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日本一決定戦まであと7日! 20代vs30代! 体力勝負ができなくなったら、自分の"脚"の特徴を見極めるべし。

『グランプリ』(高千穂遙)第1章冒頭掲載、3回目の更新。競輪のレースは場所取りが命!! そのためなら頭突きや体当たりもする、想像以上に過酷な競技。さらに体力が衰えたら戦い方も変えなくてはならなくて……


グランプリ

第一章 日本選手権競輪(承前)

     3
 
 第十一レースが終わった。
 開催五日目。きょうの最終レースだ。三本目の準決勝戦である。
 選手が敢闘門(かんとうもん)をくぐり、検車場につづく通路へと戻ってきた。三着までに入った選手を記者たちが取り囲む。コメントをとるためだ。勝った選手は、このあと観客の前にでて勝利選手インタビューを受ける。
 瀬戸石松は三着で決勝戦に進んだ。
「きつかったあ」
 通路の端でしゃがみこみ、サイクリングシューズを脱いで、裸足になった。同地区の若手選手がサンダルを渡す。鎖骨(さこつ)と脊椎(せきつい)を保護するために着こんでいたプラスチック製のプロテクターも外した。記者が瀬戸に向かって、デジタルレコーダーを突きだす。
「ついに優出ですね」記者のひとりが言った。
「捲りの石松は惜しくも不発でしたけど」
「須走(すばしり)くんの先行がすごかった」肩で呼吸(いき)をしながら、瀬戸は答えた。
「捲る気満々で行ったんだが、並ぶこともできなかった。二十二歳か。ありゃ、南関の宝だな」
 瀬戸は五年前までは先行選手として、中国勢を文字どおり先頭に立ってひっぱってきた。だが、五年前、徹底先行をつづけることに限界を感じた。打鐘(だしょう)前から全ラインの先頭に躍りでて、二周近くを逃げきるような地脚(じあし)はもうないことを自覚した。しかし、追いこみには転向しない。自力を貫く。そこで、捲りを多用するようになった。ホーム過ぎからダッシュし、逃げるラインを一気に抜き去ってゴールへとなだれこむ。この戦法なら、まだ十分にトップ選手相手に通用する。
 その目論見(もくろみ)は的中した。瀬戸の脚は、捲りに向いていた。三十三歳になったいま、瀬戸は捲りのスペシャリストと呼ばれ、高い勝率を常に維持している。展開さえぴしゃりと合えば、捲れぬ先行はいないとまで言われるようになった。
 が、今回は違った。そうならなかった。
 レースの展開は、ほぼ予想どおりに進んだ。
 神奈川の須走良太(りょうた)がレース前から先行することを表明していたので、展開予想は立てやすかった。中四国ラインが中団さえ獲れば、このレースは勝ったも同然と、瀬戸は思っていた。
 スタートのトップを確保したのは、北日本勢の勝(かつ)菊造(きくぞう)だった。ためらうことなく、誘導員の真うしろに入った。レースは一周四百メートルのバンクを五周する。そのうちの二~三周は九人の選手がポジションを確保してから一列棒状で走り、後半の勝負に向けて動くタイミングを推し量る。さまざまな策をめぐらす。ゆっくり、淡々と走っているように見えるが、この時点で速度はすでに時速四十キロ前後だ。
 誘導員は、その九選手の先頭に立ち、風よけになってレースのペースをつくる。もちろんレースには参加しない。
 バンクには残り周回数を表示する表示パネルがあり、執務員が一周ごとにそれをめくっていく。残り三周を示す“3”が描かれたパネルは表面が青く塗られているので、青板(あおばん)と呼ばれている。残り二周の“2”は赤く塗られた赤板(あかばん)だ。それぞれの周回を「青板周回」「赤板周回」とも言う。
 九人の選手は三人ずつ三つのラインに分かれ、列をつくった。先頭ラインが勝のひっぱる北日本。秋田の権藤(ごんどう)と、青森の江川田(えかわだ)がうしろを固めている。そのつぎが瀬戸、愛媛の土井(どい)、高知の横芝(よこしば)の中四国で、最後尾のラインが須走、馬部(まべ)、天童(てんどう)の南関東ラインである。馬部は静岡、天童は千葉の選手だ。
 青板周回で、南関ラインが動いた。須走が一気に前にでて中四国ラインを抜き、北日本ラインの横に並んだ。いわゆる蓋をしたという状態だ。強力な先行選手である勝を牽制し、動きをしばらく封じておこうとしている。
 赤板周回に入った。
 あと半周で打鐘だ。鐘(ジャン)が打ち鳴らされる。須走が腰を浮かせた立ち漕ぎ(ダンシング)で、さらに前へと進む。すかさず瀬戸も動き、天童の背後にぴたりとつく。
 須走が勝を抜いた。直後、誘導員がコースから外れ、ジャンが鳴った。ここから、選手全員が全力疾走に突入する。
 北日本ラインは、後方に下がった。おとなしく七番手以降に下がって、最後尾からレースの流れを見る。
 須走が駆けた。ほぼ全開だ。先頭にでても、流そうとしない。残り一周半。六百メートルは長い。その六百メートルを、先行する須走はもがきつづける気でいる。
 無理だ。もつはずがない。
 瀬戸は、そう思った。いや、瀬戸だけではない。須走以外の八人全員が、必ず途中で須走は力尽きると見た。
 ゴールラインのあるホームを通過した。あと一周だ。須走は快調に飛ばす。速度が落ちない。残り半周のバック手前で、瀬戸は満を持して捲りを放つべく、加速を開始した。しかし、南関ラインに追いつかない。
 須走が強い。この状況から捲れないとは、瀬戸は思っていなかった。だが、現実にいま、瀬戸は須走に力負けしている。
 四角(コーナー)をまわった。あとはゴールまでの直線を残すだけだ。瀬戸は外にでて背後を振り返った。
 うしろがいない。土井と横芝がラインから切れた。単騎で、瀬戸は南関勢を追う。
 直線に入ってすぐだった。天童が遅れた。立川バンクは四角から直線に入るとき、風の壁にぶち当たる。バンクを囲む施設の隙間から吹いてくる強烈な向かい風が、選手の行手を阻む。天童は、その風にやられた。
 ゴールが近づく。瀬戸は天童をかわした。残るはあとふたり。須走と馬部だ。
 ゴール手前で、須走の加速が鈍った。馬部が外から抜きにかかった。瀬戸は、さらにその外側にいる。
 三人が、いっせいにハンドルを前方めがけて突きだした。ハンドル投げだ。最後まで諦めない。選手は一ミリでも多く進めとばかりに、ピストをゴールラインに向かって押しだそうとする。
 三人が、ひとかたまりになって、ゴールラインを通過した。
 馬部が手を挙げた。コンマ数秒の争いであっても、走っている選手には誰が勝ったのかがわかる。馬部が、須走を差した。瀬戸は車輪半分以上、届かなかった。失速した須走を抜くこともできなかった。
 
「調子は、どうなんです?」記者が瀬戸に訊いた。
「絶好調だと思いますか?」
「悪いとは言わない」瀬戸は首を横に振った。
「優出できたんだから、それなりに走れていると思う。しかし、絶好調ではないでしょう。そんなによかったら、きょうも須走くんを抜いている」
「これで決勝メンバーが出揃ったんですが」べつの記者が言った。
「この顔ぶれ、どう思います?」
「新鮮って言ったら、まずいかな?」瀬戸は、タオルでごしごしと顔を拭った。
「S級S班がふたりしかいない。今年のダービーは、落車がちょっと多かったね。優参できたふたりも、室町(むろまち)と綾部くんで、自力型が軒(のき)並み消えちゃった。これは、ぜんぜん予想してなかったなあ」
「落車といえば」年配の記者が言葉をはさんだ。
「清河さん、退院されたみたいですよね」
「もう?」
 瀬戸の顔に、驚きの表情が浮かんだ。
 清河一嘉落車棄権の報を聞いたのは、前検日のことだった。検車後の指定練習が終わり、検車場に戻ってきたとき、記者のひとりに教えられた。
「競(せ)りで飛ばされました。しかも、まずいことに、捲ろうとしていた3番車が横にきていて、それにからんだ」
 競りは番手(ばんて)争いだ。先行選手が少なくて、ラインをつくることのできなかった追いこみ選手が、他のラインに割りこんで、有利な位置を獲ろうとする。狙われた番手の選手は、当然、抵抗する。体当たりや頭突きといった、格闘技もかくやという技を繰りだし、先行選手の真うしろを奪い合う。
 この競りに、稀代のマーク屋といわれた清河が敗れ、飛ばされて落車した。
「骨は?」
 瀬戸が訊いた。
「わかりません。いま問いあわせています。しかし、大将が競りであんなふうに飛ばされるところ、はじめて見ましたよ。飛ばすほうは何度も目撃してますが」
「…………」
 その後、病院に運ばれたという情報が届いた。検査のため、しばらく入院することになったらしいとも言われた。骨折はなく、肩の脱臼(だっきゅう)と腰の強度打撲で、診断は全治二か月だった。
「退院直前、うちのカメラマンが携帯に電話したんですよ」年配の記者は言葉をつづけた。
「大将、引退を口にされたそうです」
「引退?」
 瀬戸の動きが止まった。
「競りに負けたのがショックだったらしくて、こんな落車してるようじゃ、もうだめだなと言われたとか」
「うーん」
 瀬戸はうなった。思いあたる節はある。昨年の夏あたりから、清河はほとんど勝てなくなった。清河の所属するA級3班は競輪選手のヒエラルキーにおいて、最下層である。ここで成績をあげられない選手は、自動的に解雇される。要するに、馘首(くび)だ。昨年暮れ、清河はその崖っぷちに追いこまれた。このまま低迷がつづいたら、解雇通知が、間違いなく送られてくる。そのことを清河は明らかに気にかけていた。
 勝利選手インタビューを終えた馬部が、検車場に戻ってきた。
 記者たちが移動する。今度は馬部を囲み、コメントをもらう。
 瀬戸は立ちあがり、三本ローラー台まで歩いた。ローラー台の手摺りに、自分のピストが立てかけてある。若手が運んでおいてくれたのだ。瀬戸はローラー台にピストを載せて、サンダルを脱いだ。首にタオルを巻き、サドルにまたがって、ゆっくりとクランクをまわす。クールダウンだ。力を使いきった脚の筋肉をほぐし、疲労をあとに残さないようにする。
「あのお」
 両手を放し、リラックスしてクールダウンをつづける瀬戸に、誰かが声をかけた。
 首をめぐらすと、少し離れたところに松丘蘭子がいた。前検日と異なり、レースがはじまると、記者の入れる場所にも制限が生じる。床に黄色と黒の線が引かれていて、そこから先に立ち入ることができない。蘭子は、その線の端に立っていた。
「八十嶋さん、どこにもいないんですが」
 蘭子が言った。(続く)

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