスクワ近郊の村に住む狩りの名手セラフィマの暮らしは、
ドイツ軍の襲撃により突如奪われる。母を殺され、復讐を誓った彼女は、
女性狙撃小隊の一員となりスターリングラードの前線へ──
『同志少女』の舞台は第二次世界大戦。その中でももっとも激しく、悲惨な戦いが繰り広げられたドイツとソ連の戦いだ。だから、これは「戦争小説」だ。
これまでに「戦争小説」はたくさん書かれてきた。とてもたくさん。けれども、『同志少女』のような小説はなかった。それは主人公が「少女狙撃兵」だからだ。いや、主人公を含め、多くの「(少)女狙撃兵」が登場してくるからだ。
「戦争小説」はたくさん書かれてきた、とぼくは書いた。そして、それらには特徴があった。「主人公」が「男たち」だったことだ。いつも「女たち」は脇役だった。いや、そんなことはない。「女たち」が主人公の戦争小説はたくさんある、とみなさんは思うだろうか。わかっている。「女たち」も戦争に巻きこまれる。子どもだって老人だって戦争に巻きこまれる。けれども「兵士」はいつも「男たち」だった。「戦場」で戦うのは「男たち」で、「女たち」は「戦場」から離れた場所か、あるいは無理矢理「戦場」まで連れてこられただけだった。
けれども、『同志少女』では「女たち」が「兵士」になる。「兵士」になって敵を殺す。その時、見える風景がある。「男たち」だけが「兵士」の世界では見えなかった風景が。
モスクワ郊外の農村に住んでいた、主人公の若き女性セラフィマは、野生動物の食害に悩む村を救う若き射撃手でもあった。そんな小さな村にドイツ軍が押し寄せ、村人は皆、そして母も殺される。謎めいた凄腕の狙撃兵によって。セラフィマもまた殺されようとした瞬間、急襲したソ連軍によって生命を救われ、その中の一人、女性兵士で元狙撃兵でもあるイリーナに目をかけられ、設立されたばかりの狙撃訓練学校に入る。もちろん復讐のために。当時、ソ連は女性を積極的に兵士として登用していた。セラフィマは自ら望んでその「駒」になることを選んだのだ。
訓練学校でセラフィマは得難い友と出会う。射撃大会優勝者のシャルロッタ、カザフ人猟師だったアヤ、ウクライナ出身のコサック・オリガ。ほぼ同い年の彼女たちの他に年長のヤーナ。彼女たちはみんな、一言でいえない秘密と経歴を持っていた。過酷な訓練を経て、彼女たちがついに実戦に配備される日が来た。それは、死者が双方で200万を超えた史上最大の市街戦、第二次世界大戦最大の激戦がドイツ軍とソ連軍の間で行われていたスターリングラードだった。そこで、セラフィマたちが見たものは何だったのか。そして、若い女性狙撃兵たちはどうなったのか。
以上が『同志少女』の「あらすじ」だ。これならおもしろいに決まっている。血湧き肉躍るエンタテインメントとしても、複雑精妙な群像劇としても、衝撃を感じざるを得ないリアルな戦争小説としても、どんなふうに、どんな読者が読んでも、この小説は裏切ることはないだろう。歴史上実在した人間と事実として残されている詳細な記録の上に、魅力的な想像上のキャラクターを散りばめたこの作品を読んでいる間、読者は、時が経つのを忘れるはずだ。ばらばらだった物語の糸が繋がってゆく有り様に目を見張るはずだ。物語の終わり近く、この小説のタイトルの秘密が突然明かされた時、あるいは、物語のいちばん最後、すべてが終わった後に、作品そのものが、想像を超えたやり方で、現実の世界に、見事に、完全に、接続された時、息をすることを忘れるかもしれない。ぼくがそうだったように。
けれども、もっと大切なことがある。読み終わった時、読者は、何かが自分の中に残り、ずっと「発酵」しつづけているように感じるはずだ。それはいったい何だろうか。自分の中で何が起こっているのだろうか。
おそらく、その一つは、『同志少女』が、およそ80年も前の出来事を扱っているはずなのに、「いままさに」起こっているように感じられることだ。80年前の戦争、悲惨な出来事、二度と起こしてはならないこと。それは、そのように書かれている。あるいは、そう思われている。けれども、ぼくたちは、「彼女」たちは、裏切られた。「いままさに」、ぼくたちが読んだ「彼女たちの戦争」と同じことが起こっているのを、ぼくたちは知っている。だから、いまもなお、どこかで「彼女」たちが見たのと同じ風景を見ている者たちがいるのだ。そのことを知っているのに、ぼくたちは知らないふりをしているのだ。そう感じられるから、読み終えた後も、ぼくたちは、そこから解放されないのだ。
もう一つのこと。ソ連邦英雄。確認戦果309人。セラフィマは、伝説の狙撃兵で、イリーナの戦友であるリュドミラ・ミハイロヴナ・パヴリチェンコに、「狙撃を続ける意味。その果てにある境地」について訊ねる。それは、セラフィマが看取った、若い男の狙撃兵が知りたかったことでもあった。彼の遺志を継ぎ、自身の中に潜む、その巨大な問いの答えを知りたくて、セラフィマはリュドミラに挑んだのである。「その」果てでは、狙撃という「丘の上」では、どんな景色が見えるのかと。それに対して、リュドミラは、「丘の上」の景色と、そこから降りた後、戦争が終わった後、「狙撃兵」のするべきことについて、こう答える。
「射撃の瞬間、自らは限りなく無に近づく。極限まで研ぎ澄まされた精神は明鏡止水に至り、あらゆる苦痛から解放され、無心の境地で目標を撃つ。そして命中した瞬間に世界が戻ってくる。……覚えがあるだろう、セラフィマ」
覚えは──あった。
射撃によって研ぎ澄まされる精神。的に当たった瞬間、獲物を仕留めた瞬間の高揚。
ただ自分は道義的に、動物を撃つことに楽しみを覚えないよう注意していた。
そうせざるを得ないほど、射撃には魔術的な魅力があった。
アヤもそうだった。確かにユリアンもそうだったのだろう。
「お前も、私も、もちろんイーラも、狙撃という魔術に魅了された。ネジ作りの達人がそうであったように、無心に至りその技術にのめり込んだ……そして、2人の夫を失った私は、309人のフリッツを殺し、負傷して、その世界から降ろされた」
瞬時、隣のイリーナの顔色をうかがう。無反応を装った同調の表情。
自らを不運と捉える価値観の正体が眼前に示された。
「今度こそ、私には何も残されてはいない。分かったか、セラフィマ。私は言った。愛する人を持つか、生きがいを持て。それが、戦後の狙撃兵だ」
「丘の上」に登る。そこで人は「無」に出会うのである。狙撃兵は狙撃の瞬間に。いや、作者は知っていたのだ。作家は作品を書きながら「無」に近づくことを。その世界を書き終えて、現実の世界に戻ってくるまでは。
ぼくたちはみんな、いつか、どこかで「丘の上」に登る。そこで見る「無」は、「死」の別名かもしれない。あるいは、「豊穣」の別名かもしれない。だが、いつまでもそこに留まることはできない。人は、やがて、「丘」から降りるときが来る。「現実」の世界に帰還するために、である。
作家たちは、そんな物語をずっと書きつづけてきた。どのような「無」に遭遇しても、絶望せずに、そこから降りて、生きてゆく物語を。『同志少女よ、敵を撃て』の作家もまた。そう、あの作家の、あの物語のように。
「でも、わたしたちの苦しみは、あとに生きる人たちの悦びに変わって、幸福と平和が、この地上におとずれるだろう。そして、現在こうして生きている人たちをなつかしく思いだして、祝福してくれることだろう。ああ、可愛い妹たち、わたしたちの生活は、まだおしまいじゃないわ。生きていきましょうよ! 楽隊の音は、あんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聞いていると、もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。……それがわかったら、それがわかったらね!」
2024年10月
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