セミオーシス

知性を持つ植物は、人類の敵か味方か!? 惑星植民&ファーストコンタクトSF『セミオーシス』の解説(レビュアー:七瀬由惟)を刊行記念公開!


7世代100年、惑星植民者と知的植物のファーストコンタクト年代記!

新世代のル・グィンが描く、21世紀の『地球の長い午後』



*画像はAmazonにリンクしています。

惑星パックスを植民開発する人類は、土着植物が意思を持つことに気づく。人類に敵意を持ち意図的に毒を持つ植物との共存は可能か?

1 苦闘の惑星植民
2 植物知生体とのファーストコンタクト
3 先住生命体の謎
4 集団社会の秩序・正義、リーダーシップ
5 世代間闘争・叛乱
6 年代記・連作中篇

・・・SFと冒険モノの様々な面白さ全部入り! 多面的な魅力に満ちた長篇の読みどころを提示する、レビュアー・七瀬由惟氏による本書「解説」を刊行記念公開します!

『セミオーシス』解説

                編集者・レビュアー    七瀬由惟

 本書はスー・バークの第1長篇Semiosis(トー/2018年2月刊)の全訳である。

 本作は、疫病と争いにまみれた地球を飛び出し、平和な世界を求めた数十名の人びとが降り立った惑星パックスでの、七世代、百年以上にわたる入植の年代記である。各世代のエポックメイキングな出来事をクリッピングし、積み重ねて語る特徴的な構成をとる物語である。
 クロノロジカルな物語は、どこか(誰か、あるいは何か)に軸を据えて、できごとを時系列に事細かに網羅したくなるところだが、本作ではそうはならない。章ごとに主人公の視点がより若い世代へ次つぎと移り変わり、時間軸も少しずつあるいは大胆に、未来へと動いていく。最初は物語の軸となるものがわかりにくく章と章のつながりが見えづらいこともあるが、主人公たちの関係が判明するにしたがって、霧が晴れるかのように次第にパックス世界が眼前に開けてくる。
 では、ここで入植者たちの姿を少し見てみたいと思う。使い古された表現ではあるが、以下はできれば本篇をさきに読了してからご覧になることをお勧めする。

 158年間の冷凍睡眠の末、地球よりも10億年程度古い歴史をもつと思われる惑星30815f(のちにパックスと命名)に到着した第1世代は、そこで地球とは異なる動植物に出会う。入植当初、人類にとっての最優先課題は安全な住まいと食料を見つけ出すこと。この最初の章では、植民第1世代の植物学者であるオクタボの視点で、入植者たちが新しい環境に慣れるまでの幾多の困難が描かれる。たとえば同じ果実でもその実が成る場所によって有毒な成分が含まれることに、遅まきながら気づくのである。そこに至るまでには3人の犠牲が必要であった。やがて、それが人間を異物として排除するために植物によって作り出された攻撃的な毒、すなわち生態系の破壊者である新参者へ向けられた当然の結果である、という結論にいたるのである。第1世代ははたしてどのような対応をとるのであろうか。
 そしてさらにパックスの世代交代は進む。新しい住処に関して第1世代の裏切り行為を知った第2世代の少女シルビアの物語、動植物たちとの交流を描く孤独な男の一代記ともいえる第3世代ヒギンスの物語、殺人事件を追うミステリタッチな第4世代タチアナの物語、そんな祖父母世代に反抗し〈ガラスメーカー〉とよばれるかつての入植者の痕跡を追い求める第6世代の冒険譚、そして惑星パックスのあらゆる存在を巻き込んだ大規模な戦いの真っただ中におかれる第7世代の物語……。これらの挿話がいくつも積み重なり、パックスの歴史を形づくっていく。一概に冒険物語、ビルドゥングスロマン、ファーストコンタクトものなどと、ひとつのジャンルとして括れない点もまた本作の特徴といえよう。

 さてここで、本国アメリカでは本作がどのように受け止められたのかを見てみたい。
「創造的で心をつかんで放さない予想もつかない物語」(ミラ・グラント)、「今まで読んだことのないようなファーストコンタクトの物語。SFはこのような物語のために発明された」(ジェイムズ・パトリック・ケリー)などの賛辞が寄せられているが、とくに〈カーカス・レビュウ〉の評が当を得ているように思えたので、以下に紹介したい。
「各章はショートストーリーのようであり、また全体ではシェアードワールドものの短篇集のようでもある。新しい人間社会の成り立ちと、異種生命とのコミュニケーションの手段を学んでいく姿にわくわくさせられる」
 そう、たしかにそうなのである。それだけに各章の結末、いわば起承転結の「結」の扱いが性急であり、余韻を感じる暇もなく次の章(次の世代の物語)に進んでいく点を惜しみつつ──薄っぺらなプロットを分厚い3部作に仕立て上げる最近流行のSFを皮肉り、それらとは対極にある作品であることを暗に示しつつ──その評を締めくくっている。
 この意見に首肯される方も多いことと思う。それに、もともと最初の章は〈LC – 39 〉誌1999年第2号に短篇“Adaptation”「順応」として掲載され、それが後に長篇『セミオーシス』の冒頭部分へ組み込まれたことも、その要因のひとつとなっているのではないか、とまで考える方もいるかもしれない。しかしこういった印象を抱くのは、先にも述べたように、
物語全体を俯瞰した際の軸となるものが見えにくいことが一因であると筆者は考えている。
 各章の語り手はあくまでもパックスの歴史の体験者のひとり(個人)である。だからこそそこに軸を据えてしまうと(1人称語りなので仕方ないのだが)、その人物にとっての歴史的な瞬間だけをいいとこ取りした、歴史の年号記憶本のような無機質な印象を抱いてしまうのも仕方がない。ここは人間(個人)よりも長命な、たとえばあの生命体(第4世代の物語あたりまでを読み終えた読者ならもうおわかりだろう)や、もっといえば、この惑星パックスの生態系全体を物語の軸(視点)としてあらためて捉え直してみるとよい。そうすれば
長大な時間的流れのなかでの1コマ1コマの挿話が、刹那を生きる私たち人類にとっては一見尻切れトンボに思えるものだとしても、いやだからこそ、とても愛おしいものに感じられはしないだろうか。

 ここまで、物語全体の構成を中心に言及してきたが、本書における重要なテーマを忘れてはならない。それは、他者(もちろん人に限らない)をどのように解釈、理解するかである。
それには本書のタイトルでもある「セミオーシス」という用語にどうしても触れておく必要があるだろう。
 意味深なこの書名、論理学者パースによる「記号論」に基づいた専門用語であり、日本語では「記号過程」などと訳される。筆者はその筋の専門家ではないので詳細は成書を参照いただきたいが、ようはこの世のあらゆる現象を記号の過程(プロセス)として理解することをいう。たとえば人がリンゴという果物を認識する場合、それを「リンゴ」という言語記号として捉えていくことになる。そしてその途中では必ずその記号を解釈するためのプロセスが必要となり、その記号を解釈するためのあらたな記号が生まれるのである。この次つぎと連鎖的に創出される記号により意味をつくり出すことが、すなわち人間が行なっている解釈であるとする概念である。
 惑星パックスではどうであろうか。そこでは、化学物質(色素やフェロモン)やノンバーバルな仕草という「記号」による伝達が、文字どおり重要な役割をはたす。それは人類以外の生命体(植物・動物)とのコミュニケーションで用いられる直接的な記号であるが、ここでは人類だけの概念ではなく、パックスの樹々や動物たちのなかからもいくつもの記号過程を経て、目に見える「記号」として表出してきたものと想像できないだろうか。お互いがその記号を自身にとって理解できるものとして認識し、真摯に向き合い、しっかりと解釈する過程を経ようとするかどうか、そこにすべての問題の根幹があるように思われるのである。
 その点は、とくに後半重要な役割を演じる〈ガラスメーカー〉の孤児たちとそれに対する入植者のありようを見るとよくわかる。平和を求めてパックスへやってきたはずの人間たちにとって、異なる存在との共存・共栄は最重要命題であったはず。しかし、世代を経るにしたがい、いやそもそも第1世代の一部にすら、そういった記号過程を経て、他者の存在を解釈し、理解につとめること、それ自体を拒絶する者がいたのである。
 そしてこれは、共同体の維持・発展に心血を注いだアメリカ開拓時代から、メキシコとの国境に壁を築こうとしている現代まで、どの時代にもいえる普遍性をもったテーマとして浮かび上がってくる。個人間、世代間、それぞれの理想や正義がぶつかるところに生まれる悲喜劇と向き合い、ときに仲間を欺き、ときに正当な手順を踏み、膨らみつつある共同体という集団をいかに維持していくか──フロンティアの時代が終わって久しい私たちに、そのリーダーシップ論的な問題意識をも提示してみせているのである。

 では最後に本邦初紹介となるため、著者のスー・バークについても紹介しておきたい。バークは、アメリカ・ウィスコンシン大学ミルウォーキー校でジャーナリズムと政治学を学んだのち、さまざまな雑誌社などで編集者、ライターを経験し、1999年末にはスペイン・マドリッドへ移住。現地で活発な活動をしているSFコミュニティに参加。2016年にはふたたびアメリカへと戻り、現在はシカゴに在住。スペイン文学の翻訳を手がけ、自身も詩や短篇を多数発表しており、〈アシモフ〉誌などでその名前を目にした方もいるかもしれない。
 バークにとってスペイン語、スペイン文学との出会いはどのようなものだったのか、その一端はウェブサイトSpeculative Fiction in Translation における批評家レイチェル・コルダスコのインタビュー記事に見ることができる。バークが通っていた中学校では、授業のある唯一の外国語がスペイン語であったらしく、いつの間にかその魅力にはまり、気がつけば17年間もスペインで暮らすことになったとのこと。また活発な活動を行なうSFコミュニティに参加したことで、どの国にも素晴らしい作家がいることを認識したバークは、それを英語で英語圏の読者に伝えることの重要性を次第に感じるようになったようである。
 アメリカの読者に非英語圏のSFをプロモーションするには? という問いには「買う、読む、レビュウすること」につづけて、「翻訳物は出版社がためらいがちである。本国では有名作家かもしれないが、英語圏では無名に等しい作家を売り出すことが難しいことも理解できる。しかしそもそも翻訳のマーケットがなければはじまらない。インターネットはその一助になるが、まだまだこれからだ」とも答えている。これはふだんから何気なく、そしてありがたいことに、日本語で数多くの海外SFを読む(読むことができている)私たちにとっても、あらためて考えるべき問題かもしれない。

 さて、パックスに暮らす彼らの物語のつづきが気になるところであるが、著者のブログによると続篇の情報も出てきているようだ。パックス共和国憲法もさまざまな種を一視同仁に扱うものへと変化を遂げていくのであろうか。この魅力的なパックス世界に日本語で再訪できることを祈りつつ、読者の皆さんにこの言葉を──。

「水と日光を」

 2018年12月


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