イヴ・サン=ローランとの初対面で、カールは何を思ったか?『カール・ラガーフェルド:モードと生きて』試し読み
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イヴ・サン=ローランとの初対面で、カールは何を思ったか?『カール・ラガーフェルド:モードと生きて』試し読み

カール・ラガーフェルドーー。フェンディ、シャネルなどのクリエイティブ・デザイナーを務め、2019年に他界した伝説的デザイナー。
 彼の創作の源泉にあったものとは何か。また同時代のライバルである天才デザイナー、イヴ・サン=ローランへの思いとは。
この記事では『カール・ラガーフェルド:モードと生きて』から、イヴ・サン=ローランと初めて会ったデザイン・コンテスト(審査員はバルマンやジバンシィ)でのエピソードを特別公開します。

カール・ラガーフェルド モードと生きて

『カール・ラガーフェルド:モードと生きて』(早川書房)第3章から抜粋

 パリに来て2年も経たないうちに、カールはフランスの誇るきらびやかな心臓部、モードの世界に足を踏み入れた。かつて教室のうしろの席で絵を描いていた少年は、その情熱を忘れてはいなかった。イラストレーターになろうと、カールは一日じゅう漫画を描いたり、輪郭をスケッチしたり、紙でつくった女性に服を着せてみたりしていた。目の前に広げているのは白いノートと、気に入った写真を切り抜くための雑誌。父オットーは当初から息子の情熱を援助してきたが、1954年の冬以降、カールは自分で生計を立てるようになった。
 その半年前、カールは〈ウールマーク〉とパリ・オートクチュール組合が主催するコンテストに出品した。優勝賞金は30万フラン(当時の金額で約31万円)。父の援助のおかげで非常に快適な暮らしをしていたものの、30万フランといえば当時の月々の家賃の6倍だった。「デザイン画を送ったこと自体、半年後に電報が届くまではほとんど忘れていたんだ」。カールはそう言ったが、そこには多少の嘘が混じっているだろう。このコンテストはカールが逃すはずのない絶好のチャンスだったからだ。
 1954年11月25日に撮影された写真には、3人の受賞者がそれぞれモデルと並んで写っている。一番右は「服飾のゴンクール賞」でスーツ部門の第一位を獲得したコレット・ブラッキ。髪をポニーテールにし、冬が近いというのに足元はサンダル。だが自信に満ちた表情で、白と黒のスーツにベール付きの縁なし帽をかぶったモデルの横に立っている。コレットは、将来、そのときの受賞者三人のなかで自分だけが、同窓生たちの栄光の陰でモード界から完全に忘れられてしまうなどとは思いもよらなかっただろう。
 壇上の反対側、左にいるのは茶色の髪をジェームズ・ディーン風にセットし、少し不安げな茶色の瞳のカール青年だ。その隣には受賞作。明るい黄色のチェビオット地を使ったそのコートで、21歳にしてコート部門の第一位となった。「私が本当に自分でデザインしたと認めてもらうために、審査員の前でもう一度デザイン画を描かされたんだ」。フロントボタンの膝下丈のコートは、派手な黄色という色使い以外はかなりクラシカルだ。だが大胆にも背中側の襟あきが広く、セクシーでモダンなニュアンスを添えている。
 フランス全土から集まった6000点のなかから選出されたのは7点。ピエール・バルマン、ジャック・ファット、ユベール・ド・ジバンシィといったクチュリエたちで構成されている審査員は、写真の真ん中にいるのに引っ込み思案に見えるもうひとりの青年のスケッチを3点選んでいる。イヴ・マチュー゠サン゠ローラン。濃色のスーツに痩せぎすの身を包み、ほっそりした顔を覆い隠すほど大きなメガネをかけていた。後年、ディオールのアトリエに入ってきた彼を見て、スタッフたちは「若い司祭様のようだ」と言ったものだ。しかし、審査団は18歳の青年のクリエイティブな才能に目を見張り、ふたつの賞を授けた。カクテルドレス部門の第一位と第三位。受賞作はワンショルダーでうねるようなデザインの黒いシースドレスだった。
 前年に開催された第一回のコンテストで、ディオールをはじめとする審査団はイヴの作品を第三位に選んでいる。つまり「ムッシュー・マチュー゠サン゠ローラン」は、その若さにもかかわらず、すでに注目されていたのだ。ジャーナリストのジャニー・サメは、エコー・ドラン紙(アルジェリアのフランス語新聞)の記者になった当初、署名入りの記事で、自分と同じくフランス領アルジェリア出身のイヴに長時間のインタビューを行なっている。イヴは内気で、「エレガンスとは、あまりに美しいので二度は着られないドレスのことです」と、少し間延びした風変わりな声で語ったと記している。
 これもまた運命のいたずらだろう。地中海の明るい沿岸部からやってきたサン゠ローランと、暗いエルベ川の岸辺からやってきたラガーフェルドが同時に認められたのだ。カールは早くからイヴの才能に注目していた。イヴのデッサンの優雅な線、洗練されたライン、知性を感じるカットを、カールほど評価できる人物はいないだろう。一方イヴも、カールのユーモアやゆったりとした物腰や才能に惹かれ、コンテスト優勝のお祝いにカールの父親が贈ってくれたメルセデスのクーペでいっしょに小旅行に出たほどだ。その後、ふたりの対立が伝説になると、モード界の人々は彼らが当初は親しかったことなどすっかり忘れたふりをした。だが、実際この時期には、モンテーニュ大通りの〈バー・デ・テアトル〉でいっしょに過ごすふたりの姿があった。フランソワ゠プルミエ通りからほど近いこの通りでは、イヴはディオールのメゾンで、カールはその向かい側にあるピエール・バルマンのメゾンで働いていた。
 バルマンのアシスタントとして雇われたカールは、他の4人の若者とともにクチュリエのデザイン画を「描き起こす」作業を任されていた。「ひどいものさ! 劣悪な労働条件にわずかな給料。あの頃のオートクチュールは屈辱的で悪質な職場だったよ!」。若い見習いデザイナーに、バルマンは〈フロリレージュ〉コレクションのデザイン画を描くよう命じた。「スカートにショート丈のジャケットを合わせたような、いわゆるプレタポルテ版の〈素敵な(ジョリ)マダム〉だよ」。60年経ったいまもカールはよく覚えていた。
 一方のイヴは、はるかに恵まれた環境にあった。彼のいたディオールは当時もっとも創意に富み、もっとも憧れられていた一大メゾンだったのだ。ハンブルクの〈エスプラナーデ〉ホテルで初めて観たファッションショーの衝撃を忘れられないカールも、そのことをよく知っていた。いずれにしても、パリ・オートクチュール組合の専門学校の同級生のなかでイヴはすでにスターだった。ただし、イヴとカールは同時期に学んでいるものの、同じクラスではなく同じ教師にも当たらなかった。
 あまりに似ていながら、あまりにも異なるふたりの青年は、やがて時代のモードと美的センスを刷新することになる。どちらも溺愛されて育ち、どちらも同性愛者だった。そしてふたりとも実家から援助を受けていた。イヴは妹の服をつくるために生地店を訪れたときに、カールは父親にツケで買うのを認めてもらった店〈ヒルディッチ&キー〉を訪れたときに、何度こう言ったかわからない。「請求書は父に送ってください」。もともと、イヴの父親、シャルル・マチュー゠サン゠ローランが友人のフランス版ヴォーグ誌編集長、ミシェル・ド・ブリュノフに息子を紹介したのがきっかけだった。イヴの才能に驚いたブリュノフは、ディオールにデザイン画を見せ、ディオールは1955年6月にイヴを雇い入れた。
 イヴの母親、リュシエンヌ・マチュー゠サン゠ローランは、どこへ行くにも息子といっしょだった。魅力的で、年を重ねてもエレガントな女性だったそうだ。アルジェリアのオランにある自宅には、毎週のように、服地とパリのメゾンの型紙の写しを抱えた仕立屋がやってきたという。感情も表情も豊かな母親は、ときに行きすぎているように見えた。母親の怒りや賞賛の言葉が大げさに思えたときには、イヴはこう言ってたしなめたものだ。「ピエノワール(仏領アルジェリアに住んでいたフランス人などを指す)丸出しはやめろよ!」
 カールの目には、イヴの母と自分の母親は正反対に映った。ドイツ人のマダム・ラガーフェルトは、目元と口元にいつも皮肉っぽさをたたえていた。そこでカールはいつも、直情型のリュシエンヌと比較されてもいいように、母エリーザベトを機知で彩り、優雅な過去をもつ人物であるかのように話をつくりあげた。たとえば、戦前、母親がパリに来てはデザイナーのマドレーヌ・ヴィオネの店で服を仕立てさせた、と語っている。だが、イヴがディオール氏に母親を紹介したのとは逆に、カールにはオートクチュール界の友人や関係者に母親を会わせるほどの大胆さはなかった。
 実際には、リュシエンヌとエリーザベトには共通点が多い。どちらも早くから息子が同性愛者だと気づき、子どもの頃から息子を守ってきた。マダム・ラガーフェルトは息子が同性愛者であることをきっぱりと否定しているが、イヴの母はいかにも彼女らしい言いまわしで息子が「ゲイ」だという疑いを一蹴した。イヴの妹ブリジットに向かって、こう言ったのだ。「あら違うわ、あの子は天使と同じで性別がないのよ」。オランでは、少年たちはイヴの痛烈な皮肉にうんざりさせられていた。一方、シュレスヴィヒ゠ホルシュタイン州の田舎では、カール少年は他の少年たちをさげすみ、自分を特別視していた。だが、ふたりとも自分は人と違うという意識から孤独を感じてきた。そして魅力的な存在だったどちらの母親も、それぞれのやり方で、息子を幼い王様のように扱った。
 ディオールとバルマンのメゾンに加わったことで、サン゠ローランもラガーフェルドも仕事、金、成功、さらには浮世離れした世界への入り口に立った。ただし、ふたりの野望はまったく同じではなかった。イヴの願いは特別なドレス、夢のドレスをつくること。一方、カールは「モードの世界は表面的だ」と認めていた。「マーケティング」という言葉がまだ存在しなかった頃からマーケティングセンスに優れ、制約に合わせて手早く休みなく働くことが好きだったのだ。バルマンでの仕事はディオールでデザインするよりはるかに評価が低いことはわかっていた。だが、カールはこうも言っている。「私は修業がしたかったんだ」
 イヴは、ときには道の端を歩き、ささやくような声で話したが、親しい仲間といるとようやくその臆病さから抜け出すことができた。「彼は突飛なところのある変わり者で、痩せていて鼻がツンと高かったよ」と語るカールは、すすんでイヴのイラストを描き、そこにジョーク満載の吹き出しを添えた。
「カールの顔立ちはとってもロマンティック。黒い瞳、きれいな形のふっくらした唇、意志の強そうな角ばった顎。唇のせいで仏頂面に見えたけどね」と語るのは、ディオールのスターモデルだったヴィクトワール・ドゥトルロー。サン゠ローランもラガーフェルドも男性のほうが好みだったにもかかわらず、どちらが彼女に気に入られるかを競っていた。たしかにカールには特別な魅力があった。イヴとヴィクトワールは、カールが披露してくれる「ムッシュー・バルマン」のものまねが大好きだった。頭が禿げていて恰幅がよく、ちょびひげをたくわえたスノッブな人物。カール自身はアルコールは一滴も飲まず、タバコを試してみることもなかったが、イヴとヴィクトワールはトゥルノン通り31番地にあるカールの部屋でお酒やタバコを手に何時間もいっしょに過ごした後、リビングのじゅうたんの上で揃って寝込んでしまうことも珍しくはなかった。初めての給料を受け取ってすぐ引っ越したそのアパルトマンにはかつて、カールもその詩や小説に親しんだキャサリン・マンスフィールドが住んでいた。朝になるとカールは、クリーム色のカブリオレでイヴとヴィクトワールをディオールまで送って行った。
 毎晩がこの繰り返しだった。場所はカールかイヴの部屋。イヴが住んでいたのは16区のスカール・ペトラルクの一角、一階にある広いワンルームだった。グリーンのベルベット地のソファーベッドを据え、青いベルベットでしつらえたアルコーブ付き。3人で出かけることもあった。イヴは、感情的な駆け引きや、企みごと、裏通りでのボーイハントが好きだった。一方のカールは、そういった浅はかな行為に対しては辛辣だった。イヴは酒場でよく、怪しげな男たちといっしょにいては怖がるふりをしてみせて楽しんでいた。だが、カールはそんなところに通うより、マイルス・デイヴィスの新譜やアントン・ブルックナーのモテット(中世末期からルネッサンス期にかけて発達した宗教声楽曲)を聴いているほうがずっとよかった。「自分からは何もしなかったし、口説かれるとむしろいら立っていた」と少し馬鹿にした口調でカールが語ったのは、〈ル・フィアクル〉という小さなバーについてだ。シェルシュ゠ミディ通りにあるこのバーでは、男たちはみんなチャールストンを踊っていた。「まったく、馬鹿な奴ばっかりだったよ」。ゲイの社交場で暗い奈落に目がくらんだイヴが、初めての愛撫に屈してしまったときには、カールはこう言って友人たちを笑わせた。「いや結構、僕も必要なモノは持っているけど、使う気はないからね」
 イヴとカールはときに激しく対立した。そのきっかけは、魅力的で辛口のブルネット、ヴィクトワールだった。ある日カールは、彼女をモデルにベル・エポックからギャルソンヌ・ルックまでさまざまなスタイルを描き、モードの歴史をたどる一連のデザイン画をプレゼントした。その翌日にイヴが捧げたのは、「僕のドレスがよく似合う人へ」というメッセージを添えた細身のイブニングドレスのクロッキーだった。この3人に、まもなくアンヌ゠マリー・プパール(結婚後はアンヌ゠マリー・ムニョス)も加わった。ドーヴィルでの週末や、〈クロズリー・デ・リラ〉でのディナー。4人は浮ついた気分で何度も出歩いた。
 ところが1957年の秋、ある出来事がこれほどまでに親密だったイヴとカールのあいだに溝をつくることになる。トスカーナ州の温泉地モンテカティーニで減量療法を受けていたクリスチャン・ディオールが、心臓発作でこの世を去ったのだ。当時もっとも注目を集めていたクチュリエの突然の死に、フランスじゅうが衝撃を受けた。そして第二の衝撃は、イヴ・サン゠ローランがディオールのメゾンの役員会に迎えられるというニュースだった。弱冠二一歳の青年が「ムッシュー・ディオール」の後を継ぐ。まさに一大事だった。そのときから、イヴ自身は強い不安にかられながらも、恐るべきクリエイティビティを発揮する。まず、自分の名前から「マチュー」をはずして、サインを短くしようと決めた。そして1958年、イヴはディオールのシルエットを刷新して、自作のトラペーズ(台形)ラインを掲げた初のコレクションを発表する。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙のファッション担当記者は、「ディオールのこれほど見事なコレクションは見たことがない」と書きたてた。イヴ・サン゠ローランは一躍有名になった。
 では、カールは? イヴが飛躍したあとも、パリ左岸のレストランでばったり顔を合わせたりはしていたものの、ふたりの関係にはかすかな不均衡が生まれていた。サン゠ローランの受ける栄誉の輝きが、まだ何も創りだしていないドイツ人青年の姿を陰に隠して見えなくしてしまったのだ。そもそも、イヴは以前より忙しくなっていた。ある夜、ハーパース・バザー誌の記者がイヴを招いた席には、当時注目のカップル、画家ベルナール・ビュッフェとパートナーのピエール・ベルジェもいた。イヴはビュッフェの絵を称賛していたが、その夜はビュッフェの助言者でもある二七歳の青年の博識とユーモアに幻惑された。当時、ビュッフェの絵の価値をもっとも高めたのはこの男だった。一方ベルジェは、イヴについて「ちょっと変わった内気な若者で、窮屈そうな細身のジャケット姿はまるで世界から自分を守ろうとするように見えた」と語っている。のちにはさらにこう書き記した。「イヴの姿は生真面目で神経質な神学生を思わせた」
 サン゠ローランの才能、あるいは天才ぶりは疑うべくもなかった。そしてこれ以来彼は、自分にはまったくない才能、つまりビジネスセンスに恵まれたパートナーに頼るようになる。愛する者に対して献身的なピュグマリオンのような恋人、ベルジェとともに自身のメゾンを設立し、1962年にはサンローランの名を冠したオートクチュールの初コレクションを披露したのだ。こうしてイヴは少しずつ昔の仲間から離れていった。イヴとヴィクトワールの共犯者的な絆(きずな)や、カールのユーモアに大笑いする姿に、ベルジェはいつも軽く嫉妬していたようだ。相変わらず顔を合わせることはあったイヴとカールだったが、イヴは栄光を手に入れ、カールはジャン・パトゥのメゾンに移籍しても下働きを続けていた。
 カールとベルジェは本当は親しくなれたのかもしれない。仲間たちと比べて、ふたりの教養と起業家気質は抜きんでていたのではないだろうか? だが、ベルジェはまじめで自尊心が強く、ときに傲慢だった。どこへ行っても、サン゠ローランのことを天才だと褒めそやし、他のクチュリエへの軽蔑をほとんど隠そうとしなかった。イヴとカールは良きライバルかもしれないという話になると、ベルジェは無礼を払いのけるかのようにこう言った。「土俵が違いますよ」
「結局、おまえは納入業者になるのね」。カールがバルマンのメゾンに採用されたとき、母エリーザベトの反応は率直で手厳しかった。それ以来カールは、芸術家気取りのクチュリエたちを見下しているふうを装った。それでも、カールはサン゠ローランのドレスの優雅さ、スモーキングの大胆さ、サファリルックの魅力をだれよりも評価していた。カールの自宅の暖炉の上には、イヴが描き、YSLのサインが入った舞台衣装のスケッチが長いあいだ飾られていたほどだ。流れるようなスカートや上品な襟を見れば、カールには、その技術的な難しさもデスクの前でどんなふうにアイデアが浮かんだのかもよくわかる。そして、自分はイヴより教養があり、まじめに努力しているということも知っていた。だがカールには、イヴの神経症に近いほどの天与の才はなかった。
 ずっとあとになって、カールは「嫉妬なんてしていなかった」と言った。自分の運命を信じていたからだろうか? ある日、イヴとベルジェはカールといっしょに「モブージュ通りの中二階に住むカード占い師、マダム・ジラキアンを訪ねた」。カールがこの占い師のどんな言葉に対してうなずいたのか、イヴとベルジュはその言葉を聞いていたのだろうか? 「マダムはイヴにこう言った。"うまくいきますよ。でもあっという間に終わってしまいます"。そして私にはこう言ったんだ。"ほかの人たちに終わりが来たときこそ、あなたにとって始まりのときなのです"」

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