そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、最終章(第36章)

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日はいよいよ最終章の第36章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

36

 嘘のように何事もなく一週間が過ぎた。十二月初旬にしては異例の暖かさが続いて、冬はまだとば口で足踏みをしていた。私は駐車場からブルーバードを出しながら、免許証の書き換えと切らした名刺の注文とどっちを先にすまそうかと思案していた。小滝橋通りに出るところで信号待ちをしていると、助手席の窓をノックする者があった。有無を言う暇もなく、諏訪雅之がドアを開けて乗り込んで来た。
 彼は事務所で会ったときと同じカーキ色のコート姿で、左手に持ったアタッシュ・ケースを足許に置いた。信号が変わったので、私は車を出して大久保方面へ向かった。彼は身体をひねってリア・ウィンドー越しに後続の車を見ていた。バックミラーをのぞくと、白いカローラの運転席に見憶えのある女が坐っていた。海部雅美だと思った。
「甲州街道へ出て、しばらく走ってもらえますか」と、諏訪が言った。右手はコートのポケットに突っ込んだままで、その手に握られている拳銃はいつでも私を撃てる状態にあると思われた。「なるべく、ゆっくり走って下さい」と、彼は言い足した。
 諏訪雅之は十日間の過酷な生活を象徴するように十日分の無精ひげを伸ばしており、短い命をさらに十日分だけ擦り減らしているはずだった。だが、病魔に冒されているという印象は薄く、むしろ危険を切り抜けて来たという自信と緊張感に満ちているように見えた。大久保通りを左折するとき後方を見ると、いつの間にかカローラの姿はなくなっていた。
「記憶は戻ったのか」と、私は訊いた。
「それが、はっきりしないのです。あの連中が話してくれたことと自分で思い出しかけていることの境目が曖昧で、新聞が書いている経歴なども、読んだあとではすでに知っていたことのような気がする」
「連中というのは、佐伯氏のマンションや〈国際映像〉のスタジオで死んでいた男たちのことかな」
 彼は私の顔を見つめて、うなずいた。私はタバコが喫いたくなって上衣のポケットを探った。諏訪がコートのポケットから私と同じタバコを出し、器用に片手で開けて一本振り出すと、私にくわえさせてくれた。もちろん、左手だった。彼は自分もタバコをくわえ、使い捨ての白いライターで両方に火をつけた。
「佐伯さんのマンションに電話を入れているが、もう自由の身になったはずなのに、誰も出ない。彼の連絡先が分かるなら教えてくれませんか」諏訪は私が答える前に言い足した。「おかしいですね。最初にあなたの事務所を訪ねたときと同じ質問をしている」
「彼がどういう目的できみに接していたのか、それは知っているんだな」
「彼の〈毎日〉の記事を読みましたよ。彼はぼくが何者であるかを知っていた。そのことはいいんです。むこうはジャーナリストだし、こちらは都知事候補を殺害しようとした男だと思われていたのだから、仕方がないでしょう……彼には世話になった。記憶をなくしてからできた二人の友達のうちの一人なのです。さよならを言っておくべきだと思っている」
「彼の連絡先は教える」と、私は言った。「きみからは、すでに多過ぎる探偵料を受け取っているからな。その前に、二、三訊きたいことがある」
「どうぞ」と、彼は素直に答えた。
「狙撃事件の本当の首謀者は誰だ?」
「新聞によれば、警察は選挙参謀だった榊原に事件の主犯としての容疑をかけているようだが、それが正確な事実でないことは知っているわけですね」
「狙撃は狂言だったということも知っている」
 彼は私を見つめた。「だったら話が早い。首謀者と呼ばれるべきなのは向坂兄弟で、計画に加担したのは榊原誠、滝沢という映画監督、医者の椎名、それにあの二人──大庭という男と、もう一人は確か韓国籍の男で……」
「鄭允泓、元向坂プロの何でも屋」
「そう。ぼくが思い出せるのはそれだけです……いや、溝口宏がいる。大庭の話では、溝口をこの件に引っ張り込んだのは、鄭だと言っていた」
「狙撃のあと、逃走から病院で意識を取り戻すまでの経過は思い出したのか」
「いや……しかし、彼らの話で多少は分かっています。溝口があれほど巧みな運転で逃走できるとは予想もしなかったらしい。それが計画の歯車を狂わせた第一因だと言っていた。溝口には、脅しの発砲をするだけだと話してあったので、向坂候補が倒れるのを見て逆上したらしい。ぼくは日野市内のどこかで彼の運転する車から脱出したのだと思う。病院で意識が戻ってからのことは記憶が確かだが、ぼくの衣服には焼け焦げに近いような擦り切れや汚れがあった。おそらく、走っている車から飛び降りたに違いない。どうしてそんなことをしたのか、溝口が死んでしまった今となっては確かめようもないが、計画通り自首するのが怖くなったのかも知れない。あるいは、そのときはまだ憶えていたに違いない子供たちの顔が脳裏をかすめたのかも知れない」彼は深い溜め息をついた。
 私はもう一度確認した。「首謀者は向坂知事なんだな?」
「最終的な責任は彼が負うべきです。狙撃計画を進めたのは向坂兄弟と榊原の三人でした」
「それについては、きみの記憶が戻ったと見ていいのか」
 諏訪は少し考えた。「残念だが、はっきりそうだとは言えない。山小屋のセットで大庭や榊原から聞かされたことと、自分で思い出しかけていることが、かなり混乱しています。ぼく自身は確信があるが、ぼくに証言能力があるかどうかという意味なら、腕のいい弁護士に追及されたらぼろぼろにされてしまいそうだ」
「何か物的証拠のようなものはないのか」
 彼は首を横に振った。タバコを消して、足許のアタッシュ・ケースを指差した。「榊原が運んで来た二千万円はここにあるが、向坂兄弟にたどりつけるとは思えない」
「向坂知事は、きみの記憶が不確かだと知ってからは強気になっている。自分を過信している人間は必ずどこかに弱点を抱えているものだ」
「彼は、あなたが狙撃は狂言だと気づいたことを知っているのですか」
 私は一週間前の都庁でのをやりとりを掻い摘んで話した。
「最近のあの男の、常軌を逸したような、熱心な仕事ぶりはそのせいなんだな」と、諏訪が言った。「マスコミは向坂都政を絶讃しているし、都民の評価も高くなる一方だ。最初は難色を示していた自民党や反対派までが、近頃は沈黙してしまった」
「知事の椅子を奪えるものなら、奪ってみろ──そういうつもりらしい。おとなしく辞職するような男ではない」
 私はタバコをダッシュボードの灰皿に押しつけた。ブルーバードは山手通りを甲州街道へ向かって走っていた。
「鄭と榊原を撃ったのは、きみか」と、私は訊いた。
「そう……あれは、正当防衛だった」
「では、大庭を撃ったのは?」
「榊原です。大庭が二千万円を調べているときに、ポケット越しにいきなり発砲した。ぼくは山小屋のセットのベッドに手錠でつながれていた。手の届くところに大庭の〝チーフ・スペシャル〟が落ちたので、ぼくはすばやく手を伸ばしたが間に合わなかった。ところが、急にあの男が飛び出して来て榊原にしがみついてくれたので、ぼくの命は助かった。残念ながら、拳銃を拾って榊原を撃つ前に、榊原が彼を撃ってしまった。彼の傷の具合はどうです?」
「生命の危険はなくなったと聞いている。あの夜、一一〇番したのはきみだな」
 彼はうなずいた。「間に合ったのならよかった。少しは借りを返せたことになる」
「〝ルガーP08〟は手許になかったのか」
「大庭が私の手の届かない場所に置いていたので、あのときは使えなかった。彼の死体のポケットから手錠の鍵を取って自由になったあと、ルガーとこの二千万円を持って撮影所を抜け出したのです」
「それに先立つ、佐伯氏のマンションでの経緯を話してくれないか」
「あの日は、あなたの事務所から彼のマンションへ直行した。玄関のドアの鍵が開いていたので、佐伯さんが戻っているのだと思って中へ入ると、連中がいた。最初は大庭ひとりだと思った。鄭はちょうどソファの蔭で腰をかがめていたので眼に入らなかった。大庭が拳銃を撃とうとするのが見えたので、彼の手を撃った。そのときソファの蔭から鄭が立ち上がって銃を突き出したので、振り向きざまに撃つほかなかった。とても手加減する余裕などなかった。鄭の銃から発射された弾が天井から下がった蛍光灯に当たり、ぼくは飛び散るガラスの破片を避けるために腕で顔をおおった。そのわずかの隙に、大庭が落とした拳銃を拾ってぼくの背中につきつけた。ルガーを奪われたあとは、彼の言いなりになるしかなかった」
「鄭と大庭が、佐伯氏のマンションをどうして突きとめたか聞いているか」
「彼らは、ぼくの逃亡の直後から病院を片っぱしに調べていたそうです。立川、日野から始めて、府中でぼくらしき患者を見つけるまでずいぶん時間をかけている。そこへちょうど佐伯さんの問い合せの手紙が来ていた」
「府中第一病院だな。佐伯氏のマンションから、大庭と一緒に国際映像へ移動したのか」
 諏訪はこめかみを指で押さえて、うなずいた。「大庭は負傷していたので、主導権を奪う機会がないでもなかったが、失った過去を取り戻すチャンスだと思って様子を見ることにした。しかし、手錠でつながれた状態で榊原があのセットに現われたときは、知りたかった過去と引き換えに危うく命を失うところでした……もっとも、命の心配をしても始まらないような身体なんだが」彼はこめかみを押さえた指に力を入れた。
「よくないのか、身体の具合が」
「二、三時間ごとに猛烈な頭痛に襲われる……実は昨日もあなたが出かけるのを待ち受けていたんだが、肝腎なときに頭痛がひどくなって尾行できなかったのです。彼女が手に入れてくれた睡眠薬を服んでも、夜は半分も眠れない状態になった。それも長いことではないと思う」
 諏訪の指示に従って甲州街道を右折し、ブルーバードを低速で走らせた。
「酒も飲めなくなった」と、彼は低い声で言った。「飲めば、翌日は死人同然です。できれば、一度あなたと酒を飲みたかった。世話になったお礼も言わなければならない」
「礼を言われるようなことは何もしていない」
「いや、あなたのお蔭で海部雅美とまた会うことができた。彼女が、あなたは誰とも酒を飲まない人だと言っていたが、本当ですか」
 私は苦笑した。「指名手配の男と女が話題にするほどのことじゃないな。それに、私のお蔭で彼女に会えたなどと決して人前では言ってくれるな。とくに警官の前では」
 諏訪は微笑した。私は上衣のポケットから手帳を取り出し、片手でページを繰った。辰巳玲子や〈サウス・イースト〉という喫茶店に関するメモのある部分を見つけると、そのページを破り取って、彼に渡した。「佐伯氏はその辰巳という女性のアパートにいる。その喫茶店は彼女の両親の店で、彼女もそこで働いている。どちらかで、佐伯氏に連絡がつけられるはずだ」
 彼はメモをコートのポケットにしまった。「佐伯さんの奥さんには、彼のマンションの前で一度だけ会ったことがある。彼ら夫婦にも何か問題があるようだった。あの夜、府中から八王子周辺を走りながら、彼は初めて自分のことをいろいろ話してくれた……楽に生きている人間はいないものですね」
 彼は私の顔をしばらく見つめてから、続けた。「狙撃以後のことは大体解っているつもりだが、それ以前のことでまだはっきりしないことが多いのです。諏訪雅之という男の経歴であなたのご存知のことを教えてくれませんか。あなたにこんな注釈は無用だろうが──嘘も隠しもないところを」
 私は注文通りに話した。彼はあまり口を挟まずに聞いていたが、三つの数字──医師が診断した彼の寿命と、アメリカにいる細君が受け取った慰謝料の額と、自分の二人の子供の年齢を訊ねた。私は最後の質問にだけは答えられなかった。
「情ない話だが──」と、彼は言った。「ぼくがはっきり思い出せたことと言えば、向坂晃司が不法所持していた本物のコルトの自動拳銃が暴発した瞬間の指の痛みと……もう一つは、渡米した年に初めて生で聴いたセロニアス・モンクのピアノ演奏、それだけだ……身勝手なものですね。自分の子供たちの名前も顔も思い出せない」
「思い出すのが怖いのだろう。大金と引き換えに、たぶん二度と会わない決心をした子供たちだろうから」
 彼は前方を見つめたまま、何も答えなかった。やがて、車は笹塚の商店街にさしかかった。
「これから、どうするつもりだ」と、私は訊いた。
「彼女を──海部雅美を、いつまでもこんなことの巻き添えにしておくわけにはいかない。佐伯さんと話したら、あとは自分の始末をつけるつもりです」
「新宿署の錦織という警部が事件の真相を知っている。彼のところへ出頭すれば、あまり煩わしい思いをしなくてすむはずだ」
「憶えておきます」と、彼は言った。「また記憶をなくさない限り」
 それから五分ほど走ると、ブルーバードは大原の交差点に近づいた。環七通りの下をくぐるトンネルへの下り坂に入った直後に、諏訪雅之は車を停めるように言った。彼はコートから〝ルガーP08〟を出して、大変申しわけないと付け加えた。初めて見る彼の右手は、聞いていた通り人差し指の第二関節から先がなく、引き金には中指が掛けられていた。私はブルーバードを停車させた。後続の車がけたたましくクラクションを鳴らしながら、私の車を避けて行った。彼は助手席のドアを開けて車を降り、下り坂を後戻りして歩き去った。おそらく海部雅美のカローラが甲州街道の反対車線か環七通りで待っているのだろう。私は追突されないうちにブルーバードをスタートさせた。誰も欲しがらない二千万円が入ったアタッシュ・ケースが支えを失って、床に倒れた。

 私はその後、二つの事件に関係があった人間の誰とも会っていない。噂だけは多少耳にした。更科修蔵は〈東神〉の相談役に復帰し、更科頼子は多額の保釈金を積んで拘置所を出たということだった。神谷惣一郎は来年早々に病院を退院し、会長に復帰し、別居中の妻と離婚するだろうと言われていた。佐伯直樹と名緒子のことは何も聞いていない。清和会の橋爪はあれきり顔を見せないし、元パートナーの渡辺からの音信もなかった。錦織警部とは、結局何の証拠にもならなかった二千万円入りのアタッシュ・ケースを届けて以来会っていない。だが、向坂兄弟と諏訪雅之にはもう一度お眼にかからなければならなかった──ただし、テレビのニュースで。
 クリスマスまで二週間という寒い夜だった。フランク・シナトラの武道館コンサートに招待客として現われたタキシード姿の向坂兄弟が、正面玄関前で濃いワイン色のロールス・ロイスから降り立ったとき、諏訪雅之が彼らを再び狙撃した。いや、それが初めての狙撃なのだった。最初の一発が、向坂知事の心臓の真ん中を射抜いた。即死だった。護衛のSP四、五名が狙撃者を包囲して拳銃を向けた。向坂晃司を狙った二発目が発射されるのと同時に、SPたちの拳銃もいっせいに火を吹いた。諏訪雅之は五発の銃弾を頭部と胸部に受けて、即死した。テレビや新聞は、《元オリンピック候補の射撃選手・諏訪雅之が再び向坂知事を狙撃……》と述べ、《一方、弟の晃司氏は幸いにも銃弾がそれたので命に別状はなく、右手の人差し指を失っただけで……云々》と報道していた。
 彼らはいつも肝腎なことを見落とす。真実を伝えると言うが、所詮はその程度のことだった。

4月4日にポケミス版『そして夜は甦る』発売!

もともと、ポケミスでの刊行を念頭においた2段組の持ち込み原稿だった本作が、ついにポケミス版で刊行されます。書下ろし「著者あとがき」を付記し、山野辺進が装画を手がける特別版です。

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