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ずっと一緒だった女子高の親友が、男に"変身"した。SF小説『バースデー』

2020年4月に刊行されたばかりの小野美由紀さんの作品集『ピュア』から、収録作のひとつ「バースデー」を毎日更新で全文公開します。
もしもずっと一緒に過ごしていた幼なじみの大親友が、夏休みの間に「変身」してしまったら? ある女子高に起こった「性」をめぐる事件を描いた、少し不思議な青春小説です。

小野美由紀『ピュア』
イラスト:佳嶋

ピュア帯


 夏休み明けて学校に行ったら突然クラスメイトの性別が変わってた、ってニュースは最近ネットとかでもよく見るし、私も別にふーん、って感じだったんだけど、自分の親友がそうなったんなら話が別だ。なんせ知恵と私は幼稚園の、タテセン一本引いたみたいなスジマンの頃から裸できゃっきゃ、戯れてた、ガチの大親友、正真正銘のBFFでBAEで、竹馬の友でズッ友で、とにかく、互いのことはなんでも知ってる(と、思ってた)世界で一番大事な幼馴染なんだから。

9月2日

「全身の染色体を書き換えるんだよ」
 男になった知恵は私の真横を歩きながら、相変わらずのポーカーフェイスで他人事みたいに説明する。 「繭みたいな小型のドームの中に入って、1ヶ月過ごすの。その間に特殊な溶液が全身の細胞に浸透してXX染色体をXYに書き換えてくれるんだよ。記憶も人格も元のまま。肉体の性別だけが、魔法みたいに書き換わるの」
「つまり、元から男だったみたいに?」
「元から男だったみたいに。」
「手術の間の記憶はあんの?」
「ううん。ない。麻酔薬飲んで、そのまま昏睡状態になんの。なんかあったかくて、お母さんのお腹の中にいるみたいな不思議な状態が続いて、ちえさん、って呼ばれて目、覚ましたら、私はベッドの上にいて、男になってるのを発見したわけ」
 性変容(トランスフォーム)手術が日本で解禁されたのは今年の4月からだ。けどあまりの危険度の高さと倫理的にどうなのって声に、いまんとこ性同一性障害って正式に国から認められた人にしか許可されてなかった。でもどんなものにも抜け道はある。バカ高い金額、それこそ全財産を投げ打てば裏でやってくれるような医療機関は当然あって、それが最近、問題になってるってことは私はニュースとかで聞いて知ってた。
 けどそんなん所詮、都会の進んだ人たちの話で、こんな田舎の平凡なバカ女子校、しかもいまだにクラスの半数の女子が専業主婦志望って超保守校の、まさか、まさか自分が毎日机並べて馬鹿騒ぎしてる親友が、それを受けるなんて全然、想像したことすらなくって、私は夏休み明け、朝イチのいつもの待ち合わせ場所の踏み切りで「ちえだよ」って手を挙げたかっこいい男子が、まさか本当に本人だとは思わなくて、新手のストーカーかナンパかドッキリか、新興宗教の勧誘かと思ってはあ?って声出しちゃって、けど、そいつが元のーー女だった頃の知恵の学生証と、パスポートと2人で夏休み前の終業式の日に撮ったプリと、去年の夏、知恵と一緒に行ったアイドルのライブで限定販売されてたキーホルダーと、さっきまでしてたSNSのチャットの画面を見せてきて、ようやく本当に本当の本物のちえだってわかって、分かったはいいけどなんていうか、途端にうちらが過ごしてきた17年分の何かが突然、ガラガラガラッて崩れちゃった気がして、分かった後もやっぱりはあ、って声出して、5分くらいフリーズしちゃった。

「ええー、今日から2ーCの堂島は男として暮らすことになりました」
 校長が壇上で冷や汗を吹きながら話してる。その隣に立ったちえは子供の頃にバレエで鍛えた背をスラリと伸ばしてまっすぐに空を見つめてる。講堂に集められた242人分の、レーザー光線みたいな黄色い視線を全身に浴びながら。
「みなさん、突然驚かせてごめんなさい」
 校長の、終わったのか終わってないのかもわからない紹介を遮るようにして、ちえが話し始めた。
「自分は今まで、ずっと男になりたいと思って生きてきました。今回、体の性別を心の性別と一致させるために手術を受けました。これから先の学生生活をどうするか、先生たちと話し合って決めて行きたいと思いますが、ひとまずはみなさんと一緒に授業を受けます。みなさんも疑問点や気になることがあれば、いつでも先生か自分に直接言ってください。ーー迷惑をかけることもありますが、どうぞよろしくお願いします」
 完璧だった。講堂中が、ちえの穏やかで、けど張りのある声に包まれる。拍手が沸き起こった。きゃあ、とか、がんばれーとか、高めの声が飛ぶ。ちえからマイクを受け取った校長がしどろもどろになりながら事務連絡を続ける。なし崩し的に始業式が終わって、私たちは教室になだれ込む。
 思った通り、周りは大騒ぎになった。下級生から上級生までが教室の廊下側の窓の外に張り付いて、ひそひそひそひそ、うっとおしいったらありゃしない。その上先生たちまでひっきりなしに入れ替わり立ち替わり眺めにくるもんだから、うちらはムカついた。ちえは学校内ではけっこーな有名人で、テコンドーの大会で何度も優勝しててファンも多かったから、そりゃ騒がれるよなって感じではあるけれど、ちえはもうそんな事ははなから想定済みって感じで
「うちのがっこさ、いくらバカだからって、2学期初日から授業あるってありえなくない?」なぁんて涼しい顔して言ってる。
 そのうち担任のサクちゃんがちえを呼びに来た。ちえは野太い声ではあい、と言うと、大きな体を持ち上げて教室を出てった。教室じゅうの皆が、彼女、じゃない、彼の一挙一堂に注目する。
「ねーね、ひかりはさ、ちえが手術受けるって知ってたの?」
 遠巻きに見ていたクラスの子が早速話しかけてきた。普段は滅多に絡まないくせして、こういう時だけ馴れ馴れしい。
「……知らない」
 私は眉間にシワを寄せてすっごく小さな声で答えた。
「へえ、ひかりにも言わなかったんだ。よっぽど知られたくなかったんだねぇ」
「びっくりだよね。本当にトランスフォーム手術なんて受ける人いるんだって感じ」
「よく思い切ったよね、こんなご時世にさあ」
「ってか、ちえ、めっちゃかっこよくなってない?」
 途端に教室中が湧く。
「それな!」 「えー、本気で言ってんの?」「アイドルの××に似てない?」
「いやいやいや、ちょっと違うっしょ」
 きゃははあはは、教室中がそこにいない人の話題で埋め尽くされてる感じって、私は苦手だ。勝手に開けちゃいけない扉を開けて、中を覗き込んでる感じがする。
「ってか、私、ちえがレズだって知らなかった!」 「レズって言わないんだよ、LGBTだよ」
……みんな、好き勝手言いやがって。どうしようもない低レベな会話に私は思わずキレかける。
 けど、しょーがない。私だって似たようなもんだもん。スマホの中身は秒単位で進歩するくせに、うちらの半径五メートルの世界はまるでアップデートされてなくて、超高速で発達する科学の恩恵受けて変身したちえは逆浦島太郎ってかんじ。
「でもさ、うち、女子校じゃん。このままずっとうちにいるのかな?転校とかもありえるくない?」
 ちえは昔っから何考えてんのかわかんないとこあって、でも私たちは幼稚園のスクールバスで同じ停留所だった頃からの親友で、ずっとずっと一緒にいて、言葉にしなくてもそばにいれば大丈夫って二人とも昔っから思ってて、夏休み、一ヶ月一緒に過ごせないって終業式の日にちえからメッセが来た時も、内心結構ショックだったけど、幼馴染って言ってもこの歳になると色々あって、クラスメイトでも親が借金作って飛んじゃったりとか、親戚のいざこざに巻き込まれて急に転校とか、そんなことはザラで、つるむにしたって一定の距離で付き合うのが当たり前っつーかそういう作法? みたいなのあって、だから私は頑張りやのちえのことだから今から受験の費用貯めるためにバイトでもするのかなって、そう思ってあえてメッセとかしないようにして、アソーとかガモちゃんに仕方なく連絡して遊んでもらって、ちえがいない一ヶ月をどうにか、やり過ごしたのだ。そしたらさ、二学期初日に男になってんだもん。そんなことある?
 1時間目の途中でちえが教室に帰ってきたので、うちらはまた、ざわついた。
 机の下で、私とちえはこっそりチャットを交わす。
「サクちゃん、なんだって?」 「とりあえず普通に学校おいでって。そんぐらい。そっから考えよって」
 私はサクちゃんが担任でよかったな、と思った。サクちゃんは50代のおばちゃんで、3人も子供がいる。今の出産は人工子宮が当たり前で、自腹なんて全然メジャーじゃないから私はすげーって思う。
 いつだったかサクちゃんにそれ言ったら、あんたたちだって元々その機能持って生まれてんだから、誇りに思いなよ、って言ってたけど「女であることを誇りに思う」って感覚、いまの時代に生きてる私にはわかんない。女なんて男とおんなじものを求められるのに、体ばっかり弱っちくて、対等には扱ってもらえないの、いいことないじゃん。あ、もしかして、ちえもおんなじように感じてたから、男になったのかな?
「ちえ、体育とかはどうすんの」
「うーん、参加できるとこだけ参加する」
「そっかあ」
 これから一緒に組む相手、いなくなっちゃったらやだな、そう思いながら、私はスマホを握りしめる。めっちゃしょーもない話だけどさ、私が一番心配してるのは、自分が一人になることなんだ。親友の一大事にも関わらず。
「どう、男の体」
「うん、なんか、重い。あと、壁とか近いかも」
「近い?」
「うん。脂肪がなくなった分ね、なんか、硬さがダイレクト」
「へえ、そうなんだ」
「うん。座ったときの、椅子の座面とか、満員電車で壁に押し付けられたときの感じがね。お尻が直で椅子につくって感じがする」
「へー」
「男の体ってこんな固くて丈夫なんだって、驚き。あと発声も慣れないよ。自分で自分の声に驚くもん」
 私はそれを聞いて、なんとも言えない気持ちになった。
 本当に、私が16年間ずっと知ってた、女のちえはいなくなっちゃったんだ。永遠に。

 ちえが女でいたくなくなった理由ははっきりとはわかんないけど、でも、関係してんじゃないかな、って思う出来事はある。
 同級生のりえちゃんが殺されて近所の畑に捨てられてたのはうちらが小学校5年の冬休みの最中のことだ。一晩畑に放置されたりえちゃんの体はカチコチに凍っていたらしくて、うちらの街は一瞬で大騒ぎになった。
 しかも、りえちゃんの体には明らかに蹂躙された後があって、私たちはまだ性教育も受けてなくて、セックスのなんたるかもわかってなかったけど、でも、街の大人や親の反応から、りえちゃんがただ殺されるより、もっともっと、根源的に、深く、何かを剥奪されて死んだってことは、なんとなく肌感覚でわかった。 りえちゃんのお母さんなんか、もう狂ったようになっちゃって、ビラ巻いて、大声で涙流してメガホンで目撃証言を呼びかけて、大人たちもすっごくピリピリして、うちらは3学期の最中ずっと集団登校とかしてて、私は、集団登校とか意味あんのかな?私たちが束になったところで、もう、子供の命奪うくらいの、とんでもない根元的な悪に触れちゃったらどうしょうもないじゃん、て思ってたんだけど、もちろんそんなことは言わなくて、大人たちの鬼気迫る表情に、ただ黙って従ってた。
 そんで最初に逮捕されたのが、近所の工場労働のベトナム人の男で、大人たちの間で、やっぱり外国人なんか入れるんじゃなかったよ、っていうのといやいや、それとこれとは……っていうのとで意見が割れに割れて、街中に険悪な雰囲気が流れて、ようやく騒ぎが落ち着いたころにそれが誤認逮捕で、本当の犯人はりえちゃんの親戚のお兄さんだったってことが判明して、もう、ほんと何から何まで全てがわけわかんなくて、私のお母さんももんのすごく怖い顔して、あんたたち、女の子なんだから気をつけなさいよって言って、そっからしばらく、うちらの行動もすんごい制限された。
 私はりえちゃんとは学校で別のクラスだったけど、ちえはその時お母さんに無理やり通わされてたバレエ教室でりえちゃんと同じレッスン受けてて、同じくいやいや通ってたりえちゃんとは教室では仲良しだったみたいで、そのせいか事件にすごくショック受けてた。この頃からちえのポーカーフェースは完成されてて感情なんか滅多に出さなかったけど、そのちえが肩を震わせて
「”女の子だから注意しましょう”って、一体なんなんだろうね。ひどいことする大人が悪いに決まってんじゃん。それなのになんで女の子が、自分たちの不注意みたいに言われなきゃいけないの?なんで、生きてくだけでこんな怖い思いをしないといけないの?」
って言ってたのが、私にはものすごく印象的だった。その後なんだよね。ちえが、バレエのために伸ばしてた髪をバッサリ切って、代わりにテコンドー習い始めて、お母さんとお父さんと、仲が悪くなり始めたの。

 それにしてもちえの変身はインパクトありすぎて、ちえがまさかそんな事情を抱えてたなんてだあれも知らなくて、クラスの子もなんだかんだで結構ショック受けちゃってた。
 あの、学年でも1、2を争ってた美人のちえが、こんな姿になっちゃうんて。
 いや、男になったちえだって、雰囲気とか仕草とかは元のまんまだ。でも、そうは言っても骨格とか、パーツとか、腰の位置とか、関節の位置とか、まるで違うじゃん?何よりジャージの襟からのぞくごっつい喉仏、顎にうっすら生えたヒゲは私の知らない他人のもので、それ見てると時々、私、一体だれと話してんだろ、いや、一体だれと話してると思ったらいいんだろ、って、全く、10数年の大親友の名折れではあるけれど、思っちゃうんだよね。私、差別主義者でもないし、そういうことに偏見とかないって、自分では思ってたのにね。

「言いにくかった?」
「え」
「私にさ、手術のこととか、その、色々」
 帰り道、カネキチ商店の前でピルクルをチューチューしながら私は言った。カネキチ商店は私とちえの家の間ぐらいにあって、学校帰りにここでだべるのが2人の日課だった。
「んー」
 ちえは複雑そうな顔をして、パピコの残りを吸い上げた。着てるのはいつものセーラー服じゃなくて部活用のジャージにTシャツで、カネキチ商店のおばあちゃんは目をこすりながら「あんた、しばらく見ない間に雰囲気変わったね」って言ったきりだったけど、たぶん知らない人が見たら、私たちは学校帰りにデートしてる男女カップルにしか見えないんだろう。
「ぶっちゃけね。……でも、それはひかりに言いづらかったっていうより、自分の中で決心が固まってなかったからなんだ。自分の性別に確信が持てなかったし、いまでも正直にいうと、持ててない。けど」
 今しかないって思ったんだよ、とちえは大人びた顔で言った。
「うちのお父さんとお母さん、死んだじゃん」 「うん」 「それで、結構デカ目の遺産が入ってきたんだよね。うち、ばあちゃんも遠くに住んでるし、もう誰も私が男っぽく振る舞うことに反対する人なんていないわけだし、だったら今、やっちゃおうって」
 ちえのパパママは自動車事故で去年の秋に死んじゃってた。それまでもちえはお母さんたちと折り合い悪くて、高校の近くにアパート借りて一人暮らししてて、私は昔仲良くしてくれたちえのおばちゃんと会えなくなんのそれはそれで悲しかったけど、まあ、そうは言ってもちえの方が大事だし、この年頃になれば親と色々あんのなんて当たり前だから、あんまし気にしたことなかった。
「そっかあ」
「うん。……ぶっちゃけ、あの人たちのこと、大嫌いだったからさ。死んでも悲しいと思えなかったんだよね。あーあ、自分は親が死んでも悲しいと思えない人間なんだって。そう思ったらさ、残りの人生のことも吹っ切れたんだ」
「信じらんない。ちえ、そんなこと、ひとっことも言ってなかったじゃん」
「そうだよね。ごめん」
 ちえは眉をハの字に寄せて謝る。
「言ったら絶対止められると思って、誰にも言わなかったんだ。リスクは高いし、自分と同じぐらいの歳で手術受ける人、これまで全然いなかったしね。もちろん、トランスフォーメーションじゃなくて、従来の性転換手術とか、いろんな選択肢もあったよ。……医者にもそっち、勧められたし」
「怖くなかったの」 「怖かったよ」
 不意に落ちた声のトーンに私はどきりとした。
「でも、色々考えて、今しかないなって思ったんだ。大人になる前の、いまやっとかないと、この先ずっと悩み続ける気がして。来年には大学受験始まるしさ、大学入ったら、もっとたくさん知り合いができて、途中で変わりましたって言いづらいでしょ、それで、3年からは就職活動とか始まるわけじゃん。……もうね、これ以上、違和感抱えたまま、女の人生がズルズル、積み重なってく事、考えたら、絶望しそうになったんだ」 「そっか」
 私は言った。そうとしか言えなかった。私と違って、ちえはずっとずっと先のことまで考えてたんだ。私なんか将来のことっつったって、せいぜい、次の休みに好きなアイドルのライブ行けるかなとか、そんくらいしか考えてなかったのに。
「これから、どうすんの、ちえ」
「わかんない。一応、学校には居させてもらえると思うよ。ほら、条例で決まってるから」
 性転換手術を受けた人間の所属に関する差別は法律でちゃんと禁止されてる。例えば女子大に通う子が途中でトランスフォームした場合は、彼ら彼女らの就学が邪魔されないよう、大学側はその学年の終わりまで、その事を理由に退学させてはいけないことになってる。そうは言っても、ちえは非合法の手術を受けたわけだし、まだ高校生だし、しかもここ、すっごいど田舎だしで、学校側としても対処に困っているらしかった。
「つまり、2年生の間は一緒にいられるってこと?」 「うん」 「そっから先は?」
 ちえは黙ってしまった。でっかい体が、こんな時は小さくしぼんで見える。それは前と変わんない。
「大丈夫だよ」
 私はちえの手をぎゅっと握った。小学生の頃、通学路にワンワン吠える大きな犬がいて、その前を私は絶対に一人じゃ通れなかった。ちえは毎朝、私のために回り道して私んちの前まで来てくれて、毎日毎日、手を握って一緒に犬の前を通ってくれた。あの時から、不安なことがあると私たちは手を繋いできたのだ。   握った途端、あまりの骨っぽさにびっくりして、私は一瞬、離しそうになった。元のちえの手は、すらりと細くてスベスベで、女の私から見ても綺麗だな、って感じだったのだ。手を引っ込めそうになったけど、いやいや、って思い直して握りしめた。ちえもびっくりした顔でこっちを見る。私はわざとぶらぶら、大げさに手を振ってみる。そのまま、帰り道を歩き始めた。ちえも黙ってついてくる。
 ちえの手は女だった時とおんなじあたたかさで、そのうちぴたりと吸い付いてきた。それを確かめたくて、手を何度もぎゅうぎゅうする。
 なんだ、一緒じゃん。ちえ、男になったって、一緒じゃん。
 三叉路で私たちは別れた。ちえはなんだかいつもよりそっけない態度で、そそくさと家の方向に向かって歩き出す。ちえ、いつでも困ったことあったらメッセしてね、って私は言った。ちえは曖昧に笑って歩き出す。私も歩き出そうとした途端、あ、って後ろでちえが声を出した。
「でもね、ひかり。これから色々あるかもしれないけど、今は手術、受けてよかったって本当に思ってるんだ。やっと元の姿に戻れた、って感じがする。……私、これまで自分のこと、虫みたいに思って生きてきたから」

 中学3年生の夏休みに、カフカの「変身」を読んで感想文を提出するって宿題があった。
 あの、ある朝起きたら主人公が虫になるやつ。めちゃグロかったし意味わかんなくて、私はみんなと同じようなテキトーな感想を書いて出した。ザムザがかわいそうです、みたいな。その中でちえだけがマジなやつ提出して、それが優秀賞かなんか取って学年通信に載ったから、みんなそれ読んでざわついてた。

“あの家族は、虫になったからザムザを見放したのだろうか。最初からザムザに対する愛なんかなかったんじゃないか。ザムザは一家の大黒柱だったけど、虫になって、役に立たなくなったから殺された。もしかしたらザムザは、本当は最初から虫だったんじゃないか。虫である自分を愛してもらいたくて、虫の姿に戻ったんじゃないか。あるいは、虫の姿になることで、この家族に愛なんてないということを、暴いたのではないか。”

 私はちえがそんなこと考えてるなんて意外で、でも、ちえが家族とうまく行ってないってことはなんとなく知ってたから、それでそんな感想書いたんじゃないかなって思ったけど、ちえは昔から頭良くて、いっつも成績上位が当たり前だったから、そん時はちえ、すげーな、で終わらしてしまった。  ちえの感想文はすごく目立ってて、県のコンクールかなんかに出されたけど、そこでは落選した。

10月6日

「あいつ、まじ見境なくてキモいよ」
 バレーネットを片付けながら、クラスの子がわざと響くきんきん声で言う。
 その場にいない人間の噂話をするときの女の声って、8Hのシャーペンの芯みたく鋭く尖る、もし相手が聞いてたら、心臓の奥深くまでぶすーって突き刺さるような声。
 一瞬ちえのことかと思ったけど、彼女たちの言ってるのは、ちえと喋ってる隣のクラスの子のことだ。  ちえは体育の授業を見学するようになった。陸上とか個人競技ならいいけど、球技とかだと危ないって先生たちが判断したらしい。運が悪いことに2学期の体育の最初はバレーボールで、おかげで私は2人1組作るときには先生と組まなきゃなんなくて、ちえは「ごめん」って済まなそうに眉をはの字に寄せて謝ってたけど、私は体育の授業中、ふくれっ面をやめなかった。
 みんなが順番にコートの端に立ってサーブ練してる間、その子はわざわざちえに近づいてって、打ち方のこつを聞いてた。ちえも人がいいから、丁寧にその子の後ろに回って腕の上げ方とか教えてあげてる。その子、わかりやすくアヒル口とか作っちゃってさ、ちえすごぉいとか言ってさ、これまでそんな顔したことなかったくせに、調子いいやつ、けどちえの顔を見るとまんざらでもなさそうで、そりゃそうだよな、ちえだって健全な男子だもん、自分に好意寄せる女子がいたら嬉しいよな、って思ったら、なんで自分が腹立ててるのか、意味わかんなくなる。
「あいつ、ちえが男になってからやたらうちのクラスに顔出すようになったよね」
「女だったときのちえ、知ってて行くとか、やばくない?」
「"ついてたら" 誰でもいいんだよ」
 ネットとポールを体育倉庫に運び込みながら、彼女たちの悪口は止まる気配がない。私はその後ろを、ボールを入れたカートを押しながらついてゆく。 「色目使ってねーで、片付けやれよ、ブス」
 こう言うとき、女ってすごく醜い存在だなって思うし、それをありがたがってる男って、もしかしたらすごい、ばかなんじゃないの、って思ったりする。
「ま、でも、ちょっとだけわかるよね」
「何が」
「だってちえならさ、ぶっちゃけアリじゃん?」
 誰かの声に、しん、と一瞬倉庫内は静まる。一拍おいて、格好の獲物を見つけた、って感じの馬鹿笑いが爆発する。
「マジ?嘘でしょあんた」「性的にってこと?」「アリアリ!」「わたしもアリだな」「げ~、私はなし。元女でしょ?ありえないよ」「でも今はさ、ちんこついてんだよ!」「やってる時にさ、女だった時のちえ、思い出しちゃいそう!」 「てか、ちえさぁ、胸でかかったじゃん?……関係、あんのかな?」「え?どう言うこと?」「だからあ……大きさ」「わー!マジお前、ゲス!」「本人に聞いてみれば?」
 げらげらげら。げらげらげら。
 バン!と私は倉庫の扉を叩いた。みんなが一斉に振り返る。誰かがあ、やば、という声と、クスクス笑いが背後から聞こえて来る。
 わかってる。無理にでもネタにしようとするのは、ちえの存在が怖いからだ。自分たちから遠い存在になってしまったちえをネタにすることで、訳の分からなさを薄めようとしてる。同時に、ちょっとだけ嫉妬してる。めんどくさい女の世界、女のシステムから、ポンっと一人だけ、抜け出ちゃったように見えるちえに対して。
 噂の当人たちは、そんなことは知りもせず、楽しそうにまだ話し続けてる。私はなんだかちえに話しかけるのも悔しくって、彼女たちの脇を通り抜け、一足先に教室に戻った。
 ちえは「元の姿に戻っただけだ」って言ったけど、こっちが本物のちえなら、私が十七年間見てきたちえは一体誰だったんだろう?

「そんなの、ほっとけばいいじゃん。ひかりが腹立てる必要ないよ」
 ちえがうっすらと口の上に汗を滲ませながら言う。
「言いたい奴らには言わせておけば……そりゃ、最初はあーだこーだ言うっしょ。いきなりクラスメイトが男になったんならさ」
 ごわ、と稲穂が鳴く。蒸し暑い空気の中、それでも時々一陣の風が私とちえの歩く田んぼのを駆けてゆく。
 最近、ちえはしょっちゅう学校を休むようになった。手術したばっかりの時って染色体が安定しないらしくて、平日に何度か都会に行って検査受けてる。プラス、放課後にはサクちゃんとの面談が入ったり、休んだ授業の補講が入ったりして、私とちえはあんまり前ほど一緒に過ごせなくなった。
 時々、向こうからやってくる人たちがちえのことをジロジロ見ながら通り過ぎる。ちえの変身はうちの学校だけじゃなく、地域でも噂になってるみたいだ。おっぱい、本当にないんか、生理もか、って堂々と聞いてきたおじいちゃんもいる。私は毎日肩いからせて、そういうやつが少しでもちえに近づかないように気張ってんだけど、逆にちえに「気にしなくていいよ」とかなだめられちゃって、怒りの行き場がなくなっちゃった。
「いいじゃん、面白おかしく話してくれるだけさ。……本当にめんどいのはさ、やけに同情的な人たちなんだよ。そーゆーのはさ、こっちが相手の思った通りのかわいそうな人じゃないと途端に怒り出したりするんだよね。それまでは『大変だったね、今まで辛かったね、協力するよ』とか言っておいてさ」
「そーゆーもん?」
「うん。そーゆーもん。勝手なイメージ抱いて近づいて来てさ、いざ、相手が自分の思い通りにならないと・そんな人だと思わなかった、裏切られた・とか言うわけ。だから、自分的には、違和感隠さない人の方が、まだ可愛いと思っちゃうけど」
 ちえは大人だ。少なくともそんなポーズが取れるぐらいには、私よりかはずっと。
「それに、ひかりがこうして一緒にいてくれるだけで十分だよ」
 その言葉に私は黙る。ちえのこと、本当はどんどんわからなくなってる。
 最近のちえはどんどんオスっぽくなってる。最初の頃はちょっと強めのオンナ、って感じだったのに、最初から男でしたみたいな感じで足とかもガバッとあけて座るし、たまにバン、って物を置いた時の音の大きさに驚くこととかあるんだよね。男の先生たちと変わんなくなってる。
 私、彼氏ほしー彼氏ほしーっていつも言ってるけど、男のそういうとこ、本当はちょっと怖いんだ。それは私んとこが一人親で、女しかいないせいかもしんないけど。
 それから最近のちえは時々、見たことない表情を見せるようになった。黙って窓の外見てるときの顔とかさ、ふとしたときに振り返る顔とかさ、なんか別人って感じがして、そうなるともうもともとポーカーフェイスだったけど、ますます何考えてるかわかんなくなって、「何考えてるの?」って聞くのも躊躇しちゃう。

「ねえ、ちえはいつから自分が男だって気づいてたの?」
「うーん」
 ちえは首をかしげる。風が前髪を吹き上げて、前より少しだけせり出たおでこをあらわにする。
「子供の頃からずっと、じゃないかな。そうはいっても、子供って男と女の違いとかわかんないから、ぼんやりとだけどね。……なんて言うか、着ぐるみ着てるみたいなんだ。皮一枚の内側に、本当の自分がいて、誰もそれに気づいてないって感じ。それに気づいてない両親とは、よく揉めてたな。あの人たちさ、なんかあったら女の子なんだから気をつけろっていうくせして、普段は女らしくしろってずっと言うの。ダブスタの極みじゃん。……まあ、文句言ってる暇あったら、自分が変わればいいや、って思えたのも最近なんだけど」
 中2のとき、おな小の子達とクリスマスプレゼントの交換会をした時、帰り道にちえが「みんなには内緒ね」って言いながら誰かから回ってきた子供向けの香水をくれたことがあった。
 なんで?いらないの?って言ったら、ちえは曖昧な顔で「うーん、私、多分この香り、似合わないから。ひかりの方が似合うよ」って言った。
 私はふーん、ちえみたいに綺麗な女の子に、似合わない香水なんてあるはずないのになって思いながら瓶を受け取って、その時にふと思い出して、そういえばさ、ちえっていつもいい匂いするよね、って言ってちえの脇に鼻を突っ込んでみた。ちえはひゃあ、とか言いながら脇に飛びのいて、見たことないくらいに真っ赤な顔して照れてたんだけど、今ならちえがどういう気持ちで香水をくれたのかよくわかる。
「ごめんね、ちえ」
「え?」
「私さ、こんだけ一緒にいて、全く気づいてなかった。まじ、親友失格だよね」
 そんな、と言ってちえは腕を大げさにふる。
「それはしょうがないよ、だって、思わないでしょ、隣にいる女の子が、実は、中身が男でした、なんて」 「うーん」 「それに」ちえの声が少し薄くなった。
「人間、みんな同時に生きてるようで、実は別々の惑星の上で生きてるようなもんだからさ、親友だからって、全部が全部、理解できる必要、ないんじゃない」
 それ聞いてさあ、もうなんか、マジで虚しくなっちゃった。私ってちえのなんだったんだろ、って。うちらは互いのことはなんでも知ってて、うちら二人でいれば怖いもんなし、って思ってたくせして、ちえは全く、別の世界を見てた、ってことなんだもん。
「あーあ、私も男になろっかなぁ」 「はあ?」ちえが素っ頓狂な声をあげる。 「だって、そしたらさ、ちえの気持ちもわかるじゃん。そんで、ちえと一緒に男子校に転校する。離れたくないもん」
「ばか」ちえはこの上なく微妙な顔をした。
「ひかりが変わる必要ないでしょ……それに、たとえ外見が変わったって中身はこれまでのちえだよ」
「そうだけどさあ」
「それに、体が男になったところで、多分、心まで完全に男になることはないんだろうなあって思うよ」
「え?そうなの?」
「うん。あ、もちろん、自分、本当に男なんだな、って思うことも多いよ。なんかさ、街とか歩いてるとさ、変な奴に声かけられたりとかしないの。で、人混みでうっかり人とぶつかっちゃっても、向こうからすみませんって謝られたりして、すごく変な感じ、中身は変わってないのにさ」
「へーぇ」
「うん、ほんと、女の子見ると、私ってこんなに生き物だったんだ、よく生きてたなぁって感動すらするよ。だって、暴力振るわれたら、一発でやられちゃう存在じゃん、女って……」
「ねぇ、ちえさ、聞いていい?」
「うん」
「ちんこがあるってどんな感じ?」
 ちょっと!と叫んでちえは慌ててあたりを見回した。なんで男のちえが慌てるんだろ、って思ったけど、こういうとこ、変わってない。
「……うーん、なんか、持ってる、って感じ。でもちょっと怖くもあるよ。自分の意思通りにならないものがぶら下がってるっていうのは」
「ふーん」
「うん。なんかさ、男と女って、全然別の原理で動いてんじゃないかなって思った。違う力で引っ張られてるって言うか。……社会的にも、生物的にも」
「ねえ、もう、した?」
「は?」
「だからさあ」
 私はそう言って、指で輪っかを作り縦に動かして見せた。
「ばか。」
 ちえはそう言って、真っ赤になった。
「してないよ。てか、そんな余裕ない」
 ふうん、そんなもんか、と私は思う。ちえは多分ショジョで、いや、知らないけど、もしかしたら私の知らないところでしてんのかもしれないけど(そんならそれでちょっとショック)、男になった今、性的対象は多分女で(聞いてないけど)ってことはこの先ちえに彼女ができちゃうことだってあるのかなあ、意外とすぐかもしれないなあ、そう思った途端、なんだか私は胸が張り裂けそうになって、急に叫び出したくなった。
 ちえはちえだ。間違いない。けど、周りの見る目が変わったら、私たちの関係はずっとこのままでいられるんだろうか?

10月30日

 最初に下着ドロボーの話を聞いた時、私は即座に隣のクラスのあの女の仕業だって分かって即ギレしそうになったけど、ちえはやっぱりこんな時でも落ち着いてて 「まあ、他にも気に入らないって思ってた子はいるかもしんないしね」とかクールに言っちゃって、私は余計にイライラして、流石にちょっとは慌てなよ、ってちえに対しても怒っちゃった。
 だってこんな状況で疑われるの、ちえしかいないじゃん。うちのクラスと隣のクラス合同の体育の授業中、しかもちえしか見学者いなくて、学校の外周をみんながランニングしてる間に更衣室のロッカーから下着が消えてたなんて。
 うちのクラスの子たちもおんなじ意見で、教室はその話題で持ちきりだった。
「だってあの子、ちえに告白して振られたんでしょ」「ぜってー腹いせじゃん」「あの女さ、さっき教室で騒いでたよ、この学校にいるべきじゃない人がいる、とか言ってわざとらしく泣いちゃってさ」「うわ、うっざ。そろそろ潰す?」
 サクちゃんは私たち全員を座らせて、本当に馬鹿馬鹿しい、って顔、作って言った。
「あのさ、本当はくだらないから、こんなことやりたくないんだけど。校長がやれっつってうるさいからやるよ。みんな、協力してくれな。……あー、全員、目ぇつぶって。で、隣のクラスの知山の下着を獲った奴がこの中にいたら、挙手しろ」
 誰も目を閉じなかった。ちえ以外は。
 サクちゃんはため息をついて、はあ、じゃあ、ホームルーム終わりな、って言って、そのまま出てった。
「信じらんない。うちのがっこの女子の下着なんて、獲って喜ぶ奴、いるわけないじゃん」
 私はぷりぷり怒りながらいつもの帰り道を歩いた。ちえは半歩遅れて、いつもよりのろのろと後ろをついてくる。
「サクちゃん、なんて言ってた?」
「転校、勧められた」
 どろりと夕日が溶け出した田んぼは、赤い絵の具の沼みたいだ。暮れかかった空には雲が垂れ込め、いつもよりも暗くなるのが早い。
「まあでも、やっぱりさ、女の中に男が一人いるって、無理あるよね。怖いって思う子もいるじゃん。どんなに元女で、女の気持ちもわかるって言っても、体は男だしさ、親からも抗議の声が出てるっていうし」  そろそろ潮時だと思ってたから、しょうがないかも、とちえは小さな声で呟く。
「私、先生たちに抗議するよ」 「ありがと。でも、平気だよ。全員が変化を受け入れられるわけじゃないし、嫌だって思う親たちの気持ちも分かるし」

 実際、今回犯人がちえじゃないって思ってる子たちの中にも不信感が芽生えているのも事実だった。
「これまでうちらさ、堂島さんと同じ更衣室で着替えてたよね」
「うちらのこと騙してたわけじゃん、本当は男のくせして」
「そりゃ言わないよね、眺め放題な訳だし」
「ってか、そもそも男になりたいからって、わざわざ体まで変えるなんて、変なんだよ。そんなこと言ったら、鳥になりたい人は鳥になるの?水中でエラ呼吸したい人は魚になるの?技術的には可能だからって、それやっちゃったら際限なくなるじゃん。生まれ持った姿ってもんがあるでしょ。男とか女とか、そんな簡単にいじるもんじゃない」
「そんなの、うちらがエクステとかつけまとか、つけるのと一緒じゃん」
「少なくとも、場の空気を乱すならやるべきじゃないと思う」……。

「だって、法律で決まってんじゃん。少なくとも学年終わりまでは居られるって」
「法律で全部捌けたらさ、逆に法律なんて必要ないんじゃない」
 ちえは大人びた顔で分かったようなことを言う。
「表向きはさ、差別はいけないって言われるから、みんな合わせるよね。こういう時代なんですって言われりゃさ、そうするしかないじゃない。でも、腹の底ではみんな何考えてるかわかんない。嫌悪を感じる人だっているよ。そういう人たちに我慢を強いて、自分みたいな人間は存在してる。自分たちは権利を行使してるんだってことを」
「もーっ、うるさいなぁ!」
 私は思わず叫んだ。
「ちえが居たいんだったら、いればいいじゃん!ここに!!」
 ちえは黙ってしまった。滅多にないことだけど、二人の意見が分かれてどうしようもない時、彼女はいつも黙ってしまう。
 あーあ、ちえ、なんで今、男になっちゃったのさ。
 ほんと、私って勝手だなって思うけど、せめて高校卒業するまで待ってくれたらよかったのに。
 けど、しょうがないのかもしれない。ちえに残って欲しいって思うのは、単なる私のエゴだ。
 ちえが言う通り、私たちは別々の惑星に立ってる。ちえにはちえの人生があって、私には私の人生があって、ペニスで感じる気持ち良さを私が感じられないように、女の体を居心地悪く思う感じを私が理解しきれないように、私の知らないちえの人生が、これから先、どんどん積み上がってく。私がそれをさみしく思ったら、ちえはきっと、それを満喫できない。
 踏切が近づいてきた。ここを超えたら、いつもの待ち合わせの三叉路で、ちえは右の道、私は左の道。踏切は閉まっていて、しょぼくれた警報がふにゃっとした夕暮れの茜空に響いている。
「でも、まあ、良いこともあるっちゃあるかもね」
 私はわざと明るい声を出した。
「これで完全に男として高校生活送れるわけじゃん?そしたら、残りの1年、めちゃくちゃ満喫できるかもしんないし。そしたらさ、今、男になった意味もあるってもんだよね」
 私たちの前に銀色の電車がすべりこんだ。見慣れた車体は夕暮れの最後の瞬間の中で銀サバみたいにビカビカ光っている。
「男の友達、できたら紹介してね。合コンしよ。……あ、うちのがっこの子たちとしても、ちえにはあんまし意味ないか」
 ちえは黙りこんでる。よっぽどショックだったのかもしれない。
 風を残して電車が去り、目の前の踏切のバーが開いた。私は足早に一歩を踏み出す。
「卒業前に手術を受けたのはね」
 ちえが口を開いた。
「え?」
 私は振り返る。ちえは動かない。夜の闇の中に、赤の光と白の光がそれぞれ違うテクスチャーでにじんでいる。
「本当の姿でひかりと向き合いたかったからだよ」
 ぷしゅー、と電車のドアが開く音がホームから響く。うつむいたちえの、白いほおが目に入る。性別が変わっても、何にも変化のない、ちえの滑らかなほお。
「俺はずっと、ひかりのことが好き。友達としてじゃなくて、異性としてなんだ。ずっと、子供のころから」
 ちえの細められた目の端が、ライトを反射して光る。
「ごめん。今まで黙ってて。でも、本当の自分になってからじゃないと、言いたくなかったんだ。……本当の俺を見てよ、ひかり。男の俺を」
「はぁ?!」
 しんじらんないくらいでっかい声が、私の口から出た。
「勝手なこと言わないでよ! こっちの気持ちはどうなんのよ?!」
 ちえがびくりと体を震わせる。
「だいたい、ちえは勝手だよ、相談もしないでさ、いつも一人でなんでも決めてさ、急に男になりましたなんて」
 なんで私、こんなキレてんだろ、いみわかんない、そう頭の片隅では思ってんのに、口からはとめどなくちえを責める言葉が飛び出してくる。
「本当の俺って言うけど、じゃあ私がこれまで見てきたちえはなんなの?! 私たち、親友じゃなかったの? 急に男になりました、好きですって、ついてけないよ、これまで一緒に過ごした時間は、うちらの間にあったもんはどうなんの? 」
 あ、ダメだ、そう思う一瞬前に私の眼球から液体がにじみ出る。
「これまでのこと忘れろって、都合のいいこと言わないでよ。元の姿に戻った、って言うけど、私にとっては、今のちえのほうが "虫" だよ!」
 血の気の引いたちえの顔を、踏切のライトが照らす。警報が鳴りだし、再びゆっくりと、踏切が閉まり始める。踏切の真ん中に立つ私と、手前にいるちえの間に、黄色と黒の無骨なバーがゆっくりと降りてゆく。 「ごめん」
 警報を飛び越えて、ちえの小さな声が聞こえた。次の瞬間、ちえは身を翻して元来た道を駆け出した。闇の中に紺色のジャージが吸い込まれてゆく。
「ちえ!」
 私は叫んだ。慌てて踏切のバーをくぐり追いかける。けど男の足には追いつけない。
「待ってよ!」私はもう一度叫んだ。「待ってってば!」
 田んぼの間のまっすぐな一本道を、ちえだったものがどんどんどんどん、遠ざかってゆく。
 私は走り疲れて立ち止まった。冷たい空気に触れた膝がヒリヒリする。目を凝らしても、凝らしても、私の知ってるちえの姿は、この見慣れた景色の中のどこにもなかった。

 ちえは学校に来なくなった。
 サクちゃんが1週間後に、堂島は転校した、ってクラスのみんなに朝礼で告げて、悲しがったりショック受けてる子もいたけど、やっぱりみんな、どっかでホッとしたような顔してた。私はそれきりちえとメッセのやり取りもしてなくて、何かを言おうにもなんて言っていいかわかんなくて、クラスの子に興味本位でちえの事、聞かれてもヘラヘラ笑ってごまかすしかなかった。

11月15日

 うちのばあちゃんは人間関係は因果応報だからね、優しくした分だけ優しくされるし、傷つけるとその分傷つくんだよって言ってたの、ふーん、聞き流してたけどまさかこのタイミングで思い知るとは思わなかった。
 ちえの姿を見たのは隣の街のショッピングモールで、クラスの友達2人と遊びに行って別れた後のことだった。
 友達って言ってもグループ学習の時とかにたまに絡むくらいの間柄だけど、ちえが転校した後、あまりに凹んでる私を誘ってくれて、ま、お情けだよね、私も最近どっこも遊びに行ってなかったから、気晴らしにはちょうどいいやって2人についてきて、プリ撮ってGU行って最近流行ってるわさびシェイク飲んでバイバイして、一人ですぐ帰るのもあれだしってんでなんの意味もなく館内をぶらぶらしたとこ。そんな時に見てしまったのだ、私服のちえと、可愛いーーちょっと、見たことないくらいの可愛い女の子がーー楽しそうに二人で歩いてんのを。
 ちえってば、すっごくかっこよかった。服も、ジャージじゃなくて、きちんと買い直した男物だった。一瞬、本当にちえ?っておもったけど、あのキリッとした横顔と薄い唇と猫っ毛、それからお気に入りのバスケチームのキャップは確かにちえのものだった。対して女の子は、も、そんな可愛い服、こんな田舎のどこで買うのってぐらい洗練されてて、髪なんかくるんくるんに巻いて、このデートに全て掛けてる!ってのが伝わってきた。
 2人とも顔面偏差値高すぎて、平凡なショッピングモールではめちゃくちゃ目立ってたけど、ちえはそのことにも気づいてないみたいに彼女のことだけを見て、ニコニコして、相槌打って、さりげなくその子を通り過ぎる人たちからかばってあげてて、これもう、絶対「済み」って感じのーー私ショジョだけどそれくらいわかる、済み、済み、もう絶対に済みな感じで、いつから?ひょっとして私がずっと知らなかっただけで、昔からの知り合い?てかちえ、この前私のこと好きって言ったくせして切り替え早すぎない?……とかとか頭の中に一気に疑問が浮かびあがって、今すぐ隠れてるサーティーワンの店内からちえの目の前に飛び出してゆきたくなったけど、いやいや、飛び出したら終わるっしょ、っていうめちゃくちゃ怖い気持ちとに体が真っ二つに割けちゃって、動けなくて、そうこうしてるうちにも二人はどんどん遠ざかって、私は何もできずにポカーンって突っ立ってるだけだった。

 もしかしたら、私とちえはこのまま2度と会えないのかもしれない。

 駅から家までの道のりを私はとぼとぼ歩いた。
 国道沿いの景色は寂しい。遠くには夕暮れのアンニュイな闇を吹き飛ばすように、ギラギラと輝く青い光の塊が見える。「ブルーシャトー」だ。
 ブルーシャトーはこの街に1軒しかない古いラブホで、そのド派手な見た目から特に目立つもののないこの街ではなぜかランドマークみたいな存在になってた。子供の頃には私もちえも意味わかってなくて、ちえのお母さんが運転する車の中から指差して怒られたりもしてた。あそこで初体験を済ます子も多くて、ブルーシャトー「前」か「後」かで変な選民意識みたいなのがあって、私はくっだらねー、って思いつつも「後」の子たちのことをちょっとだけ羨ましいなって思ってた。
 何風だかもわからない摩訶不思議な建物は、10年前と変わらずに間抜けな光を放ち続けている。
 変なの、意味を知らなかった頃にはピカピカ光る素敵なお城だったのに、今ではなんだか汚くって、恥ずかしくって、ちょっとだけ怖い場所に見える。
 子供の頃、お姫様と王子様は二人とも同じ城を目指してると思ってた。でももしかしたら、そんなのは完全に片っぽ側の幻想で、本当は最初から最後まで、彼らは2人とも別々の城を目指してたのかもしれない。

11月23日

「あーのさあ」目の前ではたやんが不満げな声を出す。
「ひかりん、今日、めっちゃ上の空じゃない?」
 俺といるの、楽しくないの?そういいながらはたやんは上目遣いで私を見る。男子のくせして私よりずっとまつ毛フサフサで、長くって、そこだけ見ると女子みたい。
 土曜の午後、私は男の子と隣町のマックで向き合ってた。ガラス張りの壁からは燦々と小春日の太陽光が差し込んでる。周りには私たちと同じような制服のカップルが何組かと、ハッピーセットのおもちゃで遊ぶ子連れの家族がいて、あとは暇を持て余したような爺さん婆さんが圧倒的に多くて、この町の縮図って感じ。はたから見たら、はたやんと私は立派なカップルだろう。だからこそ、私はうちのがっこの子達が多いうちの町のマックじゃなくて、隣町のここで会ってんだ。
「ごめん、ちょっと考えごと」
 そう言って私ははたやんに向き直る。こんな私にだって、都合のいい時に呼び出せる男の一人くらい、いる。だから、ちえが女の子と一緒にいたところで全然ショックじゃない。
 はたやんは友達に誘われて一回だけ参加した合コンで出会った。隣町の高校の2年生で、好きって一回言われたけど、私がまだそんな気になれないって言ったら「もうちょっと考えて見てくれる?」っつって、こうして粘り強くデートに誘ってくれて、私が暇でしょうがない時には遊ぶくらいの関係性だ。「付き合わないの?」って合コンのメンツには言われたけど、まだ、よくわかんない。
 ちえが男になってから、はたやんと会う頻度は上がった。別に嫌いじゃないし、初めての相手はこういう無難そうなタイプがいいのかなって思いつつ、私はまだ、踏み切れてない。
「俺でよかったら、相談、乗るよ?」
 はたやんは眉毛をはの字に寄せて私を見る。男子の中でも背が低くて、すらっとしてて、毛が少なくて、ぱっと見オスオスしくないのが好きだ。私が大丈夫、と言うと、はたやんは安心したような顔で、この前友達とキャンプに行った話の続きをし始めた。男って、相手に関係ない話でも、すげー楽しそうに話せる生き物だよね。相手がそれでどう思うかなんて、全然考えてないの。私なんてスッゲー気使っちゃうのにさ。
 はたやんはその中でも話が上手な方で、私はキャンプなんて全然興味がないけど、彼が話しているのを聞くのはあんまり苦にならない。
「ねえ、はたやんさ」
 私はシャカポテの袋を割いて、中から一番長いポテトを探しているはたやんに声をかけた。
「うちらって、わりかし会うようになって長いじゃん?」「え、うん」「しかもあんた、私のこと、好きじゃん?」
「うん!」はたやんは力強く頷いた。こういう男子のまっすぐなとこ、可愛いって思う日が来るんだろうか。
「もし、私が明日、突然男になっちゃったらどうする?」 「ええー」
 はたやんは目を丸くしてパチクリさせた。
「ひかりん、男になりたいの?」「いや、違うけど、もしもの話だよ」
「そうだなあ」
 はたやんは指に挟んだポテトを宙に浮かせたまま、天井付近を睨んで唸る。
「俺が女になる!」
 私は思わず椅子から落ちそうになった。 「え!いいの?」「うん。俺、ひかりんのこと好きだし。男のひかりんも、見てみたい気がする」「マジ?」「だって、性別が変わっても、うまく行きそうじゃん?俺ら」  私ははたやんを思わず抱きしめたくなった。知り合ってから8ヶ月、初めてこの子を愛しいと思う。
「そりゃまあ、はじめはびっくりすると思うよ。けどさ、性別にかかわらず、人って絶対、変わるもんじゃん?」
「……うん」
「それでもその変化に付き合うってのが、愛ってもんじゃない?」
 17歳のくせして、時々、こいつは酸いも甘いも嚙み分けたじいさんのようなことを言う。
「あ、そうだ、ひかりんさ」
 急にはたやんは真面目な声を出した。
「来週の土日って空いてる?」
「え?空いてるけど、なんで?」
「いやあ、それがさ」はたやんはそわそわと視線を彷徨わせる。私の後ろの壁あたりに。
「うちさ、両親が旅行でいなくなんだよね」「あー、そうなんだ」「うん、でさ」
 ごく、とはたやんの喉が鳴る音がした。
「うち、遊びに来ない?」
 はい、来ました。
 途端に空気がじっとり、重くなる。
「俺たちさ、なんだかんだ、8ヶ月この関係続けてるじゃん。俺はひかりんのこと好きだし、ひかりんの気持ちが固まるまで、待とうと思ってるんだけどさ。そろそろ、そう言う話、してもいい頃じゃないかな、と思って」
 そうっすよね。そりゃ。待たせてんだもん。そう思うよね。
「だからさ、もし、嫌じゃなかったらさ、試しに、うち、来てみない?」
 私は目をふせた。もう中身のないマックの紙のカップを持ち上げて、ストローをちゅうちゅう吸う。もちろん、空気しか口の中には入って来ない。ガラス張りの店内には燦々と光が差してて、本物の真昼!って感じで、これだけ健やかで穏やかでハッピーファミリーな感じなのに、私とはたやんとの周りだけ空気がねばっちく重くって、男女!って感じなの、ほんと恥ずかしい。あーあー、どうしようかな、でも、はたやんがそう思うのもしょうがないよね。8ヶ月だもん、私だったら待てなくて気が狂ってる、そう考えたら、こいつの冷静さ、すごいかも、私みたいなふつーの女に、8ヶ月も付いて来るって、すげーじゃん、やっぱなあ、こう言うタイプが彼氏としては一番、いいんだろうな、お姉も言ってたしね、ドキドキさせる男より、誠実なタイプ選んだ方がいいよって、まあそう言いつつもお姉が誠実な男と付き合ったことあんのかって感じだけど、あいつはしょっちゅうロクでもないのに泣かされて、やっと落ち着いて結婚したと思ったらすぐ出戻りで、また悪いのに引っかかって、お母さんにあんたいい加減にしなさいよってこの前も咎められてたもん、その妹の私が「誠実なの」を引く率ってどんくらいよって思うけど、まあ、お姉の話はともかくとして、目の前のはたやんは今にも泣き出しそうな真っ赤な顔して眉毛をふにゃふにゃ動かしてて、私は彼がちょっとだけかわいそうになって、同時にかわいいな、とも思った。
 もうすぐクリスマスだしな、あ、そっか、今年はクリスマス、ちえと過ごせないじゃん、毎年ちえと一緒だったのに、あーあ、今年も2人だね、とかいいながら、少6の時にはちえのお母さんにミュージカル見に連れてってもらってさ、中学の時はプレゼント交換して、去年はケンタのチキンバーレル最大何個食べれるかで競争して、そうやってずっとずっと、私はちえと過ごしてたんだ。
 クリスマスも、その直前のちえのバースデーも。
「いいよ」
 私は言った。ぱあっとはたやんの顔が輝く。
「ほんとに!?ほんとにいいの?!」
「うん、いいよ」
「じゃあ、学校終わったら駅で待ち合わせしよ!」「いいよ」「うちで晩御飯食べるんでもいい?あ、俺、料理できないから、宅配ピザだけど」「いいよ」
 ああ、ついに、この時が来てしまったか。
 まいっか、私も、ちえが新しい人生歩もうとしてる時に、ぐずぐず言ってたらだめだ、きっと、うちらは最初からちえの言う通り別別の惑星にいて、ちがう軌道をぐるぐる回ってたんだと思う、私の思ってる17年間と、ちえは全く別の17年間を生きてて、私がちえだと思ってた存在は、実はちえじゃなくって。
 だから、今更、離れることぐらい、平気なはず。
 そう思ったところで涙が出そうになって、私は慌ててマックシェイクのストローを噛み締めた。
 商店街のヘボヘボの電飾が、赤やピンクのぼやぼやになって目の端ににじむ。私は慌ててコンタクトずれちゃった、って言って、はたやんに気づかれないように目をこすってごまかした。

11月28日

 学校行く気全然しなくて平日の午後に学校サボって家で寝てたら突然ピンポンが鳴って、めんどくさ、って思いながら玄関に行ったらあのちえと一緒に歩いてためちゃくちゃキレーな女の人が立ってたから私は心底びっくりして、さらにその人がにっこり笑って「ひかりちゃん、久しぶり」って言ったもんだから私はもっとびっくりした。
「覚えてるかな。桜林学(まなぶ)です」
 サクちゃんの息子は私たちより10個歳上で、うちのお母さんとサクちゃんが昔仲良かったこともあって、私とちえは小さい時にしょっちゅう、一緒に遊んでもらってた。学くんはすごく頭が良かったから、勉強教えてもらったりもして、けど彼は途中から学校に行かなくなって、家に引きこもって、それでも礼儀正しくて優しくてとっても感じのいいお兄さんだったから、近所の人たちは誰も彼を悪くなんて言わなかった。20代になってから大検受けて東京の頭いい大学に進学した後にはぱったりこっちに帰ってこなくなって、私たちは学くんどうしてるのかな、なんて話してたんだ。
「びっくりしたよね。私さ、女だったんだよ実は」
 学くんは元のちょっと情けない笑顔でてへ、と笑った。
「もっというとね、国内初のトランスフォーム手術の被験者が私。私、今、この技術の開発に関わってるんだ」
「まじか」私はめちゃくちゃ混乱した。「サクちゃん、そんなこと一言も言ってなかったよ」
 ソファに座った学くんーーいや、学ちゃんは、元からの上品な仕草でティーカップを持ち上げながら言った。
「ちえちゃんから聞いた。今、けっこう大変なんだってね」
 ああー、うん、と私はお茶を濁す。ちえ、どこまで話したんだろう、って思いながら。
「まあ、そうなるとは思うよ。技術がいくら進んだってさ、人の気持ちが追いつくのには、それこそ10年とか20年とか、かかることだってあるんだもん。人の心が進まなきゃ、それこそ技術はノイズにもなりえる。実際私も失望したもん」
「何に?」
「自分の不完全さにさ」
 私は、違う、私がちえのこと、受け入れられてないのはそういう問題じゃないんだって言おうとしたけど、うまく表現できなかった。
「うちの親も相当悩んだみたいだよ。息子に実は女でしたって告白されてね。でも結局は受け入れてくれた。一度きりの人生、好きなことやんなさいよって」
「それでサクちゃん、あんなに落ち着いてたのか」
「うん。ちえちゃんのこと教えてくれて、会うように言ったのもあの人なんだ」
 ひかりちゃんさ、と言って学くんは私を見た。
「ちえちゃんがそばにいなくなって、寂しい?」
「うん」私は言った。
「ちえちゃんのこと、受け入れられない?」
 そういうわけじゃないけど、と私は小声で言う。 「それは、ちえちゃんがずっと隠してきたせい?」  私は首を振る。
「男になっちゃってから、ちえのことがわかんなくて……ちえが別人みたいに思えて」
 怖いんだ。
 どんどん変わってっちゃうちえに、置いてかれるのが。
「ひかりちゃんだって、別人だよ」
「え」
「ひかりちゃんさ、手出して」
 学くんは言った。え、と言って私は彼の目の前に手をパッと出す。
「今、ひかりちゃんは17歳だよね。17歳ってことは、ひかりちゃんの手のひらの皮膚細胞は、だいたい1ヶ月周期で生まれ変わっている」
「そうなんだ」
「ひかりちゃんが例えば手を洗って、手のひらの古い細胞は汚れになって落とされるよね。そうしたら、残ったひかりちゃんの細胞は分裂して、新しい細胞を作る。人は常に生まれ変わってるんだ。トランスフォーメーション技術はその仕組みを応用したものなんだよ」
「……そうなんだ」
「じゃあさ、新しく生まれたひかりちゃんの手のひらの細胞と、ひかりちゃんは別人?」
「えーっ、そんなことはないでしょ」
「人の全身の細胞はね、6、7年も経てば全て入れ替わるって言われてるんだ。それぐらい経てば、人は元の姿ではいられないよね。そしたらさ、別人って言えなくもなくない?」
 急にテコンドーを習い始めたちえ。髪をバッサリ切って、バレエを始めたちえ。中学校に上がってから、無口になったちえ。
「私たちは常に生まれ直してる。ちえちゃんが変わるのと同じように、ひかりちゃんも別人になってる」
「うーん」
「もちろん、こんなのは与太話だよ。人はアイデンティティを失えない。この技術が難しいのはさ、見た目や性が変わったところで、全てが解決するわけじゃないってことなんだ。歴史もある、積み上げてきた考え方もある。人も周りも、簡単には変わらない。……簡単には変わらないけど、それでも人は変わらざるを得ない」
「……うん」
 はたやんの言葉を思い出す。
「逆に、ちえちゃんの変わらないところだっていっぱいあるよね」 「うん。たくさん、ある」
 いつも私を気にかけてくれているちえ。私のくだらない話に何時間でも付き合ってくれるちえ。変わらない手のひらの温度。
「人は常に半分新しくて、半分古いんだよ」
 それはわかってるんだけど、と私は言った。
「私、ずっとちえと一緒に居られると思ってた。親友だったらさ、いつまでも一緒に居られるけど、恋愛だったら、男と女になっちゃったら、ずっと一緒に居られるかわかんないじゃない?」
「そうだね」学くんは深く頷く。
「でも、これだけは言えるよ。たとえこれまでどおりの2人でなくなったとしても、新しい関係は築ける。生きている限りね」

12月13日

 冬って星が大きく見えない?つったらえ、私には逆に遠く見えるけど、つったのがちえで、でもなんか光はよく届く気がするんだけど、って言ったらあ、それは私も同じ、って言ったのもちえだった。
 私は今、満点の星空を見ながら一人、寒空の下に立っている。
「ひかり」少し低い、けど聞き慣れた声が後ろから聞こえて、振り返るとちえが立っていた。着古したダッフルに大きめのズボン。靴は新しいバッシュ。髪は後ろだけ、すっきり刈り上げられてる。
「待った?」 「うん、かなり待った」私は少しだけ意地悪した。ちえは眉毛をはの字にして肩をすくめると、「ごめんね、これでも急いで来たんだ」と言った。
 むき出しの手は赤くなっていて、筋が目立って、いかにも冷たそうだ。

「家に帰ってからきたの?」 「今日、期末テストの最終日だったんだ。午前中で終わり」 「……そっか」
 私たちはこれまで数え切れないぐらいに一緒に過ごした駅のロータリーのベンチに座ってる。クリスマス前のロータリーには、気の抜けたイルミネーションが施されている。予算不足なのか、電球はまばらで、眠くなるようなトロいリズムでちかちかとまたたいている。ダサいんだけど、憎めない。冷たい空気の中、私の隣に座ったちえの、ほのかな体温が伝わってくる。
「新しいがっこ、どう?」 「つまんないよ」 「友達、できた?」
「……まだだね。好奇心で寄ってくるやつはいるけど。『女でいればちやほやされて、楽できんのに、まじでもったいねー』とか言われたりするし。トイレで用足してたら、いきなり覗き込まれたりとか」
「げ、きも」 「きもいよな。……ほんと、ずっと男でいることの、何がそんなに偉いんだよ」
 ちえは心底うんざりした顔でため息をつく。
「どう、そっちは」 「んーー、普通」
 私はちょっとだけためらってから言った。
「私さ、はたやんフっちゃったんだ」 「え!」ちえは大声をあげた。 「うっそ。なんで?」 「……匂い」 「匂い?!」 「そう。匂い。なんかね、無理だったの」 「そっか……」「うん」「そう言ったの、本人に」「うん」「うわー、きつ」 「そっかぁーーー」
 ちえは安堵なのか、困惑なのか、わからない表情を浮かべたまま、大きく頷いている。
 私はちえの脇に鼻を突っ込んでみた。ちえはひゃっ、と女だったときみたいな甲高い声を上げる。
「やっぱり、この匂い」
 ちえの体からは、乾いた干し草みたいな荒々しい匂いと、ちょっとツンとする汗の匂いがして、けどその2つの層に挟まれて、この上なく甘くて優しい、懐かしい匂いがした。
「ちょっと……」
 慌ててちえは体を離す。
「この前はごめん」私は言った。心臓はさっきちえに会ったばかりの時より落ち着いていて、けど十分せわしなく動いている。
「私、ずっとちえの味方でいるつもりだったはずなのに、ちえのこと傷つけた」
「そんなこと」ちえは急いで言った。
「ひかりのせいじゃないよ。むしろ、こっちこそずっと黙っててごめん。怒るの当然だと思う。これまでそんな目で見てたんだ、とか、気持ち悪く思われてもしょうがないよな」 「そういうわけじゃ」
「俺、ひかりに言ってなかったことがあってさ」
「うん」
「前に、子供の頃からなんとなく男になりたかったって言ったじゃん。……あれはほんとなんだけど、初めて男の体が欲しいって思った時のことはよく覚えてるんだ。少5の時、りえちゃんが亡くなったの覚えてる?」
「……うん」
「あの時、ひかりがわんわん泣いてさ、パニックみたいになったの」
「え?嘘でしょ」
「ほんとだよ。覚えてないの?」
「ぜんぜん、覚えてない。ちえがショック受けてたことは覚えてるけど」
「それで、俺に言ったの。『ちえだけは、絶対に私の前からいなくならないでね』って。それで思ったんだよ。もし、自分が男の体を手に入れられたら、ひかりを悲しませるような目に遭わずに済むのかなって。ひかりも自分も守れるのかなって」
「ええー」
「もちろん、他の選択肢だってあるとは思うけど……あと」
 ちえは急にもじもじし始めた。
「ひかりは男が好きでしょ」「うん。今の所は」
「だったらさ、こっちが男になるしかないかなって」
 私はぽかんとした。ちえは改まった様子で私に向き直る。
「驚かせてごめん。でも、俺はひかりと一緒にいたいんだよ。俺にはずっと、ひかりだけだと思ってるから」
「ちえってこんなに思い込み、強いタイプだっけ?」
「……局所的には」
「あ、でもさあ、にしてはすごい、学くんと一緒にいる時、距離近いってゆーか仲良さそうだったじゃん?」
 私は思い出して腹を立てた。
「え、見てたの」 「たまたまね。ちえ、誰にでもあんなに馴れ馴れしくすんの?」
 あー、と言ってちえは気まずそうに頭を掻く。
「あれは、なんていうか、練習」 「練習?」 「うん、男っぽく振る舞うためのね。……ちょっとでも、ひかりに男として意識してもらいたくて」
「なんだよ、それぇ」
 私はため息をついた。
「ちえは、ちえだよ。変わんないじゃん」
「そうだね」
 ちえは少し、悲しそうな顔をする。
「ちえはちえでも、ニューちえなんでしょ」
 私は右隣に置いていた小さな箱を膝の上に持ってきた。ちえは目をぱちくりさせる。
「見て」
 私は箱を開けた。中には一人分のチョコレートケーキと、ろうそくが入っていた。
「お誕生日おめでとう、ちえ」
「誕生日、1週間後だよ」
「知ってるよ。これは、ニューちえの誕生日祝い。本当の誕生日は、来週祝えばいいじゃん」
「……」
「私、多分、ちえのこと、好きかも」
「え!」
「多分ってのは、親友として好きなのか、男として好きなのか、わかんないから。でも、ないよりは100倍マシでしょ」
 私はケーキ屋のお姉さんからもらった「1」の形のロウソクをケーキの上に立てた。
「私ね、二人の関係が変わっちゃったら、今までのうちらのこと全部、なくなっちゃう気がして怖かったんだよ。……でもさ、今までの好きの上に、新しい好きを積み重ねてけばいいかなって」
 ちえは真っ赤になって目を潤ませている。
「あ!」
「え?」
「ライター、家から持ってくるの忘れた」
 はは、と声をあげて、ちえがここへ来てから初めて笑顔を見せる。
「ライター、買う?」
「うん。……てか、ここめちゃ寒くない?移動しよ!」
「うん。ケーキ食べれるとこ行こう。どこにしよっか」
 私は空にぼんやりと浮かぶブルーシャトーを指差した。
「あそこは?」
 ちえが驚いたようにこちらを見る。そんなちえの顔、見るのは久しぶりで、私はなんだか嬉しくなってにやついちゃう。
「子供の頃さ、うちら、あれ、本物のお城だと思ってたよね」
「思ってた。いつか、行きたいねなんて言ってたよね」
「言ってた。作文でさ、いつかちえちゃんとブルーシャトーに行きたいです、なんて書いてさ、先生、びっくりしてたよね」
「はは、そんなことあったね。そういえば」
「ちえ」
「ん?」
「私、ちえと行きたい」
「ブルーシャトー?」
「うん。たとえ関係が変わったとしてもさ、ちえと二人で、初めてのブルーシャトー、行きたい」
 ちえは黙って私の手を握った。その顔は真っ赤だった。その手は私の知ってるちえの手じゃもはやなかったけど、でも、私の知ってる暖かさだった。ぼんやりと闇に浮かぶネオンは近づくにつれ次第に色が濃くなり、ピントがあって、一粒一粒形がはっきりと見えてくる。
「いいの?」 「うん」 「なんで?」 「ちえのこと、もっとわかる気がするから」
「幻想かもよ?保証ないじゃん。幻滅するかもしれないし」
「うーん、でも、ちえとなら、違う関係になってもいいよ」
「セックスしたら、わかるかな」
「わかんないよ。でも、せーので二人、違う人間にはなるよね。そしたら、一緒だね」
 私たちは、せーのでブルーシャトーのエントランスをくぐった。2枚のドアは物々しく、ガーって左右に開いて私たちを迎え入れた。夜空の下、それまであほみたいに光り輝いてたうるさいネオンは、見たことのない惑星みたいにふわりと私たちを包み込んで、私たちはこれから着地するのか、それとも浮遊するのか、別の星に行くのか、わかんなかったけど、お互いに別々の宇宙服を着たまま、しっかりと手を繋いでいたのだった。

(完)

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